神聖で永遠なる生への入り口について
前回の記事では、聖ラーマクリシュナのお言葉より、「人体にはクンダリニー(シャクティ)という”神の力”が宿っている」とご紹介させて頂きました。
それは、誰でもそうなのですが、クンダリニー(シャクティ)は、通常は、眠っているかのような静かな状態にあるため、大抵の人びとは、それに気付くことなく、一生を終えてしまいます。
その結果、自分の真の本性を悟ることなく、この世をいったん去ることになりますが、
この”尊い自己の真の本性”を悟るまでは、生と死が繰り返されると言われています。
このことを、スワミ・ラーマも、ヨーギーの立場から、彼の著書『聖なる旅-目的を持もって行き、恩寵を受けて逝く』で詳しく解説していますので、ご紹介したいと思います。
『ヨーガの達人は、死からさらに多くのことが学べることを発見しました。
死は単なる永遠への魂の旅における必要な休止ではありません。
それは、人の意志で使うことができる通路であり道具なのです。
これを理解するために、再びカタ・ウパニシャッドに戻ります。
ヤマは、体を王宮と呼びました。
王はアートマンです。
ヤマは、王宮への 11 の門を述べました。
この門のうち 7 つは感覚的なものである、 2 つの眼、 2 つの耳、 2 つの鼻孔、 1 つの口です。
さらに 3 つの門は、臍と生殖器官と排泄器官です。
最後の門は、通常は知られていない器官ですが、脳の中央にあり、頭頂に位置する泉門であるブラフマランドラと呼ばれているものです。
それは、アートマンである王の座であり、永遠の座なのです。
この座より、アートマンはすべての随行者である、心、知性、知覚器官、全体の感覚を支配し、命令します。
最初の 10 の門はこの世の生への通路です。
ブラフマランドラは、神聖で永遠なる生への入り口です。
普通の人の場合は、生命力は、特にその人の最も強烈な願望の座であった 10 の門のいずれかを通って離れていきます。
完成されたヨーガ行者は、 11 番目の門を通って離れていきます。
ウパニシャッドは、違いを強調し、これらすべての門の王はアートマンであると強調
しています。
アートマンは、仕えられるべきものであり、そのやり方は、知性や心、感覚をコントロールすることにより、 11 の門における活動を制することなのです。
ヨーガ行者は、これらの入り口をコントロールする方法や、アートマンを発見し仕える方法について知っています。
彼らは、生まれ変わりの神秘を理解するために、ブラフマランドラを使うことを学んでいるのです。
永遠の世界と永遠の生への入り口が、十分に統制されると、そのとき、この世の生と
永遠の生との間のつながりが理解されます。
死の惨めさと死に伴う恐れの大きな苦しみは、消滅します。
感覚、思考の波、心と体のエネルギーを含む人間を構成するすべての要素が調和するとき、アートマンは現れます。
死は、体の習慣です。
どんな化学的な構成が似た体でも、変化し滅び、死ぬことになっているので、同じ体で永遠に生きる人はいません。
必ず死ぬことになっているものにしがみつくことは、恐れと惨めさを作り出します。
その執着は、自然であり物質的な面だけに焦点を合わせる人々により分かち合われます。
彼らは、全体に気付いていないので、苦しむのです。
サマディにおいて最終的に最高点に達する瞑想 は、この体にしがみつくことからの自由を約束しています。
瞑想を通して、 11 の門のコントロールは達成されます。
そのとき、人は心、体、魂への自制力を持ち、全体に気づくようになります。
瞑想の技術には宗教的な教義はありません。
ブラフマランドラは、アートマンとの合一のときにのみ、開きます。
そしてその合一は、心の中に変動がなく、願望もなく、恐れも執着もない超越状態であるサマディを通して可能です。
サマディという単語は、答えられないどんな疑問もなく、解決されないどんな神秘もないというサマヒタンを意味します。
同時に、心のおしゃべりは消え、すべての言語は忘れられます。
このような状態では、心はじっと考えたり、深く考えたりする方法はありません。
これは、心が永遠の超越した知性の黙想に同化している心の栄光ある状態です。
ヤマは、不死の領域が達成され、アートマンが悟られるサマディの状態を述べました。彼は言いました。
〝すべての感覚が器官から退き、静かになったとき、心が静寂になり静止し、思考が心を乱さないとき、その状態で、アートマンの栄光は悟られ、至福が地平線に現れ出す。それが、サマディの状態である〞
サマディの最高の状態は、全く死とは似ていません。
死が無知の暗闇における経験である一方で、サマディは悟りの状態です。
サマディにおいては、人は完全に意識的ですが、死においては、意識はありません。
通常の人にとって、死は長くて深い眠りなのです。
魂は、死後、心に執着したままです。
しかし、個人は深い眠りにいます。自覚はありません。
ヤマは、ナチケータに語りました。
サマディとは〝死の状態ではない。それは物質的、精神的な世界の領域を超えた単一性であり、同一性である〞
関係性の世界においては、魂は 3 つの異なる状態を経験します。
目覚めている状態、夢見ている状態、深く夢のない状態。
トゥーリヤとして知られる 4 つ目の状態においては、アートマンは魂の 3 つの門の超然とした目撃者としての本質にあると言えます。
深い眠りの状態の間、魂はすべての苦しみと痛みから自由を楽しみますが、トゥーリヤ
においては、それはすべての他の状態から、完全に離れていることを経験します。
超越意識であるトゥーリヤは、サマディと同意語です。
サマディと深い眠りの違いは、表面上はほとんどありません。
深い眠りは喜びの状態ですが、人はそれに気づいていません。
サマディにおいては、ヨーガ行者は、至福の状態に完全に気づいています。
それは、アートマンから引き出された直接体験なのですが、他のどんな方法を通しても推測することはできません。
サマディには、 2 つの種類があります。
形があるものはサヴィカルパで、形のないものはニルヴィカルパです。
サヴィカルパ・サマディの間、ヨーガ行者は、自分自身の肉体的精神的な状態とプロセスを、それらは彼には属していないのですが、見ます。
彼は、完全に切り離されています。
これは、思考者、対象物、そして(思考の)意味すべてが、この状態の間、現在に在るため、サヴィカルパ・サマディと呼ばれます。
ニルヴィカルパ・サマディにおいては、人はすべての執着から自由です。
この深い状態では、思考の意味と対象物は、存在しません。
知っている者のみが存在します。
ニルヴィカルパは、ヨーガ行者が永遠なる至福と溶け合い、アートマンである真の自己と融合している最高の状態です。
サマディの経験は、述べることができません。
なぜならば、思考、言葉、行いを超えた他に類を見ない状態だからです。
人間は数えきれない束縛に縛られています。
サマディが達成されると、探求者は永遠に自由になります。
これは、死のないヨーガ行者の永遠の住居である最高の状態です。
