永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

二元論における神と人間

前回の記事では、スワミ・ヴィヴェーカーナンダのギャーナ・ヨーガからの抜粋を元に、二元論における「神」と神による創造である「宇宙」についてご紹介しました。

 

今日も、その続きを見ていきたいと思います。

 

『すべての二元論的学説にともなう最初の困難は、ただしく慈悲深い神、無数のよい性質の貯蔵庫、の支配のもとにあって、この世界にこれほど多くの悪がどうしてあり得るのか、という疑問です。

この疑問はすべての二元論的宗教の内部におこりました。

しかしヒンドゥ民族は、決してそれに対する答えとして悪魔を発明することはしませんでした。

ヒンドゥ民族は、一致して、そのせめを人の上におきました。

また、そうするのが彼らにとってたやすいことなのでした。

なぜか。

たったいま申しあげたように、彼らは魂が無からつくり出されたものであるとは信じなかったのですから。

われわれは、この人生で自分が自分の将来を形成することができるのを知っています。

人は誰でも、毎日、明日を形成しようと努力しています。

今日、われわれは明日の運命をきめます。

明日は明後日の運命をきめるでしょう。

こうして順に未来にお呼ぶでしょう。

この推理は過去にむかっておしすすめることもできる、ということはまったく論理的です。

もしわれわれが自分のおこないによって自分の未来の運命をきめることができるのなら、どうしておなじルールを過去にあてはめることのできないわけがありましょう。

もし、無限につづく一本のくさりの中で、一定数の環が交互にくりかえされるのであれば、その一定数の環のグループの一つが説明されるなら、われわれはそのくさりの全体を説明することができます。

それゆえ、この、時の無限の長さのなかで、もしその一部分をきりとってその部分を説明しそれを理解することができるなら、そして、もし自然は斉一であるということがほんとうであるなら、おなじ説明が時のくさり全体に適用できるはずです。

もし、われわれはここで、このみじかいひとときの間に自分の運命を一心につくり出しているのだ、ということがほんとうなら、もし、現在われわれが見ているように、いっさいのものは原因を持っている、ということが真実であるなら、われわれがいま、あるところのものはすべて、われわれの過去全体の結果である、ということもまた、真実であるにちがいありません。

それゆえ、人類の運命を形成するには、人間自身以外の何者の手も必要とはしないのです。

この世界に存在する悪はほかでもない、われわれ自身によってつくられるものであります。

われわれがこのすべての悪をつくりました。

そして、わるい行為から不幸が生まれるのをたえず見ているのとまさに同様に、この世界に現存する不幸の多くは人間の過去の悪行の結果であるということも見ることができます。

それゆえ、この学説にしたがえば、人間だけに責任があるのです。

神はせめられるべきではありません。

永遠に慈悲深い父なる神は、少しもせめられるべきではありません。

われわれが、「まいた種子をかりとる」のです。

 

二元論者のもう一つの独特の特徴は、あらゆる魂は最後にはかならずすくわれるというものです。

ひとりとしてのこされる者はありません。

さまざまの有為転変をへて、さまざまの苦しみや楽しみをへて、最後には一人の例外もなく出てくるでありましょう。

何から出てくるのか。

すべてのヒンドゥ宗派の一つの共通理念は、いっさいの魂は、この宇宙から脱出しなければならない、というものです。

われわれが見たり感じたりしているこの宇宙も、また想像の宇宙さえも、実在のモノではあり得ません。

なぜなら両方とも、善と悪とがまじりあっているのですから。

二元論者たちによると、この宇宙のかなたに、幸福と善だけにみたされた一つの場所があります。

そこに到達したら、もう生まれることも生まれかわることもないし、生きたり死んだりする必要もないのです。

この思想は彼らにとって非常にしたしみぶかいものです。

そこにはもはや、やまいも死もない。

そこに永遠の幸福があり、人びとはいつも神のみまえにあって永久に彼をたのしむことでしょう。

彼らは、最低の小虫から最高の天使や神々にいたるまでのありとあらゆる生きものは、おそかれ早かれ、もはや不幸はひとつもないというその世界に到達するであろうと信じているのです。

しかし、われわれのこの世界は決しておわりますまい。

それは、波形にうごきながらではあるが、永遠に行きつづけます。

周期的にうごきながらではあるが、決しておわることはありません。

すくわれるべき、完成されるべき魂の数は無限です。

あるものは植物の中に、あるものはひくい動物の中に、あるものは人間の中に、あるものは神々の中にやどっています。

しかし最高の神々をふくむそれらのことごとくが、不完全であり、しばられているのです。

そのしばりとは何であるのか。

生まれなければならない、ということと、死ななければならない、ということです。

最高の神々でさえ死ぬのです。

これらの神々とは何であるか。

それらは、特定の身分、特定の役目を意味しています。

たとえば、神々の王であるインドラは、ある役目を意味します。

この周期には、非常に高いある魂が、行ってその地位につきました。

この周期がおわったのちには、彼はふたたび人間と生まれてこの地上にやってくるでしょう。

そして、この周期中に非常な徳をつんでいる人が、つぎの周期には行ってその地位をふさぐことになるでしょう。

他のもろもろの神の場合もおなじです。

それらは、幾百万の魂たちによってかわるがわるしめられてきた役目であります。

その魂たちは、それらの役目をはたらいたのちにはまたおりてきて人間になりました。

この世界でよいことをし、他者をたすけるが、むくいを得ることをめざし、天国に行くことや仲間からほめられることを期待している魂は、死ぬと、それらの善行の利益を収穫しなければなりません。

