最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(5)
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉から、「バクティ・ヨーガ」における”真のバクタ(神への信愛)”について、ご紹介しています。
それは、前回ご紹介しました、聖ラーマクリシュナの「昔より格段に忙しい毎日を送っている現代人には、他のヨーガ(真理にいたる道)よりも、バクティ・ヨーガを実践する方が、適している」という遺されたお言葉から、
特に「バクティ・ヨーガ」について、より詳細にご紹介することで、真理への道の短縮につながることを期して、時間をかけてご紹介しています。
前半は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「最高の愛」から、前回の続きです。
後半は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの師(グル)であらせられる聖ラーマクリシュナのお言葉から、「見神」についての詳しい解説をご紹介いたします。
これらは、言葉(観念)、知識ですが、真理を悟った人びとの言葉に触れることは、それを聴く人の心にさざ波を立たせ、やがて、そのさざ波は、大きな波となって、大海を渡って行く小船である個人を、探求の最終ゴールへと導いていくことでしょう。
『バクタになる最初の課題は、そのような願い、たとえ天国に行きたいという願いであろうと、全部投げ捨ててしまうことだ。
天国は、それ自体では、ここと同じようなところ、ほんのちょっとだけよいところだろう。
私たちはここでわずかばかりの不幸と幸福を持っている。
それだけだ。
天国では、たぶん、今より少し少ない不幸と、少し多い幸福を持つのかもしれない。
そこに、ここにあるより多くの光があるわけではなかろう。
それは私たちの良い行為の結果に過ぎないだろう。
クリスチャンたちの天国の観念は強い喜びが得られる場所というものだ。
そんなものがどうして神に値するといえようか。
問題は、どうしたらそのような欲望を全部捨て去ることができるかということになる。
これらの欲望が人を不幸にする。
人間はこれらの欲望に縛られる奴隷だ。
欲望の手の中でおもちゃのようにころげ回っている操り人形だ。
私たちは、どんなものによっても打ちのめされるこの肉体をいつも気に掛けている。
だから、絶えざる恐怖の中で生きている。
鹿は、恐怖のために、平均、日に100~110キロも逃げ回らなければならないということを、何かで読んだことがある。
何キロも走りに走り、やがて立ち止まり、何かを食べる。
だが、私たちは鹿よりも悪い状態にいることを知らなければならない。
鹿はしばしば休息できるが、私たちはできない。
鹿は草を十分に食べれば満足する。
しかし、私たちはあまりにも狂い、不自然になってしまったため、自然のものは私たちを満足させない。
私たちはつねに病的なもの、不自然な刺激、不自然な食べ物、飲物、環境、生き方を追い求めている。
私たちは呼吸できるようになっている空気をまず汚染している。
恐怖についていえば、私たちの生活は恐怖の塊以外の何ものであろうか。
鹿は、虎や狼の恐怖のように一種類のものを恐れるだけだ。
人間は全宇宙を恐れている。
この状態から私たち自身を解放する方法。
これが問題だ。
実利主義者たちは立ち上って言うだろう。
「神や未来について語るのを止めよ。
それらについて私たちは何も知らないのだ。
この世で幸福に生きようではないか」と。
可能ならば、私はまっさきにそうしたい。
しかし、この世界は私たちにそうはさせてくれないだろう。
あなたがたが自然の奴隷である限り、どうしてそんなことができようか。
もがけばもがくほど、ますます巻き込まれてしまうのだ。
何のためか、何年になるかは私は知らないが、あなたがたはいろいろな計画を練ってきた。
だが、ひとつの計画の終りにはことはいっそう悪くなっているように思える。
200年前には、旧世界の人びとはほとんど欲望は持っていなかった。
救いでは、少なくとも天国では、私たちの欲望は満たされるだろうと考え、それで天国に行くことを望むのだ。
この永遠の、消えることのない渇き!
つねに何かを求めている!
人は、乞食のとき、金を求める。
金があると、他のもの、社会を求め、そのあとは、またほかの何かを求める。
休む間もない。
どうしたら、この欲望の炎を消すことができるのだろう。
天国に行ったとしても、欲望は増えるだけだろう。
貧乏人が金持ちになっても、欲望は消せない。
火に油をそそぐようなもので、火勢が強くなるだけだ。
天国に行くことは、ますます金持ちになることを意味し、そして欲望はますます強くなる。
世界中のさまざまの聖典の中には、天の神々がする人間的な遊びの物語が書いてある。
彼らはそこで必ずしも善ではない。
結局のところ、この天国に行きたいという欲望は、快楽を求める欲望である。
この欲望を放棄しなければならない。
天国に行きたいと思うことは余りにもちっぽけで、低俗すぎる。
それは、億万長者になり、人びとに君臨しようと思うのと同じことだ。
この種の天国はたくあんある。
しかし、そこを通っては宗教と愛の門にはいる権利を得ることはできないのだ。」
(最高の愛 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
『モニ
「それでは、あの、神をつかむ、体得するとは、どういう意味なのでございますか?
それから、神を見るとか、対面するとかおっしゃいますのは、どういうことなのでしょう?
どうすればできるのでございますか?」
聖ラーマクリシュナ
「ヴィシュヌ派の人たちはこう言っている。
神への道を進んでいる人びとや、もう神を体得した人たちにはこれこれの種類があると。
つまり、プラヴァルタカ(初心者)、サーダカ(修行者)、シッダ(成就者)それからシッダのシッダ(完全成就者)、道が上がり始めたばかりの人をプラヴァルタカという。
礼拝祈祷の修行をして、つまりお祈り、称名、瞑想、讃神歌の詠唱などをしている人がサーダカだ。
神様がいらっしゃるということを直観と知性ではっきりと認めている人をシッダというのだ。
ヴェーダーンタ派がよくいう譬えだが、真っ暗な部屋で主人が横になっている。
誰かが主人を手さぐりで探している。
寝床の端に手でさわって言う――“これじゃない”。
窓枠にさわって言う――“これじゃない”。
戸にさわってまた――“これじゃない”と言う。
“ちがう(ネーティ)、ちがう(ネーティ)、ちがう(ネーティ)”。
最後には主人の体にさわったとき言う――“ここだ”。
これが主人、つまり“主人がここにいる”ことがわかる。
主人をつかんだが、まだ特に親しく知り合ったというわけではないよ。
それからもう一つ、シッダのシッダというのがある。
もし、主人と特別親しく話し合うことができたら、これはまた別な状態というものだ。
愛と信仰を通して、神様と親しく語り合うようになったらね。
神様にすっかり受けいれられたシッダ――神様と特別親しく語り合っていなさる御方をシッダのシッダと言うのだ。
だが、あの御方をつかんだら、一つの決まった態度をとらなきゃいけない。
シャーンタ、ダーシャ、サッキャ、ヴァッツァリャ、マドゥラのどれかだ。
シャーンタ(静かな)――これは古代の見神者(リシ)たちの態度。
かれらは外に何の楽しみも望まない。
ちょうど妻が夫に見も心も捧げているようなもので――自分の主人がカンダルパ(カーマデーヴァ、愛の神)だということを知っているのだ。
ダージャ(献身的な奉仕)――ハヌマン(ラーマーヤナの中で、ラーマの信者で猿の英雄)のような境地。
主ラーマの御用をするときはライオン並みになった。
立派な妻にもこの気持ちがあるもので、命がけで主人に仕える態度だ。
母親の中にもいくらかこんなのがある。
ヤショーダー(クリシュナの養母)がそうだったよ。
サッキャ(友愛の)――友達の態度だ。
さあおいで、そばにきて坐っておくれ。
シュリー・ダーマたちは主クリシュナに自分たちの喰いかけの果物を食べさせたり、取っ組み合いをしたりした。
ヴァッツァリャ(母の子に対する態度)――ヤショーダーの態度だ。
妻にも幾分この気持ちがある。――自分の生命をけずっても主人を養うという。
子供が満腹するまで食べたとき、はじめて母親は満足する。
ヤショーダーはクリシュナに食べさせようと、出来立てのバターを持ってあちこち歩き廻ったものさ。
マドゥラ(甘く美しい)――(主クリシュナに対する)聖マティー(ラーダー)の態度。
妻もマドゥラの気持ちをもつ。
この態度の中には、ほかの態度もすべて入っている――シャーンタも、ダーシャも、サッキャも、ヴァッツァリヤも」
モニ
「神を見るという場合、この眼で見えるのでございますか?」
聖ラーマクリシュナ
「あの御方は肉眼では見えない。
修行を続けていると、愛の体とでもいうようなものが出来てくるのだ。――そして愛の眼、愛の耳もね。
その愛の眼であの御方が見えるし、その耳であの御方の声がきこえてくる。
その上、愛のリンガ(男性生殖器)やヨーニ(膣)まで出来るのだ」
この言葉をきくと、モニはついウフフと吹き出してしまった。
タクルはきにもかけずに話し続けられる。
聖ラーマクリシュナ
「この愛の体で真我と交わるのだよ」
モニはまた厳粛な態度に戻った。
聖ラーマクリシュナ
「神に向かって猛烈な愛情を持たなければ、そんなふうにはならないよ。
猛烈に好きになれば、四方八方いたるところに神が見えてくる。
黄疸がひどくなれば、そうするとあたり一面が黄色く見えてくるようなものだ。
そのときは“あの御方がわたしだ”という感じになる。
酒飲みがひどく酔っぱらうと、「このおれさまがカーリーだ」と言うだろう。
ゴーピー(牛飼い)たちは愛に夢中になって、「この私がクリシュナだ」と叫びだした。
あの御方を夜となく昼となく思っていると、あの御方があたり一面に見えてくる。
ランプの炎をじっと見つづけてしばらく経つと、四方八方が炎だらけに見えてくる」
モニは内心で、「それは、本当の炎ではない」と思った。
タクルはそれを読み取ってこうおっしゃる。
「意識そのものを思っていれば意識を失うことはない。
シヴァナートが、「百回、神のことばかり考えていたら、頭がおかしくなる」と言ったから、私はかれに言ってきかせたよ。
至高意識そのものを想念しているのに、どうして無意識になるんだい?とね」
モニ
「そうです、わかります。
一時的な、すぐ変化したり滅びたりするものを想念するのではないからですね?
