永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(42)「死」②
前回から、「死」について考える上でのヒントをご紹介しています。
それは、「解脱」つまり、インドで発祥した宗教思想であるヴェーダに大きな影響を受けているヒンドゥー教、ジャイナ教、シク教などは、すべて、生と死を繰り返すと言われている「輪廻」からの「解放」(解脱)が、その主要な教義の中心にあり、また、日本に一番馴染みが深い「仏教」の教えの中にも、「輪廻転生」からの「解脱」が、仏教で説かれている「ニルヴァーナ」(涅槃)という境地に置き換わっていることは明らかで、仏教の経典に触れたことがある人なら、生と死の繰り返しから自由になることが、仏教を通して人間が到達し得る最高の境地となっていることは、容易に理解できることでしょう。
また、ヨーガにおいても、その根幹には、「解脱」(Moksha)を目指すことが、サーダナ(霊的修練)の最終目標となっていますので、これらの宗教や教義や修練法は、それぞれ異なっていても、共通している唯一のことがあり、それは、いかに生きるか?ということではなく、いかに死ぬか?ということにあると言っても過言ではないと言えます。
そのためには、一般的には忌み嫌われている「死」について、普通なら考えたくもない、考えるだけで悲しくなり、恐ろしくなる人々にとっては、「死」について生前に学んでおくことは、人間の宿命として自分自身の将来に必ずや起こる「死」そのものを乗り越えていく大きなヒントになり、それによって、「死」に対する捉え方が変わり、「死」は忌むべきものであり、哀しい苦しいことである、というような「死」に対する先入観や思い込みが変わる可能性があります。
また、その延長で、生と死の繰り返し(輪廻転生)があると思っている人びとにとっては、その繰り返し(輪廻転生)自体をも乗り越えていくという私たち人間に秘められた潜在的にもっている可能性が開花するきっかけともなり得ます。
(もちろん、これは、自死を推奨している訳はなく、むしろ、生と死の繰り返し(輪廻転生)の理論からすれば、自死しても、生と死の繰り返し(輪廻転生)から抜け出せるわけではありませんので、一時的に、肉体を離れても、また、戻って来るというのが、輪廻転生の考え方ですから、その繰り返しを永久にストップすることを目指すならば、どんなに苦しくとも、安易な考えを抱かない、ということを生涯を通して、心に銘記しておくことは、生と死の繰り返しからの完全なる自由を目指して道を歩む上での基本的な心構えとして、とても大切です)
前回の記事では、スワミ・シヴァナンダの御言葉「死は、5元素(地水火風空)の分解である。」という内容と、その次にご紹介しましたスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの「魂の科学」でご紹介した文章は、物質である肉体に起こる現象について書かれたものです。
つまり、私たちの肉体は、地元素としては、37兆個とも言われている細胞や骨、水元素としては、血液や体液、胃液、膵液、唾液などの分解酵素液、火元素としては、消化作用(体温約40℃で体内で食べたモノを消化吸収しています)や体温、風元素としては、呼吸、運動や感覚に関する神経伝達及びその結果として生じる心の働き、そして、空元素としては、(これが一番難しいのですが)、「虚空」つまり、実体のない「 」であり、一種のスペース(空間)と考えられており、それだけが、唯一、万物に共通であり、分かち難いモノとして存在しており、これらの五元素が元になって、この宇宙は、この世として成り立っています。
そして、重要なことは、私たちが「死」と呼んでいる現象は、所謂、肉体に起こる現象であって、それが、すべての終りではない、ということなのです。
