真の師である完全に覚醒したマスターに出会うには?
自分の内側に、神が宿ったならば、師(グル)は必要ではありません。
真のグルは、内なる神であることは、言うまでもありません。
しかし、まだ内側に神が宿っていないなら、心の中に神が灯となって灯るまで、
探求者にとって、目に見える形の師(グル)は必要です。
それは、エゴは気まぐれであり、その声に従って人生を享楽的に送っていると、
真の人生の目的を忘れてしまい、短い今生での人生が終わる時には、何もわからず、
真理を掴むことなく、肉体を離れていくしかない、ということになるからです。
そして、それですべてが終わるわけではなく、真理を掴むまで、この世に戻って来て、
再び、人間を生きなくてはならなくなる、ということが起きるのです。
このことについては、また別の機会にお話ししたいと思いますが
今回は、前回の記事の続きをご紹介させて頂きます。
「自らが良い生徒であるなら、決して悪いグルに出会うことはないだろう。
しかしその逆もまた真であり、悪い生徒であるなら、良い師に出会うこともない。
どうして良い師が悪い生徒をうけおおうとするだろう。
誰もゴミを集めようとは思わない。
グルを探すなら、まず自らの内を探すことだ。
ヨギになるとは、今ここで自分のおかれた状況を知り、自ら参与することだ。
師がいないと不平を言ってはいけない。
自分がそれに値するか問うことだ。
師を引きよせるだけの力があるだろうか。
かつて師に、私に教えを授けないと文句を言ったことがある。
師は言った。
「来なさい、これから私がおまえの弟子をやる。おまえは師をやりなさい。
ふだん私がしているようにふるまいなさい」
私は言った。
「マスター、どうすればいいか分かりません」
「心配するな、ちゃんと分かる」
師は両目を閉じて私の前に来て、大きな穴の開いた器を手にして言った。
「マスター、私に何かください」私は答えた。
「私に何が与えられると?
その器には穴が空いているというのに」すると、師が目を開けて言った。
「おまえは頭に穴が空いているのに、私から何かえようとしているのだ」
技量を高めること。身を浄めること。内に静かなる強さを培うこと。神が訪れ、こう言うだろう。
「君という生ける寺院に宿りたい」そのときのため、自らを整えることだ。
不純なものをとりのぞいたときはーー真理を知りたいと思った者が、真理の源泉という自分自身であったのを知るだろう。
あらゆる信条のスワミや師にたくさん出会ったが、完全に覚醒していたのはごくわずかだ。
師にこの問題を持ちだしたことがある。
私は言った。
「マスター、あまりに多くの人がスワミや聖者と呼ばれています。
世の人びとはだまされています。
真に師になる準備のできていない師、彼ら自身いまだ弟子である不十分な師が、これほど多くいるのはなぜですか」
師は笑みを浮かべ言った。
「花咲く庭の周囲には、庭園を守る塀や囲いがあるだろう?
そうした人々は、私たちを護るため主が創られたものだ。
彼らにはふりをさせておきなさい。
いつかは彼らにも、まさに完全に悟る日が訪れよう。
今のところは自分をあざむいているだけだ」
真のグル、完全な叡智の師に出会いたいなら、まず自らを整えねばならない。
そのとき、囲いを超えるだろう。」
(ヒマラヤ聖者とともにー偉大なる霊性の師と過ごした日々 スワミ・ラーマ)
この世の中には、自称マスター・覚者を自負する人びと、スピリチュアル・リーダーを装っている人びと、いろいろな人がいます。
それらの人びとがすべて、ダイヤモンドに似せかけたガラスである、とは言いませんが、
彼らは、人びとを”真の自己”であるアートマン、つまり、サット・チット・アーナンダ(実在・智慧、至福)に至らせてくれるでしょうか?
時に、師の言葉は鋭く、エゴを粉砕するために、聞く耳を持たない者には、過酷に感じることがあります。
それは、真のグルであるマスターが、その人の分厚いエゴの層を破壊するために、意図的になされていることなのですが、
人々は、耳に心地よい、エゴを満足させる美しい言葉に、引き寄せられる傾向があります。
しかし、そのようなエゴが好む言葉には、実際にはどんな力もなく、
せいぜい、その場限りの安心感を得るだけで、やがては、再び同じ状況が訪れて、同じようなことが起こり、繰り返されるだけで、
本人は、以前と同じ迷路の中にいるという状況には変わりないでしょう。
つまり、エゴを増長させるような言葉は、どこにも誰をも導いてはくれないでしょう。
ましてや、神が宿っていない師に従っても、生徒の内側に、神が宿ることはないでしょう。
厳しく聞こえるかもしれませんが、これが現実であり、ダルマ(法則)なのです。
探求者は、常に試されています。
どんな時も、神に出会うことを望む心を忘れないことです。
聖書の中にも、同じことが書かれていますので、少しご紹介させて頂きます。
求めなさい。
そうすれば与えられます。
捜しなさい。
そうすれば見つかります。
たたきなさい。
そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、
捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
(マタイの福音書第7章7-8)
幾多の生涯を経て真智を得た人は
わたしがあらゆる原因の大原因であり
全ての全てであることを知ってわたしに従う
このような偉大な魂は実に稀である
(バガヴァッド・ギーター第7章19)
弟子に準備ができたとき、師が現れる
三月末に発売予定の「聖なる旅」の著者であるスワミ・ラーマの既に日本で発売されている「ヒマラヤ聖者とともにー偉大なる霊性の師と過ごした日々」より、
師(グル)と生徒の関係について書かれているところがありますので、ご紹介させて頂きます。
「どの生徒にも、師とはどうあるべきかイメージがある。
師たるにふさわしい師をどうしたら見つけることができるのか、経典は言う。
「弟子に準備ができたとき、師が現れる」
準備ができていなければ、そこに師がいても気づかず、応じることもない。
ダイヤモンドがどんなものか知らなければ、すぐそばにあろうと気にもとめずに通りすぎ、ただのガラスのかけらと思うだろう。