意識そのもの、生気そのものである御方に心を集中して、人間が無意識になったり知性を失ったりするはずがありません」
聖ラーマクリシュナはたいそう満足した様子で、
「これは神様のお恵みだよ。
あの御方のお恵みがなくては、疑いは晴れないものだ。
真我(アートマン)に対面しなくては、疑いや迷いは心からすっきり晴れないものだ。
あの御方のお恵みがあれば、もう何一つ恐れるものはない。
父親の手をつかんでいても、子供は転ぶことがあるよね?
だけど、父親が子供の手をしっかりつかんでいたら、もう大丈夫なんだ。
神様のお恵みがあって、疑いや迷いが消え、そのうえご対面下さったなら、もう何一つ苦しみや悩みはない。
だから、あの御方に届くように、ありったけの力で呼び続ける――つまり修行を熱心に続けていれば、お恵みがいただけるわけだよ。
子供がハァハァ言いながらあちこちかけ廻って探すのをみると、母親は可哀そうに思う。
隠れていたんだが、出てきてやる」
あの御方は、どうして我々をかけずり廻らせるのだろう、とモニはいぶかる。
――タクルは、すぐ察して話される。
「しばらくの間、かけ廻らせるのが神の御意(おこころ)だ。
だから面白いんだよ。
あの御方は、遊戯(リーラー)のためにこの世界をお創りになったのだ。
これがマハーマーヤー(大いなる現象、又は幻象)と呼ばれているのだ。
だから、その、力(エネルギー)と美と愛そのものである大実母(マー)にすがって護っていただくんだよ。
マーヤーの足枷につながれているんだから、この足枷を切りさえすれば神様にお会いできるのだ。」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
次回も引き続き、「バクティ・ヨーガ」について、ご紹介したいと思います。
かれはあらゆる感覚機能をもつが
かれ自身には感覚器官が無い
一切を維持しながら一切に執着なく
物質性(グナ)を楽しんで 物質性(グナ)を超越している
全てのものの内にも外にもかれは在り
不動であって しかも動く
はるかに遠く また極めて近く
その精妙なこと とても肉体感覚では認識不可能だ
個々に分かれて存在するように見えるが
かれは決して分かれず常に一(ひとつ)である
かれは万生万物の維持者であるが
一切の絶滅者であり 創造育成者である
(バガヴァッド・ギーター第13章15ー17)
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☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
☆束縛から解放され真の自由を得たい人
☆真我の目覚めを体験したい人
☆神の直接体験に与りたい人
など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、
クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
☆シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。
☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。
チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(4)
「見神」(悟り)に至る道は、いろいろありますが、
今、ご紹介している道は、バクティ・ヨーガ、信仰の道です。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉から、真の「バクティ」(神への信愛)とは、どういうものか?について、ご紹介しています。
かなり厳しい内容のように感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは解脱へ至る道ですから、平坦な道ではないことは当然であり、「狭き門」より入り、自己の本性を悟ることで、「永遠の実在」であるブラフマンに至る細くて狭い道なのです。
そして、この「バクティ・ヨーガ」が、末世(カリユガ)である現代においては、一番適した「悟りへの道」である、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダの師(グル)でいらっしゃいます聖ラーマクリシュナのお言葉も併せて、ご紹介させて頂きます。
『このように、心がこの具体性という訓練を受けるものには様々な形式がある。
そこから、私たちは、一歩一歩、抽象的なものの理解、抽象的な悟りへと進んでゆく。
再び言うが、同じ形式がすべての人に合っているわけではない。
ある形式があなたに合っているし、別の形式がほかの誰かに合っているだろう、等々。
同じ目標に通じているにしても、すべての形式が私たち皆に合っているわけではない。
ここに私たちが犯しやすい別の過ちがある。
私の理想はあなたに適していない。
それなら、なぜ、私はあなたがたにそれを強制する必要があろうか。
私の教会の建て方や賛歌の読み方はあなたに合っていない。
それなら、なぜ、私はあなたにそれを強制する必要があろうか。
世界を回ってごらん。
馬鹿どもが皆、自分の形式だけが唯一正しい、ほかの形式はみな悪魔のものだ、そして、自分だけがこの世界に生まれた唯一の「選民」だと言うだろう。
これらすべての形式はみな良いもので、役に立っている。
そして、人間の性質にはさまざまの種類があるように、宗教にも数多くの形式が必要だ。
そしてその数が多ければ多いほど世の中にとってはよい。
世界中に20の宗教の形式があれば非常にけっこうだ。
400あればなおけっこうだ。
より多くの中から選択できるからだ。
だから、宗教と、宗教的な観念の数が増えて、何倍にもなれば私たちは喜んだほうがよい。
なぜなら、そうなればそれらがすべての人を含み、人類をよりいっそう助けれくれるからだ。
すべての人がほかの人とまったく異なった、自分自身の宗教を持てるほど宗教の数が増えたら、神にとってはどんなによかろう。
これがバクティ・ヨーガの観念だ。
その最終的な観念は、私の宗教はあなたのものではありえないし、あなたの宗教は私のものではありえないということだ。
目標と目的は同じだが、それぞれの人はその性癖にしたがって、別々の道をとらなければならないのだ。
そして、これらの道はさまざまであるが、それぞれの道はみな真実でなければならない。
それぞれが同じ目標に通じているからだ。
ひとつだけが真実で、ほかは間違いだということはありえない。
自分自身の道を選ぶことは、バクティの用語では、イシュタ、選ばれた道と呼ばれている。
それから、言葉がある。
あなたがたはこの言葉の力について聞いたことがあるだろう。
言葉は本当にすばらしい。
聖書、コーラン、ヴェーダなどの聖典は言葉の力で満ちあふれている。
ある言葉は人間性の上にすばらしい力を及ぼしている。
それから、他の形式や象徴がある。
象徴は人類の心に大きな影響を与えてきた。
しかし、宗教の中の偉大な象徴は偶然にできたものではない。
私たちには、それらが思想の表現だということが分かる。
私たちは象徴を使って考える。
すべての言葉はその背後にある思想の象徴に過ぎない。
そして、民族が違えば理由を知らずに違う象徴を用いるようになる。
それは隠れている。
これらの象徴は思想と結びついている。
思想が象徴を外に引き出すように、象徴は、逆に、思想を内に引き入れることができる。
このように、バクティのこの部分は、象徴と言葉と祈りというさまざまの主題について告げる。
すべての宗教に祈りがある。
しかし、ここで銘記しておかなければならないのは、健康や富を求めてする祈りはバクティではないということだ。
それは皆カルマであり、報償を求める行為だ。
実質的な利益を求めてする祈りは、例えば、天国へ行くことを求めてする祈りなどはカルマに過ぎない。
神を愛し、バクタになることを求める人びとはこのような祈りをすべて捨てなければならない。
光りの国に入りたいと思う人は、この売り買いの、「商売」の宗教を全部束にして脇へ寄せ、それから、門に入りなさい。
あなたがたが祈り求めるものが得られないからではない。
何でも得られるだろう。
だがそれは卑しく、低俗な、乞食の宗教だ。
ガンジスの岸辺に住みながら、水を求めて小さな井戸を掘る者は本当に馬鹿だ。
ダイヤモンドの鉱山に来ていながら、ガラス玉を探す者は本当に馬鹿だ。
ダイヤモンドの鉱山である神に、健康や、夕食や、一枚の布切れを乞うことは何たることだ!
