永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラの話(15)-アジナー・チャクラ(第6チャクラ) 自由意志はあるか?

第6チャクラのアジナー・チャクラが、脳にあることから、

スピリチュアルな世界でも語られることが多いテーマを選んで、

これまで数回にわたり、脳科学の最新の研究・実験から導き出された驚きの結果について詳しくご紹介してきました。

 

今回は、いよいよ「自由意志」についてです。

 

「自由意志」はあるのか?ないのか?

脳の働きの側面から見た「自由意志」について、ご紹介させて頂きます。

 

 

『さて、講義の後半では、昨日予定していたように、「自由」について考えてみよう。

僕らはどこまで自由だろうか。

そうだなあ、まず、クイズから始めようか。

はい、今「〇くら」と黒板に書いた。

この「〇くら」一文字入れてできる単語は何でしょう。

何を思いつく?

 

→ さくら。

→ まくら。

→ いくら。

 

いろいろ思いつくねえ。

でも、この中で真っ先に心に思いついたのは何だった?

 

→ さくら。

 

そうだよね。

何で<さくら>を思いついたんだろう。

今、単語を3つ挙げてもらった。

思いつくのは、そのどれでもよかったはずなんだけど。。。。

 

→ 今日の講義のはじめに「桜がキレイだった」という話があったからではないでしょうか。

 

そうだね。ということは、同じ質問を秋に、つまり、イクラのおいしい季節に訊いたら、もしかしたら最初に思いつくのは<いくら>だったかもしれない。

 

僕らが自由にものごとを想像するとき、実のところ、どこまでが自由なんだろうね。

実はそれほど自由はないかもしれないよね?

「ルーティング」と言うんだけど、本当は考える道筋(ルート)にはたくさんの選択肢があるのに、その時点での思考は、過去に見聞きした経験や記憶によって制限されてしまっていて、思いのほか自由度が少ないんじゃないかと。

自由度が少ないというのは、裏を返すと、ちょっと怖いことでもあって、自分たちの行動は本当に自由なのか、それとも、あらかじめ決まっちゃっているのか、ということにもなってくる。

 

自由vs.決定。

自由論と決定論と言うんだけど、これ、どう思う?

・・・どう思うというのは、つまり、僕らには自由があるのか、それとも、すべての行動はあらかじめ決まってしまっていて、ただ決められた通りに振る舞っているだけなのか。

さて、どちらだと思う?

 

→ 決定論みたいに全部あらかじめ決まっていると考えちゃうと、自分が何をしようとしても、結局は自由論と変わらないんじゃないですか。

 

ん?つまり、自由論と決定論は二律背反的に分けられるものじゃなくて、結局は、同じことを言っているんじゃないかという意味かな?

おもしろいなあ、それ。

もうちょっとその意見を聞かせてよ。

 

→ とりあえず自分の意識で決めたものがここにある。

逆に、それがもともと決定されているとしても、それは意識の上では自分の意志で決めたことだから、結局は、どっちも一緒なんじゃないかって思ったんですけど。

 

うんうん。なるほどね。

意識の上ではあくまでも自由だってことだね。

ただしその「自由」を感覚、たとえば自由に選択したと思っていたものが、実は、そもそも決まっているものだったという可能性もあると君は認めているわけだ。

実際はどっちだと思う?

たとえばさっきの<さくら>みたいに、本人は自由にイメージしたつもりかもしれないけど、フと気づけば、なんとなく<さくら>と思いついてしまっているわけだよね。

これは僕らが自由にコントロールした結果ではなくて、無意識の自動プロセスを経て、決定論的に<さくら>にたどり着くわけだ。

自由なつもりでいるのは、あくまでも自分の意識の上だけであって、実際の思考はいくつかの決まりきったパターンの中でしか動くことができなくて、そのパターンに従って、ただ口述しているだけ。

本人は自由だと思っているんだけど、実は、脳に操られている、あるいは環境に操られているという可能性はないかな。

 

→ 哲学になっちゃう。。。。

 

そうだね。

これはまさに哲学の話だね。

実際、哲学の世界では昔からこの議論が繰り返されている。

この話題を今日は、脳科学の観点から焼き直してみたいんだ。

自由か決定かについて、ほかに何か意見あるかな?

 

→ さっきの<さくら><まくら><いくら>とかだったら、ある程度、選択肢の幅が決まっていると言えるかもしれませんが、本当はもっと候補があるんじゃないか、と頭の中で考えをめぐらせますよね。

経験とか記憶とか、自分の周りの環境から制限は受けるものの、実際に候補を挙げることができるということは、自分で選ぶ余地があるんだと思います。

だから、自由か決定かって完璧に断定することができるのかどうか。。。

 

選択肢の制限がまず加わるという時点で、そこで自由度が。。。。

 

→ 少しは減りますけれども。。。。

 

でも、まだ最終的には自由が残っているから、やはり自由と決定はどちらか一方だけに分けられるものじゃなくて、あくまでも比率の問題であるというわけだね。

なかなか柔軟な考えだ。

さて、「自由」を語るうえで、まず問題にしなければならないのは、僕らには「自由でありたい」という妙な願望があるということだ。

まさか、「自由意志がない」なんていうことは、とてもではないけれど認めたくない。

そんな強い願望のせいで、「自由は当然あるんだ」と頭から決めつけてかかっている可能性はない?

 

→ ・・・あります。

 

その願望ゆえに、本当の姿や真実から目を背けて、希望だけで憶測しているのかもしれない。

 

ところで、哲学にはこういう問題がある。

<手を上げる>という動作、<手が上がる>という動作の比較だ。

そのふたつの動きを引き算すると何が残る?

つまり、<手を上げる>から<手が上がる>を引いたら、そこに残ったものは何だろうか。

 

→ 自分の意志。

 

自分の意志。

自由な意志。

つまり、「自由」がそこに残るってことだね。

ということは、その答えは、自由が存在することを、そもそも前提にしているね。

もちろん、「自由な意志が残るに違いない」と考えるのは、真っ当な考えだ。

「何も残りません」なんて答えたら、変人扱いされるのがオチだよね。

後でこれについて僕なりの考えを話そうと思う。

自由意志について話すときに、絶対に外せない有名な実験があるので、今はまず、それについて説明したい。

その一部は『進化しすぎた脳」という、以前の僕の本でも紹介している。

25年ぐらい前に行われた実験だ。

その実験から意外なことがわかった。

その研究者は「自由意志」が存在するかどうかを確かめようと思って、手首を動かす実験、「好きなときに手首を動かしていいですよ」という実験をやった。

参加者に椅子に座ってもらって、テーブルに手を置く。

目の前の時計を見ながら、好きなときに手を動かす、ということを試してみた。

そして、脳の活動を測ったんだ。

この実験では測れるパラメータが4つある。

まず認知の指標がふたつある。

第一に、「手を動かそう」とする意図。

そして、実際に手が動いたら、「あっ、動いたな」とわかる知覚。

このふたつがあるね。

一方、脳側から見たときにもふたつの指標が得られる。

手を動かすために「準備」をする脳活動と、実際に動くように出す「指令」の脳活動だ。

いいかな、まとめると①「動かそう」②「動いた」③「準備」④「指令」の4つだね。

実験では、この4つの指標について計測して、それが生じるタイミングを測った。

その結果、この4つは、どういう順番で進行したと思う?

 

→ 本で読んだことがあります。

不思議な感じだけど、実は、「準備」が先だと。

 

ほう、聞いたことある?

