永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(27)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

前回、前々回と、ジル・ボルト・テイラー博士の「奇跡の脳」よりご紹介していますが、

それまで働いていた脳の機能が停止したために、思いもよらぬ世界が展開されたのでした。

 

起きた現象を知ることで、私たちの脳がどのような感覚、意識、そしてそれらのプロセスを生み出しているのかを知る手掛かりになります。

 

ジル・ボルト・テイラー博士は、方向定位連合野という頭頂連合野が機能しなくなったために、前回ご紹介したような体験が起こるのですが、

頭頂連合野が機能しなくなると、空間認知の障害が起こり、物体間の距離、遠近、左右、上下の判断が困難となり、空間定位の障害や、歩きなれた街の道順が判らなくなる地誌的障害を起こすことが知られています。

 

ジル・ボルト・テイラー博士の体験は、「わたし」という個人として独立した存在であるという意識に、この頭頂葉の方向定位連合野が関与していることを示唆する興味深いものと言えます。

 

彼女の体験談の中に、その他にも多くの示唆的な現象が起きており、それは、私たちに、人間という存在を客観的に捉える別の視点を与えてくれることでしょう。

 

今回も、更に続きを見てみたいと思います。

 

 

『一日に何百万回も「かいふくするのよ」と意を新たにしなければなりませんでした。

挑戦するつもりはあるのか?

新しく発見した「エクスタシー」と形容できるほどの幸福と、一時的に別れを告げ、ふたたび外部の世界と向き合って、外部の世界を理解するつもりはあるか?

回復の苦しみに耐えるつもりはあるのか?

手術直後の情報処理のレベルでは、自分に苦痛を与えるものと快楽を与えるものとの違いが、ハッキリわかってきていました。

右脳の夢の国に出かけているときは魅惑的でステキなのですが、なんでも分析したがる左脳にかかわることは苦痛でした。

回復に向けて挑戦することは、よくよく考えた上で決めたことですが、有能で思いやりのある看護人に囲まれていることがとても大切でした。

独りだったら、正直言って面倒くさい努力なんてしなかったでしょう。

左脳が判断力を失っているあいだに見つけた、神のような喜びと安らぎと静けさに身を任せるのをやめて、回復への混沌とした道のりを選ぶためには、視点を「なぜ戻らなくちゃいけないの?」から、「どうやって、この静寂な場所にたどり着いたの?」へ帰る必要がありました。

この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。

涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。

このことに気づいてから、わたしの回復により、他の人々の人生も大きく変わるにちがいないと考え、ワクワクしました。

他の人々とは、脳障害からの回復途中の人々だけでなく、脳を持っている人なら誰でも!という意味です。

幸福で平和な人々があふれる世界を想像しました。

そして、回復するために受けるであろう、どんな苦難にも耐えてみせよう、という気持ちでいっぱいになりました。

わたしが脳卒中によって得た「新たな発見」(insight)は、こう言えるでしょう。

「頭の中ではほんの一歩踏み出せば、そこには心の平和がある。

そこに近づくためには、いつも人を支配している左脳の声を黙らせるだけでいい」

 

わたしがすごく大切だと思ったのは、感情がからだにどのような影響を与えるか、ということ。

喜びというものは、からだの中の感覚だったのです。

平和も、からだの中の感覚でした。

新しい感情が引き起こされたのを感じる、興味深い体験をしました。

新しい感情がわたしを通って溢れ出し、わたしを解放するのを感じるんです。

こうした「感じる」体験に名称をつけるための新しい言葉を学ばなければなりませんでした。

そして最も注目すべきことは、「ある感じ」をつなぎ留めてからだの中に長く残しておくか、あるいはすぐに追い出してしまうかを選ぶ力をもっていることに、自分自身が気づいたこと。

何かを決めなきゃいけないときは、自分の中でどう感じたかを大切にしました。

怒りや苛立ちや恐怖といった不快な感情がからだの中に押し寄せたときには、不快な感じは嫌だから、そういった神経ループにつなぎたくないと伝える。

わたしは左脳を利用し、言語を通じて自分の脳に直接話しかけ、自分がしたいことをしたくないことを伝えられるようになったのです。

このことを知り、自分が決して以前のような性格に戻れないことに気づきました。

突然、自分がどう感じたいのか、どれくらい長く感じ続けていたいのか、前より口うるさくなったからです。

そして絶対に、過去の痛い感情の回路を復活させまいと心に決めました。

からだの中でどんなふうに感情を「感じる」のかに注意深くなると、完全なる回復の兆しが見えてきました。

自分の心が、脳の中で起きているすべてのことを分析するのを、8年かけて見守ってきました。

それぞれの新しい日々が、新しい挑戦と発見(insight)をもたらしてくれました。

古いファイルを回収すればするほど、むかしの感情のページが表面に現れ、その根底にある神経回路が好ましいかどうかを決める必要がありました。

感情の治療は遅々として進みませんでしたが、努力のしがいはありました。

左脳が回復するにつれ、自分の感情や環境を、他人や外部の出来事のせいにするほうが自然に思われてきました。

でも現実には、自分の脳以外には、誰もわたしに何かを感じさせる力など持っていないことを悟ったのです。

外界のいかなるものも、わたしの心の安らぎをとり去ることはできません。

それは自分次第なのです。

自分の人生に起こることを完全にコントロールすることはできないでしょう。

でも、自分の体験をどうとらえるかは、自分で決めるべきことなのです。

 

いろんな人から

「回復するのにどれくらいかかりましたか?」

と訊かれます。

わたしはいつも、月並みで申し訳ありませんが、

「何の回復ですか?」

と逆に質問することにしています。

もし回復を「古い脳内プログラムへのアクセス権の再取得」と定義するなら、わたしは一部しか回復していません。

どの感情的なプログラムを持ち続けたいのか、どんな感情的なプログラムは二度と動かしたくないのか(たとえば、短気、批判、不親切など)を決めるには、やきもきしました。

この世界で、どんな「わたし」とどのように過ごしたいかを選べるなんて、脳卒中は案てステキな贈り物をくれたのでしょう。

脳卒中の前は、自分なんて脳がつくりだした「結果」に過ぎず、どのように感じ、何を考えるかについては、ほとんど口出しできないんだと信じ込んでいました。

出血が起きてからは、心の目が開かれ、両耳の間で起きることについて、実際にはいろいろと選べることがわかってきました。

 

脳卒中から7年目、必要とする睡眠時間が11時間から9時間半に短縮されました。

それまでは夜の長い睡眠に加え、心地よい昼のうたた寝もしていたのですが、初めの7年の間に見ていた夢は、脳の中で起きていた奇妙な出来事を反映していました。

登場人物もストーリーも関係なく、脳はそれぞれ関係のないデータの小さな断片をスクロールしていたのです。

これは、脳が混乱した情報をつなぎ合わせて、ひとつの完全なイメージにまとめる状態を反映したものだと、わたしは推測しています。

夢で人々が登場する物語がはじまったことは、衝撃的でした。

初めの頃、そういう場面はバラバラで無意味なものばかり。

でも、7年目の終わりには、脳の中はひと晩じゅう騒がしくなり、目覚めの清々しさなんて感じないくらいでした。

そして8年をかけ、流体のように感じていたからだの感覚が、ようやく固体の感じに戻っていきました。

スラローム・ウォーター・スキーを定期的に始めました。

からだを限界まで使ったことが、脳とからだの結びつきを強化するのに役立ったようです。

からだの感覚が固体に戻ったのは嬉しいのですが、流体のように感じることが全くなくなってしまったのは残念。

わたしたちは宇宙とひとつなんだと思い出させてくれる能力を失ってしまったのです。』

(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー

 

 

言語野である左脳の機能が回復したことで、右脳だけが感知できる「流体の世界」は消滅してしまった、ということですが、

それは、「流体の世界」が幻である、ということではありません。

 

右脳は、エネルギーの世界をキャッチしているのですが、

それよりも左脳に入力される言語(観念)の処理の方に、エネルギーを集中しなくてはならないので、右脳が感知している世界の感覚が、かき消されてしまうということなのでしょう。

 

私たちの右脳は、いつでも、エネルギーが流れる世界を感知しているのですが、

私たちは、通常は左脳が優位なため、脳全体が、言葉(観念)の処理に追われてしまい、

常に、頭の中で、あーだこーだという声がループしている状態であることが多いように感じます。

 

この頭の中の(左脳の)雑音をシャットアウトすると、右脳の働きが鮮明になり、感覚が優位となってきて、エネルギーの流れを感じることができるようになります。

 

多くの宗教的な気づき、哲学的・形而上的気づきは、この静かな脳の中で起こります。

そのためには、左脳の言語野のニューロンへの入力により生じる脳の混乱を静めることが重要であり、それが、「瞑想」が推奨される理由と言えます。

 

あなたは、エネルギーを感じたことがありますか?

