永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

二元論における神と宇宙

前回の記事で、『私たちは、ヒツジ(人間)だと思って生きているライオン(神)である』と書きました。

 

これは、ウパニシャッド哲学が誕生したインド周辺では、ヴェーダンタという名前で、古い時代から伝えられてきた馴染み深い教えとして、よく知られているものですが、日本においては、初めて触れる人の方が多いことでしょう。

この教えは、これまで、秘法中の秘法、奥義の中の更にその奥にある奥義なので、一般的な人には知られることなく、今日まで隠されてきました。

それは、以前の記事の中でもご紹介しましたが、

<実際、ご紹介しているインドのウパニシャッドの文献の中で、特に哲学的にも純粋性の高い叡智として語られている部分は、アーラヌカヤ(森林書)と呼ばれています。

何故、「森林書」と呼ばれているかと言うと、

<その内容が非常に聖なるものであり、秘儀的であり、神秘的であり、危険であるために、人の住む村落では伝えられない学ばれるべきではないがゆえに、森林の中で一人きりになった上級のヴェーダ学生にのみ伝えられるべき文献、そのような学生により学ばれるべき文献>という意味なのだそうです。>

という説明からも明らかです。

この<秘儀的で、神秘的であり、危険である>教えの部分に、これから踏み込んで行きたいと思います。

 

これからご紹介する文章には、理解しがたい部分が多いと感じますが、これをまずは頭で理解していかなくては、神秘の領域に踏む混んでいくことは不可能なので、

理解するのが難しいところは、何度も読んで理解しようとトライしてみて下さい。

 

理解し難いことを理解しようとすることは、脳に新しい回路を切り開くことになります。

新しい考えをどう処理してよいかわからない脳は、一時的に拒否反応を示すことがありますが、今まで知らなかった考えに対して柔軟な姿勢で受け入れることができるように努力することは、やがて、脳に新しい回路を切り開くことにつながっていきます。

そして、それが、やがては、人間の最高の叡智である「悟り」につながっていくのですから、この難関を突破することは、彼岸に到れるかどうかの重要なポイントであり、通過門だと言えます。

 

脳に新しい回路が切り開かれるときは、多少のバランスを崩して、不調が生じることがあるかもしれませんが、それは一時的なものなので、大丈夫です。

時には、体験がやって来て、回路が一気に開くことがありますが、このブログを読んだだけでは、そのようなことは起きませんので、ご心配は無用です。

 

それでは、人類が到達した最高の叡智、アドヴァイタ(不二一元)の世界に、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ギャーナ・ヨーガ」からの抜粋を通して、踏み込んで行きましょう。

 

『われわれは、ヴェーダーンティスト(ヴェーダウパニシャッドの研究を行う人)たちの間に三つのことなるタイプがあるのを見いだします。

ある一つの点では、彼らの全部が一致しています。

それは、神を信じる、という点です。

これらすべてのヴェーダンティストたちはまた、おそらくキリスト教徒や回教徒の場合とまったくおなじ意味でではなく、非常に特異な意味で、ヴェーダを、啓示された神の言葉であると信じています。

彼らの考えは、ヴェーダは神の知識の表現である、そして神は永遠であるから、彼の知識も彼とともに永遠である、それゆえヴェーダは永遠である、というものであります。

そこにはもう一つ、共通の根本信念があります。

創造は周期的におこなわれる、という信念です。

宇宙は出現して、そしてまたきえる、それは放射されてしだいしだいに粗大になり、かぞえることのできないほどの長いときをへたのちには、しだいしだいにかすかになったあげくに消滅し、ひいてしまう、それから休息の一時期がくる、と言います。

そしてふたたび、それはあらわれはじめ、まえとおなじ過程をたどる、と言うのです。彼らは、アーカーシャと呼ぶ、現代科学者が言うエーテルににたような物質と、プラーナと呼ぶ、一つの力との存在を仮定します。

このプラーナについては、彼らは、それの振動によってこの宇宙は生み出されるのだ、と断言しています。

一つの周期がおわったときには、自然界のいっさいのあらわれはしだいしだいにかすかになって、見ることもふれることもできないけれども、それの中からいっさいのものはつくられるのだという、このアーカーシャの中に解消してしまうのです。

