永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(34)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

池谷裕二さんの最新の脳科学の研究報告からのご紹介と、自らの体験を綴った「奇跡の脳」の著者、ジル・ボルト・テイラー博士による右脳、左脳に関する詳細な働きの違いなどを、長期にわたってご紹介してきました。

 

それは、ひとえに、私たちが「こころ」と称しているのは、実は「脳の働き」以外のものではない、ということから、

「脳の働き」を知れば、人間の「こころ」を、ある程度理解することができると確信しているからです。

 

「自己を知る」とは、主に、この「こころ」の働きについて知ることを意味すると思っています。

 

私たちが、「自己」と言う場合、「エゴ」(自我意識=顕在意識)のことを指していますが、

ウパニシャッド哲学では、「自己」を、「ただの自己」と「真の自己」に分けて考えます。

 

こうすることで、私たちが、より明確に、より簡単に、「ただの自己」を超えて「真の自己」に到達できるように、導いてくれているのです。

 

究極の存在である「真の自己」(アートマン)へ至るには、まずは、「ただの自己」をきちんと理解するのが、近道です。

 

「自己」から「ただの自己」を引き算すれば、「真の自己」が明らかになる、ということになります。

 

それでは、インドの最古の啓示の言葉が書かれているとされているウパニシャッドを引用しながら、「ただの自己」と「真の自己」に関する詳しい解説を、スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から引用し、ご紹介したいと思います。

 

 

インド哲学では、心を内部器官であるアンターカラナと呼ばれる4つの機能を持つひとつのグループとして記述します。

1番目は、アハンカーラ、あるいはエゴであり、あなた自身の中で、”わたし””わたしの””わたしのもの”としてあなたが規定している部分です。

2番目はブッディであり、より高次な心であり、知り判断し決断する識別の面です。

ブッディはすべての感覚器官、知覚の反射やすべての思考、心の認識を受け止める鏡のようなものです。

ブッディはあるものと別のものとを識別し比較します。

3番目はマナスで、より低次な心であり、データを産み出し処理します。

4番目の要素はチッタという貯蔵庫であり、印象や記憶のデータバンクです。

 

これらの4つの要素は、それぞれの要素がそれぞれの特定な仕事をしながら共に調和して働くことになっています。

訓練と鍛錬でこれらの4つは協調し、それらはアートマンを探す際の非常に有益な道具となります。

協調、識別、訓練がうまくいかないと、それらは進路上の手強い障害物となります。

 

それではまずは、自分の単なる自己の異なった面を知り、それらの面を訓練し、それらが真の自己ではないと知ることです。

カタ・ウパニシャッドは、2輪馬車の譬えでこれを説明しています。

霊的な自己は2輪馬車の持ち主です。

そして肉体が馬車です。

ブッディは2輪馬車を駆る人として仕え、感覚の経験という開かれた野原で束縛されずに走っている馬のような感覚をコントロールする手綱として心を使います。

大抵の場合、不幸なことに私たちはこの隠喩を理解できず、心がどのように機能するかを教えてもらっていません。

私たちは何を訓練し鍛錬すべきかを知らないのです。

 

マナスの性質は、この情報またはあの情報は重要であるか、あるいは取り入れるべきかどうかと問うことに限られています。

マナスは”これは私にとって良いかどうか?”と問うだけです。

マナスはこれらの質問をブッディに伝えなくてはなりません。

そしてブッディは答えを持ち、それらをマナスに伝えるために訓練され研ぎ澄まされなくてはなりません。

訓練しないと、信頼をもってそうすることができないときに、マナスはあまりに多くの力をわが物とし、ブッディを無視し独立して行動します。

マナスは内側、外側での争いに満ちています。

浄化されたブッディの助けがないと、マナスは不確かさと惨めさの源となります。

時間を超えてマナスの行動は習慣になります。

 

訓練されていない心に関する別の問題は、エゴであるアハンカーラが引き受けた不適当な支配力です。

訓練されていない心におけるエゴは心の所有者であり、存在の中心であると信じる性質を持っています。

訓練されていないエゴはあまりに強力なので、人は彼の真の性質が神聖であり、究極の存在であり、永遠であることを忘れています。

マナスがうまくできない仕事をしようとしてブッディに相談せず、エゴがそれ自体を最高であると信じるとき、結果は人間にとって悲惨です。

 

マナスは演じる役割を持っています。

しかしそれは限られています。

ブッディはなすべき仕事を持っています。

それでマナスを用います。

エゴは役に立ちますが、その役割は限られており永続しません。

エゴは世界において作用する格子の枠組みのようなものです。

私たちが誤って考えているように、それは有形のものではありません。

それは単なるある機能を持った心の一面なのです。

エゴは人の本性ではありません。

それは、私たちを分離した個別の個体に分割しているエゴと呼ばれる”わたし”という感覚です。

エゴは私たち個人が自己認識するすべての感覚や性質を集めます。

それは私たちの人格の創造者ですが、エゴは究極の存在ではありません。

”わたし”という感覚、あるいはエゴは2つの要素の混ぜ合わせです。

ひとつは変化し、もうひとつは不変です。

変化する要素は現象的な宇宙、肉体、そして外部の対象物の感覚、などの基本です。

それは展開の源なのです。

 

マナスとエゴは心の中のあてにならない雑草のようなものです。

もしそれらが注意して意見を聞いてもらえないと、役割を接収します。

マナスは、これをしなさい、あれをしなさいと言い、これについて嘘を言えばあなたは困難から離れていると言い、これを盗めばあなたは成功し、この喜びを楽しめばあなたは幸せになると言います。

そう、これは素晴らしい、これは私のため、そして私はまったく物質そのものだと言います。

マナスが望み、エゴが必要だと言うことは何でもするこの道は、苦痛、恐れ、そしてさらなる無知で終わることでしょう。

これは所有し必要とし獲得し保持する道であり、”わたしは””わたしのもの”の道なのです。

エゴは、この体はわたしのものであり、この家はわたしのものであり、この伴侶や子どもはわたしのものであると言います。

このわたしのものとあなたのものという感覚は、他の個人から個人を分離し、世界を彼らとわたしに分割します。

それはまた個人を内面的に分離し、本当の自己に対する障壁を積み上げます。

それは死の恐れを作り出します。

死は私たちが所有し欲するこれらのものの終わりを意味するでしょう。

それは恐ろしいことです。

もし私たちが自分は肉体だと思っているなら、死んでいく肉体を予想することは恐ろしいことです。

なぜなら、そのとき死は私たちの存在の完全なる停止のように思われるからです。

しかしながら、ブッディが訓練され使われると、人は問います。

これは本当に必要だろうか?

この物を本当に必要としているだろうか?

肉体とは何か?

ブッディは、肉体は人の本性ではないのは、静かな湖の表面に反射している太陽が本当の太陽でないのと同じであるということを教えてくれます。

ブッディと呼ばれる心の識別力の面が訓練されると、人は一時的な人生は最終的には苦しみに至るということに気付きます。

ブッディは探求を始め、それから一時的でないものに向けられた人生は最終的には苦しみのない人生に至ると結論します。』

(聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

この文章だけを読むと、多くのサンスクリット語が出て来ることもあって、難しいと感じるかもしれませんが、

これまで、脳科学の分野から「脳の働き」として「こころ」に関する詳しい解説をご紹介してきましたので、それを思い出しながら読んで頂けると、より理解しやすくなると思います。

 

エゴ、マナス、ブッディ、チッタ、の4つの心の機能と、現代脳科学で言われているところの「脳の働き」とを比較し、自分の中で何が起きているのか?を把握することは、「真の自己」についての理解を深めることにつながります。

 

ということで、次回も続きを見ていきたいと思います。

 

 

地球上の 昼と夜と

人間の用いる計算方法では

創造神ブラマーの一日は千周代

ブラマーの一夜も千周代

 

ブラマーの一日が始まると

多種多様な無数の生物が姿を現わし

ブラマーの夜になると

彼らはすべて姿を消す

 

ブラマーの夜が明けると再び

万物群生は流れ出て活動を始め

暗闇になると溶解消滅する

物質世界はただこれを反復するだけである

 

