アートマンはブラフマンなり(梵我一如)
前回の記事で、アートマンとはすべての存在の本質である、と書きました。
「本質」とは何でしょうか?
どの存在にも共通する普遍的な部分、と解釈することができると思います。
すべての物質は、元素からできています。
数種類の元素が集まって、個体である物質を構成しています。
アートマンは、それらのすべての元素に共通なモノであり、それなしには、物質が存在できないモノと考えるとイメージしやすいと思います。
”それ”はただ一つであり、”それ”はすべての存在の本質ゆえに、目に見えないモノも含む物質的な存在は、”それ”なしには存在できません。
その”ただひとつ”を、私たちはアートマンを通して悟ることができる、と言うことが言われています。
『内側に居住するアートマンの永遠の本質は、ウパニシャッドの中心的なテーマです。
これは死の神秘の秘密であり、生を理解するための鍵です。
神はすべてに浸透し、私たちの生命の命である魂に生命力を吹き込んでいるアートマンです。
アートマンは永遠に存続し、不変であり、故に死ぬことはありません。
滅びるものだけが死なねばなりません。
滅びるものは、不滅なるものの発見における道具として仕えるためだけにそこにあ
ります。
死ぬのは、この世の次元を訪問する際に、魂の覆いを提供している外観である体です。
内側の自己は影響を受けないままです。
それは永遠なる存在なので、死にませんし、死ぬことができません。
バガヴァッド・ギーターは述べています。
〝彼は非顕現であり、思考の対象ではない、そして不朽だと言われている。それ故、彼を知れば、あなたは誰かのことを嘆き悲しむことはない〞
大望を抱く人は、最初に、アートマンからその人格的な一時的な面を理智的に識別しなくてはなりません。
人の真の本性は、心でも感覚でもなく、アートマンなのです。
アートマンは、習慣、願望、恐れの層の下に隠れています。
これらの習慣や思考はあまりに堅固に身を固めているので、アートマンを認識する前に、集中力と瞑想の訓練で、層を貫通しなくてはなりません。
瞑想は心の散乱したすべての力を集め、アートマンに至る心を切り通すことができるひとつの強力な剃刀のような力で、それらを寄せ集める手段なのです。
アートマンを感覚を通して悟ることはなく、また、学びや神聖なる教えを通して発見することもできません。
微細で、深く、そして永遠であるアートマンは、心を浄化する集中力と瞑想の訓練を通してのみ現れます。
瞑想は、探求者を、習慣、願望、恐れが生きている感覚と限られた心の層を通過させ、
不滅であるそれと対面することになるサマディの超越意識の状態に導きます。
アートマンが悟られると、探求者は、一時的なこの世の状態である苦しみや喜び、哀しみや惨めさを超越します。
アートマンがいるところには、死は近づくことができません。
アートマンは絶対的な存在の王国であり、永遠の王国であり、私たち内面の深さと同じ程度に離れているだけなのです。』
(聖なる旅 -目的をもって生き、恩寵を受けて逝くー スワミ・ラーマ)
そして、カタ・ウパニシャッドでも
『人が明知をもたず、思慮を欠き、常に不浄であるならば、彼は目標に到達することはなく、輪廻に陥る。
他方、明知を有し、思慮をもち、常に清らかである人は目標に到達し、再び(輪廻の生存に)生まれることはない』(カタ・ウパニシャッド)
解脱のための決定的な要件は、<明知>ということになります。
ウパニシャッドの指し示す明知とはアートマン則ブラフマン、すなわち梵我一如という知に他なりません。
ブラフマンとは、この宇宙で唯一の存在である”ただひとつ”のことです。
つまり、
『アートマンが答えです。私はアートマンです。あなたはアートマンです。
私とあなたはアートマンなのです。それが答えです。』
この文章は、
私もあなたもブラフマンである と言っているのです。
そして、この知を得た人は、人間を超えた存在が自分であるという明知に至ったことで、人間を超えます。
自分が完全に自由な存在であったこと、始めからそうであったこと。
本来は、この善悪、幸不幸という二元世界を超えた永遠の至福の世界の住人であったことを完全に思い出した人は、肉体が滅んでも、不死なのです。
『このアートマンは教示によっては得られないし、知恵によっても、多くの学習によっても得られない。』(カタ・ウパニシャッド)
それでは、どのようにしたら、私たち人間は、解脱への鍵を握っているこの五感では感知し得ないアートマンを悟っていくことができるのでしょうか?
