永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(8)アジナー・チャクラ(第6チャクラ)②視床、視床下部、下垂体

前回は、第6チャクラの「アジナー・チャクラ」を理解するために、松果体という脳の内分泌器官をみてみました。

 

松果体は、視床上部にある小さな内分泌器官ですが、

視床上部、視床視床下部は、「間脳」を構成しており、その5分の4を占めるのが、視床です。(間脳は、広義には、脳幹に含まれることもあります)

 

視床には、嗅覚以外の感覚情報がすべて集まっています。

その後、異なるニューロンによって大脳皮質へと伝えられますが、その一大中継地が視床で、

感覚野や運動野の特定の領域に投射し、中継核として機能したり、間脳その他の核や中脳からの投射を受け、連合野に投射しています。

 

この働きにより、幻視、幻聴、妄想、認知機能障害(統合失調症)の患者には、視床ドーパミントランスポーター(DAT)の機能に変化があり、健常者より30%のDAT増加がみられるとの報告があります。

一方、視床ドーパミンD2受容体の量が減少しているとの報告もあり、視床ドーパミン神経系の過剰活動が、情報の統合に乱れを生じさせていると考えらています。

 

次に、視床下部に移りましょう。

視床を囲む視床下溝よりも下方、第三脳室が下垂体に向かっている部位が、視床下部で、視床下部は、小さな器官ですが、体内環境を調整する重要な役割を担っています。

 

ひとつは、自律神経系の制御で、自律神経系は、内臓の働きや、血圧や血糖値、脈拍、体温などを無意識下で調整し、生体環境の均衡を保とうとするホメオスタシス(恒常性)を維持しています。

ホメオスタシスは、自律神経系とホルモン系の連動によって保たれており、視床下部はこのホルモン系の制御もおこなっています。

視床下部が分泌するホルモンとしては、副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン、成長ホルモン放出ホルモン、成長ホルモン抑制ホルモン、プロラクチン(乳腺の発達、乳汁放出に関係するホルモン)放出ホルモン、プロラクチン抑制ホルモン、甲状腺刺激ホルモン放出ホルモンなどで、

これらの視床下部から分泌されたホルモンにより、下垂体は、成長ホルモン、乳腺刺激ホルモン、甲状腺刺激ホルモン、副腎皮質刺激ホルモン、性腺刺激ホルモンという多くのホルモンを分泌します。

 

これらのホルモンは、第6チャクラよりも下位のチャクラへ働きかけ、それらのチャクラから各種ホルモンの分泌を促します。

つまり、第6チャクラが、第6チャクラ以下のチャクラの働きをコントロールしていると考えられます。

 

そういう意味では、第6チャクラは、体全体における隠れた司令塔であり、

「アジナー」とは、「命令」という意味だと書きましたが、その言葉通り、体全体を無意識下でコントロール(調整)していると言えます。

 

例えば、視床下部は、大脳辺縁系(記憶を司る海馬や情動を司る扁桃体など)や大脳皮質(思考や判断の中心的役割を担っている)から直接的・間接的に影響を受けています。

外部からの刺激によって、ある情動が生じると大脳辺縁系から視床下部に情報が伝わり、それにより視床下部は自律神経に、身体の各器官を適切な状態にするように指令を出します。
例えると、歩いていて脇道から急に自動車が飛び出してきたら、大脳辺縁系に恐怖の感情が生まれ、その情報が瞬時に視床下部に伝えられ、それを受けた視床下部が自律神経に指令を出し、交換神経が興奮することにより、急に血圧が上がり、心臓が早鐘を打ち、冷汗が出、全身の筋肉が収縮する、というような具合です。

 

生命の危機を感じた脳の情報を受けて、自律神経を通じて全身が危機に対応するよう瞬時に変化します。

このように、視床下部は本能的欲求や情動をつかさどる大脳辺縁系からの情報によって、自律神経をコントロールします。

また、視床下部は大脳皮質からも間接的に影響を受けます。
例えば、サスペンスやホラーの小説や映画を観てドキドキしたり、好きな異性から声を掛けられたら胸が高鳴るのは、その一例と言えます。

ストレスを受けるとその情報は、視床下部から脳幹(縫線核)に流れ、脳幹のセロトニン神経伝達物質)の働きが弱くなり、精神症状(うつ病やパニック症)の引き金になるとされています。

 

そして、視床上部には、前回の記事でご紹介しました睡眠や日内リズムに関与するメラトニンというホルモンを分泌する松果体があります。

 

最後に取り上げるのは、(脳)下垂体という多くのホルモンを分泌する内分泌器官で、

下垂体には、血管が非常に発達しており、分泌されたホルモンが効率よく血流に乗って全身に運ばれるようになっています。

下垂体前葉のホルモンの分泌を調節するホルモンは、視床下部から分泌されており、下垂体を通る血管のうちの一部は、視床下部を経由してから下垂体に入るため、視床下部の分泌調節ホルモンの刺激が効率よく下垂体前葉に伝わるようになっています。

一方、下垂体後葉ホルモンであるオキシトシンは、「幸せホルモン」「愛情ホルモン」とも呼ばれ、ストレスを緩和する作用があるとされていますが、

このオキシトシンは、視床下部神経細胞で産生され、視床下部から下垂体後葉にまで達している神経細胞の軸索を通して運ばれ、血管に放出されます。

このオキシトシンが、中枢神経系において、扁桃体へ放出されると、警戒心が解け、側坐核へ放出されると、快感を感じます。
末梢神経へ放出されると、平滑筋の収縮に関与して分娩時の陣痛、子宮収縮、乳腺の筋線維を収縮させ、乳汁が分泌されます。

 

ここまで、視床視床下部視床上部、下垂体について、現代の脳科学の研究でわかってきていることを簡単にご紹介しましたが、

ひと言で言うならば、これらの器官は、人間にとって、生命維持に欠かせない心と体をつないでいる情報の中継地と言えるでしょう。

 

専門的な内容ですが、これら器官の簡単な働きを多少なりとも、頭の隅に置いておくと、第6チャクラを理解する上で、非常に役に立つことと思います。

 

二回にわたって、内分泌器官としての働きのある脳の部位の働きをみることで、第6チャクラの役割や働きを見てきましたが、

第6チャクラは、脳の一部分に限定されているわけではなく、脳全体の働きに大きく関係していると思われます。

 

次回は、「意識」「感覚」「認識」といった更に微細な領域に関係している部位について、詳しく見ていきたいと思います。

 

 

聖ラーマクリシュナ

『智者(ジュニャーニー)の目的は自我の本性をしることだ。

それを智識といい、それを解脱と呼んでいる。

至上のブラフマンこそが自分の本性なんだ。

自分と至上ブラフマンは一つだ。

マーヤーのためにそれができないんだよ。

ハリシュに言ってきかせたんだがねーー

”何でもないさ。黄金の上にいくらか土がかぶさっているだけなんだから、その土をのければいいんだ”と。

信仰者は”私”を残しているが、智者は残さない。

どんなふうにして自我の本性に安住するか、ナングタが教えてくれたよーー。

”心を知性(ブッディ)のなかに溶かせ。

知性(ブッディ)を真我(アートマン)のなかに溶かせ。

そうすれば自我の本性に安住することができる”と。

でも、”私”はどうしたって残るよ――無くならない。

無限の水――上も下も、前も後も、右も左も水ばっかり!

その水のなかに水のいっぱい入った瓶がある。

中も外も水。

それでもやっぱり瓶がある。

”私”という相(すがた)の瓶がーー」

 

「智者の肉体は以前通り、”ある”。

しかし、智識の火で色情や怒りは焼き尽くされている。

ずい分前のことだが、大嵐のときカーリー堂に雷が落ちた。

わたしらが行ってみたら、扉や何かはどうにもなってない。

でも、ネジの頭が壊れていた。

扉は肉体のようなもの、色情や怒りはネジだ。

智者は神の話ばかり好んでする。

俗っぽい話になると彼は苦痛を感じる。

所詮、俗人どもは別な人種なんだ。

連中は頭に無明というターバンを巻いている。

だから、同じような世間話を飽きもせずくり返す。

ヴェーダに七住地のことが出ている。

智者が第五住地まで上がると、神に関する話しか耳に入らないし話すこともできない。

そうなると、彼の口からはただ智識の教訓(おしえ)しか出てこない」

「赤熱(ラーガ)の信仰になれば――つまり、神を愛するようになれば、神にふれることができる。

形式的信仰は入りこみやすく離れやすい。

称名を何回、瞑想をこれだけして、これこれの犠牲を供えて護摩を焚き、これこれの用具をつかって礼拝し、礼拝をする時にはこれこれの真言を称える。

こんなのが形式的信仰というんだよ。

こんなのはするのも簡単だが、やめるのも簡単さ!

よく人が言うだろうーー

『君、ぼくは幾日もハヴィシャ(特別の米を炊いたご飯に、決められた種類の野菜を茹でたものを添えた食事で、神聖な食べ物とされている)だけで過ごしてあれだけ礼拝したのに、何の効能もないんだ』なんてね。

しかし、赤熱信仰(ラーガバクティ)は決して退転しないよ!

どういう人たちがラーガ・バクティを持つ?

前生でたくさん善行(修行、奉仕など)をした人たちだ。

さもなくば永遠完成者(ニティヤシッダ)だ。

荒れた空家を掃除しているうちに、パイプをとりつけてある泉が見つかる!

土やレンガの粉がかぶさっていたのをすっかりとりのけてやると、とたんに水がシューッと噴き上がった!そんなものさ。

ラーガ信仰の人は、こんなことは決して言わないーー

『君、私は何日もハヴィシャだけで過ごしてきたが、何の効果もない!』

かけだしの百姓は、作物がとれないとすぐ土地を見放してしまう。

しかし先祖代々からの百姓は、作物がとれてもとれなくても百姓をつづけるよ。

親父も爺さんも百姓してきたんだから、百姓さえしていれば食べていけることがよくわかっているんだ。

ラーガバクティの人たちこそ本真(ほんとう)の信仰者だ。

神さまが全責任を負って下さる。

病院の名簿に登録されればーー病気が治らぬうちは、博士(せんせい)さまが退院させてくれないよ。

神様がつかまえていて下さる人たちは、何の心配もない。

田んぼの畦道を歩きながら、子供が父親の手をつかんでいる場合は田んぼに転げ落ちることもあるーー子供はうっかりして手を放すこともあるからね。

でも、父親が子供の手をつかんでいれば決して落ちない」

 

「家庭や世間のことをぜんぶ捨ててしまう必要があるかい?

