アートマン(真我)は本質である
前回の記事で、「あなたは誰ですか?」との問いへの答えとして、
『アートマンが答えです。私はアートマンです。あなたはアートマンです。
私とあなたはアートマンなのです。それが答えです。』
と書きましたが、
普通、そういきなり言われても、???となるのが、一般的な反応であると思われます。
それもそのはずで、アートマンとは、インドの古い言語であるサンスクリット語です。
意味は、アートマ(中心の)という単語から派生した単語で、日本では、ほとんど馴染みがない言葉ですが、
最近では、インド関連のスピリチュアルな本などで、「真我」と訳されることが多いようです。
それでは、そのアートマン(真我)とは、一体、どんなモノなのでしょうか?
アートマンは、前回の記事で引用したスワミ・ラーマの一文も語っているように、
人間の持つ五感(見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐ)では感知し得ないモノとされているので、その存在を知る人は、極少数であることは間違いないでしょう。
このアートマンを知識でなく、体験を通して識っていくことは、
アートマンは、五感で感知できないだけに、難しいことであるのは間違いありません。
しかし、スワミ・ラーマを始め、聖者と呼ばれている方々の中には、
カルマを超えて、完全に自由な存在となるためには、アートマンを見つけ出す必要がある、ということを語る方々が多いというのも事実だとお伝えしておきたいと思います。
そして、このブログでお伝えしている完全覚醒者でいらっしゃるナーナさんも、
常々、同じことをおっしゃいます。
(それは、ナーナさんの公式HPのタイトル「真我の目覚めるとき」からも明らかです)
アートマンに関する朧気でその輪郭ぐらいであっても、ある程度の予備知識があれば、
私たちは、私たちが歩んでいるアートマンを探し出すためのプロセスを、少しでも短縮することができるやもしれません。
アートマンのイメージを掴むために、アートマンとはどのような存在であるか?について、多少なりとも知っておくことは、全くの無意味というわけでもないと思われますので、少し難しい説明のように感じるかもしれませんが、敢えて、ここでご紹介させて頂きます。
「(インドの古い聖典)ウパニシャッドは、事物・生類・人間を含む一切の存在者が一なる実在から出現するものであるという創造観、そしてそれらの消滅とは、同じその一なる実在に帰還することである、と観じる還減観を提示することによって、<あらゆるものが一である>という思想を作りだしている。
『蜘蛛が糸を(自分の中から)吐き出して(網を張り、そしてまたその網を自分の中に)引き入れるように、大地に植物が生えるように、また生きている人から頭髪と体毛が生えるように、あらゆるものはここでは不滅なるものから生起する。』
(ムンダカ・ウパニシャッド)
さらに、このような比喩も参考にしてみましょう。
『 父「そこからニヤグローダ(いちじく科の聖樹)の実をもってきなさい」
子「もってきました」
父「その実を割ってごらん」
子「はい、割りました」
父「その中に何が見える?」
子「非常に小さな種粒が見えます」
父「その一つの種を割ってごらん」
子「はい、割りました」
父「その中に何が見えるかね?」
子「何も見えません」
父「我が子よ、汝が知覚しないこの微細なもの、まことにその微細なものからこの ような大きいニヤグローダの樹が生じているのだよ。
そのように信じなさい。我が子よ。
この微細なものをこの全存在は本質とするのだよ。
それが真理なのだ。それがアートマン((真)我)である。
汝がそれである。」
この父と子の対話で述べられている「汝はそれである」という短い文章はきわめて啓示に富む暗示的な語句である。
このウパニシャッドの核心を表す重要な語句とみなされ、<大格言>と呼ばれるようになった。
真の自己は個別的な自我ではなく、むしろあらゆる他者とともに共通にもっている普遍我というべきものである。
それはすべての生類がもつものであるから、それらの生類の間には本質的な区別は存在しない。
私、あなた、彼、彼女というような区別は真の意味では存在しない。
すべての生類は<一なる存在>から生まれ、死ぬとそれへと還ってゆくのである。
生類だけではない。
無生物を含めたあらゆる存在者が存在において一なるものとされており、存在からの派生変化したものである。
それゆえに存在の本質を理解することは、あらゆるものの根拠を説明する知、ものの<一なること>の知をもつことである。』
またその上に アルジュナよ
わたしは全存在を生み出す種子である
動くものも 動かぬものも
わたし無しには存在し得ない
(バガヴァッド・ギーター第10章39)