個々に分かれて存在するように見えるが
かれは決して分かれず常に一(ひとつ)である
かれは万生万物の維持者であるが
一切の絶滅者であり 創造育成者である
(バガヴァッド・ギーター第13章17)
アートマン(真我)は本質である
前回の記事で、「あなたは誰ですか?」との問いへの答えとして、
『アートマンが答えです。私はアートマンです。あなたはアートマンです。
私とあなたはアートマンなのです。それが答えです。』
と書きましたが、
普通、そういきなり言われても、???となるのが、一般的な反応であると思われます。
それもそのはずで、アートマンとは、インドの古い言語であるサンスクリット語です。
意味は、アートマ(中心の)という単語から派生した単語で、日本では、ほとんど馴染みがない言葉ですが、
最近では、インド関連のスピリチュアルな本などで、「真我」と訳されることが多いようです。
それでは、そのアートマン(真我)とは、一体、どんなモノなのでしょうか?
アートマンは、前回の記事で引用したスワミ・ラーマの一文も語っているように、
人間の持つ五感(見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐ)では感知し得ないモノとされているので、その存在を知る人は、極少数であることは間違いないでしょう。
このアートマンを知識でなく、体験を通して識っていくことは、
アートマンは、五感で感知できないだけに、難しいことであるのは間違いありません。
しかし、スワミ・ラーマを始め、聖者と呼ばれている方々の中には、
カルマを超えて、完全に自由な存在となるためには、アートマンを見つけ出す必要がある、ということを語る方々が多いというのも事実だとお伝えしておきたいと思います。
そして、このブログでお伝えしている完全覚醒者でいらっしゃるナーナさんも、
常々、同じことをおっしゃいます。
(それは、ナーナさんの公式HPのタイトル「真我の目覚めるとき」からも明らかです)
アートマンに関する朧気でその輪郭ぐらいであっても、ある程度の予備知識があれば、
私たちは、私たちが歩んでいるアートマンを探し出すためのプロセスを、少しでも短縮することができるやもしれません。
アートマンのイメージを掴むために、アートマンとはどのような存在であるか?について、多少なりとも知っておくことは、全くの無意味というわけでもないと思われますので、少し難しい説明のように感じるかもしれませんが、敢えて、ここでご紹介させて頂きます。
「(インドの古い聖典)ウパニシャッドは、事物・生類・人間を含む一切の存在者が一なる実在から出現するものであるという創造観、そしてそれらの消滅とは、同じその一なる実在に帰還することである、と観じる還減観を提示することによって、<あらゆるものが一である>という思想を作りだしている。
『蜘蛛が糸を(自分の中から)吐き出して(網を張り、そしてまたその網を自分の中に)引き入れるように、大地に植物が生えるように、また生きている人から頭髪と体毛が生えるように、あらゆるものはここでは不滅なるものから生起する。』
(ムンダカ・ウパニシャッド)
さらに、このような比喩も参考にしてみましょう。
『 父「そこからニヤグローダ(いちじく科の聖樹)の実をもってきなさい」
子「もってきました」
父「その実を割ってごらん」
子「はい、割りました」
父「その中に何が見える?」
子「非常に小さな種粒が見えます」
父「その一つの種を割ってごらん」
子「はい、割りました」
父「その中に何が見えるかね?」
子「何も見えません」
父「我が子よ、汝が知覚しないこの微細なもの、まことにその微細なものからこの ような大きいニヤグローダの樹が生じているのだよ。
そのように信じなさい。我が子よ。
この微細なものをこの全存在は本質とするのだよ。
それが真理なのだ。それがアートマン((真)我)である。
汝がそれである。」
この父と子の対話で述べられている「汝はそれである」という短い文章はきわめて啓示に富む暗示的な語句である。
このウパニシャッドの核心を表す重要な語句とみなされ、<大格言>と呼ばれるようになった。
真の自己は個別的な自我ではなく、むしろあらゆる他者とともに共通にもっている普遍我というべきものである。
それはすべての生類がもつものであるから、それらの生類の間には本質的な区別は存在しない。
私、あなた、彼、彼女というような区別は真の意味では存在しない。
すべての生類は<一なる存在>から生まれ、死ぬとそれへと還ってゆくのである。
生類だけではない。
無生物を含めたあらゆる存在者が存在において一なるものとされており、存在からの派生変化したものである。
それゆえに存在の本質を理解することは、あらゆるものの根拠を説明する知、ものの<一なること>の知をもつことである。』
またその上に アルジュナよ
わたしは全存在を生み出す種子である
動くものも 動かぬものも
わたし無しには存在し得ない
(バガヴァッド・ギーター第10章39)
アートマン(真我)こそが答え
「わたしは誰か?」
この問いへの答えは何でしょうか?