執着をなくせばそれでいいんだ。

だが、修行はしなけりゃいけない。

五官の誘いと戦わなけりゃいけない。

砦の中から戦うのはとても有利だ。

砦のなかではいろんな助けが得られるからね。

この世は経験の場だ。

一つ一つ経験して、それを捨てていくことだ。」

(聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)

 

 

 

もし身勝手な考えで『戦わない』と思っても

その決心は空しいものだ

武士階級(クシャトリア)としての天性によって

君はどうしても戦わなければならぬのだ

 

クンティーの息子よ 君は迷いのため

わたしの指示に従うのをためらっているが

しかし 天性にかりたてられて

為(し)ないといっていることを為(す)ることになる

 

アルジュナ

至上主は(かみ)は全生物の胸に住み

かれらの行動を指揮する

御者が馬車を動かすようにーー

 

バラタ王の子孫よ 故に

かれに絶対服従せよ

そうすればかれの恵みにより

永遠の妙楽土に住めるようになる

(バガヴァッド・ギーター第18章59-62)

 

 

 

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チャクラについて(7)-アジナー・チャクラ(第6チャクラ)その①松果体

今回取り上げるのは、眉間にあるとされる第6チャクラである「アジナー・チャクラ」です。

「アジナー」とは、「命令」という意味で、「知る」「従う」という語から派生した言葉だそうで、

ヨーガの世界では、「第三の眼」或いは「神の眼」と呼ばれることもあり、インド人はこの部位にビンディ(額につける装飾)をつけます。

 

アジナー・チャクラは、「松果体」と関係が深いと言われることがありますが、

それは、16世紀のフランスの哲学者デカルトが、

『この世界には物質と精神という根本的に異なる2つの実体があるとし(現代の哲学者たちの間ではこうした考え方は実体二元論と呼ばれている)、その両者が松果体を通じて相互作用するとした。

デカルト松果体の研究に時間を費やしそこを「魂のありか」と呼んだ』

というような脳の部位の中で、「松果体」を特別な働き(役割)を持った器官と見做す人びとの影響が大きかったからではないか、と思われます。

 

それでは、果たして、第6チャクラの「アジナー・チャクラ」は、「松果体」と、本当に密接な関係にあるのでしょうか?

 

「アジナー・チャクラ」について詳しく知るために、まずは、「松果体」について、詳しく見てみましょう。

 

松果体が内分泌器であることが分かったのは、比較的最近で、脳内の奥深くにあったため、松果体には重要な機能があると考えた哲学者もいたことから(前出のデカルト)、

松果体の存在は神秘なものとされ、迷信や形而上的な理論がまといついたと考えられます。

 

松果体は、脳にある小さな内分泌器で、脳内の中央、2つの大脳半球の間に位置し、2つの視床が結合する溝にはさみ込まれています。

松果体にはセロトニンメラトニンなどの物質が含まれていますが、メラトニンは性腺刺激ホルモン放出を抑制し、皮膚の色を白くするとされ、メラニン色素細胞の収縮、生殖腺の発達抑制の作用があります。

また、人においては通常夜に分泌量が多くなり、睡眠を促進する作用があると考えられており、松果体の組織が破壊されると性的早熟(早発性思春期)と性腺肥大が現れるといいます。

さらにヒトの松果体メラトニンセロトニンの量は、他の動物と同様に明暗の変化に伴って日周リズムを示すといわれています。

 

また、「松果体」は、発生学的に見ると、非常に興味深い進化過程を経ていることがわかります。

 

(以下、Wikipediaより)

『発生過程を見れば、松果体は頭頂眼と源を一にする器官である。

まず頭頂眼について説明する。

脊椎動物の祖先は、水中を生息圏として、中枢神経系を源とする視覚を得る感覚器に外側眼と頭頂眼を備えていた。

外側眼は頭部左右の2つであり、現在の通常の脊椎動物の両眼にあたる。

頭頂眼は頭部の上部に位置していた。

初期の脊椎動物の祖先は頭部の中枢神経系で、つまり今では脳に相当する部分に隣接して存在したこれら左右と頂部の視覚器官を用いて、皮膚などを透かして外界を感知していたが、

皮膚の透明度が失われたり、強固な頭骨が発達するのに応じて外側眼は体表面側へと移動した。

また、外側眼が明暗を感知するだけの原始的なものから鮮明な像を感知できるまで次第に高度化したのに対して、

頭頂眼はほとんど大きな変化を起こさず、明暗を感知する程度の能力にとどまり、位置も大脳に付随したままでいた。

やがて原因は不明ながら三畳紀を境にこの頭頂眼は退化してほとんどの種では消失してしまった。

現在の脊椎動物では、ヤツメウナギ類やカナヘビといったトカゲ類の一部でのみ、この頭頂眼の存在が見出せる。

受精後に胚から成長する過程である動物の発生過程では、動物共通の形態の変化が見られるが、この過程で頭頂眼となる眼の元は間脳胞から上方へと伸び上がる。

この「眼の元」は、元々は、左右2つが並んで存在するが、狭い間脳胞に生じたこれらはやがて前後に並んで成長する。

2つあるうちの片方が松果体となり、残る片方はある種の爬虫類では頭頂眼となるか、またはほとんどの種では消失してしまう。』

『トカゲ類にはその頭頂部に第3の眼と呼ばれる頭頂眼(顱頂眼,)がある。

視床上部の上生体複合体に由来する頭頂眼は、元々対の器官だったものの片方が頭頂眼に、もう片方が内分泌器官である松果体(上生体)に変化したとされ、体温調節に一役買っていると考えられている。』

 

つまり、脊椎動物の祖先とは、所謂、魚類のことですが、三畳紀以前に地球の海に生息していた脊椎動物の祖先である魚類は、外界をはっきりと認識できる視力を持っておらず、

二つの外側眼と二つの頭頂にある頭頂眼で、ボンヤリと光を検知するくらいがやっとであった、ということになります。

そして、三畳紀以降は、この二つある頭頂眼の内のひとつが、脳内に移動して「松果体」となり、

頭頂に残ったもうひとつの頭頂眼は、多くの種では消滅してしまった、というのです。

 

こんなところから、「松果体」は、今は消失してしまった目に見えない「眼」として、目に見えない世界を見ることができる「眼」として、

その真偽は定かではありませんが、「第三の眼」「神の眼」と関連づけて考えられるようになった、とも考えられます。

 

しかし、現代では、MRI(核磁気共鳴画像法)の普及により、脳内の働きや活動部位がはっきりとわかるようになったため、

それまで神秘のヴェールに包まれていた脳活動が、近年になって急速に、詳細に解明されてきており、

この脳科学の発展に伴い、それまで推測域を出ることがなかったいろいろな仮説に関して、科学的な見地から検証することも可能となってきています。

 

次回も、この脳科学における最新の研究成果を踏まえて、第6チャクラである「アジナー・チャクラ」について、

より広い、そして、より現代的な視点で、理解を深めていきたいと思います。

 

 

 

聖ラーマクリシュナ

『人生の目的は神を体得(つか)むことだ。

仕事というのは、一番はじめの第一章だよ。

人生の目的なんかであるものかい。

だから、無私の働きも一つの手段だ。

目的じゃない。

シャンプーがこう言った。

『持ち金をすべて良いことに使えますように!

ーー病院や施薬所を建てたり、道路やガードをつくったりできますように祝福して下さい』

わたしはこう答えたよ。

そういうことをみな、無執着の心でやれるならいいことだが、それは大そう難しいよ。

何をするにしても、お前の今生の目的は神をつかむことだということを、片時も忘れるな。

病院や施薬所を建てることじゃないんだぞ!

もし神がお前の目の前に現れて、一つだけ願いを叶えてやるとおっしゃったら、病院と施薬所を建てて下さいと言うつもりなのかい?

”おお神様、あなたの蓮華の御足に純粋な信仰をもてますように、そしてあなたにいつも会えますように”とお願いしないつもりなのかい。

病院だの、施薬所だの、あんなものはみな、ほんの一時的なはかない存在だよ。

神だけがほんとの実在で、ほかは全部、非実在だ。

それに、あの御方をつかんだら、あの御方が行為者(カルタ―)で、わたしらは非行為者(アカルター)だということがわかる。

そうすれば、どうしてあの御方をそっちのけにしてまで、いろんな仕事に追っかけまわされただけで死ぬのに満足できるかね?

あの御方をつかめば、あの御方の思召しで、病院だろうと施薬所だろうといくらでもできるさ。

だから、仕事はほんの第一歩だと言うんだよ。

仕事が人生の目的じゃないんだよ。

修行して、もっと先へ先へと前進しろ。

そうすれば、しまいには神だけが実在で、あとはみな非実在だということ、神をつかむのが人生の目的だということがわかる。

一人の木こりが、森に木を伐りに行った。

思いがけなく一人の坊さんに出会った。

その坊さんは、『さぁさぁ、先へ行きなさい!』と言いなすった。

木こりは家へ帰ってから考えた。

坊さんは、『先へ行け』と言いなすったが、何故だろう?

