永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

「食物についての識別」について(2)

前回から、「食物についての識別」について、現代では実践する人も徐々に増えてきているマクロビオティック食事療法に関する本を元に、食物が及ぼす人体への影響について、詳しくご紹介しています。

 

予病の観点からも、また、病の治療法の一つとして、マクロビオティックを実践することは効果的であるばかりでなく、

そうでない場合でも、食物の身体や心(精神)に与える影響を知り、その効果を体で体感していくことは、エネルギーの浄化につながり、やがては、「自己の本性」が目覚めていくことにつながることでしょう。

 

見神、もしくは、自己の本性を悟るためには、肉体にも心にも余分な滞りが無くなり、エネルギーがスムーズに流れるようになることが必要です。

 

仏教では、「貪・瞋・痴」を心の三毒としており、「むさぼり(必要以上に)求める心、怒りの心、真理に対する無知の心」を戒めています。

 

食物は、肉体だけでなく、心・精神にも影響を与えると、マクロビオティックの大家・久司道夫先生は書かれています。

 

スワミ・ヴィヴェーカーナンダが仰っている「食物についての識別」について、基本的なところでは、応用できる面が多いと感じますので、今回も前回の続きをご紹介させて頂きます。

 

 

『不安・疑い・懐疑・嫉妬などの感情は、脾臓膵臓・胃の不均衡と関連性がある。

こうした臓器が健全ならば、思いやり・知恵・同情・理解などがもたらされる。

潜在的不均衡に対応して、精神および心理面に見られる症状としては、単なる心配性をはじめ、全般的不安・適度な苦悩や懐疑から、深刻な自己嫌悪・自信喪失・他人への総体的疑念に至るまでさまざまある。

特に動物性食品は、不安や疑いを引き起こすもので、中でも卵・家禽類・肉・塩気の利いたチーズ・大量の魚介類などがその要因となる。

塩分や塩気の強い食品のとりすぎ・パンやチップスを含む堅く焼き締めた食品・その他の極陽性な食品・加工法・調理法なども、脾臓膵臓・胃の硬化と働きすぎを引き起こす。

他方、砂糖・その他の精製甘味料・脂っぽい食品・大量の果物や果汁・精白穀物・ミルクなどの軽い乳製品・スパイス・刺激物といった極陰性食品は、胃や消化器官の酸性過多・血糖値の不均衡・こうした中枢臓器の働きすぎにつながるものである。

 

臆病・恐怖・自信や希望の喪失・偏執症などは、腎臓や膀胱機能の不均衡と関連する。

伝統的な東洋医学では、こうした臓器の健康は、自信・勇気・直感・信頼をもたらすものとされる。

腎臓は、たんぱく質をとりすぎると働きすぎてしまい、特に卵・家禽類・肉・すべての乳製品・大量の魚介類などの動物性食品は、恐怖心を引き起こす。

同時に動物性食品は、その動物が殺された際の波動を内在している。

今日の食肉処理場の大半は過密状態にあり、食肉解体作業のラインには、恐れや恐怖の感情が伴う場合が多い。

このような状況は動物体内に過剰なアドレナリン・その他のホルモンや化学物質の分泌を起こして、それを食べる人に吸収される。

塩分や塩気の強い食品のとりすぎ・パンやチップスを含む堅く焼き締めた食品・その他の極陽性な食品・加工法・調理法なども腎臓や膀胱の硬化と働きすぎを引き起こす。

周囲の人に対する不信感・自分に対する広い範囲からの陰謀といった被害妄想など、偏執症や物事にこだわりすぎる傾向には、ほぼ間違いなく、動物性食品・動物性抽出物・塩・その他の強力な収縮性を持った物質のとりすぎが関与している。

他方、砂糖・その他の精製甘味料・脂っぽい食品・大量の果物や果汁・精白穀物・ミルクなどの軽い龍製品・スパイス・刺激物といった極陰性食品は、尿の酸性過多を引き起こし、こうした臓器の過剰な膨張やはれ・腎臓細胞の精密な網状組織の脂肪や粘液による閉塞につながるものである。

 

ヒステリー・興奮・神経過敏・神経質・その他の類似症状は、潜在的な心臓や小腸の疾患によって引き起こされる。

伝統的な東洋医学では、こうした臓器の健康は、平穏で平和な心持ち・優しさ・楽しく滑稽な表現力をもたらすものとされる。

この両臓器の不均衡は、多動症・笑いすぎ・神経質・神経過敏症など、精神・感情面の過剰表現につながる可能性がある。

しゃべりすぎ・とめどないおしゃべり、といった発話に関する問題も、心臓および循環機能と関連し、心臓の働きすぎ・高血圧・心臓の雑音が見られる場合が多い。

砂糖・チョコレート・はちみつ・その他の精製甘味料、ミルク・アイスクリーム・その他の乳製品、精白穀物、熱帯性食品、ハーブ・スパイス、大量の果物や果汁、刺激物、大量の飲物や水分、その他の拡張性食品といった極陰性食品が、この症状の主要原因となっている。