 

もし、一度も無いなら、それは、いつも左脳が優位であるということを指します。

 

言語(言葉)は観念であり、観念は思考を生み、思考は脳の産物です。

 

この世界、この宇宙、そのものではありません。

 

この世を「言葉」で理解しようとせず、ダイレクトに知覚することが、存在の本質に近づく第一歩と言えます。

 

 

 

 

物質自然(プラクルティ)は絶え間なく変化するが

物質 霊界 神界を含む大宇宙は至上主(わたし)の体である

そして各個体の心臓に宿る至上我(たましい)は

その至上主であるわたし自身なのだ

(バガヴァッド・ギーター第8章4)

 

 

チャクラについて(26)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

前回ご紹介しました、脳卒中により左脳を損傷した脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士の自らの体験記である「奇跡の脳」から、

右脳のみで知覚する世界が、私たちが通常経験しているのと同じ世界とは思えないような世界であることが記述されていましたが、

それは、同時に、左脳と右脳それぞれが経験している世界は、かなり異なっていることを証明するかのような報告でした。

 

左脳と右脳の役割分担に関しては、まだ現段階では、仮設の域を出ず、不明な点が多いようですが、

一般的には、それぞれの脳の役割分担は、左脳は、言語の運用、数的計算、右脳は、空間認知、非言語的概念構成とされています。

 

それでは、左脳の障害により、世界に対する認知(認識)がどのように変化したか?を見てみましょう。

 

 

『わたしの意識は覚醒していました。

そして、流れのなかにいるのを感じています。

目に見える世界の全てが、混ざり合っていました。

そしてエネルギーを放つ全ての粒々(ピクセル)と共に、わたしたちの全てが群れをなしてひとつになり、流れています。

ものともののあいだの境界線はわかりません。

なぜなら、あらゆるものが同じようなエネルギーを放射していたから。

それはおそらく、眼鏡を外したり目薬をさしたとき、まわりの輪郭がぼやける感じに似ているのではないでしょうか。

この精神状態では、三次元を知覚できません。

ものが近くにあるのか遠くにあるのかもわからない。

もし、誰かが戸口に立っていても、その人が動くまで、その存在を判別できないのです。

特定の粒々のかたまりが動くことに特別な注意を向けないとダメだったのです。

そのうえ、色は色として脳に伝わりません。

色が区別できないのです。

自分をひとつの固体として感じていた今朝までは、わたしは、死や傷害により肉体を失うことや、心痛による感情的な損失を感じることができていました。

しかし、変容してしまった認知力では、肉体t的な喪失も感情的な喪失も、受け止められなくなってしまったのです。

周囲から分離していること、固体であることを体験する能力が失われてしまったせいで、神経が傷を負っているのに、忘れ得ぬ平穏の感覚が、わたしという存在のすみずみにまで浸透しています。

そして、静けさを感じました。

存在する全てと結ばれている感覚は幸せなものでしたが、自分がもはや正常な人間でないということに、わたしは身震いしました。

わたしたちはそれぞれ、全く同じ全体の一部であり、わたしたちの内にある生命エネルギーは宇宙の力を含んでいる。

そんな高まった認知力を持ちながら、いったいどうやって、人類のひとりとして存在できるでしょう?

怖い物知らずにこの地球を歩くとき、どうして社会に適合できるでしょう?

わたしは誰の基準においても、もはや正常ではありませんでした。

この特殊な状態で、重い精神の病に罹っていたのです。

そして、外界の知覚と外界との関係が神経回路の産物であることがわかったとき、それは自由を意味すると同時に挑戦でもあったのです。

わたしの人生の長い歳月のあいだ、わたしというものが自分の想像の産物にすぎなかったなんて!

左脳の時計係が店じまいしたことで、生活の時間的なリズムはゆっくりになり、カタツムリのペースに変わりました。

時間の感覚が変わったので、周囲の蜂の巣のように騒がしい音と映像が、同期しなくなっています。

意識はタイムワープのなかへ漂っていき、その結果、慣れ親しんだ、まともなペースでの社会とのコミュニケーションや、社会の中で自分の役割を果たすことも、不可能になりました。

わたしは今や、世界の「あいだ」の世界に存在しているのです。

もう、自分の外界にいる人たちとかかわることはできません。

しかしそれでも、生命が消えることはありませんでした。

わたしはまわりの人たちにとって異邦人だっただけでなく、内側では、自分にとっても異邦人でした。

 

あなたは、起きたことすべてをわたしがまだ憶えているのはどうしてだろう、と不思議に思うでしょうか。

わたしは精神的には障害をかかえましたが、意識は失わなかったのです。

人間の意識は、同時に進行する多数のプログラムによってつくられています。

そして、それぞれのプログラムが、三次元の世界でものごとを知覚する能力に新しい拡がりを加えるのです。

わたしは自我の中枢と、自分自身をあなたとは違う存在として見る左脳の意識を失いましたが、右脳の意識と、からだをつくり上げている細胞の意識は保っていたのです。

瞬間ごとに、自分が誰でどこに住んでいるか、といったことを思い出させるプログラムは、すでに機能していませんでしたが、他のプログラムが注意を保たせ、瞬時の情報を処理し続けていました。

いつもは右脳より優勢なはずの左脳が働かないので、脳の他の部分が目覚めたのです。

これまで抑制されていたプログラムは今や自由に機能し、それによって、知覚についての自分のこれまでの解釈に、もはや束縛されなくなりました。

左脳の意識と、自分の過去の性格から離れたことで、右脳の性格が新しく目覚め、表に現れてきたのです。

 

ここで、あなたの本来の能力が、(意識があるのに)系統的にむしり取られていくのがどんな感じがするものか、想像してみましょうよ。

まず第一に、耳を通って入ってくる音を理解する能力を失うと想像しましょう。

耳が聞こえないわけではありません。

あなたはただ、あらゆる音を無秩序な雑音として聞いてしまうのです。

第二に、目の前にあるなにかの物体の、もともとの形を見る能力がなくなると想像してみましょう。

目が見えないわけではありません。

単に、三次元的な拡がりを見ることができない、あるいは、色を識別できなくなるのです。

動いている物体の軌跡をたどったり、物体の間のハッキリした境界を判別する能力を失ってしまいます。

されに、これまでは何でもなかった匂いがとてもきつく感じられ、あなたは圧倒され、息をするのも辛くなります。

もはや、温度も振動も苦痛も、あるいはどこに手があって足があるのかすら知覚できなくなります。

あなたのエネルギーの存在は広がって、まわりのエネルギーと混ざり合います。

そして自分自身を、宇宙と同じように大きいと感じるのです。

自分が誰でどこに住んでいるかを思い出させる内側の小さい声も、聞こえなくなってゆきます。

あなたは、感情的な自分との古い記憶のつながりを失います。

そして、まさに今ここにある、豊かな瞬間に、心奪われてしまうのです。

あなたという生命力を含む全てのものが、純粋なエネルギーを放ちます。

子供のような好奇心で、あなたの心は舞い上がり、あなたの頭は、無上の幸福に充ちた海を泳ぐ、新しい方法を模索するのです。

そこで、自分に問いかけてみてください。

かっちりと決められた日常のくりかえしに戻ろうなんて、そんな気持ちになれると思う?』

(奇跡の脳 ジル・ボルト・テイラー

 

 

言葉(観念)を通さずに、世界を感覚で捉えると、こんな感じになるのかもしれませんね。

今回ご紹介した中で、特に注目すべき内容は、「エネルギー」について触れていることです。

 

エネルギー。

 

エネルギーの世界に一歩踏み込むと、それまでの世界とは全く別の世界が開けることを、「奇跡の脳」は示唆しています。

 

これが、第7チャクラ「サハスラーラ・チャクラ」を理解する鍵です。

 

次回も、もう少し、「奇跡の脳」が体験した驚きの世界を見ていきましょう。

 

 

 

 

至上の御方よ ブラフマンとは何か

そして真我とはどんなものか

また カルマとは 物質現象とは

いわゆる神界とはどんな所か 説明して下さい

 

供犠を受ける主は我らの肉体の中の

どの部分にどのようにして住んでいるのか

信仰を持ち修行や供犠をしている者が死ぬ時

あなたはどのようにして会って下さるのですか?