だがこの未顕現 顕現の現象を超えて

別な世界が実在する

それは至上至妙にして永遠不滅

物質宇宙が絶滅してもそのままである

(バガヴァッド・ギーター第8章17-20)

 

 

 

チャクラについて(33)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

これまでの記事で、左脳を損傷したことにより、左脳と右脳の働きの違いを、身を以って体験した脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」より、

左脳と右脳の働きの特性を知り、それぞれの働きの違いを利用することで、「自己」に対する理解をより深めると同時に、

それらの智慧を人生を生きることに活用することも可能だということを、ご紹介してきました。

 

今回は、更に踏み込んで、具体定な実践方法、彼女がやってみて効果があった日常生活において誰でもできる実践方法について、ご紹介したいと思います。

 

 

『世の中には、どれひとつとして同じ脳は存在しません。

でも、わたしの脳にとって真実だと思われることをあなたに教えてあげたい。

自分がどんなふうに周囲のエネルギーに影響を及ぼしているかに気づけば、自分に降りかかるできごとをコントロールできるようになる。

人生で何が起きているのかを監視するために、わたしはまわりの世界で何が起きていて、何が起きていないかに、すごく気をつけています。

自分の身に何がふりかかるかに応じて、事態のなりゆきに責任をもち、意識的になりゆきを微調整するのです。

これは、自分にふりかかるすべてのことを完全にコントロールしている、という意味ではありません。

むしろ、そうした出来事についてどう考えたり、感じたりするのかをコントロールしているのです。

たとえ不愉快な出来事でも、右の脳の領域に一歩踏み込んで、共感をもってあたれば、人生の価値ある教訓として受け止めることができます。

左脳マインドの言語中枢と物語作家が正常に機能するようになったことで、わたしの心はありえない話をするだけでなく、マイナスの思考パターンにつながろうとするようになりました。

マイナスの思考や感情が頭の中で反響してしまうループから逃れる第一歩は、どんなときにそういうループにつながるかを知ること。

脳が話しかけてくることに自然に耳をかたむけることができる人もいます。

でも、わたしのカレッジの学生の多くは、脳が話していることを観察するだけで、すごく頭が疲れてしまうと文句を言います。

冷静な第三者の目で頭の話を聞くためには、それなりの訓練と忍耐が必要になるでしょう。

しかしいったん、そのことに気づいてしまえば、あなたは物語作家が捏造する厄介なドラマやトラウマを自由に超えて行かれるようになるのです。

脳がどの認知のループを働かせているかに気づくようになれば、次に、そうしたループがからだの中で生む生理的な感じに焦点を合わせます。

警戒しているの?目はまん丸になってる?呼吸は深い?浅い?胸は苦しい?頭はスッキリしてる?胃の調子は悪い?そわそわしたり、心配したりしてる?貧乏ゆすりしてる?

恐怖や心配や怒りのループは、さまざまな刺激によって誘発されます。

ですがひとたび誘発されると、それぞれの感情は予測されうる生理的な反応を示すため、意識的に観察することが可能となります。

脳がとても批判的で非生産的な、あるいは制御不能のループを働かせているとき、わたしは感情的・生理的な反応が去っていくのを90秒間じっと待ちます。

それから、脳を子どもの集まりみたいなものだとみなし、誠意をもって話しかけます。

「いろんなことを考えたり、感じたりするあなたの能力はありがたいわ。

でもわたし、この考えや感じには、あまり興味がないの。

だから、もうこの話はおわりにしてちょうだい。」

ようするに、特殊な思考パターンとのつながりを断ち切るよう、脳に頼んでいるわけです。

もちろん、人によって頼み方はちがうでしょう。

たとえば、「キャンセル!キャンセル!」という人もいるかと思えば、「オレは忙しんだよ!」と叫ぶ人もいるでしょう。

あるいは、「充分、充分、もう充分だから!いい加減に止めて!」という具合に。

けれども、自分の内部の声で考えを表明するだけでは、仕事をこなすことに実眼になっている物語作家にわからせるには充分じゃありません。

わたしは、言葉に適切な感情をこめて、情緒たっぷりに物語作家に語りかければ、もっと話が通じることを発見しました。

脳が聞く耳をもたないようなときには、メッセージに何か「動き」の要素をつけくわえます。

人差し指を降りまわしたり、両手を腰にあてて仁王立ちしてみたり、母親が子供を叱る場合、言いたいことに情熱をこめて、身振りを交えるなど、いろいろな方法で同時にメッセージを伝えたほうが効き目がありますよね。

脳とからだの中の細胞の99.999%は、わたしが幸福で健康で成功することを望んでいるはずです。

でも、ほんの一握りの物語作家は、わたしが喜ぶことと無条件につながっておらず、内なる安らぎの感覚を台無しにする可能性をもつ思考パターンばかり試そうとするのです。

この細胞のグループを、いろんな名前で呼んでいます。

わたしが好きな呼び名はこんな感じ。

「ピーナッツ・ギャラリー」(劇場の最上階最後部席)、「役員会の面々」、「ちっぽけなクソ委員会」などなど。

この連中は頭の中の言葉を使って、悲観に満ちたループを走らせることに情熱を燃やします。

この連中は、嫉妬、恐れ、怒りといったマイナスの属性を利用します。

この連中は、しつこく泣いて、不平を述べ、あらゆることがいかに酷いかをみんなに言いふらすのが生きがいなのです。

細胞が傍若無人で手に負えなくなると、わたしは(頭の中ではなく口から出る)声で、ピーナッツ・ギャラリーに厳しいタイム・スケジュールを課します。

左脳マインドの物語作家に、午前9時から9時半までと、午後9時から9時半までのあいだは好きなだけぼやいてもいいわよ、と言い渡すのです。

物語作家がうっかりその時間を忘れても、次の割当時間までは、ぼやきは禁止。

こうすると、細胞たちはマイナス思考のループにつながっちゃだめよ、という真剣なメッセージをすぐに読み取るようになりました。

でも、わたしは我慢強く、しっかりと、どの回路が脳の中で働いているかに目を光らせていなくてはいけないのです。

 

左脳マインドを回復させることは、わたしがふたたび、すべての細胞に発言権を与えることを意味していました。

ですが健やかな精神を守るためには心の庭を育て、マイナス思考の細胞を見張っておく必要があるのです。

物語作家には、わたしが望むことと許せないことについて、ちょっとした躾が必要です。

コミュニケーションが円滑になったので、この特殊なグループの細胞で起きていることに対して、わたしの本当の自己はきちんと注文をつけることができるようになりました。

望ましくなかったり不適切な思考パターンには、ほとんど付き合いませんでした。

そうは言っても、躾に反応する物語作家の滑稽なふるまいには、思わず吹き出しそうになります。

マイナス思考の細胞たちは、幼い子供のように私の言うことを聞かず、わたしがどれくらい本気なのか試そうとするのですから。

いったん、静かにするように言われると、細胞たちは一瞬だけ沈黙し、またすぐ禁じられた回路を作動させます。

他のことを考える欲求が弱かったり、新しい思考回路を意識的に始めないでいると、招かざるループはふたたび勢いを盛り返し、心を独占し始めます。

そんな細胞の活動に対抗するため、意識を振り向けるべき三つのリストが必要に応じて用意してあります。

(1)魅惑的で、もっと深く考えを巡らせたいことを思い出す。

(2)ものすごく楽しいことを考える。

(3)何かやりたいことを考える。

自分の心を変えたくてたまらないとき、わたしはこの三つの武器を利用するのです。

からだが疲れていたり、精神的に参った状態にあるとき、つまり、油断しているときを狙って、否定的な思考回路が人を傷つけようと頭をもたげることに気づきました。

脳が言っていることに注意し、その考えがからだにどのような感覚をもたらすかに気づけば、自分が本当は何を考えたり感じたりしたいのか、意のままに選べるようになります。

もし内なる平和を保ちたいなら、ぶれることなく、いつでも心の庭を育てなければなりません。

そして、一日に何千回も、決意を新たにする必要があるのです。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

これまで、脳科学の視点から、人間の「心」について見てきました。

 

「心」は、生理学的に見れば、脳の働きなので、脳科学における解説は、人間の「心」の仕組みを理解する上で、客観的な視点から書かれているので、誰でも、思い当たることが多いかと思います。