そう、さすがだね。

実は、この実験の話は、脳の研究者のあいだでは有名で、そうなんだ、今君が言ってくれた通り。

 

①準備 → ②動かそう → ③動いた → ④指令

 

常識に反して、「準備」が先なんだ。

本人が「動かそう」と意図したときには、脳はすでに動かす「準備」を始めているらしいんだよね。

0.5~1秒くらい前に。

より最近の研究によれば、7秒も前に準備が始まっている場合もあるという。

実験で得られた順番を説明すると、手を動かすための「準備」がまず始まる。

そして準備が整って、いよいよ動かせるぞとなったときに、私たちの心に「動かそう」という意識が生まれる。

つまり「動かそう」と思ったときには、すでに脳は動くつもりでいて、とっくに準備を始めたということだ。

これがひとつのポイント。

もうひとつのポイントは、この後にもある。

手に「指令」が行って実際に動くのと、「動いた」と感じるのはどちらが先がという問題だ。

実は、これも常識とは逆で、「動いた」と先に感じる。

それに引き続いて「動け」という指令が手に行くんだ。

つまり、筋肉が動くよりも前に、「動いた」という感覚が生じる。

このことについてはあまり世間では述べられていなくて、きちんと説明しないといけないと思う。

ただ、この話題は後に回そうね。

ここでは「自由」の話に絞りたい。

 

さて、この実験が世間に紹介されて、「僕らの自由意志って一体なんだ」という疑問が、改めて問われるようになった。

だって、君らが「動かそう」と意図するかどうかは、脳研究者が君らの脳活動を見ていれば事前に予測できるということでしょ。

「君はあと0.5秒後に手を動かしたくなる」なんてね。

これじゃあ、まるで「北斗の拳」だ。

「お前はもう動いている。。。」と

脳を観察していると、本人よりも先に、本人の行動がわかってしまう。

バレバレなんだ。

これを聞いても、君らはやっぱり自由意志はあるって思う?

 

→ ・・・・・・。

 

あらら、シーンとなっちゃった。。。。

まあ、たしかに精神的に衝撃をもたらすデータだよね。

手首を動かすなんていうのは、僕らの日常の行動としては、とりわけシンプルな動きだよね。

そうしたシンプルな運動ですら・・・・ほらほら、今君は手首を愕然と眺めながら動かしているね。

今まさに行っているその行為が、事前に決まっているとしたら、不思議な感じがしない?

 

→ うーん、どう考えても、準備に従っているだけとは信じられない。

 

たしかに、「自分の意志」で動かしているような気がするよね。

にもかかわらず、君が動かそうする少なくとも約0.5秒前には、もう脳が動かす準備を始めている。

自分が「動かそう」と思ったときは「すでに時遅し」で、動かすことが決まっているわけだ。』

(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二

 

 

「自由意志」についてのお話は、更に深くなっていきますが、続きは、次回でご紹介させて頂きます。

 

 

 

 アルジュナよ 感覚の欲求

まことに強く 烈しいもので

修行を積んで道をわきまえた人の

心をさえも力ずくで奪いさるのだ

(バガヴァッド・ギーター第2章60)

 

 

チャクラについて(14)-アジナー・チャクラ(第6チャクラ) 意識と無意識

ここ数回にわたって、第6チャクラのアジナー・チャクラについて理解を深めるために、

アジナー・チャクラが位置する「脳」についての、これまでの常識を覆すような最新の脳科学のトピックをご紹介してきました。

 

それは、「人間」、または、個人である「わたし」に対する、これまでの人生で「常識」として取り込んできてしまった根拠のない強固なまでの思い込みを手放すためです。

 

いままで当たり前だと思い込んでいたことに「待った!」をかけることで、思考が柔軟になり、新しい世界観も受け入れやすくなることでしょう。

 

脳内に新しい回路が作られると、世界の捉え方が変化しますが、それは意識の変容につながっていく可能性を秘めています。

 

それでは、今回は、「意識」と「無意識」、そして「感情」について見ていきましょう。

 

 

『さきほど、言葉は<意識>の典型例だと話をしたね。

まあ、たしかに意識だろう。

でも、「どこまで自由な意志によって言葉が発せられているか」という点は、どう思う?

言葉は<自由に選べる>って言ったよね。

たとえば、何かに感動したとき、きみらは「すげぇ!」と言ったり、「マジかよ」と言ったり、いろいろな言い方があり得るでしょう。

選べるよね。

でも、自由に選べるけれども、よく考えたらどう?

感動したときに「すげぇ!」と出て来るのは意識?

いろいろと可能な表現方法をあれこれ比較して、「よし、今回は「すげぇ!」を選択して表現しよう」と堅実に推敲してから発話している?

まさか、そんなことはないよね。

ほぼ、無意識に「すげぇ!」と言っているよね。

いろいろな選択があるにもかかわらず、ほとんどの場合は無意識に発声している。

いま実際に僕はこうして君らの前に立ってベラベラとしゃべっているけれども、話言葉には一秒間にだいたい2文字から5文字ぐらい入っているらしい。

これをいちいち、次は<つ>という発音だ、その次は<ぎ>だなどと考えていたら、こんなふうにスラスラしゃべれるはずがない。

となると、僕はさきほど「言葉は自由意志の表れだ」と言ったけれども、必ずしもすべてが意識でコントロールされているとは言いがたい。

むしろ、「反射」に近い部分もある。

そうすると、人間にとってもっとも象徴的な高次機能<意識>を生み出す泉だと思われている「言葉」ですら、その多くの部分では意識ではないのではないか、となってくる。

言葉でさえそうなのだから、ほかの機能はもっと意識から遠い(つまり反射や無意識である)ことになる。

もう一度改めて質問しよう。

人間の行動のなかでどこまでが意識かな。

悲しいから涙が出てくる、これは明らかに無意識だね。

まあ、がんばれば涙を止めることはできるかもしれないけども、基本的には無意識だ。

僕らは風呂からあがったら服を着るね。

ボタンをはめる。

これもボタンをはめようと思ってはめているかもしれないけど、ほかのことを考えていても、ほかの人とおしゃべりしながらでもボタンをはめられる。

手はほぼ無意識に動いている。

歩くときも、歩き方をいちいち考えてないでしょ。

右足を出しながら同時に左腕を出して、そして次に・・・など意識せずに歩くことができる。

最初に「歩こう」という意志はあったかもしれないけれど、歩き始めてしまえばほとんど無意識だよね。

そう考えると、人間の行動のなかで、どこまでが意識なんだろう。

恋愛なんかはどうだろう?

たとえば人を好きになってしまうのはコントロールできる?

だって、きみの前に女の子をひとり連れてきて、「その人のことを好きになれ」と強引に命令されたって、無理なものは無理だし、逆に好きになてしまったらそれでしかたがないでしょ。

世間では<恋>というものは人間の行動ではとりわけ崇高なものとして扱われていて、古今多くの人が詩に書いたり、絵を描いたりと、幻術の対象にしてきた。

その「恋愛」ですら、おそらく意識のたまものではない。

たとえば、付き合っている彼女に「私のどこが好きなの?」「なんで好きなの?」と訊かれても答えられるわけがない。

だって無意識なんだからさ。

「ただ、なんとなく」と答えるしかない。

これをもっともっと突き詰めた究極の実験があるので、それを最後に紹介したい。

 

意識を測定するためには、人を椅子に座らせて、ボタンを与えて、「好きなときにボタンを押してください」という実験ができるね。

つまり、ボタンを押そうとしているときの脳の活動を測ればいい。

好きなときにボタンを押すのだから、これは明らかに自由意志でしょ?