死後の生は、死の境界が超越される状態であるサマディに到達した人々により、正に今生のここで経験されることができます。
生の知られた部分は、 2 つの点である誕生と死の間に引き伸ばされている線です。
人の存在の大部分は、これら 2 つの知られた点を超えては、不可知であり不可視なのです。
通常の人は、死と呼ばれる移行についての知識がありません。
しかし、悟った、あるいは、熟達したヨーガ行者は、この世とあの世を理解しています。
11 の門をコントロールすることを学んだ人々は、何があの世であるかを知っており、その知識は、彼らに生だけでなく死への勝利をも与えます。
この勝利した人々は、死の気まぐれには従属していません。
彼らは肉体を脱ぎ捨て、自分自身で決めたときに、自分自身のコントロールの下で死にます。
彼らは、意識的に11 番目の門であるブラフマランドラを通過します。
この門を通ることを知っている人は、この世を彼が知っているのとまったく同じように、あの世について知っていると言えます。
もはや、この世とあの世の間にはどんなヴェールもありません。
ナチケータは、意識的に体を手放す技法について説明されました。
ヤマは、彼にすべてのナディ、あるいは体のエネルギー通路のうち、最も重要であるのがスシュムナであると説明しました。
スシュムナは脊柱の中央を通り上へと流れます。
スシュムナを通して、クンダリニーという霊的なエネルギー、あるいは神聖なる力が流れます。
スシュムナは自由のキーポイントです。
死の際に、スシュムナに入ることができる人は、人生の最高のゴールであるブラフマンに到達します。
他のすべての道は生まれ変わりの道です。
体を離れるために、ヨーガ行者は、クンダリニーという眠っている蛇の力を目覚めさ
せ、このエネルギーはスシュムナの通路に入ります。
それは、眉間の間の 2 つの花弁の蓮の花であるアジナ・チャクラまで上がります。
ここでヨーガ行者は、プラーナとして知られる体の他のすべての生命エネルギーを集め、コントロールします。
彼は、自分の意識を現世的な存在感や感覚、 5 つの下位のチャクラから引き出します。彼は、アジナ・チャクラに、それから次第に、クラウン・チャクラであるサハスラーラに向かって集中します。
頭頂に集中している間、彼は泉門を通り体を離れ、最終的に絶対的ブラフマンの領域まで上ります。』
(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
今回の記事では、クンダリニーの他に、スシュムナ、ナディ、ブラフマランドラという聞き慣れないサンスクリット語の単語がたくさん出てきました。
次の記事で、これらが、具体的には何を指すのか?を説明したいと思います。
これは、霊的な人体図に関するものであり、これを理解している人びとは、今の時点では、まだ少数であることは確かですが、少しづつ増えてきているようです。
まだ知られていない人体の未知なる領域への理解は、生と死とは何か?アートマンである真我と自我の違いを識別していくのを助けてくれることでしょう。
そして、それらが、最終的に統合された時、不滅の自己へと至る永遠の至福の道が眼前に広がっていることに気付くことでしょう。
そして、その時初めて、揺らぐことのない確信をもって、生と死を超えたアートマン(真我)への道を歩むことができるようになるのです。
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聖なる旅『目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ 著 | Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜
ヨーガ修行は全ての感覚的快楽を
離脱することから始まる
五官の門を閉じて 心を心臓に
生気を頭頂に集中して精神統一をする
ブラフマンそのものを表すところの
聖なる音節オームをとなえ
至上者を想いながら肉体を離れる者は
必ず至高の世界へ往く
(バガヴァッド・ギーター第8章12-13)
クンダリニー(シャクティ)の目覚めは、霊性の目覚め
前回の記事で、ブラフマン(神)とシャクティは(力)は同じものだと書きました。
そして、このシャクティ(力)は、人体にも宿っていて、それをウパニシャッドでは、”クンダリニー”と呼んでいます。
今回は、この人体に宿る”神の力”である”クンダリニー”について、聖ラーマクリシュナのお言葉をご紹介することで、理解を深めていきたいと思います。
「その心の力、その大現象力(マハーマーヤー)が二十四の存在原理(五大要素(土、水、火、風、空)、我執(アハンカーラ)、理解力、気(未発の活力)、十根(五官の受動両面)、心、五官の対象(色声香味触)になっていらっしゃる。
わたしがいつか瞑想していたら、心がさまよい出て、ラクスの家に行ってしまった!
ラスクは道路掃除人(カーストでは、賤民の職業)だ。
わたしは自分の心に、『このウスノロ、ここに居ろ』と言いきかせた。
大実母(マー)が見せて下さったんだよ。
――あの家の人たちは仮にあんな状態で遊んでいるだけで、あの人たちの中にもちゃんとクンダリニーがあり、六つのチャクラもあるんだ、と!」
「イダー、ビンガラ、スシュムナー
――どの蓮もスシュムナーのなかにあって、それは霊意識に満ちているんだ。
蝋でつくった木のようなもので、枝も葉も実も、みんな蝋でできている。
ムーラダ―ラ(第一チャクラ)の蓮にクンダリニー・シャクティがある。
四弁の蓮だ。
アディヤシャクティ(根源エネルギー)がすべての人の体のなかにクンダリニーという形で宿っていらっしゃるのだ。
蛇がトグロを巻いて眠っているようにね!
“眠れる蛇の形して蓮の底にぞ住み給う!”
信仰のヨーガによって、クンダリニーはものすごい速さで目覚めるんだよ。
これが目覚めないかぎり見神はできない。」
「わかっていると思うが、卵の中のヒナが充分大きくならないと、母鳥は殻を壊さない。
時が来れば鳥の卵はかえる。
だが、少し修行をすることは必要だ。
グルが何でもして下さるが――。
でも、最後のときは少し修行をさせる。
大きな木を伐り倒すとき、回りをほとんど切ってから、ちょっと脇へ退いて立っている。
すると、木はモリモリ音をたてながら自然に倒れる。
溝を掘って水を引くとき、さいごにごく僅かの部分を掘り残して脇に退いている。
すると、残った土は水を吸いこんで自然に崩れ、河の水がサラサラと溝に流れこんでくる。
我執、制限(ウパーディ)、こういったものをみな放して捨てたら神様にお会いできる。
“私は学者だ”“私は何某の息子だ”“私は金持ちだ”“私には身分がある”
――こういった制限(ウパーディー)を捨てると神が見える。
神は実在、他はみな無常なもの、世間ははかない空しいもの、これが識別だ。
識別ができなければ教えの核心はつかめない。
修行をつづけていると、あの御方の恵みによって成就する。
少しは苦労もしなけりゃならんよ。
その後で、悟りと歓喜がわがものになるんだからね。」
「智識、智識とくり返すだけでどうなるものかね?