 

ブラフマンは不壊不滅にして

永遠無限の実在ーー

宇宙に遍満する大霊である そして

万有を生み出す創造(生命)エネルギーをカルマという

(バガヴァッド・ギーター第8章1-3)

 

 

チャクラについて(25)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)

前回まで何回にもわたり、第6チャクラが位置する「脳」について、最新の脳科学の研究成果より、数々の驚きの新事実をご紹介してきました。

 

今回から、肉体にあるとされているチャクラの最後の第7チャクラ「サハスラーラ・チャクラ」について理解を深めるために、興味深い本をご紹介したいと思います。

 

頭頂にある「サハスラーラ・チャクラ」は、”この世とあの世をつなぐ門である”と、スワミ・ラーマも著書「聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の中で書いていますが、

それではあまりに抽象的な表現であるため、私たち一般人には理解し難い部分があると感じます。

 

そこで、私たちの理解向上のためのヒントとして、これからご紹介するのは、再び脳科学の分野から、

ジル・ボルト・テイラー博士の著書「奇跡の脳」に書かれてある興味深い彼女自身の体験談です。

彼女は、37歳で脳卒中に倒れ、その後8年を経て「復活」。

左脳を損傷したために、言語野が働かなくなり、機能する右脳だけで生活する中で、それまで知覚していた世界からは想像もつかない驚きの体験をします。

 

その後、リハビリを重ねて、左脳の機能を回復させ、言語を取り戻した後、自らの体験を脳科学の視点から分析して発表し、

その内容は、世界に衝撃を与え、すぐに日本でも著書が紹介されたことから、すでにご存知の方もいらっしゃることでしょう。

 

それでは、左脳が機能しなくなると、どういうことが起きるのか?見ていきましょう。

 

 

脳卒中の最初の日を、ほろ苦さとともに憶えています。

左の方向定位連合野が正常に働かないために、肉体の境界の知覚はもう、皮膚が空気に触れるところで終わらなくなっていました。

魔法の壺から解放された、アラビアの精霊になったような感じ。

大きな鯨が静かな幸福感で一杯の海を泳いでいくかのように、魂のエネルギーが流れているように思えたのです。

肉体の境界がなくなってしまったことで、肉体的な存在として経験できる最高の喜びよりなお快く、素晴らしい至福の時がおとずれました。

意識はさわやかな静寂の流れにあり、もう決して、この巨大な魂をこの小さい細胞のかたまりのなかに戻すことなどできはしないのだと、わたしにはハッキリわかっていました。

至福の時への逃避は、外側に広がる世界と交わるたびに感じる、悲嘆と荒廃の重苦しい感覚への、唯一の対抗手段でした。

わたしは、正常な情報処理からかけ離れた、遠い空間に存在しているのです。

これまでの「わたし」は、神経が壊れた世界では生き残れなかったのです。

以前の、ジル・ボルト・テイラー博士なる人物は、今朝死んだのだ、と感じていました。

でもそうすると、残された(left)のは誰?あるいは、大脳の左半球がだめになった今となれば、誰が正しい(right)の?というべきでしょうか。

言語中枢は、「わたしはジル・ボルト・テイラー博士。神経解剖学者です。

この住所に住んでいて、この電話番号でつながります」と語ってくれません。

だからわたしは、もう”彼女”でいる義務を感じないのです。

それは本当に奇妙な知覚のズレで、彼女の好き嫌いを思い出させる感情回路もないし、重要な判断の傾向について思い出させてくれる自我の中枢もないので、わたしはもう、彼女のようには考えられないのです。

実際、生物学的な損傷の大きさを考えれば、ふたたび彼女に戻るなんて、ありえないことだったのです。

頭のなかの新しい視点からは、ジル・ボルト・テイラー博士はあの日の朝に死んで、もはや存在しません。

彼女の人生ーー人間関係、成功や失敗ーーを知らないのだから、わたしはもう、むかしに彼女が決めたことや、自ら招いた制約に縛られる必要はないのです。

わたしは左脳の死、そして、かつてわたしだった女性の死をとても悲しみはしましたが、同時に、大きく救われた気がしていました。

あのジル・ボルト・テイラーは、膨大なエネルギーを要するたくさんの怒りと、一生涯にわたる感情的な重荷を背負いながら育ってきました。

彼女は、仕事と自己主張についてはあくまで情熱的で、ダイナミックな人生を送ることにこだわり続けた女性です。

ですが、好ましく、そして称賛にも値する個性であっても、今のわたしは彼女の心に根を張っていた敵対心を受け継いではいません。

わたしは、兄と彼の病についても忘れ、両親と、両親の離婚についても忘れ、仕事と、ストレスの多い人生のすべてを忘れていました。

そして、この記憶の喪失によって、安堵と歓びを感じたのです。

わたしは、せっせと多くの物事を「やる」ことに打ち込みながら、37年の生涯を費やしてきました。

でもこの特別な日に、単純にここに「いる」意味を学んだのです。

左脳とその言語中枢を失うとともに、瞬間を壊して、連続した短い時間につないでくれる脳内時計も失いました。

瞬間、瞬間は泡のように消えるものではなくなり、端っこのないものになったのです。

ですから、何事も、そんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。

波打ち際を散歩するように、あるいは、ただ美しい自然のなかをぶらついているように、左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わっていったのです。

小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました。

言葉で考えるのをやめ、この瞬間に起きていることを映像として写し撮るのです。

過去や未来に想像を巡らすことはできません。

なぜならば、それに必要な細胞は能力を失っていたから。

わたしが知覚できる全てのものは、今、ここにあるもの。

それは、とっても美しい。

 

「自分であること」は変化しました。

周囲と自分を隔てる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。

ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。

もちろん、わたしは流れている!わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間のかなで振動する原子と分子からできているわけですから。

言語中枢のなかにある自我の中枢は、自己(セルフ)を個々の、そして固体のようなものとして定義したがりますが、自分が何兆個もの細胞や何十キロもの水でできていることは、からだが知っているのです。

つまるところ、わたしたちの全ては、常に流動している存在なのです。

左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。

今ではその堅苦しい回路から解放されて、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。

もう孤独ではなく、淋しくもない。

魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。

自分を流れとして、あるいは、そこにある全てのエネルギーの流れに結ばれた、宇宙と同じ大きさの魂を持つものとして考えることは、わたしたちを不安にします。

しかしわたしの場合は、自分は固まりだという左脳の判断力がないため、自分についての認知は、本来の姿である「流れ」に戻ったのです。

わたしたちは確かに、静かに振動する何十兆個という粒子なのです。

わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界のなかの、流体でいっぱいになった嚢(ふくろ)として存在しています。

嚢なる存在は、異なる密度の分子で構成されている。

しかし結局のところ、全ての粒子は、複雑なダンスを踊る電子や陽子や中性子といったものからつくられている。

あなたとわたしの全ての微塵(イオタ)を含み、そして、あいだの空間にあるように見える粒は、原始的な物体とエネルギーでできている。

わたしの目はもはや、物を互いに離れた物としては認識できませんでした。

それどころか、あらゆるエネルギーが一緒に混ざり合っているように見えたのです。

視覚的な処理はもう、正常ではありませんでした。

(わたしはこの粒々になった光景が、まるで印象派の点描画のようだと感じました)』

(奇跡の脳  ジル・ボルト・テイラー

 

 

 

言語を司る左脳が機能しなくなっただけで、こんなにも知覚する世界が変わってしまうことに驚きますが、

次回も、ジル・ボルト・テイラー博士の体験した「世界」と「わたし」についての驚きの報告を、引き続き見ていきたいと思います。

 

 

 

物欲 肉欲をすべて放棄した人

諸々の欲望から解放された人

偽我なく 所有感をもたぬ人

このような人だけが真の平安を得る

 

これが絶対真理(ブラフマン)と合一する道

ここに達すれば一切の迷妄(まよい)は消える

臨終の時においてすらここに到れば

必ずや無限光明の国に帰入する

(バガヴァッド・ギーター第2章71-72)

 

 

チャクラについて(24)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) リカ―ジョンの矛盾

何回にもわたって、脳科学の最新研究によって解明されてきた人間の脳の働きや「心」について、ご紹介してきました。

 

通常の常識では考えられないような新事実が次々と明らかにされていく中で、ひとつだけはっきりとしていることは、これまで人間がこうだとしてきたことが、どうもそうではないらしい、ということです。

 

”自分が意図するよりも数秒前に、すでに行動の準備がなされている”という事実は、これを物語っています。

つまり、「自分」が意図しなくても、行動は起きる、ということになりますから、

意図する「主体」としての自己は、一体、どこで何をしているのか?と不思議な気持ちになりますね。

 

この「主体」としての自己「わたし」が、行動、感情、思考の司令塔で、すべてをコントロールしている、と(わたしは)思っているのですから、脳科学が実験により検証した事実とは違っている、ということは、正に驚き以外の何ものでもないでしょう。

 

それでは、「わたし」とは一体、どんな存在なのでしょうか?