だから、普通に考えると「ボタンを押そう」という意識が現れて、それから脳が手を動かす準備を始めて、いよいよ「ボタンを押す」という行為が始動すると予想できるよね。

研究者のだれもが実際にそう思ったの。

ところが、答えは違ったんだ。

「好きなときにボタンを押す」という、もっとも単純な行動の仕組みは、なんと自由意志の存在に疑いをはさむものだった。

脳波をモニターしながら脳の活動を調べると、なんと、先に「運動前野」という運動をプログラムするところが活動し始めて、それから一秒ほども経ってから、「動かそう」という意識が現れたんだ。

つまり、脳のほうが先に動き始めようとしてたってことだ。

 

→ その「動かそう」と思ったのは無意識なんですか。

 

ということになるよね。

だって、「動かそう」と思った瞬間には、もうとっくに動く準備を脳は始めていたのだから。

この実験はもっともシンプルだよね、「好きなときに押せ」というんだから、これ以上単純な意識の実験はありえない。

そんな行動ですらもなんと無意識にスタートしている。

「動かそう」と脳が準備を始めてから、「動かそう」という<意図>が生まれる。

あ、厳密にいえば、「動かそう」ではなくて「『動かそう』と自分では思っている」クオリアだ。

だって、体を自分の意識でコントロールしているつもりになっているだけで、実際には違うのだから。

つまり、自由意志とは、じつのところ潜在意識の奴隷にすぎないんだ。

こんな事実から、意識は脳の活動を決めているものではなくて、脳の活動の副産物にほかならないことがわかる。

「動かそう」という意図がまず生まれて、それで体が動いてボタンを押すのではなくて、まずは無意識のうちに神経が活動し始めて、その無意識の神経活動が手の運動を促して「ボタンを押す」という行動を生み出すとともに、その一方で意識、つまり「押そう」という感覚を脳に生み出しているというわけだ。

 

もっとも原始的な感情はおそらく「恐怖」。

「恐怖」とは、動物の脳のなかに古くから存在しただろう。

「喜び」や「悲しみ」よりも「恐怖」のほうが起源が古い。

理由はわかるよね。

動物は危険なものを避けなければいけない。

それは生死にかかわる重要な問題だ。

だからこそ、動物は「恐怖」という感情を進化の過程で最初につくり上げた。

「恐怖」を生み出すのは「扁桃体」という脳の場所。

つまり扁桃体は、以前にこわい体験をした場所には行かない、危険な行動は避けるという記憶を脳に植えつけるために重要だ。

その記憶をもとに動物は次回からは危険を回避する。

生物の後天的な行動プログラムの多くはこのパターンでできている。

 

重要なことはここからだ。

扁桃体が活動すれば危険を回避できる。

でも、扁桃体の活動には「こわい」という感情は入っていない。

扁桃体そのものは感情とは直接の関係はない。

感情そのものは別の脳の経路で生まれるようなんだ。

扁桃体が活動して、その情報が何らかの形で大脳皮質に送られると、そこではじめて「こわい」という意識にあがる感情が生まれる。

ここら辺はややこしいから、もう一回言うね。

扁桃体が活動するとたしかに恐怖反応が生まれる。

心拍があがったり、汗が出たり、ふるえたりとね。

でも、「こわい」という感情は扁桃体ではなくて大脳皮質で生まれる。

でも、扁桃体はこれとは別に、記憶力を促進したり、メモリを強固にしたりという影響力を持っている。

だから、扁桃体を刺激すると、その瞬間の記憶の素子は強まる。

それと同時に「こわい」という感情が別経路で生まれる。

つまり結論はこうだ。

動物は「こわいから避ける」ではなくて、「こわい」かどうかとは無関係に、単に扁桃体が活動したから避けている。

この違いはわかるかな。

前回の講義の質問に答えて言うと、「悲しいという感情を引き起こすような神経を刺激すると涙が出るのか?」というのは、科学的な説明としては間違いで、おそらく「悲しみ」を感じさせる<源>になる神経細胞がきっとあるんだろう。

そこが活動すると「涙が出る」という脳部位に情報が送られる。

でも、その涙の経路と「悲しい」という感情自体はたぶん直接の関係はない。

つまり、悲しみが涙を誘発しているというのは、ちょっとニュアンスが違う。

悲しみとは感情にすぎないんだ。

つまり、神経の活動の<副産物>でしかない。

もっと言ってしまおう。

感情とは<抽象的なもの>だよね。

「こわい」とか「悲しい」は、抽象そのものだ。

今日の講義のテーマでもあったけれども、<抽象的なもの>は言葉が生み出したものだったね。

たぶん、感情やクオリアもまた言葉によって生み出された幻影なんだと思う。

なぜならクオリア感じているという状況は一種の二元論だからだ。

「感じている」と自分でわかっているということ自体が、「感じている自分」を客観視している一階層上の自分の存在を前提としている。

そうした自己繰り込みは言葉があるから可能な一種の幻影だ。

ここで言う、幻影とは<実在しない>って意味じゃないよ。

クオリアはたしかに存在する。

幻覚や夢と同じ。

幻覚や夢は実在するでしょ。

夢の存在を否定する人はいないよね。

みんなも見たことあるでしょ。

夢という<視覚体験>は脳のなかに存在するんだ。

それと同じことで、感情やクオリアは明らかに存在する。

でも、喜びや悲しみは言葉の幽霊なんだろうね。

あれ、みんな静かになっちゃったけど、大丈夫かな。』

(進化しすぎた脳  池谷裕二

 

 

脳科学の本であるにも拘わらず、スピリチュアル的にも、非常に深いことを示唆していますね。

 

前回の記事の内容をも踏まえて言うならば、私たち人間は、この世界を経験していますが、

実は、厳密に言うならば、「この世界を経験している<わたし>を客観視(経験)している」と言えるかと思います。

 

それが、自我意識である「認識する自己(自我)」の正体と言えるでしょう。

 

私たちは、自我意識が自分自身を感じているからこそ、「悲しい」とか「楽しい」という感情が、自分に沸き起こっていることを認識できるのです。

 

自我意識が自分自身を常に客観視し、モニターしているのですが、それは無意識、自動反応として起こっているので、

意識しないと、そのことを自分自身(自我意識)では気づけないのです。

 

この自動反応に気付けるようになるために、「瞑想」という心を静め、自分の内側を探る自動反応ではない自発的で意識的な訓練がとても有効だということは、言うまでもありません。

 

「意識」の問題は、とても重要なので、後日、また詳しく見ていきたいと思います。

 

 

 

 

肉体をまとった魂は 禁欲しても

経験してきた味わいを記憶している

だが より上質なものを味わうことにより

その記憶も消滅するのだ

(バガヴァッド・ギーター第2章59)

 

 

チャクラについて(13)-アジナー・チャクラ(第6チャクラ) 幽体離脱

前回の記事では、「直感」が働くときには、”学習”(訓練)という経験に密接に関係している「大脳基底核」が反応することから、

「直感」が、スピリチュアル的な、所謂、”神や天(使)からのメッセージ”のような神秘的ものではなく、

脳の”自動反応”のひとつの現われであるという最新の脳科学の研究成果についてご紹介しました。

 

こう結論付けてしまうと、「直感」に神秘的なイメージを持っていた方々には、少々ガッカリするような内容だったかもしれません。

 

しかし、「直感」の神秘的なイメージが無くなってしまったとしても、私たち人間という存在における神秘性が消滅したわけではありません。

 

科学的に、いろいろなことが明らかになっていくにつれ、当たり前だと思っていたことが、それが実はそうではなかった、と知ることで,

逆に、人間という生物に神秘性を感じる、という方もいらっしゃるのではないでしょうか?