智識を得た特徴(しるし)が二つあるんだよ。
第一は熱中すること。
つまり、神様が大好きになることだ。
ただ、智識、智識と分別ばかりして、神に対する愛が芽生えない場合は、その智識は間違いだ。
も一つの特徴(しるし)は、クンダリニーの力が目覚めること。
クンダリニーが眠っている間は智識は生じない。
坐って本ばかり読んで、あれこれ頭で考えているだけでいて心に情熱がないようなのは、智識の特徴(しるし)じゃない。
クンダリニーの力が目覚めると、バーヴァ、バクティ、プレーマが生じてくる。
これこそバクティ・ヨーガだ。」
「そうそう、わたしの魂(アートマン)は三昧に入って、大空(マハーカーシャ)(純粋意識)を鳥のように翔っている、と誰かが言ったね。
いつか、リシケシのサードゥがここに来た。
その人が、『三昧には五種類あるが、あんたはその全部を経験している』と言ったよ。
蟻のような動き(霊気が上がる状態)、魚のような動き、猿のような動き、鳥のような動き、蛇のような動き――この五つだ。
霊気(マハーヴァーユ)が上がるとき、蟻がジリジリと這い上がるような感じのときもあるし、ある三昧状態のときは、法悦の海の中で真我の魚がスイスイと気持ちよく泳ぎ戯れている感じだ!
時には横に寝ているとき、霊気(マハーヴァーユ)が猿のようにわたしを押したりして楽しく遊びまわっている。
そんなとき、わたしは黙っているんだ。
するとその霊気は、猿みたいにヒョイとサハスラーラに飛び上がるんだよ!
わたしが、”ギクッ”として跳び上がることがあるのは、そんなときなんだ。
それから鳥のように――こちらの枝からあちらの枝へ、あちらの枝からこちらの枝へとーー霊気が飛び移るんだよ!
それが止まったところは火が燃えるような感じになる。
そして、ムーラダーラからスワディスターナ(第二チャクラ)、スワディスターナから心臓へというようにして、だんだんと頭まで上がってくる。
あるときは、その霊気は蛇のような感じで上がっていくーーくねりながらね!
蛇みたいに這って、しまいには頭までいくと三昧(サマディ)に入る」
「クンダリニーが起きないと霊性は表れない。
ムーラダーラにクンダリニーは眠っている。
霊性が目覚めると、その御方はスシュムナーの管を通って、スワディスターナ、マニプーラ(第三チャクラ)と上がり、さいごに頭の頂上にとどく。
それを霊気の通過(うごき)と言って、さいごに三昧に入るんだよ。
ただ本を読んだだけじゃ霊性は目覚めないよ。
あの御方を呼ばなけりゃだめ――。
一生懸命に心の底から求めればクンダリニーは起きて下さる。
話を聞いたり本を読んだりしただけの智識なんて!
ーーそんなことで悟れるものかい!」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
聖ラーマクリシュナのお言葉から、見神する、ブラフマン智を得る、真我(アートマン)が目覚める、など、所謂、霊的な体験と言われているものは、
実は、この”クンダリニー”の目覚めである、ということがわかります。
ナーナさんは、このクンダリニー・シャクティの目覚め(上昇)を数回、短期間の間に経験されました。
そして、最後には、完全智を得られ、今は、アヴァターラ(神の化身)として、
私たちのムーラダーラに眠っているアディヤシャクティであるクンダリニーが目覚めるようにと、神の御力であるシャクティプラーナを使って下さっています。
クンダリニーが目覚めなければ、本当の意味で、”見神”したとは言えません。
つまり、自己の本性を悟った、ということにはならないのです。
これについては、スワミ・ラーマも同じようなことを自らの著書『聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』に書かれていますので、次回詳しくご紹介させて頂きます。
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十分な確信をもって一歩また一歩と
知性(ブッディ)に導かれてサマーディの峯に昇れ
そして心をただ一つ真我(アートマン)に固定し
ほかの一切を思うな 考えるな
(バガヴァッド・ギーター第6章25)
ブラフマン(神)とシャクティ(力)は同じもの
ここのところの記事で、”シャクティ”や”プラーナ”というあまり聞き慣れないサンスクリット語の単語が、頻繁に出てきましたが、もう一度ここで整理してみましょう。
このシャクティやプラーナについて正しく理解することは、この先ご紹介していくことになる”シュリー・ヴィッディヤー(聖なる叡智)についての理解へとつながっていきます。
シュリー・ヴィッディヤー(聖なる叡智)は、ヨーガのエッセンスとも言えるものなので、
これを理解することは、束縛からの自由、永遠の至福への鍵となると言えるかと思います。
それでは、今回も聖ラーマクリシュナのお言葉から、ご紹介させて頂きます。
『聖ラーマクリシュナ
「虚空(アーカーシャ)のようなものだよ。
ブラフマンのなかには変化はない。
炎に色がないようにね。
それが力(シャクティ)として、あの御方はいろいろにおなりになさる。
サットヴァ(調和性・悟性)、ラジャス(積極性・建設性)、タマス(消極性・破壊性)の三性(グナ)は、シャクティの性質だ。
無色の炎に白い物を投げ入れると白く見えるだろう。
赤いものを入れると赤く見える。
黒いものを投げ込むと黒く見える。
ブラフマンは三つの性質を超越している。
あの御方はこういうものだと、口で言うことは出来ないよ。
言葉を超越しているんだからーー。
これではない、これではない、と打ち消していって最後に残るもの、そこにある常楽(よろこび)、それがブラフマンだ。」
マヘンドラ・グプタ
「仰せの通り、あの御方がすべてのものになっていらっしゃるならば、こんなふうにいろいろな感じ方、考え方があるのは何故でございましょうか?」
聖ラーマクリシュナ
「あの御方は、あらゆる処、あらゆるものに遍在しておいでだが、力の顕れ方がいろいろ違う。
ある場所には明知(ヴィディヤー)として、ある場所には無明無知(アディヴィディヤー)として、ある場所には強く大きく、ある場所には弱く小さく顕れていらっしゃる。
ご覧、人間の中にだって、殺し屋もサギ師もいるし、虎みたいに恐ろしい人もいる。
わたしはだから殺し屋神、虎神と言っているんだよ」
「あの御方とあの御方の造化力(ちから)――ブラフマンとシャクティ――これ以外には何もないんだよ」
マヘンドラ・グプタ
「それから、霊はどういう相(すがた)のものでございますか?」
聖ラーマクリシュナ
「どんなものかって?
――ちょうど水のようなもの――修行をしていくうちにだんだんわかってくるよ。
お前、“相(すがた)”を信じろ。
ブラフマン智に達したら、不異(おなじ)ということがわかるが――ブラフマンと働き(シャクティ)が不異だということがね。
火と燃える力だ。
火を思えば燃える力を思わんわけにはいかないし、燃える力を思えば火を思うことになる。
牛乳と牛乳の白さ。
水とその冷やす力だ。
だが、ブラフマン智のそのまた上がある。
智識(ジュニューナ)の上が覚智(ヴィジュニャーナ)だ。
智慧ある人は自分の無知にも気付く。
賢者ヴァシシュタは百人の息子を亡くして嘆き悲しんでいなすった。
ラクシュマナにきかれてラーマはこう答えた
『弟よ、智と無智を超えてしまえ。
智を持つものは無智をももつ。
足にトゲが刺さったら、もう一本トゲをもってきて、そのトゲをほじくって抜く。
それがすんだら二本目のトゲも捨ててしまえ』」
マヘンドラ・グプタ
「無智も、智慧も、二つとも捨てなければいけないのですか?」
聖ラーマクリシュナ
「そうだよ。――覚智が最後の目的だ!
