永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

生まれ変わりの法則(輪廻転生)について

前回の記事では、昨日発売になりましたスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」を出版することになるまでのいきさつをご紹介させて頂きました。

 

その後、翻訳を進めていく内に、スワミ・ラーマが語って下さった真実に関して、とてつもなく衝撃を受けた箇所があり、

そのため、そのことを監修をお願いしました我が恩師(グル)でいらっしゃいますナーナさんに、それとなくお聞きしました。

 

それは、生と死の秘密に関してのスワミ・ラーマの文章でしたが、その文章の信憑性について、確認したかったからでした。

ナーナさんが、ナーナさんが知っていらっしゃるすべてを語って下さらないのは、言葉で表現して下さっても、私たちが充分に、それを理解できないからなのですが、

今回ばかりは、人間にとっては、にわかには信じがたいことでもあるけれども、この本全体の中でも、かなり重要な部分であると感じましたので、

普段は、何かをお聞きすることはほとんどありませんが、今回ばかりは、思い切ってお尋ねしてみることにしたのでした。

ナーナさんは、すでにブラフマン智を得ている御方ですから、生と死の秘密については知っていらっしゃるはずです。

 

ナーナさんのお答は、ひと言ーー「そう、その通り」ということでした。

 

ナーナさんが「その通り」と仰るからには、そういうことが起きている、ということであり、

それは、人間が信じようが信じまいが、否定しようが否定しまいが、「その通り」であり、どんな条件下であっても、変わらないということになります。

 

それは、輪廻転生に関することで、一般人には見たことも聞いたこともない、また、想像することもできない領域に関する生と死の神秘に関することでした。

 

そこで、正直、私は迷いました。

 

この本を読んで、ショックを受けてしまう人もいるのではないか?と。

 

これは、すべての人間に起きていることで、ファンタジーでも作り話でもありません。

いつかは、自分の身にも、必ず起こることなのです。

 

たとえ真実だとしても、ほとんどの人には受け入れがたいことでもあるように感じ、

このことを死ぬ前から知っていなくてもいいのではないか?という想いで、本を出版してもよいものかどうか、迷いました。

いっそ知らずに死んでいく方が、人間にとっては幸せなのではないか?と。

 

しかし、これが長年、人類が神秘としてきた生と死の秘密に関する真実であるなら、

より多くの人に知ってもらい、

その生と死の繰り返しから抜け出たいと願う人々に、その繰り返しである輪廻転生という車輪の環から抜け出るための何らかのヒントになれば、と思い直して、予定通り、出版することにしたのでした。

 

いつかは、この真実も、世の中に広く知れ渡り、一般的なコンセンサスを得るようになるのかもしれませんが、

今の段階で、この秘密を知っている人は、世界でも極少数であることは想像に難くありません。

 

しかし、今は、ナーナさんという恩寵の扉が開いている時なのです。

 

この生と死の生まれ変わりの繰り返しから抜け出たい、と心から願うならば、

今は、ナーナさんという恩寵の扉を通って、向こう側に行くことは可能なのですから、

私たちが、認めたくない真実を知った後、為す術もなく、この世に取り残される、ということではなく、

ナーナさんが私たちと共にいらっしゃって下さる今こそ、人間の宿命である輪廻転生を繰り返すことなく、永遠に続く車輪の環から脱出できるまとないチャンスだと捉えられれば、

これこそが、神の恩寵そのものであることは、疑いようがありません。

 

この目の前に提示された神からのプレゼントを、私たちは、素直な心で、感謝をもって、受け取れば良いのですから、

今は、この本を、ナーナさんがいらっしゃるこの日本で出版することは、私たち霊性の探求者にとっては、グッドタイミングなのだと確信しています。

 

それでは、私がスワミ・ラーマの”Sacred Journey"を初めて読んだとき、

ある種の衝撃を受けた、生と死の秘密、輪廻転生についての部分を、

かなり長い文章ですが、ご紹介させて頂きます。

 

『人は自分自身の宗教的な信条に従い、死後の生についてある一定の期待を持っていま
す。

人は不死と天国への望みを夢見ています。

彼らは、今は亡き愛する者が永遠に神と共にあるという考えでお互いを慰め合っています。

宗教は、天国には多量の水と果物と美しい女性と音楽と踊りなどがあると、考えています。

ある宗派の信奉者たちは、彼らの敵や獰猛な動物に対する戦いが戦われる英雄の天国の存在を信じています。

すべてのこれらの天国は、申し立ての通りに人の最も高い望みが叶えられる精神的な領域でしかありません。
誰でも、彼らが最も快いと見なすある一定の願望を持っています。

そして同時に、彼らは、このような願望ができる限り叶えられる領域を望んでいるのです。

そこで、天国を切望することは、人が達成を求めている天国のレプリカである領域を映し出します。
この天国は、夢でしかない人の理想や願望の投影です。

人が夢を見るとき、起きるまで天国にいると思うかもしれません。

目覚めると、夢の現実性は消えます。

夢と天国はある一定の条件の下でのみ現実なのです。
天国の理想はインドの古代の預言者によって考えられました。

しかし、いくつかの宗教がしているように、彼らはそれを永遠なる状態であるとは考えませんでした。

ヒンドゥー教仏教以外では、天国の観念は永遠の存在を意味しています。

ヒンドゥー教の哲学によりますと、永遠の天国という理想は、現実的には不可能なのです。

天国や死後の他の種類の存在は、固定的ではなく、その人自身の考えや行動により決定されます。
天国の領域を経験し、天国の楽しみを喜ぶ人々は、彼らの善い行いや考えが彼らに資格
を与える限り、それをすることができます。

常に、善い行いと考えには限りがあります。
同じように、それらから生じる結果にも限りがあるでしょう。

永遠という単語は、始めがなく終わりがない、ということを意味します。

ヴェーダンタでは、天国はそれ自身の性質により、永遠ではあり得ません。

時間、空間、因果関係という法則に従っているすべての物は、永続的でなく滅びます。すべてのこの世の楽しみは時間によって制限されています。

それらは永遠に続くことはありません。

天国の楽しみはこの世の楽しみに似ています。

それらが長い間、経験されても、やがては終わりが来ます。

この世以外のところで叶わない願望は、魂を存在の物質的な次元に連れ戻すことでしょう。
死のときに、魂は外側の装いである肉体を脱ぎ捨てます。

ヤマはナチケータに肉体が死んで滅びた後、魂は存在し続けると語りました。

物質的な肉体、あるいは物質的な宇宙の現象の助けなしで、魂が残存する霊的な領域があります。

これらの領域は感覚器官には認識できず、霊的な直感を通してのみ知覚され得ます。

悟らなかった魂たちは、死後ある不特定な期間、死んだ魂の領域に残存します。

それらは、この次元で真の実在の真の性質を悟ることができなかったため、死の通常のプロセスを経験したのでした。
死に伴う恐れのほとんどは、死が苦しいかもしれないという恐れです。

死のプロセス自体は、苦しくはありません。

それは単に状態を変化させるだけです。

準備不足と執着は、死のときに経験される苦しみの原因です。

死は、準備がなされ、アートマンの叡智を獲得した人にとっては、けっして苦しいものではありません。

このような個人は、肉体や肉体的な感覚から離れ、肉体的な変化に影響されません。

魂が物質次元や、この世のものや個人に非常に執着しているときは、死は苦しみであり、悲惨な状態へと至るかもしれません。
生と死の間には、プラーナが機能を停止する中間の状態があります。

人はこの瞬間の準備をしていないと、精神的な責め苦を経験し、他人に何かを説明、表現することはできないでしょう。

実在を知っている人は、この悲惨な状態からは救われます。
死への移行において、外側の乗り物が完全に落とされる前に悟らなかった人々は、喜
びや苦しみのそれぞれのいろいろな一時的な段階、あるいは領域を経験しますが、それ
は以前に成したポジティブまたはネガティブなカルマにかかっています。

例えば、ピトルローカでは、私たちは祖先や親しい人に逢い、スワルガローカでは、いろいろな楽しみを楽しみます。

チベット死者の書ヒンドゥー教のガルーダプラナは、肉体を捨てるプロセスで人が通り過ぎる段階を広範囲にわたって説明しています。
物質的な肉体が落とされた後でさえ、残存する構成要素の純粋か不純かにより、低い
天国の領域と高い天国の領域という異なる天国の領域があります。