特に、左脳と右脳の働きの特徴を知り、自分の脳内で起きていることに対する理解を深めることは、いろいろな意味で、多くの示唆を私たちに与えてくれるものと感じます。

 

次回は、今回ご紹介したこのジル・ボルト・テイラー博士が、自らの体験から得た「心」の仕組み、メカニズムについて、

同じことが、ヨーガ、及び、インド最古の哲学であり、神聖なる啓示が書かれているとされているヴェーダ聖典の観点から、どのような表現で、解説されているのか?を見てみたいと思います。

 

 

 

物質界における最高の星界から最低の星界

生死をくりかえす苦悩の住処だ

しかしクンティーの子よ わたしの住処に来た者は

決して物質界に再生することはない

(バガヴァッド・ギーター第8章16)

 

 

 

チャクラについて(32)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

これまでの記事で、ジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」から、左脳を損傷した体験からわかった「右脳」と「左脳」のそれぞれの働きから生じる特徴について、ご紹介させて頂きました。

 

基本的な違いを理解した上で、実際に、実生活で、どのようにそれらの智慧を生かすか?ということにも、大変に役に立つ(と思われる)体験談を語って下さっていますので、

私たちが、日常生活で陥りがちな「思考のループ」などの「思考の罠」についての、彼女のアドバイスをご紹介したいと思います。

 

多くの人が陥りやすい「思考癖」に対する対応方法を心得ていれば、自分自身生きることが楽になるばかりでなく、周りの人々にも、その影響が及ぶので、周りの人も生きることが楽になります。

 

私たちは、この二元の世界で、エネルギーをキャッチボールしているようなものなのです。

自分が放ったエネルギーが、周りに影響を与え、そして、私たちも、周りからのエネルギーの影響を受けています。

 

二元の世界における智慧も、生きていく上では、大いに役立つと思いますので、「奇跡の脳」から、そのヒントとなる体験談をご紹介したいと思います。

 

 

『わたしは、反応能力を、「感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力」と定義します。

自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが、このプログラムの一つが誘発されて、化学物質が体内に満ちわたり、そして血流からその物質の痕跡が消えるまで、すべてが90秒以内に終わります。

たとえば怒りの反応は、自発的に誘発されるプログラム。

ひとたび怒りが誘発されると、脳から放出された化学物質がからだに満ち、生理的な反応が引き起こされます。

最初の誘発から90秒以内に、怒りの化学的な成分は血液中からなくなり、自動的な反応は終わります。

もし90秒が過ぎても怒りが続いているとしたら、それはその回路が機能し続けるようにわたしが選択をしたからです。

瞬間、瞬間に、神経回路につなげるか、それとも、現在の瞬間に戻って、つかの間の生理機能としてその反応を消散させるかのどちらかの選択をしているのです。

右と左の性格を認めることで、ワクワクするような可能性が開けます。

どんな状況にもつねに違った見方がある。

つまり、グラスに中身が半分入っているのか、そうじゃなくて半分空なのか?といった具合に二つの見方ができるのです。

あなたが、怒って苛立ちながら近づいてくる場合は、わたしは、あなたの怒りを反映して論争(=左脳)を始めるか、あるいは感情移入をして、同情的な気持ち(=右脳)で対応するかのどちらかを選びます。

ほとんどの人は、自分がどう反応するか、無意識のうちに選択していることに気づきません。

辺縁系の)プログラム済の反応に身をゆだねるのは楽なので、自動操縦にたよって快適なペースで生活しがちなのです。

辺縁系の中で起きていることに大脳皮質の細胞が注意を向ければ向けるほど、考えたり、感じたりすることに口出しができるようになります。

自動回路が行っている選択に注意を払うことによって、自分で手綱を握り、意識的な選択を増やすことができます。

長期的に、自分の人生全般に責任を負うのです。

このごろわたしは多くの時間を使って、「考えること」について考えています。

その理由は、脳の素晴らしさがわかってきたから、ソクラテスが述べているように「考察のない人生は、生きる価値がありません」。

自分に苦痛を与えるような思考を巡らす必要なんかないんだと気づいたことが、一番元気をくれました。

もちろん、苦痛を与える思考を巡らすことは、自分でその回路を選んだと承知しているかぎり、悪いことじゃありません。

それと同時に、そうした思考に飽きてきたら意識的に止められる、という能力を持っているんだと知ることが、解放感につながるのです。

肉体や精神の環境がどうであれ、右脳の領域に踏み込んで、思考を現在の瞬間に引き戻し、平和と愛の心(右脳マインド)に戻れることを知っていれば、束縛から解放されます。

わたしはいつも、個人的判断を避けるという右脳マインドの目を通して、周囲の状況を観察しています。

そして、内なる喜びを大事にして、感情的な重荷を負わせる傾向からなるべく離れるようにしています。

精神生活にとって何がプラスの影響を与えて何がマイナスの影響を及ぼすかは、自分自身で決める。

最近のことですが、わたしはお気に入りのジンジャー・カリーのCDをかけて「心の底から嬉しいの!」と、熱唱しながら、車で道路を飛ばしていました。

が、無念!スピード違反で、車を道路の片側に寄せるはめになったのです。

(どうやら、ハンドルを手にして熱狂しすぎたようです!)。

違反切符をもらってから最低100回は、こんなことで気落ちするものですかと心に言い聞かせました。

ちっぽけなマイナスの囁きが、しつこく頭をもたげては、わたしを落ち込ませようとするからです。

その囁きは、悪夢のドラマを心の中でくりかえし再現させ、あらゆる角度から考え抜くように仕向けました。

でも、いくら考えたって結果は同じなのです。

ぶっちゃけた話、左脳の物語作家がくれる、こんな強迫観念なんて時間の無駄だし、感情面で人を消耗させるだけ。

わたしは脳卒中のおかげで、自分で手綱を握って、意識的に自分自身を現在に引き戻すことにより、過去の出来事を考えるのを止められると学んだのです。

とはいえ、わたしが流体ではなく一つの固体として、つまりあなたとは別の、自我の中枢として、あえて世界へ踏み込もうとすることがあります。

単に純粋な満足を追求するために、わたしの左脳の中身と態度を、あなたの左脳の中身と態度に「ぶつけて」、言い争ったり、熱のこもった議論をする場合もあります。

でも、からだのなかで攻撃的な感情を感じるのは好きじゃありません。

ですからわたしは、たいていの場合、敵意のある対決を避け、共感を選ぶようにしています。

「あらゆることを完璧にこなすためのマニュアル」を抱えてこの世界に生まれてきた人なんて、いやしない。

そう考えれば気が楽になり、他人に優しくすることが容易になります。

わたしたちは、つまるところ、生物学と環境の産物にすぎません。

痛みをともなう感情的な重荷を背負い続けるよう、生物学的にプログラムされていることがわかっているから、わたしは他人に同情することを選びます。

まちがいはつねに起きるものですが、だからいって、自分を責めたり、あなたの行動や誤りをたしなめる必要があるわけじゃない。

あなたのことはあなたの問題であり、わたしのことはわたしの問題。

それでもあなたもわたしも、深い内なる安らぎを感じ、そして優しさを共有することができるのです。

つねに、他人を許し、そして自分を許すことができるのです。

この瞬間を完全な瞬間として見ることが、つねに可能なのです。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

私たちは、多くの時間を、左脳の働きに占領され、それを「自分自身」だと思い込んで(マインド(自我)の働きの結果である感情や思考に囚われて)、

自分や他人を判断し、卑下したり、落ち込んだり、腹を立てたり、責めたり。。ということを繰り返して、自分をエネルギー的に消耗させています。

 

このマインドの正体を見抜き、そこから解放されることは、私たちが、自分の本性(本質)である純粋意識(純粋エネルギー)である源に戻って行くためには、必要不可欠であると感じています。

 

行動、思考、感覚の主体である「わたし」という意識は、脳のニューロンの回路が生み出しているある種の「錯覚」と言えます。

 