 

今日は、チャクラの話題からは少し外れますが、

更に、人間が体験する体験の中でも、起こる頻度が非常に稀であるため、不思議な現象、超常現象として考えられているような体験について、

近年行われた脳科学の実験より、解明された驚きの結果をご紹介したいと思います。

 

今回ご紹介する中に、「幽体離脱」がありますが、個人的に、非常に興味深い内容でした。

 

脳科学的に見れば、「幽体離脱」も、「超常現象」と言われるような、所謂、特殊な体験ではなく、条件さえ揃えば、誰にでも起こり得る一種の「脳の錯覚」なのだということがわかります。

 

なるほど~、こういうことが、脳内に起きていたのか。。。納得です!(笑)

 

 

『脳の活動を人工的に操作すると、いろいろなことが起こる。

たとえば、自分を他人だと勘違いするという実験がある。

君らは自分が写った写真を見ると「ああ、これは僕だ」と認識できるよね。

そんな当たり前のことができなくなってしまうっていう話だ。

TMSという実験装置を使う。

経頭蓋磁気刺激法とも呼ばれている。

頭皮の表面から強烈な磁場をかけて、脳の一部をマヒさせる刺激装置だ。

これを使うと、ある特定の脳領域の活動を一時的に抑制することができる。

たとえば言語野をマヒさせれば、その瞬間は言葉が出せなくなる。

視覚をマヒさせると視野の一部が欠ける。

なかなか劇的な効果が出るのだけど、脳には重大な悪影響はないと言われているので、とりあえず安心してね。

この装置を使って、側頭葉のある部分を刺激してマヒさせると、写真に写っている人物が自分か他人かわからなくなってしまうんだ。

ということは脳には自分を認識する回路が備わっているということだよね。

その専用回路が働かないと、自分か他人かを区別できなくなる。

つまり、自分という存在、「自己」は、脳によって創作された作品なんだ。

 

マヒさせる実験ではなくて、脳を直接に電気刺激して活性化させる実験もある。

刺激すると、刺激場所に応じていろいろな反応が起こる。

たとえば、運動野を刺激すると、自分の意志とは関係なく、腕が勝手に上がったり、足を蹴ったりする。

視覚野や体性感覚野を刺激すると、色が見えたり、頬に触られた感じがしたりする。

そうやって、刺激によっていろいろな現象が生じるのだけど、なかには信じられない現象が起こることがある。

たとえば、これは一昨年に試された脳部位だけど、頭頂葉後頭葉の境界にある角回という部位。

この角回を刺激されるとゾワゾワ~と感じる。

たとえば一人で夜の墓地を歩いていると、寒気がすることない?

 

→ あります!

 

それそれ、あんな感じらしい。

角回を刺激すると、自分のすぐ後ろに、背後霊のようにだれかがベターとくっついている感じがするようなの。

うわーっ、だれかにつけられている。

だれかに見られている・・・・強烈な恐怖を感じるんだって。

でもね、その背後霊を丁寧に調べてみると、自分が右手を上げると、その人も右手を上げるし、左足を上げてみると、その人も左足を上げる。

坐っていると、その人も背後で座っていることがわかる。

これで理解できるよね。

そう、実は、背後にいる人間は、ほかならぬ自分自身だ。

要するに、「心」は必ずしも身体と同じ場所にいるわけではないということ。

僕らの魂は身体を離れうるんだ。

この例では、頭頂葉を刺激すると、身体だけが後方にワープする。

この実験で興味深いことは、その「ゾワゾワする」という感覚について尋ねてみると、背後の”他者”に襲われそうな危機感を覚えるという点だ。

これはちょうど統合失調症の脅迫観念に似ている。

これで驚いてはいけない。

身体と魂の関係については、さらに仰天するような刺激実験がある。

先ほどの実験と同様に角回を刺激する。

ベッドに横になっている人の右脳の角回を刺激するんだ。

すると何が起こったか。

刺激された人によれば「自分が2メートルぐらい浮かび上がって、天井のすぐ下から、自分がベッドに寝ているのが部分的に見える」という。

これは何だ?

 

→ 幽体離脱

 

その通り。

幽体離脱だね。

専門的には「対外離脱体験」と言う。

心が身体の外にワープして、宙に浮かぶというわけ。

幽体離脱なんていうと、オカルトというか、スピリチュアルというか、そんな非科学的な雰囲気があるでしょ。

でもね、刺激すると幽体離脱を生じさせる脳部位が実際にあるんだ。

つまり、脳は幽体離脱を生み出すための回路を用意している。

たしかに、幽体離脱はそれほど珍しい現象ではない。

人口の3割ぐらいは経験すると言われている。

ただし、起こったとしても一生に一回程度。

そのぐらい頻度が低い現象なんだ。

だから科学の対象になりにくい。

だってさ、幽体離脱の研究がしたいと思ったら、いつだれに生じるかもわからない幽体離脱をじっと待ってないといけないわけでしょ。

だから現実には実験にならないんだ。

つまり、研究の対象としては不向きなのね。

でも、研究できないからといって、それは「ない」という意味じゃないよ。

現に幽体離脱は実在する脳の現象だ。

それが今や装置を使って脳を刺激すれば、いつでも幽体離脱を人工的に起こせるようになった。

 

でも、幽体離脱の能力はそんなに奇異なものだろうか?

だって、幽体離脱とは、自分を外からみるということでしょ。

サッカーをやってる人だったらわかるよね。

サッカーの上手な人は試合中、ビッチの上空から自分のプレイが見えると言うじゃない。

あれも広い意味での幽体離脱だよね。

俯瞰的な視点で自分を眺めることができるから、巧みなプレイが可能になる。

サッカーに限らず、優れたスポーツ選手は卓越した幽体離脱の能力を持っている人が多いと思う。

スポーツ選手だけではなくて、僕らにもあるはずだよね。

たとえば、何かを行おうと思ったとき、障害や困難にぶつかったり、失敗したりする。

そういうときには反省するでしょ。

どうしてうまくいかないのだろうかとか。

あるいは自分の欠点は何だろうかとか。

それから女の人だったら、「私は他人からどんなふうに見えているかしら」と考えながら、お洒落や化粧をする。

こうした感覚は一種の幽体離脱だと言っていい。

自分自身を自分の身体の外側から客観視しているからね。

他人の視点から自分を眺めることができないと、僕らは人間的に成長できない。

自分の悪いところに気づくのも、嫌な性格を直すのも、あくまでも「他人の目から見たら、俺のこういう部分は嫌われるな」と気づいて、はじめて修正できる。

だから僕は、幽体離脱の能力は、ヒトの社会性を生むために必要な能力の一部だと考えている。

しずれにしても、幽体離脱の神経回路がヒトの脳に備わっていることは、実験的にも確かだ。

そして僕は、この幽体離脱の能力も、「前適応」の例じゃないかと思っているの。

だって、動物たちが他者の視点で自分を省るなどということはたぶんしないでしょ。

おそらく動物たちは、この回路を「他者のモニター」に使っていたのではないだろうか。

たとえば、視野の中に何か動く物体が見えたら、それが動物であるかどうか、そして、それが自分に対して好意を持っているのか、あるいは食欲の対象として見ているのかを判断することは重要だよね。

現に、野生動物たちはこうした判断を行いながら生き延びている。

だから動物に「他者の存在」や「他者の意図」をモニターする脳回路が組み込まれていることは間違いない。

他者を見る能力は、高等な霊長類になると、行動の模倣、つまり「マネ」をするという能力に進化する。

ニホンザルはあまりマネをしないんだけれども、オラウータンはマネをする動物として知られている。

 