そうこうして何日か経った。

ある日、坐っているとフト坊さんの言葉が胸をよぎった。

そして、今日はいつもの場所より先の方へ行ってみようと決心した。

森へ行って、先へ進んでみると、白檀の木が数えきれないほどあった。

喜び勇んで白檀を車に積んで帰り、市場で売って大儲けをした。

しばらく経った。

ある日また、お坊さんの”先へ進め”という言葉を思い出した。

森へ行ってもっと奥の方へ進んでいくと、河のほとりに銀鉱をみつけた。

夢にもおもってみなかったことだ。

鉱山から銀を掘りだして売った。

いくら金ができたのか、自分でもわからないくらいになった。

また、しばらく経った。

ある日、坐って考えた。

あの坊さんは銀の山まで行けと言ったわけじゃない。

ーーそうだ、あの方は私に、”もっと先へ行け”とおっしゃったのだ。

ーーこんど行くと、金の鉱山をみつけた!

『オホーッ!

これだからあの坊さんは、先へ進めといいなすったんだ』と、彼は思った。

またしばらくして、その先に行ってみると、ダイヤモンドやその他の宝石がザクザクあった。

そして彼は、富の神様のような大富豪になった。

だから、わたしは言うんだよ。

たとえ何をするにしても、先へ先へと努力して進んでいけば、次々により良いものが手に入る、と。

少しばかり称名や読経をして、ある程度の神秘体験をしたからといって、最高の境地に達したなどとユメユメ思うなよ。

仕事は人生の目的ではない。

もっと前へ進めば、無私の気持ちで仕事ができるようになるだろう。

しかし、無私の働きというものは、ホントに難しいもんだ。

だから信仰をして、熱心にあの御方に祈れ。

ーー神様、あなたの蓮華の御足を信仰させて下さい。

この世の仕事を減らして下さい。

さいごに残った義務を、無私の心でできるようにして下さい、と。

もっと先へ進むと、神をつかむことができる。

あの御方に対面することができる。

そしてだんだん、あの御方と話し合うこともできるようになるよ』

(聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)

 

 

 

わたしに頼ってすべての活動をし

常にわたしの保護のもとで働け

至上者であるわたしを信じきって

常に意識をわたしで満たしておけ

 

わたしを想い 慕っていれば

わたしの恵みで全ての障害が除かれる

だが わたしを意識せずに我執で働き

わたしの言葉を聞かぬ者は滅びる

(バガヴァッド・ギーター第18章57-58)

 

 

 

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チャクラについて(6)-ヴィシュッダ・チャクラ(第5チャクラ)

今回は、第5チャクラのヴィシュッダ・チャクラについて、見てみましょう。

「ヴィシュッダ」とは「浄める」という意味で、喉の真ん中辺り(喉仏)にあるチャクラです。

 

喉の真ん中辺りというと、甲状腺があるところですが、この甲状腺について、少し詳しく見てみましょう。

 

甲状腺ホルモンには主に、次の5つの働きがあります。

①体の発達成熟と成長、②中枢神経系の維持、③代謝促進、④交感神経を活性化、⑤心拍出量増加

 

甲状腺ホルモンは、からだ全般の発達・成熟と成長に必要です。

赤ちゃんの時期に甲状腺ホルモンが不足すると、骨、内臓、脳などの中枢神経に異常をきたしてしまいます。

また、甲状腺に異常がある場合、体重が正常に増えなかったり、肝臓に異常がある時に出現する黄疸がみられたり、体温や心拍数が低くなります。

例えば、オタマジャクシは甲状腺ホルモンが足りないとカエルになることができません。

 

脳や脊髄の神経のネットワークであるシナプスを作る上で必要です。

また迅速な思考ができるようになります。

逆に甲状腺ホルモンが足りないと思考が緩慢となり、認知症のようになります。

 

甲状腺ホルモンは食事から摂取した炭水化物、脂質、タンパク質を代謝するのに必要です。

炭水化物は腸で糖に分解されてから吸収されますが、甲状腺ホルモンは腸からの糖の吸収を促進し、血糖値を上げます。

また脂質については、血中コレステロール中性脂肪を下げる働きをします。

さらに、タンパク質を筋肉に作り替える働きをします。

また体の多くの組織での酸素消費量を増やし、基礎代謝を増やします。

 

交感神経が常に活性化していると色々と支障が生じます。

イライラしたり、落ち着きが無くなったり、手指のふるえや動悸がしたりします。

 

甲状腺ホルモンは心拍出量を増やします。

また上の血圧(心臓が収縮する時の血圧;収縮期血圧)を上げ、下の血圧(心臓が拡張する時の血圧;拡張期血圧)を下げます。

これらの理由から甲状腺ホルモンが多すぎると、心臓に負担がかかります。

 

私たちの体には、一定の条件下で体を維持するために、恒常性というものが働いています。

恒常性は生物のもつ重要な性質のひとつで、生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態が一定に保たれるという性質、あるいはその状態を指しますが、

生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重要な要素でもあると言えます。

生体恒常性とも言われていますが、甲状腺ホルモンは、この生体恒常性の維持・管理に重要な役割を担っています。

 

人間の体の体温、血糖、免疫、血中カルシウム、などは、恒常性により一定の状態が保たれるようになっていますが、

甲状腺ホルモンは、基礎代謝量の調整、体温恒常性維持、血中カルシウムの恒常性を維持、管理しています。

 

この甲状腺ホルモンは、視床下部から放出される甲状腺刺激ホルモン放出ホルモンにより、刺激を受けた下垂体から甲状腺刺激ホルモンが放出されることで、甲状腺から放出される仕組みになっており、第5チャクラも、やはり、上位チャクラの第6チャクラによりコントロールされています。

 

この甲状腺の働きの他に、第5チャクラである「ヴィシュッダ・チャクラ」の特筆すべき点として忘れてはならないのは、口(くち)の働きと関係している、ということです。

 

口(くち)は、消化器の最前端であり、食物を取り入れる部分であり、食物を分断し、把持し、取り込むための構造が備わっていると同時に、鼻腔と並んで呼吸器の末端でもあります。

 

つまり、日常的に、食物や水、そして、空気など、外界から体内への取り込みが行われる唯一の場所であり、

また、声を発する場所でもあるところから、言葉を発することで、想いや気持ち、感情など心の中にあるものを表現することで、内部のものを外部へ発散する場所でもあります。

 

内側の世界と外側の世界が、直接接することができる唯一の場所であり、口の働きなしには、私たちは、人間として生きていくことは不可能でしょう。

 

それ故、この第5チャクラは、自分を取り囲む世界と自分という世界、この両方の世界の接点として、両方の世界を同時に感じることができる場所であり、

自分と自分以外のものとの相互間において、与える、受け取るというやり取りが行われる場と言えます。

 

外の世界と内なる世界が接触する、所謂、コミュニケーションの場とも言えるのが、第5チャクラの特徴と言えます。

 

人間の体は、口から入って来る食べ物、水、空気などにより生かされています。

この無条件の受領、受け取りに対して内側から湧き起こるものが、人間においては、感謝の気持ちということにつながるでしょう。

 

無条件に与えられているモノに対する感謝の気持ちは、自然と、人間を取り巻く全世界を創造した「神」を意識し、無条件で人間が生きるのに必要なモノを与えて下さる「神」への感謝の気持ちが芽生えるきっかけとなっていく、と考えられます。

 

それ故、第5チャクラは、神聖なる存在を意識し始める最初のチャクラと言えます。

 

何気なく吸っている空気、空から不定期に降って来る生きるのに十分な雨(水)、そして、太陽光や太陽光により生長する植物の恵みなどにより、

人間の体は、この世界にあって、生きていくのに十分なほど、いろいろなものが無条件で与えられています。

それらの恵みのお陰で、私たちは日々、この地球上で生存することができているのですが、

この恵みを授けて下さる目には見えない存在に対する感受性(センサー)が、第5チャクラの役割と言えるでしょう。

 

この感受性(センサー)が鋭い場合は、恵みに感謝し、神に感謝する気持ちが育ちますが、

そうでない場合は、非常に、人間中心のエゴイスティック(利己的)な考えに囚われ、神への意識、感謝の気持ちも芽生えないことでしょう。

 

この第5チャクラが開いていくかどうかにより、その上の第6チャクラが開いていくかどうかが、決定します。

 

神を意識もせず、神に対して感謝の気持ちも持てないようでは、サード・アイと呼ばれる「神の眼」である第6チャクラが開くことはないと言えます。

 

 

聖ラーマクリシュナ

『私と私のもの。神様!

あなたがすべてのことをしている。

そして、あなただけが私のもの。

家屋敷も、家族も、親戚も、友だちも、みんなあなたのもの。

世界は全部あなたのもの。

一切合切あなたのものです!--これこそ正しい智識だ。

これは皆、私がしている、この私が主人なんだ、そして私の家屋敷、私の妻、私の子供、私の友だち、私の仕事--こういうのが無智だ。

 

師(グル)が弟子にこのことを教えていた。

神だけが自分のもので、ほかは誰一人、自分のものではない。

弟子は不服そうに言った。

「でも先生、私の母と妻は、大そう私の世話をよくしてくれます。

もし私がいなければ、母や妻の人生は真っ暗闇になってしまうでしょう」

師(グル)はおっしゃる。

「それは錯覚というものだよ。

誰もお前のものじゃないという証拠を、私がはっきりと見せてあげよう。

この丸薬を持って家にお帰りーー。

家に着いたら、それを飲んで寝ていなさい。

ほかの人はお前が死んだと思うからーー。

しかしお前は、体は動かなくても意識は普通にあって、何でも見えるし聞こえる。

私はその時、お前の家に行く」

弟子は言われた通りにした。

家に帰って丸薬を飲んで、意識を失った様子で倒れた。

母親、妻、家のものはみな、嘆き悲しみはじめた。

ちょうどそこに師(グル)が、医者に変装してやってきた。

事情をすっかり聞いて、この医者は言った。

「なるほど、なるほど、いや、心配はご無用、ここに薬がありますから生き返りますよ。

でも、一つだけ条件があってね!

この薬は先ず誰か身内の人が飲んで、その後で病人に飲ませなけりゃならんのです!

先に飲んだ身内の人は、残念ながら死ななけりゃなりません。

それで、と、ここには病人のお母さんも奥さんもおいでのようだから、この中で誰か一人、きっとお飲みになるでしょうね。

そうすれば大事な息子さんは生き返るのですからーー。

息子は何もかも聞いていたんだよ!