ヨーガやウパニシャッドでは、肉体の消滅とは、火元素(火葬や腐敗=微生物の消化作用)によって起こる地元素と水元素の消滅を指し、風元素や空元素は、肉体と一緒には消滅しない、とされています。(前回ご紹介しましたスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの「魂の科学」の文章の中で、『次いで、ブラフマランドラの意思、理智、それにすべての感覚器官が五種の微細生気からなる球体とともに心臓部へと向かい、そこで原因体を取り囲みます。こうして、感覚器官の持つ力は五種の微細元素からなる球体中に納められますが、微細体のすぐ内側には、微細生気球、続いて我執球、次に心素球があり、中心には真我が納まっています。そして、真我がこれらの光り輝く球体をその周りに引きつけたまま、肉体から抜け出してゆくのです。』というのは、そのことを言っています。)
ヴェーダでは、生命エネルギーの源である「魂」は永遠であり、肉体が消滅した後も、在り続けるとしています。
そして、私たちの本性は、この生命エネルギーの源である「魂」、すわなち、真我(アートマン)なのです。
ですから、私たちは、やがて滅ぶことになっている一番外側の鞘である「食物鞘」である肉体ではありませんし、更には、この世を体験している「心」でもないのです。
しかし、反対に、「身体」や「心」を自分だとし、自分と言う個我が実体のある存在だと思い込んでいる場合には、それらの消滅は、個我に大きな苦しみや悲しみをもたらすことでしょう。
それでも、その苦しみや悲しみを乗り越える方法があり、その苦しみと悲しみの繰り返しから自由になる道があることは、「死」が宿命である個我の私たちにとっては、大きな救いと言えるでしょう。
前回は、スワミ・ヨーゲシヴァランダの「魂の科学」から「肉体の死」についてご紹介しましたので、今回は、その反対の「誕生」において、どのような現象が起きているのか?をご紹介したいと思います。
その次に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からのご紹介と、4年前に翻訳出版いたしましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」に書かれてある「死を学ぶ」をご紹介いたします。
『精子と卵子とが結び付き、いかにして母体の中の小さな胎児の身体が造られるか、そのきっかけとなる事柄を考えてみて下さい。
このとき真我は直接この胎児の中に入ってくるのです。
ですから、よく言われるように、真我は地上に降り注ぐ雨とともに地中に浸み込み、まず食物の中に取り込まれ、次に体内に摂取される滋養分に姿を変えて次第に精液の中に取り込まれ、精子と卵子とが結合した際に胎児としてその姿を現してくる、などと説明する必要は全くありません。
実際、真我は、私達の身体中に入り込む力を持っていますし、また、身体のどこからでも自由に抜け出すこともできます。
真我が身体内に宿る時は、さしずめ、王様が家臣を従えてその居を定める場合とよく似ていると言えます。
その家臣とは、この場合、二十四とか二十五とか言われる実在原理(Tattwa)のことを言います。
それはまず、根本自生(Prakriti)、大なる実在原理(Mahar Tattwa)、宇宙我執、五種の微細元素の八つの実在原理ですが、これらは総称して八種の根本自生とも言われています。
と言いますのも、これらに続いて生じて来る事物の質料因となっているからです。
そして、知識に関係する五つの知覚感覚器官、運動に関する五つの運動器官、五つの粗雑元素(Mahabhuta=地水火風空)、それに意思を合わせた十六種の実在原理が、前述の八種の根本自生から生じてくる結果なのです。
こうして二十四の実在原理が生じてくるのですが、ここで私は、大なる実在原理を心素(Chitta)と理智(Buddhi)とに分けて考えていますので、全部で二十五の実在原理があるということになります。
胎児が体内に宿る時、これら二十五の実在原理も、ちょうど、卵のような形となって一つに集まり、この楕円形をした胎児の真中に真我が入ってきます。
こうして胎児の中に宿った真我は、心素を介してその生命力を伝え始めますので、胎児は、五種の粗雑元素の中でも特に善性が勝っている部分のみを取り入れて、次第に子供の姿へと育ってゆくのです。
こうして胎児は大きく育ってゆくわけですが、だからと言って真我を取り巻く微細体や原因体もともに大きく育ってゆくかと言うと、決してそうではありません。