特にニンニクは、心臓を過度に刺激するため、ごくまれに少量とるのが通例とされる。

 

偏見・差別・憎悪・暴力などは、現代の特徴と言える。

一般にこのような資質は、社会的・文化的問題として、肉体的・精神的・感情的な健康状態とは切り離され、別個のものと考えられている。

しかしマクロビオティックの観点からすれば、生活方法の不均衡から生じたものと考えられ、中でも食事の不均衡がその原因である。

偏見や憎悪に潜在する根本原因は、動脈の硬化であり、このため、特に自分以外の人間・性別・年齢・人種・宗教・文化に対して偏狭で抑圧的な人生観を抱くようになる。

心臓病は、発展途上国も含めて、現代社会における退行性疾患の筆頭に挙げられている。

肉・家禽類・卵・チーズ・魚介類・その他の動物性食品は、アテローム動脈硬化症・脳とその機能に通じていて栄養を供給する動脈の硬化といった症状の筆頭原因に挙げられる。

飽和脂肪酸コレステロールを多く含む食品に加えて、塩分過剰・堅く焼き締めた食品・その他の収縮性を持った食品も、この過程に関与すると見られる。

このような食品には、冷凍食品・冷たく冷やした食べ物・オーブンで焼く・グリルする・ローストするといった極陽性な方法で調理された料理が含まれる。

こうした症状は、元来、陽性な性質ではあるが、砂糖や菓子・ミルクなどの乳製品・スパイス・アルコール類といった極陰性食品のとりすぎによってさらに助長される場合が多い。

このような拡散性を持った食品は、動物性食品と合わせて摂取される場合が大半であり、堆積された陽性要因と怒り・憎悪・偏見を伴う言動や暴力の形で、爆発的無秩序に排出する引き金となる。

陽性要因は、単独では暴力を引き起こさないのが通例で、卑劣・残酷などの収縮しすぎた硬直状態につながるものであるが、貯蔵・堆積された陽性エネルギーの放出には、極陰性なエネルギーが必要となる。

ミルク・砂糖・アルコール類・薬物などが、この代謝排出を発現させる引き金となる主な食品である。

偏見や差別は、心臓および循環組織の症状に加え、他の臓器の疾患によって引き起こされる場合もある。

肝臓や胆のうの疾患は、肝臓を硬化させ、怒りや暴力を発現させる。

膵臓脾臓・胃の疾患は、低血糖症、暴力的な気分の揺れにつながる。

肺や大腸の疾患は、呼吸困難や便秘を引き起こして、身の危険や閉塞感につながる。

腎臓や膀胱の疾患は、恐怖や他人への不信感を生み出す。

私たちは、このような感覚・思考・感情を内面の葛藤に起因するものとは捉えずに、他人を含めた外部の環境に投影している。

怒り・憎悪・偏見を内面化させた陰性形態の偏見や差別もある。

暴力的な表現を外部に表出させる代わりに、感情が内面へと向かっている。

場合によっては、自己嫌悪や強い嫌悪感が生じ、最終的には自殺の傾向に至る人もいる。

また、自分を非難する人々よりも、自分のほうがスピリットが高く、忍耐強く、正しく、勝っていると思いこむこともある。

そうした人は、現世もしくは来世で究極的には自分が勝利を勝ち取り、抑圧者はその報いを受けることになる、という幻想の中に逃げ隠れする。

マクロビオティックでは、こうした症状を陰性の傲慢と呼ぶ。

これは、陽性の傲慢と対極をなして、同じように有害であるが、そのために人間性が失われる必要はない。

ガンジーやマルチン・ルーサー・キングといった平和や非暴力運動の指導者のみならず、強制収容所から生還したり、拷問や残虐行為を受けながらも生き残った人々の存在は、状況がいかに困難でも、全人類共通の人間性を是認することが可能であることを身をもって体現しているのである。』

(THE マクロビオティック  久司 道夫 著)

 

 

一会員

「どんな方法で神にふれることができるのでしょうか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「あの御方に恋いこがれること。