それらはこの世のガラス玉にすぎない!
この肉体はいつかは滅びる。
その肉体の健康を何度も何度も祈って何になるというのだ。
健康や富が何だというのだ。
大富豪だって、自分の富のほんのわずかしか使えない。
私たちはこの世にあるものすべてを手に入れることは決してできない。
そんなものを誰がきにするというのか。
なにか良いものがきたら、大歓迎。
それが行ってしまうのなら、よろしい。
行かせてやろう。
それらが来るならけっこうだ。
それらが行っても、やっぱりけっこうだ。
私たちは神を悟ろうとしているのだ。
王の中の王の面前に行きたいと努力しているのだ。
乞食の衣装ではそこへは行けない。
乞食の衣服で皇帝の面前に出たいと願ったとして、果たして、受け入れられるだろうか。
もちろん違う。
追い払われてしまうだろう。
私たちの神は、帝王の中の帝王だ。
私たちは乞食のぼろでその御前に行くことはできない。
商人もいまだかってそこに受け入れられたことはなかった。
売買はそこでは役に立たないからだ。
聖書にあるように、イエスは神殿から商売人たちを追い払った。
それなのに、ある人びとは「おお、主よ。わたしはこの小さい祈りをあなたがにお捧げします。
お返しに私に新しい洋服をお与え下さい。おお、主よ。
私の頭痛をお治し下さい。
明日はもう2時間お祈りします」
あなたがたの心の状態よりもう少し高く自分を置きなさい。
祈り求める小さなものより自分を高く考えなさい。
人が精神的エネルギーの全部をそんなものの祈りに使うとしたら、人と動物の違いはどこにあるというのか。』
(最高の愛 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
『マリワリの信者
「お上人さま(マハーラージ)、ガンジス河の岸辺で死ななければ、解脱できないのでございますか?」
聖ラーマクリシュナ
「智識が完成すれば、解脱できるんだよ。
どこに居たってかまうものか--死骸やゴミが積み重なった山で死のうが、ガンジス河の岸辺で死のうが、正しい智識をもった人は解脱する。
だが、無智な人にとっては、ガンガーの岸辺がいいんだろうねえ」
マリワリの信者
「お上人さま(マハーラージ)、ベナレスで死ねば解脱できるというのは、どういうわけでございますか?」
聖ラーマクリシュナ
「ベナレスで死ぬとシヴァが会って下さる。
そして、『わたしのこの形をとった相(すがた)は、無明(マーヤー)のなかでとった姿だ。
わたしは、信者たちのためにこの相(すがた)をとっている。--さあ、見なさい。
わたしは完全無欠のサッチダーナンダに溶け込んでいく!』こうおっしゃって、その姿は消える!
プラーナでは、賤民でさえ神を信仰すれば解脱できると言っている。
この教義では、称名をしさえすれば解脱できると言う。
犠牲供養も、密教的修行も、マントラも、一切合切必要ないと言っている。
ヴェーダの考え方はこれとは別だ。
バラモン(祭祀を執り行う階級)でなくては解脱できない。
マントラを正しく発音して称えなければ、神は祭祀を受けつけない。
犠牲供養、秘密の修行、マントラのくり返し--みんな規則通りに行わなければならない」
「末世(カリユガ)の今、ヴェーダに書いてある通りの行事をする時間があるかい?
だから現代は、ナーラダのような”信仰”(バクティ)がいいのだ。
カルマ(行い)・ヨーガは大そう難しい。
無私の気持ちになれなければ、行いは束縛(しばり)の原因になる。
その上、食物なしには生きられないから--すべてのことをその通りに行うヒマがない。
昔ながらの木根草皮を十種類もあつめて煎じ薬をつくっているうちに、熱病人の方は間に合わなくてオダブツだ。
現代の熱サマシを飲まなけりゃだめだ。
ナーラダのような信仰--あの御方の名を唱え、讃歌をうたうことだ。
末世(カリユガ)にはカルマ・ヨーガは合わない。
信仰(バクティ)のヨーガが適している。
世間にいて、過去世でしのこした経験(ボーガ)がある分だけ仕事をしろ。
そして、神への信仰、恋慕の気持ちを養うことだ。
あの御方の名をとなえて讃歌をうたえば、過去の行為は帳消しになるからね。
仕事を一生の間する必要はないんだよ。
あの御方を清浄(きれい)な気持ちで慕うにつれて、仕事の方は減ってくる。
あの御方をつかんでしまえば仕事は捨てられる。
嫁が胎に子をはらめば、姑は家事を減らしてくれる。
赤ん坊が生まれたら、もう何もしないで子守だけしていればよくなる」
青年
「先生、智慧とはどういうものですか?」
聖ラーマクリシュナ
「神だけが真実在で、そのほかはすべて虚仮(こけ)。
これを知るのが智慧だ。
真実在--またの名をブラフマン。
もう一つの名を”時”(カーラ)という。
だから、こう言われているよ。--『兄弟よ、ごらん、何と多くのものが”時”(カーラ)のなかに生まれ、”時”(カーラ)の中に消え去るか』
大実母カーリーは、”時”(カーラ)と交接なさる。
カーリーは根源造化力(アディアシャクティ)のことだ。
時(カーラ)とカーリー、ブラフマンと創造力(シャクティ)--不異(おなじ)ものだ。
”それ”(タット)、真実在のブラフマンは永遠だ。--
三世(過去、現在、未来)にわたって実在している。
初めも終わりもない。
それを言葉で表現することはできない。
無理して言えば、それは霊(精神)そのものであり、歓喜(よろこび)そのものだ。
世界は一時的なもの、あの御方だけ永遠だ!
われわれの見ている世界は魔術のようなものだ。
魔術師だけはほんとうにいるが、魔術師の見せる魔法はその場かぎりの現象だよ」
青年
「この世界は幻象(マーヤー)で、魔法だとおっしゃいますが、どうしてこの幻象(マーヤー)は、いつまでも消えないのでしょうか?」
聖ラーマクリシュナ
「前生から続いてきた錯覚で、幻象(マーヤー)は消えないのさ。
何度も何度もこの幻象(マーヤー)の世界に住み続けてきたから、この幻象(マーヤー)が実在だと思い込んでしまっているのさ。」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
この錯覚を取り去ること、眼に見える現象はすべて幻象(マーヤー)だと見抜くこと。
それは同時に、永遠の真実在が、自己の本性として悟られることを意味します。
自分の中に、「神」を見い出すこと。
それが、「見神」であり、探求者にとっては、自己の本性を悟ることが、探求のゴールなのです。
さて、永遠の生命を得るために
知るべきことを これから説明しよう
大霊ブラフマンは無死であり
有と無を超越している
あらゆるところに かれの手あり足あり
眼も頭も顔も至る処にあり
至る処に耳があって全ての音を聞き
全てを覆いつくして時空に充満している
(バガヴァッド・ギーター第13章13ー14)
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
☆束縛から解放され真の自由を得たい人
☆真我の目覚めを体験したい人
☆神の直接体験に与りたい人
など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、
クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
☆シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。
☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。
チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(3)
前回と前前回の記事では、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集より、「見神」(所謂、「悟り」)の準備段階においては、感覚の制御という点から、「食物の識別、選択」が、非常に重要であるということ、また、そのための具体的な実践方法について、詳しくご紹介いたしました。
小さなモノも、積み重ねていくと、大きなモノとなります。
日々のちょっとした実践であっても、諦めずに続けていくと、やがて、人生の流れを大きく変えるきっかけとなることでしょう。
それは、実践した者のみが、手にすることができる果としての結実なのです。
今回は、同じく、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺された遺稿集から、「バクティ(神を信愛する)とはどういうことか?」ということを、具体的に説明している部分をご紹介させて頂きます。
『バクティは2つの部分に分かれている。
ひとつはヴァイデイと呼ばれ、形式的、儀式的なものだ。
もうひとつはムクヤと呼ばれ、最高のものだ。
バクティという言葉は礼拝の最低の形式から最高の形式まで、すべての領域を含んでいる。
世界中のあらゆる国、あらゆる宗教でみられる礼拝はすべて愛というもので順序づけられている。
単なる儀式であるものも数多くある。
儀式ではないけれども、まだ愛ではない、低い段階にあるものもある。
それでもこれらの儀式は必要だ。
バクティのこの外的な部分は魂の前進を助けるために絶対必要だ。
自分が最高の状態まで一跳びで到達できると考えているとしたら、大きな間違いだ。
そして、私は、あなたがたが、宗教は書物の中にも、知的に同意することの中にも、推理の中にもないという考えをつねに心に抱いていただきたいと思う。
推理、理論、教義、信条、書物、宗教的な儀式はすべて宗教に至る補助に過ぎない。
宗教そのものは悟りから成り立っている。
私たちはみな「神はいます」という。
あなたがたは神を見たことがあるのか。
これが問題なのだ。
ある人が「神は天にいます」というのを聞く。
あなたがたは、彼が神を見たかと尋ねる。
もし見たといったら、あなたがたは笑って、彼は気違いだというだろう。
大部分の人の場合、宗教はある種の知的な同意か、教義以上のものではない。
私は今まで一度もこのような宗教を説いたことはないし、それを宗教と呼ぶこともないだろう。
この種の宗教を持つよりは無神論者でいる方がましだ。
宗教は知的な同意とかには依存しない。
あなたがたは魂はあるという。
魂を見たことがあるか。
私たちはみな魂を持ち、それを見たことがないというのはどういうことなのか。
あなたがたはこの質問に答えなければならないし、魂を見る方法を発見しなければならない。
もしできなければ、宗教について話すことは無駄だ。