さらには、違いを知らなければ、ガラスのかけらを手にとりダイヤモンドと思いこみ、生涯大切にし続けることになる。
探求を続ける間、生徒はサハジャ・バーヴァ(瞬時の直観)を無視して理性的になりすぎるか、逆に理性を無視して感情的になりすぎることがある。
感情の高まりは理性の高まりと等しく危険であり、いずれもエゴを助長させる。
修養を信じない者は覚醒を期待すべきではない。
ただ欲しがるからといって、与えることのできる師も、与えようという師もいない。
真の霊性の師、伝統に続き教えを授ける役割を与えられた師は、良い生徒を探し求める。
何らかの印や兆候を探り、誰の準備が整っているか知ろうとする。
どんな生徒も師をだますことはできない。
師は、生徒がどこまで準備できているかたやすく察する。
準備ができていないと分かれば、その生徒に徐々により高次の教えの準備をしていく。
生徒の火芯とオイルが正しく準備されたなら、師がランプの火をともす。
それが師の役割だ。
そうしてともった炎は神である。
誰が自分を導くかは心配することではない。
大切な問いは、私には導かれる準備ができているか、だ。
師が教える方法には様々であり、ときには謎めいている。
言葉やふるまいをつうじて教えもするがーー場合によっては、まったく言葉でのコミュニケーションなしに伝える。
よく思ったものだ。
最も重要な教えは、直観にその源があり、言葉によるコミュニケーションの力をも超える。
愛とともに、この世での責務を行うことだ。
それのみが、覚醒の道での前進に大きく貢献することになる。
事実、導き助ける者は必要だ。
外界でのグルを、自らの内なるグルに達する手段として要する。
利己心から「私にグルは必要ない」と思うこともあるかもしれない。
それはエゴの声だ。
飼いならさねばならない。」
(ヒマラヤ聖者とともにー偉大なる霊性の師と過ごした日々 スワミ・ラーマ)
この文章の中に、多くのヒントが書かれていると感じます。
霊性の探求者とは、どうあるべきか?が、やさしくわかりやすく書かれています。
スピリチュアルへの単なる興味本位からではなく、人間という存在の最終ゴールを目指す霊性の探求者とは、どうあるべきか?が書かれています。
このブログに出会い、記事を読むことも、探求のひとつではありますが、
読むだけでは、霊的な進化は起こらないでしょう。
何よりも、実践を通して、体験していくことが大切です。
これは、いつも、ナーナさんが、サットサンガでお話しされていることです。
悟りや目覚め、覚醒を望む人は多いですが、そのためには、どのような人であれ、自己努力による準備が必要です。
何もしないで、棚からボタ餅は起こらない、ということになります。
人間にとっては、少々厳しく聞こえるかもしれませんが、
このことは、ダルマ(法)として理解し、受け入れ、
それではその上で、自分はどうするか?という選択をするしかありません。
虚妄の名声を求めず妄想を払い除けた人
執着心を克服し 欲を失くした人
苦楽の二元性を超越して真我(アートマン)に安住する人
このような人々は至上神に順(したが)うことを知って永遠の楽土に入る
(バガヴァッド・ギーター第15章5)
カルマ・ヨーガの完成(自由への道)
特別な修行をしなくても、日常生活を送りながらでも、自分の持っているモノをすべて放棄しなくても、叡智に到るための道が、カルマ・ヨーガであるとご紹介しました。
それは、カルマ・ヨーガによって、道の終点に到達できると実証して下さる存在が、実際に目の前にいらっしゃるので、
このブログを通して、出家したわけでもない一般人であっても実践できるヨーガ(行)として、カルマ・ヨーガをご紹介しています。
実際にそのようなお手本がある、ということは、私たちにとっては、何と力強い希望でしょう。
ナーナさんは、目覚めの瞬間が訪れるまで、特にスピリチュアルなモノやコトに興味はなかったそうで、そのような本も読んだことはなく、講演会にもセミナーにも参加したことはなかったそうです。
それでも、それは起こりました。
ヨーガの世界では、どんなに修行しても、「神が微笑まない限り、それは起こらない」と言われています。
カルマ・ヨーガを通してだけでも、真理を悟り、解放された自由な存在となり、叡智と至福そのものとなることは可能だということを、そのお手本として、ナーナさんは私たちに見せて下さっています。
カルマ・ヨーガについては、今回が最後となりますが、
大聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますヴィヴェーカーナンダの「カルマ・ヨーガ」からの抜粋をご紹介し、まとめとしたいと思います。
「誰であれ、自分は世を助けるために生れて来たのだ、などと考えるのは、まったくのナンセンスです。
それは要するに、高慢です。
善徳のようなふりをした利己性です。
皆さんが自分の心と神経を十分に訓練して、この世界は皆さんにも他の何者にも依存しているのではない、ということを悟ったとき、そのときにはもう、苦痛という形の反応が仕事の結果として生じるようなことはないでしょう。
人に何かを与えて何事も期待しないときには--その人が感謝することさえ期待しないときには--彼の忘恩が気にさわることもないでしょう。
皆さんは何ものもあてにしてはいなかったのですから。
お返しの形で何かを受ける権利がある、などとはまったく考えていなかったのですから。
皆さんは彼に、彼が受けるに値するものを与えただけなのです。
彼自身のカルマが、彼にそれをもたらしたのです。
あなたのカルマが、あなたをしてそれの運び手たらしめたのです。
何であなたが、何かを与えたと言ってそれを誇る理由などありますか。
あなたは金かその他の贈り物を運んだ運び手、世界はそれ自身のカルマによって、あなたにそれをさせることができたのです。
どこに、あなたがそれを誇る理由がありますか。
あなたが世界に与えるものは、たいして立派なものではありません。
あなたが無執着の感情をわがものとしたときには、もう、あなたにとっては善いも悪いもないでしょう。
利己性だけが、善悪の区別をつけるのです。