模倣の能力がある動物は、環境への適応能力が高いし、社会を形成できる。

しかし、マネをするという行為はかなり高等な能力だ。

他人のやっていることをただ眺めるだけではダメで、その行動を理解して、さらに自分の行動へと転写する必要がある。

鏡に映すように自分の体で実現する能力がないとマネはできないよね。

ヒトの場合はさらに、マネだけでなく、自分を他人の視点に置き換えて自分を眺めることができる。

まあ、猿でも鏡に映った自分の姿を「自分」だと認識できるから、自分を客観視できてはいるんだろうけど、でも、ヒトは鏡を用いなくても自分の視点を体外に置くことができる。

そして、その能力を「自己修正」に使っている。

他人から見たら私の欠点ってこういうところだなとか、クラスメイトに比べて自分が苦手とする科目はこれだなとか、そんなふうに一歩引いてものを眺める。

そいう自分に自分を重ねる「心」の階層化は、長い進化の過程で脳回路に刻まれた他者モニター能力の転用だろう。

このように進化論的に「他者の心」の誕生を考えるのはとてもおもしろい。

 

最後に僕の仮説を話しておしまいにしよう。

こうした進化の名残で、いまだに見られる奇妙なプロセスが、今日の講義の前半で話してきた「自分の身体の表現を通じて自分の内面を理解する」という心の構造だ。

いったん脳から外に向かって表現して、それを観察して自分の心の内側を理解するというのは、一見すると、ひどく面倒な手続きを踏んでいるように思えるよね。

だって、自分の脳なんだから、いきなり脳の内部に、脳自身がアクセスすればいいのに、なぜ、こんな無駄と思える二度手間をわざわざ踏むのか。。。

おそらくこういうことだろう。

すでに説明したように、進化の過程で、動物たちは他者の存在を意識できるようになった。

そして次のステップでは、その他者の仕草や表情を観察することによって、その行動の根拠や理由を推測することができるようになった。

他者の心の理解、これが社会性行動の種になっている。

なぜかというと、この他者モニターシステムを、「自分」に対しても使えば、自分の仕草や表情を観察することができるよね。

すると、他者に対してやっていたときのように、自分の行動の理由を推測することができる。

これが重要なんだ。

僕は、こうした他者から自己へという観察の投影先の転換があって、はじめて自分に「心」があることに自分で気づくようになったのではないかと想像している。

つまり、ヒトに心が生まれたのは、自分を観察できるようになったからであって、もっと言えば、それまでに先祖の動物たちが「他者を観察できる」ようになっていたことが前提にある。

そういう進化的な経緯が理由で、ヒトは今でも、「身体表現を通じて自分を理解する」という不思議な手続きを踏んでいる。

常識的に考えれば、「脳の持ち主は自分なんだから、脳内で自身に直接アクセスすれば、もっとストレートに自分を理解できるんじゃないか」と思うよね。

「体を通じて自己理解する」というのは、理解までのステップが増えてしまって非効率だ。

でも、「生物は先祖の生命機能を使い回すことによって進化してきた」という事実を忘れないでほしい。

いや、「使い回す」ことしか、僕らには許されていない。

「無」からいきなり新しい機能を生み出すことは進化的にむずかしいことだ。

そんな困難なことに時間を費やすくらいなら、すでに存在しているすばらしい機能を転用して、似て非なる新能力を生み出す方が、はるかに実現可能性が高いし、効果的だろう。

その結果生まれたものが、僕らの「自己観察力」だ。

これは「他人観察力」の使い回し。

自己観察して自己理解に至るというプロセスは、一見、遠回りで非効率かもしれないけど、進化的にはコストは低い。

こうして僕らは、自分を知るために、一度、外から自分を眺める必要が生じてしまった。

これこそが「幽体離脱」だ。

しかし、それによって、僕らに「心」が芽生えた。

いやもっと厳密に言えば、自分に心があることを知ってしまった。

このように脳機能の使い回し、つまり、「前適応」こそが、進化の神髄だ。

ということは、人類の未来に対しても同じことが当てはまるはずだ。

だって僕らは進化の完成形ではなくて、まだまだ中間産物でしょ。

だから、もしかしたら、現在の人類の持つ「心を扱う能力」を、未来の人類が応用して、もっととんでもない新能力を開拓してしまう可能性もあるわけだ。』

(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二

 

 

幽体離脱」のような超常現象的な出来事さえも、脳内で起きている錯覚の一種である、ということが明らかになったということですが、

これまでご紹介してきました記事に一貫していることは、人間が体験するあらゆる現象は、人間の脳に起きたことであり、必ずしも真実とは言えないけれど、

それが起きた個人にとっては、それは事実であり、リアリティを持っているということになります。

 

こうして考えると、リアルだと思っていた世界は、実は、脳の中だけに存在する世界である可能性も否定できない、と言えるでしょう。

 

脳がこれまでに得た常識的な固定観念に縛られている限りは、この宇宙の実相を知ることはできないと断言できますが、

目に見えている世界、人間が体験している世界は、人間の脳の中にだけ存在する世界である、という新しい視点に立つならば、

少しだけ、人間を外側から俯瞰的に観察することができ、やがては、それが、新しい世界観へとつながっていくきっかけとなることは、確かでしょう。

 

次回は、いよいよ「意識」の領域に入って行きましょう。

 

 

 

亀が手足を甲羅に収めるように

眼耳鼻舌身(五官)の対象から

自分の感覚を引き払うことのできる人は

完全智に安定したと言える

(バガヴァッド・ギーター第2章58)

 

 

チャクラについて(12)-アジナー・チャクラ(第6チャクラ) 直感力

前回ご紹介しました脳科学者、池谷裕二さんの「単純な脳、複雑な「私」」から、「直感」についてご紹介しました。

「直感」とは、脳の、大脳皮質と視床、脳幹を結び付けている神経核の集まりである大脳基底核という部位が関係している、ということでしたが、今回は、その続きをご紹介いたします。

 

 

『直感が(大脳)基底核から生じるということをはじめて聞いたときに、私はとてもびっくりしました。

というのは、古典的な脳研究から、基底核は、直感ではなくてもっと重要な役割を担っていることがよく知られていたからです。

脳の教科書を読むと、「基底核は手続き記憶の座である」と書かれています。

「手続き記憶」とは、簡単に言えば「方法」の記憶のことです。

つまり、ものごとの「やり方」です。

テニスラケットのスイングの仕方、ピアノの弾き方、自転車の乗り方、歩き方、コップのつかみ方ーーとにかく何かの「やり方」の記憶のことです。

基底核は、少なくとも「体」を動かすことに関連したプログラムを保存している脳部位なのです。

この「身体」に関係した基底核が、どうして身体とはもっとも関係なさそうな「直感」に絡むんだろうと、当初、私は不思議に思ったわけです。

でも、真剣に考えると、すぐに納得できました。

それは、方法の記憶の特徴を挙げていけばわかります。

方法記憶には重要な特徴がふたつあります。

ひとつ目のポイントは、無意識かつ自動的、そして、それが正確だということです。

たとえば、箸の持ち方。

これは無意識ですよね。

意識して箸を持っている人はいますか?

たとえば、「おっ、このタイミングで上腕二頭筋を2センチメートル収縮させて、その次の瞬間には三角筋を5ミリメートルだけ弛緩させて。。。」とか、そんなことを考えて箸を持っている人はいますか?

