永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

人間五臓説と5つの鞘(層)

少し前の記事で、「人間馬車説」という”人間の構造図”についてご紹介しました。

この「人間馬車説」に似たもので「人間五臓説」というものがあります。

 

「人間馬車説」は、10頭の馬を5つの感覚器官(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)と5つの運動器官(手、足、舌、生殖器官、排泄器官)に見立てて、

馬と、馬を操縦するための手綱であるマナス(意思)と、御者であるブッディ(理智)という働きの違う二つの心理器官との三者の関係を解説したものですが、

「人間五臓説」は、これに似ていますので、関連して考えると分かり易いと言えます。

 

今回の記事の内容は、ヨーガの科学とも言えるものですが、それを現代医学の脳科学の分野で明らかになっている情報と照らし合わせて考えてみたいと思いますので、

いつもより、難しい内容になるかもしれませんが、

脳科学は、20世紀の終わりから21世紀にかけて発達した学問分野であり、ヨーガが誕生した何千年も前のインドにはなかったわけで、

そのために、人間の内部で起きている現象を、その当時にあった言葉で説明するしかなかったということもあり、非科学的な説明に思われるかもしれませんが、両者を比較して考えてみると、

ヨーガの科学で説かれていることと、現代の脳科学で明らかになっていることは、そのほとんどが一致しているということが、おわかり頂けるかと思います。

 

それでは、この「人間五臓説」とは、どんなものか?について、スワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」から、ご紹介いたします。

 

 

ヴェーダンタによると、人間は 5 つのコーシャという鞘(さや)から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、 5 つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

ここで述べられている物質的な鞘(食物鞘)とは、食べ物により成り立っている肉体のことであり、「人間馬車説」でいうところの10頭の馬(5つの感覚器官と5つの運動器官)になります。

 

そして、次の内側の鞘はプラーナ鞘(生気鞘)と呼ばれるもので、呼吸により運ばれる酸素により成り立っている鞘で、これは物質よりも微細な領域であり、現代の医学的な見方では、肉体よりも動きのある流動体であり、血液やリンパ液、間質液などの体液と考えられ、身体の中を流れる「気」である生体エネルギーを生んでいるモノの総称と考えられます。

 

肉体は、運動神経の命令により動きが生じますが、生体エネルギーは、運動神経とは無関係に、自律神経により制御されています。

そして、このプラーナ鞘(生気鞘)は、「人間馬車説」では、やはり10頭の馬に相当し、馬の息(生気)と考えると理解しやすいと思われます。

 

更にその内側は、心の鞘(意思鞘)で、これは、「人間馬車説」の馬につながっている手綱であるマナス(意思)であることは言うまでもありません。

現代生理学の観点から見ると、この「意思鞘」は、感覚神経、運動神経という、体の各部分から脳へ情報を運ぶ神経経路と、脳から情報を体の各部分へ運ぶ神経経路とそこを流れる電気信号、及び、その電気信号を感覚に変換する脳の働きを含む一連の流れと考えることができます。

 

そして、更にその奥には、理智鞘があり、これは「人間馬車説」で言うところの御者であるブッディ(理智=大脳(新)皮質)であることは明白でしょう。

手綱であるマナス(意思)を伝わって脳に到達した電気信号は、御者であるブッディ(理智)に情報を伝え、ブッディ(理智)は、その情報を判断し、適切な対応を下し、それを手綱であるマナス(意思)に伝えます。

これは、大脳生理学的に見ると、感覚の情報は電気信号となって脊髄を上昇し、視床を経由して大脳皮質の体性感覚野に到達し、電気信号は、適切な処理を経て、感覚に変換されます。

一方、御者(ブッディ)より発せられた運動指令は、運動神経という手綱(マナス)を通って、5頭の馬に伝達され、それにより体に動きが生じます。

この一連の流れは、大脳皮質の連合野にある”企画・立案”をする高次運動野から一次運動野に送られ、そして大脳基底核を経て、小脳により詳細なプログラミングが行われ、脳幹、脊髄を通って、筋肉へと伝達されます。

 

この感覚神経と運動神経を体性神経と呼びます。

これは、「人間馬車説」では、マナス(意思)とブッディ(理智)の二つの心理器官を指しますが、

「人間五臓説」では、脳内の働きの部分だけを「理智鞘」とし、脳外の働きの部分については「意思鞘」としていると理解することができます。

 

そして、脳内の働きに関係しているのが、脳内神経伝達物質と呼ばれている化学物質です。

これは、別名、脳内ホルモンとも呼ばれ、近年特に注目を浴びている化学物質ですが、

この神経伝達物質により、脳内の各部位は働きは活性化し、体にある内分泌腺からホルモンを分泌するよう促すホルモンを分泌することで、主に自律神経の働きに関与し、感情の発生や体を一定の状態に保つ恒常性(ホメオスタシス)の維持に関与しています。

 

最も内側の鞘は、歓喜鞘と呼ばれるもので、これは、「人間馬車説」のアートマンが座していらっしゃる客室になります。

この客室は、心素である「わたし」「わたしの」という我執(アハンカーラ)である自我意識と記憶の倉庫(チッタ)でもあります。

アートマンは、常に、エネルギーを「わたし」という心素(アハンカーラ)に送り続けて、「私が存在する」という自我意識を生み出しています。

そして、体験したことを記憶袋(チッタ)の中に蓄積していきます。この記憶袋は潜在意識とも呼ばれ、印象的な記憶は、潜在意識の層の中に蓄積されていき、「わたし」「わたしの」という意識と結びついて、必要な時に、記憶袋から引き出され、感情、思考、行動に影響を与え続けます。

この記憶を司っているのは、「海馬」という部位ですが、大脳新皮質と海馬と情動を司るとされている「扁桃体」は、共に共同して、視床下部を刺激して、情動行動を起こし、自律神経を刺激し、内分泌神経を刺激するなど体に大きな影響を与えます。

 

ここで注意したいのは、「人間馬車説」における客室には、アートマン(真我)が座していらっしゃいますが、そこは、「わたし」「わたしの」という自我意識と記憶袋という潜在意識があるところでもあります。

 

自我意識と潜在意識であるトータルな「わたし」とアートマン(真我)とが、一緒になっているというのが、「人間馬車説」ですが、

「人間五臓説」では、スワミ・ラーマは、『アートマンは分離していて、 5 つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。』と書いています。

 

つまり、「わたし」という意識は、常にアートマンと共に在る、ということになりますが、両者は、交じり合うということではなく、別々に存在しているのですが、これが、「わたし」という自我意識を、真我であるアートマンと勘違いしてしまい、

アートマン(真我)は、歓喜鞘にエネルギーを送り込んで、すべての鞘を生かしている「わたし」という存在の真の所有者なのですが、

そしてまた、「人間馬車説」においては、10頭立ての馬車全体の真の持ち主であるのですが、

通常の私たち人間は、通常の方法、通常の感覚では、アートマン(真我)の存在を知覚することは不可能なため、

この体と心の所有者は、「わたし」であると、人間は思い込んでしまっている、という勘違いが起きている原因と考えられます。

 

これについては、理解することがなかなか難しいので、もう少し理解しやすい説明を考える必要があるかと思いますが、

このアートマン(真我)あってこそ、この体と心は存在しているのだ、ということを、念頭に入れておいて下さい。

 