ジル・ボルト・テイラー博士も、「奇跡の脳」で書かれているように、

「わたしたち(個人だと思っている「わたし」という存在)は、つまるところ、生物学と環境の産物にすぎません。」ということなのですが、

この辺のところは、自我にとっては、非常に理解し(納得し)難いところでもあるので、直ぐに理解できないのは、一般的な反応であり、当然かと思いますが、

「ただひとつ」に戻るためには、「個」を超えていく必要がある、ということは、明らかであり、

自我(=わたし)にとっては、受け入れ難いことかもしれませんが、古今東西の多くの聖人の方々のお言葉からも、「それ以外に道はない」ということは、明白なのです。

 

自我にとっては、「自分」という存在の消滅は、恐怖ですし、受け入れ難いことですが、

その「恐怖」という感情でさえも脳内に生じている「想い」(感情)であって、それは、単なる未知なるモノに対して湧きおこる脳の自動反応と捉えることができ、

ジル・ボルト・テイラー博士も、書かれているように、すべての感情は、左脳の働きにしか過ぎません。

 

「個」の消滅は、すべてが無くなることではなく、

「わたし」という「個」であるという脳の錯覚(幻想)だけが消滅し、本来の姿、本質に戻る、ということを意味しているのですから、何も怖いことは無いのです。

 

私たちは、本来は、生死を超えた「永遠なる実在」(ただひとつ)なのですが、自我が邪魔して、そうであることを認めません。

 

消滅するのは、「わたし」(個)という幻想だけで、「それ」に戻るだけ、なのですが、

自我(左脳)は、生まれてからこれまでの間の過去に経験したことのない経験を受け入ることができないので、脳(心)の中に、恐怖心を作り出します。

 

我、「それ」なり。

 

「個」というのは、幻想であって、私たちは、最初から「それ」なのです。

 

 

 

『選択とは、神か富か、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望か、ということです。

ひとつの選択は、永遠の生であり、他の選択は、死から死を意味します。

それが奥義なのです。』

(聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く  スワミ・ラーマ)

 

 

 ※『聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ著

  は、Amazon、全国の書店から購入いただけます。(Kindle版もあります)

 

 

 

 

プリターの息子よ 心を他に外らすことなく

専心にわたしの憶念する者は 

その常なる信愛行(バクティ・ヨーガ)の功徳によって

やすやすと わたしのもとに来る

 

わたしの所に来た偉大な魂(マハートマ)たちは

決して再びこの地上に

苦悩と悲惨に満ちた物質界に戻らない

彼らは生命として最高の完成に達したからだ

(バガヴァッド・ギーター第8章14ー15)

 

 

チャクラについて(31)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

私たちは、通常、左脳と右脳が同時に機能しているため、左脳独自の性質、右脳独自の性質があることを、そして、それらがどのようなものであるのか?を、体験を通して知ることは、まずあり得ません。

 

前回は、左脳を損傷したことで、右脳だけで過ごした経験より、右脳の性質を、そしてその後、左脳の機能を取り戻すリハビリテーションをしたことから、左脳の性質を知ることになったジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」から、

右脳の性質(右脳マインド)についてご紹介しました。

 

今日は、左脳の性質(左脳マインド)についてご紹介いたします。

 

私たちは、社会にあっては、左脳優位であることの方が、何かと都合が良いことが多いので、左脳優位であることが多いと書きましたが、

今日ご紹介する左脳の性質についての解説を読んで、左脳への理解が深まると、

私たちが、「自分」或いは、「自分の心」だとしているモノが、いかに左脳の働き(左脳マインド)であるか、を発見されることでしょう。

 

 

『わたしはたしかに、右脳マインドが生命を包み込む際の態度、柔軟さ、熱意が大好きですが、左脳マインドも実は驚きに満ちていることを知っています。

なにしろわたしは、10年に近い歳月をかけて、左脳の性格を回復させようと努力したのですから。

左脳の仕事は、右脳がもっている全エネルギーを受け取り、右脳がもっている現在の全情報を受け取り、右脳が感じているすばらしい可能性のすべてを受け取る責任を担い、それを実行可能な形にすること。

左脳マインドは、外の世界と意思を通じ合うための道具。

ちょうど右脳マインドがイメージのコラージュ(さまざまな断片の集まり)で考えるように、左脳マインドは言語で考えてわたしに話しかけます。

脳のおしゃべりを利用することにより、人生の荒波を乗り越えることができるし、わたしのアイデンティティーも顕してくれるのです。

左脳の言語中枢の、「わたしである」ことを示す能力によって、わたしたちは永遠の流れから切り離された、ひとつの独立した存在になります。

全体から分離したひとつの固体になるわけです。

左の脳は、情報をまとめる面では宇宙の中で最も優れた道具です。

左脳のキャラクターは、あらゆるものを分類し、組織化し、記述し、判断し、批判的に分析する能力を誇っています。

左脳はいつも熟慮と計算によってうまく立ち回ります。

口が動いていてもいなくても、左脳マインドは理論化し、合理化し、記録化するために忙しなく働いています。

左脳マインドは完全主義者で、まるで会社や家の管理人のよう。

それはこう言い続けています。

「全てのものには決まった場所があり、全てのものはその場所に属す」と。

右脳マインドのキャラクターは人間性を重視していますが、左脳マインドのキャラクターは財務や経済を重視しています。

何かをするとき、左脳マインドは複数の仕事を見事にこなし、同時にできるだけ多くの機能を演じるのを好みます。

左脳マインドは、そりゃもう働き者で、やらなくちゃいけない日課の項目をどれだけ線を引いて消せたかで、その価値を計ります。

左脳マインドは物事を順序だてて考えるので、機械的な操作に優れています。

違いに注目して特徴を見分ける能力は、生まれつきの組立屋さんといっていいでしょう。

左脳は、パターンを判別する特殊な才能を授けられています。

ですから、迅速に大量の情報を処理するのが得意なのです。

外の世界で起こるできごとに遅れをとらないよう、左脳マインドはものすごく早い情報処理をします。

対照的にゆっくりしている右脳の速さをはるかにしのいでいるのです。

左脳マインドは躁状態になる可能性がありますが、これに対し右脳マインドは、怠惰になる可能性を抱えています。

二つの大脳半球のあいだの思考、情報処理、言葉、行動面での速さの差は、異なる種類の感覚情報を処理するときのそれぞれの能力の差なのでしょう。

右脳は、長い波長の光を知覚します。

ですから右脳マインドの視覚的な知覚はやや溶けて柔らかい感じになります。

知覚が鈍いことで、右脳マインドは事物がどんなふうに関係しているかという、より大きな絵(心の像)に集中できるのです。

同様に、右脳マインドは低周波の音に同調しますが、それはわたしたちのからだ(お腹がグーと鳴ったり)や自然の中で普通に発生するものです。

そのために右脳マインドは、生理機能にすぐに耳を傾けるよう、生物学的に設計されているのです。

対照的に、左脳は短い波長の光を知覚して、明確に線を引いてはっきりした境界をつくる能力を高めます。

その結果として、左脳マインドは生物学的に、隣り合った物体のあいだを分かつ線を認識する能力が高いのです。

同時に、左脳の言語中枢は高い音に耳を傾けますが、通常は話し言葉が高い音であることが多いため、言葉を検出し、識別し、解釈することができるのです。

左脳の最も顕著な特徴は、物語を作り上げる能力にあります。

左脳マインドの言語中枢の物語の部分は、最小限の情報量に基づいて、外の世界を理解するように設計されています。

それはどんな小さな点も利用して、それらをひとつの物語に作り上げるように機能するのです。

最も印象的なのは、左脳は何かを作るとき、実際のデータに空白があると、その空白を埋めてしまう能力があること。

そのうえ、ひとつの話の筋をつくる過程で、シナリオの代替案を用意する天才的な能力まで持っています。

もし、あなたが、物語を書くことに情熱を燃やしているのであれば、うまいか下手かは別にして、その感情の回路とつなげて、「もしも~だったら?」という可能性を網羅するのがとても効果的でしょう。

左脳の言語中枢が回復してふたたび機能し始めたので、わたしは長い時間をかけて、最小限の情報をもとに、どのようにしてわたしの中の物語作家が話を簡潔させるのか観察してみました。

長いあいだ、自分の物語作家が妙なことばかりするので、ふざけているんじゃないかと思っていました。

ですがとうとう、左脳マインドは脳の残りの部分に、完成しつつある物語を信じさせようと心から願っていることに気づいたのです!