これは非常に理解が困難なことですが、しかしあなたもやがては、あなたがそういう力を許すのでさえなければ、宇宙間に何ひとつ、あなたを支配する力を持つものはいない、ということを学ぶでしょう。
自己が馬鹿になって独立性を失うのでなければ、人の自己を支配することのできるものはいません。
それゆえ、無執着によって、あなたは自分に働きかけるあらゆるものの力を克服し、否定して下さい。
自分がそれを許すまでは、何者にも自分に影響を与える権利はない、と、口で言うのは非常にやさしいのです。
しかし、ほんとうに、彼に作用することを何者にも許さない人、外部世界の影響を受けても幸福にも不幸にもならない人、の特徴はどんなものなのでしょうか。
そのしるしは、好い運命も悪い運命も、彼の心にはいかなる変化も起こさない、というものです。
あらゆる条件のもとで、彼は常に同じ心境を保っています。
このように、自分自身を支配することのできた人は、外部のいかなるものにも影響されることはありません。
彼はもう、奴隷になるおそれはありません。
彼の心は自由を得たのです。
このような人だけが、この世でまともに生きるに適しているのです。
われわれは普通、この世について二種類の意見を持つ人を見いだします。
ある人びとは悲観論者であって、「この世は何という恐ろしいところなのだろう、何と悪いこと!」と言います。
またある人びとは楽観論者であって、「この世は何と美しいのだろう、何とすばらしいこと!」と言います。
まだ自分の心を支配していない人びとにとっては、世界は悪にみちているか、またはせいぜい、善と悪との混合です。
われわれが自分たちの心の主人公になるとき、この世界がそのまま、われわれにとって楽観的な世界となりましょう。
そのときには何ものも、善か悪としてわれわれに作用することはしないでしょう。
われわれは、一切物がそれのふさわしい場所にあるのを、調和しているのを、見いだすでありましょう。
この世は地獄である、と言いつつ出発するある人びとがしばしば、自己制御の実践に成功すると、最後にはこの世界は天国だ、と言います。
もしわれわれがほんとうのカルマ・ヨーギーであって、この境地に到達するよう自分を訓練したいと思っているなら、たとえどこから出発しても、完全な自己滅却の境地に到達することは、間違いありません。
そしてこの見せかけの自己が行ってしまうや否や、最初はわれわれに悪にみちていると見えるこの世界が、至福にみちた天国そのものとして現れるでしょう。
このようなのがカルマ・ヨーガの目的であり、このようなのが、実生活の中でのそれの完成であります。」
(カルマ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
今、ナーナさんは、自らの体験を通して、サットサンガで多くの人を、人間として最高の到達点に導こうとされています。
ナーナさんが持っていらっしゃる御力は、のちのちブログでもご紹介させて頂きますが、
ナーナさんは、私たち自身が今生で、カルマ・ヨーガや他のヨーガ(行)を誠心誠意実践したとしても、それを通して辿るプロセスには限界があることも、よくご存知です。
カルマ・ヨーガも徹底してやらなくては、行とはなり得ません。
自らの自由は、自らの解放は、自分の手で掴み取るしかないのですが、
その道は、容易とは言えず、かなり困難であることは、明らかです。
しかし、今は、ナーナさんという恩寵の扉が開いている時なのです。
ナーナさんを通して、その時を真摯に求める人なら誰もが、目覚めの時を迎えることは、可能なのだということは、私たちの救いです。
ナーナさんという恩寵については、このブログの中で少しづつ書いていきたいと思っていますが、
ただ求めるだけではなく、ヨーガ(行)の実践を通して、自己努力する人にのみ、恩寵は降り注ぐことも忘れてはなりません。
恩寵によって、最後の神秘のヴェールが剥がれた時、すべては明らかになるでしょう。
個人個人が、その最後の瞬間を迎えるために、
いまここで、ナーナさんは恩寵の経路として働くために、私たちと共にいて下さっています。
ですから、その恩寵に有り難く素直に与ることは、自分のプロセスを早める最も楽な方法であることは間違いありません。
私たちが、その恩寵に与ることで、ヨーギーが一生をかけても到達できないかもしれない人類の究極のゴールに、ナーナさんのお力を借りて、到達することも可能なのです。
グルという恩寵はあっても、生徒には、それを受け取る準備が必要です。
そのためには、自分でできる努力は最低限しなくてはなりません。
何かを成し遂げようと奮闘するそのエネルギーが、集中を生み、そのエネルギーの集中が、恩寵を呼び寄せるのです。
ナーナさんのサットサンガへの参加は、自由への道を短縮してくれます。
それを望む人すべてに、平等に、恩寵の扉は開いています。
この恩寵に与れる人は、それまでよりも楽に、ゴールまでの道を歩むことができるでしょう。
何よりも、恩寵の扉が開いている間に、その扉を通り抜け、自由への道を完成しようと志すことが、目覚めへの第一歩だと言えるでしょう。
ナーナさんのサットサンガへのご参加をご希望される場合は、
以下の公式ホームページよりお申し込みを受け付けています。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)
http://ameblo.jp/premagrace/ (すべては本質の流れのままに――サットサンガ参加者の体験談、感想)
幾多の誕生をくりかえして修行を重ね
誠実に努力して霊的向上に励み
すべての汚濁(よごれ)を洗い清めたヨーギーは
ついに至上の目的地に着くのである
(バガヴァッド・ギーター第6章45)
(少しの間ですが、ブログ更新お休みします。)
自由への道(カルマ・ヨーガ)その3
これまで2回に渡って「カルマ・ヨーガ」について、詳しくご紹介してきましたが、
自分には、到底実践することは難しいと感じている方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、スポーツでも音楽でも、どのような分野であれ、