わかるかい。
光を知るものは闇を知る。
幸福の味がわかるものは不幸の味もわかる。
徳について思うものは罪についても考える。
善を思うものは悪をも思う。
清浄を感じるものは不浄の感じもある。
ワタシがあればアナタがある。
覚智とは、あの御方と特別に近く親しくなることだ。
木の中に火の性があるという感じ――この確信をもつことを智識(ジュニャーナ)という。
その火で米を煮て食べて栄養をとる。
これを真実智と言うんだ。
神様は実在する――これを心の経験で知るのが智識。
あの御方と話をしたり、あの御方と楽しんだり。。。。。
つまり、あの御方の子供になったり友だちになったり、召使いになったり恋人になったりして――これこそ、覚智というものだ。
あの御方が宇宙とすべての生物になっていらっしゃる。
これを見抜くのが覚智というものだ。
ある一派の考えによると、あの御方は見ることが出来ないそうだ。
――いったい、誰が誰を見るというのかね。
自分が自分を見るんだよ。
黒い海に船が入ると戻ってこない――だから戻って報告をすることも出来ない」
「なぜ、これでもない(ネーティ)、これでもない(ネーティ)なんてばかり言ってうろついているんだい?
ブラフマンについて何一つ説明することは出来ないよ。
ただ、“実在そのもの”と言えるだけだ。
ただ“ラーマ”だけだ。
わたしらが見たり考えたりすることはみんなあの根源造化力の、あの造化力意識のすばらしい顕れなんだよ。
――造る、保つ、壊す。
生物世界、それに瞑想と瞑想する人、信仰、愛、すべてあの御方の力の表現(あらわれ)だ。
ちょうど舵と蛇行の関係――舵のように曲がりくねった動きを考えると、どうしても舵のことを考える。
舵のことを考えると、蛇行のような動きもいっしょに考えてしまう。
牛乳を考えると牛乳の色を考える――白い色を。
牛乳のような白さといえばすぐ牛乳を考えてしまう。
水の冷やす力を考えれば水のことを考えるし、水を考えれば水の冷やす力のことを考える。
この根源造化力(アディヤシャクティ)、または、大現象(マハーマーヤー)がブラフマンを覆っている。
この覆いの幕が除かれてはじめて、“永遠に実在(あ)り通しの我”だ。
“わたしはあなた、あなたはわたし”だ!
この覆いの幕が残っている間は、ヴェーダーンダ派の決まり文句――つまり、“我こそ、かのブラフマンである”などと口にするのは正しい態度ではないんだよ。
波は水のものだが、何で水が波のものであるもんか。
まだ幕が
あなた(神)は母親、私はあなたの子供、あなたは御主人、私はあなたの召使い。
この主人と召使いの考え方もとてもいいよ。
この召使いという考え方から、ほかのいろんな思い方が出てくる。
静かで平安な態度や、友達関係と見る態度も――
主人が召使いを可愛がっていれば、『これ、私の傍にきてお坐り、お前と私は一心同体だよ』と言ってくれることもあるさ。
けれども、召使いが自分勝手に主人のそばへきて坐りこめば、主人は怒るだろう?」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
シャクティ(力)を知ることは、神を知ることであり、
シャクティ(力)を体験することは、神を体験すること、だと言えます。
「見神」とは、神を知ることであり、神を体験することですが、
それは、取りも直さず、シャクティ(力)を知り、シャクティ(力)体験すること、と同じだとも言えるのです。
そして、更に、このシャクティ(力)は、肉体にある五官では感知し得ませんが、
霊的な直観によっては、感知することは十分可能だと言えるのです。
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わがエネルギーの一つ この物質自然(プラクリティ)は
わたしの指示で活動し
動くものと動かぬものを産み出す
創造と破壊をくりかえす
(バガヴァッド・ギーター第9章10)
アートマン(真の自己)とプラーナの関係
前回の記事では、この宇宙は、アーカーシャとプラーナの合一の結果である、と書きました。
アーカーシャにプラーナが作用すると、プラクルティ(物質自然=宇宙)が生じます。
アーカーシャだけでも、プラーナだけでも、この宇宙は存在しません。
両者があって初めて、物質的な動きのある宇宙が存在し得るのです。
(聖ラーマクリシュナは、これがアディアシャクティ(根源造化力)というものだと仰っています)
実は、シャクティ(力)とプラーナは、言葉は違いますが、根本では同じものです。
両者は、聖ラーマクリシュナのお言葉をお借りするなら、”火と熱く燃える性質”のような関係にあります。
それでは、発売したばかりのスワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』より、
プラーナやエネルギーについて理解を深めるために、詳しく説明して下さっている部分がありますので、ご紹介させて頂きます。
『真の自己は死ぬことはできません。
それは、物質的な鞘が滅ぶときでさえも、存在し続けます。
物質的な自己は、アートマンに潜んだままでいる粗野な媒体です。
肉体が滅びたとき、体の微細な物質は同じままです。
何も宇宙では失われていません。
宇宙的なエネルギーは永遠から永遠へと続いています。
現代の科学は、この世のすべては、他のエネルギーの粒子を引き付けようと、エネル
ギーの粒子を駆り立てる振動の産物にすぎないことを発見しました。
固体は、連続的に、これらの空の粒子の状態になり、それから電磁波になります。
それは、最後には、エネルギーの形であると理解されるようになりました。
ヨーガの哲学においては、この宇宙に存在し、起こるすべては、宇宙エネルギー、あるいはプラーナが原因である運動と振動の結果です。
この宇宙のすべての生物と無生物は、プラーナの振動によって作られます。
このプラーナの振動は、すべての宇宙的な現象の根源であり、宇宙で起こるすべての
出来事の第一原因です。
プラーナは宇宙的生命の原理であり、それ自体の法則を持っています。
プラーナなしには、宇宙は存在しないでしょう。
著名な科学者であるサー・アーサー・エディントンは、物質という概念は基本的な物理学から消え、波動の周期性の概念により置き換えられてきていることを、私たちは思い出さなくてはならないと言いました。
現代科学は、実験により、物理学の世界が精神的な現象であると示唆しています。
それゆえ、物理学が、事実上、形而上学に帰結したのは不思議ではありません。
したがって、古代の師たちの直感的な啓示を確証しています。
S a r v a m k h a l vi d a m B r a h m a (確かに、これすべてはブラフマンなり)。
最初のプラーナの現れは、アカーシャである空間で、それは次第に現象的な宇宙へと
発展しました。
ヴェーダンタによると、宇宙には死んでいる物質のようなものはありません。
全宇宙は生きている有機体です。
ヤマは、ナチケータにこの現象界に存在するものは何であれ、プラーナの振動の現れにすぎない、と説明しました。
リグ・ヴェーダによると、宇宙的な力は、展開が始まる前に存在し、現れた宇宙の消滅後も存在し続けるでしょう。
ひとつの巨大な源から、すべての自然の力が、突然現れました。