 

夜寝ている間は、「わたし」という意識はありません。

 

それは、脳が休息中であるため、と言われていますが、裏返して言うならば、「わたし」という意識は、脳が活動している間だけの意識ということになり、別の言葉では、「顕在意識」ということになります。

 

前回の記事では、「潜在意識」は心の表層に浮かび上がってこないので、私たちの表面上の意識「顕在意識」にはわからない、というような内容をご紹介しました。

 

そして、この潜在意識は、幼年期など、まだ記憶能力が発達していない段階での体験が、記憶の層の深いところに蓄積保存されることから、

普段は、私たち自分自身は気が付かないのですが、「わたし」という顕在意識の気づかないところで、行動、感情、思考に影響を与えている、ということでした。

 

最近の研究では、覚醒時においては、ノルアドレナリンセロトニンヒスタミンオレキシンメラトニン、などの神経伝達物質が、

『中脳橋被蓋から生じる複数の上行性経路と呼ばれている視床および大脳皮質に到達するまでのあいだのニューロンに投射され、

その途中にある視床下部や前脳基底部などの各レベルで付加的な入力が合流して増強され、

これらの経路はさまざまな状況において、それぞれが独自のパターンで活動することによって、

大脳皮質のニューロンの活動を適切に調整していると考えられる。:』ということがわかっているそうで、

これらの神経伝達物質が複雑に絡み合って、「目覚めている状態」「寝ている状態」「夢を見ている状態」という3つの意識状態を造り出していることがわかっています。

 

しかし、この「目覚めている状態」における脳の働き全体が、「わたし」という自我意識を造り出しているという構造を客観的に理解できても、

それがそのまま、「自己の不在」に結びつくわけではありません。

 

その理由は、池谷裕二さんが指摘されているように、「自分が自分を考える」という思考が、リカ―ジョンという入り子構造になっているからです。

 

その上、「自分」が「自分はいない」と言うことは、単純に考えても、矛盾している、ということは、明らかです。

 

このようなリカ―ジョンの矛盾について、池谷裕二さんの説明を見てみましょう。

 

 

『最後にリカ―ジョンについて、さらに深く考えてみようか。

リカ―ジョンという行為は、実は、危険なんだ。

なぜなら、リカ―ジョンは矛盾を生むからだ。

ラッセルのパラドックス」を知ってるかな?

ラッセルはイギリスの数学者かつ科学者だけど、なぜかノーベル文学賞までもらっているから、なんとも多彩な人だ。

このパラドックスはリカ―ジョンを許すと生じる。

高校生のときにこのパラドックスを知って、僕はびっくりしたんだ。

これを説明するために、カタログを例にとって考えてみようか。

カタログって「集合」だよね。

たとえば「靴のカタログ」だったら「靴の集合」だ。

世の中には、クルマのカタログ、文具類のカタログ、などいろいろある。

そこで、ある人が新しいタイプのカタログを考えついた。

世の中にはカタログが溢れてきたから、どんなカタログがあるのかすぐに調べられるように、全カタログを網羅した「カタログのカタログ」をつくろうと。

「カタログのカタログ」ということは、この「カタログのカタログ」には自分自身も載せないといけないよね。

だって、すべてのカタログを網羅しているわけだからね。

となると、「カタログのカタログ」は自分を自分の中に持つという入れ子構造になる。

リカ―ジョンだ。

そこで、別のある人が、さらに考えた。

世の中には2種類のカタログがあるのではないかと。

①「自分自身が載っていないカタログ」、つまり、靴とかクルマとか、そういった具体的なモノを扱ったカタログ。

そして、②「自分自身もそこに載っているカタログ」、つまりカタログのカタログ、の2種類だ。

だったら、①のタイプ、つまり自分自身が載っていないカタログだけを集めて、改めて、新しいタイプのカタログ③をつくりましょう、と。

こうして新たなカタログが完成した。

いいね?③「自分自身が載っていないカタログをすべて載せたカタログ」だ。

さて、ここで質問しよう。

この新型カタログには自分自身は載っているだろうか。

 

→ 自分自身が載っていないカタログを集めてきて。。。。

 

そう、いわゆる普通のカタログを、世の中からすべて集めてきてカタログをつくった。そのカタログの中には自分自身は載っているだろうか、という質問。

 

→ うーん。。。。

 

あはは、直感的にはどっち?

 

→ 載っていない・・・

 

そうだよね。

だって、自分自身が載っていないものだけを集めてきてつくったカタログだから、載ってないはずだよね。

つまり、「載ってない」。

載ってないすべてのものを集めてきたわけだね。

でも、もうこの仕掛けがわかったね。

一歩引いて考えると不思議だ。

載ってないカタログをすべて集めてきたカタログなんだから、もし、そこに自分自身が載っていなかったら、そのカタログ自身もそこに載っけなくてはならない。

だって、そういうものをすべて集めてきたんだもんね。

わかるよね。だから、実は、そのカタログ③のルール上、載せる必要があるの。

でも、もし載せてしまったら、今度は自分自身が載ってるんだから、定義上、そこに乗せてはいけないカタログになってしまうよね。

そのカタログ③は、自分自身が載っていないカタログを集めたカタログなんだから。

つまり、載せても載せなくても、どちらにしても矛盾してしまうんだ。

パラドックスだ。

何がいけなかったかというと、リカ―ジョンだね。

リカ―ジョンしたからマズいことになってしまったわけ。

リカ―ジョンをする集合体は必ず矛盾をはらんでしまう。

どこかで論理破綻が生じる。

ラッセルは、「リカ―ジョンの矛盾からは絶対に逃げられない」という認めたくない運命を、数学的に証明してしまった。

 

脳を使って脳を考えることは、その行為自体が矛盾を孕む。

リカ―ジョンというスパイラルの悪魔に、どうしようもなくハマってしまう。

脳を駆使して脳を解明するのは、まさに自己言及であって、ラッセルのパラドックスが避けられない。

僕ら脳科学者のやってることは、そんな必然的に矛盾をはらんだ行為だ。

だから、脳科学は絶対に答えに行き着けないことを運命づけられた学問なのかもしれない。

一歩外に出て眺めると、滑稽な茶番劇を演じているような、そういう部分が少なからずあるのではないかなと僕は思うんだ。

ということは、こんな逆説的な言い方もできるよね。

「脳」を扱う科学は、そのリカ―ジョンの性質上、もしかしたら、”ゴールがない”ものかもしれない。

だって脳を脳で考える学問だから、その論理構造上、そもそも「解けない謎」に挑んでいる可能性があるってわけ。』

(単純な脳、複雑な「わたし」 池谷裕二

 

 

謎だとして疑問に感じている「わたし」が、その謎を解く、というのも、一種のリカ―ジョン(入り子構造)と言えます。

 

自問自答が繰り返される、というリカ―ジョンのスパイラルに入り込んでしまわないためには、どうしたら良いでしょうか?

