永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

神の化身(アヴァターラ)

前回の記事で、聖ラーマクリシュナの「不滅の言葉」よりご紹介させて頂いた文章の中で、

『船が突然、磁石の岩に近づきます。

するとそれの鉄のねじ釘や鉄の棒は全部ひきよせられてぬけ出し、船板は突然、バラバラになって自由に海上にうかびます。

神の恩寵がこのようにしてたましいをしばっているねじくぎや棒をぬき、それが自由になるのです。

そのように、帰依(信仰)をたすけるこの放棄には、きびしさはなく、つめたさもなく、苦闘もなく、抑制も抑圧もありません。』

 

ということが起きるのは、本当です。

私も、それを体験した一人です。

 

そして、ナーナさんのサットサンガでは、そのような人が続出しています。

 

http://ameblo.jp/premagrace/ (すべては本質の流れのままに――サットサンガ参加者の体験談、感想)

 

それまで、何かに拘っていた執着心がすっかりと無くなったり、興味の対象が完全に変わったり、考え方や感じ方が変化し、そのことで周囲の人たちに良い影響が起きたり、人生の目的が変わってしまったり。。。

 

ナーナさんの恩寵の力により、自然に手放し、放棄が起こるので、何の苦痛もありませんし、抑制も抑圧も感じることはありません。

 

それは、サットサンガの参加者の感想文からも明らかです。

 

そこには、安心感、歓び、ワクワク感、満足感、幸福感などがあります。

 

意識の変容が、自然とスムーズに起こります。

本人は、恩寵の力に任せるだけで、『神の恩寵がこのようにしてたましいをしばっているねじくぎや棒をぬき、それが自由になるのです。』

 

これには、苦痛がありませんし、とても自然な形で起こるので、変容はゆっくりと進みますが、しかし、後退はありません。

後退があるとしたら、神よりもエゴの声である”自分の欲望”に従った時です。

 

今回も、昨日に引き続き、聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「バクティ・ヨーガ」から抜粋し、

今回は、神が有形の神となって現れた「神の化身」について詳しくご紹介したいと思います。

 

『神の御名の語られるところはどこであれ、その場所は神聖です。

彼の御名を語る人はそれにもましてどんなに神聖なことでしょう。

そして、われわれにむかって霊的真理をあたえるその人には、どれほどの尊敬をもってわれわれは近づくべきでありましょう!

霊的真理のこのように偉大な教師たちは、この世界では実にごく数すくないものです。

しかし、まったくいないというわけではありません。

彼らはつねに人生の、もっともうつくしい花々です。

「いかなる意図も持たない、慈悲の大海」、「グルを、私であると知れ」と、シュリー・クリシュナはバーガヴァタの中で言っています。

世界は、このような人びとを全部うばわれたらその瞬間におそろしい地獄となり、すみやかに破滅にむかうでしょう。

 

この世界で、すべての普通の人びとより高く尊いのがもう一組の教師たち、イシュワラ(創造神)の化身(アヴァターラ)たちです。

彼らはひとふれで、ただ思っただけでも、霊性をつたえることができます。

もっともひくい、もっとも堕落した人物が彼らの命令で、たちまち聖者になります。

彼らは教師たちの教師、人間による神の最高のあらわれです。

われわれは彼らを通してでなければ、神を見ることはできません。

われわれは彼らを礼拝せずにはいられないのです。

そして実に、彼らはわれわれが礼拝しなければならない唯一の人びとです。

 

誰も、このような人間としてのあらわれを通じてでなければ、ほんとうに神を見ることはできません。

もし他の方法で神を見ようとすると、われわれは自分たちのために彼の奇怪至極な漫画をつくり、その漫画を、本物よりもわるくない、と信じるのです。

大神シヴァの御像をつくってくれとたのまれて、何日もたいそう骨をおったすえに一匹のサルの像しかつくらなかった、という無知な男の話があります。

そのように、神の絶対に完全なすがたを心にえがこうとすればかならず、われわれは一様に、もっともみじめな失敗に直面するでしょう。

なぜなら人間であるかぎり、われわれは人間より高いものとして彼を考えることはできないのですから。

われわれが人間性を超越して、あるがままの神を知ることのできるときはくるでしょう。

しかし人である間は、彼を人の中に、そして人として、礼拝するほかはありません。

口では言うかもしれない、こころみるかもしれない、しかしみなさんは、人以外の者として神を思うことはできないのです。

神およびこの世のすべてのものについてりっぱな知的な講義をおこない、偉大な合理主義者となって心ゆくまで、人間である神の化身たちについてのこれらすべての報告は無意味である、ということを証明なさるかもしれない。