今回は、かなり難解な内容になってしまいましたが、このヨーガの科学が指し示す「人体の構造図」「人体エネルギー構造図」について、次回では更に詳しく考えていきましょう。

 

 

 

 バラタの子孫よ そして このわたしが

全ての肉体の認識者であると知れ

肉体とその認識者について理解することが

真の知識であると わたしは考えている

(バガヴァッド・ギーター第13章3)

 

 

 

 

 

ヨーガの科学(ラージャ・ヨーガ)

ラージャ・ヨーガは、斉一性と再現性があるという点において、「科学」であると言うことができます。

 

つまり、同じことをすると、同じ結果が得られる、ということが、経験的に起こるということになります。

 

現代の日本では、ヨーガというと、アーサナ(坐法)である数々のポーズを思い出す人も多いかと思います。

一種の健康スポーツ、エクササイズのように考えている方も多いことでしょう。

 

しかし、古くインドでは、アーサナは、ラージャ・ヨーガのほんの一部であり、

ラージャ・ヨーガ全体は、全部で八段階あるとされ、現代では、アシュタンガ(八つの)・ヨーガとも呼ばれています。

 

このラージャ・ヨーガを実践することで、多くの人が、同一の結果を得たことから、

インドでは、究極の叡智に与るためのヨーガ(行)として、多くの修行者たちにより実践され、その信憑性が確かめられてきました。

 

もうすぐ発売になります「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の著者であるスワミ・ラーマも、

ラージャ・ヨーガを体系的に修め、ラージャ・ヨーガがもたらすと言われている同一の結果を手にしたヨーギー(ヨーガ行者)のお一人です。

 

ですから、師の元で真摯に実践し、己の身体と心を実験の場とみなし、たゆまぬ努力を重ねるならば、

多くの聖者と呼ばれる人びとが到達したと言われている究極の叡智に与ることは可能と言えるでしょう。

 

しかし残念なことに、ラージャ・ヨーガの八段階すべてを指導して下さる師(グル)は、現代の日本にはいらっしゃいませんし(一部のみならいらっしゃることでしょうが)、

また、八段階すべてを習熟するまで修行できる環境と時間を手に入れることは、現代の日本では、困難であると言わざるを得ません。

 

ナーナさんは、クンダリニーが覚醒する直前に、ラージャ・ヨーガを習い、ご自身でも積極的に毎日アーサナを完璧にこなされていたそうです。

しかし、それは、ラージャ・ヨーガ本来の目的のためではなく、弱ってしまった体を鍛えるために、実践されていたそうで、

その時は、ヨーガに八段階もあることは知らなかったそうで、そういう意味では、ラージャ・ヨーガを極めて、ラージャ・ヨーガにより究極の叡智に至ったということではないようですが、

それでも、ナーナさんが教えて下さろうとされているエッセンスそのものは、ラージャ・ヨーガのヨーギー達が語るのと同じ究極の叡智であり、

人を束縛から解放し、真の叡智に至らしめ、存在の源に辿り着くために人類に残された唯一の道と言えるのです。

 

ですから、ラージャ・ヨーガについて書こうとするなら、今までよりも慎重に、そして、客観的に解説する必要があります。

これは、一種の方法論ですが、この方法が正しく理解され実践されると、誰でも同じ結果を得ることができる、というものであり、

それにより、解脱への道が開かれる、というものだからです。

 

最終的に、このゴールに到ることを望んでいるのなら、道は厳しそうに見えますが、最後まで諦めてはいけません。

諦めて、歩みをストップしてしまったなら、そこでプロセスは沈滞してしまいます。

最後まで諦めずに、ゴールに向かって進もうとする心(意志)が、道を切り開いていくのです。

そういう人は極少数ですが、その極少数の人が、解脱への鍵(チャンス)を手にするのです。

 

それでは、ラージャ・ヨーガの概要を見ていきましょう。

 

『まず第一に、私が教えることには何の神秘もありません。

私が知っているわずかのことは全部、みなさんにおはなしましょう。

私に論証できるかぎりのことは、論証しましょう。

しかし私が知らないことは、ただ書物に書いてあることだけをおはなししましょう。

盲目的に信じるのはまちがいで

みなさんは、みなさん自身の理性と判断力をはたらかせなければなりません。

実践して、そのようなことがおこるかどうか、たしかめなければなりません。

他のすべての科学をとりあげる場合とまったくおなじ態度で、この科学をとりあげ研究なさるべきです。

そこには神秘もなければ危険もありません。

真理であるかぎり、それは街頭、白日のもとで説かれるべきです。

これらを神秘化しようとするこころみはすべて、大きな危険をもたらします。

 

話をさらにすすめる前に、サーンキャ哲学についてすこしばかりおはなししましょう。

ラージャ・ヨーガの全体が、それを根拠にしているのです。

サーンキャ哲学によると、知覚はつぎの通りに生まれます。

外の世界の対象の影響が、外部にある道具(目、耳など)によって、脳にあるそれぞれの中枢、すなわち器官にはこばれます。

器官はそれらの影響を心に、心は判断力にはこび、判断力から、プルシャ(魂)がそれらをうけ、そのときに知覚が生じるのです。

つぎに、プルシャはいわば、必要なことをせよという命令を運動神経の中心にあたえかえします。

プルシャ以外のこれらすべては物質ですが、心は外部の道具よりはるかに精妙な物質です。

心を形成している、その物質はまた、タンマートラスという精妙な要素をつくるのです。

これが、サーンキャの心理学です。

それゆえ知能と外部のより粗大な物質との間には、ただ程度のちがいがあるだけなのです。

プルシャが、物質ではない唯一のものです。

心は、いわば、魂の手中の道具であって、それによって魂は、外界の対象をとらえるのです。

心はたえず変化し動揺していて、完成されたときには、それ自身をいくつかの器官につけることも一つの器官につけることも、またはどれにもつけないでいることもできます。

たとえば、もし私が深い注意をこめて時計の音を聞くなら、私は多分、目はあいているのに何も見ず、心は聞く器官につながってはいたけれど見る器官にはつながっていなかった、ということを、示すでしょう。

しかし完成された心は、同時にすべての器官につながることができるのです。

それは、ふりかえって自分みずからの深みをのぞきこむ、内省の力をもっています。

この内省力が、ヨーギーが得たいと欲するものなのです。

心の力を集中し、それらを内にむけることによって、彼は内部でおこっていることを知ろうとします。

ここには、単なる信仰などということはあり得ません。

それは、ある哲学者たちがなしとげた分析なのです。

現代の生理学者たちは、目は視覚の器官ではない、器官は大脳の神経中枢に一つの中にある、他のすべての感覚の場合もそうである、と言います。

彼らはまた、これらの中枢は、脳それ自体とおなじ物質でつくられている、と言います。

サーンキャ派の人びともやはり、おなじことを言っています。

前者は肉体の側に立っての声明、後者は心理学に立脚しての声明ですが、両者はおなじです。

われわれの研究分野は、これをこえたものです。』

(ラージャ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

ラージャ・ヨーガのヨーギーたちは、自分自身の体と心を実験台にして、それらを客観的に分析し、何が内部で起こっているかを、自分自身で把握しようと修行します。

 