上手になり、自分が目指す高い目標に到達するには、実践は必要不可欠です。
そして、結果はどうなるかはわからないけれど、諦めずに実践を重ねた人のみが、その掲げた目標に到達できるということは、よく知られていることです。
オリンピックで金メダルを取りたいと願うならば、そのために練習し、努力する以外にはありません。
頭の中で思い描いていても、練習し、努力しなければ、金メダルを手にすることはできないのです。
「カルマ・ヨーガ」は、個人を束縛から解放し、完全なる自由へと導いてくれる、私たちが日常生活の中にあっても、心がけ次第でいつでも実践できる解脱への道(行=ヨーガ)です。
今日もまた、大聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますヴィヴェーカーナンダの「カルマ・ヨーガ」からの抜粋をご紹介することで、
「カルマ・ヨーガ」をどのように実践すべきであるか、についてご紹介いたします。
何事においても、効果的な方法、コツのようなものを心得ておくことで、進歩の度合いは異なってきます。
カルマ・ヨーガの真髄を正しく理解することは、道の短縮につながります。
解脱を目指すならば、そのための実践は必要不可欠なのです。
「われわれはバガヴァッド・ギーターの中でくり返し、われわれはみな、絶えず働かなければならない、ということを読みます。
すべての働きは本来、善と悪とから成り立っています。
われわれは、どこかで何か悪いことをしないような働きをすることはできません。
また、どこかで何かの害を起こさないような働きは、あり得ません。
あらゆる働きは必然的に、善と悪との混合です。
それでもわれわれは、不断に働くよう、命ぜられているのです。
善と悪はともに、その結果をもたらすでしょう。
つまり彼らのカルマを生み出すでしょう。
善い行動は善い結果を、悪い行動は悪い結果を残すでしょう。
しかし、善も悪もともに、魂の束縛であります。
この束縛をもたらす働きの性質についてギーターの中で到達されている解決法は、もしわれわれが、自分の行う働きに執着しないなら、それは決してわれわれの魂を束縛しないであろう、というものです。
この働きへの「無執着」とは何を意味するのか、理解するように努めてみましょう。
もし人が始終悪い言葉を聞き、悪い思いを思い、悪い行為をするなら、彼の心は悪い印象に満たされ、それらは彼の知らぬ間に、彼の思いと働きに影響を与えることでしょう。
同様に、もし人が善い思いを思い、善い働きをするなら、これらの印象の総計は善であって、それらは同じような形で、たとえ彼がすまいと思っても、善いことをせずにはいられないようにしむけます。
人が、内部に善をなそうという、抵抗し難い傾向を持つようになればなるほど、多くの善い働きをし、多くの善い思いを思いつづけたとき、彼の傾向の総計である心は、彼の意志にかかわらず、たとえ彼が何か悪いことをしようと思っても、そうすることを許さないでしょう。
その傾向が彼を引き戻すでしょう。
この善い傾向を持つ状態よりもっと高い状態があります。
それは、解脱への願望です。
皆さんは、魂の自由がすべてのヨーガの目標であり、それぞれのヨーガが同等に同じ結果に到達するのである、ということを覚えていなければなりません。
働きだけによって人びとは、ブッダが主として瞑想により、キリストが祈りによって得た境地に到達するでありましょう。
ここに困難があります。
解脱とは、完全な自由のこと、つまり、悪の束縛から解放されると同時に、善の束縛からも解放されることなのです。
黄金の鎖も鉄の鎖と同様に鎖です。
私の手の指にとげがささったとします。
私はもう一本のとげを持って来て、それでとります。
とれたら、とげは二本ともすてるでしょう。
第二のとげをとっておく必要はありません。
結局どちらもとげなのです。
そのように、悪い傾向は善い傾向によって中和されるべきであり、心に刻まれた悪い印象は、ほとんど消えてしまうか、または弱められて心の片すみに小さくなるまで、善い印象の新しい波によって除かれなければなりません。
しかしそのあとで、善い傾向もまた、征服されなければならないのです。
このようにして、「執着している人びと」が、「無執着の人びと」となるのです。
お働きなさい、しかし活動または思いをして、心に深い印象を刻ませてはなりません。
どうしたらそれができるか。
われわれは、自分が執着する活動の印象は必ずあとに残る、ということを見ます。
私が一日のうちに数百人の人びとに会い、その中でまた、一人の愛する人にも会うとします。
夜一人になったとき、今日会った人びと全部の顔を思い浮かべようとします。
それでも心に浮かぶのはあの顔--おそらくたった一分しか見なかった、そして私が愛した--その顔だけでしょう。
他の顔は全部消えてしまうでしょう。
この特定の人物への私の執着が、他のすべての顔より深い印象を、私の心に刻んだのです。
ですから、「無執着」であれ。
ものごとは働かせるがよい。
絶えずお働きなさい。
しかし彼に心を征服させてはいけません。
この国のよそ者であるかのように、滞在者であるかのように、お働きなさい。
絶えずお働きなさい。
しかし自分を縛ってはいけません。
束縛は、恐るべきものです。
この世はわれわれのすみかではありません。
われわれが通りすぎつつある数多くの段階の中の、一つであるにすぎません。
魂が自然のためにあり、霊が肉のためにあるのだ、と考えており、よく言われている言葉が示すように、人は「食べるために生きる」のであって、「生きるために食べる」のではない、と考えています。
われわれは始終この誤りを犯しています。
自然を自分であると思って、それに執着するようになります。
そしてこの執着がやって来るや否や、魂に深い印象が刻まれ、それがわれわれを縛りつけて、自由からではなく奴隷のように、働かせるのです。
この教え全体の要点は、人は奴隷としてではなく、主人のように働け、というものです。
絶えずお働きなさい。しかし奴隷の働きをしてはいけません。
人類の99%は奴隷のように働いており、その結果は不幸です。
それはすべて利己的な働きです。
自由を通して働け!