医師は先ず母親に呼びかけなすった。

母親は悲しみのあまり床に転げまわって泣いていた。

「お母さん!もう泣かなくてもいいですよ。

あなたがこの薬を飲みさえすれば、息子さんは助かるんですからーー。

でも、あなたは亡くなりますがね」

母親は薬を手にとって考えはじめた。

長いこと考えたあげく、泣き泣き言った。

「先生、私にはまだこのほかに息子や娘がありましてね、私があの世に行ってしまったらどうなることかーー。

誰があれたちの面倒をみて、食べさせたり将来のことを心配したりしてくれるでしょう」

医者は次に、妻を呼んで薬を渡しなすった。

妻も精一杯泣いていたが、薬を手にすると、やおら考えはじめた。

その薬を飲めば自分は死ぬのだと聞いていたからね。

やがて、泣きながらこう言った。

「この人は、こうなる運命だったのですわ。

私が死んだら、私の幼い子たちはどうなりましょう?

誰があれたちを育ててくれます?

私はどうしたってこの薬を飲むことはできませんわ」

そのとき、弟子の飲んだ薬の効き目は消えた。

彼は今こそ、誰も自分のものではないということを理解していた。

彼はいそいで寝床からとび起き、師(グル)といっしょに出ていった。

師(グル)はおっしゃった。

「お前のものはただ一人ーー神様だけだよ」

だからさ、あの御方の蓮の御足に信仰をもてるようにすることだ。

あの御方こそ、まちがいなく自分のものなんだから、とことん好きになるように努力するーーそれが何より一番いいことなんだ。

世の中のことを見ろ、ホンの二日ばかりのものじゃないか。

内容(なか)は、何もないんだ」

 

学者

「まったくです。

此処に来ると、いつかはきっと完全離欲(ヴァイラーギャ)を実行しようという気になりますーー世を捨ててしまおうという気に」

 

聖ラーマクリシュナ

「いや、どうして捨てなきゃならないんだ?

あなた方は心で捨てることだよ。

世間のことに無執着になって暮らすことだ。

それからね、頭で考えるだけじゃ、どうにもならないよ。

あの御方に熱中すること、あの御方を好きになるように努力しなけりゃね。

知識分別(ジュニャーナ)は、家の外庭までしか行けない男のようなもんだ。

信仰(バクティ)は女で、奥の間まで入っていけるのさ。

一つのはっきりとした態度を用意しなけりゃいけない。

そうして、神様をつかむんだ。

 

サナカのような聖仙(リシ)たちは平安な態度(シャーンタ)をとっていなすった。

ハヌマーンは召使いの態度(ダーシャ)をとっていた。

シュリー・ダーマ、スダーマのようなヴラジャの牛飼いたちは友だちの態度(サッキャ)だった。

ヤショーダーは母親の態度(ヴァッツァリヤ)でーー神様は自分の子供だと思っていた!

ラーダーは愛人の態度(マドゥラ)だ。

「ねえ、神さま!あんたはご主人、私は召使い」--この気持ちでいるのが召使いの態度だ。

修行の段階では、この態度が大そうよろしいね。」

(不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)

 

 

次回は、第6チャクラ、サードアイ(第三の眼、神の眼)と言われているアジナー・チャクラについて、見ていきましょう。

 

 

この境地に達した者は

ブラフマンと合一して大歓喜に浸り

憂いなく望みなく 全生物を平等に視る

そしてわたしに純粋な信愛(バクティ)を捧げる

 

人は信仰と愛を通じて

わたしの実相を知るようになる

そしてわたしを知ると

彼は直ちにわたしの浄土(くに)に入って来る

 

どんな種類の仕事をしていても

わたしの純粋な信愛者(バクタ)は

常にわたしに保護され わたしの恵みにより

永遠妙楽の住処(すみか)に来るのである

(バガヴァッド・ギーター第18章54-56)

 

 

 

クンダリニー覚醒されたナーナさんのサットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨさんの個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促されます。

 

☆自己変容したい、真理を体得したい、束縛から解放されたい、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい方々のために、ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与るサットサンガ、個人セッションが開催されています。

詳しくは、ナーナさんの公式ホームページをご覧下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

シャクティプラーナによるシャクティパータは、サットサンガに6回以上参加した後、ナーナさんの個人セッションにて受けることができます)

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

 

 

 

   

ブラフマランドラは、生と死の門

前回は、クンダリニーについて、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」よりご紹介させて頂きましたが、

今回は、スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より、クンダリニーおよびアートマンの座であるブラフマランドラについて、ご紹介いたします。

 

前回併せてご紹介させて頂きましたナーナさんのクンダリニー覚醒体験を克明に記述された「突然私がアセンションした記録」の中の文章に、

「体の根底から頭頂に向かって、何か強い力が高速スピードで登って行き、」とは、仙骨神経叢辺りに眠っているとされるクンダリニーシャクティ)が、スシュムナー管を上昇し、

「頭頂のてっぺんの蓋が ポン↑っと音を立てて勢いよく何処かへ吹っ飛んで行きました!」とあるのは、このブラフマランドラ(サハスラーラ・チャクラ)が、突然開いたことを指していると思われます。

 

正に、スワミ・ラーマが、ヨーギーとしての体験を語っていらっしゃるそのものを、ナーナさんは体験されたことになります。

 

それでは、このクンダリニーの目覚めが、何を意味するのか?について、スワミ・ラーマの著書に書かれていることから、紐解いてみましょう。

 

 