いないですよね。

つまりは、方法記憶は無意識なのです。

箸を持つという些細な行為でさえ、実は、腕や手や指にある何千という筋肉が、正確に協調して働いて、ようやく実現できる、ものすごく高度な運動なわけです。

それを無意識の脳が厳密に計算をしてくれている。

その計算過程を私たちは知る由がない。

計算結果だけが知らされている。

だから、知らず知らずに箸を操ることができるわけです。

その計算を担うのが基底核などの脳部位です。

その計算量たるや膨大なものです。

しかも、重要なことに、基底核はほとんど計算ミスをしない。

箸を持つのはほとんど失敗しないですよね。

正確無比なのです。

そうした高度な記憶を操るのが基底核

だから基底核の作動は、無意識かつ自動的かつ正確だと言えるのです。

これが方法の記憶のひとつの目の特徴です。

ふたつ目の特徴は、一回やっただけでは覚えない。

つまり、繰り返しの訓練によってようやく身につくということです。

自転車も、はじめて乗っていきなり乗れることはないですよね。

何度も何度も練習してできるようになる。

ピアノの練習もそうだし、ドリブルシュートだって同じ。

訓練しているうちにだんだんできるようになります。

繰り返さないと絶対に覚えない。

その代わり、繰り返しさえすれば、自動的に基底核は習得してくれる、というわけです。

いいですね。

私は、以上のふたつの特徴、つまり「無意識」と「要訓練」を挙げながら、よくよく考えてみたことがあるのです。

そして、あるとき、「あれ、直感も同じだ!」と気づいたんです。

まず直感は無意識ですよね。

「こうに違いない」と気づいても、その判断の理由が本人にはわからないんですから。

つまり、無意識の脳が厳密な計算を行っていて、その結果として「こうだ」と最終的な答えだけがわかる状態なんです。

箸の持ち方と似ていますね。

 

実は3か月ほど前に、私と同い年の、あるプロの棋士とお話する機会がありました。

彼は、こんなことを言っていました。

「将棋を指しているとき、先の展開を丁寧に読みながら指しています。

ただ試合の序盤と終盤はいいけれども、中盤はむずかしい。

中盤は可能な手の数が多すぎる」と。

つまり中盤では、試合展開が読めないこともあるらしいのです。

ただ、そういうときでも、次の一手はこれを指したら勝てる、と感じるらしいんです。

しかし、その理由は本人にもよくわからない。

「なぜかわからないけれど、次の一手はこれしかないという確信が生まれるのです。

理由はわからないけれど、その信念に従って試合を運んでいくと、不思議と勝っちゃうんです」と。

そういう話を、私のような素人が聞くと、「だから、あなたは天才なんですよ」と言いたくなりますね。

「凡人には、”神からの啓示”のようなアイデアは都合よく降りてこないんです」と。

でも、脳科学的に言うのであれば、その考えは浅はかでしょう。

だって、プロの棋士は訓練をしているからです。

繰り返し繰り返し、幼い頃から将棋の盤を見てきて、いろんな対戦をして、戦局を眺めて、さまざまな手に思いを巡らせて。。。だから、指し手と盤面の展開が血となり肉となっている。

そういう「訓練」をした人の脳は、その局面を見ただけで、「直感」が働く。

無意識の脳が膨大な計算を瞬時に行って、「次の一手」をそっと当人に教えてくれるのでしょう。

その直感に従っていれば、そう、直感はほぼ正しいので、勝てる。

一方、私はといえば、将棋の訓練を受けていないですから、プロ棋士と同じ棋盤を見ても、何もアイデアは浮かびません。

「直感」が働かないんですから。

もちろん、そんな状況でも「まあ、何か指してみてよ」と言われれば、それは指せますよ。

「じゃあ、ここに桂馬を」とかね。

でも、これは脳科学的には「直感」とは言えません。

あえて言えば「でたらめ」でしょうか。

経験に裏づけられていない勘は直感ではありません。

こういうことを考えていくと、ひとつの重要な結論に達しますね。

そうです、直感は「学習」なんですよ。

努力の賜物なんです。

直感は訓練によって身につく。

私たちが箸を自然とミスせず持てるように、その理由は本人にはわからないにしても、直感によって導き出された答えは案外と正しいんだということになります。

 

テレビドラマや演劇を見てると、浮気を見破るのはだいたい女性の役目ですよね。

「あなた!浮気しているでしょう」とかね。

こんなケースでは、男は動揺を隠そうとして「何を急に!言いがかりをつけるんじゃない、理由を言ってみろ、理由を!」なんて逆ギレする。

そういうシーン、よくドラマや映画で見ますね。

でも、これ、すごく滑稽じゃありませんか?

だって「理由を言ってみろ」ですよ。

理由がないから「直感」なんであって、つまり、理由を訊くのはヤボなんですよ。

女性はおそらく本人も気づかないような微細なシグナルを、無意識の脳で検出して、見破ることができるのでしょうね。

しかも、やっかいなことに、直感って正確だから、だいたい図星。

 

さて、直感やセンスは基底核でつくられるということは理解できたでしょうか。

実は、基底核にはとても心強い性質があります。

それは大人でも成長を続けるということです。

赤ちゃんの脳はおおよそ400グラムくらい。

それが成長とともに大きくなって、だいたいみなさんくらいまでの年齢には大人の脳のサイズになって、それ以降は安定します。

生まれてから3倍くらいの大きさになっています。

ただし、それ以降でも、一部の脳部位はまだまだ成長することが10年ほど前に発見されました。

大人になって成長する脳部位は2か所ありまして、ひとつは前頭葉で、もうひとつは基底核だったのです。

ということは、話をあえて卑近な例に引き寄せますと、私たちが学習したり、人生で経験したりすることの意義は、基底核、つまり「直感力」を育むという側面があるのではないか、と私は思いたいんです。』

(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二

 

 

第6チャクラであるアジナー・チャクラに集中して瞑想を続けていると、「神の眼」が開眼し、「直感」が降りやすくなる、ということが言われていますが、

脳の働きから見ると、学習や訓練の積み重ねが、「直感」を生んでいる可能性が示唆されていることが伺えます。

 

心を静かにし、雑念を取り除くという、頭の中で常に起きている煩い思考や感情に左右されない訓練を繰り返し行うことで、

どんな時であっても、平常心でいることができ、冷静な判断を下すことができる。

そして、その冷静な判断を、私たちは「直感」と呼んでいるのかもしれません。

 

次回は、更に脳の働きから体に起こる不思議な「超常現象」について、見てみましょう。

 

 

 

 

ブリターの息子よ さまざまな感覚の

欲望をことごとく捨て去って

自己の本性に満足して泰然たる人を

純粋超越意識の人とよぶ

 

三重の逆境に処して心を乱さず

順境にあっても決して心おごらず

執着と恐れと怒りを捨てた人を

不動心の聖者とよぶ

 

善を見て愛慕せず

悪を見て嫌悪せず

好悪の感情を超えた人は

完全な智識を得たのである

(バガヴァッド・ギーター第2章55-57)

 

 

チャクラについて(11)-アジナー・チャクラ(第6チャクラ) 直感について

前回は、「脳の錯覚」について、最新の脳科学の研究結果から想定されたひとつの仮説についてご紹介させて頂きました。

 

それは、脳が見ている(目が見ている)世界が、実際に存在している真の世界であるという、一見当たり前のように考えられている一般的な常識を覆すのに十分な可能性を秘めている大脳生理学的な見地に立ったひとつの考え方と言えますが、

今回は、この仮説を裏付ける実証実験とその結果についてご紹介することで、

私たちの脳が認識している(目に見える)世界が、いかに不確実で曖昧であり、想像できないほど多くの錯覚に満ちた世界であるかという可能性について、少しご紹介したいと思います。