宇宙は、宇宙の根本であるひとつなるものの現れです。
この宇宙においては、プラーナの振動の消失と獲得のようなものはありせん。
プラーナの力により、発展の力を通して、内側と外側の世界は生まれます。
全世界は、本質においては永遠です。
しかし、その外側の形においては、永遠ではありません。
すべての宇宙の外的な形は破壊され、形のない物質である宇宙の母なるエネルギーが永遠から永遠に存在し続けることでしょう。
生命があるところには、知性の現れがあります。
知性と生命は相伴っています。
この知性は、内なる自己のものであり、その手段としてプラーナという生命力を持っています。
プラーナの力の助けを通して、生きて機能しているのは、本当は真の自己なのです。
対象的な世界は、単に宇宙の半分です。
私たちが感覚で知覚するものは、完全なる世界ではありません。
心、思考、感情を含むもう半分は、外的な対象物の感覚の知覚によって説明することはできません。
五感は、個人的なエゴが外的な世界と接触する主要なドアです。
これらの五感は、私たちが外的世界から振動を受け取るゲートなのです。
これらの振動は、最初は脳細胞に運ばれます。
分子の変化はこれらの細胞で起こり、振動は順番にエゴにより感覚へと翻訳されます。次に、感覚は知覚概念に形成され、一連の精神的なプロセスの後、観念に変換されます。
これは、終わりなく続きます。
あなたが何かの対象物を考えるとき、あなたは即座に、そのものの精神的なイメージを受け取ります。
それは観念と呼ばれます。
もし、知的な心が存在しなければ、どんな認識もないでしょう。
そういうわけで、ヴェーダンタは見解を述べています。
〝感覚器官よりも感覚は微細であるが、心は感覚を超えている。
そして、知性は心を超え、宇宙的な自我は、知性よりも偉大である〞
プラーナの力は、肉体における異なった機能により、プラーナ、アパーナ、ヴィヤー
ナ、ウダーナ、サマーナという 5 つの名前を与えられています。
人間の身体では上昇する空気はプラーナで、下降する空気は、アパーナです。
ヴィヤーナはすべてのランプを貫く炎のようにさっと回り、体中ですべての流動体とエネルギーの循環を維持しています。
ウダーナは、死の際に、体から魂のガイドを務め、サマーナのおかげで、栄養が吸収されます。
魂、あるいはジィーバが離れるとき、生命エネルギーであるプラーナが続きます。
プラーナが離れるとき、他のすべての生命維持器官が続きます。
呼吸システムはプラーナの乗り物です。
心と体の関係を確立するのは呼吸なのです。
吸息と呼息が機能を止めると、死が起こります。
肉体的な死は変化であり、潜在意識と魂を無にすることはありません。
話す、掴 つか む、動く、妊娠する、排泄するという行為の 5 つの器官の微細な力と、感覚知覚器官と 5 つのプラーナとマナス、ブッディは微細体を続けます。
生まれ変わりのときに、魂は微細体に伴われます。
全身は死の際に分解しますが、微細体は存在し続けます。
メリットとデメリットの倉庫である潜在意識は、ジィーバ、あるいは魂のための乗
り物になります。
私たちの多くの生のすべてのサンスカーラは、種子のような潜んだ状態で、私たちの潜在意識の倉庫にあるのです。
微細体と粗雑体との関係は、種子と植物との関係に似ています。
種子は、種子遺伝子において植物のすべての性質を内包しているように、潜在意識は、私たちの過去生のすべてのサンスカーラを留めています。
仏教徒とヨーガ行者は、魂と心と体を信じ、その間を区別しています。
魂は、創造されたことはありません。
それは本質的には、意識であり完全です。
粗雑体の消滅の後、すべては潜在したままです。
魂は生き返ります。
私たちの魂は、死後も、完全であり、消滅せず、分解せず、破壊されません。
もし魂が、真の実体であり存在であるなら、それを経験するいくつかの方法があるべきです。
適切な霊的な訓練を実行する誰もが、この経験を持つことができます。
生と死は、同じ事実にとっての異なる名前であるだけです。
それは、ひとつのコインの 2 つの面です。
このような区別を超えることができる人は、死を克服し、彼岸、すなわち、永遠の生命に到達することができます。
アートマンが不死であるという基本的な真理を理解する人は、死の神秘を解き明かすことができるのです。
サマディを達成した人々は、まさに今生のここで、死後の生を経験することができます。
自らの真の自己を悟った人は、不死なのです。』
(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
「プラーナの力の助けを通して、生きて機能しているのは、本当は真の自己(アートマン)なのです。」
まずは、人体の生命エネルギーであるプラーナを体験していくこと。
そして、このプラーナを通して、私たちを在らしめているのは、「人間馬車説」では最奥に座していらっしゃいますアートマン(真我)であり、
「人間五臓説」では、五つの鞘から独立して存在するアートマン(真我)である、ということを識っていくこと。
これこそが、真の叡智であり、”我は、ソレ(ブラフマン)なり”につながっていくプロセスの始まりなのです。
ですから、己の真の自己(アートマン)を覚って行くことは、このプラーナの直接体験から始まる、と言っても過言ではないのです。
何故なら、シャクティとブラフマンは不異(おなじ)だという聖ラーマクリシュナのお言葉を思い出して下さい。
シャクティとブラフマンが同じ一つのモノの異なる形であるなら、
プラーナとアートマンは、同じ一つのモノの異なる形である、と言うことができ、
片方を知ることは、もう片方を知ることにつながっていく、と言えるのです。
☆アートマンやプラーナについて、更に詳しいことを知りたい方は、
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プルシャ(個魂)とプラクリティ(物質自然)
またその三性質(トリグナ)の相互作用を理解する者は
現在どのような環境にいても
決して地上に再生しない
(バガヴァッド・ギーター第13章24)
本質のエネルギー(エナジー)シャクティプラーナ
前回の記事では、シャクティというサンスクリット語は、現代で言うところのエネルギー(エナジー)のことである、と書きました。
エネルギーとは、主に、仕事をする力、作用する力を指します。
そして、シャクティという宇宙根源の力(エネルギー)は、人体においてはプラーナと呼ばれていると書きました。
ナーナさんのブログ『すべては本質の流れのままに』の2015年9月に、UP して頂きました感想文において、
エネルギー(エナジー)やプラーナについて、詳しく解説させて頂きましたので、こちらに再掲載させて頂きます。
この説明により、エネルギーについて、少しでもイメージを深めて頂き、このブログの最終章である”シュリー・ヴィッディヤー”の叡智へと踏み込んで行きたいと思います。
『前回、“本質”とは、“普遍で誰にでもある共通の基盤のようなモノ”と書きました。
そして、私たち人間にもそのようなモノがあるとしたら、それが“本質”ということになります。
それでは、一体全体、そんな“本質”と呼べるものがあるのでしょうか?