無知な者にとっては、死は、天国のような、あるいは地獄のような夢のような光景がところどころに入っている長くて深い眠りです。

死んだ魂と意思伝達したと主張する人々は、幻覚を起こしているか嘘をついているのです。

誰かが深い眠りにあるとき、誰かと意思伝達することは不可能です。

悟った魂のみが、いつでも十分に意識的であるので、死後、他者と意思伝達することができます。
善い行いをして、正しくて利己的でない人生を送り、今生でいくつかの完成を手に入
れた人々は、最も高次な領域で、神聖なる自己のはっきりとしたヴィジョンを楽しむこ
とができます。

しかしながら、最も高次への到達と自己の自覚はこの生だけで持つことができると賢者は言います。

ピトリローカとスワルガローカは最高の真理を表すことはできません。

自由は、この領域では達成されることはできず、天国のいろいろな楽しみは、魂がアートマンを悟ることを邪魔します。

自己認識は、死後ではなく、今生のここでのみ可能なのです。

死後の死んだ魂の領域で、真の自己を悟ることができると信じている人々は、悲しくも幻滅を感じるでしょう。

肉体の消滅の前に、アートマンの不滅の性質を悟らない人々は、人間の誕生を通してやって来る大いなる好機を失うでしょう。
ブラフマンの達成は、あの世ではなく、今生のここでのみ可能なのです。
ヴェーダンタによると、人間は 5 つのコーシャという鞘から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、 5 つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。

死と同時に、物質的な肉体は、意識の心と共に、不死の部分から離れます。
感覚器官は肉体と共に置き去りにされるので、死後、感覚的な知覚はありません。

感覚は、微細なレベルでは機能しません。
死後、外側の乗り物、あるいは鞘を捨てる過程で、人は、短い間、歓喜鞘に接触する
ようになります。

臨死体験を報告する人々は、彼らが愛で彼らを包む輝く光に引き付けられたことについて語るとき、この短い接触を記述しているのです。

このような経験は、彼らが自己認識、あるいは、悟りに対処すべき何もしていない場合以外は、可能です。
これらの一瞬の経験は誰かを変容させる可能性を持っていませんし、透視能力や他人を
癒すエネルギーのような超能力を授けたりはしません。

もし、人が、一生涯、暗闇と無知にあるなら、死のときに、短い時間であっても、アートマンに接触するにはどうしたら可能でしょうか?
 
もし、ランプが多くの覆いを持っていたら、光はとても暗いときにしか見えません。

すべての覆いが取り除かれたとき、光ははっきりと見えます。

悟りは、光を見ることではなく、内側の光が真の存在だと悟ることです。

これは太陽、月、星々の光ではありません。智慧と永遠の至福の光です。

悟りに相当する経験は他にはありません。

死は悟った人にはどんな力もありません。

探求者は、死後、悟ることを期待する代わりに、次のステップの準備をする真摯な努力をし、地球の次元にいる間の今ここで、悟りを達成しようと努力するべきです。
無知なる魂は、天国へ行くか、彼らの満たされない願望の満足を求めて地球に帰って
きます。

願望する者は、生まれます。

願望しない者は、再び生まれることはありません。
生まれ変わりの理論によると、すべての連続する誕生では、より多くの智慧を得て、最
後には完全なる自由を獲得するように、行為のメリット、デメリットによって、魂は何
度も何度も生まれます。
この生まれ変わりの理論は、現代の科学的な方法では証明することはできません。

科学的なアプローチは、原因と結果の法則に一致しているもっともらしい理論として取り扱うことができるだけです。

それが、物質的な宇宙の正に基本なのです。

ウパニシャッドの師たちは、天国か地獄における永遠の生まれ変わりの理論には感銘を受けませんでした。

なぜなら、このような仮説は、原因と結果の不釣り合いな関係に基礎を置いているからです。

地球上の人生は短くて、誘惑に満ちています。

魂に数年の、あるいは全生涯であろうと、その過ちのために永遠の罰を与えることは、物事のあらゆる釣り合いを捨て去ることです。

古代の預言者たちは、魂の体現をもたらすのは、満たされない願望であると示して、合理的な基準で、生まれ変わりの理論を発展させました。

別の体を手に入れる前に、魂が死の移行期で過ごさなくてはならない時間の長さは、ただ、願望の強さに依存しています。

自然に設定された厳しくて固定した法則はありません。
ピタゴラスソクラテスプラトンのような多くの西洋の哲学者は、生まれ変わりの
理論を信じていました。

キリスト教の聖書やゾロアスター教聖典では、生まれ変わりの理論がはっきりと語られているところはありません。

また、生まれ変わりの理論を否認する預言者もいません。

理由は、キリストとゾロアスターの時代では、それは共通の信仰だったからです。
信じる、信じないは、人の霊的な向上にとって重要な考えではありません。

事実は、もし、全能の神が親切で慈悲深く、人間の運命を決定するのなら、彼の創造において不平等はないということになります。

平等は絶対の法則であり、不平等は人間が作ったものなのです。

生まれ変わりの理論によると、私たちはみんな自分の今生とあの世の生に完全に責任があります。

各人は、自分の過去の個人的なカルマを通して形作られた世界に生まれます。
魂は、体の現れを通して、願望を満たした後、体を脱ぎ捨て、新鮮な形を身につけま
す。

私たちの願望と傾向に応じて、私たちは、微妙な点でいろいろな段階や浄化や微細
な鞘のレベルを構成しているより高い、あるいはより低い次元に生まれます。

私たちは、私たちが想いと行いを通して、自分の未来の運命の創造者であることを忘れてはいけません。

神は邪悪な者を罰し、善行者に報いると考えることは愚かなことです。
私たちは、次の生まれ変わりの要因を意識的に選んではいません。

それらは、私たちの以前の行動、想い、願望によって、決定され、あるいは選択されます。

人を表面的に人格として決定する、この決まりきった型である溝の蓄積、あるいはサンスカーラは、ある誕生から次の誕生へと旅をします。

溝は砂漠の砂丘のように、人の経験と意志に応じて、移ります。

それらは、異なる人格と異なる姿を創造しながら、しかしすべては究極の自由に向かって動きながら、形を変え、大きな時間の広がりに影響を与えます。

溝は、姿の特徴を決定します。

男性か女性か、どんな親か兄弟か、どんな身分か、どのくらいの苦しみ、どのくらいの喜びか、等々。それについて任意のものはありません。

誕生は、展開している個人の魂の霊的な必要性に完全に釣り合っています。
地球、あるいは天国における生の一時的な性質を悟った人々は、生と死の終わりのな
い繰り返しを避けることを求めます。

彼らは、けっして戻らない天国を超えた最高の実在であるブラフマロカを熱望します。悟った個人は、完全にすべての状態で、人間の体で生きている間も、死の状態の間も、気づいています。

ブラフマンを知る者は、どんな領域にも、あるいは天国にも行くことはありませんし、常にそうであるもの―すべての自己であるアートマン以外の何かになることもありません。

物質的な外観を落とした後は、悟った魂は、永遠の至福と幸福、無限の愛と智慧の状態にあります。

アートマンを知った者は、眠りから目覚め、もはや夢を見ない人のようです。

視覚を取り戻した目の見えない人のようです。

アートマンの直接体験を持つ開放された魂は、他人に仕えるために戻る選択をしないならば、物質的な次元には戻りません。

このようなジーヴァ・ムクタは、もはや束縛対解放のような二元に身を投げることはありません。
悟った魂は、他の人間を盲目にしているカルマのすべての撚糸を燃やします。

このような人は、自由の意志をふるい、生まれ変わるべきか、絶対と融合すべきかを選択します。

もし選択が生まれ変わりなら、その誕生の環境は、また意識的に選択されます。

仏教によると、このような魂は、アルハットと呼ばれます。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

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 誰でも肉体を脱ぎ捨てるとき

心で億念している状態に必ず移るのだ

クンティーの息子よ これが自然の法則ーー

常に思っていることが死時に浮かぶ

 (バガヴァッド・ギーター第8章6)

 

 

 

 

 

スワミ・ラーマの「聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」との出逢い

本日、スワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』が発売されました!