『ヨーガの達人は、死からさらに多くのことが学べることを発見しました。

死は単なる永遠への魂の旅における必要な休止ではありません。

それは、人の意志で使うことができる通路であり道具なのです。

これを理解するために、再びカタ・ウパニシャッドに戻ります。

ヤマは、体を王宮と呼びました。

王はアートマンです。

ヤマは、王宮への 11 の門を述べました。

この門のうち 7 つは感覚的なものである、 2 つの眼、 2 つの耳、 2 つの鼻孔、 1 つの口です。

さらに 3 つの門は、臍と生殖器官と排泄器官です。

最後の門は、通常は知られていない器官ですが、脳の中央にあり、頭頂に位置する泉門であるブラフマランドラと呼ばれているものです。

それは、アートマンである王の座であり、永遠の座なのです。

この座より、アートマンはすべての随行者である、心、知性、知覚器官、全体の感覚を支配し、命令します。

最初の 10 の門はこの世の生への通路です。

ブラフマランドラは、神聖で永遠なる生への入り口です。

普通の人の場合は、生命力は、特にその人の最も強烈な願望の座であった 10 の門のいずれかを通って離れていきます。

完成されたヨーガ行者は、 11 番目の門を通って離れていきます。

ウパニシャッドは、違いを強調し、これらすべての門の王はアートマンであると強調しています。

アートマンは、仕えられるべきものであり、そのやり方は、知性や心、感覚をコントロールすることにより、 11 の門における活動を制することなのです。

ヨーガ行者は、これらの入り口をコントロールする方法や、アートマンを発見し仕える方法について知っています。

彼らは、生まれ変わりの神秘を理解するために、ブラフマランドラを使うことを学んでいるのです。

永遠の世界と永遠の生への入り口が、十分に統制されると、そのとき、この世の生と永遠の生との間のつながりが理解されます。

死の惨めさと死に伴う恐れの大きな苦しみは、消滅します。

感覚、思考の波、心と体のエネルギーを含む人間を構成するすべての要素が調和するとき、アートマンは現れます。

死は、体の習慣です。

どんな化学的な構成が似た体でも、変化し滅び、死ぬことになっているので、同じ体で永遠に生きる人はいません。

必ず死ぬことになっているものにしがみつくことは、恐れと惨めさを作り出します。

その執着は、自然であり物質的な面だけに焦点を合わせる人々により分かち合われます。

彼らは、全体に気付いていないので、苦しむのです。

サマディにおいて最終的に最高点に達する瞑想は、この体にしがみつくことからの自由を約束しています。

瞑想を通して、 11 の門のコントロールは達成されます。

そのとき、人は心、体、魂への自制力を持ち、全体に気づくようになります。

瞑想の技術には宗教的な教義はありません。

ブラフマランドラは、アートマンとの合一のときにのみ、開きます。

そしてその合一は、心の中に変動がなく、願望もなく、恐れも執着もない超越状態であるサマディを通して可能です。

サマディという単語は、答えられないどんな疑問もなく、解決されないどんな神秘もないというサマヒタンを意味します。

同時に、心のおしゃべりは消え、すべての言語は忘れられます。

このような状態では、心はじっと考えたり、深く考えたりする方法はありません。

これは、心が永遠の超越した知性の黙想に同化している心の栄光ある状態です。

ヤマは、不死の領域が達成され、アートマンが悟られるサマディの状態を述べました。彼は言いました。

〝すべての感覚が器官から退き、静かになったとき、心が静寂になり静止し、思考が心を乱さないとき、その状態で、アートマンの栄光は悟られ、至福が地平線に現れ出す。

それが、サマディの状態である〞サマディの最高の状態は、全く死とは似ていません。

死が無知の暗闇における経験である一方で、サマディは悟りの状態です。

サマディにおいては、人は完全に意識的ですが、死においては、意識はありません。

通常の人にとって、死は長くて深い眠りなのです。

魂は、死後、心に執着したままです。

しかし、個人は深い眠りにいます。

自覚はありません。

ヤマは、ナチケータに語りました。

サマディとは〝死の状態ではない。それは物質的、精神的な世界の領域を超えた単一性であり、同一性である〞

関係性の世界においては、魂は 3 つの異なる状態を経験します。

目覚めている状態、夢見ている状態、深く夢のない状態。

トゥーリヤとして知られる 4 つ目の状態においては、アートマンは魂の 3 つの門の超然とした目撃者としての本質にあると言えます。

深い眠りの状態の間、魂はすべての苦しみと痛みから自由を楽しみますが、トゥーリヤにおいては、それはすべての他の状態から、完全に離れていることを経験します。

超越意識であるトゥーリヤは、サマディと同意語です。

サマディと深い眠りの違いは、表面上はほとんどありません。

深い眠りは喜びの状態ですが、人はそれに気づいていません。

サマディにおいては、ヨーガ行者は、至福の状態に完全に気づいています。

それは、アートマンから引き出された直接体験なのですが、他のどんな方法を通しても推測することはできません。

サマディには、 2 つの種類があります。

形があるものはサヴィカルパで、形のないものはニルヴィカルパです。

サヴィカルパ・サマディの間、ヨーガ行者は、自分自身の肉体的精神的な状態とプロセスを、それらは彼には属していないのですが、見ます。

彼は、完全に切り離されています。

これは、思考者、対象物、そして(思考の)意味すべてが、この状態の間、現在に在るため、サヴィカルパ・サマディと呼ばれます。

ニルヴィカルパ・サマディにおいては、人はすべての執着から自由です。

この深い状態では、思考の意味と対象物は、存在しません。

知っている者のみが存在します。

ニルヴィカルパは、ヨーガ行者が永遠なる至福と溶け合い、アートマンである真の自己と融合している最高の状態です。

サマディの経験は、述べることができません。

なぜならば、思考、言葉、行いを超えた他に類を見ない状態だからです。

人間は数えきれない束縛に縛られています。

サマディが達成されると、探求者は永遠に自由になります。

これは、死のないヨーガ行者の永遠の住居である最高の状態です。

死後の生は、死の境界が超越される状態であるサマディに到達した人々により、正に今生のここで経験されることができます。

生の知られた部分は、 2 つの点である誕生と死の間に引き伸ばされている線です。

人の存在の大部分は、これら 2 つの知られた点を超えては、不可知であり不可視なのです。

通常の人は、死と呼ばれる移行についての知識がありません。

しかし、悟った、あるいは、熟達したヨーガ行者は、この世とあの世を理解しています。

11 の門をコントロールすることを学んだ人々は、何があの世であるかを知っており、その知識は、彼らに生だけでなく死への勝利をも与えます。

この勝利した人々は、死の気まぐれには従属していません。

彼らは肉体を脱ぎ捨て、自分自身で決めたときに、自分自身のコントロールの下で死にます。

彼らは、意識的に11 番目の門であるブラフマランドラを通過します。

この門を通ることを知っている人は、この世を彼が知っているのとまったく同じように、あの世について知っていると言えます。

もはや、この世とあの世の間にはどんなヴェールもありません。

熟達したヨーガ行者は、いろいろな方法で、体を脱ぎ捨てることを学びます。

私たちは、ここでは、通常の死を横に置いておいて、死ぬという行為に立ち向かう別のやり方があるということを単にわかってもらうために、いくつかのヨーガ行者の古典的な技法について、少し触れておきます。

ヨーガ行者によって使用されている〝死ぬ〞という一般的な単語は、マハー・サマディです。

サマディは、人類により到達可能な静寂の最高の状態に対する単語です。

マハーは、偉大な、という意味です。

ヨーガ行者は、死と同じくらいシンプルに、人生の終わりを死というより、体を脱ぎ捨てる、もはや必要なくなったものを手放す、という言い方をします。

 

ナチケータは、意識的に体を手放す技法について説明されました。

ヤマは、彼にすべてのナディ、あるいは体のエネルギー通路のうち、最も重要であるのがスシュムナであると説明しました。

スシュムナは脊柱の中央を通り上へと流れます。

スシュムナを通して、クンダリニーという霊的なエネルギー、あるいは神聖なる力が流れます。

スシュムナは自由のキーポイントです。

死の際に、スシュムナに入ることができる人は、人生の最高のゴールであるブラフマンに到達します。

他のすべての道は生まれ変わりの道です。

体を離れるために、ヨーガ行者は、クンダリニーという眠っている蛇の力を目覚めさせ、このエネルギーはスシュムナの通路に入ります。

それは、眉間の間の 2 つの花弁の蓮の花であるアジナ・チャクラまで上がります。

ここでヨーガ行者は、プラーナとして死の超越知られる体の他のすべての生命エネルギーを集め、コントロールします。

彼は、自分の意識を現世的な存在感や感覚、 5 つの下位のチャクラから引き出します。

彼は、アジナ・チャクラに、それから次第に、クラウン・チャクラであるサハスラーラに向かって集中します。

頭頂に集中している間、彼は泉門を通り体を離れ、最終的に絶対的ブラフマンの領域まで上ります。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く  スワミ・ラーマ)

 

 

この文章からも、魂の最終の目的地に到る道とは、クンダリニーが目覚めることで、ブラフマランドラが開くこと、と言えるかと思います。

 

そして、このクンダリニーを目覚めさせるために、プラーナヤーマがその準備段階で、ひと役買っていることは明らかです。

 

プラーナヤーマとクンダリニーについては、今回までにして、次回は、上位チャクラについて、詳しく見ていきましょう。

 

 

 

クンティーの息子よ

どのようにしてこの完成の境地に達するか

円満完全なるブラフマンに達するかを簡単に話して聞かせよう

 

正しい知性(ブッディ)を通じて清純となり

固い決意によって自己の心を制御し

感覚的快楽の対象を退け

物事に愛憎の念をもたず

 

静かな場所に住み

小食にして体と心と言葉を抑制し

常にヨーガに余念なく

世事に煩わされず

 

我執 力 物欲 誇りを捨て

情欲と怒りから離脱し

所有意識を持たず常に平静である人は必ず

ブラフマンと合一し至上完全の境地に到る

(バガヴァッド・ギーター第18章50-53)

 

 

 

クンダリニー覚醒されたナーナさんのサットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨさんの個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促されます。

 

☆自己変容したい、真理を体得したい、束縛から解放されたい、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい方々のために、ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与るサットサンガ、個人セッションが開催されています。

詳しくは、ナーナさんの公式ホームページをご覧下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

(シャクティプラーナによるシャクティパータは、サットサンガに6回以上参加した後、ナーナさんの個人セッションにて受けることができます)

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クンダリニーの目覚め

前回の記事でご紹介させて頂きましたクンダリニーを目覚めさせるための「プラーナヤーマ」を、少しでも実践されましたでしょうか?

 

”スクァ・プルヴァカ”は、朝と夕方、一日に二回実践するだけでも、「心身のしずけさ」を感じることができるようになると書かれています。

 

また、”ナディー・シュッディー”は、いつでもどこでも実践することができ、それをすることで、「心のしずけさ」がやって来ると、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは仰っています。

 

何でもそうですが、自分で実践することが、肝心です。

 

とにかく、自分でやってみなくては、人生において、望むような変化は起こりません。

 

それは、まるで「日常」という変化のない定常波に、ひとつの異なる波をたてるようなものです。

 

その小さな波は、やがては大きな波となり、あなたの人生を大きく変化させていくきっかけとなることでしょう。

 

まずは、一歩を踏み出すことです。

 

一歩を踏み出した後、諦めずにそれを持続する意志力を持った人だけが、希望の目的地に達することができる、というのは、いつの世でも変わらない法則と言えます。

 

それでは、今回は、プラーナヤーマの実践によって引き起こされることが期待されている「クンダリニーの目覚め」について、

同じく、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」よりご紹介させて頂きたいと思います。

 

その後に、2010年にクンダリニーの目覚めを体験されたナーナさんの覚醒のプロセスについて、

その後時間をおいて、他の霊性の探求者のためにと書いて下さったナーナさん覚醒初期のブログ「突然私がアセンションした記録」に、

クンダリニーが目覚めた瞬間の体験を、当時の生き生きとした新鮮な感覚で詳しく描写して下さっている貴重な体験談が掲載されていますので、

クンダリニーについての正しい理解を深めて頂くために、それも併せてご紹介させて頂きます。

 

http://ameblo.jp/oneness-113/entry-11280402099.html

(突然私がアセンションした記録)

 

 

『普通の人びとの場合、このスシュムナーは下端でとじられています。

どんなうごきも、そこを通ってのぼってはきません。

ヨーギーは、そこからひらかれて神経のながれがそこを通ってのぼってこられるようになるようにする、ある修行をすすめます。

ある感覚が一つの中枢にはこばれると、その中枢は反応します。

反射中枢の場合には、この反応はすぐに運動となります。

意識中枢の場合は、まず知覚がつづき、つぎに運動がきます。

すべての知覚は、外界からのはたらきへの反応です。

ではどうして、ゆめの中の知覚はおこるのでしょうか。

そのときには外界からのはたらきはありません。

ですから、感覚のうごきはどこかにとぐろをまいているのです。

たとえば、私はある都市を見ます。

その都市が認識できるのは、その都市を構成する外界の対象物からもたらされた感覚への反応が、すでにあるからです。

すなわち、はこびこむ神経のうごきによって、頭脳細胞の中に、あるうごきが、くみたてられており、そこがふたたび、都市の中の外的対象によってうごかされるのです。

さて、長いときがたったのちにも、私はその都市を記憶していることができます。

この記憶はまったくおなじ現象、ただすこしあわい形であるだけです。

しかし、たとえあわい形ではあっても、頭脳の中におなじ振動をくみたてる活動は、どこからくるのでしょうか。

たしかに、直接の感覚からではありません。

ですから、感覚がどこかにとぐろをまいており、それらが、そのはたらきによって、われわれがゆめの知覚とよぶ、あわい反応をもたらすのです。

 

さて、これらすべての残存する感覚がいわば蓄積されている中心は、ムーラダーラ、根のうつわ、とよばれ、とぐろをまいている活動のエネルギーは、クンダリニー、「とぐろをまいているもの」なのです。

あまった活動エネルギーもまたおなじ中心にたくわえられている、というのは十分にあり得ることです。

外界の事物をふかく研究したり瞑想したりすると、身体の、ムーラダーラ・中心の位置するあたり(多分、仙骨神経叢のあるところ)があつくなりますから。

さて、もしこのとぐろをまいているエネルギーがめざめさせられ、活動的になって、意識的にスシュムナーのくだの中をのぼらせられるなら、つぎつぎと中心にはたらきかけるにつれて、すさまじい反応がおこるでしょう。