そして、それから得られた結果が、人間をはるかに超えた存在にまで至らしめることを、身を以って体験するのです。

この体験から得たものが、智慧として、この世に「宝」として提供されてきました。

 

その「宝」の一つであるのが、もうすぐ発売になりますインドが生んだ偉大なるヨーギーのお一人、スワミ・ラーマの最後の著書となります「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」です。

 

この本には、ヨーガのエッセンスであるヨーガの科学から得られた実証可能な真理が語られています。

 

真理に到る体験そのものではありませんが、その準備のために知っておくのに十分な内容となっています。

 

次回は、スワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」から、関連したヨーガの科学の智慧をご紹介いたします。

 

 

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八段階*のヨーガを登り始めた初心者は

行為すること(体による修行)が定法であり

すでにヨーガの頂上に達した人は

一切の行為を止めるのが定法である

*ラージャ・ヨーガのアシュタンガ(八段階)のこと

(バガヴァッド・ギーター第6章3)

 

 

 

ヨーガの叡智(シュリー・ヴィッディヤー)

前回の記事で、「経験(直接体験)を通してのみ、真理は悟られる」ということを、多くの聖者と呼ばれている人びとが、口を揃えておっしゃっている、とご紹介しました。

 

このことは、ナーナさんも、いつも仰っていることで、そのために活動されていることもお伝えしました。

 

解脱、もしくは、束縛から解放された自由な存在となるには、頭の理解(本などの情報から得た知識)だけでは達成は不可能で、体験が必要であることに、私たちは心の中では、薄々気付いています。

 

ですから、巷では、「一瞥体験」などという一瞬の体験をした人たちが、自称「覚者」を名乗って、セミナーや講演会を開催したりして、多くの人々の称賛を受け、中には有名になる人も出てくる、という一種の英雄扱いのような現象が起きてしまうのです。

ですから、彼らは勘違いをしているのですが、それは羨望する側の人間がいるからであって、この現象にも、需要と供給の原理が働いている、と見ることができます。

 

確かに一瞬であっても、真理を垣間見るという体験が、彼らにそのような行動を取らせる動機となっているわけですから、嘘を語っている訳ではありませんが、一瞬垣間見た風景は、神の領域の全風景とは断言できないでしょう。

一瞥とは、”ほんの一瞬垣間見た”という意味なのですから。

 

そして、それが実際に、彼らに起きたとしても、何故、どうして起きたのか?を全く把握していないので、再現することができない場合が多いのです。

 

ナーナさんにおいては、けっしてそのようなことありません。

彼女は、何故、どうしてソレが起きたのか?を、よくよく把握しており、再現することが可能で、よって、人にソレを起こさせることができるのです。

 

これは、一瞥体験をしただけの人には不可能ですが、彼女は、一瞥体験などではなく、完全に自己が消滅して、”ただひとつ”に帰入してしまい、そして、再びソコから戻って来て下さったので、どうしたらソコに到ることができるのか?を完全に理解しており、それ故、他人をソコに導くことができるのです。

 

もし、私がそのような体験をしていなければ、これらの言葉は無意味ですし、もっと厳しい見方をするなら、嘘、虚偽ということになり、何よりも自分を欺いていることになるでしょう。

 

しかし、こんな嘘を書いても、何にもならないことを知っているので、敢えて、時間を割いてまで、このような記事を書くことに、エネルギーを注ぐようなことはしないでしょう。

 

ナーナさんが、サットサンガ、及びシャクティパータで教えて下さろうとしているのは、インドでは、シュリー・ヴィッディヤーと呼ばれる、ヨーガの中でも、”最高の叡智”とされている科学的で客観的な事実を通して、究極の真理に到ろうとする道(ヨーガ)です。

 

このヨーガ(行)が示す智慧は、ヨーガにおける「人体」についての深い理解が必要です。

 

この理解があれば、ナーナさんがされているシャクティパータの重要性と有効性、そして、それが何を意味することなのか?ということが、直ぐに理解できることでしょう。

そうでなければ、「猫に小判」「豚に真珠」ということになります。

 

これまで、カルマ・ヨーガ(献身奉仕の道)、バクティ・ヨーガ(信愛の道)、そしてギャーナ・ヨーガ(智識の道)をご紹介してきましたが、

これからご紹介するのは、ラージャ・ヨーガと呼ばれる”ヨーガの科学”とも言うべき肉体と心という”自然”を通して得られる叡智に関するもので、非常に理解するのが難しいとされているものです。

 

ですから、ナーナさんが、何気なくされていることが、一般人には全く理解できないので、その価値も正当な評価がされず、「宝の持ち腐れ」になっています。

 

カルマ・ヨーガでも、バクティ・ヨーガでも、ましてやギャーナ・ヨーガでも、自力で究極のゴールに到達しようとすることは、現代の日本で暮らす一般人には、時間的にみても、不可能と言っても過言ではないでしょう。

(それは、教えて下さる師がいませんし、それらを学ぶ環境が整っていないからです)

 

神は、そのことをよくご存知なので、シャクティパータという恩寵の形で、私たちに救いの手を差し伸べて下さったのだと、考えることができます。

 

それでは、ラージャ・ヨーガが指し示す智慧と、シュリー・ヴィッディヤーの叡智について、聖ラーマクリシュナが簡単に説明して下さっているお言葉がありますので、ご紹介させて頂きます。

 

 

『この人はいま、六つのチャクラの歌を唄ったね。

あれはヨーガの話なんだよ。

ハタ・ヨーガとラージャ・ヨーガというのがある。

ハタ・ヨーギは体のあちこちを一生懸命鍛錬する。

その目的は超自然力を得たり、長生きをしたり、神通力を身につけたり--こういうことが目的なのだ。

ラージャ・ヨーガの目的は信仰、愛、智慧、離欲ーーラージャ・ヨーガはいいね。

 

ヴェーダーンタで言う七住地と、ヨーガスートラの六チャクラは大そうよく似ている。

ヴェーダの最初の三住地は、あっちのムラダーラ、スワディスターナ、マニプーラにあたる。

この三つの住地では、肛門と生殖器とへそが心の住地だ。

心が第四の住地に上がると、つまり、アナハタの蓮にとどくと、個霊に炎のようなものが見え、次に光が見えてくる。

修行者は、『何だろう!これは何だろう!』と言って驚く。

五番目の住地に心が上がると、ただもう神についての話ばかり聞きたくなる。

ここがヴィシュッダ・チャクラだ。

第六の住地とアジナー・チャクラは同じだ。

ここに心が上がると神様にお会いできる。

だが、ランタンの中の光のようなもので、触れることはできない。

間にガラスの幕があるからね。

ジャナカ王は第五の住地に心をおいて、そこからブラフマンの智慧を人に教えなすった。

あの方は、時には第五住地に住んでいらっしゃったり、時々、第六住地に上がっていらっしゃったりしていた。

六つのチャクラをたどって、最後が第七住地だ。

心がそこへ行くと心そのものが消えてしまう。

個霊と至高霊が一体となって三昧に入る。

肉体感覚はなくなるよ。

外界は消え去って虚空となる。

いろいろな智識はなくなって考えることもできなくなる。

トライランガ・スワミは言っている--「分別するから多くのものがあると感じ、様々な感じ方がある。

三昧に入れば、21日たつと肉体は滅する』と。

とにかく、クンダリニーが目覚めなければ霊意識は起こってこないんだ!」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