それはたとえば、今、一つの光を洞窟の内部に置くとしますと、その光はその洞窟内だけを照らし出しますが、その光を、今度は洞窟よりもさらに広い部屋の中に置けば、その広い部屋全体を照らし出します。
これと同じように、胎児が大きく育ってゆく時、これら二つの身体(微細体や原因体)の光も、その胎児の肉体の大きさにつれて広がってゆくわけです。
また、生殖行為から生まれた胎児の中に、もしも真我が宿らなかったとしたら、その胎児はそれ以上育ちませんし、時には、ある種の業(Karma)の結果、胎児が大きく育っていても流産してしまったりする場合もあります。
そうした時には、真我も身体内から抜け出してしまいます。
つまり、この生命活動を有する真我と一緒でなければ、生命を持ち合わせていない各元素は、どんな働きもなし得ません。
こうして、母親の血液中に混ざっている善性優位の五種の粗雑元素を吸収しながら、胎児は大きく育ってゆくのです。
そして、胎児の成長につれて精妙な二つの身体の光も大きく広がってゆきます。
これら微細体と原因体とは、大きくなったり小さくなったりする事ができますので、これらの身体が宿る肉体の大きさに合わせて、その大きさを自由に変えています。
つまり、肉体がどのような大きさになっても、その肉体全体にゆきわたって働けるようになっているのです。
以上にように、胎児の形をした食物鞘は、次第に大きく育ってゆきます。』
(魂の科学 by スワミ・ヨーガシヴァラナンダ)
Signs of Death(死のサイン)
死のリアルなサインを見いだすことは、大変難しい。
心臓鼓動の停止、脈拍や呼吸の停止は、死の実際のサインではない。
心臓鼓動、脈拍、呼吸、四肢の死体硬直、体のじとじとする汗、体温低下は、死の一般的なサインである。
医師は、眼の角膜反射があるかどうかを見つけようとする。
彼は、足を折り曲げようとする。
呼吸や心臓鼓動の停止があり、それでも、しばらくして人が生き返るという幾つかのケースがあったので、これらのサインは、死の本当のサインではない。
ハタ・ヨーガの行者は、箱に入れられ、地中に40日間埋められる。
その後、彼らは取り出され、そして彼らは生き返る。
脈拍は、長い間、止まるかもしれない。
怪しい動画の場合では、脈拍は二日間止まる。
多くの場合は、記録されてきた。
心臓鼓動は、何時間、何日間かは、止まるかもしれないが、その時は、回復することができる。
何が死の実際の最終的なサインであるのかを言うのは、極めて難しい。
体の分解と腐敗が、死のただ一つの最終的なサインかもしれない。
誰でも、分解が始まる前に、死後直ぐに埋葬されるべきではない。
人は死んでいると思うかもしれないが、ところが事実は、彼は、トランス状態にあって、カタレプシー(強硬症、擬死)エクスタシー(恍惚状態、法悦)、或いは、サマディ(超越意識状態)にいるかもしれない。
トランス、サマディ、カタレプシーやエクスタシーは、死に似た状態である。
外面的なサインは、同じである。
心臓疾患を患っている人は、特別な時間の後に、心臓鼓動が再び開始するかもしれないので、直ぐに埋葬されるべきではない。
埋葬は、身体が分解し始めた後にだけ、執り行われるべきである。
Soul’s Journey after Death(死後の魂の旅)
人が死ぬ時、彼は、彼と共に、5つの感覚知覚器官、5つの運動器官、5つのプラーナ、心(マインド)、理智(ブッディ)、チッタ(潜在意識)、我執(アハンカーラ)、次の生の形成を決定する変移するカルマの貯蔵所から作り上げられている永遠の微細体(アストラル体)を運ぶ。
魂は、すべての感覚を結び、退く。
油が切れると、ランプの炎が段々とほの暗くなって行くように、肉体的な感覚は、徐々に朧げになって行く。
微細体(Sukshma Sarira)は、霧のように肉体から消え去る。
魂は、主要な主生気(Mukhya Prana)、感覚器官、心(マインド)、によって伴われ、それ自身の無知、良い悪い行為、過去の存在によって残された印象を伴って、古い身体を去り、新しい身体を手に入れる。