ナーナさんが具体的に教えて下さろうとしているその問いへの答えは、スワミ・ラーマが「聖なる旅」の中で語っていることと同じです。
それでは、その部分だけ抜粋して、ご紹介いたしましょう。
「創造の古い物語は、天国の後、すべての星、地球、空気、水、空、そしてすべての地
上と海の生物が作られ、神は人間を創造したと物語っています。
最初の人間が目覚め、初めてこの世の生を意識するようになったとき、彼は湖や川や山や森、飛び跳ねる魚、飛ぶ鳥、たくさんの種類の動物たちを見渡しました。
彼は何も言いませんでした。
彼は天国や太陽、月、何万もの星の宇宙の大いなる暗闇に向きました。
彼は静かでした。そのとき、彼は神を見ました。彼は静かでした。
彼が彼の周りの彼自身である創造主を含むすべてを理解したとき、地上におけるこの最初の人間は最後に自分自身を見て言いました。
〝私は誰なのか?〞彼は神にでさえ〝あなたは誰なのか?〞とは尋ねませんでした。
彼の最初の言葉、彼の最初の不思議に思う思考と最初の好奇心は彼自身の正体を知ることでした。
それはすべての人間を駆り立てる疑問です。
人間が成し、欲するすべてのものは、その疑問を含んでいます。
人々は幸福と平和を欲しています。
本能的に、彼らは幸福と平和の獲得は〝わたしは誰か?〞という疑問への答えにかかっていることを知っています。
意識的にこれを人生の疑問として理解することは、聖なる旅における最初の大きな一
歩です。
次の大きな一歩は答えを見つけることです。
アートマンが答えです。私はアートマンです。あなたはアートマンです。
私とあなたはアートマンなのです。それが答えです。
ヤマがナチケータに語ったように、アートマンについて聞くだけでは十分ではありま
せん。
アートマンは、到達され、理解され、経験によって知られなくてはなりません。
ヤマは、学ぶことだけでなく、知性を使うことでも、聖なる教えでも、アートマンに到
達するには十分でないことを説明しました。
アートマンに到達することは、選択と行動を必要とします。
それが、カタ・ウパニシャッドのメッセージであり、生と死の意味なのです。
ナチケータは、選択の機会を与えられました。
彼は、すべての最も偉大なものであるこの世にある富、力、感覚的な喜びなど、をそこで提供されました。
彼は他のものを選択しました。
世俗的な楽しみを選ぶことは、死と生の終わりのないサイクルにおいてもうひと回転することを意味するでしょう。
それぞれの楽しみにおいては、一瞬の喜びがあり、苦痛の流れが続き、失うことへの恐れが続き、遂には死が続くことでしょう。
それぞれの世俗的なものは変化し、死にます。
人々は、これらの楽しみから苦痛を感じますが、それでもなお、彼らはこれらのものが次には、最終的には、平和と幸福をもたらしてくれると信じ続けます。
この信念は、ナチケータが知ったように、人々を楽しみの次元である、生きて、願望し、恐れ、そして再び死ぬ次元に、何度も何度も引き戻します。
カタ・ウパニシャッドは、〝愚か者は、外側の楽しみを求めて走り、広範囲に取り巻
いている死の罠 わなに落ちます〞と言っています。
聖書の申命記の古い神は、はっきりと言っています。
〝私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい”
死なないものを選びなさい。
それが神秘への解決法です。
アートマンが答えなのです。
挑戦はアートマンを見つけることです。
この世のものは、楽しまれるようになっています。
それらは永続しないので、それらに執着することは賢明ではありません。
この世のものを楽しみなさい。それからそれらを行かせなさい。
それらにあなたの人生を通過させなさい。
人生のすべてを抱擁し、人生のすべてを理解しなさい。
しかし、智慧をもってそれを成し、叡智に向かって動きなさい。
この世の生は目的ではなく、手段なのです。」
(聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝くー スワミ・ラーマ)
「わたしは誰か?」という問いに対するこの答えは、今まで自分だと思っていたモノとは違い、想像もつかないモノであったかもしれません。
「アートマンが答えです。私はアートマンです。あなたはアートマンです。