愛を通して働け!
「愛」という言葉を理解することは大変にむずかしい。
愛は、自由のないところには決して、やっては来ません。
奴隷には真の愛は不可能です。
もしあなたが一人の奴隷を買い、彼を鎖でつないであなたのために働かせるなら、彼はあくせく働くでしょう。
しかし彼の心に愛はないでしょう。
そのように、われわれ自身が世間のものごとのために奴隷のように働くとき、われわれの内部に愛があるはずはなく、したがってわれわれの働きは真の働きではありません。
利己的な働きは奴隷の働きなのです。
そしてここに、見分ける基準があります。
愛の行為はいずれも、幸福をもたらします。
それの反応として平和と至福をもたらさない愛の行為は、ありません。
真の存在、真の知識および真の愛は永遠にたがいに結びついており、この三つは一つであります。
一つがあるところには他の二つがなければなりません。
それらは無二なる唯一者--存在・知識・至福(サット・チット・アーナンダ)--の三つの相なのです。
その存在が相対的になると、われわれはそれを世界として見ます。
その知識はそこで、世界の事物の知識と変わります。
そしてその至福は、人のハートに知られるすべての真の愛の、根底を形成するのです。
ですから、真の愛は決して、愛する人にも愛される人にも、苦痛を起こさせるようにははたらきません。
愛には、苦痛に満ちた反応はあり得ません。
愛は至福という反応をもたらすのです。
もしもたらさなければ、それは愛ではありません。
何か他のものを愛と間違えているのです。
あなたが自分の妻を、夫を、子供達を、全世界を、全宇宙を、そこにいささかの苦痛も嫉妬も利己的感情もなくなるような愛し方で、愛することができるようになったとき、そのとき、あなたは無執着であるに相応しい状態になったのです。
無執着の境地に達する、ということは、ほとんど生涯の仕事です。
しかしこの一点に達したとき、われわれは愛の目標に到達して自由を得たのです。
自然の束縛はわれわれから脱落し、われわれは自然のほんとうの姿を見ます。
彼女はもはや、われわれのために鎖を造るようなことはしません。
われわれは完全に自由に立ち、働きの結果などを考慮に入れません。
そうなったら、結果がどうあろうかなどと、誰が頓着しますか。
お返しに何ものも期待しないことです。
もし皆さんが一貫して与える人の立場をとることができ、与えるものはすべて世間への無料のささげものとして少しも報いを期待しないなら、あなたの働きが、執着をもたらすことはないでしょう。
執着は、われわれが報いを期待するところにだけ、やって来るのです。」
(カルマ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
果報を求めずに働く人
正智によって疑いを切り捨てた人は
自己の本性に徹して 自由自在となり
カルマに縛られないのだ 富の征服者よ
(バガヴァッド・ギーター第4章41)
自由への道(カルマ・ヨーガ)その2
前回の記事には、私たちが自由になることを阻むモノは、自分の心の中にある執着であると書かれていました。
ですから、魂の完全なる自由を得るためには、無執着であることが必要です。
この心の無執着を達成するためのヨーガ(行)が、カルマ・ヨーガなのです。
ナーナさんは、私たちが、完全なる自由を得られるようにと導いて下さっていますが、
それには、無執着の心が最も大切である、ことを見抜いていらっしゃいます。
そして、多くのモノを所有している私たちが、そのすべてを手放すことは不可能であろうということも、見抜いておられます。
そういう私たちが、日常生活を営みながら、無執着の心を達成するのに無理なく実践できる方法(行)として、カルマ・ヨーガを実践するように提唱されているのは、
ごく一般の人びとであっても、苦しみや哀しみ、生と死、老い、病など、その他、すべての束縛からの自由は、全人類の願いであると知っていらっしゃるからなのです。
私たちがカルマ・ヨーガを実践する上で、その正しいやり方と目的をしっかりと把握し、見失わなければ、グルから、いちいちそのやり方を学ぶ必要はありません。
カルマ・ヨーガは、どこでも、誰でも、どんな時でも、心がけ次第で、実践できる無執着の心を養うヨーガなのです。
そのカルマ・ヨーガについて、昨日に引き続ぎ、
大聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますヴィヴェーカーナンダの「カルマ・ヨーガ」から抜粋して、
「カルマ・ヨーガ」とは何か?何のために行うのか?という核心部分をご紹介いたします。
「カルマ・ヨーガとは何でしょうか?
働きの秘訣の知識です。
われわれは全宇宙が働いているのを見ます。
何のためにですか?
救われるために、自由を得んがために、原子から最高の生きものに至るまでがこの唯一の目的--心の、肉体の、霊の自由ーーのために働いているのです。
すべてのものは、束縛から逃げ去って自由を得よう、と努めています。
太陽、月、地球、もろもろの遊星、すべてが、束縛から逃げ去ろうと努めています。
自然界の遠心力と求心力は、われわれの宇宙の性質を実によく象徴しています。
この宇宙で小突きまわされ、長いことかかって打ちのめされたあとでようやくもの事の真相を知る、という代わりに、われわれはカルマ・ヨーガから、働きの秘密を、働く方法を、働きの組織力を学びます。
もし活用の方法を知らなかったら、われわれは莫大な量のエネルギーを浪費することになるでしょう。
カルマ・ヨーガは、働きの科学をつくっています。
皆さんはそこから、この世界のすべての働きをどのように最もよく活用するか、を学ぶのです。
働きは避けることのできないものです。
これはそうある他ありません。
しかしわれわれは、最高の目標に向かって働かなければなりません。
カルマ・ヨーガはわれわれに、この世界は五分間の世界である、ということを、それはわれわれが通り過ぎなければならないものなのであるということを、そして自由はここにはない、ここを超えたところに見いだされるのだ、ということを、認めさせます。
この世界の束縛を脱する道を見いだすためには、それをゆっくりと、しかも確実に、通り抜けなければならないのです。
例外的な人びともいるでしょう。
わきに退いて、ヘビがその皮をぬぎすててわきからそれを眺めるように、世をすてることのできる人びとです。
たしかにこのような例外的な人びともいます。
しかし、残りの人類は全部、働きの世界をゆっくりと通って行かなければならないのです。
カルマ・ヨーガは、最も有利にそれを行う過程、秘訣、および方法を示すものです。
それは何と言いますか。
「たえず働け、しかし仕事へのすべての執着をすてよ」と
何ものとも、つながりを持つな。
心の自由を確保しておけ。
皆さんがごらんになるこれらすべて、さまざまの苦痛や不幸は、この世界の必要条件にほかならないのです。
貧乏や富や幸福は、つかの間のものにすぎません。
それらはまったく、われわれの本性に属するものではないのです。
われわれの本性は、不幸や幸福をはるかに超えたものです。
あらゆる感覚対象を超えたもの、想像を超えたものです。
それでもわれわれは、常に働きつづけなければなりません。
「不幸は働きからではない、執着から来る」
われわれが、この仕事は自分がしている、と思うや否や、不幸がやって来ます。
しかしもし自分がしていると思わなければ、その不幸は感じません。
もし他人の持ち物である美しい絵が焼けても、人はふつう不幸は感じません。
しかし自分の持っている絵が焼けたら、どんなに悲しく思うでしょう!