 

この本を日本で出版できることを、歓びに感じています。

 

翻訳はわたしですが、監修は、恩師(グル)であるナーナさんにお願いいたしました。

 

今回は、いつもとは趣向を変えて、この本を日本で出版するまでのいきさつについてご紹介させて頂こうと思います。

 

これから読んでいただくものは、一年前に、ナーナさんの公式ブログ「すべては本質のながれのままに」にUPして頂いたものと同じものです。

 

このような不思議なご縁でつながったスワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」を、本日、晴れて日本で出版できましたことを、

目に見えない神さま、目に見える神さまに、心から感謝し、御礼申し上げます。

ありがとうございます!

 

 

『ナーナさん、先日生まれて初めてインドに行ったのですが、書き記しておきたいと感じたことがありましたので、長くなりますが、ご報告させて下さい。
インドは、ヒンドゥー教聖典、バガヴァッド・ギーター(神の詩)や悟りを開いたとされる仏陀、アドヴァイタ(不二一元論)が生まれた国でもあり、以前からとても興味があったのですが、いざ渡印となると、躊躇していました。

それが、ヴェーダンタの勉強会でご一緒している知り合いで、毎年インドに行っているご夫婦が、慢性の痛みで苦しんでいる私の体調を気遣って、インドでアーユルヴェーダの治療を受けたらどうか?もし受けたいなら、とても良いドクターがいる病院を紹介しますよ、と誘ってくれたのでした。

昨年は、公私ともに忙しく、とてもそんな時間的余裕はなかったのですが、それも一段落したので、インドは夏は50℃近くまで気温が上がるそうで、インド全土ではエアコンなどの設備があまり整っていないことから、暑い季節に行くのは避けるのが賢明であり、1月から3月までが渡印するにはベストシーズンだと言われたので、急いで2月の末から3月初めにかけて、旅行というより、アーユルヴェーダの病院での治療をメインにしたインド行きの計画をたてたのでした。

そんなこんなで、知人の紹介で入院することになっていたこともあり、病院名もうろ覚えで、成田からデリーへ、そして国内線に乗り換えて、ヨガの聖地と言われているリシケシに近いデラドン空港に、一人降り立ったのでした。

たった一人での海外旅行は初めてだったため、かなり緊張していたかもしれません。

病院を紹介してくれたご夫婦は、すでにインド入りしていたので、空港まで私を迎えに来てくれました。

初めて目にするインドは、日本人の私にはとても興味深く映りました。

ここが、これまで多くの聖者と称される人々を生んだ土地なのだと思い、インドに対して感謝の気持ちが湧き、これから過ごす数週間にどんな出会いがあるのか?それを思うと、少しワクワクした気持ちになりました。
ところが、現実はそんな私の根拠のない漠然とした期待(?)を軽く裏切り、私は、初めてのインド旅行の初日から、所謂“インド症候群”と言われる一種の食あたりによる激しい下痢と嘔吐、微熱、頭痛で丸二日間、苦しむことになったのでした。

治療のために入院したアーユルヴェーダの病院のドクターに診察して頂き、感染症ではないと言われて、ホッとしたものの、どうしてこうなってしまったのか?はよくわかりませんでした。

原因として考えられるとしたら、デリー空港で国際線から国内線に乗り換える時、時間がかなりあったので、空港内のカフェでインド料理を食べたことくらいでした。

インドの食事やお水には気を付けるように言われていましたが、空港のカフェでの一回の食事で、あんなに酷い目に遭うとは思ってもみませんでした。

3日間絶食の状態が続き、アーユルヴェーダの治療も受けられず、ベッドに寝ながら、何のためにインドに来たのか?を考えると、ワクワクしていた気持ちが次第にしぼんでいくのを感じたのでした。
四日目に、ポリジというお粥が食べられるようになり、少し元気を取り戻し、アーユルヴェーダの治療も受け、夜寝られるようになり、平常心が戻ってきました。

先生には、アーユルヴェーダのパンチャカルマというデトックスメニューの内の二つは、すでに嘔吐と下痢で完了しているので、やる必要はないと言われ、普通は、不味い薬草を飲んで吐くというデトックスをするそうで、不味い薬草を飲まなくて済んで助かった?ことを知り、インド症候群ではかなり苦しみましたが、結果オーライだったことに、“神さまのなさることは、私たち人間には計り知れない”といつも感じていることが、そのまま現実として顕れたので、起こることすべてを感謝の気持ちで受け入れれば良いのだと、再確認することが出来て、とても嬉しかったです。
病院での一日は、朝食のあと、セラピスト(スタッフ)や先生と一緒に、病院前にあるアーユルヴェーダの神様の像に手を合わせ、感謝の祈りを捧げ、お花を供えます。

その後、ドクターの診察、アーユルヴェーダのオイルマッサージなどのセラピーで午前中が終わります。

昼食の後は、夕方にプログラムされているヨガの他は何もすることがありません。

日頃の家事やもろもろのしがらみから解放されて完全に自分一人の時間を持つことが出来ました。

病院生活に慣れるにつれ、病院内のどの部屋にも、一人の年老いた男性の大きな写真が飾られているのに気付きました。

体調が戻ってくると、病院内や病院の外を歩き回る余裕が出てきました。

病院内には、ヨガが出来る部屋と瞑想が出来る部屋がありました。

そこにも、その男性の写真が飾られています。

そして、アーユルヴェーダの病棟のすぐそばに、スワミ・ラーマ・センターという建物があって、現在は、建物の中を見学出来るようになっている、ということを知りました。
そして、やがて、その男性は、この病院の創立者であるスワミ・ラーマ(Swami Rama)というヨーギー(ヨガ行者)であることを知りました。

そして、私が入院したアーユルヴェーダの病院は、スワミ・ラーマが創設したヒマラヤ財団が建立した医療大学と大学病院の敷地の一角にあることも知りました。

そのような予備知識がないままで、そこで治療を受けていたことを少し恥ずかしく感じ、このような立派な病院と医療大学を建てたスワミ・ラーマというヨーギーについて、どんな人なのか?興味を感じ始めたのでした。
インドが排出した多くの聖者と言われる存在は、世界的に有名になっている人もいますが、そうでない人も多くいると聞いていました。

スワミ・ラーマは、日本ではほとんど知られていません。

私は、日本で彼の名を聞いたことは一度もありませんでした。
インドに来てそろそろ一週間が経とうとしていた頃、私は昼間の空き時間は、病院内の整備された美しい庭園の中を散歩し、ベンチに腰掛けて、何も考えず瞑想状態になったりして過ごしましたが、夜は、一人部屋で静かに過ごすことに飽きていました。

パソコンも携帯電話も使えず、話し相手もいないので、眠くなるまでの時間、正直退屈してしまいます。

荷物になるので、日本から読書のための本を持っていかなかったので、談話室にあった書棚の中で、私でも読めそうな本を探しました。

ほとんどの本は、ヒンドゥー語で書かれた本で、スピリチュアルな内容であることはもちろんなのですが、いかんせん、ヒンドゥー語では読みたくても読めません。

そんな中で、一冊の英語の薄い本に目が留まり、惹かれるように手にしてパラパラと中身を見てみました。

著者は、スワミ・ラーマでした!