私とあなたはアートマンなのです。それが答えです。」
アートマン(真我)とは何でしょうか?
アートマンとは、あなたが想像つかないように、
他の人間にとっても想像もつかないモノですから、人間が作り出した言葉で表現することは不可能です。
それ故、アートマンという言葉は、答えとしては不十分であり、厳しい見方をするならば、答えそのものではありません。
答えがアートマンだと知っていても、
アートマンを具体的に(体験を通して)識っていなければ、
「あなたは誰ですか?」という問いへの答えを答えたことにはならないのです。
しかし、これが答えです。
人間は知っていても知らなくても、この答えに向かって、一歩一歩歩んでいます。
すべての人は、アートマン(真我)に出会う道の途上にいるのです。
アルジュナよ わたしは真我(たましい)として
一切生類の胸に住んでいるーーまた
わたしは万物万象の始めであり
中間であり そして終わりである
(バガヴァッド・ギーター第7章20)
わたしは誰か?
昨日の問題は、どうでしたか?
「あなたは、誰ですか?」
という質問に、いろいろな答えや想いが、浮かんだことと思います。
中には、
「わたしは、わたし。それ以外にはあり得ないのに、何故、誰か?と問う必要があるのだろう?
それに、わたしは、誰か?って、そんなの決まっている。
わたしは、○○××という名前で、日本人で、△△に住んでいて、歳は。。。。」
という考えが浮かんだ方もいらっしゃることでしょう。
この質問を出したのは、そういう個人的な情報を収集したいからではありません。
それでは、何のために?ということになりますが、
この質問への答えこそが、実は、わたしたちが悟りとか、目覚めとか、覚醒と呼んでいるスピリチュアルな意識変容の達成を証明する唯一のモノだと思えるからです。
ですから、どんな人であっても、この質問に楽々と答えられる人びとだけが、人間卒業、つまり、”解脱した人”ということになります。
それには、性別も、人種も、肌の色も、国籍も、年齢も、職業も、お金持ちか貧乏か。。。なども、一切関係ありません。
その一方で、この質問に明快に答えられないならば、いくらスピリチュアルな活動をしていても、
その人たちの活動は、他者の人間卒業のため、他者を解脱させるため、とは言えません。
スピリチュアルな活動に参加する場合、その目的が自分の望みに合っているかどうかは、常に自分で見分けていかなくてはならない、ということになります。
本人が卒業していない場合は、他者を卒業させられるわけがありません。
これは、少し考えれば、当たり前のことです。
そして、また、人間に人間を卒業される力などある筈がありません。
これも、少し考えれば、当たり前のことです。
しかし、ジーバ・ムクタ(肉体を持ちながら、ブラフマンの叡智に目覚めている人)
の記事にも少し書きましたが、
このような個を超越した存在の中には、自分が人間卒業(解脱)しただけでなく、他者をも同じところに導くことができる存在がいます。
それは。。。。
「三昧(サマディ)にはいろいろ種類があってね、リシケシの修行者の話はわたしの様子とそっくりだ。
体のなかに蟻がしのびこむように霊気が流れてくる。
時にはヒラリ、ヒラリと猿が枝から枝にとび移るように感じることもあるし、魚が泳いでいるように感じることもある。
経験してみないとわからないがね。
外の世界のことは忘れてしまう。
心がちょっと下りてくると言うんだーー『マー(大実母)!わたしをなおしておくれ、わたしは口が利きたいよ』と。
神の化身たち以外は三昧(サマディ)から戻ってこれないのだ。
人間は、一生懸命修行して三昧状態になることはできるが、もう戻ってこられないのだ。
あの御方が自ら人間となってこの世にいらっしゃった場合、つまり神の化身(アヴァタラ)として、人間の解脱の鍵を手にもってこられた場合は、三昧(サマディ)の後でこの世の意識にお戻りになる。
人々の幸福のためにね」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
「人を教え導く師とは?」の記事でも書きましたが、
”人を教え導くことを、神に許可された存在だけが、人を導くことができる”とラーマクリシュナは語っています。