 

 

『脳の中のニューロン神経細胞)に細かいガラス電極を刺せば、ニューロンの活動を記録できる。

すでに脳の中に、いろんなニューロンが見つかっています。

たとえば赤色を見たときに反応する赤ニューロンとか、丸い形を見たときに反応する丸ニューロンとか、顔を見たときに反応する顔ニューロンとかね。

とにかく、いろんな種類のニューロンがあることがわかっています。

 

ピンク色の斑点があります。

それが一か所ずつ瞬間的に消えていきます。

消灯する場所が転々と回転している。

こんな簡単な動画ですが、驚くべきことが起こります。

まず、ピンクの斑点が見えているということは、みなさんの脳の中に、ピンク色に反応するニューロンがあるということです。

ピンク担当のニューロンがビビビと活動しているから、みなさんはピンク色が見えているわけです。

 

さてここで、中心の黒い+印を凝視してください。

何か変化が起こりませんか。

緑色の斑点がグルグルと回っているのが見えてきますね。

ありもしない、緑色が。

ということは、今、みなさんの脳の中の緑色に反応する緑ニューロンも活動したというわけです。

ニューロンが活動しさえすれば、ないものだって見えちゃう。

「存在」してしまうわけです。

(下記のサイトで、その動画を見ることができますので、ご自分で確かめてみて下さい)

 

http://bluebacks.kodansha.co.jp/special/brain_move01.html

 

 

これで驚いてはいけません。

もっとすごいことが起こりますよ。

+印をずっと見続けてください。

じっと、視線を固定して。。。。

15秒くらい凝視を続けると何か起こりませんか。

ほら、驚くべき現象を目の当たりにしたでしょう。

そうです。

ピンク色の斑点が全部消えてしまって、緑色だけが回っている。

できました?

じっと我慢して、+印だけを見続けないと起こりませんよ。

慣れなうちは30秒くらいかかってしまうかもしれませんが、慣れれば5秒程度で消えます。

このとき、みなさんの脳に何か起こったかというと、もうわかりますね。

ピンク色ニューロンが活動をやめてしまった。

すると、目の前から消えて、見えなくなっちゃう。

なかったことになってしまうのです。

つまり、外界にはピンク色が存在しているかどうか、あるいは、ピンク色が光波として網膜に届いているかどうかは、あまり重要なことではなくて、脳の中のピンク色担当のニューロンが活動するかどうかが、「存在」のあり方、存在するかどうかを決めていると言うことになります。

哲学では「存在とは何ぞや」と、大まじめに考えていますが、大脳生理学的に答えるのであれば、存在とは「存在を感知する脳回路が相応の活動をすること」と、手短に落とし込んでしまってよいと思います。

つまり私は「事実(fact)と真実(truth)」は違うんだということが言いたいのです。

脳の活動こそが事実、つまり、感覚世界のすべてであって、実際の世界である「真実」については、脳は知りえない、いや、脳にとっては知る必要さえなくて、「真実なんてどうでもいい」となるわけです。

この考え方は「脳」を考えていくときに重要なポイントになりますので、忘れないでくださいね。』

(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二

 

 

このことから、大まかに言うならば、人間(の脳)にとっては、事実=真実とは限らない、ということが言えるかと思います。

 

つまり、私たちの脳が認識している世界は、脳の錯覚によって創造された世界である可能性は、十分にあるわけです。

 

次に、スピリチュアルな世界では、「直感」について神秘的なイメージをもっていますが、

この「直感」についても、おもしろい実験結果が紹介されていますので、

第6チャクラである「アジナー・チャクラ」に関係する「直感」について、大脳生理学的に見たら、どのような結果が得られたのかについて、ご紹介したいと思います。

 

 

『無意識の能力を調べていく研究から、最近、(大脳)基底核は「直感」を生む場所だということがわかってきました。

直感です。

うーん、直感なんて聞くと、何やら怪しげで、トンデモ科学の雰囲気がプンプンしてきませんか。

でも、直感は実際にある脳の能力なんです。

ただ、直感は最近まで科学の対象になりにくかっただけなのです。

日常会話でも「勘だよ、勘」などと言いますよね。

たとえば、料理を習っていて、「塩を少々加えて」というときの「少々」とは具体的に何グラムを指すんだ」なんて訊けば、料理の先生は「勘、適量よ」なんて返してくる。

あるいは野球でフライが上がったとき、落下点に素早く移動したいときには、放物線の二次方程式を解かなくても「勘」でキャッチできますね。

「勘」って、いったい何なのでしょう。

直感は、最近ではちゃんと科学的に扱えるようになっていて、(大脳)基底核から生じることが示唆されています。

そこで、今日の最後の話題は「直感」にしようと思っています。

まず、「直感」の定義をしておきましょう。

「直感」と「ひらめき」は異なるものだということをご存知ですか。

日常用語では両者を同じような意味で使っているかもしれませんが、脳の研究ではまったく違うものとして取り扱っています。

脳機能の視点から見ると、まるで別物です。

実際に、脳内メカニズムが違うのです。

だから、もし両者を混同している脳科学者がいたらニセ研究者だと思ってくださいね。

直感もひらめきも、何かフとしたときに考えを思いつくという意味では似ているのですが、その後、つまり、思いついた後の様子がまるで違うのです。

「ひらめき」は思いついた後に理由が言えるんですよ。

「これこれこうなって、ああなって、だからこうなんだ。

さっきまではわからなかったけれど、今ならよくわかるよ」というふうい理由が本人にわかるんです。

一方、「直感」は自分でも理由がわからない。

「ただなんとなくこう思うんだよね」という漠然とした感覚、それが直感です。

そんな曖昧な感覚なのですが、直感は結構正しいんですよね。

そこが直感のおもしろさです。

脳の部位でいうと、理由がわかる「ひらめき」は、理屈や論理に基づく判断ですから、おそらく大脳皮質がメインで担当しているのでしょう。

一方の「直感」は(大脳)基底核です。

 

ある実験で、勘に従って決断しているときの脳の活動をMRI(核磁気共鳴画像法)で測定しています。

直感を駆使しているときには、想像通り「(大脳)基底核」が活動していました。

やはり、私たちの直感は(大脳)基底核から生まれるというわけです。』

(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二

 

 

第6チャクラの「アジナー・チャクラ」は、「直感」と関連付けて語られることが多いのですが、

大脳生理学的に考えると、「直感」と同様、アジナー・チャクラも、「大脳基底核」と関係しているのでしょうか?

 

次回では、更に詳しく「直感」について見ていきたいと覆います。

 

 

 

全ての行為は自分がするのではなく

物質自然(プラクリティ)の三性質(トリグナ)の作用にほかならなね事を知り

その上に至上主の実在を正覚した者は

この三性質を超越してわたしのもとに来る

 

肉体をまとった者が その体と連合する三性質を

振り捨ててこれを超越したとき

誕生と老と死の苦より解脱し

物質界(このよ)にいる間から至幸の神酒をのむ

(バガヴァッド・ギーター第14章19-20)

 

 

 

 

 

 

チャクラについて(10)-アジナー・チャクラ(第6チャクラ) 錯覚について

前回は、脳科学者の池谷裕二さんの著書「進化する脳」から、最新の脳科学の実験データなどから得られた情報を元に、これまでの常識を覆すような考え方の一例として、

「世界があって、それを見るために目を発達させたのではなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。」という内容をご紹介いたしましたが、

今回は、その続きをご紹介いたします。

 

この考え方は、一見、突飛に感じるかもしれませんが、仏教のお経である「般若心経」が説いている内容とも重なる部分があると感じます。

 

色即是空 空即是色

 

つまりは、一切が反対である、あべこべである、顚倒している、ということになり、

アドヴァイタ(一元論)の「この世界は非実在である」という考え方とも一致するものである、とご紹介させて頂きます。

 

 

『もし君たちが魚の目を持っていたら、たぶんまったく違った世界の解釈をしていると思う。

ニュートンは人間の目を使って<世界>を観察して、「ニュートンの三大法則」をつくった。

カエルだったらおもに動いているものしか見えないわけでしょ。

そうしたら、カエルにとっては「ニュートンの法則」は成り立たない。

カエルの目だったら「質量保存の法則」なんて無意味だ。

そういう話。

ここから一気に、もっと深い話になる。

いまついてきている?何か質問あるかな?