もし、何かの宗教が真実だとしたら、それは私たちに魂を示し、私たちの中にある神と真理を示すことができなければならない。
もし、私とあなたがたがこれらの教義や信条について永久に争ったとしても、決して何らかの結論に達することはないだろう。
人びとは長年このように闘ってきたが、結果はどうか。
知性は決してそこに到達することはない。
私たちは知性を超えていかなければならないのだ。
宗教の証明は直観の中にある。
壁の証明は私たちがそれを見ることにある。
もし、私たちがすわり込んで、その壁の存在や非存在について長年にわたって議論したとしても、何かの結論に到達することはない。
しかし、直接壁を見れば、それで十分だ。
世界中の人がみなそんなものは存在しないといったとしても、あなたがたは彼らを信じないだろう。
あなたがた自身の眼の証拠が、世界中のすべての教義や信条の証拠よりも勝っているということをあなたがたは知っているからだ。
宗教的になるためには、書物をまず船から捨てなければならない。
書物を読まなければ読まないほどよい。
一時に一事だけをせよ。
現代にあっては、西洋諸国では脳みそのごったまぜを作ることがはやっている。
あらゆる種類の不消化の観念が脳の中を暴れまわり、混沌を生じ、落ち着いてハッキリした形を形成する機会を持つことができないでいる。
多くの場合、それは一種の病気にはなるが、宗教ではまったくない。
そこで、中には神経的な感覚を求める人びともいる。
彼らに、見えない状態で存在し、彼らを見張っている幽霊とか、北極や、ほかのどこか遠いところからやってくる、羽を持ったり、グロテスクな格好をした人びとについて語り、彼らをぞっとさせたら、彼らは満足して家に帰るだろう。
しかし、24時間もたたないうちに、また新しい感覚を受け入れる準備をしているだろう。
ある人びとが宗教と呼んでいるのはこれだ。
これは精神病院に通じる道で、宗教に通じる道ではない。
あなたがたが1世紀もこの道を歩み続ければ、この国は巨大な精神病院と化するだろう。
弱虫は主に到達することはできない。
そして、このぞっとさせるようなものは弱さに通じるものだ。
したがってこのようなものには、一指たりとも触れてはいけない。
それらは、人を弱くし、脳をかき乱し、心を弱め、魂を堕落させ、そして、救いようもない混乱をその結果としてもたらすだけだ。
あなたがたは、宗教が、お喋りや、教義や、本の中にあるのではなく、悟りの中にあるということを銘記しなければならない。
それは、知ることではなく、在ることだ。
「盗むな」はみな知っている。
だが、それがどうだというのだ。
盗まなかったひとが、それを本当に知ったのだ。
「人を害してはならない」ということはみな知っている。
だが、それに何の価値があるのか。
害しなかった人がそれを悟ったのだ。
彼らはそれを知り、その上に彼らの性格を築いたのだ。
だから、私たちは宗教を悟らなければならない。
そして、宗教のこの悟りは長い道のりだ。
人びとは、何か非常に高級ですばらしいものことを聞くと、みな、それがすぐに得られるものだと思いこみ、その高みに至るまで、努力して徐々に進まなければならないということを考えるために、一瞬たりとも立ち止まろうとはしない。
彼らはみなそこまで跳び上がりたがるのだ。
もしそれが最高のものだとしたら、私たちこそそれにふさわしいと思う。
私たちは、自分たちが力を持っているかどうかを考えるために立ち止まろうとは決してしない。
その結果は、私たちは何もしないということだ。
あなたがたはくま手に人を乗せて、そこまで押し上げてやることはできない。
私たちは皆少しずつやりとげてゆかなければならないのだ。
したがって、宗教の最初の部分はこのヴァイディ・ヴァクティ信仰の低い段階だ。
信仰のこれらの低い段階とは何か。
それらが何であるかを説明する前に、私はひとつの質問をしたいと思う。
あなたがたは皆、神がいます、そして、神は遍在する実在だという。
しかし、あなたがたの遍在という観念は何なのか。
答えとして、あなたがたは、眼を閉じて、それがどのようなものであるかをいうだけに過ぎない。
そして、あなたがたは何を見いだすか。
あなたがたは、それまでに見たことのある、海とか、青空とか、草原の拡がりのようなものを思い浮かべるだろう。
もしそうだとしたら、あなたがたは「遍在する神」によって、何の意味のあることも言ってはいない。
あなたがたにとって、それはまったく何の意味もない。
神の他の属性についても同じことだ。
一般的に、全能とか全知について、私たちはどのような観念をもっているだろうか。
何も持っていない。
宗教とは悟ることだ。
そして、あなたがたが神の観念を悟ることができたとき、私はあなたがたを神の礼拝者と呼ぼう。
それまでは、あなたがたが知っているのは言葉のスペリングだけで、それ以上のものではない。
そして、私たちが悟ることのできる、この状態に到達するために、具体的なものを通らなければならない。
ちょうど、子供たちがまず具体的なものから出発し、それから徐々に抽象的なものに進むように。
もし、赤ん坊に5かける2は10を教えたとしても、理解できないだろう。
でも、10個のものでどうして5かける2は10なのかを見せてやれば、赤ん坊は理解するだろう。
それは、ゆっくりとした、長い過程だ。
私たちはここではみな赤ん坊だ。
私たちは年をとっていて、世界中の本を勉強したかもしれない。
しかし、この霊性の領域ではみな赤ん坊だ。
宗教を宗教とするのはこの悟りの力だ。
教養や、哲学や、論理学説をいくらたくさん頭に詰め込もうと、たいして問題にはならない。
問題になるのは、あなたが何であるか。
何を悟ったかということだけだ。』
(最高の愛 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
時に、これらの言葉は、とても厳しく聞こえるかもしれませんが、その根底には、私たちを真の救済に導こうとする師(グル)の深い愛があることを感じます。
その道は、けっして平坦な道ではありませんが、それでも、敢えてその道を辿ろうと決めた人びとにとっては、その道を歩んでいくことは、けっして不可能ということはありません。
そのために、神は師(グル)という形で、この世に出現して下さっています。
その存在は、私たち探求者の心を照らして下さる光であり、神の恩寵そのものなのです。
この事実を信じることのできる人、この神の恩寵に素直に与れる人は、迷うことなく、真直ぐに、導かれることになるので、探求者にとっては、道の短縮に繋がるでしょう。
至上者(わたし)に対する不動の信仰
世俗を離れ 静かな処に独居する希望
一般大衆 俗世間の人々と
無益な交際をしないこと
自己の本性を知る(さとる)ことの重要さを認識すること
絶対真理への探究心ーー
以上のことは智慧の本質であり
これに反することは無知無明である
(バガヴァッド・ギーター第13章11ー12)
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☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
☆束縛から解放され真の自由を得たい人
☆真我の目覚めを体験したい人
☆神の直接体験に与りたい人
など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、
クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
☆シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。
☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。
チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(2)
前回の記事では、神を覚る(見神)のためには、「食物の識別」が大切である、という12世紀の南インドが排出したヴェーダンタ哲学者のラーマーヌジャが遺された文献を引用しながら、
スワミ・ヴィヴェーカーナンダが、私たちに分かり易く解説して下さった「神を識るための準備段階」としての「食物の識別」に関する実践方法を、ご紹介させて頂きました。
「神を識る」とは、知識によってではなく、体験を通して識ることを意味します。
ですから、「見神」あるいは、「神を識る」とは、「神を体験する」と同じです。
このためには、口から入れる物に対して、意識的である必要がある、ということ。
人間は、体を育み、生を持続させるために必要なエネルギーを「食物」という形で摂取しているわけですが、この食物の持つエネルギーには、いろいろあり、すべてが同じというわけではありません。
簡単に言うと、エネルギーには、重いもの、軽いもの、不純なもの、純粋なもの、など、そのレンジ(幅)は様々であり、それぞれに影響力が異なります。
もちろん、その影響力には、宇宙的な巨視的な観点からすれば、良い悪いはありませんが、
神は純粋意識、純粋エネルギーですから、私たちが、神に近づき、神に出会うためには、私たち自身のエネルギーが、純粋になる必要がある、ということを意味している、ということを理解するだけでも、探求者にとっては、道の短縮につながるでしょう。
そのためには、日々の食物に気を配り、自分自身のエネルギーを澱みや汚れのない浄いエネルギーにすることが必要で、
それにより、私たちは、純粋エネルギーである「神」に近づくことができるのです。
更に言うならば、私たちに直接影響を与えているのは、食物だけではありませんが、食物は、人間に最も大きな影響を与えているエネルギー源であることは、明らかです。
後日、この他にも、人間というエネルギー体に影響を与えているエネルギーの種類をご紹介したいと思いますが、
まずは、食物から受けるエネルギーを識別し、心身を浄くしてくれるモノを選んで食べることが重要です。
重く濁ったエネルギーは、見神どころか、心身を蝕み、病の原因となることがありますので、要注意です。
それでは、前回の続きを見てみましょう。
『さて、同じことを他の注釈者シャンカラチャーリヤ(700年頃に活躍した中世インドの思想家。不二一元論(アドヴァイタ)を提唱した)が説明しているが、それを話そう。
彼はまったく別の見解を持っている。
食物に該当するサンスクリット、アーハーラは「集めること」を意味する語幹から出ており、したがって、それは、集められたものを意味する。
彼の説明はどうか。