エネルギーのごくわずかの部分が神経線維にそってのぼり、中心に反応をおこさせると、その認識は、ゆめか想像です。

しかし、長い内的瞑想の力によって、たくわえられていたエネルギーの膨大なかたまりがスシュムナーにそってのぼり、つぎつぎに中心をおそうと、その反応はすさまじいもので、そのつよさは、ゆめと想像の反応、感覚的認識の反応などとはくらべものになりません。

それは超感覚的認識です。

そしてそれがすべての感覚の首都である脳、いわば全脳に達しますと、反応し、その結果は大光明、「自己」の自覚です。

このクンダリニーの力が中心から中心へとすすむにつれ、心のかさなりがいわば一層また一層とひらかれ、そのヨーギーは宇宙を、それの精妙な、原因のすがたで認識します。

そのときにはじめて、この宇宙の原因は、感覚および反応の両面からあるがままに知られ、それで、すべての知識がやってくるのです。

原因が知られるのですから、結果の知識はおのずから得られるにきまっています。

 

このように、クンダリニーをめざめさせることが、神的叡知を、超意識的認識を、魂の目覚めを得るための唯一の道です。

めざめは神の愛により、完成された賢者の慈悲により、または哲学者の分析的な意志の力により、さまざまな形でやってくるでしょう。

一般の超自然の力または知恵とよばれるものが見られたところではかならず、クンダリニーの少しばかりのながれがスシュムナーにはいったにちがいありません。

ただ、このような場合の大部分において、人びとは、とぐろをまいたクンダリニーのごくわずかな部分を解放したある修行に知らずに出くわしたのです。

すべての礼拝は、意識していてもいなくても、この目的にみちびくのです。

自分の祈りがこたえられた、と思っている人は、この成功は自分のうちなる性質からきているのだ、自分が、祈りという心の態度によって、自分の内部にとぐろをまいているこの無限の力のほんの一部をめざめさせることに成功したのだ、ということを知らないのです。

このように、人びとが無知から、おそれや苦難のゆえに、さまざまな名のもとに礼拝しているものを、ヨーギーは世界にむかって、それはあらゆる生きものの内部にとぐろをまいている真の力、もしわれわれが彼女にどう近づくかを知りさえするなら、それが永遠の幸福の母である、と断言するのであります。

そしてラージャ・ヨーガは、宗教の科学であり、すべての礼拝、すべての祈り、形式、儀式およびもろもろの奇跡の、理論的根拠なのであります。』

 (ラージャ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

『春の訪れを感じて間もない夜のことでした。

 帰宅へと向かう電車内で、ふぅ~っと力をぬいて座っていました。

 すると突然 体の根底から頭頂に向かって、何か強い力が高速スピードで登って行き、

 ゥアーーこれは何⁈ と感じる間もなく、頭頂のてっぺんの蓋が ポン↑っと音を立てて勢いよく何処かへ吹っ飛んで行きました!

 

まるでシャンパンの蓋がお皿に代わって吹っ飛んだと言ったら、わかりやすいでしょうか。

と 同時に一気に体が軽くなり、重さも重力も全く感じられないくらい軽くなっていて、しかも体が少し浮き上がっているのです!

 

この感覚は何?何が起きているの?いったい何が起こっているの?と 自分に問いかけました。

 

降りる駅に着き、この感覚のまま立ち上がり ドアに向かって一歩二歩と歩き出すと、

足の裏の床を踏む感覚がまるで感じられないのです!

 

足の裏が靴を感じることも、靴の底が床を踏む感覚もありません。

 

私は確かめるように前へと進みましたが、確実に体が宙に浮いてしまっていて、重さも全く感じられません。

 

反対側のホームの改札へ向かうため階段を降り始めると、周りの空気全体が ほわ~~っとほんわりしてきて、柔らかく暖かくなり それに優しく包まれて、とてもいい気持ちになりました。

連絡道を歩き階段を上がり始める頃には、私を包む周りの空気の一つ一つの粒子が 愛 愛 愛 

全て 愛で、できていているように感じました。

 

とても幸せな気持ちになり、幸せの中に漂っていて、何か大きな愛に包まれていて守られていて、心地よくて暖か~いのです。

 

この時私は、すでに体も無くなっていて、意識と感覚だけが そこ にありました。

 

ここは別の世界、別の次元、天界です。

 

まるで母なる宇宙の子宮の中にいるような、地球上では味わうことのできない感覚のなかで私は漂っています。

 

柔らか~な薄い膜でおおわれた愛の風船のようなものが、ときより触れていて気持ちい~い。

 

気が付くと階段を上がりきったところで、改札に向かって歩いていました。

 

体の重さが感じられないので、手や腕を見てみると、形の枠だけあって中は透明に近い状態で透けていて、背景が見えました!

 

子供の頃アメリカのテレビ映画で見た透明人間が、枠(線)だけのボディーで動いていたのを思い出しました。

このまま改札を出て家に向かいました。

 

帰宅後も宙に浮いた状態で体重も感じられないまま、いつもの家事を済ませました。

 

尚も現象は続き、私はこのまま天に昇ってしまうのではないか?と不安になり、

少しでも体に重りをつけるため夜食を多めにとって胃を膨らましました(今振り返ると笑ってしまいますが、当時は必死)

今起きている現象を理解できないまま時刻は深夜になり、ベッドに入ることにしました。

 

眠りについた後、私はどうなってしまうのか?不安でした。

 

目覚めると朝になっていて、元の体にもどっていました。

 

後に宇宙と繋がった現象体験とわかりました。』

(ナーナさんのブログ、突然私がアセンションした記録より)

 

 

クンダリニーの目覚めが、所謂、人間にとっての「解脱」という霊性探求の終着点へ至る道に立ち塞がる扉を開くことができる唯一の鍵であることは、

多くの聖者と呼ばれる人びとが、そう語っていることからも明らかです。

 

記事の内容が、プラーナヤーマからクンダリニーに移りましたが、

次回は、スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から、クンダリニーについて、ヨーギーの視点からの解説をご紹介いたします。

 

 

 

何ものにも執着しない理性をもち

自己を抑制し 何ごとも切望しない人は

その離欲の修行を通して

全ての仕事から離脱して完成の境地に到る

(バガヴァッド・ギーター第18章49)

 

 

 

クンダリニー覚醒されたナーナさんのサットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨさんの個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験することができます。

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☆自己変容したい、真理を体得したい、束縛から解放されたい、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい方々のために、ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与るサットサンガ、個人セッションが開催されています。

詳しくは、ナーナさんの公式ホームページをご覧下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

(シャクティプラーナによるシャクティパータは、サットサンガに6回以上参加した後、ナーナさんの個人セッションにて受けることができます)

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

 

プラーナヤーマの実践

これまで二回にわたって、「プラーナヤーマ」について見てきましたが、

今回は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの著書「ラージャ・ヨーガ」で示されている実践方法をご紹介したいと思います。

 

最初のものは、”ナディー・シュッディー”(気道浄化)と呼ばれているもので、

その効果は、気道、気の流れを浄化し、鼻が通り、頭、喉がすっきりとする、と言われています。

 

後の二つは、”スクァ・プルヴァカ”(心地よく吸いこむ、簡単で楽な)と呼ばれているもので、横隔膜を大きく使うようにして行います。

効果としては、身体中のプラーナを調和させ、クンバカ(止息)によりイダーとピンガラーのナディーを止めることで、より繊細な気道のスシュムナー管が開きだして活性化され、精神的な能力が開発されるとされています。(プラーナヤーマの科学、スワミ・シバナンダ著)

 

それでは、「ラージャ・ヨーガ」の中で、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが書かれたクンダリニーを目覚めさせるために必要であるとされるスシュムナーの浄化のためのプラーナヤーマについて見てみましょう。

 

 

『われわれはいまは、プラーナヤーマの練習を、とりあげなければなりません。

ヨーギーたちの言うところによると第一歩は肺のうごきを制御することだ、ということは、すでに申し上げました。

われわれが欲しているのは、体内で進行しつつあるもっと精妙な運動を感じることです。

われわれの心は外面化してしまい、内部の精妙なうごきは見えなくなってしまっています。

もしそれらを感じることができるようになれば、それらを制御し得るようにもなるでしょう。

これらの神経の流れは体の中を通っており、あらゆる筋肉に生命と活力を供給しているのですが、われわれはそれらを感じません。

ヨーギーは言います、われわれはそれを感じるよう、学ぶことができるのだ、と。

どのようにしてか。

肺の運動をとりあげ、制御することによってです。

ある十分な期間それをなし得たとき、われわれはもっと精妙なうごきをも制御し得るようになるでしょう。

 

ではプラーナヤーマの練習をはじめます。

垂直に、おすわりなさい。

身体は、まっすぐにたもたれなければなりません。

脊髄は脊柱にくっついてはいないけれど、それでも脊柱の中にあります。

もしみなさんが背骨をまげてすわるなら、この脊髄を圧迫することになります。

ですから、それの邪魔をしないようになさい。

背をまげてすわり、瞑想をしようとするときにはかならず、みなさんは自分をきずつけているのです。

胸とくびと頭という身体の三つの部分は、つねに一直線にたもたれていなければなりません。

少しばかり練習をすれば、これは呼吸のようにたやすくできるようになる、ということが、おわかりになるでしょう。

第二にすべきは、神経を制御し得ることです。

呼吸器官を支配する神経中枢は他の諸神経に対してある種の支配力を持っているので、リズミカルな呼吸が必要である、ということは、すでに申しあげました。

われわれが通常おこなっている呼吸は、呼吸、とはいえません。

それは非常に不規則です。

それから、男性と女性はおのずから呼吸のしかたがちがいます。

 