左脳マインドの性格と機能が復活するまでのあいだ、自分の脳が最善の仕事をしていると思い続けることがとても重要でした。

しかし、知っていることと、知っていると思っていることのあいだに大きな隔たりがあることを忘れてはいけません。

自分の物語作家が、ドラマやトラウマ(心的外傷)を引き起こしかねないことにもっと注意を払うべきだったのです。

同じ調子で、左脳が真実だと信じこんで作る物語には、冗長な傾向も見られました。

まるで反響しているかのように、心にくりかえしこだまする、思考パターンのループができてしまうのです。

ふつう、こういう思考のループは頭の中に「はびこって」しまいます。

そしてわたしたちは知らず知らずのうちに、最悪の事態ばかり考えるようになります。

残念なことに、社会は子供たちに「心の庭を注意深く手入れする」必要をちゃんと教えません。

なんらかの骨組みや検閲や規律がないと、思考は自動操縦で勝手に動きまわります。

わたしたちは、脳の内側で起きていることを注意深く管理する方法を学んでいません。

ですから、自分について他人が考えていることだけでなく、広告や政治による操作に対しても、無防備でなされるがままなのです。

わたしがあえて回復しないようにしたのは、自分や他人に対して意地悪になったり、絶え間なく不安になったり、あるいは、口汚くののしってしまうような左脳の一部でした。

はっきり言って、生理的に感じるこんな感情が嫌でたまらなかったのです。

胸は苦しくなり、血圧が上がるのを感じ、眉間が寄って頭痛がします。

痛ましい過去の記憶をその場で再生しようとする古い感情的な回路なんか、みんな捨ててしまいたかった。

過去の苦痛に心を奪われるには、人生はあまりにも短いことを知ったから。

回復するまでに、頑固で傲慢で皮肉屋で、嫉妬深い性格が、傷ついた左脳の自我(エゴ)の中枢に存在することを知りました。

エゴの心の部分には、わたしが痛手を負った負け犬になり、恨みがましくなり、嘘をつき、復讐さえしようとする力が残っていました。

こんな人格がまた目覚めたら、新しく発見した右脳マインドの純粋さを台無しにしてしまいます。

だから、努力して、意識的にそういう古い回路の一部を蘇らせずに、左脳マインドの自我の中枢を回復させる道を選んだのです。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

前回、今回と、右脳マインドと左脳マインドについて、ご紹介させて頂きましたが、

これまで自分が「自分」だと思っていた「自分」は、実は、単なる脳の働きだった、ということに、気づかれた方もいらっしゃるかもしれません。

 

今もこの文を読んで、理解しようとしているのは、左脳の自動反応なのです。

 

思考、感情、判断、は、左脳の働き。

直観、感覚、意識、は、右脳の働き。

 

ジル・ボルト・テイラー博士は、自らの体験から、そう書かれていますが、

これからわかることは、「わたし」が、この体で体験していることは、すべて左脳と右脳の働きだということになります。

 

このバレーボールくらいの大きさの頭(脳)のどこに、「わたし」がいるのでしょうか?

 

「わたし」とは、脳の働きが生み出している(脳のニューロン回路の複雑な働きから生じている)ある種の「想い」なのです。

 

いつも同じ思考回路を使っているので、同じ感情の回路が反応するので、その結果、まるでひとつの決まった人格があるかのように感じているだけと言えます。

 

その幻の人格を持っているという想いが、脳に生じた結果、脳内に個別性が誕生し、それが「わたし」となったのです。

 

脳が脳を理解する、「わたし」が「わたし」を理解することは、以前の記事でご紹介した脳科学者の池谷裕二さんも、その難しさを強調されていましたが、

これは、ヨーガの中でも非常に難解とされている「ギャーナ・ヨーガ(智識によるヨーガ)」の道です。

 

「個」であるという感覚を消滅させることは、通常、人間には不可能ですが、

その感覚は、頭頂の方向定位連合野が働いているからだと、ジル・ボルト・テイラー博士は、「奇跡の脳」の中で書いています。

 

そして、それぞれの脳の部位の働きを理解するにつれ、私たちは、自分の脳内で

どのようなことが起きているのか?を知ることで、「自分」について知って行くことができるのです。

 

そして、この理解が、やがては、「個」を超えて、「全体」への帰還へと通じていきます。

 

頭頂にある第7チャクラであるサハスラーラ・チャクラは、「個」から「全体」へ通じている私たちの体にある唯一の門(扉)なのです。

 

 

 

ヴェーダを学んだ人びとが

不死の世界とよんでいる処について説明しよう

偉大な哲人 賢者たちはここに入るために

きびしい禁欲の修行をする

 

ヨーガ修行は全ての感覚的快楽を

離脱することから始まる

五官の門を閉じて 心を心臓に

生気を眉間に集中して精神統一をする

 

ブラフマンそのものを表すところの

聖なる音節オームをとなえ

至上者(わたし)を想いながら肉体を離れる者は

必ず至高の世界へ往く

(バガヴァッド・ギーター第8章11ー13)

 

 

 

チャクラについて(30)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

今回は、脳卒中により、左脳を損傷したことで、右脳の機能だけで過ごした体験を経て、その後、左脳の働きを取り戻したジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」より、

通常、両脳が同時に働いている(ことになっている)私たちには、およそ想像もつかない右脳と左脳の働きの違いについて、非常に詳しく書かれている部分がありますので、ご紹介したいと思います。

 

ジル・ボルト・テイラー博士の奇跡の体験によって導き出された右脳と左脳の働きの違いを知ることにより、自分の脳に起きていることを理解し、第7チャクラのサハスラーラ・チャクラについての理解を深めていきたいと思います。

 

まず、今回は、右脳の働き(右脳マインド)について、ご紹介いたします。

 

 

『大脳の左右の半球のそれぞれで、どんな情報が処理されているか(あるいは、処理されていないか)にかかわらず、自分全体を、ひとつの心をもった、統一された存在として体験していることは、充分にわかっているつもりです。

そもそも意識とは、機能している細胞による集合的な意識にほかならないとわたしは考えています。

そして大脳半球の両方が補い合い、継ぎ目のないひとつの世界という知覚を生じさせるのだと、確信しています。

もし、顔を見分ける細胞と回路が正しく機能していれば、あなたのことを顔で認識することができます。

もしそれがなければ、あなたの声や癖や歩きぶりといった他の情報を利用して認識するでしょう。

もし、言語を理解する細胞の回路が無傷なら、あなたの話を聞くことであなたを理解できます。

自分が誰でどこに住んでいるかをいつも思い出せる細胞と回路が破壊されると、わたしは自分自身を永遠に見失ってしまうのです。

(これは、そういった特殊な機能を他の細胞が肩代わりしない場合の話です)

ちょうどコンピューターにワープロのプログラムがなければ、文書作成という機能を実行できないのと同じです。

右脳と左脳はそれぞれユニークな特徴をもっており、ちがったやり方で情報を処理するわけですから、それが別々の価値体系となってあらわれ、結果的に非常に異なる人格が生じるのは、あたりまえかもしれません。

左右の脳が持つ両方の性格を育て、脳の両側の機能と個性をうまく利用し、人生の中で両方がお互いに支え合い、影響し合い、調節し合うようにできる人もいます。

でも、ほとんどの人は、どちらか一方に考え方が偏り、常に分析し、批判的になり、柔軟さに欠けるパターン(極端な左脳状態)を示すか、あるいは、周囲とほとんど現実を分かち合うことなく、ほとんどの時間を「うわのそら」(極端な右脳状態)で過ごしています。

二つの性格のあいだの健全なバランスを生み出すことによって、初めて、変化に対して柔軟に対応できる(右脳)認知力を持ちながら、同時に道を踏み外さず具体的に行動できる(左脳)ようになります。

与えられた認知能力を100パーセント大切にし、うまく使うことにより、まさに「生命の傑作」とも言えるわたしたちに見合った人生への道が開けます。

決意さえすれば、慈愛に満ちた世界をつくることが可能なのです。

悲しいかな、わたしたちの社会では思いやりが示されることは滅多にありません。

「間違った」あるいは「悪い」判断をした自分や他人を見下げたり、侮辱したり非難することばかりに、あまりにも多くの時間とエネルギーを費やしてしまうのです。

あなたは自分自身を厳しく責め立てるとき、こんな質問をしたことがありますか?