それが、一つの身体から別の身体へと通過する時、新しい身体の種子である要素の微細な部分によって覆い隠される。
魂は、やって来る身体のビジョンを持つ。
ヒルや芋虫が、それが一つの物体の影響力を失う前に、別の物体をつかむように、魂は、現在の身体を離れる前に、やって来る身体を想像する。
Dissolution of the Elements at Death(死の際の元素の分解)
この肉体は、粗雑元素である地水火風空の五大元素から成っている。
神々たちは、神聖、或いは、光輝の身体を授けられている。
火元素は、その中でも他よりも優勢である。
人においては、地元素が勝っている。
水中生物の場合は、水元素が勝っている。
鳥の場合は、風元素が勝っている。
身体の固さは、地の割合による。
流動性は、水の割合による。
あなたが身体に感じる温かさは、火による。
前後に動くことや他の活動は、風による。
個の魂(Jivatman)は、5つの元素とは異なる。
死後、これらの元素は分解される。
それらは、自然の無尽蔵の貯蔵庫の中に、原初の源に行き着く。
地元素は、地球の貯蔵庫に行き、加わる。
他の元素もまた、それらの源へと還って行く。
器官の主要な機能は、統括する神々と融合する。
視覚は、ヴィジョンの力を持つ太陽へ、話すことは火へ、呼吸は風へ、耳は方位へ、体は地球へ、体毛は一年生植物へ、髪の毛は木々へ、血液と精液は水へと行く。』
(Bliss Divine by Swami Sivananda)
『ヤマはナチケータに生を理解するには、死を理解することが大切だと教えました。
そして同様に、生は死を理解するために理解されなくてはならないと。
ナチケータは、死は生の終わりではなく、継続する物語における単なる一時的な休止だと学びました。
死は単に、ニューヨーク市のグランドセントラル駅のような駅――ちょうど特別な列車を降りて別の列車に乗る準備をする場所――での停車です。
これは、生または死の意義を減らすことではありません。
どのようにして生は導かれるのか、言い方を換えると、グランドセントラルへ行く途中で選ぶ列車は、私たちが到着するとき、私たちがどんな心の状態であるか、そして、私たちの旅における次の移り変わりのために、私たちがどれくらい用意できるかを決定します。
私たちは散らかった貧しい列車を拾うこともできるでしょうし、きちんとしたきれいな列車を拾うこともできるでしょう。
私たちはあらゆる種類の誘惑と娯楽、踊り子たちやビデオゲーム、そして富と名声の列車を拾うこともできます。
ひとたび私たちが、あらゆる娯楽と肉体的感覚の満足に釘づけにされると、その列車を降りるのは困難になることでしょう。
または、私たちがグランドセントラルで列車を降りる時間がやって来ると、努力なしに喜んでそうすることができるように、私たちは道に沿った自然の光景を楽しむことを学ぶ列車を拾うこともできるでしょう。
ナチケータは、正しい列車を拾った人の一例です。
彼は知識の列車以外にどんな列車も持とうとしませんでした。
何も彼に興味を持たせられませんでした。
長寿、富、反対の性別、子供たちは、彼の実在の知識と生と死の秘密への願望に対して見劣りがしました。
ナチケータにとっては、生と死の秘密だけが持つに値するものだったのです。
内側に居住するアートマンの永遠の本質は、ウパニシャッドの中心的なテーマです。
これは死の神秘の秘密であり、生を理解するための鍵です。
神はすべてに浸透し、私たちの生命の命である魂に生命力を吹き込んでいるアートマンです。
アートマンは永遠に存続し、不変であり、故に死ぬことはありません。
滅びるものだけが死なねばなりません。
滅びるものは、不滅なるものの発見における道具として仕えるためだけにそこにあります。
死ぬのは、この世の次元を訪問する際に、魂の覆いを提供している外観である体です。
内側の自己は影響を受けないままです。
それは永遠なる存在なので、死にませんし、死ぬことができません。
バガヴァッド・ギーターは述べています。〝彼は非顕現であり、思考の対象ではない、そして不朽だと言われている。それ故、彼を知れば、あなたは誰かのことを嘆き悲しむことはない〟