なぜか。両方とも美しい絵でした。
多分同一の原画の複写でした。
それでも一つの場合には、もう一つの場合よりはるかに、大きく不幸を感じるのです。
それは、前の場合には彼はその絵は自分のものだと思い、あとの場合にはそう思っていないからです。
この、「私と私のもの」が、一切の不幸をつくり出すのです。
所有感といっしょに、利己心がやって来ます。
そして利己心が不幸をもって来るのです。
あらゆる利己的な行為または利己的な思いは、われわれを何ものかに執着させ、
たちまちわれわれは奴隷にされてしまいます。
「私と私のもの」と言う、チッタ(心の質料)の一つ一つの波が直ちにわれわれのまわりに鎖をまきつけ、
われわれを奴隷にしてしまうのです。
そしてわれわれが「私と私のもの」と言えば言うほど奴隷状態はひどくなり、不幸も大きいでしょう。
ですからカルマ・ヨーガがわれわれに、世界中のすべての絵画の美しさを楽しめ、だがその中のいずれも、自分のものだ、とは思うな、と教えるのです。
決して、「私のものだ」と言ってはなりません。
われわれがあるものを自分のものだ、と言えば必ず、すぐに不幸がやって来るでしょう。
心の中で「私の子供」と言ってもいけません。
子供をお持ちなさい。しかし「私のもの」と言ってはいけない。
もしそう言えば、不幸がやって来るでしょう。
「私の家」とは言うな。「私のからだ」とは言うな。
困難の全部はそこにあります。
肉体はあなたのものでもなければ私のものでもない、誰のものでもありません。
これらの肉体は自然の法則のもとにやって来て行ってしまうもの、しかしわれわれは自由で、目撃者としてここに立っているのです。
この肉体は、絵や壁より多くの、自由を持っているわけではありません。
なぜこんなにも、肉体に執着しなければならないのですか。
誰かが絵をかいても、彼はかいてそのまま行ってしまいます。
「私はそれを持たなければならない」とう利己心の触手をのばすな。
それがのされるや否や、不幸は始まるのです。
ですから、カルマ・ヨーガは言います。
第一にこの利己心なる触手をのばす傾向を破壊せよ。」
(カルマ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
それでは、無執着の心が達成されると、どうなるのでしょうか?
3月末に発売となるスワミ・ラーマの”聖なる旅”には、こう書かれてあります。
「霊的成長に等しく必要なヴァイラーギャの他の道は、無私の行いの道です。
この道で、人はダルマである義務を上手に無私の心で果たします。
すべての人がそうであるように、自分にはするべき行動があることを知っています。
その人は、十分な注意をもってそれらをしますが、個人的な獲得や栄誉のためや、ある種の見返りのためではありません。
その人はそれらには関心がありません。
その人は、義務を果たし、それがすべてです。
この方法で、この道の行為の探求者は、この世に生きることを学びますが、この世
を超越します。」
(スワミ・ラーマ ”聖なる旅”)
この世を超越する、ということは、因果の法則を超越する、ということになり、
それは、完全なる自由を意味します。
カルマ・ヨーガは、自由への道。
次回も、カルマ・ヨーガについて、もう少し掘り下げてご紹介いたします。
仕事を至上者(かみ)への供物としなければ
仕事は人を物質界(このよ)に縛りつける
故にクンティーの息子よ 仕事の結果を
ただ至上者(かみ)へ捧げるために活動せよ
(バガヴァッド・ギーター第3章9)
自由への道(カルマ・ヨーガ)
昨日の記事で、「カルマ・ヨーガ」というあまり聞きなれない言葉が出てきましたが、
「カルマ」とは、「働き」とか「動き」という意味のサンスクリット語で、
「ヨーガ」とは、「行」という意味のサンスクリット語です。
ですから、「カルマ・ヨーガ」とは、「働きのヨーガ(行)」という意味になります。
「ヨーガ」というと、アーサナ(坐方、ポーズ)や瞑想を思い浮かべる人が多いかと思いますが、
それは、ヨーガの一部分であり、ヨーガとは、(それ=わたし=神)という人類の究極の境地に至るための”行”なのです。
あまり日本人には馴染みのない「カルマ・ヨーガ」について理解を深めるために、もう少し詳しくご紹介したいと思います。
いつも引用させて頂いている大聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますヴィヴェーカーナンダの「カルマ・ヨーガ」からの抜粋です。
もし、内容を理解するのが少し難しい場合には、何度か読むうちに、次第に理解できるようになると思いますので、繰り返し読んでみて下さい。
「カルマという言葉は働きという意味に加えて、心理学上、原因作用という意味も含んでいます。
結果を生じる働き、活動、思いはことごとく、カルマと呼ばれるのです。
ですからカルマの法則というのは因果律、避けることのできない、原因と結果の法則という意味です。
原因のあるところには必ず、結果が生まれなければなりません。
この必然性に抵抗することはできないのです。
そしてこのカルマの法則は、われわれの哲学に従うと、全宇宙にはたらいているものです。
われわれが見たり感じたり行ったりすることはことごとく、宇宙間至るところの活動はことごとく、一方では過去の働きの結果であると同時に、他方では今度は原因となって、それ自体の結果を生みます。
これと同時に、「法則」という言葉はどういう意味であるか、考える必要があります。
法則とは、ある一続きがそれ自身をくり返す傾向です。
一つのできごとに別のできごとがつづいたり、ときには一つのできごとがもう一つのできごとと同時に起こったりしますと、われわれはこの連続または共在がまた起こることを予期します。