彼は「食物が浄ければ、心は浄くなる」と言っている。
つまり、感覚に執着しないためには、ある種のことを避けなければならないということだ。
先ず、執着についてだが、神を除いて、何ものにも極度に執着してはならない。
何ものを見ても良い、何をしても良い、何に触れても良い。
しかし、それに執着してはならない。
極端な執着が生じると、人は自分自身を見失ってしまう。
彼はもう自分の主人ではない。奴隷だ。
女が一人の男に極端に執着したとする。
彼女はもうその男の奴隷だ。
男の場合も同じである。
奴隷になることに益はない。
この世にはひとりの人間の奴隷になるより優れたことがある。
すべての人を愛せよ、すべての人に尽くせ。
しかし、奴隷にはなるな。
それは、まず、私たちをそれぞれに堕落させる。
つぎに、私たちを極端に利己的にする。
その結果、私たちは自分が愛する人に善を行うために他者を傷つけようとする。
この世界でなされる悪の大部分は、実は、特定の人びとに対する執着からなされるのだ。
良い仕事に対する執着を除いて、この種の執着は避けなければならない。
そして、愛はすべての人に与えられなければならない。
次は、嫉妬についてだ。
感覚の対象に対して、嫉妬を持ってはならない。
嫉妬はすべての悪の根元であり、しかも、最も克服しがたいものだ。
次は妄想だ。
私たちはいつも、あるものを別のものと取り違え、それに対して働きかけている。
そして、その結果、自分で自分を惨めなものにしている。
私たちは悪を善と取り違えている。
神経をちょっとくすぐるものを最高の善だと思い込み、じきにその中にとびこんでしまうが、それは私たちに手痛い打撃を与える。
だが、もうおそすぎる。
私たちは毎日この過ちを繰り返している。
しばしば、一生繰り返している。
感覚が、極端な執着なしに、嫉妬なしに、妄想なしに、この世界で働くとき、シャンカラチャーリヤによると、このような働きは「浄い食物」と呼ばれる。
食物が浄いと、心は対象を取り入れて、それについて執着も嫉妬も妄想もなく、考えることができる。
そのとき、心は浄まり、つねに神を考えているようになるのだ。
人がシャンカラチャーリヤの考えが結局は最善だ、と言うのは極めて自然だ。
しかし、私は最初の、ラーマーヌジャの考えも無視してはならないということを、つけ加えたい。
物質の食物について実際に気を配って初めて他のものはやってくるのだ。
心が主人だと言うことはまったく真実だ。
しかし、感覚に縛られない人は非常に稀である。
私たちはみな物質に支配されている。
物質に支配されている間は、物質の助けをかりなければならない。
十分に強くなったときに初めて、私たちは何を食べてもよくなるのだ。
それだから、私たちは、飲食について気を配るときはラーマーヌジャに従わなければならない。
また同時に、心の食物についても注意しなければならないのだ。
そのとき、霊的自己は徐々に強くなって行き、物質的自己は徐々にひかえ目になる。
そして最後には、どんな食物も、自分を害うことはない、と知る時がやってくる。
非常に危険なことは、みなが一度に最高の理想にまで飛び上がりたがることだ。
それは正しいやり方ではない。
落ちて脚を折るだけのことだ。
私たちはこの低い場所に縛りつけられている。
その鎖をゆっくり壊して行かなければならないのだ。
これがヴィヴェーカ、「食物の識別」と呼ばれているものだ。』
(最高の愛 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
前回と今回の二回にわたって、「食物の識別」に関してのスワミ・ヴィヴェーカーナンダのお言葉をご紹介しましたが、
これらは、理解するのは簡単であるかもしれませんが、言うは易し、行うは難し、で、実際に実践することは、お金を出せば、何でも食べることができる現代人には、とても難しいことでしょう。
しかし、一時的な快楽は、永遠なる存在である「神」とは、相反するもので、両者は、けっして相容れないため、
見神を望むならば、バクティ・ヨーガの道においては、浄い食物を摂ることは、とても重要なことなのです。
厳しいようですが、スワミ・ラーマのお言葉の通り、
『選択とは、神か富か、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望か、ということです。
ひとつの選択は、永遠の生であり、他の選択は、死から死を意味します。
それが奥義なのです。』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
ということを深く理解するならば、「食物の識別」の実践は、探求者が通るべき最初の関門と言うことができるでしょう。
次回は、見神のための「予備訓練」として、心の在り方についての解説が続きますので、引き続き、ご紹介したいと思います。
謙虚 虚栄(みえ)を捨てること
非暴力 寛容 正直
正師を求めて師事すること
清潔 堅忍不抜の精神 自制
欲望の対象から心を離すこと
我執を無くすこと
生死病死を苦とみなし
その本質を究めること
あらゆる事物に執着しないこと
妻子や家庭に対する愛着を捨てること
愉快なこと 不愉快なことにあたって
冷静であることーー
(バガヴァッド・ギーター第13章8ー10)
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☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
☆束縛から解放され真の自由を得たい人
☆真我の目覚めを体験したい人
☆神の直接体験に与りたい人
など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、
クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
☆シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。
☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。
チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(1)
真理の概要、イメージは掴めたけれども、実際に、神を掴む、神に出会うには、どうしたら良いのか?、具体的な実践方法が思い浮かばないのが、一般的な反応だと思います。
これまでに、チャクラの記事のところで、プラーナヤーマ(調気法)や瞑想をご紹介いたしましたが、それに加えて、もう少し取り組みやすく効果的な方法として、以下のスワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉をご紹介させて頂きたいと思います。
これは、誰もが比較的簡単に取り組むことが出来、そして、効果をダイレクトに感じ取ることができる優れた実践法です。
インドにおける多くのヨーギーや聖者の方々が、菜食であることは、偶然ではありません。
彼らは、私たち人間が、食物から受け取るエネルギーを完全に理解した上で、菜食を選択していると言うこともできるかと思います。
何故なら、私たちの心身を形成しているのは、口から入る食物であり、生きるエネルギーを与えてくれているのも、食物なのですから、食物が人間に与える影響は、人間が想像する以上であることは、明らかで、
食べた物により、どのような人間になるか?とまで言えるのです。
『バクティ・ヨーガの最善の定義はたぶんプララーダによって与えられた次のものだろう。
即ち、「識別力のない者が、はかない感覚の対象に対してつねに抱いているあの愛、それと同じ種類の愛を、“あなた”(主)に対して持つことができますように、“あなた”を想うときに感じる喜びが私のハート(感じる心)から消え失せませんように」(ヴィシュヌ・プラーナ)というものだ。
より良いものを知らない者たちが、感覚の対象、金銭、衣服、妻子、友人、所有物などに対してどんなに強い愛を持っているか、どんなに強く執着しているかを、われわれは知っている。
だから、この定義の中で賢者は言っているのだ、「この執着、この強い執着を、“あなた”に対してだけ持とう」と言っているのだ。
この愛が神に向けられたとき、それをバクティと呼ぶ。
バクティはこわれない。
それは、私たちに与えられた能力に、ひとつとして無駄なものはない、それらの中に、解脱にいたる自然な道が見いだされるのだ、と説く。
バクティは何ものをも抑制しない。
それは自然に反することはしない。
ただ、それに、より高い、より力に満ちた方向を与えるだけである。
なんと自然に、私たちは感覚対象を愛することか、また、私たちはそうせざるを得ないのだ。
それらが私たちにとって非常にリアルであるからだ。
私たちは、通常は、より高いものには現実感を持たない。
しかし、人がこれらの感覚の彼方に、感覚世界の彼方に、リアルな何ものかを見たときには、彼は、同じ執着を持ち続けるが、しかし、それをこの感覚を超えた対象、つまり、神に向けるようになる、という意味である。
そして、かつては感覚対象に向けられていた同じ愛が神に向けられたとき、それがバクティと呼ばれるのだ。
賢者ラーマーヌジャによると、この強い愛を得るための準備段階は次のようなものである。
第一はヴィヴェーカ。
そしてそれは、特に西洋の人びとには、非常に奇妙なものである。
ラーマーヌジャによると、これは「食物についての識別」なのである。
食物は、その中に私たちの心身の力を作り上げる全エネルギーを含んでいる。
私の現在あるすべては私が食べた食物のかたまりの中にあった。
それは私の中に取り入れられ、蓄えられ、私の中で新しい方向が与えられたのだが、しかし本質的には、私の心身は、私が食べた物と異なるものではない。
物質世界には力と物質があり、この力と物質が、私たちの中で心と身体になっているのだから、心身と食物とのちがいは本質的には現れ方のちがいに過ぎないのだ。
食物という物質の粒子から私たちは思いの道具をつくり、これらの粒子の中にやどる精妙な力から思いそのものをつくる、というのであれば当然、この思いとその道具は、私たちが摂る食物から影響を受けることになる。
心にある種の変化をもたらす食物がある。
私たちはそれを毎日はっきりと見ている。
また、まず身体に変化をもたらし長い間には心に大きな影響を与える、というものもある。
それは、学ぶべき大切なことである。
私たちが被る悲惨の多くは、単に、私たちが摂る食物によって引き起こされているのだ。