私たちが人生で気にかけているものを失うことは悲しいことです。
愛する誰かが死ぬときは、悲しいです。
その喪失への哀しみは妥当ですが、その哀しみは長引かせるべきではありません。
過度に喪に服することは不健康です。
哀しみによって消耗すべきではありません。
なぜなら、喪失と死は必然的なことだからです。
それが、いくつかの文化と宗教的な制度において、哀しみに時間制限を設けている理由です。
例えば、厳格なユダヤ人は喪の段階に従います。愛する人の埋葬後は、近しい家族は7日間喪に服します。
この間、彼らは緊急時以外、家を離れません。
そして髭を剃(そ)ったり、髪を切ったりせず、あるいは、新しい服を着ません。
彼らは椅子に座ること、または靴を履くことさえ許されません。
彼らは哀しみに専念することを許され、喪に集中します。
その後、少し緊張が緩んだ23日間の喪中期間が続きます。
ユダヤ人の中には、11か月間の穏やかな喪に服す人もいます。
私たちは、私たちに近い人々の死を哀しみ、私たち自身の死を恐れます。
喪の期間があり、手放す時間があります。
このように、地球上及び私たちの歴史を通して、文化が、手放し喪に服するという、死を釣り合いのとれた見方に委ねる習慣を考案してきたのです。
これらの習慣は人々に彼らの人生を続けさせ、彼ら自身の死の準備をするのを助けています。
肉体の死は魂の終わりではありません。自己は不変です。
それ故、自分の時間の限界を超えた哀しみは賢明ではありません。
もし、人にとって重要なことが死んでいくことであるなら、死は恐ろしいものとして大きく立ちはだかります。
死はその人にとって中心的で意味のあったものに対する終わりを意味します。
その哲学における苦痛は深遠です。
しかし、もし、人が死するものを手放すために、物、あるいは人間関係を手放すことを学び、そして永遠であるものだけを求めるなら、死は恐ろしいものではありません。
それは単に方向転換、服を換えることなのです。
ですから、哀しみなさい。
しかし、そう長い時間は哀しまないことです。
同じアドバイスは失った何に対しても当てはまります。――結婚、仕事、友人、家、夢。そのために哀しみなさい。それから前進しなさい。
死の恐れと死に伴う苦痛は、過ぎ去っていく名前と形を持った世界への執着に本質的につながっています。
悲劇であると同じくらい皮肉ですが、人は、ある意味、死を否定し、彼らのこの世の人生が一時的なものであるという現実を快適なものにするために、この世における物と人間関係を求めます。
手当ては、慢性の病気よりもなお悪いのです。
死の恐れを強化しているのは、これらの物と人間関係への執着と、それらを必要とする信念だけなのです。
物と人間関係につきものの変化は、それらの喪失を確かなものとします。
所有者を快適にする代わりに、これらの変化、破壊、死んでいく物は、人々に彼らが恐れる死を思い出させます。――肉体、思考、癖、物や人間関係への執着の死を。
これらの執着は、喪失と再発する喪失の恐れを生み出し、再生し、強化します。
それらは人生を惨めにし、死を恐ろしいものにします。
この惨めさと恐れからの自由への鍵は、執着を起こさないことにかかっています。
人生の出来事のすべては、死から生が生じることを教えようとしています。
プロセスにおいては、死ぬことができない何かを知り、感じようとする衝動があります。
イエスは〝自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです〟と教えました。
次の文では、イエスは尋ねました〝人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう〟
イエスは、この世の人生と、この地球的な体に執着する人は誰でも、死においては、それらを失うことを意味して言ったのでした。
しかし、この世の人生とこの地球的な体への執着を離れ、イエスが意味する永久、あるいは、神意識と自分とを同一視する者は、けっして死ぬことはないでしょう。
この世のすべての富やすべての愉しみを持つことは、どんな役に立つのでしょうか?