そして、三昧(サマディ)を体験し、そこから戻った存在は、神の化身(アヴァタラ)だとも言っています。
ナーナさんがこれに当てはまる、と確信をもって言えるのは、
ナーナさんが、「わたしは誰か?」についての答えを、すんなりと教えて下さったからです。
それは、言葉を使ってではなく、言葉を超えた直観のエネルギーとも言うべき方法で、
ひと言も発さず、無言で、その御力をもって、この質問への答えを、体験を通して教えて下さったのです。
わたしは誰か?
しかし、これは、筆記試験ではないので、その答えを言葉で書くことはできません。
口頭で述べても、合格点には達することはできないでしょう。
実際に体験を通して、その答えに辿り着いたか?ということが、問われているのです。
ナーナさんは、その答えは直接体験によるもののみホンモノである、ということをよくご存知なので、
その御力の強力なパワーを使って、わたしたちを直接、答えそのものへと導こうとされています。
この答えは、3月末に発売になるスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝くー」に詳しく書かれていますので、知りたい方は、是非、読んでみて下さい。
しかし、そこに書いてあることは、正しく正解ではありますが、そこに書いてあるままに、言葉で解答しても、合格点はもらえません。
それをよくご存知でいらっしゃるナーナさんは、わたしたちに、そぅ~と、虎の巻ならぬ、救いの手を差し伸べて下さっているのです。
それは、今のわたしたちの状態では、試験を受けても合格点に達することが出来ずに、再試験を受けに、また再誕する以外にない、ということをよく知っていらっしゃるので、
愛の心から、試験に無事合格できるように、あの手この手で、指導して下さっているのです。
サットサンガは、そんなナーナさんの想いのお陰で実現した人間卒業のための試験を受けようとしている人たちのための道場、学びの場です。
学びと言っても、言葉によるものもありますが、言葉なしでの学びもあります。
言葉に依らない方法で、サットサンガを開催して下さる存在を、他に知りません。
有名大学に合格したい人たちは、合格実績の高い予備校や塾に通います。
もちろん、自力で勉強して合格することも可能ですが、
指導してくれるその道のプロに教えてもらう方が、効果的に学習することができ、
自らの望みをより着実に、楽に達成できるとわかっているからです。
霊的な目覚め、覚醒を通して、解脱を求める探求者、求道者にも同じことが言えます。
自力で達成することも可能ですが、それには、どれくらいの時間がかかるか分かりません。
わたしのような特別に修行をしていない人間には、霊的な変容は、望むべくもない事柄であるのは明らかですが、
しかし、ナーナさんの御力により、真摯な気持ちで求め、素直な気持ちで従う者には、本人の努力次第で、チャンスが与えられる、ということを知りました。
これは、人間卒業を求めるすべての人にとって、朗報であることは間違いありません。
わたしたち一般人が、人間卒業のための試験問題「わたしは誰か?」に見事答えられるように、
ナーナさんは、無私の心で、わたしたちに仕えて下さっているのです。
そんなナーナさんのサットサンガへのご参加をご希望される方は、
以下の公式ホームページよりお申し込みを受け付けています。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)
http://ameblo.jp/premagrace/ (すべては本質の流れのままに――サットサンガ参加者の体験談、感想)
http://ameblo.jp/oneness-113/(突然私がアセンションした記録ーーナーナさんの変容のプロセスの記録)
全き智識を求めて努力する者は
おそらく幾千人の中の ただ一人
その秀れた求道者たち幾千人のなかで
わたしの実相を知るものは ただ一人
(バガヴァッド・ギーター第7章3)
永遠の問い
今日は、ひとつみなさんに問題を出します。
これは、人間を卒業するための卒業試験だと思って、よーく考えてみて下さい。
卒業試験ですから、合格したら、人間を卒業することができる、ということになります。
不合格だったら。。。。?