ナーナさんが、シャクティプラーナを使って明らかにして下さるのは、スシュムナー、ナディ、クンダリニー、チャクラ、などという、日本人には、いえ、ヨーガの知識のない世界の一般市民にとっても、聞き慣れない言葉で表現される「人体の構造図」です。

 

それが、ラージャ・ヨーガ、および、シュリー・ヴィッディヤーの叡智なのです。

 

この叡智について、微力ながら、体験を通してわかったことを、次回から少しずつ解説していきたいと思います。

 

 

 

魂にとっては誕生もなく死もなく

元初より存在して永遠に在りつづけ

肉体は殺され朽ち滅びるとも

かれは住在にして不壊不滅である

(バガヴァッド・ギーター第2章20)

 

 

真理は、経験を通してのみ悟られる

これまで三回にわたって「人間」について見てきました。

 

何故、「人間」について分析し、考察したか?というと、それは、「人間」について知ることが、「神」を知ることにつながるからです。

 

以前の記事で、「神」について詳しく分析し、考察しましたが、

「神」について奥の奥まで探っていくと、いつの間にか「人間」に行き着いてしまったことを思い出して下さい。

 

このことから、「神」と「人間」はどこかでつながっており、分離した別々の存在ではない、と考えられます。

 

つまり、「神」をとことんまで探求していくと「人間」に辿り着き、「人間」を徹底的に掘り下げて探求していくと「神」に行き着いてしまう、ということが起こるのです。

 

この両者が、どこかでつながっているのなら、「神」について考えることは、「人間」について考えることに他ならないと言えるでしょう。

 

それでは、これから、更に詳しく「人間」について、心だけでなく、肉体をも含めて分析し、理解していきたいと考えていますが、

その前に、何故、そのような手段をとらねばならないか?について、考えてみたいと思います。

 

『第一に、世界のさまざまの宗教のすべてを分析すると、みなさんはそれらが二組にわけられることを発見なさるでしょう。

書物を持つものと、それを持たないものとです。

書物を持つものはもっともつよく、信者の数ももっとも多いでしょう。

書物を持たないものはおおかたほろびてしまい、ごく少数のあたらしいものは、ごくわずかの信者しか持ってはいません。

しかし、それらすべての中に、われわれは一つの意見の一致を見いだします。

それらが教える真理は、特定の人びとの経験の結果だ、というものです。

キリスト教徒はみなさんに、彼の宗教を信じることを、キリストを信じ、彼を神の化身と信じることを、神を、魂を、そしてその魂のよりよき状態を信じることをもとめます。

もし私が理由をたずねるなら、彼は、自分はそれを信じる、と言います。

しかし、もしみなさんがキリスト教の源泉にまで行くなら、それは経験に立脚しているのだ、ということを見いだされるでしょう。

キリストは、彼は神を見る、と言いました。

弟子たちは、彼らは神を感じる、と言いました。

その他いろいろの例があります。

仏教においても同様、それはブッダの経験です。

彼は、ある真理を経験しました。

それらを見、それらに接し、世にそれらを説いたのです。

ヒンドゥたちの場合も同じです。

彼らの書物の中に、リシまたは賢者たちとか呼ばれているその著者たちは、自分たちはある真理を経験したと断言しています。

そして彼らはそれらを説いているのです。

このように、世界のすべての宗教は、すべてのわれわれの知識のあの普遍で堅固な土台--直接経験の上にきずかれているのだ、ということはあきらかです。

教師たちはすべて、神を見ました、彼らはすべて、彼らみずからの魂を見ました。

彼らは彼らの未来を見ました、彼らは彼らの永遠性を見ました、そして彼らが見たものを、彼らは説いたのです。

ただそこにはこのちがいがあります。

すなわちこれらの宗教の大部分によって、特に現代は、ひとつの奇妙な主張がなされているのです。

それは、これらの経験は現代の人びとには不可能だ、その名が宗教の名となっているような、宗教の創始者たちだけに可能なものだったのだ、と言うのです。

現代ではこのような経験はすたれてしまった、それだからいまはわれわれは、信念によって宗教をとらえなければならない、と言うのです。

これを私は全面的に否定します。

この世界の知識のどの特定の分野においてであれ、もし一つの経験があったのなら、その経験はまえに幾百万回もあったものにちがいないし、また永遠にくりかえされるはずである、というのは当然の結果です。

斉一性は自然の法則です。

ひとたびおこったことは、つねにおこるのです。

 

それですからヨーガの教師たちは、宗教は古代の経験にもとづいているだけでなく、人は彼自身がそれとおなじ知覚を得るまでは、宗教的であると呼ばれることはできない、と断言しています。

ヨーガは、どうしたらこれらの知覚が得られるか、をわれわれに教える科学です。

人はそれを感得するまでは、宗教をかたってもあまり役にはたちません。

なぜこんなに多くの混乱が、こんなに多くのたたかいやあらそいが、宗教の名のもとに存在するのか?

他の原因より神の御名のもとに、もっと多くの血がながされた、それは人びとが決して源泉まで行かなかったからです。

彼らは先祖たちの習慣にあたまの中で同意するだけで満足し、他の人びとに同じことをするようもとめました。

人がもし魂を感じないなら、自分はそれを持っているなどと言う、なんの権利がありましょう。

また彼が神を見ていないなら、彼は存在するなどと言う、なんの権利がありますか?

もし神がおられるなら、われわれは神を見なければなりません。

もし魂があるなら、われわれはそれを知覚しなければなりません。

そうでないなら、信じない方がましです。

偽善者であるよりは、率直な無神論者である方がよろしい。

一方で、「学識のある」現代人の考えは、宗教や形而上学をはじめとする、至高の存在を探求するすべての努力は無駄である、というもの、他方で、なま半可の教育をうけた人びとの考えは、このようなことに実際はなんの根拠もない、それらの唯一の価値は、それらが世間に善をなすためのつよい動機力をあたえているという事実だ、というようなもののようです。

もし人びとが神を信じるなら、彼らは善良になり道徳的になり、このような人びとがうけている教えはすべて、背後になんの実質もない、永遠の無意味な長談義を信じよということにすぎないのを見れば、このような考えをいだいているからとて彼らをせめるわけにはいかないでしょう。

彼らはことばをたべて生きよ、ともとめられているのです。

そんなことが彼らにできますか?