重力、引力、および斥力というような、または思い、感情、および神経活動というような、われわれが自然界に見るこれらのさまざまの力は全部プラーナと化し、そしてプラーナの振動はやみます。

つぎの周期のはじまりまで、この状態がたもたれます。

それからプラーナは振動をはじめ、その振動はアーカーシャに働きかけ、そしてすべてのこれらの形がさだまった順序にしたがって放射されるのです。

 

私がお話ししようと思う第一の流派は、二元論学派とよばれています。

二元論者は、宇宙の創造者でありその支配者である神は、永遠に自然とは別個のもの、人間の魂とは別個の存在である、と信じています。

神は永遠、自然は永遠、すべての魂も永遠です。

自然と魂たちは形にあらわれて変化します。

しかし神はかわりません。

また、二元論者に言わせると、この神は、肉体を持っているわけではないが、性質を持っているのです。

彼は慈悲深い、彼は正しい、彼は力づよい、彼は全能だ、彼に近づくことができる、彼にいのることができる、彼を愛することができる、彼の方からも愛してくれる、などなどであります。

一口に言えば、彼は人間の神です。

ただ、人間よりも無限に偉大です。

彼は人間が持っているわるい性質は一つも持っていないのです。

「彼は、無限のめぐまれた性質の貯蔵庫である」

彼らは神をこのように定義するのです。

神は材料がなければ宇宙を創造することはできません。

そこで自然は、神がそれから全宇宙をつくりだすところの原料です。

アトミストとよばれる若干の非ヴェーダーンタ的二元論者もいます。

彼らは、自然は無数の原子にほかならない、神の意志がこれらの原子の上にはたらいて創造をおこなうのだ、と信じています。

ヴェーダーンティストたちはこの理論を否定します。

彼らは、これはまったく非論理的だ、と言います。

不可分の原子は、部分も大きさも持たない、幾何学上の点にようなものでしょう。

しかし、部分も大きさも持たないものを無限にあつめてもおなじことです。

部分を持たないものは決して、部分を持つ何ものかをつくることはできますまい。

ゼロはいくつあつめても結局はゼロでしかないのです。

それゆえ、もしこれらの原子が部分も大きさも持たないというようなものであれば、そのような原子からは、宇宙の創造は不可能というほかありません。

それゆえ、ヴェーダンタ的二元論者に言わせれば、分離させることのできない、もしくは区分することのできない自然というものがあって、そのものから、神が宇宙を創造するのです。

インドの大衆の大部分は二元論者です。

人間の性質は、ふつうはそれより高いものを考えることはできません。

われわれ地球上の住民で何かの宗教を信じている者の90%は二元論者であることを見いだします。

ヨーロッバおよび西アジアのすべての宗教は、二元論です。

そうならざるを得ないのです。

通常の人間は、具体的でないものについて考えることはできません。

彼は当然、自分の知性が把握し得るものにしがみつきたがります。

つまり、彼自身のレベルまでひきおろしてきてはじめて、より高い霊的観念をも心にえがくことができます。

彼は、抽象的概念を具体化してはじめて、理解することができるのです。

これが、世界中の大衆の宗教です。

彼らは自分たちとはまったく別の、偉大な王、高く強力な君主、というような神を信じるのです。

同時に彼らは、神を地上の君主よりも純粋なものにします。

神にあらゆるよい性質をあたえ、わるい性質はとりのぞきます。

まるで、悪が存在しなくても善の存在は可能である、やみがなくても光の存在は可能である、と言わんばかりに!』

(ギャーナ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

スワミ・ヴィヴェーカーナンダも書かれている通り、多くの人が、二元論者であるわけですが、

「神 対 人間」の記事にも書きましたが、神は創造者であり、人間は神の被造物である、とする限り、神と人間は永遠に対峙したままで、その間が縮まることはありません。

 

ここの部分は、「わたし=神」という理解に辿り着くためには、とても重要な部分であるので、次回でももう少し考えてみたいと思います。

 

 

 

非顕現のわたしのなかに

この全宇宙はひろがっている

全ての存在はわたしのなかにあり

わたしが彼らのなかにあるのではない

(バガヴァッド・ギーター第9章4)