この病院の創設者であるあの写真のヨーギーでした。

私は、英語の辞書も持っていませんでしたが、その本を読みたいと思い、部屋に持ち込み、その晩からすぐに読み始めたのでした。
その100ページ足らずの薄い本に書かれていたことは、インドの古くからあるウパニシャドの数多くの聖典の中にある“カタ・ウパニシャッド”を題材に、死の国に赴いた賢い少年ナチケータと死神ヤマ(閻魔)とのやり取りから、人間の宿命である“生”と“死”に秘められた秘密が、死神ヤマの口から語られていきます。

生とは何なのか?死とは何なのか?“わたし”とは誰か?何故、人間は人間として存在するのか?など、究極的な永遠の命題、ある意味、哲学的なテーマを、二人の会話を通して、明確な答えが示されていくのを読んで、わからない英単語は飛ばしながらも、そのメッセージのエッセンスに触れた瞬間、止めどなく涙が溢れてきたのでした。
そこに書かれてあった内容は、その本を読んで初めて知る内容ではありませんでしたが、ここまで正確に明快に解説した本に出会ったことはありませんでした。

ナーナさんに出会ってからそろそろ3年になろうとしていますが、その間に、体験を通して得ることが出来た智慧とも言うべき揺るぎない確信があり、それは、私にとっては、たった一つの明らかな“真理”となっていました。

スワミ・ラーマも自らのヨーギーとしての体験を通して得た智慧を、カタ・ウパニシャッドを引用しながら、わかりやすく解説していました。

クンダリニーのこともシャクティパッタのことも書かれていて、読みながら、私はいつしかナーナさんのことを頭に浮かべていました。

ナーナさんが、いつも私たちにやって下さっていることや、語って下さっていることがそのまま、その本に書かれているのがわかるのです。

それが痛いほどわかるので、読みながら、嬉しくて嬉しくて、涙が出てくるのでした。
あまりにその本に感激した私は、あることを心に決め、次の週、主治医の先生に、診察が終わったころ合いを見計らって、突拍子もないことを申し出ました。

この本を日本語にして日本で出版したいということを伝えたのでした。

あまりに突然の話で、主治医の先生は面食らっていましたが、私は、落ち着いてゆっくりと

“スワミ・ラーマの本は素晴らしいです。

この本を日本の多くの人に読んでもらいたいのです。

スワミ・ラーマのメッセージが少しでも世界に広がれば、多くの人がこの本から智慧を得て、人生の目的を知ることが出来ると思います。

そのために、私は何でもしますので、力を貸してくれませんか?

この本を日本で出版する許可が欲しいのですが、どこの誰に連絡したら良いのかわからないので、教えて下さい。”

主治医の先生は、私の要望を聞いて、日本に帰ったらメールすると約束してくれました。

彼もインド人であり、スワミ・ラーマの病院で働く医師であるからには、少なくとも、スワミ・ラーマのメッセージには触れている筈です。

この気持ちが通じれば、きっと助けてくれると信じて、思い切って相談したのでした。私の顔をまじまじと見ながら、“この本が日本で出版されるのは、素晴らしいことだと思う”と言って、日本から来たアーユルヴェーダの治療を受けに来た一人の女性からの突然の申し出を快く受け入れてくれたのでした。
インド滞在中にあまりに素晴らしい本に出会ったので、日本に帰ってきてから、直ぐにそのことをナーナさんにご報告しました。

ナーナさんは、私の話を聞いて、とても歓んでくれました。

本当に実現するといいね、と言ってくれたことがとても嬉しかったです。
ナーナさんは、エナジーで伝えて下さっていますが、まだ“霊性(真我)の目覚め”の入り口にも立っていない人たちには、エナジーだけではわかりにくい部分があると感じています。

私たちのブッディ(理智)が納得するには、ある程度、言葉(智慧)による理解は、“それ”を識る助けになり得ると感じています。

エナジーで100%わかっていけばいいのですが、それにはそれなりのはっきりとした体験が必要です。

体験がないその前段階での言葉による理解は、いざという時の体験への理解を助けると感じます。
自分自身の体験として、40年近くも前に体験したことが、今やっとその体験の意味するところがわかるようになれたのは、多くの聖者と呼ばれる人々が後世の人類に遺して下さった形ある軌跡を、今生きている私たちが一歩一歩辿ることが出来るからだと思っています。

そのような軌跡を遺して下さった聖者の一人であるスワミ・ラーマの書かれた本を日本で紹介出来ることは、歓びそのものです。
主治医の先生は、約束通り、出版権を持っている出版社の担当者と私をつないで下さいました。

そして、インドから帰って一か月も経たない内に、スムーズに話が進み、日本での出版許可を頂くことが出来ました。

今後は、首尾よく、この本がみなさまの手元に届くように、翻訳や製本などの作業に従事していくつもりです。
すべては全体のために。
この本が、少しでも、人類が達する究極のゴールについて、多くの人々の理解の助けとなるならば、幸いです。
何よりも、人類全体の進化のプロセスへの貢献となることを願って、遠い将来でなく、なるべく早期に、“Sacred Journey-Living Purposefully and Dying Gracefully”(聖なる旅―目的をもって生き、恩寵を受けて逝く)を上梓出来るように、全力で取り組みたいと思っています。
ナーナさん、このような役に預かれる歓びは、言葉では言い表せません。

数年前までは、スピリチュアルなことには全く関心がなかった私が、今回、自らが望んで、このような本の出版に携わることなど、誰が予想したでしょうか?
これも流れなのでしょうね。

実際、流れのままに流れている感覚で、自分でやっている感覚があまりありません。

しかし、このような本に出会えたこと、そして、それを日本で紹介することが出来る役を担うことが出来る歓びを噛みしめつつ、己の役を全うしたいと感じています。
本が完成しましたら、また、ご報告させて頂きますね。
3年間、こんな私を見捨てることなく“真理”へと導いて下さった目に見える神さまと目に見えない神さまに、心から感謝申し上げます。
これからも続くあらゆる存在の進化のプロセスに、少しでも貢献出来れば、幸いです。
心から、愛と感謝を込めて。                    

追伸:スワミ・ラーマの本は、一冊だけ日本で出版されています。  
   “ヒマラヤ聖者とともに 偉大な霊性の師と過ごした日々”(ヒカルランド)
ご参考まで。                           Y.Y.

 


Yさん、これは正に本質の流れです!
全く無駄な余地がありませんね。
全体へと惜しみなく愛を貢献しようとする思いが主治医と出版社に伝わったのでしょう。
そこに自分はありませんものね。
本質を揺るぎなく信じて委ねた流れと言えましょう。
Yさんをみていると昨年明の頃からは、一つしかない目指すところの確信をもって一本の道筋の最短の近道を走り抜けてる様が手に取るようにわかります。
そして着々と目覚めのプロセスを歓びと共に生きています。
全ては歓びと悟し、それを生きたとき神が祝福するのですよ。
Yさん、愛をありがとう楽しみです♡
きっと必要な方に届き、人生の目的や究極の領域を理解すると、不安や恐れは消えて穏やかになり、愛と歓びに生きることとなるでしょう。
その先には祝福が待っているのですから。

 

ハートを開くポイントはエナジーの循環です。
エナジーを受け取ったなら、惜しまず自らも流しましょう。
まずはそこからです。
それが歓びのみになったとき、自分はいないと気づくはずです。(ナーナ)』

 

インドで見つけた人生の“宝”-ある一冊の本との出会い|すべては本質の流れのままに

 

 

約一年前に書いた文章を読み返すと、今は懐かしい思いが蘇ってきますが、この時に感じた気持ちは、今も失われていません。

 

一人でも多くの人に届きますように。

 

そして、一人一人が、この本を読み、理解し、実践することで、

古から在る叡智につながり、永遠の至福へと通じる道を歩み始めるきっかけとなりますことを、心より願っております。

 

 

スワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』は、今日発売になりました!

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聖なる旅『目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ 著 | Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

 

 

 滅敵の勇者 アルジュナ

この至上智の道を信じない者たちは

わたしのもとに来ることができず

生死反復の物質界に戻って行く

(バガヴァッド・ギーター第9章3)

 

 

 

神(不死)に至る無限の道

束縛からの解放、限りない永遠の至福、個我が求めてやまない完全なる自由を求めて、

人間が、持っている限りの能力を用いて、実践できる方法とはどんなものでしょうか?