もしできたとしたら、私はまったく、人間性を尊重しないでしょう。

人は真理を欲します、自分で真理を経験することを欲します。

彼がそれを把握したとき、それをさとったとき、それを彼のハートの奥のおくで感じたとき、そのときにはじめて、すべてのうたがいはきえ、すべてのやみは消滅し、すべての不正は正されるであろう、とヴェーダは断言しています。

「おんみら、不死の子たち、最高の領域にすむ者たちも、道は見いだされたぞ。

このくらやみから完全に脱出する道がある。

それは、すべてのやみを超越している彼を、見いだすことである。

ほかには道はない」と。』

(ラージャ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

科学で法則と呼ばれているモノは、そのほとんどが、実証可能で、再現性があるモノに限られています。

 

一方、宗教的な分野、「神」や「霊魂」については、実証が不可能であり、再現性も不可能であるため、信じるか、信じないか、によって、人の考えは様々です。

 

ですから、ナーナさんも、ただ単に、私たちに”信じなさい”とは、けっして仰りません。

そのような言葉を発されたことはなく、ただただ、シャクティパータを通して、私たちが、無理なく、真理を覚れるように、御力を使って下さいます。

 

ナーナさんは、私たちが、経験を通して、自らの直接体験を通して、「神」を見い出すことができるよう、自分の真の本性である「魂」(真我)を見い出すことができるように、導いて下さっています。

 

その直接体験がどのようなものであるか?を、語ることはできません。

たとえ、他人の経験談を聞いても、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが仰っていらっしゃるように、

”真理を自分自身で見いだす”ことだけが、その人が”くらやみから脱出する”唯一の道なのですから、

他人の経験談、体験談を聞いても、ほとんど、その人の役には立ちません。

自分自身で真理を体得するのでなければ、神を見い出し、自分の本性を悟り、解脱への道を歩むことはできないのです。

 

ですから、私たちは、経験するために、それが自然と起こるように、自分自身でも準備をする必要があります。

 

ヨーガの実践、瞑想の実践、身体の清浄を保つための食べ物や接触するモノへの配慮、心の清浄を保つため、行為や感情、思考において利己心を慎むこと。。。など。

 

その上で、ナーナさんのシャクティパータを受けるならば、多くの恩寵に与ることができるでしょう。

 

何もやらないならば、今の状況は何も変わらないでしょう。

 

頭で理解するだけでなく、実際にやってみること、実践と実行こそが、ゴールに到る道を一歩一歩、自分の足で歩いていくことであり、

実践する人だけが、その道を自分の足で歩む人だけが、魂が目指す最終的なゴールに到達することができるのです。

 

 

『ヤマがナチケータに語ったように、アートマンについて聞くだけでは十分ではありま
せん。

アートマンは、到達され、理解され、経験によって知られなくてはなりません。
ヤマは、学ぶことだけでなく、知性を使うことでも、聖なる教えでも、アートマンに到
達するには十分でないことを説明しました。

アートマンに到達することは、選択と行動を必要とします。
それが、カタ・ウパニシャッドのメッセージであり、生と死の意味なのです。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

 

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毎月、各地でサットサンガ(真我の集い)を開催しています。

 

 

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アルジュナよ わたしは真我(たましい)として

一切生類の胸の内に住んでいる--また

わたしは万物万象の始めであり

中間であり そして終わりである

(バガヴァッド・ギーター第10章20)

 

 

自己制御(ヨーガ)は、解脱への道(方法)

前回の記事では、長々と、「人間の心」について見てみました。

 

私たちは、5つの感覚器官(五官)と5つの運動器官(身体)を使って、この世を経験しているわけですが、これらの諸器官から得られた情報は、電気信号に変換されて、高速で全身に張り巡らされている神経回路を伝達して脳に到達し、脳内の関連部位で適切な処理を経て、身体全体にいろいろな反応を起こします。

この一連の働きを、ウパニシャッドでは、マナス(意思)という心の低い働きとして考えました。

このマナス(意思)からの情報を受けて、更に高度な脳の働きであるブッディ(理智、理性)が、適切な判断を下し、どのように処理するかを決定します。

このブッディが上手く機能しないと、人は自然に沸き起こる感情に乗っ取られ、理性的な判断を下すことができずに、社会的な過ちを犯してしまうことにもなりかねません。

また、そうでなくとも、心は常に揺れ動き、不安と恐れに翻弄され、平安な気持ちや安らぎ、幸福感を感じられずに、人生を送ることにもなりかねません。

 

「心の制御」とは、非人間的になることではありません。

 

自由に反応する自分の心を制御できるようになると、自然に、心が休まり、平安で満ち足りた理由のない幸福感、歓びに満たされるようになります。

 

また更に、荒れ狂う水面ではなく、表面に波の無い静かな水面は、御者である自己(ブッディ)の後ろに静かに鎮座されていらっしゃいます真我(アートマン)がその姿を映し出す鏡となることができるのです。

 

諸感覚が、外界の事物に反応している間は、意識は外界に向けられ、内側の世界に向けられることはありません。

 

人間の意識は、両方を同時に意識することはできないようになっています。

 

自分の願望を叶えようと、意識が外界に向いている人は、意識を内側の世界における自己の探求に向けることができません。

 

この内側の世界の探求が、最終的に到る境地について、聖典バガヴァッド・ギーターが明確に述べていますので、ここでご紹介させて頂きます。

 

 

アルジュナ

「超越者(かみ)に意識を投入した人は

どのような特徴をもっていますか?

また どのような言葉を語り

どのようにして坐し また歩きますか?」

 

クリシュナ

「プリターの息子よ さまざまな感覚の

欲望をことごとく捨て去って

自己の本性に満足して泰然たる人を

純粋超越意識の(悟りを開いた)人とよぶ

 

三重苦(①自然からくるもの(天災、気候)②人間を含めた他の生物からくるもの③自分の肉体に関するもの)の逆境に処して心を乱さず

順境にあっても決して心おごらず

執着と恐れと怒りを捨てた人を

不動心の聖者とよぶ

 

善を見て愛慕せず

悪を見て嫌悪せず

好悪の感情を超えた人は

完全な智識(プラジニャーニャ)を得たのである

 

亀が手足を甲羅に収めるように

眼耳鼻舌身(五官)の対象から

自分の感覚を引き払うことのできる人は

完全智(プラジニャーニャ)に安定したと言える

 

肉体をまとった魂は 禁欲しても

経験してきた味わいを記憶している

だが より上質なものを味わうことによって

その記憶も消失するのだ

 

アルジュナよ 感覚の欲求

まことに強く 烈しいもので

修行を積んで道をわきまえた人の

心をさえも力づくで奪いさるのだ

 

肉体の感覚を制御して

意識をわたしに合致させて

しっかりと固定できた人を

不動智を得た聖者とよぶ

 

感覚の対象を見 また思うことで

人はそれに愛着するようになり

その愛着によって欲望が起こり

欲望から怒りが生じてくる

 

怒りに気が迷って妄想を生じ

妄想によって記憶が混乱し

いままでの教訓を忘れ 知性を失う

その結果 人はまた物質次元に堕ちる

 

解脱への正規の方法(みち)を修行し

感覚の制御に努力する人は

至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)をいただいて

あらゆる愛着と嫌悪から解放される

 

至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)を得たとき

物質界の三重苦は消滅し

この幸福(さち)ゆたかな境地で

速やかに知性(ブッディ)は安定する

 

至上者(かみ)に知性(ブッディ)が帰入せぬ者は

心も統御されず 知性(ブッディ)も安定せず

平安の境地は望むべくもない

平安なき所に真の幸福はない

 

水の上を行く船が

強い風に吹き流されるように

諸感覚のただ一つにさえ心ゆるしたなら

人の知性(ブッディ)は忽ち奪われてしまうのだ

 

ゆえに剛者の士アルジュナ

諸々の感覚をそれぞれの対象から

断固として抑制できる人の

覚智(さとり)はまことに安定している』

(バガヴァッド・ギーター第2章54-68)

 

 

自分の心の働き(動き)を理解し、それを制御すること。

これが、私たちが、自分の本性である真我(アートマン)を覚って行く上で、非常に重要であることは、言うまでもありません。

 