そのことを少し詳しく述べている記述がありますので、ご紹介したいと思います。
「インドの哲学者たちによりますと、全宇宙は二つの材料からできています。
その一つを、彼らはアーカーシャと呼んでいます。
それは遍在の、すべてのものに浸透している存在です。
形を持ついっさいのもの、結合の結果であるいっさいのものは、このアーカーシャから展開したのです。
空気に、液体に、固体になるのはアーカーシャです。
太陽に、地球に、月に、星々に、彗星になるのはアーカーシャです。
人間の体、動物の体、われわれが見るいっさいの形、感覚でとらえることのできるいっさいのもの、存在するいっさいのものはアーカーシャです。
それは知覚することはできません。
それは実に精妙なので、すべての普通の知覚の限界をこえています。
それが粗大になったとき、形をとったときにはじめて、見ることができるようになるのです。
創造のはじめには、このアーカーシャだけが存在します。
この周期のおわりには、固体も液体も気体もすべてふたたびアーカーシャに溶け込み、次の創造のときに同じようにこのアーカーシャから出てくるのです。
何の力によってこのアーカーシャが、宇宙につくられるのでしょうか。
プラーナの力によってです。
アーカーシャがこの宇宙の無限、遍在の材料であるのと同様に、このプラーナは、無限かつ普遍的に現れているこの宇宙の力です。
一つの周期のはじめとおわりには、すべてのものはアーカーシャとなり、宇宙間のすべての力はプラーナに還元します。
次の周期には、われわれがエネルギーと呼ぶものすべては、われわれが力と呼ぶものすべては、このプラーナから展開するのです。
動きとして現れているものはプラーナです。
肉体の活動として、神経の流れとして、思いからもっとも低い力にいたるまで、いっさいはプラーナの現われにほかなりません。
心のにせよ肉体のにせよ、宇宙のすべての力の総計は、それらの原始の状態に還元されるとき、プラーナと呼ばれます。
「有も無もなかったとき、闇が闇をおおっていたとき、そのときには何が存在したか、そのアーカーシャが、動かないで存在した」
プラーナの物理的な動きはとまっていましたが、それが存在することに変わりはありませんでした。
一つの周期のおわりには、いままで宇宙に現れていたエネルギーは静まり、潜在的になります。
次の周期のはじめに、それらは動き始め、アーカーシャに働きかけます。
するとアーカーシャからこれらさまざまの形が展開し、アーカーシャが変化するにつれて、このプラーナも、これらすべてのエネルギーの現われに変化します。」
(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)
このような考え方は、インドの古い哲学者たちの考え(サーンキャ哲学)ですが、ヨーガの基本的な考え方であるヴェーダンタ(ヴェーダの教え)に色濃く反映されています。
宇宙には、根源なるただ唯一なる存在が在るのみ、というのは、古くは、アドヴァイタ(不二一元)と呼ばれます。
この宇宙は、アーカーシャというダルマ(法)とプラーナという実在の力で出来ている、ということを、もっと簡単にわかりやすい例で譬えるならば、アーカーシャは、プログラムのような情報であり、プラーナは、プログラムを動かす、具現化する力を持ったエナジー、ということになるでしょう。
パソコンを動かすには、プログラムもそれを動かすエネルギー(電気)も必要です。
そして、このことは、すべての存在に共通したことであり、それがそのモノとしてこの宇宙に存在するには、絶対不可欠な素材(要素)なのです。
それでは、この宇宙を在らしめている根源なるエネルギー(エナジー)とはどういうものか?というところに話を進めて行きたいと思います。
「真の治癒がもたらされるのは、プラーナによってであります。
プラーナを制御したきよらかな人は、それをある種の振動状態にする力を持ち、その振動は他人につたえられて、彼らの内部におなじ振動をおこします。
みなさんは、それを、日々の活動の中に見ておられます。
私はみなさんにはなしています。
何をしようとしているのでしょう。
言ってみれば自分の心をある振動状態に持って行こうとしているのであって、それに成功すればするほどつよく、みなさんは私の言うことの影響をお受けになるでしょう。』
(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著“ラージャ・ヨーガより)
ナーナさんが、グループセッションや個人セッションで、“本質のエナジー”と仰っているのは、プラーナのことであり、ナーナさんが放つエナジーは、他の人に伝わり、その人の内部に振動を起こし、その人を変容させます。
このことは、ナーナさんのエナジーを受けた多くの人から、個人的体験が感想文として寄せられていて、その一部が、ナーナさんのブログに掲載されていますが、どれをとっても、身体に起きた変容、気持ちに起きた変容、意識に起きた変容についての報告です。
これは、ナーナさんのエナジーが変容を起こすことが出来るパワーを秘めたエナジーである、という証拠でしょう。
この現象を更に詳しく述べるならば、ある振動が、他の者の内部に振動を起こすことを、“共鳴”と言います。
ナーナさんから放たれるエナジーとは、他のモノの振動数を高めることが出来る振動状態になったプラーナのことだということがわかります。
そして、このプラーナは、宇宙遍在のエナジーですから、私たちひとりひとりもこのプラーナなのですが、ただそのプラーナが高い振動状態になっていないのです。
エネルギーは高い方から低い方へ流れます。
そうやって、低い振動は、高い振動に共鳴していくので、ナーナさんのエナジーを受けると、ナーナさんの超微細振動に共鳴した私たちの内部の低い(粗い)振動のプラーナが活性化されていくのです。
このエナジーの共鳴により、私たちの内部の粗い振動は、純粋で超微細な振動となっていく、という現象が起こるのです。
そして、宇宙に遍在するエナジーは、この純粋で超微細なエナジー、プラーナなので、この共鳴現象を体験することで、私たちは、自分の“本質”が何なのか?を識り、そして、最終的には、自分が誰であるのか?何であるのか?を思い出すことになるのです。
この直接体験を可能にするエナジー共鳴を起こすことが出来る“プラーナを制御した”きよらかな人”は、世界でもそれほど多くはいないでしょう。
いえ、むしろ、滅多にいない、と言えると思います。
非二元を語る人は多くいるかもしれませんが、それを直接体験により識らしめる力を持った存在が、どれほど稀有な存在であるかは、ここで申し上げるまでもないでしょう。
変容させ得る力こそが、ホンモノです。
私たちは、目に見えない宇宙根源のエナジーを、共鳴によって起こる直接体験を通して、識っていくことが出来ます。
それを起こすことができる存在は、もうすでに、存在の秘密に対する答えを得ているので、その答えそのものとなって、私たちを究極の答えに導くことが出来るのです。
私たちがすることといったら、本質のエナジーを認め、信じ、心を開いて、それに委ねるだけです。
それだけで、共鳴が起こり、私たちは、私とは誰なのか?何なのか?という究極の答え、存在の実相、この宇宙で唯一の実在に出会っていくことが出来るのです。
そして、自分が本当は誰であったのか?何であったのか?を身を以って識ることは、この宇宙に実在する唯一の存在を識ることにつながります。
そして、個としての“我”が、“本当のわたし”(真我)を思い出すことを、覚醒、目覚め、悟りと呼んでいるのです。
真に覚醒状態にある人のみが、他の人を覚醒に導くことが出来ます。
“それ”そのものになっている存在だけが、他の存在を“それ”に誘えるのです。
ナーナさんは、そのような存在であり、この地上で彼女のような存在に出会うことは、正に奇跡なのだと感じます。
最後に、直接体験のみが、唯一の答えである、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダ著「ラージャ・ヨーガ」の一文をご紹介して、この長い文を終わりにしたいと思います。
『経験は、われわれが持つ唯一の教師です。
たとえ一生涯しゃべって推理しても、それを自分で経験するまでは、われわれは真理のひとことをも、理解することはできないでしょう。
人に数冊の書物をあたえただけでは、彼が外科医になることを期待するわけにはいかないのです。
私に地図を見せるだけで、ある国を見たいという私の好奇心を満足させることはできません。
私は実際に経験しなければならないのです。
地図はわれわれの内部に、もっと安全な知識を得たいという好奇心をよびさますだけなのです。
それ以上には何の価値も持ってはいません。
書物にばかりしがみついていると、人間の心は堕落するだけです。
神の知識のすべてがこの書物、またはあの書物の中にふくまれている、という宣言よりおそろしい冒涜があったでしょうか。
神は無限であると言いながらどうしてあえて、彼を一冊の小さな書物の表紙の中などにおしこめようとするでしょうか!』
経験こそすべて!