 

脳科学は、ミクロ的な視点で「わたし」、或いは、「人間」を考えるひとつの方法としては、多少なりとも役に立つでしょう。

 

次回からは、マクロ的な視点に戻り、リカ―ジョンのスパイラルに陥らないように、第7チャクラについて見ていきたいと思います。

 

 

 

無数の河川が流れ入っても

海は泰然として不動である

様々な欲望が次々に起こっても

追わず取りあわずにいる人は平安である

(バガヴァッド・ギーター第2章70)

 

 

チャクラについて(23)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 無意識の構造

前回は、脳における「リカ―ジョン」(再帰)という「自分で自分について考える」という一見矛盾した脳の構造について、ご紹介しました。

”自分の心や存在を不思議に思ってしまう、あるいは「自分探し」をしたくなってしまう僕らの妙な癖は、リカ―ジョンの反映だ。

リカ―ジョンができるから、心で心を考え、そのまた考えている心をさらに心で考え、というような入れ子構造が生まれる”とありましたが、

まさにこの構造は、スピリチュアルな探求においては、当たり前にように生じており、誰でも、このリカ―ジョンのスパイラル・ループに陥ってしまいがちです。

 

「人間とは何だろう?」「自分とは何だろう?」「わたしは誰か?」

などは、この典型的なものと言えるでしょう。

 

リカ―ジョンの中で、その答えを求めているのが、私たち人間なのでしょう。

 

古今東西多くの人々が、この問いに対する答えを求めて、探求をしてきました。

 

自問自答の世界を抜け出るには、明らかなのは、脳で考えないことです。

 

思考を使っていくら考えても、リカ―ジョンの無限のループに陥るだけと理解できれば、別の方法を探すしかありません。

 

今回は、まとめとして、これまで連続でご紹介してきました脳科学の最前線から見た「意識」と「無意識」について、ご紹介したいと思います。

 

 

『だれしも好き嫌いがあるよね。

好きな食べものとか好きな人のタイプとか、そういう自分の好き嫌いも、結構、無意識のうちにつくられたものなんだろうね。

かつて僕が研究で使っていた実験動物で「スンクス」という動物がいる。

スンクスはネズミみたいに見えるけれど、ネズミではない。

モグラの仲間で、ネズミとは違った能力を持っている。

たとえば、吐く。

嘔吐する能力がある。

ネズミやウサギは吐かないよね。

あるときこんな実験をやった。

スンクスに砂糖水だけをあげる。

ネズミも同じだけど、スンクスも甘いモノが好き。

だから、水と砂糖水を並べて置いておくと、砂糖水を好んで飲む。

そこで、意地悪をしてみたの。

飲んだ後に吐かせるんだ。

どうやって吐かせるかというと、ゆする。

ゆするって、たかるって意味じゃないんだよ。

 

→ ・・・・・(笑)

 

物理的に揺り動かすってことね。

すると乗り物酔いになって、一分くらいでゲロを吐くの。

砂糖水を飲んだら、その直後に揺らして吐かせるんだ。

すると、次回からスンクスは砂糖水を飲まなくなる。

僕らヒトも、カキにあたって吐いたことがあれば、カキを嫌いになったりするでしょう。

ヒトの場合は「カキを食したからあたった」という因果関係が意識に上がっているけれど、スンクスはどうなんだろう。

少なくともこの実験では、砂糖水を飲んだから吐いたわけではないよね。

でも、砂糖水と嘔吐が時間的に接近して起こると、次回から、砂糖水を避けてしまう。

そこには因果関係は要らない。

ヒトの心の形成もそんなものではないかな。

好き嫌いも、実は、無根拠なもの、あるいは誤解に基づいたものも結構あるだろうと思う。

ヒトで試した実験例もある。

赤ちゃんのそばに白ウサギのぬいぐるみを置く。

脳にはバイオフィリア(生き物が好き)という性質があって、赤ちゃんは白ウサギのぬいぐるみに好奇心を示して寄って行く。

そこで、白ウサギのぬいぐるみに触ったら、その瞬間に、背後でドラをドーンと鳴らす。

赤ちゃんは大きな音は嫌いなので、泣き出してしまう。

また白ウサギのぬいぐるみに触ろうとしたらドーン。

そんなことを何度も続ける。

やがて赤ちゃんはそのぬいぐるみが嫌いになって、もはや近寄ろうとしなくなる。

 

この実験で興味深いのは「汎化」だ。

汎化とは対照を拡張して一般化すること。

たとえば、この赤ちゃんの場合、ウサギのぬいぐるみだけが嫌いになるのではなくて、それに類似したものまで嫌いになってしまう。

実物の白ウサギも嫌いになってしまう。

それだけでなく、白いもの全般が嫌いになったりする。

白いネズミも嫌うし、白衣を着た看護婦さんも嫌いになるし、白髭のサンタクロースも嫌いになる。

そんなふうに汎化によって好き嫌いの「世界観」が形成される。

もしかしたら、この赤ちゃんは成長した後も、この実験のせいで白いものが嫌いなままかもしれない。

成長したあと、本人には好悪の理由はわからない。

もの心がつく前に条件づけされているからね。

そんな具合に、僕らの感情や嗜好は、知らず知らずのうちに、まったくあずかり知らぬ原因によって、すでに形成されちゃっている可能性がある。

逆に言えば、この無意識のプロセスをうまく解明できれば、君が今言ってくれたように、精神疾患やトラウマの治療に応用できるだろう。

じゃあ、次は。

 

→ 自分が行動したいと思うよりも先に、前頭葉で意志を準備しているということは、自分が考えているつもりでも、脳の内部の方から、作為的に「こうしろ」と言われている感じで、自分の思考がコントロールされているんじゃないか・・・。

自分の思考ってどこまで本当に自分が考えていることなのか、自分で行動していると思っていても、マイオネットにすぎないんじゃないか。。。。

 

うーん、そうだね。

僕の講義では「操られている」という点を強調した。

いや、もしかしたら強調しすぎてしまったかもしれない。

でも、よく考えてみるとわかるけれど、その操っている本体は、結局は、自分の脳にほかならない。

だから、別に操られているわけではなくて、やっぱり自分が行動しているんだね。

単に無意識にスタートしているだけだ、というふうに考えてみたらどうだろう。

少しは気持ちが楽になるかな?

 

→ 準備されているものに対して、自分の体は応じるだけだとすると、自分の完璧な意志と言えるのはどこまでで、自我はどこまで意識できるのか。

そうやって考えていくと、やっぱりこんがらがってきますね。

 

少なくとも言えるのは、僕らは自分が思っているほど自由ではないということだ。

自由だと勘違いしているだけ、という部分はかなりある。

でも、「自由」は感じるものであって、本当の意味で「自由」である必要はない。

だから、僕らは「自由意志」をすでに感じて生きているんだから、もうそれでいいではないか、それ以上僕らは何を欲するんだ、という言い方もできるね。

ただ、心に自然とわき起こる感情など、自由にならない部分もいっぱいあることは知っておいて損はないよね。

たとえば、ひどい嫌がらせをされたら、だれだってムッとくるでしょ。

自動的にね。

「僕には自由意志(あるいは自由否定)があるから、怒らない権利を行使しよう」なんてのは無理だよね。

ムッとしてしまう。

しかも、タチが悪いことに一度、怒ってしまうと、なかなか怒りはおさまらない。

「よし、3秒後には怒りを消そう」と念じても、すぐにはおさまらない。

そういうふうに感情は自由ではない。

よく「あのガキ、気にくわないから叱ってやったよ」なんてエラそうにいうオヤジがいるけれど、でも、それは勘違いだ。

自動的に怒りがわいてきて、その感情に従って𠮟っただけ。

でも、本人は教育してやったつもりになっている。

ただそれだけだよね(笑)。

こうした不自由は、もちろん悲しむべきことじゃない。

すべてを意識で制御していたら大変なことになる。

すぐに頭はいっぱいいっぱいになってしまう。

だって、箸をつかむだけでも何十という筋肉が精密に動いているわけでしょ。

一個一個の筋肉の動きまで、すべてを意識して計算していたら、たまったものじゃない。

無意識に任せた方が、はるかにラクではないかと思うわけ。

 

→ こじつけで自分の思考を歪めているんだったら、自分の考えというのも、自分がほんとに考えていることそのものじゃなくて、周りの状況に迫られて無理やりつくった結果として出てきたものなのか。。。

 

そうそう。

いいこと言うねえ。

結局は「主体性」とは一体何だろうということになってくる。

芸術における目新しさ、奇抜性、新奇性なんかもそう。

まったくの無から新しい作品をつくりあげるかというと、そんなことはない。

絵画だって、映画だって、音楽だって、詩だってそう。

本人が気づいているいないにかかわらず、やはり「借りもの」が多いでしょう。

イデアのコラージュ。

そういうことと関係ないかな。

 