それらは私たちが人生と呼ぶ瞬間にすべて消えます。
この世の愉しみに意識を集中することは、心をあまりに散らすため、内側の自己を探求することができないままになります。
仏陀の4つの素晴らしい真理は、人生は苦しみであると述べています。
苦しみには原因があり、苦しみの終わりがあり、それを終わりにする手段である解決法があります。
仏陀の解決法は、人生を正しく生き、人生を生産的に楽しく旅することです。
この道は、苦しみの原因である執着と願望を処理することを必要とします。
〝執着から完全に自由である者にとっては、哀しみはない、恐れもない。
欲することから哀しみが生じ、欲することから恐れが生じる。
欲することから完全に自由である者にとっては、哀しみはなく、恐れもない〟と仏陀は言いました。
別の仏教の経典は〝願望の放棄を通して、不死が悟られる〟と述べています。
一般的に、私たちは人生の早い時期に、幸福とは、何かを獲得することや人間関係から何かを得ることで、もたらされるというメッセージを得ます。
物は失われ、人間関係は変化し、苦痛が結果です。
私たちは、自分と同一視する次から次へと起こる感情と思考を持ち、これが苦痛をもたらします。
私たちは、自分が肉体であると思い、肉体が病気になったり、年をとると、あるいは、他の人の肉体が病気になったり、年を取ったりするのを見ると、苦痛を経験します。
苦痛は、何かがバランスを欠いているということを示唆する警告システムです。
失った物、変化した人間関係、移ろう感情や思考、弱っていく肉体の痛みは、私たちに何を語っているのでしょうか?
ひとつの可能性は、単純に人生がどういう状態であるかということです。
私たちはここに到着し、私たちが必要だと思うことは何でも手に入れるために努力します。
そして、プロセスにおいて苦痛を経験します。
そして、物語は終わります。
ですが、それはそれほど道理にかなっていません。
もし、誰かが足に痛みを感じるなら、彼に感染症に警戒させる痛みが単に、こう言うでしょう。〝やれやれ、足が感染症に罹った〟
感染は足を通って広がり、その人を殺します。
それは理性的ではありません。
人は、体に注意を必要とする問題を確認するために痛みを使うのです。
彼は、それは解決を必要とする問題だと見るでしょう。
人生の痛みは、私たちが物、人、感情、思考、体に対する関係を間違って知覚していると、私たちに語っているのです。
私たちは、それらの物、人、感情、体に依存しています。
私たちは、それらと自分を同一視し、それらに執着しています。
それらが去ったり、変化したりすると、私たちは苦痛を感じます。
これらの執着は、無知と同伴で、死の恐れの源です。
私たちが執着すればするほど、私たちが持つ死に対する恐れは大きくなります。
どんな執着もない人々――彼らの人生において自分自身が何かを所有していると知覚せず、彼らの肉体はただの器であると知っている人々は、恐れからは自由です。
執着するということは、あるいは、何かと自己同一視するということは、何を意味するのでしょうか?