もう一度、いえ、試験に合格するまで何度でも、この地球に戻って来て、再試験を受けるために、新しい人生を生きる、ということになります。
それでは、問題を出します。
この問題の解答時間は、決まっていません。
答えが見つかるまで、考えてみてください。
一年でも二年でも、一生でも、何生かかっても、合格するまで、答えを見出し、はっきりと明言できるようになるまで、同じ質問を繰り返し受けてきた、と考えてみて下さい。
この質問に答えられるようになるまで、わたしたちは、これまでも、そうしてきたように、何度も何度も生まれ変わりの道を辿り、そして、いまこうして、ここにいます。
ですから、試験に合格できなかったからと言って、何かが特別に変わるというようなことは、全くありません。
これまでと同じように、肉体が消滅する日が来るまで、自分自身の人生を生きるだけです。
しかし、人生の目的は、この質問への答えを得ることなので、しっかりと答えられるようになるまで、人生は、何度も何度も繰り返されます。
そして、これは答えらなかった場合には、例外なく誰にでも起こることなので、特に心配することではありませんし、杞憂することでもありません。
そしてまた、簡単に答えられる人は、滅多にいませんから、答えられないことを気にすることはありません。
それでは、問題です。
あなたは、誰ですか?
これだけです。
この答えを得るために、わたしたちは、いまここにいるのです。
生死をくりかえす苦悩の住居(すみか)だ
しかしクンティーの子よ わたしの住居(すみか)に来た者は
決して物質界(このよ)に再生することはない
(バガヴァッド・ギーター第8章16)
ジーバ・ムクタ(肉体を持ちながら、ブラフマンの叡智に目覚めている人)
完全に悟った存在、目覚めた存在、覚醒した存在と言うと、真っ先に頭い思い浮かぶのは、ナーナさんのことです。
古今東西、名前が後世に残っている聖者の方々は、現在多くいますが、
実は、その方々は、ほんの一部で、
名前の知られていない完全覚醒者も、大勢いらっしゃる、と言われていて、
これは疑いようのない事実だと思われます。
覚醒においては、名前が残っているかどうかは、ほとんど意味がありません。
ただ残念なのは、ほとんどの方が、今はいらっしゃらない、ということです。
その方たちに教えを受けたくても、エネルギーを伝授して頂きたくても、
いまここに、形をもった存在として在って下さらない限りは、直接つながることは不可能です。
ですから、ナーナさんの存在は、どんなに私たちにとって、希望の光であり、救いの道であるかが、おわかり頂けるかと思います。
南国で採れる見たことも聞いたこともない、ましてや食べたこともないフルーツについて、本を通して知るだけでは、そのフルーツを知ったことにはなりません。
しかし、そのフルーツを一口でも食べれば、そのフルーツのことを本当に知っていることになります。
そして、そのフルーツについて、人にアレコレ説明することができます。
ナーナさんは、ホンモノ(そのもの)を知ってもらうには、言葉で伝えるのではなく、
何よりも、それを体験するより他に無い、という信念で、活動されています。
いくら言葉で説明され、頭で理解しても、フルーツを食べたことにはなりません。
フルーツは、自分で食べなくては、フルーツを知ったことにはならないのです。