彼らはこれらの神々になります。

しかし、それはすくいではありません。

むくいをほしがっている間は、すくいはやってこないでしょう。

何であれ、人のほしがるものを、主は下さるのです。

人びとは力をほしがる、彼らは名声をほしがる、彼らは神々となる楽しみをほしがる、するとそれらののぞみはかなえられます。

しかし、どんな働きの果報も永遠ではありません。

一定のときをへたのちには、果報はつかいはたされることでしょう。

それはいく劫という長い時間かもしれない。

けれどもそれがすぎたときには果報も去ってしまっています。

そしてこれらの神々はふたたびおりてきて人間になり、解脱へのあらたなチャンスを獲得しなければならないのです。

ひくい動物たちはのぼってきて人間になり、たぶん神々になり、それからまた人間になり、あるいは動物にまでももどります。

快楽へのいっさいの願望、いのちへの渇望、「私と私のもの」へのこのしがみつきから彼らが脱出するそのときまで。

この「私と私のもの」が、まさに世界のすべての悪の根元です。

もしみなさんが二元論者に、「あなたの子供さんはあなたのものか」とおたずねになるなら、彼はこたえるでしょう。

「それは神のものです。私の所有物は私のものではない、神のものです」とこたえるでしょう。

いっさいのものは、神のものとして持っていなければならないのです。

 

さて、インドのこれらの二元論者たちは、厳重な採食主義者であり偉大な不殺生の説教者です。

しかし、このことについての彼らの考え方は、仏教徒のそれとはまったくちがいます。

もしみなさんが仏教徒にむかって、「なぜあなたは、生きものをころしてはいけないと説くのか」とおたずねになったら、彼はこたえるでしょう。「われわれは何ものの生命をもうばう権利をもたない」と。

そしてもし二元論者に、「なぜあなたは動物をころさないのか」とおたずねになったら、彼はこう言います。「だってそれは主の持ちものだから」そのように二元論者は、この「私」と「私のもの」は神に、神にのみむけられるべきである、と言うのです。

彼が唯一の「私」であり、いっさいのものは彼のものなのです。

人が「私」と「私のもの」を持たない境地に達したとき、あらゆるものが主にささげられてしまったとき、彼が生きとし生けるものを愛して、一匹のけもののためにさえ、すこしもむくいももとめずに、よろこんで自分の生命をなげだすようになったとき、そのときには、彼のハートは清浄なものになるでしょう。

そしてハートが浄化されたとき、そのハートの中には神の愛が入りたもうのです。

神は、あらゆる魂にとっては引力の中心です。

そして、二元論者は言います。「土でおおわれた針は磁石にひきつけられない。だが土が洗いおとされれば、それはたちまちひきつけられる」神は磁石で人の魂は針、そのわるいおこないは針をおおうどろやほこりです。

魂がきよまるやいなや、それは本来の引力によって神のもとに来、永久に神のもとにとどまります。

しかし永久に、神らかはなれたままです。

完成された魂は、そうしたいと思えばどんなすがたでもとることができます。

のぞむなら百個の身体をも持つこともできるし、一個の身体も持たないでいることもできます。

創造することができるないことをのぞけば、それはほとんど全能になるのです。

創造の力は神だけのものです。

どんなに完全であっても、宇宙の仕事にたずさわれる者はいません。

あの働きは神のものです。

しかしすべての魂が完成されれば、永遠に幸福になって、永遠に神とともにくらします。

これが、二元論者の声明です。

 

二元論者が説くもう一つの思想、彼らは神にむかって、「主よ、私にこれを下さい、あれを下さい」といのることに反対します。

彼らは、それはなすべきではない、と考えます。

もし何か物質的なたまものをこわなければならないなら、それはもっとひくい存在にむかってこうべきです。

かりそめのものは、これらの神々または天使の中の誰かにむかって、または完成された魂にむかってこうべきなのです。

神は、ただ愛されるべきものです。

神にむかって、「主よ、これを下さい、あれを下さい」などといのるのは冒涜だと言ってもよろしい。

それゆえ、二元論者たちによると、人が欲するものは、神々(gods)の中の誰かにいのることによって、おそかれ早かれ手にいれることができるでしょう。

しかし、もし彼がすくいを欲するなら、彼は神(Godうちなる唯一最高神)を礼拝しなくてはなりません。

以上が、インドの大衆の宗教であります。』

(ギャーナ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

何度も書きましたが、二元論においては、神と人間は、支配する者と支配される者のような従属関係です。

支配される者は、生と死に束縛されています。

支配されている存在である限りは、完全なる自由はないでしょう。

 

ここに、縛られた者としての苦悩と苦しみがあります。

 

だからこそ、人間には、この縛られた存在から解放されたいという願望が生じるのでしょう。

 

次回は、この束縛からの解放に向かって、ヴェーダンティストたちが、どのような果敢な挑戦をし、完全なる自由に至る道を見つけ出したのか?について、見ていきましょう。

 

 

 

 その時 その場でアルジュナは見たのです

神々のなかの神 至上主の普遍相のなかに

無数の宇宙が展開して

千種万態の世界が活在しているのをーー

(バガヴァッド・ギーター第11章13)