しかしちょっと、実用的な常識をはたらかせてみましょう。

この種のみごとな知性の背後には何がありますか。ゼロです、何もありません。

ただのあぶくです。このつぎに、誰かがこの化身の崇拝に反対する偉大な知的な講演をおこなっているのをきいたら、彼をつかまえてきいてごらんなさい。

神についての彼の考えを、「全能」とか「遍在」とか、それににたすべてのことばの、つづりをこえた意味を彼はどのように理解しているのかを。

彼は実はそれらのことばで何を言いあらわしているのでもありません。

それらの意味として、彼は自分の人間としての性質にはまったく影響されることなしに、どんな概念を形成することもできはしないのです。

この点で彼は、一冊の本を読んだこともない街頭の男と少しもちがいはしません。

しかしながら、街頭のその男はしずかであって社会の平安をみだすようなことはしませんが、このえらそうなしゃべり手は、人類の間に混乱と不幸をもたらします。

宗教は結局はさとりなのであり、われわれは、おしゃべりと直観的経験とを、もっともするどく見わけなければなりません。

自分のたましいのおくそこの深みで経験するのがさとりなのです。

ほんとうに、このことに関する常識ほど、世にゆきわたっていないものはありません。

 

われわれは、現在の体質によって、神を人の形でしか見ないようにさだめられているのです。

たとえば、もし水牛が神をおがみたいと思えば、自分の性質にあわせて彼を巨大な水牛として見るでしょう。

もし魚が神をおがみたいと思ったら、大きな魚としての彼を考えなければならないでしょう。

そして人は、彼を人と思わなければならないのです。

これらそれぞれの概念は、病的にはたらく想像力の産物なのではありません。

人も水牛も魚も、いわばさまざまの形のうつわのようなものだ、と思ったらよいでしょう。

これらすべてが神という海にゆき、それぞれの形と容量に応じて、海水にみたされるとします。

人の中では海水は人の形をとり、水牛の中では水牛の、魚の中では魚の形をとるでしょう。

それぞれのうつわをみたしているのはおなじ神の海の水です。

人びとが神を見るときには、彼らは彼を人として見ます。

そしてけものたちはもし、彼らが神を考えたとしたら、彼をけものとして見るにちがいありません。

各自がみずからの理想に応じて見るのです。

ですからわれわれは、神を人として見ないわけには行かず、したがって人としておがまないわけには行きません。

他に道はないのです。

 

神は人の弱点を理解しておられ、人類をしあわせにするために、人となられます。

「徳がおとろえ、悪がはびこるとき、私はみずからをあらわす。

徳を確立するために、悪をほろぼすために、よき人びとをすくうために私はユガ(時代)からユガへとやってくる」

「愚者たちは、宇宙の主である私の本性を知らないで、人の形をとっている私をあざける」

シュリー・クリシュナはギーターのなかで、化身についてこのように言明をしています。

バガヴァーン・シュリー・ラーマクリシュナはこう言っています、

「大きな上げ潮が来ると、小川やみぞは、自分で努力も意識もしないでふちまでいっぱいになる。

そのように、化身がくると、霊性の上げ潮がどっとおしよせ、人びとはほとんど空中いっぱいに、霊性を感じる」

バクティ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

ナーナさんから湧き出でるプラーナという磁石の力は強力です。

多くの人の執着心を抑え、無駄な思考や感情を消滅させます。

こうして、エゴは自然と大人しくなり、やがては、エゴの層は限りなく薄くなり、心は素直で柔和となり、真の自己がその真の姿を現すための準備が整います。

 

神の化身は、このような形で、至高の自己を悟る、という最高の神の恩寵を、それを心から求め、自らも喜んで準備をする人たちに授けるために、いまここにおいて、無私の心で働いて下さっているのです。

 

これは、神の恩寵の扉が開いている間だけのチャンスです。

ナーナさんのサットサンガへは、以下の公式ホームページよりお申し込みをすることができます。

 

いつか、と思っているならば、そのいつかは、永遠にやって来ないでしょう。

 

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

http://ameblo.jp/oneness-113/(突然私がアセンションした記録ーーナーナさんの変容のプロセスの記録)

 

 

宗教(ダルマ)が正しく実践されなくなった時

反宗教的な風潮が世にはびこった時

バラタ王の子孫 アルジュナ

わたしは何時何処(いつどこ)へでも現れる

(バガヴァッド・ギーター第4章7)