→ 操られているマリオネットが、操っている無意識に作用することもできるわけですよね。

考え方を変えうるということは。

だから、必ずしも完全に操られているとは言い切れないんじゃないか。。。

 

→ 自分で自分を操っているということで、自分を操っているのも自分、操れているのも自分ってことなんじゃないの。。。

 

あはは、そうそう、そうやって、なんだか話がこんがらがってしまうね。

そういう心の作用が、無意識の世界で生じるている以上、そこで何が起こっているかは、正直、僕たち脳科学者にもつかみきれない部分が多い。

その辺の研究はこれから著しく進歩するはずだから、10年後に改めて講義をやったら、そのときには「こんなところまでわかったんだぞ!すごいね」と説明できるかもしれないね。

ただ、君らの後輩、未来の高校生にね(笑)。』

(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二

 

 

 

これまで脳科学者、池谷裕二さんの著書から、

スピリチュアル的な観点からも説かれてきたテーマについてご紹介してきましたが、

脳科学が明らかにした人間の「心」の構造を垣間見ただけでも、

最近、スピリチュアルな世界で何人かの人が語って、認知度が高まっている「ある世界観」と類似していることに驚きます。

 

それは、最近では、「ノン・デュアルティ(非二元)」と言われていますが、

古くは、インドのウパニシャッドで説かれた「アドヴァイタ(不二一元)」です。

(ただひとつがあるのみ。)

 

仏教でも、釈迦の教えのひとつに、「諸法無我」というものがありますが、

これは「すべてのものごとは我ならざるものである」という意味だそうで、

「主体」としての「わたし」、自由意志をもった「わたし」の不在を説いています。

 

このようなスピリチュアルな世界観と、最新の脳科学が明らかにしつつある私たち人間の脳の仕組みから考えられる数々の仮説とが、不思議と一致しているのも、興味深いことだと言えるでしょう。

 

アドヴァイタ(不二一元)を完全に理解することは、人間(の頭)にとっては、不可能と言えます。

それは、理解しようとしても、理解しようとする頭に、リカ―ジョンが起こるだけで、「ただひとつがあるのみ」というアドヴァイタは、頭(思考)で理解しようとしても、できないからです。

 

このリカ―ジョンの入り子構造を打破するには、頭を使って理解するのではなく、他の方法が必要であることは、言うまでもないでしょう。

 

この方法については、後日、ご紹介する予定です。

 

 

 

 

あらゆる生物が夜としているときは

物欲を捨てた賢者にとって昼である

あらゆる生物が昼としているときは

見真者にとっては夜である

(バガヴァッド・ギーター第2章69)

 

チャクラについて(22)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 脳のリカ―ジョン(再帰)

前回の記事で、脳科学の側面から見ると、

「心」とは、フィードバック処理のプロセス上、創発の産物として、自動的に生まれてしまうもの、

という脳科学者、池谷裕二さんの「単純な脳、複雑な「私」」からの驚くような一説をご紹介いたしましたが、

今回は、その私たちの「心」のほとんど知られていない構造について、最新の脳科学研究の成果から導き出された興味深い説をご紹介したいと思います。

 

 

『さて、講義の残されたわずかの時間を使い、なぜ僕らが「心」を不思議に感じてしまうのか、その原理について、もう一歩、踏み入ってみよう。

フィードバック回路の特殊なタイプである「リカ―ジョン」の効果を考慮すると、その核心が見えてくる。

そもそも、僕らが「脳はどんなしくみなんだろう」と考えるとき、そう、これが連続講義のテーマだよね。

でも、この問題について考えるとき、その奇妙な姿勢に気づかない?

ここには自己言及の構造があるでしょ。

「脳」を考えるとき、当たり前だけど、自分の「脳」を使って「脳」を考えているよね。

このロジックの利点、あるいは落とし穴には、気をつけないといけない。

 

→ 自分で自分を。。。。

 

そう。

こういう構造を「入れ子構造」と言うね。

あるモノの中に同じモノが入っているという構造。

英語では「リカ―ジョン(recursion)」と言う。

日本語だと「再帰」と訳すのかな。

脳においては、このリカ―ジョンがポイントで、脳は考えているし、その脳をまた脳が考える。

つまり「リカ―ジョン=再帰」する。

ロシア人形のマトリョーシカを知ってるかな?

 

→ 人形の中に人形が入っているヤツ。

 

そう。

木製の人形を開けたら、中に自分とそっくりな小型の人形が入っている、その人形を開けるとさらに小型のよく似た人形が出てくる。。。それが何個も出てくる。

あれと似ているね。

通常のフィードバックでは、情報が一旦は外に出て、それが再び自分に戻って来るんだけど、リカ―ジョンは、出力先がダイレクトに自分自身だよね。

直接型フィードバックだ。

さて、リカ―ジョンがあると何ができるか。

脳がリカ―ジョンできるという能力は、いろいろな側面で役立っている。

たとえば僕らは数を数えることができるよね。

<数える>という行為はリカ―ジョンだね。わかるかな?

僕らは1+1=2と覚える。

動物でも高等哺乳類ならば1、2、3、4という数字の並びを認識できる。

でも、彼らは「1は1」「2は2」「3は3」というふうに、数を独立して覚えているようなんだ。

本質的な連続性がない。

「3は2の次の数字で、2は1の次の数字」という、繰りこみ的な相関の中で、「数字」を捉えることができるのはヒトだけみたい。

つまり、リカ―ジョンとして数字を捉えるのはヒトだけだということ。

2は1の次の数字であって、

1+1=2

だよね。3は2の次だから、

2+1=3

だけど、そもそも2自体が、1の次だから、これを書き直すと、

(1+1)+1=3

となる。

これは「1の次の次の数字」という意味だね。

つまり、自分に自分を足して、さらに自分を足している。

リカ―ジョン、入れ子構造になっているでしょう。

同じように、

|(1+1)+1|+1

これが4という数字だ。

こういうふうに数字をひとつの数字だけで展開できる。

すべての自然数は入れ子構造を多層にすることによって表現できる。

つまり、僕らはリカ―ジョンを通して、自然数に関して、1、2、3、4・・・とその順位制と階層性を認識している。

リカ―ジョンが可能なのはたぶんヒトだけ。

チンパンジーも教え込むと一階層くらいのリカ―ジョンはできるようになるみたいだけれど、繰り返しをずっと続けることはできない。

僕らヒトのリカージョン能力のすばらしさは、何層にもわたって入れ込むことができる点にある。

そう、無限に入れ込むことができる。

僕らはリカ―ジョンを無限に続けられるから、桁数の多い数字でさえも理解できる。

サルに24783という数字が理解できるだろうか。。。

僕らのようには無理だろうね。

ここで、リカ―ジョンが僕らの想像力に、新たな相転移ーー気づきのブレイクスルーーーをもたらすことに気づいてほしい。

つまり、僕らはリカ―ジョンによって、はじめて「無限∞」という概念を獲得できる。

リカ―ジョンのできない動物は、「無限」なんて概念は理解できないだろう。

無限は実在しないからね。

ちなみに、ヒトでも幼少時は、まだリカ―ジョンがうまくできない。

成長の過程であるとき、自然に数字を操作できるようになる。

リカ―ジョンが自由に行えるようになる。

すると、その瞬間に「無限」の意味も理解可能になる。

君らも成長の過程で、「あれ?」って、無限の不思議に気づいた瞬間があると思う

 

→ 数字を数え続けていくとキリがないって思ったり。

 

そうそう。

あるいは、目の前の世界をどこまでも歩いていったらどこに行き着くのだろうとか、宇宙の果てはどうなっているのだろうとかね。

こういう「無限の不思議」にふと気づいて、急に怖くなった経験はだれにもあるはずだ。

その感覚を持った瞬間こそ、リカ―ジョンの能力を手に入れた記念すべき瞬間だ(笑)。

 

さて、リカ―ジョンによって「無限」の存在に気づくようになると、もうひとつ重要な概念を知ることになるね。

わかるかな。

 

→ 有限。

 

すばらしい。その通りだね。

僕らヒトは、おそらく地球上で「有限」を理解している唯一の動物だと思う。

たとえば地球上のエネルギー資源は限られている。

土地や食糧は無尽蔵ではない、とかね。

だから、ヒトは有限のものを奪い合って、醜い争いや無惨な戦争も起こしてしまう。

有限を理解したことによって、ヒトの欲望は過剰になった。

あるいは、「命」の有限性にも気づくよね。

「自分はいつか必ず死ぬ運命にある」と理解できているのはヒトだけ。

僕の飼っているイヌを見ていても、基本手にノウテンキで、自分はあと10年くらいで死ぬだろうな、なんて意識しているようにはとても見えない。

だから自殺なんて企んだりしない。

絶望もない。

わかるよね?