「あなたの中の誰が怒鳴っているの?あなたは誰に対して怒鳴っているの?」

こうした否定的な思考パターンには、内なる敵意と不安の増加を助長する傾向があることに気づきませんか?

さらに厄介なことに、心の中での否定的な対話が、他の人たちへの態度にも、ひいてはあなた自身の魅力にも悪い影響を及ぼすことに気づいたことがありますか?

生き物として、わたしたちは底知れぬほど強力です。

神経ネットワークは、ニューロンが他のニューロンとコミュニケーションをとる回路からできているので、そのふるまいは充分に予測できます。

特定の回路に意識的な注意を払えば払うほど、あるいは特定の思考により多くの時間を費やすほど、そういった回路や思考パターンは、外部からのほんのちょっとの刺激によって容易に働くようになります。

わたしたちの心は、高度に進んだ「求めよ、さらば与えられん」式の器械なのです。

心は、探しているものに集中するようにできています。

もし世界の中で赤を求めようとすれば、それをどこでも見つけられるようになります。

最初は見つけにくくても、ずっと赤を求めることに集中していると、意識せずとも赤をいろんなところで見ることになるのです。

脳の左右の人格は、物事に対して違う考えを持つだけでなく、感情を処理し、すぐにわかる方法でからだを動かします。

肩のすぼめ具合で誰が部屋に入って来たかわかるし、額のしわの深さで何が起きているかを知ることができます。

右脳はすべて、「いま、ここで」に関係しています。

それは歯止めなく熱狂し、はねまわり、どうなろうと知ったこっちゃありません。

よく微笑み、やたらとフレンドリーです。

それと比べて、左脳は細部で頭が一杯で、分刻みのスケジュールで人生を突っ走ります。

左脳はクソ真面目なのです。

歯ぎしりしながら、過去に学んだことに基づいて判断を下します。

一線を超えることなく、あらゆる事を「正しい・間違っている」、あるいは「良い・悪い」で判断します。

あ、それから、その判断はわたしの場合眉の形に現れるんですよ。

右脳はとにかく、現在の瞬間の豊かさしか気にしません。

それは人生と、自分にかかわるすべての人たち、そしてあらゆることへの感謝の気持ちでいっぱい。

右脳は満ち足りて情け深く、慈しみ深い上、いつまでも楽天的。

右脳の人格にとっては、良い・正しい・間違いといった判断はありません。

これを右脳マインドと呼ぶことにしましょう。

ですから右脳マインドでは、あらゆることが相対的なつながりの中にあるのです。

ありのままに物事を受け取り、今そこにあるものを事実として認めます。

昨日より今日のほうが涼しい。

ただそれだけ。

今日、雨が降る。

特に問題なし。

右脳マインドは、ある人が別の人より背が高いと観察するでしょうし、この人はあの人よりお金を持っている、などと観察しますが、こうした観察結果は判断につながりません。

右脳マインドにとっては、わたしたちはみんな、人類という家族の平等な一員なのです。

右脳マインドは国境や、人種や宗教のような人工的な教会などわからないし、気にもとめません。

今回の脳卒中の体験から得た最も大きな「恵み」は、純粋な内なるよろこびの神経回路を若返らせ、さらに強められたこと。

脳卒中のおかげでわたしは、子供のような好奇心をもって、ふたたび自由に世界を探検するようになりました。

差し迫った危険はなく、世界中が安全に感じられ、自分の裏庭のように地球を闊歩しました。

右脳の意識の中では、わたしたちは人類の可能性を秘めた宇宙のタペストリーに織り込まれているのだと感じ、人生の素晴らしさを感じ、ありのままを美しく感じます。

右脳マインドの性格は冒険好きで、豊かさを喜び、とても社交的、言葉のないコミュニケーションに敏感で、感情移入し、感情を正確に読み取ります。

宇宙とひとつになる永遠の流れを気持ちよく受け入れます。

それは聖なる心、智者、賢人、そして観察者の居場所なのです。

直観と高度な意識の源泉です。

右脳マインドは常にその時を生きていて、時間を見失います。

右脳マインドの自然な機能のひとつは、時代遅れの情報が入っている古いファイルを最新のものに更新できるように、今この瞬間に新しい発見の機会を与えてくれることです。

たとえば、わたしは子供のころから南瓜や瓜があんまり好きではありませんでした。

でも、右脳のおかげで、南瓜にもう一度チャンスをあげてもいいかな、と思うようになって、今では南瓜が大好き。

わたしたちは、左脳のところで決断してしまい、なかなか最新のファイルを探すために右へ一歩(つまり、右脳の意識の中へ)進もうとしないのです。

というのも、いったんある決定をしてしまうと、いつまでもその決定に執着するから。

支配権を確立した左脳にとって、自由奔放な右の伴侶と狭い頭蓋のスペースを分け合うことなんて、そりゃもう、許せないことなんだと思います。

右脳マインドは新しい可能性を受け入れて、枠にとらわれず自由に考えます。

左脳マインド(とこちらも同様に呼ぶことにします)が決めた枠内の規則や規制なんかには縛られません。

ですから右脳マインドは、新しいことにトライしようという意欲があり、とても創造的なのです。

それは混沌さえも、創造的なプロセスの第一歩として評価します。

運動感覚があり、機敏で、世界の中で流体のように動くからだの能力が大好き。

細胞が「直観」として伝える微妙なメッセージにも耳を傾けます。

右脳マインドは触って体験して学習するのです。

右脳マインドはひたすらに自由な宇宙を求め、過去や未来の不安によって身動きがとれなくなることはありません。

わたしの生命と、あらゆる細胞の健康を讃えます。

気遣うのは自分のからだだけじゃありません。

あなたのからだが健康かどうか、社会の精神的な健康、そして母なる地球とわたしたちの関係までも気にするのです。

右脳マインドは、(赤血球を除いた)すべての細胞が母親の卵細胞と父親精子細胞が結ばれてできた細胞であり、どれもが天才的な資質をもつ50兆もの細胞の生命力によって巧くつくられていることを知っています!

(そしていつも、右脳マインドはそのことを歌っている!)

右脳マインドは、宇宙が織物のように複雑にからみあい、お互いに結びついていることを理解しています。

そして自分のドラムのビートに合わせて熱狂的に行進するのです。

境界についての知覚が全くないので、右脳マインドはこんなふうに言います。

「わたしは全ての一部。

わたしたちは、この惑星上の兄弟姉妹。

わたしたちは、この世界をもっと平和で温かい場所にするのを手伝っている」。

右脳マインドは、生きとし生けるものがひとつに調和することを思い描きます。

そして、自分自身の中のこうした性格を、あなたにもっと知ってほしいと願っています。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

私たち人間は、現代社会においては、便宜上、左脳優位であることの方が、都合が良い場合が多いので、畢竟、左脳ばかりを使う習慣が身についている人が多いようですが、

左脳の働きが優位であることは、思考、判断、言葉によるコミュニケーション(他者との関わり)、感情を言葉で表現すること、観念、概念などにより、脳内が一杯になっている状態と言えます。

 

ですから、ジル・ボルト・テイラー博士の右脳マインド(右脳の働き)についての体験報告は、私たちの想像できない世界ではありますが、

同時に、実際の体験から導き出されたものなので、説得力のある解説になっていると感じます。

 

それでは、右脳とは別に、左脳の働きとは、どのようなものなのでしょうか?