重い消化され難い食事の後では、心を統御することが非常に難しいということはご存じだろう。
心は絶えず走り、走っているのだ。
また、ある種の興奮させる食物がある。
このような食物を摂ると、心が統御できなくなることに気づかれるはずだ。
多量のワインや、その他のアルコール性の飲物を飲んだ後には、人が自分の心を統御することができなくなるのは当たり前のことだ。
おさえても逃げてしまうのだ。
ラーマーヌジャによると、避けなければならない3種類の食物がある。
まず、ジャティ、即ち、食物の性質、または、種類。
すべての興奮性の食物は避けるべきだ。
例えば、肉、これはもともと不浄なものだから避けなければならない。
他者の生命を奪ってしか得られないからだ。
私たちはそれを食べて瞬間的に快楽を感じる。
しかし、その快楽を得るためには他の生きものが生命を失わなければならない。
そればかりでなく、私たちは同時に他の人びとを堕落させることになる。
肉を食べる人が動物を殺すなら、むしろましだろう。
しかし、そうする代わりに、社会はそれを職業とする階級をつくり、それを理由に彼らを嫌っている。
私はこの国の法律は知らない。
しかし、イギリスでは屠殺人は陪審員になれない。
生まれつき残忍だというのが理由だ。
誰が彼らを残忍にしたのか。
社会だ。
もし我々が牛肉やマトンを食べなかったら、彼らは屠殺人にはならなかったであろう。
肉食は、非常にはげしい仕事をする人、バクタになろうとはしない人びとだけに許される。
しかし、もしあなたがバクタになろうとするなら、肉類や、タマネギやニンニクのような刺激の強いもの、「ザウエルクラウト」(ドイツの漬物の名前)のように悪臭のするものは避けなければならない。
日が経って腐りかけたもの、もともとあったジュースが乾きかけたもの、悪臭のするものも避けなければならない。
食物について、次の項目は西洋人には、ますます複雑に思われることだろう。
それはアーシュラヤ、つまり、それを用意した人、と呼ばれるものだ。
これは、ヒンドゥの神秘的理論と言ってよかろう。
その考え方は、人はみな、その周囲にある種のオーラを漂わせていて、彼が触れる物は何であれ、彼の性格の一部、いわば、彼の影響をその物の上に残す、というものだ。
それぞれの人から体臭が出るように、性格も彼から発散されていて、彼が触れる物はそれを受けるのだ。
したがって、私たちは、食物が調理されるとき誰がそれに触れるか、に気を配らなければならない。
邪悪な、不道徳な人はそれに触れてはならないのだ。
バクタになりたいと願う人は邪悪だということを知っている人とともに食事をしてはならない。
彼らの影響が食物を通じてもたらされるからである。
次にはミニッタである。
これは非常に理解しやすい。
汚れやほこりなどは食物の中に入ってはならない。
食物を、外界の汚れや、塵などをつけたまま、市場から持って来て、洗わないまま食卓の上に置いてはならない。
又、唾やその他の、口から出る分泌物のついた物に触れてはならない。
唇を触れる習慣や、唾の付いた物に触れる習慣は、私が経験したうちで最も恐ろしいものだ。
神は洗うための水を十分に与えていて下さるのに――。
粘膜は身体の中で最も繊細な部分だ。
あらゆる影響は唾を通じて非常に容易に運ばれる。
したがって、粘膜の接触は、不快であるばかりでなく、危険でもある。
したがって、ほかの人の食べかけた食物、つまり、誰かがりんごを半分かじって、残りを他人に与えたような場合、それを食べてはならない。
今述べたようなことを避けた場合、その食物は浄い。
「浄い食物は浄い心をもたらし、浄い心は絶えず神を覚えている」(チャンドーギヤ・ウパニシャッド)』
(最高の愛 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
この続きは、次回ご紹介いたします。
真理を覚るためには、バクタ(神を信愛する人)であることは、必須です。
無神論者は、バクタになり得ませんし、真理を覚ることもできないでしょう。
神とは自己の本性であり、それが真理なのですから。
そして、そのことを覚ることが、私たち探求者が目指す最終ゴールと言えるのです。
さて、この用地ーー活動の場は何なのか
どのように構成され 変化し また何処から来るか
用地の認識者は誰で どんな作用をするか
簡単に説明するから よく聞きなさい
古来の聖賢たちは この知識について
多くの讃歌や格言のかたちで
様々に表現し説明している
特にヴェーダンタスートラが道理分明である
五大要素 我執 理解力
気(未発の活力)
十根(五官の受動両面)
心 五官の対象(色声香味触)
欲望 憎悪 喜楽
悲苦 身体の諸機能 知力 意志力
およそ これらのものが
活動の場とその相互作用である。
(バガヴァッド・ギーター第13章4ー7)
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
☆束縛から解放され真の自由を得たい人
☆真我の目覚めを体験したい人
☆神の直接体験に与りたい人
など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、
クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
☆シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。
☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。
チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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智者と覚者
これまでの記事で書いてきたことは、かなり難しい内容も含まれていましたので、
それらのすべてを理解するのは、そうそう簡単なことではないでしょう。
ですから、時間があったら、何度も読み返してみて下さい。
出来れば、時間を空けて読み返してみると、以前は理解できなかった内容が、ある日、突然理解できるようになっていることも起こり得ますので、
最初は、今は、わからなくても、諦めずに、何度でも読んでみて下さい。
読んで理解しようとすればするほど、『真理』の概要、そのイメージが掴めるようになると思います。
このブログの目的は、一番最初の記事に書いた通りですが、もう一度、ここに掲載させて頂きます。
『この世にいる人間は、大ざっぱに分けて四種類あるんだよ。
ーー縛られた人。解脱を求める人。解脱した人。それから、永遠の人。
永遠の人は--人びとを幸福にするため、人びとに真理を教えるためにだけ、この世にいる。
縛られた人は--世間のことに心を奪われてしまい、神のことをすっかり忘れている。夢にも神のことなど考えたりはしない人間だ。
解脱を求める人は--この世のカセから、自由になりたいと思って努力している人たちだ。だが彼らのなかでも解脱できる人もあり、できない人もある。
解脱した人は--この世の”女と金”に縛られない。聖者や、偉大な魂の人だ。この人たちの心には世俗的な思いは全然なく、ひたすら神の蓮華の御足を想っている。
湖に魚網がしかけてある。二、三匹の魚は利口で、決して網にかからない。
これは永遠の人に似ている。だがほとんどの魚は網にかかってしまう。
このなかで、いく匹かの魚は逃げようとしてがんばる。
これが解脱(自由)を求める人だ。けれども皆が逃げられるわけではない。
二匹か三匹くらいが、ドボーン、ドボーンと音をたてて逃げていく。
--そんなとき、漁師は言うよ。『オッ、一匹でかい奴が逃げちまったぞ!』
しかし、網にかかった大部分の魚は逃げられない。逃げようともしない。
それどころか、網の目を口にくわえて湖底の泥のなかにもぐりこんで、ジッとして横になって、『もう心配ない。おれたちはうまくいっている』などと考えている。
やがて漁師たちが網を引きあげて、一匹のこらずつかまってしまうのに、それがどうしてもわからないんだ。
これがそっくりそのまま縛られた人の有様だよ。』
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
「永遠の人」と「解脱した人」は、もう何の教えもサポートもグル(師)でさえ必要ありませんから、探求者として、自分の内側、外側を探す必要はないでしょう。
また、「縛られた人」は、自分が縛られていることにさえ気が付いていないので、その束縛から自由になりたいという想いもなく、「解放」を望むこともないでしょう。
ですから、このブログを読んでいる人は、少なくとも、何らかの形で、「解脱を求める人」すなわち、「解放を求める人」であろうと思われます。
そういう方々に向けて、アドヴァイタ(不二一元論)を基本に、ご参考になると思われる記事を書いてきましたが、
最終的には、「知識」は知識でしかなく、言葉で表現されたモノは、「観念」「イメージ」でしかなく、
いかなる聖者が言われたこと、聖なる本に書かれたことでさえ、「神」「絶対者」「それ」などと呼ばれている「この宇宙で唯一の実在」そのものではありません。
これまでも何度もご紹介してきましたが、聖人ラーマ・クリシュナが仰っているように、
私たちには、知識を得ることではなく、「そのもの」を体験することが重要なのであって、知識は、体験までの案内書として、私たちを導く役割しかありません。
とは言え、道案内のガイドブックがあれば、闇雲に歩いて探すようなことはなくなりますし、目的地に到着することは、より簡単になることでしょう。
ガイドブックに書いてあることへの理解をより深めることで、道が短縮されることもあります。
そういう観点から、真の目覚めへとつながっていく示唆となり得るような記事をもう少し書いてみようと思います。
(より簡単で具体的で確実な方法については、後日、記事に書かせて頂く予定です)
『読むことより聞くのが良く、聞くより見るのが上だ。
師匠(グル)や修行者(サードゥ)の口から聖典の話を聞かせてもらうとよくわかる。
そうすれば、余計なところにひっかかって無駄なことを考えずにすむ。
聞くことより見る方がはるかにマシだ。
見たならば疑いはみな消えてしまう。
聖典にはいろんなことが書いてあるが、神様に直接に会わなかったらーーあの御方の蓮華の御足を信じられなかったらーー心が清浄にならなかったらーーすべては無駄なことだ。」
「聖典や経文とにらめっこして考えるのは何時までだと思うかね?