一連の現象は、われわれの心の中にあるものとある種の決まった順序で結びつけられ、いつでも、われわれの知覚するものは何でも、直ちに心中の別の事実と関係づけられます。
どんなものであれ一つの観念は、すなわちわれわれの心理学によりますとチッタという心の質料に起こった一つの波は、常に必ず、多くの類似の波を引き起こします。
これが、連想というものの心理学上の解釈でありまして、因果律は、この壮大な、普遍的な連想の原理の単なる一面に過ぎません。
外部の世界での法則の観念は、内なる世界におけるものと同じです--ある特定の現象には必ずあるもうひとつの現象がつづき、この連続は繰り返される、という期待です。
ですからほんとうのことを言うと、法則は自然界に存在するのではありません。
実際には、引力は地球の内部に存在する、とか、法則というものは自然界のどこかに客観的に存在する、などと言うのは間違いなのです。
法則は、それによってわれわれが一連の現象を把握する、方法です。様式です。
それはすべて、心の中にあるのです。
ある現象が、相ついで起こるかまたは同時に起こり、やがてこの組み合わせは正確に繰り返される、という確信ができ、こうしてわれわれの心がこの連鎖全体の形を把握すると、そこに、われわれが法則と呼ぶものが構成されるのです。
つぎに考えるべき問題は、われわれが、法則は普遍である、というのはどういう意味か、ということです。
われわれの宇宙は、存在の中の、空間、時間および因果律と呼んでいるもの、によって特徴づけられている部分です。
この宇宙は、空間、時間、および因果律によってできた独特の鋳型にはめこまれた、無限実在のほんの一部分に過ぎないのです。
当然、法則はこの条件つきの宇宙の中でのみ適用されるものである、ということになります。
それを超えたところには、いかなる法則もありません。
われわれが宇宙について語るときには、われわれはただ、存在の中の、われわれの心によって限定されている部分だけを取り上げています。
つまりわれわれが見たり感じたり触れたり聞いたり、思ったり想像したりすることのできる、感覚の宇宙です。
これだけが法則の支配下にあるので、それを超えたところでは、存在は法則に従うことはあり得ません。
われわれの心の世界の彼方には因果律はとどかないのですから。
われわれの心と感覚の領域をこえたものは、因果の法則では縛られません。
感覚をこえたところにはものごとについての連想はないし、観念の結合がなければ因果律はないのですから。
「実在」すなわち存在が因果の法則に従い、法則に縛られている、と言われるのは、それが名と形という型に入れられたときに限るのです。
すべての法則の元は因果律なのですから。
自由を得るためには、われわれはこの宇宙の限定を超えなければなりません。
自由を、ここに見いだすことはできません。
完全なる平衡状態は、いかなる場所でも得ることはできません。
そのような場所は決して、われわれにその自由を与えることはできません。
なぜならそのような場所はすべて、この宇宙の中にあり、時間と空間と因果律とに制約されているのですから。
われわれの地球よりもっと強烈な楽しみを与えるかもしれない、もっと精妙な場所はあるでしょう。
しかしそのような場所もやはりこの宇宙の中になければならないのであり、したがって、法則に縛られているのです。
ですからわれわれは超えなければなりません。
人類のすべての最も高貴な熱望の目標である自由を得るためにはたった一つの道があり、それはこの小さな生命をすてること、この地上世界をすてること、天国をすてること、肉体をすてること、心をすてること、限定され、制約されている一切のものをすてることである、というのは理の当然です。
もしこの、感覚や心の小さな宇宙への執着をすてるなら、われわれは即座に自由になるでしょう。
束縛を脱するたった一つの道は、法則の限定をこえること、因果律を超えることです。
しかし、この宇宙への執着をすてるのは最もむずかしいことです。
それのできる人はごく僅かです。
つぎに挙げるのはわれわれの聖典(ヴェーダ聖典)に示されている二つの道です。
一つは「ネーティ、ネーティ」(これではない、これではない)と呼ばれ、
もう一つは、「イーティ」(これ)と呼ばれています。
前者は消極的な道、後者は積極的な道です。
消極的な道は最も困難な道です。
人類の大多数は、積極的な道の方を選びます。
束縛を断ち切るためにすべての束縛そのものを利用しつつ、この世界を通って行く道です。
これもやはり放棄の一種です。
ただそれは、ものごとを知り、ものごとを楽しむことによって経験をつみ、心がものごとの性質を知ってついにそれらをすて、無執着になるまで、ゆっくりと、だんだんに行われるのです。
無執着になるための、前の方法は推理によるもの、後の方は働きと経験によるものです。
第一のはギャーナ(智識)・ヨーガの道であって、いかなる働きをもすることを拒むのが特徴、
第二のはカルマ(働き)・ヨーガの道であって、そこでは働きをやめるということはありません。
宇宙間では、一切のものが働かなくてはなりません。
ただ、完全に自己(アートマン)に満足している人びと、その願望が決して自己の彼方に出ない人びと、その心が決して自己の外に迷いが出ない人びと、自己がすべてのすべてである、という人びと、そのような人びとだけが、働かないのです。
他の人びとは、働かなければなりません。」
(カルマ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
次回は、この続きをご紹介いたします。