第一のレッスンは、ただいきをゆっくりと規則的にすって、はくことです。

これをしばらく実践したら、それにあわせて「オーム」とか、その他何でもよい神聖なことばをくりかえすことは、らくにできるでしょう。

インドではわれわれは、一、二、三、四とかぞえるかわりに、ある象徴的なことばをもちいます。

ですから私は、プラーナヤーマにあわせて「オーム」か何か他の聖語を、心の中でくりかえされるよう、おすすめするのです。

そのことばが呼吸とともにリズミカルに、調和をもって、すいこまれ、はき出されるようになさい。

すると、全身がリズミカルになるのに気づかれるでしょう。

そのときみなさんは、休息とは何であるかをお知りになるでしょう。

それにくらべたら、睡眠などは休息ではありません。

ひとたびこの休息が得られると、この上もなくつかれた神経も、しずめられるでしょう。

そしてみなさんは、自分はいままで、かつてほんとうに休息をしたことはなかったのだ、とお知りになるでしょう。

この実践の最初の効果は、人の顔の表情の変化にみとめられます。

あらあらしいしわは、きえます。

心がしずまるので、顔にしずけさがあらわれるのです。

つぎに、美しい声がきます。

私は、がさがさした声を出すヨーギーを見たことがありません。

このようなしるしは、数カ月の実践ののちにやってきます。

上にのべたような呼吸を数日間おこなったら、もう少し高いものをおはじめなさい。

イダー、右の鼻孔を通じてしずかにいきをすい、肺をみたしなさい。

そして同時に心を、神経のながれに集中なさい。

あなたはいわば、神経のながれを脊髄にそって下方に送り、最後の神経叢、三角形をしている最下端の蓮華すなわちクンダリニーの座を、はげしく打ちます。

それから、そのながれをしばらくそこにおきます。

あなたはその神経のながれを、もう一方のがわのピンガラーを通じていきとともにゆっくりとひき上げ、それから右の鼻孔を通じてゆっくりとはき出す、と想像なさい。

この実践は、少しむずかしいでしょう。

もっともたやすい方法は、右の鼻孔をおやゆびでおさえて左の鼻孔からしずかにいきをすい、それからおやゆびとひとさしゆびで両方の鼻孔をおさえ、自分はそのながれを下に送ってスシュムナーの底部を打つ、と想像します。

それからおやゆびをはずして右の鼻孔からいきを出します。

つぎに左の鼻孔はひとさしゆびでおさえたまま、おなじく右の鼻孔からゆっくりといきをすい、それから前にように両方をおさえます。

ここでは、四秒ではじめて、徐々にのばして行くがよろしい。

四秒間すいこみ、十六秒間うちにたもち、それから八秒間ではき出すのです。

これが一回のプラーナヤーマとなります。

同時に、三角形をした、底部にある蓮華を思い、その中心に心を集中します。

想像することは、あなたを大きくたすけます。

つぎの呼吸は、ゆっくりといきをすいこみ、それからすぐにゆっくりとはき出して、いきをとめます、おなじ秒数を用いて――ちがう点は、最初の場合はいきをうちにとめ、

第二の場合ははき出してからいきをとめるのです。

あとの方はやさしい。

いきを肺の中にとめる方は、やりすぎてはなりません。

朝四回、夕方四回だけになさい。

それから、徐々に、時間と数をふやすことができます。

それをする力が出てきたのが、そして気持ちがよいのがわかるでしょう。

それをする力があることを感じた上で、非常に注意深く、また用心深く、四回のかわりに六回、というふうにおふやしなさい。

もし不規則におこなうなら、あなたはきずつけられます。

 

上でのべた神経浄化の三つの方法のうち、第一のものと最後のものは、むずかしくないし危険でもありません。

第一のものは実行すればするほど、あなたは心がしずまるでしょう。

ただ「オーム」と念じるだけ、あなたはそれを、仕事にすわっているときでも実行することができるでしょう。

あなたはますますよくなるでしょう。

いつかは、もし熱心に実行するならクンダリニーがめざめるでしょう。

日に一、二回実行する人びとには、ただ少しばかりの心身のしずけさと、そして美しい声がやってきます。

それをさらにおしすすめることのできる人びとの場合にかぎり、クンダリニーがめざめ、自然界の全部がかわりはじめて、知識の書物がひらかれるでしょう。

みなさんはもう、知識をもとめて書物をひらく必要はありません。

みなさん自身の心が、無限の知識をふくむみなさんの書物となるでしょう。

私はすでに、脊柱の両がわを通ってながれているイダーとピンガラーの流れのことと、そして脊髄の中を通る通路、スシュムナーのことも、おはなししました。

この三つは、あらゆる動物が持っているものです。

およそ背骨を持っている生きものはすべて、これら三つの活動の線を持っています。

しかしヨーギーたちは、普通の人の場合、スシュムナーはとじられている、他の二つのみちの活動は身体の各部分に力をはこんでいるけれど、スシュムナーの活動はあきらかではない、と主張します。

 

ヨーギーだけが、ひらいたスシュムナーを持っています。

このスシュムナーの流れがひらいてのぼりはじめると、われわれは感覚をこえ、心は超感覚的、超意識的になります――われわれは知性の彼方、推理の到達できないところまで達するのです。

そのスシュムナーをひらくことが、ヨーギーのおもな目的です。』

 (ラージャ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダが)

 

 

「プラーナヤーマ」としての呼吸法、調気法は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダがご紹介されているものの他にも、数種類ありますが、

ここでは、特に、クンダリニーの目覚めに関係しているプラーナヤーマについてのみご紹介させて頂きました。

 

他のプラーナヤーマの実践方法について詳細に知りたい方は、スワミ・シバナンダ著「プラーナヤーマの科学」に詳しく書かれていますので、こちらをご参考になさって下さい。

 

 

 

自分の義務が完全にできなくても

他人の義務を完全に行うよりも善い

天性によって定められた仕事をしていれば

人は罪を犯さないでいられる

 

どの仕事にも短所や欠点がある

ちょうど火に煙がつきもののように

アルジュナよ 故に自分の天職を捨てるな

たとえ その仕事が欠点だらけでもーー

(バガヴァッド・ギーター第18章47-48)

 

 

 

☆ナーナさんのサットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨさんの個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験することができます。

また、チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促されます。

 

☆自己変容したい、真理を体得したい、束縛から解放されたい、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい方々のために、ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与るサットサンガ、個人セッションが開催されています。

詳しくは、ナーナさんの公式ホームページをご覧下さい。

サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。

(シャクティプラーナによるシャクティパータは、サットサンガに6回以上参加した後、ナーナさんの個人セッションにて受けることができます)

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

 

プラーナの制御

前回の記事で、呼吸法、調気法としての「プラーナヤーマ」について、その働きや実践する本来の目的について、などを見てみましたが、今回の記事は、その続きになります。

 

プラーナヤーマとは、プラーナを制御すること、とスワミ・ヴィヴェーカーナンダは「ラージャ・ヨーガ」の中で仰っていますが、

この「プラーナ」について、また「プラーナ」とスピリチュアリズムとの関係などについても、詳しく見てみましょう。

 

これからご紹介する文章の中に、新しい気付き、新しい発見があることと思います。

 

この文章が、科学が今のような飛躍的な発展を遂げる100年以上も前に書かれたものであるということだけでも、驚くべきことですが、

しかし100年以上経ったにも拘わらず、現在でも、これを完全に理解し、体験によって体得している人びとは、まだほんのわずかであることは、否めない事実であると感じています。

 

それは、ナーナさんが、その存在によって示して下さっている基本的な事柄は、ここに書かれていることと同じであるにも拘わらず、

ナーナさんとキヨさんのお二人が、プラーナを使われてされていることに対して、そしてそれによりもたらされる結果への正しい理解と評価が、全くと言っていいほど得られていない、ということからも、

プラーナについては、一般的にはまだほとんど理解されておらず、よって、実相へのアプローチも限られている、ということは明らかだと感じています。

 

シャクティプラーナによるシャクティパータの原理や働きも、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが書かれている「プラーナの同化」作用に他なりませんし、

また、パートナーのキヨさんがされているチャクラの浄化やサードアイ開眼、そして、病気治癒のためのエナジー療法にも、同じ原理が働いており、

それらは、清らかなエネルギーである最高に振動が高められたプラーナの働きによるもの、と言えるのです。

 

前置きは、このくらいにして、後世に生きるわれわれに遺して下さった叡智に達した先達の智慧に与り、プラーナ、及び、プラーナヤーマへの理解を深めることにいたしましょう。

 

 

『真の治癒がもたらされるのは、プラーナによってであります。

プラーナを制御したきよらかな人は、それをある種の振動状態にする力を持ち、その振動は他人につたえられて、彼らの内部におなじ振動をおこします。

みなさんは、それを、日々の活動の中に見ておられます。

私はみなさんにお話しています。

何をしようとしているのでしょう。

言ってみれば自分の心をある振動状態に持って行こうとしているのであって、それに成功するばするほどつよく、みなさんは私の言うことの影響をおうけになるでしょう。

私が熱意にみちている日にはいっそう、みなさんが私の講演をたのしまれる、私がそれほどでないときにはみなさんも興味を示されない、ということはみなさんよくごぞんじです。

世界の巨人的な意志力、世界をうごかす人びとは、彼のプラーナを高い振動状態に持ってくることができるのであって、それは実に偉大な力にみち、一瞬のうちに相手をつかんで幾千人が彼らにひきつけられ、世界の半分が彼らとおなじに考えるようになるほどです。