 

次回は、左脳の働き(左脳マインド)について、ジル・ボルト・テイラー博士による解説を見てみることにしましょう。

 

 

 

 

プリターの息子よ 常に訓練して

至上者(わたし)を瞑想せよ

決して他のものに心を散らしてはいけない

そうすれば必ず至上者(わたし)のもとに来るのだ

 

全知全能なる大宇宙の支配者

最も古く最小のものより微細な万有の維持者

物質界を超えて千万の太陽の如く輝く

難思絶妙なる一(ひとり)の人格神として至上者(わたし)を瞑想せよ

 

ヨーガの行力と不動の信念により

臨終のとき生気を眉間に集中し

満心の思慕をもって至上主(わたし)を憶念すれば

必ずわたしのもとに来ることができる

(バガヴァッド・ギーター第8章8ー10)

 

 

 

 

 

 

チャクラについて(29)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

今回も、脳卒中により、左脳が働かなくなった脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士が、自らの体験を元に書かれた「奇跡の脳」より、

ひとつの脳でありながら、脳梁により接続されているとは言え、左脳と右脳のそれぞれの働きの違いを通して、両者は、別々の世界を体験している、という驚きの報告をご紹介しました。

 

左脳は、思考、感情を、右脳は、直観、感覚を役割分担しているということですが、通常は、私たち人間は、両方の脳が同時に機能しているのですが、

そうは言っても、人間社会においては、左脳優先であることが求められることが多いため、常に左脳が優先になっており、思考、判断、感情、などが、頭の中を占め、

右脳が感知している世界の情報をかき消してしまっていることが多いと考えられます。

 

また、今回ご紹介する内容の中に、ジル・ボルト・テイラー博士の体験とよく似た体験を実験により検証することで、実際に、脳のどの部位に変化があったのか?ということが明らかになっています。

 

それでは、続きをご紹介しましょう。

 

 

『回復するまでのわたしの目標は、二つの大脳半球が持っている機能の健全なバランスを見つけることだけでなく、ある瞬間において、どちらの性格に主導権を握らせるべきか、コントロールすることでした。

これはきわめて重要なことだと思っています。

なぜなら、右脳の個性の最も基本的な特色は、深い内なる安らぎと愛のこもった共感だからです。

内なる安らぎと共感の回路を動かせば動かすほど、より多くの平和と共感が世界に発信され、結果的により多くこの地球上に広がるでしょう。

脳のどちら側が、どんな種類の情報を処理しているかをハッキリさせることにより、個人としてだけでなく、人類の一員としてどのように考え、感じ、行動するかについて、より多くの選択ができるようになるはずです。

神経解剖学的な見地からは、左脳の言語中枢および方向定位連合野が機能しなくなったとき、わたしは右脳の意識のなかにある、深い内なる安らぎを体験することができたのです。

2001年以降は、アンドリュー・ニューバーグと故ユージーン・ダキリ両博士によって行われた研究が、わたしの脳の中でなにが起きているかを正確に理解する助けになりました。

ニューバーグとダキリはSPECT技術(単一光子放射断層撮影法といい、体内に注入した放射性同位体から出るガンマ線を利用して、脳やからだの輪切り映像を撮影する)を利用して、宗教的もしくはスピリチュアル(神秘)体験をもたらす神経構造を明らかにしました。

ニューバーグとダキリは、脳のどの領域が意識の変容をもたらし、個人の意識から離れて、宇宙と「ひとつ」であるという感じ(神、ニルヴァーナ、幸福感)を生み出すのか、知りたいと思ったのです。

チベットの僧侶とフランシスコ会の修道女が、SPECT装置の中で瞑想あるいは祈るために招かれました。

彼らは、瞑想のクライマックスに達するか神と一体になったと感じたときに、ひもを引くように指示されました。

こうした実験によって、脳の中の非常に特殊な領域で、神経学的な活動が変化することが明らかになりました。

まずはじめに、左脳の言語中枢の活動の減少が見られ、脳のおしゃべりが沈黙します。

次に、左脳の後部頭頂回にある方位定位連合野の活動の減少が見られました。

この部分は、その人の肉体の境界の判別に役立っています。

この領域が抑制されるか、感覚系からの信号の流入が減少すると、まわりの空間に対して、自分がどこから始まりどこで終わっているかを見失ってしまうのです。

 

こうした最近の研究のおかげで、左の言語中枢が沈黙してしまい、左の方向定位連合野への正常な感覚のインプットを防げられたとき、わたしに何が起きていたのかを、神経学的に説明することができます。

わたしの意識は、自分自身を固体として感じることをやめ、流体として認知する(宇宙とひとつになったと感じる)ようになったのです。

 

脳卒中により、わたしは内なる自分を発見しました。

ほんの少し、考え方や感じ方を変えるだけで、深い心の安らぎが得られることに気づいたのです。

安らぎを体験するといっても、人生がいつも歓喜に満ちあふれている、という意味ではありません。

あわただしい人生の、あたりまえの混乱の中にあっても、心の歓びに触れることができるという意味なのです。

多くの人にとっては「考える頭」と「思いやる心」のあいだの距離は、ときとして横切って進みます。

またある人は、絶望や怒りやみじめさに深くとらわれて、心の安らぎなんて別世界のものです。

左脳マインドを失った経験から、深い内なる安らぎは、右脳にある神経学上の回路から生じるものだと心の底から信じるようになりました。

この回路はいつでも機能しており、いつでもつなげることができます。

安らぎの感覚は、現在の瞬間に起こる何かです。

それは過去を反映したものや、未来を投影するものではありません。

内なる安らぎを体験するための第一歩は、まさに「いま、ここに」いる、という気になること。

どんなときに、深い心の安らぎのループが働いているのかに気づくことができれば、その回路に意識的につなげることが容易になります。

どんなときにこの回路が働いているのかわからず、悪戦苦闘している人もいるでしょう。

その唯一の理由は、他の思考に心が向かっているせいです。

これは、当然のことです。

なぜなら、西洋の社会は左脳の「する」(doing)機能を右脳の「ある」(being)機能よりずっと高く評価し、報酬を与えるものだから。

あなたが右脳マインドの意識に近づくのが難しいのは、あなたが成長するあいだに「こうしなさい」と教えられたことを、実にうまく学んできたからにほかなりません。

細胞たちのこれまでの成功を、褒めてあげてください。

そのうえで、わたしの仲の良い友人、カット・ドミンゴ博士が宣言しているように、「悟りは、学ぶことではなく、学んだことを忘れること」だと知りましょう。

 

内なる安らぎを体験するためにわたしが最初にするのは、自分がより大きな構造の一部であることを思い出すこと。

いいかえると、決して自分と切り離すことのできないエネルギーと分子の、永遠の流れの一部であることを思い出すこと。

自分が宇宙の流れの一部だと気づくことによって、わたしは生まれながらに安全だと感じ、地上の天国としての人生を体験できるのです。

自分を包み込む全体と一心同体なのですから、自分が脆いなんて感じるはずはありません。

左脳マインドはわたしを、いずれ死にいたる一人の脆弱な人間だと見ています。

右脳マインドは、わたしの存在の真髄は、永遠だと実感しています。

いずれ、わたしは自分をつくっている細胞を失い、三次元の世界を知覚する能力を失うかもしれませんが、このエネルギーはただ、幸せに満ちた穏やかな海に還ってゆくだけ。

このことに気づき、ここにいる間はずっと感謝し続けると同時に、命をつくってくれる細胞たちが満足した状態にあるよう、わたしは熱意をもって努力しています。

現在の瞬間に戻るためには、心を意識的にのんびりさせる必要があります。

それには、急ぐ必要はない、とまず決めることです。

左脳マインドが慌てふためいて、思いを巡らせ、熟考し、分析しているときでも、右脳マインドは、ゆっくりくつろいでいるのです。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

誰でも、同じような体験をすることはできないため、ここに書かれていることが本当か、どうかは、自ら検証することは不可能ですが、

60億人の中のたった一人ですが、このような稀なる体験をし、言語を取り戻して、私たち一般人に、このような貴重な体験談を伝えてくれたことは、「脳」という未知なる領域に踏み込む第一歩となると感じます。

 

私たちは、自分の脳を、このように客観的には見ることが(考えることが)できないため、ジル・ボルト・テイラー博士の体験談には、私たちが自分と言う存在を考える時に、多くの示唆を与えてくれるものと思います。

 

次回は、もう少し、詳しく、左脳と右脳の働きについて、見ていきましょう。

 

そうすることで、「いまここ」にありながら、今まで認識してきた世界と同時に、まるで違う別世界が展開していることに気づくことでしょう。

 

 

 

 

誰でも肉体を脱ぎ捨てるとき

心で憶念している状態に必ず移るのだ

クンディーの息子よ これが自然の法則ーー

常に思っていることが死時に心に浮かぶ

 