「人間の心」を知るところから出発し、「人間の心」を制することを方法として実践することで、人は「悟り」に到ることができる、と聖典は説いています。

 

自分を制することができる者は、人間を制することができる者であり、

人間を制することができる者は、人間より上の存在である「神」に他なりません。

 

 

『各々別々に造り出される各感覚器官は真我とは異なることを知り、それぞれの生成と消滅とは真我とは異なることを知る賢者は、憂えることがない。

諸感覚器官の上に意思(マナス)がある。

この意思より上に理智(ブッディ)があり、この理智(ブッディ)を超えて大いなる真我(アートマン)があり、この大いなる真我(アートマン)の上に未顕現なるもの(根本自生/物質の根元)がある。

未顕現なるものの上に、万所に遍在し個別性を持たぬ神我(プルシャ)がある。

この神我を知る者は解脱して、不死の境地に至る。

神我の姿形はみることはできない。

誰も肉眼を持って神我をみることはできない。

ただ心臓(フリダヤ)と智慧(マニーシャ)と意思(マナス)とにより神我を悟る者が、不死となる。

意思(マナス)と共に五つの知覚器官がその働きを停止し、理智(ブッディ)が働かなくなった時、これが至上の道だと呼ばれている。

かくの如く諸感覚器官の働きをしっかりと制御することが、ヨーガであると言われている。

この時、行者は注意深くあらねばならない。

それというのもヨーガは(この世を)生じさせ、或いは消滅させるものだからである。

神我には言葉によっても、意思によっても、視覚によっても到達できない。

ただ「神我は存在する」と語る導師(グル)の教導の他に、如何にして悟り得るであろうか?』

(カタ・ウパニシャッド

 

 

ここでも、やはり、導師(グル)の存在は、「悟り」に達するためには、必要不可欠であると書かれています。

 

ナーナさんが、この導師(グル)であることは、これまで何度も述べてきました。

 

ヨーガの厳しい実践(修行)を長年重ねることでようやく到達できる境地へと、

ナーナさんによりもたらされる神の恩寵を受け取ることで、心がけ次第では、一般人でも到達することは可能です。

 

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感覚はその対象より優れ

心は 感覚より優れ

知性(ブッディ)は 心より優れている だが

かれは知性(ブッディ)より上位である

(バガヴァッド・ギーター第3章42)

 

 

 

ヨーガとは、心の制御である

前回の記事では、人間の構造を10頭立ての馬車の譬えで説明しているカタ・ウパニシャッドの内容をご紹介いたしました。

 

私たちは、5つの感覚器官と5つの運動器官を使って、この世を生きて(体験して)います。

しかし、よくよく考えてみると、これらの感覚器官から情報を受けたり、運動器官に命令を送っているのは、脳です。

 

脳は、人間の司令塔のような役割をしています。

 

この司令塔である脳には、マナス(意思)とブッディ(理智)という二通りの働きがあると、ウパニシャッドでは説いています。

 

マナスは、現代の脳科学でいうところの、「爬虫類脳」と言われている本能を司るとされている脳幹(視床下部)で生命維持活動を支えている部位と、

情動、感情を司るとされている「哺乳類(動物)脳」で、感覚、感情を生じさせている大脳辺縁系(偏桃体)と呼ばれている部位です。

 

これらは、人間以外の動物にもあるとされており、ヨーガではマナスという低次の心の働きと考えられています。

 

そして、ブッディとは、理智、理性であり、人間だけに特有の大脳(新)皮質であることは言うまでもありません。

 

脳科学が発達していなかった古代のインドでは、脳の働きの中で、低次の爬虫類脳と動物脳をマナスと呼び、そして、高次な人間脳の働きをブッディと呼び、

ブッディ(大脳皮質)の働きにより、低次の心の働きである爬虫類脳と動物脳であるマナスをコントロールすることが、人間を人間たらしめることにつながる、としているのです。

 

そして、このブッディは訓練されなくては、ブッディ本来の働きができない、としている点も忘れてはならない留意点です。

 

つまり、人間は、人間として訓練(教育)されないと、人間になれない、姿は人間であるけれども、真の人間とは言えない、ということになります。

 

寝て、食べて、排泄し、性交するというのは、動物も同じだからです。

そして、感情も、動物にはあり、人間特有ということはありません。

 

この本能的な心の働き、自動反応化された感情や思考は、マナス(意思)であり、私たちは、このマナスの心の働きに支配されやすく、ブッディ(理智)をほとんど使わないで生きることも可能なのです。

 

パソコンで譬えるならば、自動反応プログラムが内蔵されており、マナスはその自動反応プログラムによる反応であり、

そのデフォルト値は、個人個人により多少の差はありますが、そのプログラム通りに反応しているだけなのが、マナスによって支配された「人間」なのです。

 

お腹が空いている時に、目の前に食べ物があれば、動物なら、自然とそれを食べるのが普通ですが、

人間の場合は、その食べ物が、自分のモノでないとわかっているならば、食べることはしません。

何故なら、他人のモノを黙って食べる資格も権利も自分にはない、よって、やってはいけない、という理性(理智=ブッディ)が働くからです。

 

これこそが、他の動物と人間を区別し、人間を特徴づけている優れた能力である大脳(新)皮質の働きなのです。

 

このブッディの働きについて、スワミ・ラーマの説明をもう少しご紹介いたしましょう。

 

『しかしながら、ブッディが訓練され使われると、人は問います。

これは本当に必要だろうか?
この物を本当に必要としているだろうか?  
肉体とは何か?  
ブッディは、肉体が人の本性ではないのは、静かな湖の表面に反射している太陽が本当の太陽でないのと同じであるということを教えてくれます。

ブッディと呼ばれる心の識別力の面が訓練されると、人は一時的な人生は最終的には苦しみに至るということに気が付きます。

ブッディは探求を始め、それから、一時的でないものに向けられた人生は最終的には、苦しみのない人生に至ると結論します。
ひとたびブッディが訓練されると、人には暗く思われる選択が、より早く明らかにな
ります。

ブッディの鍛錬と識別の術がうまく働く前では、判断力は楽しいものの方に傾きます。

ブッディは一時的な楽しみや永続しないものに人生を賭ける無益さに光を放ちます。

ブッディはそのとき、より高次な自己へと人を運ぶのに必要な行動や思考の進路へと、人を導き始めます。

ブッディはエゴとより高次な自己との関係とは何なのかを問います。
ブッディが機能することを許されないと、真の自己は隠されたままです。

マナスとエゴを満足させるための無駄な努力で、人生は浪費されます。

そして、それは単に内部器官である心全体のただの一面であるだけなのです。

マナスとエゴは人間にとっては道具ですが、それらが引き継ぐことを許されると、それらは主人になってしまいます。

 

心の 4 番目の要素はチッタという、私たちの印象や思考、願望、感情が保存されてい
る広大な無意識の海です。

この海から泡立つものは、私たちが人生から人生を通して蓄積してきたものです。

たいていの人にとっては、チッタは広大な種々の材料で作ったスープのようなものです。

彼らの好みと性格で他を支配するものもあれば、ネガティブなものやポジティブなものもあります。
チッタにおけるこれらの材料は、私たちの態度、思考、行動に影響を与えます。