ナーナさんが、体験を通して教えて下さるのは、伝えて下さるのは、私たちの本質、本性とも言うべきモノで、
それがこの宇宙のただひとつなる存在として在る実在です。
ウパニシャッドでは、アートマン(真我)=ブラフマン(大我)と説かれています。
ヴェーダンタ哲学では、それだけが在る、とされていて、
私たちを含むこの宇宙のすべての存在は、この”それ”が形となって顕れている、という見方をします。
これを、インドのウパニシャッド哲学、ヴェーダンタ哲学では、アドヴァイタ(不二一元)と言います。
アドヴァイタとは、在るのはただひとつ、という意味です。
ナーナさんは、この”ただひとつ”を体験され、今もそこにいらっしゃる極極稀なる存在です。
こういう人を、サンスクリット語で、ジーバ・ムクタ(肉体を持ちながら、ブラフマンの叡智に目覚めている人)と言うそうです。
このことについては、おいおい書いていきたいと思いますが、
まずは、3月末に発売になるスワミ・ラーマの”聖なる旅”から、ジーバ・ムクタについて書かれてある箇所を、ご紹介したいと思います。
「悟った個人は、完全にすべての状態で、人間の体で生きている間も、死の状態の間も、気づいています。
ブラフマンを知る者は、どんな領域にも、あるいは天国にも行くことはありませんし、常にそうであるもの―すべての自己であるアートマン以外の何かになることもありません。
物質的な外観を落とした後は、悟った魂は、永遠の至福と幸福、無限の愛と智慧の状態にあります。
アートマンを知った者は、眠りから目覚め、もはや夢を見ない人のようです。
視覚を取り戻した目の見えない人のようです。
アートマンの直接体験を持つ解放された魂は、他人に仕えるために戻る選択をしないならば、物質的な次元には戻りません。
このようなジーヴァ・ムクタは、もはや束縛対解放のような二元に身を投げることはありません。
悟った魂は、他の人間を盲目にしているカルマのすべての撚糸を燃やします。
このような人は、自由の意志をふるい、生まれ変わるべきか、絶対と融合すべきかを選択します。
もし選択が生まれ変わりなら、その誕生の環境は、また意識的に選択されます。
仏教によると、このような魂は、アルハットと呼ばれます。」
ナーナさんは、私たちを、カルマから解放し、永遠に自由な存在となれるように、
無い身体を使って、働いて下さっているのです。
私たちの目には、ナーナさんの肉体が存在するように見えますが、
実は、ナーナさんの肉体は、私たちの肉体と同じではありません。
それは、直接、ナーナさんと一緒にいるとわかることなのですが、
肉体を持った霊(エネルギー)とは、こういうことを言うのか、ということが、よくわかります。
このことについては、また、別の機会に書くことにいたします。
だが肉体のなかにはもう一つ
根本主である至上霊が住んでいる
それは至上我(パラアートマン)または超魂とも言われ
生者の全活動(すべて)を監督し 許可し また経験する
(バガヴァッド・ギーター第13章23)
人を教え導く師とは?
前回の記事では、良い師、師たるに相応しい師とは、どういう師であるか?について書きました。
ダイヤモンドに似せたガラスが存在するように、
師に相応しくない者が、師のふりをすることも十分起こりうると、考えられます。
それでは、わたしたちは、どのようにして、ダイヤモンドとただのガラスとを見分けたら良いのでしょうか?