ナーナさんは、超微細なエネルギー共鳴により、“それ”を私たちに体験させてくれます。
このことにより、私たちの目覚めのプロセスは格段と進化し、スピードアップするのです。』
この2年前に書いた感想文と、今、このブログでお伝えしようとしていることは、本質的には、同じことです。
今でも、ナーナさんは、シャクティプラーナを通して、私たちが、私たちの”真の自己”を覚れるようにと、導いて下さっています。
それは、ひとえに、アートマン(真我)を覚る以外は、人類にとって、真の自由へ至る道はないとわかっていらっしゃるので、
人びとを救うため、人びとを真理へと導き、生まれ変わりの繰り返しから人びとを解放するために、いまここで、神の御力であるシャクティプラーナを使って下さっているのです。
☆ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、
自己変容したい人、真理を体得したい人、束縛から解放されたい人、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい人は、
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すべての行為(カルマ)は物質自然(ブラクリティ)によって
つくられた肉体が行うのであって
自己の本体(アートマン)とは無関係であると知る者は
存在の実相を見ているのである
(バガヴァッド・ギーター第13章30)
行き着くところは、不二(アドヴァイタ)
少し前の記事で、『俗人の自我(アハンカーラ)や”私”は、ちょうど四方を壁に囲まれて、頭の上には天井があるようなもので、外側は何一つ見えない。
アヴァターラたちの”私”は、薄い透き通った”私”で、そしてこの”私”を通して、いつもいつも神を見ているんだよ。
言い換えれば、彼らは肉体を持っていても、絶えまなくヨーガの状態にあり、望みさえすれば、壁の大穴から出て行って三昧に入る。
穴が大きいから自由に往来できるーーつまり、三昧に入ってもまた低いところへ戻って来ることができる』という聖ラーマクリシュナのお言葉をご紹介させて頂きました。
そして、前回の記事では、このような状態にあるアヴァターラであるナーナさんは、シャクティプラーナという御力により、私たちに”尊い自己の本性”であるアートマン(真我)を覚ることが出来るようにと導いて下さっている、とご紹介させて頂きました。
私たちの自我(アハンカーラ)は、あまりに分厚いために、つまり、壁や天井があまりに厚いので、
私たちは、外側の太陽の光を感じることもできませんし、ましてや直接、太陽そのものを眺めることができないでいます。
ナーナさんは、シャクティプラーナの御力で、この分厚い自我(アハンカーラ)の層を薄くして下さいます。
この自我(アハンカーラ)の層が薄くなればなるほど、外から内部に(智慧)の光が差し込み、部屋の中は明るく(明知)となり、
やがては、壁や天井に穴が開き、その穴から太陽の光が差し込んでくるが如く、その穴から直接太陽を眺めることができるようになるが如く、
”尊い自己の本性”でありますアートマン(真我)がその姿を現して下さるようになり、
若虎が、自分は虎であると自覚することができたように、
私たちは、自分の本性がアートマンである、と体験を通して悟って行くことができるのです。
ナーナさんから放たれるシャクティプラーナという超微細なエナジーに共鳴していくことで、
次第に、私たちの中のシャクティプラーナが目覚めていく、とイメージすると理解しやすいでしょう。
シャクティプラーナを充填されたお水に、小さな気泡が生じるという変化が起きていると同じ現象が、私たちにも起こるということになります。
超微細なエナジー、シャクティプラーナは、五官では感知し得ませんが、聖ラーマクリシュナのお言葉をお借りするならば、”純粋清浄な心”で感知することは可能です。
自我(アハンカーラ)の層がシャクティプラーナの力で薄くなっていくと、”純粋清浄な心”となるので、超微細エナジーであるアートマン(真我)を覚って行くことが可能となるのです。
シャクティ(造化力)について、聖ラーマクリシュナのお言葉を、もう少しご紹介させて頂きます。
20世紀に入るまでは、エネルギーという単語は、まだ一般的には使われていませんでした。
その結果、エネルギーという言葉の代わりに、シャクティという単語が使われていた、と考えると、理解しやすいと言えます。
シャクティプラーナは、超微細なエネルギー(シャクティ)です。
そして、シャクティ(エネルギー)でありながら、人体において働いている力は、プラーナと呼ばれています。
名称が違うだけで、シャクティもプラーナも超微細エナジー(エネルギー)であり、神の力であり、実は、神そのものなのです。
このことを、聖ラーマクリシュナが、とても分かり易く語って下さっているので、ご紹介させて頂きます。
聖ラーマクリシュナ
「ヴェーダーンタ派なんかのブラフマン智の行者たちはこんなふうに言う。
”創造、維持、破壊、そして生物と世界ーーこういうものはすべてシャクティ(造化力)の遊戯(リーラー)である。
よく考えて判断していけば、すべてのものは夢まぼろしである。
シャクティでさえ夢のようなものであって実在ではない”とね。
けれども、何千何万回考えて決心してみても、三昧(サマディ)にならない限りはシャクティの領域から逃れる方法(みち)はない。
”私は瞑想している””私は考えている”などというのも、すべてこれシャクティの領域でのこと。
だから、ブラフマンとシャクティは不異(おなじ)だというのだ。
一つを思ったら、もう一つの方も思わずにはいられない。
ちょうど火とその燃える力のようなものでねーー火を心に想いうかべると、燃える力もいっしょに思うことになる。
燃える力を除けて火を想像することは出来ないし、火のことを言えばどうしても燃える力を思うことになる。
太陽といえば日光が心に浮かんでくるし、日光がなくては太陽を考えることは出来ない。
牛乳はどんなものかね?
考えるまでもない。
牛乳がなくては牛乳のあの白さを思い浮かべることはできない。
そして、牛乳の白さなしには牛乳を思い浮かべることは出来ない。
だから、ブラフマンなしにシャクティを考えることは出来ないし、シャクティなしにブラフマンを考えることは出来ない。
永遠(ニティヤ)なものなしには変化(リーラー)を、変化(リーラー)なしには永遠(ニティヤ)なものを思うことは出来ないんだよ!