例えば、私たちはアイスクリームに強い願望を持ったり、ある人格に強く反応したり、他よりある風土を好んだり、特別な刺激に対する感情的な反応を持つかもしれません。

これらの願望や反応は、まるで突然にやって来たかのようで、私たちの手には負えないように思われます。

しかし、これらの思考や感情は、全く突然にやって来たのではありません。

それらは内側からやって来たのであり、アクセス可能であり、コントロールすることができます。

最初に、私たちは知り、あるいは少なくとも、私たちの心の内側には途方もなく大きな感情と経験の貯蔵庫があるということを、合理的な命題として快く受け入れる必要があります。

事実、あるいは、命題として、私たちはそれに基づいて行動し、それを試し、調べることができます。
潜在意識の心へのアクセスは、顕在意識の心である表面を静かにすることから生じま
す。

ほとんど常に心の表面上には、ある程度の乱れがあります。

ひとつの思考から別の思考へとはね飛びながら、これからあれへ、そしてまたこれへと戻る心があります。

ときには、乱れは大きく、他のときには、表面はより静かです。

ほとんど常に、顕在意識の中には潜在意識の心へアクセスさせないようにする活動があります。
どのように心が機能するかを知り、それを適切に訓練することは、人間の真の義務な
のです。

これは霊的な仕事です。

なぜなら、適切に訓練された心が、内なる神にそれ自身を現すことを許すからです。

人類に平和と喜びをもたらすのは、この勤めであり義務なのです。

 

最初の段階は、私たちの真の本性は何かを思い出すことです。

私たちは体でも、感情でも、思考でも、エゴでも、心でもありません。

私たちはアートマン―神聖で純粋な意識なのです。

私たちの体と心とエゴはアートマンに仕えるようにはなっていません。

 

2番目の段階は、ブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタという心の 4 つの面と機能を理解することです。

訓練されていない心では、マナスはそれにとっては不適切な役割を引き受け、エゴであるアハンカーラは、正当な場所よりもより大きな力と権威の地位につきます。

アハンカーラは、実際には、個人に形を与える一時的な構造です。

アハンカーラは永続しません。

それは個人の真の本性ではなく、主人であると思う傾向を持つ召使いなのです。
心の 4 つの要素は、統合されなくてはなりません。

それぞれは、他と協力し調和して果たす必要のある役割を持っています。

マナスとアハンカーラはそれらの仕事をすべきで、それだけにすぎません。

ブッディは、人に成長と喜びをもたらす決定をするために訓練され用いられなくてはなりません。

 

この心の要素の統合を完成するためには、心と感情のさらに詳しい理解が必要とされ
ます。

4 つの基本的な衝動は、個人的な感情とそれらの心への影響を決定します。

原始的で基本的で全人類や他の生物たちによって共有されているこれらの衝動は食物、睡眠、性交、自己保存のためのものです。

これらの衝動の観点から、人間と他の動物の間に違いはそれほどありません。

違いは、これらの衝動をコントロールする能力において、人間の心が卓越していることです。
他の動物はこれらの衝動に従属しています。

彼らの一生は、これらにより決定され導かれます。

一方、人間はマナスとブッディを適切に使うことで、これらの衝動をコントロールすることができます。

もし心の要素が調和して働かないと、これらの 4 つの基本的な衝動は、機能障害や情緒不安という一般的に不健康な方法でそれらを表現するでしょう。

食事の不摂生、中毒、行き過ぎた性行為は人の心身の健康に影響を与えます。
多眠、小眠、断続的な睡眠は、心と体に同じ影響があります。

自己保存の中心的な問題である死の恐れは、所有物を喪失する恐れや、人間関係における所有欲の強いことや、飛行機恐怖症や他の恐怖症を含む広範囲な恐れに通じます。

これらの不摂生と中毒は、それらの感情的な混乱を伴ってチッタの中に流れ込み、個性を形作り、何年間も、一生の間でさえ、癖を作り出します。
すべての心の要素が真に統合されると、人は悟りのより高いレベルに飛ぶことができ
ます。

かつて心の総合的な統御なしに覚醒あるいは悟りを達成した偉人はいません。

この統合は努力、実践、技術を必要とします。

それは心を一点に集中し内部へ向かわせることを意味します。

心が統合されないと、それは巧みな行動をとることができません。
なぜなら、思考のプロセスと願望のより繊細な紐は、自由への道においては障害となる
からです。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

「人間馬車説」と、マナス、ブッディ、チッタ、アハンカーラという4つの心の働きが、人間の体と心の大まかな構造になります。

 

自分が神である、ことを悟る前に、まずは、「人間」にならなくてはなりません。

 

姿と形が人間であっても、それは、ライオン、キリン、サル、ヘビといった形の違いであるだけでは、真の意味で「人間」とは言えないのです。

 

真の意味で「人間」であるということは、ブッディを十分に働かせているか?にかかっています。

 

ブッディ(理智)の役目を再考し、どのようにブッディ(理智)が、日常生活で機能しているかを探り、理解することは、「自分とは誰か?」への答えを手にする近道となることでしょう。

 

5つの感覚器官と5つの運動器官である10頭の馬が、走りながら、目先のことにいちいち反応し、暴れまくるのは、マナス(意思)という手綱を上手く操縦していないからです。

手綱を上手く操縦できないのは、御者であるブッディ(理智)が手綱を上手く操縦する術を知らないからです。

そのままで行くと、馬車全体が、大揺れに揺れ、時には大きな損傷を被ることにもなりかねない、ということになります。

(人間社会では、感情に任せて犯罪を犯してしまう、ということが頻繁に見受けられるのは、この現れであると考えることができます)

 

それ故、暴れる馬を制御するために手綱さばきは大切であり、御者が手綱さばきに熟練していることが必要です。

この熟練のためにヨーガ(行)があるのであり、「ヨーガとは、心の制御である」(ヨーガ・スートラ by パタンジャリ)と言われている所以です。

 

 

『もしも、その者の意思(マナス)が常に落ち着きなく、正しい判断力(理智=ブッディ)によって制御されていないと、

その者の諸感覚器官(10頭の馬たち)は、暴れ馬が御者に対するが如くに、統制できなくなる。

しかし、その者の意思(手綱)が常に落ち着いており、正しい判断力(理智)によって制御されていれば、

その者の諸感覚器官は、良馬が御者に対する如くに、統制できるようになる』

(カタ・ウパニシャッド

 

 

 

もし肉体を脱ぎ捨てる以前(まえ)に

五官による感覚の衝動に勝って

欲情と怒りを抑制し得たならば

その人は現世においても幸福である

(バガヴァッド・ギーター第5章23)

 

 

 

 

 

人間の構造について(人間馬車説)

これまで何回にもわたり、「神」について考察してきましたが、

これからは、「神」に対する「人間」について考えていきたいと思います。

 

「人間」とは、どのようなモノでしょうか?