「有限」を知っているというメタ認識こそが、ヒトをヒトたらしめているというわけだ。

人間の心のおもしろさは、まさにそこにあると僕は思っている。

自分の心や存在を不思議に思ってしまう、あるいは「自分探し」をしたくなってしまう僕らの妙な癖は、リカ―ジョンの反映だ。

リカ―ジョンができるから、心で心を考え、そのまた考えている心をさらに心で考え、というような入れ子構造が生まれる。

リカ―ジョンができるから、「我思う。でも、その我って何だろう」と。

もう一段階深い<私>の内部へと入り込んでいくことができる。

もちろん、さらに深層の<私>も考えられる。

そんな複雑な多層構造の<自己>を人間は持っている。

でも、それは複雑に見えるだけのことであって、構造的には単なるリカ―ジョンの繰り返しだ。

ここで今日最後の問いが生まれる。

リカ―ジョンは、なぜヒトでのみ、可能になったのだろう?

答えは、おそらく言語だよね。

だって文法はリカ―ジョンの典型でしょ。

「タロウ君はキャッチボールをしている」というのは単純な主述の文章だけれど、「私は、タロウ君がキャッチボールをしているのを、見ていた」という入れ子構文になると、「主(主述)述」と主述がリカ―ジョンする。

さらに、「アトム君は、私が、タロウ君がキャッチボールしているのを、見ていたのを、怠けていると責めた」と多層的な構文さえもつくることができる。

言語は原理の上ではいくらでもリカ―ジョンをつくることができる。

ヒトは言語を獲得したから、視点を自在に移すことが可能となって。

一歩先の視点を得たら、今度はそれを基準に、さらに次へと視点を移すことができる。

自己投影の射程距離がぐっと伸びて、自分って何だろう、脳って不思議、命って有限だよなーーと考えることができるようになっていったのだと思う。

 

さらに言えば、この自己投影によって、僕らは自分に心があることを、自分自身で気付けるようになった。

しかも、その「心」を必要以上に神秘的に捉えるようになってしまった。

なぜ、神秘的かというと、「無限」という概念は、理屈としては頭で理解できるけど、実感としては理解できないからだ。

それは、ワーキングメモリの容量が限られていることが原因だ。

ワーキングメモリとは短期的な記憶のこと。

短期記憶ということは「今現在まさに意識に上がっている情報」でもあるから、僕らのの意識に密接に関係している。

ワーキングメモリには決定的な性質がある。

それは、同時に処理できる情報量が限られているということ。

僕らの意識にはキャパシティがあって、その限界容量は、測定方法にもよるのだけど、だいたい7つ前後だと言われている。

つまり、僕らが並行処理できることは7個まで。

厳密なことを言えば、容量は7に絶対的に固定されてはいないけれど。

でも、やってみるとわかるよ。

たとえば、7桁を超える数値を暗唱するのは、わずか30秒であっても、とってもむずかしい。

そして、ワーキングメモリの容量が一杯になると、僕らは精神的にアップアップになる。

小説やドラマでも、主要な登場人物が7人を超えると、ものすごく複雑なストーリーに感じられる。

というより、頭が混乱して物語のスジがわからなくなってしまう。

あるいは日常生活でも、「忙しくてテンパっているなあ」というときには、「やるべきことリスト」を書き出してみるといい。

だいたいは7項目をちょっと超えているくらいだから。

7個以下ならば落ち着いて対処できるけど、それを超えると急に「猛烈に忙しい」と感じて、どう対応していいのか戸惑って、焦りを感じる。

このようにワーキングメモリには処理容量の限界があって、飽和すると理解不能の不安状態に陥る。

これがヒトの意識の特徴だ。

さてと、僕の言いたいことが、そろそろ見えてきたね?

 

→ リカ―ジョンは無限に可能だから・・・・

 

そうそう、そこだね。

つまり自分の心を自分の心で考えるリカ―ジョンは、原理的には、無限に入れ込むことができるけど、でも、それを行う場であるワーキングメモリは、残念ながら、有限だ。

だから、リカ―ジョンはすぐに飽和しちゃう。

自分の心を考える自分がいる。

でも、そんな自分を考える自分がさらにいて、それを考える自分がいて・・・・とね。

そんなふうに再帰を続ければ、あっという間にワーキングメモリは溢れてしまう。

そうなれば、精神的にはアップアップだ。

だからこそ「心はよくわからない不思議なもの」という印象がついて回ってしまう。

でも、その本質はリカ―ジョンの単純な繰り返しにすぎない。

脳の作動そのものは単純なのに、そこから生まれた「私」は一見すると複雑な心を持っているように見えてしまう。

ただそれだけのことではないだろうか。

だから、自分の心を不思議に感じるという、その印象は、いわば自己陶酔に似た部分があって、それ自体は科学的にはさほど重要なことではない。

単にリカ―ジョンの罠にはまっただけだ。

つまり僕たちはこの3日間の連続講義で、リカ―ジョンの悪魔に足をすくわれないように気をつけながら、「心」を考える心構えというか、その最低限の作法を守りながら、リカ―ジョンを使って脳のしくみを解剖してきたわけだね。』

(単純な脳、複雑な「私」  池谷裕二

 

 

 

私たちが、自分自身の「心」について考えるときには、このようなリカ―ジョン(再帰=入り子構造)という仕組みを使って考えている訳ですが、

それは、脳の働きの容量によって有限であるため、いくら考えても終わりはない、という結論に達して、それで終わってしまいます。

 

つまり、結局は、考えても、何もわからない、ということになってしまうのです。

 

それは、私たち人間は、人間の脳の能力以上には考えることができない、

つまり、自我が自我を考えることは有限であるため、自我は自我を超えることができない、と言い換えることができるかと思います。

 

このように、思考には、限界があります。

 

次回は、これまでご紹介してきた脳科学の最前線の新事実のまとめをご紹介し、また、古今東西で実践されてきた第6チャクラ(脳)の活性法などもご紹介する予定です。

 

 

 

 

ゆえに剛勇の士アルジュナ

諸々の感覚をそれぞれの対象から

断固として抑制できる人の

覚智(さとり)はまことに安定している

(バガヴァッド・ギーター第2章68)

 

 

チャクラについて(21)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ)  心は脳の創発

これまで、脳科学者、池谷裕二さんの「単純な脳、複雑な「私」」から最新の脳科学の研究実験から導き出された興味深い結果についてご紹介していますが、

前回の記事でご紹介した内容は、脳の出力は、脳のゆらぎで決まる、というものでした。

 

今回は、その「脳のゆらぎ」はコントロールできるのか?という疑問について、その可能性についてご紹介します。

 

そして、更に、私たちの「心」について、脳科学から見た「心」の正体について、常識では考えられないような結論が導き出されます。

 

 

『さて、ここで、昨日、ゆらぎの話をしていたときに君が質問してくれて、そのときは答えを後回しにした話題、「脳のゆらぎをコントロールできるか」ということを取り上げてみよう。

実はこの問題は「構造を書き換える」ということと関りがある。

昨日の講義で、ゴルフのパットは脳のゆらぎにコントロールされているという話をした。

そのとき、「ゆらぎそのものを意志によってコントロールできるか」と言う疑問が出たよね。

覚えている?

仮にパーフェクトではないにしても、少しでも意識的に制御できさえすれば・・・・と。

ゴルフのパットでは、ゆらぎの具合が悪いと外してしまうのだったね。

悪い状態とは、前頭葉のアルファ波が多いときだけど、裏を返すと、アルファ波が少ないときにボールを打てばいいわけだ。

だから、真っ先に思いつくアイデアは、「脳波計を頭につけてプレイすればいい」という対応策だ。

グリーンの上で脳波計を見ながら「あっ、今アルファ波が少なくなった。チャンスだ!」と。

その瞬間に打ち始めればいいわけ。

でも、もっといい方法がある。

アルファ波を自在に操れればいいでしょ。

そうすれば、試合中に意識的に念じて、パットの一番入りやすい脳の状態に持っていって、そしてボールを打つことができる。

その極意を体得すればいいんだね。

結論から言うと、まさに期待通りで、実は、ゆらぎはある程度はコントロールできる。

ただし、訓練を積めば、という条件つきだ。

さて、どうやってアルファ波を減らしたらいいと思う?