 

これまでもご紹介してきましたよく知られている実践方法を、ここでもう一度整理してみましょう。

 

 

『不死の大海に行く道は無限にあってね、何はともあれ、この海に行き着きさえすりゃいいんだ。

甘露をたたえた池があると思ってごらん。

どんな方法ででも、この甘露を口に入れさえすりゃ、不死になるんだ。

自分で飛び込んでもいいし、石段をゆっくりゆっくり下りていって、手ですくって飲んでもいい。

誰かに押されて入ってもいい。

結果は一つだ。

あの甘露を一しずく味わえば、不死になるんだよ。

無限の道ーーその中に、智識、行為、信仰などの道がある。

この道を誠実に歩いていけば、神に至る。

大ざっぱに分ければ、ヨーガには三つの種類がある。

智識(ジュニャーナ)のヨーガ、行為(カルマ)のヨーガ、信仰(バクティ)のヨーガ。

 

智識(ジュニャーナ)のヨーガーー智識の行者はブラフマン(原理)を覚ろうとする。

これではない、これでもないと分別判断してゆく。

ブラフマンは実在、宇宙原理は幻影だと見極める。

真実と虚偽を判断する。

分別の極まるところで三昧に入り、ブラフマン智を得る。

 

行為(カルマ)のヨーガーーこれは働きを通じて神に心を結びつける。

求める心なく呼吸統御(プラーナーヤーマ)や瞑想(ディヤーナ)をするのもカルマ・ヨーガだ。

普通の社会生活をしている人が無執着の心で働き、その結果を神に捧げる。

あの御方を信仰してこの世の仕事をする。

こういうのもカルマ・ヨーガだ。

果報を神に捧げて礼拝称名などの宗教的行事をするのもカルマ・ヨーガだよ。

神を体得(つか)むのがカルマ・ヨーガの目的だ。

 

信仰(バクティ)のヨーガーーこれは神の御名と栄光をとなえることによって、心をあの御方に結びつける。

現代のような末世では、この信仰のヨーガが無理のない自然な道だ。

信仰のヨーガこそ現代の宗教だ。

カルマ・ヨーガは大そう難しい。

前にも言ったが、そういうことをする時間がどこにある?

聖典に書いてあるような勤行をするヒマがどこにあるかね?

この末世では人間の寿命は短いんだ。

その上、無執着で果報をアテにしないで働くなんてことは、全くもって難しいことだよ。

神を覚らなければ、真に無執着の心にはなれない。

お前たちは気づかないかもしれんが、何処からともなく執着の心が忍び込んでくるものだよ。

 

智識のヨーガも現代はとても難しい。

先ず第一に、人は食物なしにはこの世に生存できない。

それに寿命が短い。

その上、肉体意識がどうしても無くならない。

肉体意識が無くならない限りは、完全な智識は得られないんだからね。

智者はこう言うーー『私はブラフマンだ。

私は肉体ではない。私は飢え、渇き、病気、悲しみ、誕生、死、幸福、不幸、こういったものすべてから超越している』と。

もし、病気が哀しみや幸不幸などを感じているとしたら、お前は智者というわけにはいかないよ。

手に釘がささって血がだらだら流れてものすごく痛いのに、それでもこう言っているんだよーー『ナニ、釘なんかささっていない、私はナンでもないよ』と」

 

「だから、現代は信仰のヨーガだ。

これで他の道を通るより楽に神様のところへ行ける。

智識や行為や他の道を通っても勿論、神様のところへ行けるよ。

でも、他の道はとてもとても苦しい道なんだよ。

信仰のヨーガは現代のための宗教だ。

が、このことは、信仰者はある場所へ行き、智者と行為者はまた別な場所へ行く、という意味ではない。

ブラフマン智を求める人は、信仰の道を通ってもその知識が得られる、ということだ。

信者思いでやさしいあの御方は、お気持ち次第でブラフマン智を与えてくださるんだよ。」 

 

「信仰者(バクタ)というものは、神のお姿を見たいと思い、またその御方とお話をしたいと思っていて、たいていの場合はブラフマン智を求めないものだ。

しかし、神はしたいようになさる御方だから、その気になれば信者をご自分の力と富すべての相続人になさる。

つまり、信仰も授けてくださるし、智慧も授けてくださる。」

 

「普通の社会生活をしながら神を呼び求める人こそ、雄々しい信者だよ。

神様はこうおっしゃるだろう--『出家したものが、わたしに祈ったり仕えたりしたとて、それは極く当たり前のこと。

もしそうしなければ、人はみな、”チェッ、チェッ”と舌打ちするだろう。

だが、世間の真っ只中にいてわたしに呼びかける人ーー何十貫もの大石を押しのけながらわたしを見ようとする人こそ祝福してあげよう。

そういう人こそ、雄々しく高貴な魂なのだーー彼こそ真の英雄だ』と」

 

「蟻のようにしてこの世に住め。

この世には永遠なるものと一時的なはかないものとが混ざっている。

砂と砂糖が混ざっている。

蟻になって砂糖をとれ。

この世は水と牛乳がいっしょになっている。

至高精神の歓喜と世俗(五官)の快楽とだ。

白鳥のように水を分けて乳を飲め。

また、水鳥のようにねーー体に水がかかっても弾き返すだろう。

それから、泥魚のように!

泥のなかに住んでいても、体はいつも清らかに光り輝いている。

ごちゃ混ぜの中に、よく見ると正しいものがある。

ニセモノをすてて、ホンモノをつかめ」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

この世は、玉石混淆、砂と砂糖が混じっています。

その中から、本物と偽物を選別するには、識別力(ヴィヴェーカ)が必要です。

この識別力については、別の機会にご紹介させて頂きます。

 

また、同じく、インドが排出した20世紀の偉大なるヨーギーでいらっしゃいますスワミ・ラーマが書かれた『聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』には、このように書かれています。

 

 

『ナチケータは、選択の機会を与えられました。

彼は、すべての最も偉大なものであるこの世にある富、力、感覚的な喜びなど、をそこで提供されました。

彼は他のものを選択しました。

世俗的な楽しみを選ぶことは、死と生の終わりのないサイクルにおいてもうひと回転することを意味するでしょう。

それぞれの楽しみにおいては、一瞬の喜びがあり、苦痛の流れが続き、失うことへの恐れが続き、遂には死が続くことでしょう。

それぞれの世俗的なものは変化し、死にます。

人々は、これらの楽しみから苦痛を感じますが、それでもなお、彼らはこれらのものが次には、最終的には、平和と幸福をもたらしてくれると信じ続けます。

この信念は、ナチケータが知ったように、人々を楽しみの次元である、生きて、願望し、恐れ、そして再び死ぬ次元に、何度も何度も引き戻します。
カタ・ウパニシャッドは、〝愚か者は、外側の楽しみを求めて走り、広範囲に取り巻
いている死の罠に落ちます〞と言っています。

聖書の申命記の古い神は、はっきりと言っています。

〝私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。

あなたはいのちを選びなさい。
死なないものを選びなさい。

それが神秘への解決法です。

アートマンが答えなのです。
挑戦はアートマンを見つけることです。
この世のものは、楽しまれるようになっています。

それらは永続しないので、それらに執着することは賢明ではありません。

この世のものを楽しみなさい。

それからそれらを行かせなさい。

それらにあなたの人生を通過させなさい。

人生のすべてを抱擁し、人生のすべてを理解しなさい。

しかし、智慧をもってそれを成し、叡智に向かって動きなさい。

この世の生は目的ではなく、手段なのです。
うまく人生を生きることは、技術です。

それは智慧だけでなく、勇気をも必要とします。

〝この人間の永遠でない現実への束縛は〞とシャンカラは言いました。

〝武器によって、風によって、火によって、あるいは何万という行動によって破壊されることはない。
叡智の鋭い剣以外のものは、この束縛を切断することはできない。

それは識別力により鍛えられ、神聖なる恩寵を通して、心の純粋さにより作られる〞
人生は、短く特別です。

対象物と誘惑の鼠籠の中のここで、あなたの時間を浪費してはなりません。

楽しみを追い駆けないことです。

霊的な成長のためにこの世のものを使いなさい。

それが、人生を選択するということです。
ゴールはアートマンです。

ウパニシャッドのメッセージは、ただひとつが在る、ということです。

すべてはひとつです。

この世のものに対して願望を持つことは、ひとつを多くに変えます。

ヤマはナチケータに語りました。

〝多くを見て、ひとつを見ないものは、死から死へと彷徨う〞
選択とは、神か富か、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望
か、ということです。