神様と直接に会うまでだ。
蜜蜂がブンブンいっているのはいつまで?
花にとまるまでだ。
花にとまって蜜を吸いはじめると、もう音をたてなくなる。
でも、もう一つ、神に会った後でも話をすることがある。
その人の話はただ、神と神の歓喜についてだ。」
「智者(ジュニャーニ)は”これでもない””これでもない”と分別判断する。
この否定をつづけていって最後のところで大歓喜を得る。
それがブラフマンだ。
智者はどんな傾向かというとーー智者は聖典に従って行動する。
だが、智者は質問されなければ、神に関する話をしない。
先ず時候のあいさつとか、健康のこととか、家族の様子などをきくものだよ。
しかし、覚者の様子は智者とは全く違う。
とにかく無頓着だ。
着ているものもだしなくしていたり、脱いで横っちょにかかえていたりーーまるで子供みたいだ!
神様の実在を知っている人、これを智者と呼ぶんだよ。
木には必ず火がふくまれているということを知る人が智者だ。
木を燃やして物を煮て、食べて栄養をとることの出来る人、それが覚者だ。」
「覚者はいつも神を見ている。
だから明けっぴろげで無頓着なんだよ。
目をあいているままで神様が見えるんだ。
時には永遠不変(ニティヤ)のところから下りてきて変化無常(リーラー)の世界に住むしーー時にはまた、無常の世界から永遠の世界に行く」
「これでもない(ネーティ)、これでもない(ネーティ)と分別判断しつづけたあげく、あの永遠完全なサッチダーナンダに到達するわけだ。
彼らはこう考えるーーあの御方は生物ではない、世界でもない、二十四の(存在)原理でもないーーというふうに。
そして、”永遠完全”に到達するとまた、あの御方があらゆるものになっていらっしゃるーー生物にも、世界にも、二十四の(存在)原理にもーーと見るようになる。
牛乳を凝らせてバターをとる。
バターをとってみると、バターミルクがバターで、バターがバターミルクだということがわかる。
外皮あっての中身、中身あっての外皮だ」
「バターってものがあればこそ、バターミルクがあるんだよ。
バターを思い浮かべれば、いやでもバターミルクもいっしょに考えなければならない。
バターミルクがなければバターもないからさ。
だから、永遠なるものを認めるなら、変化無常も認めなければならない。
上昇と下降だ。
形ある神も形のない神もハッキリ見た後が、こういう境地なんだよ!
形のある神は霊(チンマヤーー純粋意識により成るもの)の種々相、無形の神というのは完全円満なサッチダーナンダだ。
あの御方がすべてのものになっていらっしゃる。
だから覚者にとっては”この世は遊び小屋”だ。
智者にとっては”この世は幻影の幕”。
覚者は神の喜びをもっとも豊富に楽しんでいる。
ミルクの話を聞く人もあり、それを見る人もあり、また飲む人もある。
覚者はミルクを飲んで楽しみ、しかも豊かに栄養をとっている」
(大聖ラーマ・クリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
「クリシュナよ 私は
プラクリティとプルシャについて
用地(クセートラ)と用地の認識者について また
知識と知識の対象について学びたいのです」
「クンティーの息子よ
この肉体が用地(クセートラ)であり
この肉体を知覚認識している者が
用地を認識者(しるもの)である
バラタの子孫よ そして このわたしが
全ての肉体の認識者であると知れ
肉体とその認識者について理解することが
真の知識であると わたし考えている
(バガヴァッド・ギーター第13章1ー3)
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☆自己変容したい人
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クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
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チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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わたしは誰か?-アートマンについて(11)
真の自己であり、私たちの本質であるアートマンについて、そして、アートマンとブラフマンは同一である、というアドヴァイタ(不二一元)について、
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集からご紹介してきましたが、
今回は、このアドヴァイタは、宗教的な教え、思想というだけでなく、この地上においては、あらゆる人類が抱える問題を解決へと導く叡智である、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダの力強い言葉を、ご紹介したいと思います。
『得るものは何か。力です。
あなたが世界の上にかけたあの催眠術のヴェイルを取り去れ。
人類に向かって弱さの思いや言葉を送り出すな、すべての罪、すべての悪は弱さというこの一語に要約され得るのだ、ということを知れ。
全ての悪い行為の原動力は弱さです。
全ての利己主義の源は弱さです。
人々をして他者を傷つけしめるのは弱さです。
彼らをして、真の自己でない姿を現しめるのは弱さなのです。
彼ら全てをして、自分たちは何者であるかを知らしめよ。
彼らをして、昼も夜も自分たちがあるところのものを繰り返さしめよ。
ソーハム(私は“かれ”である)、彼らをしてそれを、この力の思想を、母の乳と共に吸わしめよ――私は“かれ”である、私は“かれ”である。これはまず最初に聴かれるべきものであります――そしてそれから、彼らをしてそれについて考えしめよ。
するとその思考の中から、そのハートの中から、世界がかつて見たことのないような働きが生まれるでありましょう。
何がなされるべきであるか。
そう、このアドワイタは、ある人によって実際的ではないと言われて来ました。
つまり、それはまだ物質世界にはみずからを現していない、と言うのです。
ある程度、それは真実です。
なぜなら、ヴェーダの章句を思い出して下さい――
「オーム、これはブラフマンである。
オーム、これは最も偉大なる実在である。
このオームの秘密を知る者は、欲するもののことごとくを得ることができる」
そうです、ですからまず、あなたはオームであると言う、このオームの秘密を知りなさい。
このタットヴァマシ(汝は“それ”なり)の秘密をお知りなさい。
かくして初めて、欲するものことごとくは、やって来るのです。
もしあながたが物質的に偉大になりたいのなら、自分はそうである、とお信じなさい。
私は小さな泡かも知れない、そしてあなたは山のように高い波でしょう。
しかし私たちの何れもが、その背後に無限の大海を控えているのだ、ということをお知りなさい。
無限のブラフマンが私たちの力と強さとの倉庫であって、泡である私も、山のように高い波であるあなたも、二人ともが、自分が欲しいだけそこから引き出すことができるのです。
ですから、あなた自身をお信じなさい。
アドワイタの秘密は、まずあなた方自身を信ぜよ。
それから、他の何ものでもを信ぜよ、と言うものです。
世界の歴史の中で、自らを信じた国々のみが偉大に、そして強くなったことを皆さんはごらんになるでしょう。
各国の歴史の中では、彼ら自らを信じた個人たちのみが偉大に、そして強くなったことをごらんになるでしょう。
これは実践の面での教えです。
ですから、皆さんは自分をお信じなさい。
そしてもし物質的な富が欲しいと思うなら、それを実行しなさい。
必ず獲得するでしょう。
もし知的になりたいと思うなら、知性の分野でそれを実行しなさい。
あなたは知的な人になるはずです。
そしてもしあなたが解脱を得たいと思うなら、霊的な面でそれを実行しなさい。
あなたは自由になり、ニルヴァーナ、永遠の至福に入ります。
しかしアドワイタの中にある一つの欠点は、それが長い間霊的な面でのみ実行されて他の面では実行されなかった、ということです。
今や、皆さんがそれを実用的にしなければならない時がやって来ました。