アディヤシャクティ(宇宙生命力・根元造化力)は絶えず変化活動している。
創造し、維持し、破壊している。
その力のことをカーリー(ヒンドゥー教の暴力と殺戮を好む戦いの女神)と呼ぶのだ。
唯一つの本体が動かないときーーつまり、創造、維持、破壊の仕事をしていなさらぬと考えるとき、その御方をブラフマンと呼ぶ。
その御方がそうした活動をなすっているときにはカーリーとかシャクティと呼ぶ。
その御方はただひとり。名前とポーズが違うだけ。
あの御方のことをアッラーと呼んでいる人もあれば、ゴッドと呼んでいる人もあり、ブラフマンと呼ぶ人も、カーリーと呼ぶ人もある。
ラーマ、ハリ(クリシュナ)、イエス、ドゥルガーなどと呼んでいる人もある」
「ただ一つのものがあるだけで、ほかには何もないんだよ。
”私”がある間は、かの至高至聖のブラフマンが、アディヤシャクティ(根源造化力)という相(すがた)で創造したり、維持したり、破壊したりしているように見せかけて下さっているだけだ。
ある王様が、『たった一言で朕に智慧をさずけよ』と、一人のヨーギーに申しつけた。
ヨーギーは、『よろしい。たった一言であんたは智慧を得るだろう』と請け合った。
しばらくすると、王の傍で突然『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言う。
王は何のことかわからず呆気にとられてただ見ていた。
しばらく見ていると、二本の指は一本になってしまった。
魔術師は一本になった指をグルグル廻しながら、『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言っている。
つまり、ブラフマンとアディアシャクティははじめのうちは二つに見える。
しかし、ブラフマンの智慧を得ると、もう二つは存在しないんだよ。
同じなんだよ。一つなんだ!
一つが二つになっているんじゃないーー不二(アドヴァイタ)なんだ!」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
不二(アドヴァイタ)ということは、
この世には、人間と神という二者がいるわけではない、ということになります。
ただ”それ”だけが在る。
”神”だけが存在する。
”神”だけが存在するのなら、
わたしもあなたも”神”だということになります。
このことを、ナーナさんは、アヴァターラ(神の化身)として、シャクティプラーナ(神の力)を通して、私たちに教えて下さっているのです。
☆ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、
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いま君が見ているわたしの姿は
ただヴェーダを学んだだけでは見えない
烈しい苦行や慈善 供犠を重ねても見えない
そうした手段ではわたしの真実の姿は見えないのだ
(バガヴァッド・ギーター第11章53)
宇宙根源の力、シャクティについて
前回の記事で、ナーナさんは、アヴァターラ(神の化身)として、
神が人間に化身して、このリアリティの次元に現れて下さっている、ということを書きましたが、
今回は、何故、そのような大胆なことが言えるのか?
そして、ナーナさんは、どのように、私たちの”尊い自己の本性”であるアートマン(=真我)に気づかせて下さっているのか?について、少しだけご紹介させて頂こうと思います。
ナーナさんが個人セッションでやって下さってるのは、シャクティパータと言うものですが、
これは、サンスクリット語で、シャクティは”力”を表し、パータは”授ける”を意味し、
シャクティパータは、文字通り、”力を授ける”という意味になります。
それでは、シャクティとは、どのような”力”でしょうか?
それは、一種の強力なエネルギーなのですが、如何せん、私たちは、エネルギーを目で見たり、感じたりすることができません。
エネルギーが光を発する時にのみ、目で確認することができますが、
例えば、動力源、光源としての電気から、放射能や電磁波など、五感で感じることがほとんどできないエネルギーに囲まれて生活していますが、
それほど身近でありながら、大抵の人は、目に見えないエネルギーについて考えたことも、感じたこともない、というのが現状でしょう。
シャクティというのは、宇宙を在らしめている力であり、聖ラーマクリシュナは、こう仰っています。
『ブラフマンである御方が根元造化力(アディヤシャクティ)だ。
無作用のとき、あの御方をブラフマンと呼んだりプルシャと言ったりする。
創り、保ち、壊すとき、あの御方をシャクティとかプラクリティとか呼ぶ。
プルシャ(精神、男性原理)とプラクリティ(質料因、自然、女性原理)だ。
プルシャである御方がプラクリティなんだ。
どちらも歓喜の権化だよ。』
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
つまり、シャクティとは、創り、保ち、壊す”力”、創造の力ということになります。
シャクティは、力そのものですが、動きが生じると、それは、プラーナとなります。
分かり易く譬えると、シャクティとプラーナの関係は、”火”と火の”燃える性質”との関係に似ています。
両者は、切り離しては考えられません。
しかし、プラーナは、いろいろな意味で使われることが多い単語なので、
ナーナさんから放たれているのは、シャクティプラーナ(宇宙創造の根元力)ということになります。
プラーナに関する更に詳しい説明は、後日することにして、
ナーナさんが、シャクティプラーナを、私たち一般人にも、理解できるように、五感で捉えられるものとして現して下さいましたので、ご紹介させて頂きます。
下にUPしました写真の上3枚は、ナーナさんが、シャクティプラーナをクリスタルに入れて下さり、
そのクリスタルをお水に入れて沢山の小さな気泡が生じたところを撮影したものです。
4枚目の写真は、ペットボトルのお水に、直接シャクティプラーナを入れて頂いたものです。
シャクティプラーナを充填したクリスタルをお水にしばらく入れておくと、数時間で、お水に小さな気泡が生じます。
そして、お水の味も変化しており、どのようなお水でも驚くほどおいしくなっています。
更に、このお水を飲むことで、多くの人にいろいろな変化が起きています。
シャクティプラーナの入ったお水に関する報告は、ナーナさんの公式ブログ『すべては本質の流れのままに』(http://ameblo.jp/premagrace/)の過去記事の中で、幾つか紹介されています。
主に、病気が良くなったことや、奇跡的なことが起きたこと、など、多くの体験談が寄せられていることから、シャクティプラーナの人智を超えた力を知ることができます。
シャクティパータは、このシャクティプラーナを、全身に流して頂くことですが、
これが、どういうことを意味するのか?については、また後日、ご紹介させて頂きます。
(現在、シャクティパータを受けることができるのは、個人セッションのみです。
また、お水は、サットサンガに2回目以降に参加された場合に、お水を持参すると、シャクティプラーナを入れて頂けます(有料)。
お水はどんなものでも構いませんが、ペットボトル(2リットルまで)2本までとなっています)
☆ナーナさんから放たれるシャクティプラーナの恩寵に与り、
自己変容したい人、真理を体得したい人、束縛から解放されたい人、真我の目覚め、神の直接体験に預かりたい人は、
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サットサンガ(真我の集い)は、毎月、各地で開催しています。
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サットワ ラジャス タマスから成る
あらゆる状態の自然界万有は
すべてわたしのエネルギーから現象する
だがわたしはそれではなく わたしのなかにそれがあるのだ
(バガヴァッド・ギーター第7章12)