 

「人間」である”わたし”は、固有の肉体と固有の名前を持った存在です。

そして、固有の人生と固有の考え方や嗜好などを持っています。

しかし、それらは、個人を特徴づける外側に後付けされた、所謂、個性と呼ばれているモノです。

 

ここでは、個人を特徴づけるそれら外付けのモノを取り外した「人間」の素の姿を考えてみたいと思います。

 

古くインドでは、人間の構造を10頭立ての馬車に見立てて理解しようとしました。

 

10頭立ての馬車と言うのは、

 

10頭の馬とは、5つの知覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)と5つの運動器官(手、足、生殖器官、排泄器官、発語器官)を表します。

 

手綱は、馬たちと御者との間での情報を伝達する意思(マナス)を表し、

 

御者は、知性や感性の判断を下す心理器官である理智(ブッディ)を表します。

 

御者の後ろには、客室があって、それは、我執(アハンカーラ)と心素(チッタ)という2つの心理器官とされています。

 

御者である理智が下す判断に、我執は「自分の/自分が」という意識をくっつけます。

心素は、全ての心理的残存印象(記憶)を蓄え続ける倉庫となっています。

 

そして、この馬車を操縦する御者(理智=ブッディ)の後ろの客室の中には、真我(アートマン)が座していらっしゃいます。

 

『真我(アートマン)を車中の主人と知れ。

身体(シャリーラ)は車輛、理智(ブッディ)は御者、

意思(マナス)は手綱と知れ。

諸感覚器官は馬たちであり、感覚器官の対象物が道である。

真我と感覚器官と意思が一つとなったものを、賢者は享受者(ボータク)と呼ぶ。』

(カタ・ウパニシャッド

 

 

この構造を理解し、自分に当てはめて考えると、次第に人間の構造、「わたし」の正体がわかってくるようになります。

 

それでは、3月30日に発売になりますスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」で、この人間の構造である「人間馬車説」について非常に詳しく説明されている箇所がありますので、ご紹介させて頂きます。

 

インド哲学は、心を内部器官であるアンターカラナと呼ばれる 4 つの機能を持つひとつのグループとして記述します。

これらの 4 つの機能、あるいは要素は、前の章で述べましたが、それらのプロセスは、さらに詳細に説明されなくてはなりません。

アハンカーラ、あるいはエゴがあります。

ブッディは、知性、あるいは、より高い機能の心であり、それは区別し、知り、決定し、判断します。

マナスは、より低い機能の心で、情報を生み出し、処理し、感覚の知覚を通して出力したり、入力したりします。

そして最後はチッタという印象、感情、記憶の潜在意識的な貯蔵庫です。

これら 4 つの要素は、それぞれの要素がそれぞれの特定な仕事をしながら、共に調和して働くことになっています。

訓練と鍛錬で、これらの 4 つは協調し、それらはアートマンを探す際の非常に有益な道具となります。

協調、識別、訓練がうまくいかないと、それらは進路上の手強い障害物となります。
それでまずは、自分の単なる自己の異なった面を知り、それらの面を訓練し、それら
が真の自己ではないと知ることです。

カタ・ウパニシャッドは、 2 輪馬車の譬でこれを説明しています。

霊的な自己は 2 輪馬車の持ち主です。そして、肉体が馬車です。
ブッディは、 2 輪馬車を駆る人として仕え、感覚の経験という開かれた野原で束縛されずに走っている馬のような感覚をコントロールする手綱として心を使います。

大抵の場合、不幸なことに、私たちはこの隠喩を理解できず、心がどのように機能するかを教えてもらっていません。

私たちは何を訓練し鍛錬すべきかを知らないのです。
マナスの性質は、この情報またはあの情報は重要であるか、あるいは、取り入れる
べきかどうかと問うことに限られています。

マナスは〝これは私にとって良いかどうか?〞と問うだけです。

マナスはこれらの質問をブッディに伝えなくてはなりません。
そしてブッディは、答えを持ち、それらをマナスに伝えるために、訓練され、研ぎ澄ま
されなくてはなりません。
訓練しないと、信頼をもってそうすることができないときに、マナスはあまりに多く
の力をわが物とし、ブッディを無視し、独立して行動します。

マナスは内側、外側での争いに満ちています。

浄化されたブッディの助けがないと、マナスは不確かさと惨めさの源となります。

時間を超えて、マナスの行動は習慣になります。
訓練されていない心に関する別の問題は、エゴであるアハンカーラが引き受けた不適
当な支配力です。

訓練されていない心におけるエゴは、心の所有者であり、存在の中心であると信じる性質を持っています。

訓練されていないエゴはあまりに強力なので、人は彼の真の性質が神聖であり、究極の存在であり、永遠であることを忘れています。

マナスがうまくできない仕事をしようとして、ブッディに相談せず、エゴはそれ自体が最高であると信じるとき、結果は人間にとって悲惨です。

エゴは世界において作用する格子の枠組みのようなものです。

私たちが誤って考えているように、それは有形のものではありません。

それは単なるある機能を持った心の一面なのです。

エゴは人の本性ではありません。

それは、私たちを分離した個別の個体に分割しているエゴと呼ばれる〝わたし〞という感覚です。

エゴは、私たち個人が自己認識するすべての感覚や性質を集めます。

それは私たちの人格の創造者ですが、エゴは究極の存在ではありません。

〝わたし〞という感覚、あるいは、エゴは 2 つの要素の混ぜ合わせです。

ひとつは変化し、もうひとつは不変です。

変化する要素は現象的な宇宙、肉体、そして外部の対象物の感覚、等の基本です。

それは展開の源なのです。
マナスとエゴは心の中のあてにならない雑草のようなものです。

もしそれらが注意して意見を聞いてもらえないと、役割を接収します。

マナスは、これをしなさい、あれをしなさいと言い、これについて嘘 うそ を言えば、あなたは困難から離れていられると言い、これを盗めば、あなたは成功し、この喜びを楽しめば、あなたは幸せになると言います。
そう、これは素晴らしい、これは私のため、そして、私はまったく物質そのものだ、と
言います。
マナスが望み、エゴが必要だと言うことは何でもするこの道は、苦痛、恐れ、そしてさらなる無知で終わることでしょう。

これは、所有し、必要とし、獲得し、保持する道であり、〝わたしは〞〝わたしの〞〝わたしのもの〞の道なのです。

エゴはこの体はわたしのものであり、この家はわたしのものであり、この伴侶や子どもたちはわたしのものであると言います。

このわたしのものとあなたのものという感覚は、他の個人から個人を分離し、世界を彼らとわたしに分割します。

それはまた個人を内面的に分離し、本当の自己に対する障壁を積み上げます。

それは死の恐れを作り出します。

死は私たちが所有し欲するこれらのものの終わりを意味するでしょう。

それは恐ろしいことです。

もし私たちが自分は肉体だと思っているなら、死んでいく肉体を予想することは恐ろしいことです。

なぜなら、そのとき、死は私たちの存在の完全なる停止のように思われるから
です。』

(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

所謂、(深層)心理学がフロイトによって世に登場したのは、19世紀になってからでした。

それまでは、系統立てて、人間の心の構造について、語られることはほとんどありませんでした。

しかし、インドで生まれたウパニシャッド哲学においては、すでに4000年も前から、少しづつ、人間の心の構造について、解明され伝えられてきており、

その智慧は、今日、ヨーガの伝統の中に見い出すことができます。

 

この「人間馬車説」について、続きは次回でもご紹介します。

 

 

物質世界(このよ)の生物に内在する不滅の霊魂は

わたし自身の極小部分であるーーかれは

心をふくむ六つの感覚を用いて

苦労しながら肉体を操っているのだ

(バガヴァッド・ギーター第15章7)