もはやそれはラハシャ、秘密であってはなりません。
洞穴や森の中やヒマラヤ山中で僧と共にある、というだけではいけません。
それは人々の日々の生活の中におりて来なければなりません。
王の宮殿の中で、隠遁者の洞穴の中で実現させましょう。
貧しい人々の小屋の中で、街頭の乞食によって、到る処、それが実践され得る限りのあらゆる場所で実現させましょう。
それゆえ、あなたが女であろうと、シュ―ドラ(カーストという身分制度の中で、最も卑しいとされている階級)であろうと、恐れてはなりません。
主クリシュナは、この宗教は実に偉大であって、その一しずくさえ膨大な量の善をもたらす、と言っていらっしゃるのです。
それゆえ、アリアン人の子供たちよ、目ざめよ、立て、そしてゴールに着くまで止まるな。
アドワイタが実行に移されるべきときが来たのです。
これが現代の摂理です。
ああ、古代のわれわれの祖先たちの声が、それを天界から地上にひきおろせ、と告げています。
皆さんの教えが社会の毛孔の一つ一つに入り込むまで、それらがついにあらゆる人の共有財産となるまで、それらが皆さんの人生の眼目となるまで、それらがわれわれの血脈に入り込んでそこで血液の一滴一滴と共に震動するようになるまで、それらをこの世界に浸透おさせなさい。
「賢者たちが責めようと誉めようとかまわない。
ラクシュミ(富の女神)が今日来ようと、または行ってしまおうとかまわない、死がたった今訪れようと百年のうちに来ようとかまわない、正しい道からたとえ一歩たりとも踏みはずさぬ一、かれこそは実に賢者である」
起きよ、そしてめざめよ、時はすぎ行き、われわれの全てのエネルギーは空しいおしゃべりによって浪費されるのです。
起きよ、そしてめざめよ、些末な事柄や、細目についての口論や、小さな主義主張についての争いなどは傍らに投げ捨ててしまえ、ここにあらゆる仕事の中の最大のものがあるのです。
ここに、沈みつつある幾百万人がいるのです。
われわれに必要なのは、多くの霊性よりも、少しばかりのアドワイタを物質世界の中に持って来ることです。
先ずパン、それから宗教です。
貧しい人々が飢えているというのに、われわれは彼らに宗教を詰め込みすぎます。
飢えを満たす教義などはどこにもありますまい。
ここには二つのわざわいがあります。
第一はわれわれの弱さ、第二は、われわれの嫌悪、われわれの干からびたハートです。
たとえ幾百万の教えを語っても、億万の宗教をこしらえても、ああ、あなたが感じるハートを持っていなければ、何にもなりません。
皆さんのヴェーダが教えているように、彼らのためにお感じなさい。
彼らは自分の肉体の一部である、ということが分かるまで、自分も彼らも、貧しきも富めるも、聖者も罪人も、みな共に自分がブラフマンと呼ぶ“唯一、無限の統一体”の一部なのである、ということを理解するまで。
紳士諸君、私は皆さんの前に、アドワイタ体系の輝かしい点の二、三を提示しました。
そして今や、それがこの国だけでなくあらゆる所で実行に移されなければならない時が来ているのです。
現代科学とそれの強力な打撃は、到る処で二元論的宗教のセトモノの土台を粉砕しつつあります。
二元論者が経典のこじつけを行なっているのはここばかりではありません。
経典はこれ以上伸びようがないというところまで伸ばされてしまっています――経典はインドゴムではないのですから。
彼らが自分たちを護るためにそれらのすみずみにまで入り込んでいるのはここばかりではないのです。
ヨーロッパやアメリカでは一層その現象が顕著です。
それゆえかの地にも、この思想に含まれる何ものかが行かなければならないでしょう。
それは、もう行っています。
それは成長し増大して、彼らの文明をも救わなければならないでしょう。
なぜなら、西洋では古いものの秩序は消滅して、黄金の崇拝、富の神の崇拝という新しい秩序に場所をゆずりつつあるのです。
このようなわけで、この宗教という古いシステムは、いわば競争と黄金である現代のシステムよりも良いものでした。
どんなに強くても、このような基礎の上に立ち続けることのできる民族はありません。
世界の歴史は、このような基礎を持っていた民族はことごとく亡び去ったことを告げています。
まず第一にわれわれは、このような波がインドに入りこむのを止めなければなりません。
ですから、宗教が近代科学の衝撃に堪えられるよう、あらゆる人にアドワイタを説いておきかせなさい。
そればかりでなく、皆さんは他者をも助けなければなりますまい。
皆さんの思想はヨーロッバやアメリカを救うでしょう。
それら全てにも増して、私にもう一度念をおさせて下さい、ここに実地の仕事の必要があります。
それの第一歩は、皆さんがインドの沈みつつある幾百万人のもとに行き、主クリシュナの次の言葉を思い起こしながら彼らの手を取ることであります。
「その心があらゆるものの同一性に確固と集中している人は、この世に生きながら相対界を克服したのである。
神は全てに対して純粋かつ同一であるから、それ故かかる人は、神の中に生きている、と言われる」』
(ヴェーダーンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
『わたしはいつも言うんだが、皆があの御方に呼びかけているんだよ。
お互いに、嫉みや憎しみは無用だ。
神様は相(すがた)を持っていると言い張る人もあるし、いや、神は無相の実在だ、と言う人もある。
だから、わたしは言うのさ、『形ある神を信じる人は、その姿心を集中しろ。
無相の実在を信じている人は、その無相の実在というものを瞑想していればいい』とね。
わたしが言いたいのは、ひとりよがりは良くない、と言うことだ。
つまり、『自分の宗教は正しいが、ほかのものは皆、間違っている』と思うのがよくない。
『私の宗教は正しい。だが、他の宗教が正しいか間違っているか、ホンモノかニセモノか、そういうことは私にはわからない』--こう思っていればいいんだよ。
そうだろうじゃないか。
神様に直に会ってみなければ、あの御方の相(すがた)や性質がわかるわけがない。
ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、シャクティ教、シヴァ派、ヴィシュヌ派、それに古代、リシたちの時代にブラフマン智を求めた人びとも、今の時代の新興宗教の信者も、皆がみんな一つの本質を探し求めているんだよ。
それで、大実母は子供たちのお腹に合うように料理をつくって下さるんだよ。
どういうことかわかるかい?
国と時代と容器(人の理解力)に応じて、神様はいろんな宗教をおつくりになるというわけだ。
どの教義(いけん)も道ではあるが、教義は決して神そのものではない。
だが、熱心に信仰して一つの教義(みち)に従っていけば、やがて神様のところへ到着する。
教義に間違いがあったとしても、誠実で熱心ならば、あの御方ご自身がその間違いを正して下さる。
もし誰かが、心の底からジャガンナートに参詣したいと思って出発したが、間違えて南へ行かずに北の方に行ったとする。
すると途中で、誰かがきっと、「おや、ジャガンナートはこっちじゃありませんよ。南の方へ行かなくちゃ」と教えてくれるよ。
そして、遅かれ早かれ、目的地へ着くことができる。
だから、他の宗教に誤りがあっても、何もわたしたちが心配することはない。
世界の主(あるじ)であるあの御方が、ちゃんと面倒見て下さる。
わたしらの義務(つとめ)は、何としてでもジャガンナートに会うことなんだ。』
(大聖ラーマ・クリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
どんな事物にも喜ばず悲しまず
こうあって欲しいとも欲しくないとも思わず
吉凶禍福に超然として心動かさぬ者
このような人をわたしは愛する
友も敵も等しく扱い 名誉不名誉に関心なく
寒暑 苦楽 また賞賛 非難に心動かさず
常に無益な交際をせず 無益な口をきかず
何事にも満足し 住所住居に執着なく
確固たる決心で心をわたしに結びつけ
信愛行(バクティ・ヨーガ)にはげむ人をわたしは愛する
わたしを信じ 愛慕し
わたしを究極至上の目的として
この永遠不滅の法道を行くわたしの信者を
わたしはこの上なく愛している
(バガヴァッド・ギーター第12章17-20)