ひとつの選択は、永遠の生であり、他の選択は、死から死を意味します。

それが奥義なのです。」

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

 このことは、世俗を生きている人間には厳しく聞こえるかもしれませんが、

これは理解しようとしまいと、そして、信じようとしまいと、

神が決められた決め事であるこの世の法則(永遠のダルマ)なので、どんなことがあっても、変わることはありません。

それを素直な気持ちで受け入れ、それに従えるかどうか、というところが、神への道、永遠の自由への道、限りない至福への道への分岐点となると言えるでしょう。

 

 

スワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』は、明日の3月30日発売です。

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聖なる旅『目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ 著 | Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

 

 

死の時が来て肉体を離れるとき

わたしだけを憶念する者は誰でも

まっすぐにわたしの所に来る

ゆめゆめこのことを疑うな

(バガヴァッド・ギーター第8章5)

 

 

 

束縛からの解放から限りない永遠の至福へ(パラマーナンダ)

 前回の記事では、神を悟る人の性質(グナ)について整理してみました。

そして、永遠の魂、解脱した魂、解脱しようと努力している魂、縛られた魂という4種の魂についての聖ラーマクリシュナの分かり易いお言葉をご紹介いたしました。

 

今回は、その続きです。

 

そして、人は、この縛られた存在から解放されると、どうなるのか?ということも併せてご紹介したいと思います。

 

「この世に執着した”縛られた人”は、死ぬときにもこの世のことしか話さない。

うわべだけ数珠を繰って称名したり、ガンジス河で沐浴したり、聖地巡礼に行ったりしたって、いったい何になる?

世間への執着が心の中に巣くっているから、死ぬときだってそれが表に出るんだ。

無意味な、阿呆みたいなことを口走る。

ウワ事にも、『ウコンの粉、七味とうがらし、月桂樹の葉!』なんて叫ぶんだよ!

オウムは何でもないときは人間の口真似をして、ラーダー・クリシュナ、ラーダー・クリシュナなんてさえずっているが、猫に捕まったときは本来の声を出して、キャーア、キャーアと鳴く。

ギーターには、『人は死ぬとき心で思ったものに次の世でなる』と書いてある。

バーラタ王は『鹿、鹿」と思って捨身したので次の世には鹿に生まれた。

神様のことを考えながら死ねば、必ず神様のところへ行ける。

もう二度とこの世に戻って来る必要はないんだ」

 

「先生、ほかのときには神のことを考えていたのに、あいにく死ぬときに考えなかった、という場合は、またこの幸と不幸が錯綜したこの世に戻ってこなくてはなりませんか?

以前にはたしかに神のことを思っておりましても?」

 

「人は神のことを考えるが、神を信じないからまた忘れてしまうんだ。

世間に執着しているんだよ。

もし人が死ぬとき神を思っていれば、心が清まって、もうその人の心は女と金に執着する機会がなくなる。

神を信じないから、こんなにいろいろ沢山の悩みや苦しみがあるんだよ。

ガンジス河で沐浴しているときは、罪は本人から離れて岸辺の樹の上にとまってるそうじゃないか。

沐浴を終えてお前が岸に上がってくるや否や、罪の鳥はお前の肩に舞い戻ってきて、そのまま居座るんだよ。

捨身(死)のときに神を思っていられるように、前もって準備をしておかなければいけない。

その方法は--訓練(アビヤーサ)のヨーガだ。

神を想うことを繰り返し繰り返し訓練しておけば、最後の日にもあの御方のことを思い出せるよ」

 

「神様はね、人間を誘惑するために富をお与えになるんだよ。

富はすべてマーヤーなんだが、本当の神の信者は、この魅惑的なマーヤーには惑わされない。

マーヤーの主にしてあらゆる力の権化である神だけを求めるんだよ。

人は富を得て金持ちになると我執が大きくなり、支配されてしまうんだ。

またこの我執によって、欲望、怒りなどが頭をもたげる。

これによって人間は堕落してしまい、真実を悟る道が防げられるんだよ。

ある時、人間の体で、目や耳、口などの感覚器官が激しい口論を始めた。

各自が、『自分が一番で、自分がいなけりゃ、他の者は何の役にも立たない』と言うんだ。

こんなふうだから、彼らは一人ずつ体から出て行ってしまった。

道でよく見かけるだろうーー盲人、耳が聞こえない人、口がきけない人。

でも、これでもわかるだろう。

何か一つ感覚器官が機能しなくたって大丈夫だってことがーー。

後になって、感覚器官がなくても体は機能することが分かった時、彼らの高慢は粉々になって恥ずかしくなり、また体に戻ってきた。

それから、アートマンが体から去って行ったとき、彼ら(体の部分)は取るに足らぬものだということが分かった。

アートマンこそ、感覚の源なんだよ。

このアートマンは目に見えなくとも、みんなの内に存在する。

人間のハートがアートマンの存在する場だ。

人間もまた自惚れて、『この私がしたんだ!私は、これこれの者なんだぞ!』なんて言う時も、アートマンが存在するところ(ハート)を指すだろう?

でも、これは無意識でしていることで、それをちゃんと悟らないことには分かりっこない。

アートマンを悟って、”我はアートマンである”という叡智を得て初めて、その者は自我(エゴ)から解放されるんだよ。

たとえまだ自惚れがあったとしても、”我はアートマンである”と、アートマンを誇りに思ってのことで、こうした自惚れには害はないんだよ。

プラーラプタ・カルマ(前世で行ったカルマの結果)によって、人間はこの苦悩に満ちた世界(サンサーラ)に生まれてこなければならない。

カルマの果実の重さで、人間の頭は垂れているんだよ。

もし、人間が望むのなら、このカルマの果実からごく簡単な方法で逃れられるよ。

信愛(バクティ)を持って、真剣に朝夕、神様に頭を下げて礼拝するとしたら--例えばね、その重荷は頭から落ちてしまうよ。そんな感じだ。

 

だからね、お前たちに言うんだよ。

どんな方法でもいいからあの御方を悟るんだよ。

あの御方に完全にお任せをする。

また、泣いて、泣いて心の汚れを落とす。

純粋な愛をもってあの御方を悟る。

どんな方法でもいいんだ。

それすれば全てわかるよ。

いいや、あの御方が分からせてくれるよ。

そうなれば、もう彼の全てを忘れさせるマーヤーに魅せられることはない。

その時、彼の恩寵で、富とは神のマーヤー(まやかし)、非現実であるということが分かるよ。

その時、神は無限の普遍的存在であるということを悟って、喜ぶんだよ。

限りない無限の喜びだ。

この喜びはね、地上での感覚が知っている喜びではないんだよ。

世俗の喜びは、最後には不幸と虚しさをもたらすものだ。

でもね、神を悟った後の喜び、それは決して消えない至福だ。

その至福がまた至福を連れてくる。

その至福とは、初めもなく終わりもない。

神は無限なんだから。

だから、神を悟った至福もまた無限なんだよ。

限りない永遠の至福、至高の喜び、パラマーナンダだ!」

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

束縛からの解放は、限りない永遠の至福であり、

それこそが、個我が求めてやまない完全なる自由と言えます。

 

次回は、この道を辿るにはどうしたら良いのか?について、もう少し詳しく見ていきましょう。

 

 

 

解脱した人は感覚の快楽や外物に関心なく

常に内なる真我(アートマン)の楽しみに浸っている

真我実現の人は心を至上者(ブラフマン)に集中して

限りなき幸福を永遠に味わっている

(バガヴァッド・ギーター第5章21)

 

 

神を見る人の性質(グナ)について

人間の真の本性であるアートマン(真我)は、体験を通して悟って行くことでしか、知ることはできない、と書いてきました。

 

しかし、これは、望めば叶うという類のことではないため、真我体得し得た人々は、これまでも少数でしたし、これからもそれは変わらないでしょう。

厳しく聞こえるかもしれませんが、これは認めざるを得ない事実です。

 

ナーナさんという神の恩寵が形となって現われていても、それを信じられないという反応の方が一般的であるならば、

この世の仕組みも、生と死の秘密もわからず、実在と非実在の違いも理解できず、アートマン(真我)、神に出会っていくことも不可能でしょう。

 

昔からインドでは、神を覚って行けるかどうかは、人の生まれつきの性質(グナ)に依る、と言われています。

 

人間には、3つの性質(グナ)があるとされていますが、

今回は、この3つの性質(グナ)について、聖ラーマクリシュナが、非常に分かり易い例えで解説して下さっていますので、ご紹介させて頂きます。

 

 

聖ラーマクリシュナ

「それはそうと、自己中心性や我執高慢は智識から生じるものか、それとも無智から生じるものか、どっちだと思うね?