 

→ 念じる。

 

おっと、じゃあ、君、今この場でアルファ波を減らしてみて。

 

→ できない(笑)。

 

ははは。そうだね。

でも、実は、僕はできる。

どうやってやると思う。

 

→ 想像もできません。。。。

 

そうでしょ。

では、なぜ、僕はできて、君らにはできないのだろうか。

その鍵を握るのが「フィードバック」だ。

フィードバックとは「情報を戻す」という意味だったね。

そもそも、なぜ君らはアルファ波を自由に減らせないのか。

その理由は一点に集約される。

それは「今、自分のアルファ波の強さを知らないから」だ。

知らないものをコントロールすることはできないでしょ。

ところが、知ってしまうとまったく話が変わってくる。

脳波計を使って、現在の自分のアルファ波の強さを記録する。

そしてモニターを見れば、今のアルファ波の強さがリアルアイムでわかる。

その状態で訓練を積むと、次第にアルファ波の量を自在にコントロールできるようになる。

自分の状態を測定して、測定した値を客観的に認知する。

つまり、脳の情報が再び脳に戻るループだ。

これってフィードバックだよね。

こういうループをつくることによって、脳波は制御可能になるんだ。

やってみるとわかるんだけど、はじめて脳波計を見た人でも、10分もあればアルファ波をある程度コントロールできるようになる。

僕は何度もやったことがあるから、アルファ波を出そうと思えば出せるし、抑えることだってできる。

まだ完璧ではないけれど、今では脳波計を見なくてもできるくらいだ。

やったことがない人にとってはまったくイメージがわかないでしょ。

でも一度やってみれば、「ああ、こういう具合か」と理解できる。

こういう測定装置が安く市販されたら、きっと楽しいよね。

 

ということで、意志は脳のゆらぎから生まれるけれど、と同時に、脳のゆらぎを調節することに、どうやら「意志」自体が積極的に関与できるのではないかと・・・これが一応、現段階の僕の感触だ。

普段は、脳の中の若干のランダムさと、環境から入ってきた情報の双方によって、ゆらぎが決定されてしまっていて、無意識のうちに惹起された行動を取る。

だから、行動がほぼ一義的に決まったり、あるいは、行動パターンの選択肢が限られたりして、僕たちは真の意味で自由意志がないように見える。

でも、トレーニングすれば、ゆらぎそのものを直接、意識的に変えることができるかもしれない。

それがフィードバックのおもしろさだ。

おもしろいだけではない。

フィードバックは日常生活に役立つのではと期待されている。

なぜなら、これは自分の状態をコントロールする技術だから。

興奮しやすいタイプの人が、落ち着け落ち着け・・・と、脳波計を使ってコントロールできたとしたら、すごく役に立ちそうだよね。

でも、より注目を集めている活用法は、脳ではなくて、身体の制御だ。

たとえば血圧。

たとえば、君、今、血圧を10ミリ水銀(mmHg)だけ下げてみて。

 

→ そんなこと言われても。。。。(笑)

 

あはは。できるはずないよね。

でも、もうわかるよね。

下げられない理由はなに?

 

→ 自分の血圧がわからないから。

 

その通り。

ということは、血圧計を使って「現在の血圧は115mmHg」などと表示させると、血圧を下げられるようになるはずだよね。

これは、実際、可能なんだ。

となれば、臨床応用できるでしょ。

高血圧治療として、普通は薬で血圧を下げる。

降圧薬を使う。

薬は有効だとはいえ、やっぱり副作用があったり、あるいは毎日忘れずに飲まなきゃいけなかったりで、大変なこともある。

でも、フィードバックを使うことによって、意図的に血圧を下げることができたら、すばらしいね。

副作用もないし、治療費もかからない。

まあ、寝ているあいだは制御できないという欠点もあるのだけれどね。。。

 

フィードバックが欠けたシステムは自己制御できない。

その代表的な例は「自律神経系」だ。

 

→ 心臓を動かしたり。。。

 

そうだね、心拍数を調節したり、あるいは胃酸を出したり、汗をかいたり、そういう内臓や皮膚を支配する神経系のことを自律神経と言うね。

血圧もそのひとつだ。

「自律」という言葉は「意志とは無関係に独立して作動している」という意味。

つまり、「意識的にはコントロールできない」という意味だよね。

でも、本当はそうではなくて、自律神経系には意識に上がるフィードバック機構が備わっていない、だからコントロールできないだけのことだ。

実際には、計測器をつかった人工フィードバック装置さえあれば、血圧は制御可能だ。

この意味では、もはや自律神経系は「自律」ではない。

きっと血圧だけでなく、胃酸の分泌も、発汗の量も、気管支の太さも、トレーニング次第でコントロールできるようになるだろうね。

ということで、フィードバック回路が、僕らの意識制御にとって、いかに重要かがわかってもらえると思う。

ここで改めて思い返してほしいのだけど、一昨日の講義の話も、これと同じ構図をしているよね。

「自分が行動している」様子を脳がモニターして、「自分がやっていること」の目的や意味が理解できる。

これも一種のフィードバックでしょう。

自分の心臓がドキドキしている、あるいは自分がギタリストのマネをしているのを見て、あっ、なるほどこういうことか、と自分をわかる

これはフィードバックだ。

もちろん、幽体離脱も一種のフィードバックだ。

外から自分を眺めて自分を知る。

つまり、僕らの「心」はフィードバックを基礎にしている。

これが意味していることはわかるかな。

今日は、脳の中身を顕微鏡レベルで眺めると、ニューロンの回路はフィードバックになっているという話をした。

そのフィードバックの回路から発火活動の「創発」が生じる。

同期発火のベキ則など、創発は驚愕の現象だったよね。

創発とは、数少ない単純なルールに従って、同じプロセスを何度も繰り返すことで、本来は想定していなかったような新しい性質を獲得すること。

http://bluebacks.kodansha.co.jp/special/brain_move10.html

<ラングトンのアリ>素子と環境の相互作用の動画)

と同時に、僕ら自体もまた、身体や環境や幽体離脱を介して、フィードバックの回路になっている。

だから、やはり創発を生む。

その創発の産物のひとつが「心」だ。

だからこそ、「心」は予想外な産物だったし、それゆえに、崇高でさえある。

でも、創発は、実のところ、驚くほど少数の簡素なルールの連鎖で勝手に生まれてしまうもの。

それを、僕らが一方的に「信じがたい奇跡」に触れたかのように、摩訶不思議に感じているだけ。

つまり、脳は「ニンゲン様に心をつくってさしあげよう」などと健気に頑張っているわけではない。

心は、脳の思惑とは関係なく、フィードバック処理のプロセス上、自動的に生まれてしまうものなんだ。

そして、その産物を、僕らの脳は勝手に「すごい」と感じているわけ。

僕らが一方的に脳の創発性に驚いているだけのこと。』

(単純な脳、複雑な「私」  池谷裕二

 

 

 

今日ご紹介した脳科学で解明されてきた新事実を踏まえると、

私たち人間が、行動したり、欲したり、感じたり、感情を持ったり、考えたり・・するのは、「心」があるからだと思っているわけですが、

実は、この「心」は自動的に生まれてしまった脳の創発の産物であるというのですから、本当に驚き以外の何ものでもありません。

 

私たちは、自分の「心」=「わたし」だと思っていますから、人間にとっては、「心」はとても大切なものなのですが、

しかし、今日ご紹介した内容は、実際には、脳、いえ、身体の中の何処にも、そのような主体的な存在はいない、ということを示唆しています。

 

私たち人間は、脳を介して「自分(人間)」を客観的に体験(認識)しているので、

その認識のフィードバックのプロセスの過程で、「心」=「わたし」が生まれてしまう、ということを著者は語っています。

 

次回は、「心」について更に理解を深めるために、この「心」のカラクリについて詳しく解説されている部分をご紹介したいと思います。

 

 

 

 

水の上を行く舟が

強い風に吹き流されるように

諸感覚のただ一つにさえ心ゆるしたなら

人の知性(ブッディ)は忽ち奪われてしまうのだ

(バガヴァッド・ギーター第2章67)