ナーナさんが示して下さる「カルマ・ヨーガ」の道を、正しく理解することは、
この世俗の世界にあって、真の自由への道を歩むための第一歩となることでしょう。
罪なき者 アルジュナよ 既に話したが
この世で真理体得するには二種の道がある
哲学的思索を好む者には 智識(ギャーナ)の道
活動を好む者には 奉仕(カルマ)の道
(バガヴァッド・ギーター第3章3)
カルマ・ヨーガ(献身奉仕の道)
アートマン(真我)の道について、
ラーマクリシュナやスワミ・ラーマの言葉を引用してきましたが、
今日は、ナーナさんが、サットサンガでいつも私たちに語って下さっているお話しから、少しご紹介させて頂きます。
ナーナさんが神我一体となり、解脱されるまでの経緯は、ブログ”突然私がアセンションした記録”に、ある時から詳しく書かれていますが、
その前は、どうであったのでしょうか?という疑問がありましたので、
ナーナさんに出会ってからまもなく、ご本人に伺ったことがあります。
それは、不遇とも言える家族環境、幾たびか訪れた原因不明の肉体の痛みや不調、一歩間違えば死んでしまったかもしれない事故体験、
けっして楽な人生ではなかったと思われるような人生においても、
常に前向きで、自分を制し、人を愛し、人知れずボランティア的な奉仕の心で、見返りのことなど全く考えず、この世のために成した数々の行為、
けっして嘘をつかず、人を恨まず、憎まず、一度決めたことは達成しようと諦めずに努力したこと、自分の持っているモノでいつも満足していたこと。。。。など、
ナーナさんが、いつもサットサンガで、
「ラージャ・ヨーガの八支則の第一段階のヤマと第二段階のニヤマをきっちりと修めることは、目覚めのための準備となります」
と仰っていますが、それは、実際に、ナーナさん自らの経験を元に仰っている言葉なのです。
ですから、私たちは、修行のために出家する必要もありませんし、死を覚悟して厳しい修行に励む必要もありませんし、持っているすべてを手放す必要もありません。
「何なりとすべき仕事はして、ただ心はいつも神をおもっていなさい。
女房子供や親たちといっしょに住んで、よく面倒をみてやりなさい。
自分のもののように大事にしてやれ。
でも心の中では、誰一人、自分のものじゃないということを、しっかりと心得ておくんだね。
世間でいろんなことをしても、心は神に預けっぱなしにしておきなさい。
神への信仰を持たずに世間で暮らしていると、だんだん心が世俗の垢に汚れてくる。
災害や、悲しみ、苦しみにガマンができなくなってくる。
世間のことを考えれば考えるほど執着が増してくる。
神への信仰という油を手にぬってから、世間の仕事をすることだ。
だが、この信仰をわがものにするには、独りになることが必要だ。
心を静めて神を想うことによって、正しい智慧も、離欲の心も、信仰も、わがものにすることができるんだよ。
世間のことにばかりかまけていると、心がだんだん低くなっていく。
世間ではただ女と金のことしか考えないからね」
「無私の気持ちで何でもしなさいよ。
無私の精神で行動するように、一生懸命努力するんだよ」
これを、インドでは、カルマ・ヨーガ(献身奉仕の道)と言います。
「この世は仕事をする場所だ。仕事をつづけている間に智慧が生まれてくる。
導師(グル)は、”こういうことをしろ、ああいうことはするな”と教えて下さる。
また、”報いを求めないで仕事をするように”と注意して下さる。
こうした仕事をやっているうちに心の汚れがとれていく--良い医者にかかると、薬を飲みつづけているうちに病気が治っていくようなものだ。
どうしてあの御方は、この世から解放して下さらんのだろうか?
病気が治れば出して下さる。
”女と金についての経験はもうたくさんだ”ということになったとき、許して出して下さるよ」
「もし事務員が監獄に入れられたら、もちろん、監獄の中で暮らすわけだが、じゃ監獄から出されたら、どっかの道端でシャナリシャナリと踊っているかね?
そうじゃないだろう。
また事務員の口を見つけて前と同じ仕事をするよ。
グルのお恵みで真理の智慧を獲た後でも、”身体を持ったまま解脱した人”として世の中で暮らしていくよ」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
ナーナさんは、何事も無私の心で成すことがとても大切だと、いつもサットサンガで仰っています。
ナーナさんご自身が、そうされて、今の結果となったという事実もありますが、
何よりも、私たちがこれまでの人生を続けながら、アートマン(真我)に到ることができる実践方法として、
”カルマ・ヨーガ”を、自らの体験を元に、確信をもって、私たちに教えて下さっているのです。
心身ともに、清らかになること。
それは、身体においてはエネルギーを綺麗にすること。
そして、心においては、無私の心を持つこと。
そのためには、無私の心で、何でも良いので、世の中のためになると思うことをしなさい、と仰っています。
それは、私たちが、限られた人生という時間を無駄にすることなく、目覚めへの準備を整えることができるようにと、愛の心で導いて下さっているのです。
そして、何よりも、それを自ら実践し、私たちへのお手本として、
”肉体を持ったまま解脱した人”(ジーバ・ムクタ)として、私たちと共にこの世に在って、
個の魂の最終的な目的地へと、私たちが一人一人到達できるように、
肉体を持った神の化身(アヴァター)として、働いて下さっているのです。
故に仕事の結果に執着することなく
ただ為すべき義務としてそれを行え
執着心なく働くことによって
人は至上者(かみ)のもとにいけるのである。
(バガヴァッド・ギーター第3章19)