我執ははタマス性で無智から出てくるものなんだよ。

この我執というじゃまがあるから、神が見えないのさ。

”ワタシが死んだら、悩みはすべてなくなる”のさ。

我執は無益だ。

この体、この富や権力、どれほども続きはしないよ。

一人の酔っ払いがドゥルガーの神像を見ていた。

お像のいろんな飾りを見てこう言った。

『マー、どんなにきれいに飾っても、二日三日したら、あんたはガンジス河に投げ込まれるんだよ(ドゥルガー祭のときには、美しく飾った大きなドゥルガー女神の張りボテを作って祀り、祭が終わるとガンジス河に浸す)』

だから、いつも皆に言うんだ。

裁判官サマだろうと何サマだろうと、みんな二日ばかりの命だと。

だから、身勝手なことや我執高慢を捨てろと」

 

「サットヴァ(善性優位)、ラジャス(活動優位)、タマス(暗性優位)の三性(トリ・グナ)は異なった性質だ。

タマス性の人の特徴は我がまま、眠り好き、大食、色情、怒り。

ラジャス性の人は多くの仕事に自分をまきこむ。

着るもの、履くもの、すべてきれいでキチンとしているし、家は隅から隅まで掃除が行きとどいているし、応接間にはヴィクトリア女王肖像画がかけてあるし、神様に関係のある行事のときは絹織物の衣装を着て、首にじゅず菩提樹の数珠をかけーー数珠玉のところどころに純金の玉が入れてあるんだ。

もし誰か知人が参拝にくれば、最初から終わりまでいっしょについて歩いて寺院のことを説明し、『こちらへおいで下さい、まだございますよ。

白い石の大理石の床もありますし、精巧な彫刻を施した舞堂もあります』

寄付をするときは、なるたけ人に知られるようにする。

サットヴァ性の人はとてもおだやかで落ち着いている。

着るものはどんなものでもいい。

質素な食べもので、腹を満たすだけ稼ぐ。

人にへつらってまで金を手に入れようとはしない。

家の手入れもろくにせず、子供の服装の心配もしない。

名声や評判なども気にかけないし、神のことを考えたり慈善をしたりする場合も、人知れずこっそりするし、蚊帳の中で瞑想したりするから、ほかの人はそれと気付かない。

サットヴァ性がハシゴの最後の段だ。

そのすぐ上が屋根。

サットヴァ性が出てきたら、神をつかむのはそう遠くない。--もうちょっと進めば、あの御方のところだ。

ごらん、それぞれが生まれつき大そう異なった性質をもっているんだよ!

 

それに、まだ他にもいろいろな種類があるんだよ。

永遠の魂、解脱した魂、解脱しようと努力している魂、縛られた魂ーーというふうに、この世にいる人にはいろんな段階があるんだ。

”永遠の魂”は、大きな汽船のようなものさ。

自分もむろん向こう岸へ渡るが、そのほか大勢の人や動物、象までも乗せて渡れる。

永遠の魂は管財人と同じで、一つの土地財産を始末すると、また別のものを整理しに行く。

それから、”解脱しようと努力している魂”があって、彼らは世間の網から逃れ出ようと命がけで努力している。

その中で一人か二人が首尾よく抜け出せるのだが、それが”解脱した魂”だ。

”永遠の魂”は利口な魚のようなもので、最初から決して網にかからない。

 

しかし、縛られた魂ーー世間一般の普通の人ーーあの連中は正気じゃないんだよ。

網にかかって身動きが出来ないほどなのに、まるでそれに気が付かないのさ。

神の話をしている場所にでくわすと、すぐ立ち去って行く。

神の名なんぞ死ぬときだけでたくさんだ、と言ってね。じゃ、その死ぬときはどうだ?

死の床に横たわって女房や息子たちにこんなことを言っているーー『どうしてランプに何本も芯を入れとくんだ?一本でたくさんだよ。油が無駄になるじゃないか』

そして、女房や子供たちのことを思って泣くーー『ハェ!おれが死んだら、これたちはどうなるんだろう!』それから、縛られた魂は悲しい苦しい経験を性懲りもなく繰り返す。

子供が死んで悲観にくれていたのに、また毎年のように子供をつくる。

娘の結婚のために破産するほどの目にあっても、また毎年のように子供をつくる。

そして言うことがこうだ--『だって仕様がないでしょう。こういう運命なんですもの』」

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

このようなブログを興味を持って読まれている方々は、3つの性質(グナ)の内、サットヴァ性であると言えるかもしれません。

 

見神には、サットヴァ性であることは、不可欠です。

 

しかし、この性質(グナ)は、生まれつきのもので、後天的に変えることはできません。

 

ある意味では、永遠の魂、解脱した魂、解脱しようと努力している魂、縛られた魂は、生まれたときから決まっている、と言えるでしょう。

 

そうとは言え、この変化が常である無常なる二元世界では、未来がどう変化するかは、誰にもわかりません。

 

解脱を望むのであれば、今生の「いまここ」で、そのための努力をすることは、まだ来ていない未来を変えることにつながります。

 

人間には、未来を変える力があるのです。

 

それは、これまでも何回も書いてきましたが、人間の本性は、本当は「神」なのですから、

「神」が「神」に還っていくことに、「神」の力が無限に働いたとしても、何も不思議ではありません。

 

このことを心の底から信じて、努力する人のみが、「人間」から「神」に還って行くことができる、と言えるでしょう。

 

 

 

 無恐怖 清らかな生活

霊的知識の養成 研究 慈善

自己抑制 供犠 経典・聖典の学習

性的清浄 簡素な生活

 

非暴力 正直 怒らぬこと

離欲 平静 他人の欠点を探さぬこと

口煩さく小言を言わぬこと 生物に思いやりをもつ

物事を熱望しない 柔和 謙遜 果断  

 

気力充満 寛容 不屈 清潔

羨望心や名誉欲がないことーー

アルジュナよ 以上のような高貴な性質は

神に向かう人々に属するものである

(バガヴァッド・ギーター第18章1-3)

 

 

 

アートマン(真我)への道は、永遠の至福への道

アートマン(真我)は、人間の真の本性である」と書きましたが、

そのことは、知識(頭)で理解するのではなく、体験を通して悟られなくては、真にわかったとは言えません。

 

”ミルクは、その話を聞くだけでは知ったことにならず、見ただけでもまだ十分ではなく、飲んで初めてミルクを知ったことになる”と聖ラーマクリシュナは語っています。

 

それでは、今回は、アートマン(真我)について語っている聖ラーマクリシュナのお言葉をご紹介させて頂きます。

アートマン(真我)こそが、人間の真の本性である、とヴェーダ聖典には書かれています。

 

先ずは、アートマン(真我)とは、どのようなモノか?について知らなくては、一般人が、それを見て、そして体験していく、というプロセスには発展しにくいでしょう。

 

 

聖ラーマクリシュナ

『チャイタニヤ様には三つの境地がおありだったーー

第一は外の境地ーーこのとき粗大なもの(粗大体)や微細なもの(微細体)に心が向いていた。

第二は半外半奥の境地ーーこのときは心は原因体に入って、その歓喜に浸っていた。

第三は深奥の境地ーーこのときは心は大原因に引き込まれていた。

ヴェーダンタの”五つの鞘”と、これはとてもよく一致するんだよ。

粗大体というのは物質鞘(食物鞘)と生命鞘(プラーナ鞘)にあたる。

微細体はつまり、精神鞘(意思鞘)と覚智鞘(理智鞘)にあたる。

原因体は歓喜鞘だ。

大原因は五鞘を超越している。

大原因に心が入ると、つまり三昧だ。

これはニルヴィカルパサマディ(三昧)とかジェダサマディ(三昧)と呼ばれている。

チャイタニヤ様は、”外の境地”のときは称名したり讃神歌をうたったりなすった。

”半外半奥の境地”のときは信者たちといっしょに踊りなすった。

”深奥の境地”のときは三昧にお入りになった」

 

アートマン(真我)は肉体ではないという証拠は何でございますか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「しょうこ?