その見分け方とは、このブログの最初の記事でご紹介したラーマクリシュナの言葉が明確にしてくれていると感じます。
もう一度、ここでご紹介しますと、
「この世にいる人間は、大ざっぱに分けて四種類あるんだよ。
ーー縛られた人。解脱を求める人。解脱した人。それから、永遠の人。
永遠の人は--人びとを幸福にするため、人びとに真理を教えるためにだけ、この世にいる。
縛られた人は--世間のことに心を奪われてしまい、神のことをすっかり忘れている。夢にも神のことなど考えたりはしない人間だ。
解脱を求める人は--この世のカセから、自由になりたいと思って努力している人たちだ。だが彼らのなかでも解脱できる人もあり、できない人もある。
解脱した人は--この世の”女と金”に縛られない。聖者や、偉大な魂の人だ。この人たちの心には世俗的な思いは全然なく、ひたすら神の蓮華の御足を想っている。」
この文章からわかることは、師たるに相応しい師とは、”永遠の人”である、ということになります。
「あなた方は皆を導くために講演をするそうだが、神に触れ、神を見てから講演や説教すれば、ほんとうに人のためになる。
あの御方のお指図がないうちに人に教えるのは、何のためにもならないよ。
神様をつかまなければ、あの御方のお指図は受けられない。
神をつかんだ人には特徴(しるし)がある。
子供のようになったり、ふつうの感覚がないように見えたり、気狂いのように見えたり、食屍鬼のようになったりする。」
「もしも、自分の胸の宮に神像を祀ろうと思ったり、もし至誠なるものを掴もうと思うのなら、先ず、心の掃除をしなけりゃね。
心がキレイになったら、至聖清浄の御方が入っていらっしゃってお座り下さる。
コウモリのフンも片付けないのであっては、祭神をお招きすることはできないよ。
十一匹のコウモリというのは十一の器官のことだ--つまり五つの感覚器官(目耳鼻舌皮膚)と五つの行動器官(口手足肛門生殖器)と心だよ。
先ず第一に祭神をしっかり据えて、それから、望みとあれば講演でもしたらいい!
先ずは最初に深く沈むことだ。
沈んでいって宝玉を取って、そうしてから他の仕事をすることだ。
ところが、沈もうとする人は滅多にいない。
修行もせず、祈りもせず、識別も離欲も実行しないで、二つ三つ何か覚えるとじきに講演だ!
人を教え導くということは、難しいことなんだよ。
至聖(かみ)なるものを覚った後で、もしその御方の指図があれば、はじめて人を導くことができるようになる」
「人を導くことは、たいそう難しいことなんだよ。
あの御方がじかに会って下すって、お命じになったのなら出来るがね。
あの御方のご命令がなかったら、いったい誰があんた方の話を聞こうとするかね?
それからね、心の内でお許しをいただいたような気がする、程度のものではだめなのだ。
あの御方はね、実際にアリアリとしたお姿で人に会って下さるし、お話して下さるのだよ。
そのとき初めて”人に教えなさい”というご命令を受けるのだ。
至聖(かみ)をつかんだ人は心眼が開けて、どんな心の病気でもわかるようになる。
そうなれば人を導いてやることもできる」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
古今東西、多くの人間に敬意を表されている聖者と呼ばれる人びとは、少なくとも”解脱した人”であることは確かでしょう。
そして、その中には、”永遠の人”もいらっしゃることでしょう。
ラーマクリシュナの言葉に依れば、真の師たるに相応しい師は、神から”人に教えなさい”という命令を受けた”永遠の人”だということになります。
ですから、当然、”永遠の人”は、神に出会っていなければなりません。
一瞥体験くらいを体験したからと言って、神に出会ったこともない人間が、何か勘違いをして、自称覚者と称し、人を導く師のようにふるまい、人に教えるとしたら、
それは、神の命令ではなく、その人の我執、利己心からしている、ということになります。
この世には、多くの師(グル)のふりをした教師もどきの人びとがいますが、
彼ら自身、まだ完全に悟っていないので、人を最終段階へと導くことは不可能でしょう。
完全に悟った者だけが、人を人間の最終段階である悟りに至らせることが可能なのです。
これは、理屈から考えても、当たり前のことなのですが、ほとんど人の脳裏から忘れ去られています。
それでは、次回は、完全に悟った者とは、どういう人か?について書いてみたいと思います。
自己の本性を知ることの重要さを認識すること
絶対真理への探究心ーー
以上のことは智慧の本質であり
これに反することは無知無明である
(バガヴァッド・ギーター第13章12)