故にアルジュナよ 常にわたしを想いながら

同時に君の義務である戦いを遂行せよ

心と知性(ブッディ)をわたしに固く結びつけておけば

疑いなく君はわたしのもとに来るだろう。

(バガヴァッド・ギーター第8章6ー7)

 

 

 

 

 

チャクラについて(28)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

これまで3回にわたり、第7チャクラのサハスラーラ・チャクラを理解するために、

脳卒中により左脳が働かなくなった脳科学者ジル・ボルト・テイラー博士の体験談が書かれている「奇跡の脳」より、抜粋してご紹介しています。

 

私たちは、通常は、社会における他人とのコミュニケーションのために、言葉を使うことが多いため、左脳が優位であることが多いのですが、

その左脳が全く働かなくなった時、優位となった右脳が認知する世界は、通常の私たちが経験している世界とは別世界であるかのように記述されています。

 

今回もその続きを見ていきたいと思います。

 

 

『まったく予期していなかった脳の深部への旅のあと、からだの面でも、認識や感情や精神の面でも、完全に回復したことに感謝すると同時に驚いてもいます。

数年にわたって、左脳の特殊機能の回復はいろんな理由でとても厳しい状態でした。

左脳の神経学的なネットワークの機能を失ったとき、その機能だけでなく、適性の回路に関連した多様な人格的特徴も失ってしまいました。

過去にもっていた、感情的な反感やマイナス思考と解剖学的につながる機能細胞を回復させる段になり、わたしは思わずハッとしました。

基本的には、左脳の機能を取り戻したいと思っています。

でもそこには、今のわたしが右脳の観点から「こうなりたい」と考えている性格とは正反対の性格が、まるで左脳の遺灰から復活しようとばかり、待ちかまえていたのです。

神経解剖学や心理学の見地からは、わたしはまたとない魅惑的な数年間を過ごしたと言えるでしょう。

何度もくりかえし頭をよぎった疑問は、「回復したい記憶や能力と神経学的に結びついている、好き嫌いや感情や人格の傾向を、すべてそのまま取り戻す必要があるの?」ということでした。

たとえば自己中心的な性格、度を過ぎた理屈っぽさ、なんでも正しくないと我慢できない性格、別れや死に対する恐れなどに関係する細胞は回復させずに、(流体ではなく)固体のようで、宇宙全体とは切り離された「自己」を取り戻すことは可能なの?

あるいは、欠乏感、貪欲さ、身勝手さなどの神経回路につなぐことなしに、お金が大切だと思うことができるでしょうか?

この世界のなかで自分の力を取り戻し、地位をめぐる競争に参加し、それでも全人類への同情や平等な思いやりを失わずにいられる?

末っ子ゆえの不満を思い出さずに、ふたたび家族としてふるまえるかしら?

そして最も重要なことですが、左脳の個性を前にしても、新たに発見した「宇宙との一体感」を保ち続けることができるでしょうか?

知りたかったのは、左脳の機能を取り戻すために、せっかく見つけた右脳の意識、価値観、人格のどれくらいを犠牲にしなくてはいけないのか、という点でした。

宇宙との結びつきを失いたくなかったのです。

自分自身が周囲のすべてから切り離されたひとつの固体だなんて、感じたくなかった。

頭の回転ばかりが速くなって、真の自分に触れることを忘れてしまうのは嫌でした。

正直いって、涅槃(ニルヴァーナ)を諦めたくなかったのです。

周囲から「まとも」だと判定されるために、右脳の意識はどれだけの犠牲をはらうことになるのでしょう?

現代の神経科学者たちは、右脳と左脳の非対称性を、神経学の面からのみ説明するだけで満足しているように思われます。

左右の脳の構造に含まれる心理学的、人格的なちがいについては、ほとんど語られることがありません。

よくあるのは、右脳の個性が、話し言葉や順序だった思考をよく理解できない、という理由だけで笑いものにされ、メチャメチャにけなされること。

ジキル博士とハイド氏』の中でも、ハイド氏が象徴する右脳の個性は、制御不能で生まれつき凶暴な、卑しむべき無知な人格として描写されており、意識すら持っていないと非難され、いっそのこと右脳なんかないほうがいい!とすら言われています。

左脳はこれとは全く対照的に、言葉をあやつり、順序がわかり、方法を考え、理性があり、利口だと褒められ続け、意識の王座に君臨してきたのです。

脳卒中を体験する前のわたしは、左脳の細胞が右脳の細胞を支配していました。

左脳が司る判断や分析といった特性が、わたしの人格を支配していたのです。

脳内出血によって、自己を決めていた左脳の言語中枢の細胞が失われたとき、左脳は右脳の細胞を抑制できなくなりました。

その結果、頭蓋の中に共存している二つの半球の独特な「キャラクター」のあいだに、はっきり線引きできるようになったのです。

神経学的な面においては、二つの脳は全然違う方法で認知したり、考えたりすることはありません。

しかしこの二つは、認知する情報の種類にもとづいて、非常に異なる価値判断を示し、その結果、かなり異なる人格を示すことになります。

脳卒中によってひらめいたこと。

それは、右脳の意識の中核には、心の奥深くにある、静かで豊かな感覚と直接結びつく性質が存在しているんだ、という思い。

右脳は世界に対して、平和、愛、歓び、そして同情をけなげに表現し続けているのです。

これはもちろん、わたしに解離性人格障害の傾向があるという意味ではありません。

解離性人格障害は、わたしが経験したものよりずっと複雑なものです。

これまでは、右と左の脳の性質を判別することは、不可能ではなくとも難しかったといえるでしょう。

その理由は単に、わたしたちが自分自身を、ひとつの意識をもった一人の人間だとかんじているからです。

しかし、ごくわずかな糸口があれば、自分自身は難しいにしても、両親や親しい人の中になら、よく似た二つの脳の性質を見つけるのは簡単だと思うのです。

あなたが、左右それぞれの「キャラクター」に合った大脳半球の住み処を見つけてやれば、左右の個性は尊重され、世界の中でどのように生きていきたいのか、もっと主張できるようになります。

わたしは、そのお手伝いをしたいだけ。

頭蓋の内側にいるのは「誰」なのかをハッキリと理解することによって、バランスのとれた脳が、人生の過ごし方の道しるべとなるのです。

わたしたちは、頭の中に正反対の性格を抱え込んで、いつも苦労しているようです。

実際、わたしが話をしたことがある人は誰でも、自分の個性に相反する部分があることに敏感でした。

多くの人が、頭(=左脳)があることをしなさい、と伝えてくる一方で、心(=右脳)が全く反対のことをしろ、と伝えてくると話しています。

中には、考えること(=左脳)に対する、からだの本能的な意識(=右脳)について話す人もいます。

ちっちゃな自我(エゴ)の心(=左脳)と大きな自我の心(=右脳)を比べたり、あるいは小さな自己(=左脳)とホンモノの自己(=右脳)について話す人も。

ある人は、仕事の心(=左脳)と休暇の心(=右脳)のあいだに一線を引いています。

またある人は、研究室に閉じこもる心(=左脳)に対して社交的な心(=右脳)を引き合いに出します。

そしてもちろん、男性的な心(=左脳)に対する女性的な心(=右脳)というのもあります。

陽(=左脳)は陰(=右脳)と対になります。

もしあなたがカール・ユングのファンなら、そこには思考型の心(=左脳)に対する直観型の心(=右脳)があり、感情型の心(=左脳)に対して感覚型の心(=右脳)があるはずです。

(思考型と感情型は判断を下すので、左脳的で、直感型と感覚型は右脳的とされる)

二つの相反する存在を説明するのにどんな言葉を使おうとも、これは解剖学的に、頭の中にある二つのきわめて独特な大脳半球に起因するのだと、わたしは、経験上信じています。』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

これほど、左脳と右脳の働きが違う、ということは、両方の脳が同時に機能している通常の私たちには、想像できないことですが、

実際に、そのような稀なる体験をした人の報告は、私たちに多くの示唆や気づきを与えてくれるものと思います。

 

次回も、続きを見ていきたいと思います。

 

 

 

死の時が来て肉体を離れるとき

わたしだけを億念する者は誰でも

まっすぐにわたしの所に来る

ゆめゆめこのことを疑うな

(バガヴァッド・ギーター第8章5)