神は見えるんだよ。

修行をすれば、あの御方のお恵みによって見神できるんだ。

リシ(賢者)たちはアートマンを直視なすった。

サイエンスでは神の実体を知ることはできないよ。

あれはただ、コレのなかにアレを混ぜるとこういうものになる、アレとソレをいっしょにすればコレができる、というようなすべて感覚でとらえられることがわかるだけーー。

だから、科学を理解する知性だけでは、それ以上の問題を覚ることはできないんだ。

サドゥ(行者)と交わることだ。

医者について歩き廻っていると、いつの間にか脈の抑え方がわかってくる。

 

行が必要だよ。そうすりゃ本質がつかめる。

聖典の文章を暗記しても何にもならん。

シッディ、シッディ(お神酒)と口で言うだけじゃ酔いはしないだろ。

シッディを飲まなけりゃだめだ。

神を見る話を人に分からせることはできないよ。

五つの子供に、夫婦間の歓びの話を分からせることはできないだろう?」

 

「おっしゃる通りでございます。

・・・・ときに、真我発見は、どんな方法で出来るものでしょうか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「真我を見る方法は一心不乱になることだ。

見も心も言葉もいっしょになって、あの御方に届こうと努力することだよ。

胆汁が多くなると、黄疸にかかってあらゆるものが黄色に見える。

黄色以外はどんな色も見えなくなる。

お前たち役者のなかで女の役ばかりしている者は、女のような性質になるものだよ。

女の子ことばかり考えていると、気持ちの態度も女のようになる。

それと同じように、夜となく昼となくあの御方のことばかり考えていると、あの御方自身の性質が自分のものになるんだよ。

心をある色に染めると、そっくりその色になる。

心は洗濯屋にある衣類だ。

先ず心を清め、その次に神への思いに向けておく。

そうすりゃちゃんとその色になる」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

アートマン(真我)を探求していく道を辿る人は、極少数かもしれませんが、

ナーナさんが、今月30日に発売になる本『聖なる旅-目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』の帯に寄せて頂きました

 

「この本を読み理解し実践することで、アートマン(真我) への長い旅を短縮することができます。

それは叡智への近道であり至福に満ちた道です。

アートマンは実在であり永遠の歓びです。

アートマンは、真の実在であり、永遠の至福なのです」

 

というお言葉を心に留め、共に、永遠の至福への道を歩んでまいりましょう。

 

 

 

スワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』は、3月30日発売です。

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聖なる旅『目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ 著 | Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

 

 

わたしが至上主であると知る者は

迷わぬ者であり 全てを知る者である

アルジュナよ 彼は全身全霊をもって

わたしを礼拝し わたしに仕えるのだ

(バガヴァッド・ギーター第15章19)

 

 

 

 

アートマン(真我)は、人間の真の本性である

これまで数回にわたり、古くインドに誕生したウパニシャッド聖典で説かれている「人間馬車説」と「人間五臓説」について、現代脳科学の知識も交えて解説してきましたが、

これらの記事を読んだ後で、3月17日の記事「ヨーガとは心の制御である」でご紹介したスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」から、心の四つの器官について書かれている文章をもう一度読んでいただけると、更にその記事の内容が、よく理解できることと思います。

 

アートマン(真我)という実在の源泉からプラグが、アハンカーラ(我執)という「わたし」「わたしの」という意識と記憶袋(チッタ)が詰まっている脳の司令塔に差し込まれると、エネルギーが流れ、「わたし」という体と心の司令塔は機能します。

そして、理智鞘にエネルギーが流れると、大脳皮質は、運動命令を下し、体が動きます。

意思鞘にエネルギーが供給されると、感覚器官が働き、五感を通して、この世をリアルなものとして体験します。

生気鞘にエネルギーが流れると、体全体が生気を帯びたものとなります。

肉体にエネルギーが届くと、細胞は死滅と再生を繰り返しながら、物質としての維持管理が行われ、生命が宿る器として機能します。

 

これが、大まかな私たち人間の人体構造図なのですが、アートマン(真我)あってこそ、個人の「わたし」が存在するのです。

 

この世を体験しているのは、10頭立ての馬車である「わたし」という人間ですが、

実は、それは見せかけであって、その最奥にあって「わたし」を在らしめているのは、アートマン(真我)なのです。

 

「わたし」という意識(感覚)であるアハンカーラ(我執)からは、アートマン(真我)は見えない(わからない)ため、

この世に存在し、この世を体験しているのは、「わたし」という一人の人間である、と「わたし」は思い込んでいます。

 

この人間の生まれた時からの思い込みは、人間という形をして生まれてきたため、人間は、人間の性質を生得しているので、自然なものなので、当たり前です。

しかし、人間として生まれ、人間として生き、人間として死ぬ、というのでは、

それは、これまで何回も繰り返されてきたように、これからも同じことが繰り返される、ということを示唆しています。

 

生と死を避けることができない人間は、この繰り返しを一つの束縛をみなし、それからの解放、自由を求めて、生と死の繰り返しから抜け出ること、所謂「解脱」が、魂の最終目的になったのです。

 

それでは、そのためには、どうしたら良いのか?という解決策へのヒントを、スワミ・ラーマからアドバイスして頂きましょう。

 

 

『あなたの中にはアートマンがいるという感覚でプロセスを始めなさい。

そうすれば、あなたはアートマンを感じるようになり、それはあなたの最良の友人であるということがわかるでしょう。

あなた自身と会話をしなさい。あなたの真の本性を思い出しなさい。

あなた自身と語り合いなさい。

そうすれば、外界において、或いは、他のどこかの場所においても、すべての友人の中で最も良い友人は、あなた自身であることを発見することでしょう。

外の世界や他人、状況への恐れは、消滅することでしょう。

そのとき、アートマンの存在が、次第にそれ自身を明らかにすることでしょう。
この会話は内省を必要とします。

自らの人生に興味を持っている親しい友人と一緒だと、あなたは彼らの感情に敏感になります。

あなたは彼らに耳を傾けます。

同じことがあなた自身との関係においても真実なのです。

あなた自身の感情と思考に注意を払い、詳しく調べなさい。

あなたが親友にするように、あなた自身に優しくしなさい。

あなた自身を非難、あるいは、すぐに厳しい判断をしてはいけません。

あなたはあなたの内側の自己を信頼し始め、あなたの内側の自己がいかに素晴らしいガイドであり、忠実で誠実な連れ合いであるかを理解することでしょう。
最後に、心を静かにすることが必要です。

最初の方で言ったように、マナスが訓練されず、エゴが制御されていないままだと、心は荒れ狂い、制御不能となります。

同時にチッタの内容は膨れ上がり、意識の中に表面化し続けます。

個人はこの混沌の奴隷となり、常軌を逸した感情と強力な願望の鎖で引っ張りまわされます。
この混乱は静められなくてはなりません。

静けさは瞑想で築くことができます。

人の体が静かで呼吸が静かで規則正しいなら、心は集中し始めることができます。

集中が保たれると、顕在意識はだんだんと静かになり、心の明晰さがより深くなっていきます。
この種の瞑想が達成されると、心をきれいにし、古い願望や思考、恐れの心を空にし、
完全にブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタを統合するという真の仕事が始まりま
す。

完全なる統合により、心は、純粋意識はあらゆるところに在り、君主であることを
理解します。

そのとき、心は、すべての力と権威は命の源である純粋意識から生じていることを理解するので、降伏します。

エゴは消滅し、死は打ち負かされます。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

スワミ・ラーマの『聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く』は、3月30日発売です。

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聖なる旅『目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』スワミ・ラーマ 著 | Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜

 

 

 

物質と霊の本性を学んで

真理を徹見した人びとは

非実在は一時的に現象(あらわれ)ても持続せず

実在は永遠に存在することを知る

(バガヴァッド・ギーター第2章16)