 

→ いまのちょっとよくわからないんですけど、みんなわかるの?

先に目ができて、目ができたから、それで見えるようにな。。。

目という臓器ができたから、それに対応してまわりも、それに即して。。。。

でも、世の中はあるわけですよね。

 

物質世界としては人間がいる前からきっとあっただろうけれども、こういうふうに見えているのは、人間が勝手にそう見ているだけの話しであった、違う動物の目を仮に移植されたらまったく違う世界がそこに生じてしまう。

だとしたら、それはもう世界のあり様として違うんだよ。

だって脳が世界を作っているんだからさ。

 

→ 質的に世界は同じだけど、見え方、見方が違うという・・・・?

 

見え方が違ったら、脳にとっては別物だよね。

だって存在とは脳が解釈した結果なわけだから、もはや質的に一緒とすら言えなくなってしまう。

よく考えてみるとわかると思うんだけど、どう?

もう少し考えてみる?

たとえば、光の三原色があるよね。

赤・緑・青の三種類の光さえあれば、世の中のすべての色をつくることができる。

テレビ画面を虫メガネで拡大して見ると、「赤・緑・青」の画素がびっしり並んでいるのが見える。

ちなみに、人間が識別できる色の数は数百万色と言われている。

すごいよね。

考えてみれば数百万種類もある色が、たった3つの光の波長に還元されてしまうのだから、光の三原色っておもしろいよね。

この三色の原理は、ずいぶんと昔から人間はちゃんと知っていた。

そして、後世に「生物学」が発達して、目という臓器に科学のメスが入ると、なんとまあ、その赤・緑・青の三色に対応したセンサー細胞が網膜から見つかって世の中の人は驚いたんだ。

「三色の原理を生物はきちんと知っていて、それに対応させて網膜を発達させたんだな。

・・・・人間の目とは、やはりうまくできているものだなぁ」と。

でも、それはそんなに驚くべきこと?

だって、本当を言えばこれは当然なんだよ。

光はもともと三原色に分けられるという性質のものではない。

網膜に三色に対応する細胞がたまたまあったから、人間にとっての三原色が赤・緑・青になっただけだよ。

もし、さらに赤外線に対応する色細胞を持っていたら、光は三原色ではなくなるよ。

何が言いたいのかというと、赤・緑・青という電磁波のおよそ、555ナノメートル、530ナノメートル、426ナノメートルという波長の三色しか見えないから、世界がこういうふうにしか見えていないというわけ。

たとえば、もし、もっと長い波長のラジオ波なんかが目に見えたりしたら、すごいことになってしまう。

ラジオ波はとても透過性も高いから、つまり、容易に壁をすり抜けるから、建物の向こう側にいる人まで見えてしまう。

でも、実際の人間の目は、世の中に存在する電磁波の、ほんの限られた波長(可視光)しか感知できない。

だから、本来限られた情報だけなのに「見えている世界がすべて」だと思い込んでいる方が、むしろおかしな話でしょ。

その意味で、世界を脳が見ているというよりは、脳が(人間に固有な)世界をつくりあげている、といった方が僕は正しいと思うわけだ。』

(進化しすぎた脳 池谷裕二

 

これは、一人の脳科学者が、最新の脳科学の研究結果から導き出した一つの仮説ですが、

ジュナーナ・ヨーガ(智識のヨーガ)で言っているところの「世界は非実在の幻、或いは夢のようなもの」という世界観と

「この目に見える世界は錯覚の産物である」ということは、同じことを言っているようにも受け取れます。

 

私たち人間は、「人間」というバイオスーツ(肉体)を着ているので、「人間」の肉体(バイオスーツ)の持つ機能を駆使しながら、この世を体験しています。

 

しかし、この体験は絶対的なものではなく、人間固有の体験であり、

それ故、それらの体験は、宇宙において普遍のモノというわけでもなく、

敢えて言うならば、人間だけに通用する限定的なモノなのです。

 

また、この有限なる「人間」というバイオスーツを抜いだとき、

「無限」という普遍なる真実の世界(次元)が広がっていると、

人間は、脳内で想像(創造)することができる唯一の存在であると言えます。

 

この働きについては、次回、詳しく見ていきたいと思います。

 

 

 

全ての行為は物質自然によって

つくられた肉体が行うのであって

自己の本質(アートマン)とは無関係であると知る者は

存在の実相を見ているのである

(バガヴァッド・ギーター第13章30)

 

 

チャクラについて(9)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) ③進化した脳

前回の第6チャクラの「アジナー・チャクラ」についての記事の続きとして、

更に第6チャクラについて深く理解するために、

アジナー・チャクラ周辺の感覚器官である「視覚」について、少し考えてみたいと思います。

 

私たち人間を含めて全ての生物には、二つの目があります。

深海魚など光が射さない環境で生きている生物の中には、目が退化してしまった生物もいますが、

私たちは、目で世界を認識しており、また、自分をも認識している、と考えられていますが、

果たして、本当にそうでしょうか?というのが、今回のテーマです。

 

このような常識と考えられているような定説に、疑問を投げかけることを「アンチテーゼ」と言いますが、

以下の文のような「アンチテーゼ」を読んで、どのように感じられますか?

 

『「目はものを見るためにあるのか」・・・多くの人はそう信じて疑わない。

でも、ほんとうにそう?

たぶん違うな。

まず世界がそこにあって、それを見るために目を発達させた、

というふうに世の中の多くの人は思っているけど。

本当はまったく逆で、生物に目という臓器ができて、

そして、進化の過程で人間のこの目ができあがって、

そして宇宙空間にびゅんびゅんと飛んでいる光子(フォトン)をその目で受け取り、

その情報を解析して認識できて、そして解釈できるようになって、

はじめて世界が生まれたのではないか。

言っていることわかるかな?

順番が逆だということ。

世界があって、それを見るために目を発達させたのではなくて、

目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。』

(進化しすぎた脳 池谷裕二

 

エ?

 

そうなの?

 

本当に? (信じられない!)

 

 

何故、そんなことが言えるのか?

 

この続きは、次回に詳しくご紹介したいと思います。

 

 

 

地球上の 昼と夜と

人間の用いる計算方法では

創造神ブラマーの一日は千周代

ブラマーの一夜も千周代

 

ブラマーの一日が始まると

多種多様な無数の生物が姿を現わし

ブラマーの夜になると

彼らはすべて姿を消す

 

ブラマーの夜が明けると再び

万物群生は流れ出て活動を始め

暗闇になると溶解消滅する

物質世界はただこれを反復(くりかえ)すだけ

 

だがこの未顕現 顕現の現象(すがた)を超えて

別な世界が実在する

それは至上至妙にして永遠不滅

物質宇宙(このよ)が絶滅してもそのままである

(バガヴァッド・ギーター第8章17-20)