クンダリニーについて(4)
クンダリニーという私たちの体に眠っている生命エネルギーの源の力(シャクティ)について正しく理解するために、この宇宙に満ち満ちている宇宙エネルギー、プラーナについて、正しく理解する必要があります。
気功などで知られている「気エネルギー」と「プラーナ」は、同じものでしょうか?
それとも、違うのでしょうか?
もし同じでないとすると、どう違うのでしょうか?
その辺りの解説をご紹介することで、よりプラーナ、そしてクンダリニーについて、理解が深まることと思います。
プラーナは、肉体感覚として掴むことができると、空中浮遊を成功させたヨーギーの成瀬雅春さんは、書いています。
どのように体感すれば良いのか?また、どのような体感なのか?見て行きましょう。
『では、プラーナの存在を、どうやって把握し、理解することができるのでしょうか。
プラーナは体感する、つまり肉体感覚でつかむことができます。
逆に、肉体感覚としてつかめないうちは、知識でどんなに「プラーナが判った」と思っても、本当に判ったことにはなりません。
いや、それはまったく判っていないのと一緒だと思ってください。
たとえば、日本食を食べたことがない外国人に、盛りそばやきつねうどんの味を言葉で説明しても、理解してもらうのは大変です。
いろいろな角度から、きつねうどんの味をさまざまな言い回しで説明して、さてどのくらい判ってもらえるかというと、ほとんど判ってはもらえません。
では、どうやれば判ってもらえるかというと、きつねうどんを実際に食べてもらうしかないのです。
美味しいとかまずいといった感想は別として、「きつねうどんとはこういうものだ」ということは、食べたとたんに判ってしまいます。
プラーナを体験するというのは、まさに実際にうどんを食べてその味を知ることと同じです。
夢の中で食べるとか、食べる真似をするというのとは違います。
ところが実際には、プラーナを体感せずにプラーナを理解したと思っている人が少なくありません。
だから、たいていの場合は自信を持って「プラーナを体感した」とはならず、「あれ、これはプラーナの動きかな?」とクエスチョンマークがついた感覚になってしまいます。
これでは、体感していることにはなりません。
うどんを実際に食べている人は、「これがうどんの味だ」とはっきり判ります。
決して「食べているのかな?」「こんな味なのかなあ?」という疑問は生じません。
そういう疑問を感じるのは、食べることを想像しているときや、夢の中で食べているときです。
同じようにプラーナを体感していない人は、判ったと思っても、どうしても「これがプラーナかな?」という疑念を拭い去ることができません。
逆にきちんと体感すれば、「これがプラーナだ」とはっきり理解することができます。
では、そのプラーナをどう体感すればいいのでしょうか。
そのために、まずプラーナを意識的に取り込む方法を説明しましょう。
プラーナは宇宙に満ちている生命エネルギーですから、誰からでもどこからでも取り込むことができます。
たとえば私が、誰か別の人からプラーナを取り込むとしましょう。
そのときに、その人の生命エネルギー(=プラーナ)は、私に取られたからなくなってしまう訳ではありません。
生命エネルギーがなくなってしまえば、その人は死んでしまいますが、取られた分のプラーナは、他の人や生物、物質などからその人に入り込んできます。
このことからも、「プラーナ=気」とする解釈が正確ではないことが判ります。
「気」については、「他人の気を奪う」とか「自分の気を弱っている人に与える」といった言い方をします。
しかし、それはあくまで人間が相手の場合に限られ、「椅子の気を養う」とか「時計に気を与える」という表現はありません。
しかし、「気」ではなく、「プラーナ」であれば、相手が椅子でも時計でも、与えたりもらったりするのはごく自然なことです。
人のプラーナを取り込んで、人にプラーナを与えることもできるし、椅子のプラーナを取り込んで、時計にプラーナを与えることもできます。
「すべてがプラーナに満ちており、プラーナでできている」と解釈することが重要なのです。
それが、プラーナを体感するときの手掛かりになります。
ただし、すべてがプラーナでできているとは言っても、どこからプラーナを取り込んだかで、感じ方がいくらか異なります。
人からプラーナを取り込んだときと、椅子から取り込んだとき、時計から取り込んだときでは、それぞれ手応えというか、感じが違うのです。
「粘り気が違う」という表現もできます。
それは、プラーナを与える場合でも同じです。』
(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)
>アストラル体(幽体)とは何か知りたい。
スワミ・シバナンダ
アストラル体とは微細体で、幽体とも呼ばれる。
我々の感知できる肉体と相対する形で、非感覚に我々の肉体の中に存在する。
その関係は、サッカーボールの表皮(肉体、物質界)と内側に層をなす内袋(アストラル体)に似ている。
肉体とアストラル体はそれぞれの部分で正確に呼応している。
五つの行為器官(手、足、口、排泄、生殖)、五つの知覚器官(眼、耳、鼻、舌、皮膚)、五つのプラーナ(アパーナ、サマーナ、プラーナ、ウダーナ、ヴィヤーナ)、さらにマインド、インテレクト、チッタ、ブッディ、アートマンとなる。
これを「多重構造」と呼ぶ学者もいる。
ヨーガでいうパンチャ・コーシャ(五つの鞘)の内、マノーヤマ・コーシャ(意識の鞘)ニャーナマヤ・コーシャ(知識の鞘)がアストラル体である。
死後に肉体から抜け出して天国に行くのはこのアストラル体である。
さらに、永遠不滅の存在(大いなる神)を知り、アストラル体も消滅したとき、人は輪廻転生のサイクルから完全に解放される。
>死の時、体のどの部分から魂は抜けるのでしょうか。
スワミ・シバナンダ
生命エネルギーは、ナーディと呼ばれる管を通して体内を駆け巡っている
プラーナは流れを引き上げ、アパーナは下げる働きをする。
この働きが絶え間なく行われているから、我々の生命は維持されているのだ。
しかし、どちらか一方が弱くなった瞬間、そこが魂の出口となる。
アパーナが譲った時、魂は頭、鼻、口などから抜け出る。
プラーナが譲った時は肛門から出る。
>現世からの脱出が目標ならば、慈善事業や奉仕活動の意味はどこにあるのか。
スワミ・シバナンダ
現世からの脱出がゴールではなく、世俗的なことからの解放こそが真の目的である。
霊的修行において、ある段階までは慈善事業や奉仕は相当重要な意味を持つ。
しかしある時点以降は、より高い純粋意識によってすべてが超越される。
慈善事業が大きな変革や人類の救世主になれるわけではない。
しかし慈善や奉仕を行う人は、奉仕という行為によって自分のエゴを宇宙の愛の祭壇にささげ、お返しに心の浄化を得る。
心の浄化は霊的な向上には不可欠なことである。
(ヨーガと空の科学 スワミ・シバナンダ)
魔性の者たちはーー為(す)るべきことと
為(し)てはならぬことの区別を知らない
清らかさも無く 礼儀もわきまえず
不誠実 不正直である
彼らは言うーー『この世界は幻影であり
何の根拠もなく 神など存在しない
すべては性欲によって産まれ出たもので
そのほかには何もない』と
このような考えの結果として
彼らは堕落し 知性を失い
有害な恐ろしい仕事をして
世界を破滅させようとする
(バガヴァッド・ギーター第16章7-9)
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☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
☆束縛から解放され真の自由を得たい人
☆真我の目覚めを体験したい人
☆神の直接体験に与りたい人
など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、
クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
☆シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。
☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。
チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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