世界の偉大な予言者たちは、プラーナのもっともすぐれた支配力を持っており、それは彼らにおどろくべき意志の力をあたえました。

彼らはそのプラーナを最高の活動状態にまであげ、これが彼らに、世界をゆるがす力をあたえたのです。

力のすべての現われは、この支配から生まれます。

人びとはこの秘密を知らないかもしれませんが、これが唯一の説明です。

ときどき、みなさんのからだの中で、プラーナが大なり小なり一部にひきつけられることがあります。

バランスがくずれるのです。

プラーナのバランスがくずれると、われわれがやまいとよぶものが生まれます。

余分のプラーナをとりさったり、たりないところにおぎなったりするのが、治療ということになるのです。

それもまたプラーナヤーマですーー肉体のあらゆる箇所にプラーナが、いつ、あるべき量より多いか少ないかを知ることです。

感覚が非常にするどくなって、つまさきから手のゆびのさきにプラーナが不足していると心がそれを感じ、それを補給することもできるのです。

これらは、プラーナヤーマのさまざまなはたらきの一部です。

それは少しずつ、ゆっくりと学ばれるべきです。

 

そしておわかりのように、ラージャ・ヨーガの全領域は実は、さまざまの段階(面)におけるプラーナヤーマの、制御と方向をおしえるものです。

人が彼のエネルギーを集中したときは、彼は肉体内のプラーナを制御します。

人が瞑想しているときにも、やはりプラーナを集中しているのです。

大海には山のような大波が、それからもっと小さな波が立っていますが、これらすべての背後に一様に、無限の大海があります。

あわは一つのはしで、大波は別のはしで、無限の大海につながっているのです。

ですから、一人は巨人でありもう一人はあわのような存在であるかもしれません。

しかしそれぞれが、この世界にいるすべての動物の生得の権利である、無限のエネルギーの海とつながりを持っているのです。

いのちのあるところかならず、その背後には無限のエネルギーの倉庫があります。

ある菌類として、あるたいそう小さな、顕微鏡的なあわとして出発し、つねにあの無限のエネルギーの倉庫から吸収しつつ、一つの形が徐々にそして確実に変化し、やがてそれが植物と、動物と、それから人となって、ついには神になるのです。

このことは無窮の時間をかけてなされるのですが、ときがなんですか。

スピードをあげれば、一層の努力をすれば、時間のみぞはうずめることができます。

自然にまかせておけば長いときを要することも、活動の強化によってそれをちぢめることができる、とヨーギーは言います。

ある人は、宇宙に存在する無限のかたまりからこのエネルギーを吸収しながら、ゆっくりとすすんで多分、一個のデーヴァ(名前のある神)となるのに十万年を要し、それから多分、もっと高くなるのに五十万年を要し、完成するのに多分、百万年を必要とするでしょう。

成長がはやまれば、ときはみじかくなるでしょう。

十分な努力がなされるなら、六か月または六年でまさにこの完成の境地に到達することが、どうして不可能であるなどと言えましょう。

そこに制限はありません。

理性がそのことを示しています。

もし機関車が一定量の石炭で一時間に三キロを走るなら、石炭の供給をふやせばその距離をもっとみじかい時間で走るでしょう。

それとおなじように魂も、活動を強化するなら、まさに今生で完成に達することはどうして不可能だなどと言えましょう。

すべての生きものはついにはこの目標に達する、ということをわれわれは知っています。

しかし誰が、このような無窮の時間をまっていようなどと思いますか。

いますぐに、この肉体にいるまま、この人間の形をしたままででも、それに到達すればよいではありませんか。

その無限の智識を、無限の力をいま得たらよいではありませんか。

 

ヨーギーの理想、ヨーガの科学全体は、人びとに、この段階からつぎの段階へと徐々にすすんで全人類が完全になるのを待つようなことはせず、同化の力を強化することによって完成に達するため時間を短縮する方法を、おしえることを目的としています。

世界のすべての偉大なる予言者や聖者や見神者たちーー彼らは何をしましたか。

みじかいその一生の間に、普通の人間が完成にいたるに要する全時間をまたいで、人類の全生命を生きたのでした。

一つの生涯の間に、彼らは自分を完成させます。

彼らは他のことは何ひとつ思いません。

一瞬間といえども他のことは考えません。

そのようにして、道程はちぢめられるのです。

これが集中というものであって、同化の力をつよめて時間を短縮させるのです。

ラージャ・ヨーガは、われわれにこの集中力を得ることをおしえる科学です。

 

プラーナヤーマはスピリチュアリズムとどういう関係がありますか。

スピリチュアリズムもやはり、プラーナヤーマの一つの顕れです。

肉体をはなれた霊魂が存在する、ということがほんとうなら、わわわれはただ、それらを見ることができないだけなのです。

彼らは幾百、また幾百万、われわれのまわりにいるのだろうが、われわれは見ることもさわることもできないのだ、ということは十分にあり得ることです。

われわれはたえず、彼らのからだを通りぬけて行ったりきたりしているのでしょう。

それでもわれわれは見もしなければ感じもしません。

それはサークルの中の一つのサークル、宇宙の中の、宇宙です。

われわれは五つの感覚を持っており、ある形の振動でプラーナを表現しています。

おなじ振動状態のすべての生きものはたがいに見ますが、もしそこにもっと高い振動状態でプラーナを表現する生きものがいても、彼らは見えないでしょう。

光を、われわれがまったく見ることができなくなるまでつよくするとします。

それでも、そんな光を見ることができるほど強力な目を持つ生きものがいるかもしれません。

また、もしその振動が非常にひくければ、われわれは光を見ません。

しかし、ネコやフクロウのようにそれを見る動物もいます。

われわれの視力がおよぶ範囲はこのプラーナの振動の、ほんの一区域にすぎないのです。

たとえば、この大気をとりあげてごらんなさい。

それは幾層にもかさなりあっていますが、大地に近い層ほど濃密で、高くのぼればのぼるほど大気は希薄になって行きます。

または、海の場合をとりあげましょう。

深くに行けば行くほど、水の圧力はまし、海底にすむ動物は決して上にはあがってこられないでしょう。

あがってくればばらばらになってしまうでしょう。

 

宇宙を、プラーナの活動による振動のことなる、さまざまの段階の層また層のかさなりから成る、エーテルの大海と考えてごらんなさい。

中心からはなれた層ほど振動は少なく、近い層ほど、それはしだいにはやくなります。

振動の一つの秩序が、一つの層をつくっているのです。

それから、これらの層のかさなりの断面を見た、とします。

幾百万キロも、同一の型の振動がつづき、それからさらに高い型の振動が幾百万キロ、つぎにもっと高い振動の層が、というふうにつづくでしょう。

ですからおそらく、ある一つの振動状態の層に生きている者同志はたがいにみとめあうことができるのでしょうが、それより上の層に生きる者をみとめることはできないでしょう。

しかし、望遠鏡や顕微鏡で視界をひろげることができるのとまさにおなじように、ヨーガによってわれわれは、自分を別の世界の振動状態にし、こうして、そこでおこっていることを見ることができるように、することができるのです。

この部屋は、われわれが見ることができない生きものでいっぱいである、と推定しましょう。

彼らはある種の振動状態のプラーナを表現し、われわれは別の状態のを表現しているのです。

彼らはもっとすみやかな振動をあらわし、われわれはその反対である、とします。

プラーナは、われわれとおなじように彼らもそれからつくられている、材料です。

すべてがおなじプラーナの大海の部分なのであって、彼らはただ、振動の速度がことなるだけなのです。

もし私が自分をはやい振動にかえることができるなら、この世界は私にとってたちまち別のものとなるでしょう。

私はもう、みなさんを見ないでしょう。

みなさんはきえ、彼らが現れるでしょう。

みなさんのなかのある方々は多分、これがほんとうだということをごぞんじでしょう。

この、心を振動のより高い状態に持って行くことすべてを、ヨーガでは一つのことばで表現していますーーサマーディです。

これら振動のより高い状態、すなわち心の超意識的振動のすべては、サマーディというその一つのことばでみとめられており、サマーディのよりひくい状態はわれわれに、これらの生きものたちのヴィジョンをあたえます。

サマーディの最高段階は、われわれがほんとうのものを見るときです。

これらさまざまの段階の生きものたちの全部がそれからできているという、材料を見るときです。

そして、その一つの土のかたまりが知れれば、われわれは宇宙間のすべての土を知るのです。

 

こうしてわれわれは、スピリチュアリズムさえもほんものはすべて、プラーナヤーマにふくまれているのだ、ということを知ります。

同様にみなさんは、人びとがあつまって何であれオカルトな、神秘的な、ひめられたものを探求しているところでは例外なく、彼らがおこなっているのは実はこのヨーガ、プラーナを制御しようというこのこころみなのだ、ということをお知りになるでしょう。

何であれ力が異常な形で披露されている場合、それはこのプラーナヤーマの現れなのだ、ということをごらんになるでしょう。

自然科学さえ、プラーナヤーマにふくめることができます。

何が、蒸気機関をうごかすのですか。

蒸気を通じてはたらくプラーナです。

電気およびその他のこれらすべての現象は、プラーナ以外の何ですか。

物理学とは何ですか。

外界の手段によるプラーナヤーマの科学です。

心の力として現われるプラーナだけが、心によって制御されます。

プラーナヤーマの中の、プラーナの物理的な現われを物理的な方法で制御しようとこころみる分野が物理学とよばれ、プラーナの心の力としての現われを、心のはたらきで制御しようとこころみる分野が、ラージャ・ヨーガとよばれているのです。』

(ラージャ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

プラーナヤーマとは、プラーナの制御であり、プラーナの制御とは、一体どういう意味があるのか?ということが、朧げなリにもお分かりいただけたことと思います。

 

次回は、プラーナヤーマの具体的な実践方法について、少しだけお紹介したいと思います。

 

 

エーテルは到るところにあるが その精妙さの故に

どんな物とも混じりあわぬように

霊魂(アートマン)はどの体のなかにいても

何ものにも影響をうけない

(バガヴァッド・ギーター第13章33)

 

 

☆ナーナさんのサットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨさんの個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験することができます。

また、チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促されます。

 

☆自己変容したい、真理を体得したい、束縛から解放されたい、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい方々のために、ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与るサットサンガ、個人セッションが開催されています。

詳しくは、ナーナさんの公式ホームページをご覧下さい。

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(シャクティプラーナによるシャクティパータは、サットサンガに6回以上参加した後、ナーナさんの個人セッションにて受けることができます)

 

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