執着は、私たちが私たちの存在のために何かを必要とすると信じている、ということを意味します。
これはエゴの働きです。
それは言います〝私はとても重要であるし、私はこの車を持つ必要がある。この車は私のもの、この車は私が成功しているという意味である、この車は私を自己確認するのを助けてくれる〟あるいは、〝私はこの女性と関係を持つ必要がある。彼女なしでは、私は幸せにはなれない。もし、彼女が私のもとを去ったら、私は永遠に壊れてしまうだろう、そして人生は無意味になるだろう〟
人は物の理想にまで執着します。
例えば、アメリカの文化では、人は、人生はこうあるべきというあるイメージを持って育てられてきました。
彼らは、自分が子供の頃から、成長して素晴らしい結婚をし、フェンスと花のある白い家に住み、献身的な子供たちを持つことを夢見ます。
彼らはより大きな家や2台目の車、リゾート地の別荘、早期退職を夢見ます。
これらは文化が作り出した理想であり、これらの物が彼らの理想に合致しないとなると、彼らは惨めになります。
彼らはまるで何かの悪い罠が彼らに仕掛けられたように感じるのです。
これは、理想と自分とを同一視することです。
あなたはあなた自身を、あなたの人格を、花や完璧な人生がある白い家にいる人として見ます。
あなたは、それはあなたであると思います。
しかし、それはあなたではありません。
これらのイメージに執着してはなりません。
人生と共に流れることを学び、すべては浮き沈みがあるということを学びなさい。
同じ傾向が、感情と共に、低次の心で働きます。
私たちは怒り、思います。〝私は怒っている〟誰が怒っているのでしょうか? 〝私は怒っている〟とは感情と自分とを同一視することであり、感情は私であると信じているということです。
私たちは感情にはなれません。
人間として私たちは怒りを持ったり、怒りを経験したりできますが、私たちは怒りや他の感情ではありません。
同様に、私たちは体ではありません。
私たちは体を持っています。
それらは私たちが使用するための道具なのです。
私たちは言います。〝私は6フィート1インチで、金髪で青い瞳を持っています〟私たちはそれではありません。それでもこれは私たちが思っていることなのです。
誰かが私たちの外見を批評すると、私たちは傷つきます。
自分の体が年老いていき、動きがゆっくりとなるのを見ると、それは私たちを恐れさせます。
私たちのほとんどは、体に意識があり、それが、私たちが自分自身を体だと認識している理由です。
人は、不死の自己から死する自己を切り離すことを学ぶと、識別力が徐々に発達します。
死は真の自己に触れません。
それは、ただ私たちがあまりに強く自分自身を体や周りの世界と同一視するので、信じるのが難しいのです。
私たちが何かを意識していないのは、単にそれが存在していないという意味ではありません。
ヤマは、ナチケータに言います。〝すべての願望と情熱が取り除かれると、完全なる静寂が優勢となり、人間は不死となる〟それが鍵です。
死は死を意味しません。
何故なら、死は自己に何の影響も与えないからです。
生と死のサイクルは行き当たりばったりで不運な現実ではありません。
それは指導者です。
タオイズムの思想家、荘子は述べています。
〝誕生は始まりではなく、死は終わりではない。無限の存在があり、始まりのない継続がある。誕生があり、死がある。吹き出るものがあり、入るものがある。人はそれを通して中に入り、それを見ることなく出ていく。それは神の門である〟
永遠を探し求めるために、一時的なものではなく、永久的であるものと生を同一視し、それによって死を克服するように導くのが、今述べているウパニシャッドです。
ヴェーダンタによると、私たちは体のためにではなく、まさに私たちの存在のために存在しています。
内側の自己は体を創造します。
寝ている間、私たちは体を意識しませんが、それでも私たちは存在します。
物質主義的な思想家たちは、あべこべにします。
彼らは体に頼り、それは私たちの存在の証拠であると宣言し、もし内的な存在があるとするなら、それは体を通って生じる、と。
ヴェーダンタは、正に反対のことを言います。
意識が私たちの体を存在するように思わせているのです。
死は恐れるべきものではなく、生における機能であるということが理解されるべきです。
死を受け入れることは現実であり、それは、あなたがここでのこの生は一時的なものであり、世界はただの停車駅であり、あなたは学び成長するための旅の途中でここにやって来て、それで旅は終わるのだと悟るのを助けることでしょう。
同時に、永遠の真実、あるいは、神があなたの内側にいらっしゃるということを忘れずにいなさい。
死はあなたにこの世界に執着しないように注意しています。
世界から学び、それを手放しなさい。
あなたの体をただの道具として見なさい。
それが目的に適うと、その仕事がなされます。』
(聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)
次回に続きます。
Hari Om Tat Sat!
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