そして、そのことをいつ、どこにいても頭から離さないこと--神のみが永遠の実在で、世界は一時的なものだということを。

アスワッタの樹だけはいつまでもあるが、果実は一日二日だけだもの」

 

一会員

「色情や怒りのような激しい感情を私どもは持っておりますが、これをどうしたらよろしいでしょうか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「そうしたら六つの情熱を、神さまの方に向けかえてやれ。

色欲は、アートマン(真我)と交わりたい欲にかえること。

神への道を邪魔するものに、怒りを向けること。

役にもたたん事物を貪る代わりに、神を手に入れようと貪欲になること。

”私のもの”、”オレのもの”と言い張りたいなら、あの御方を自分のものにすること--つまり、”私のクリシュナ、私のラーマ”という具合にね。

もし、どうしても高慢でいたいのなら、じゃ、ヴィビーシェナのまねをしたらどうだね?--私はラーマに頭を下げたのだ。この頭をほかの誰にもさげてやるものか!」

 

一会員

「あなた様はいつも、『神がすべてをなさる、あらゆることは神がさせるのだ』とおっしゃいますが、私どもは罪悪に対して何の責任もないのですか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「アッハッハッハッハ。ドリョーダナも同じことを言ったねーー『主、わが胸に宿りたまいて、我に命ずる如く我は為すなり』と。

ほんとうに正しい信仰を持っている人ーー神こそが行動者であって、自分は全くの受動者、命令通りに動くものにすぎない、という信念をもっている人は、いわゆる罪なことを絶対にしないよ。

踊りを正しく習って熟練した人は、間違ったステップなど踏まないものだ。

心の奥まで清浄(きれい)にならないうちは、神が存在することさえ信じられないんだよ!」

タクルは礼拝堂に集まっている人たちを眺めながら、こうおっしゃった。

「時どき、こんなふうに皆で集まって神のことを考えたり、称名したり、讃歌をうたったりすることは、大そういいことだ。

だが、世間の人が神に心を向ける時間はホンの少しだーー焼けた鉄に水をふりかけるとジューッといって蒸発する。

その時間くらいなものさ!」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉  マヘンドラ・グプタ著)

 

 

 

さて、物質自然(プラクリティ)と霊魂(プルシャ)は

ともに無始であり

変化作用(ヴィカーラー)と三性質(トリグナ)は

ともに物質自然(プラクリティ)に属している

 

プラクリティはあらゆる物質現象の

原因と結果の根源であり

プルシャは物質界の多種多様な

苦楽を経験する原因(主体)である

(バガヴァッド・ギーター第13章20ー21)

 

 

 

 

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シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

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「食物についての識別」について(1)

以前の記事「最高の愛(バクティ・ヨーガ)- 準備のための予備訓練(1)」の中で、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉”「食べ物についての識別」が非常に大切である”ということをご紹介しましたが、

この「食べ物についての識別」とは、具体的にどのようなものか?については、ほとんど詳しい解説は遺されていなかったため、そのままになってしまいましたが、

日常生活で実践するためには、更に詳しい説明が必要かと思われます。

 

これからご紹介いたします文は、ヴェーダンタ関連の本からではなく、日本人によって書かれたマクロビオティックの食事療法について書かれた本からの抜粋です。

 

食物の持つエネルギーやチャクラへの影響などについても書かれていますので、スワミ・ヴィヴェーカーナンダのお言葉が、より具体的に理解できるようになり、実践に活かすことができると思いますので、ご紹介させて頂きます。

 

私たちの、感情や思考傾向、性格、性癖などは、食物から多大な影響を受けているということが、詳しく解説されていますので、このことを知るだけでも「食物についての識別」においては、非常に役に立つと思います。

 

 

『私たちは、周囲の環境と調和しない生活を送ると、不均衡が生じて、次第に不調や疾患を引き起こすようになる。

第1段階は心身両面の全身疲労状態であり、倦怠・不平・明晰な思考や行為が次第になくなる・頻繁な心変わりといった症状がはっきりと現れる。

次の段階は、肉体なうずきや痛み・悲しい気分・次第に自信を失う・物忘れ・あいまいな記憶・頑固・重要でないささいなことにとらわれるといった症状である。

続く段階では、血液の質の弱体化が見られるようになる。

赤血球細胞・白血球細胞・血漿が弱まるに従って、酸性症・高血圧・低血圧・貧血・そのほかに皮膚疾患などの症状が現れる。

いらいら・過敏症・恐怖、短気・落ち込み・臆病・人生の全般的な方向喪失なども付随して見られる。

 

食事や生活様式の修正がなされず、血液の質の劣化が継続されると、怒り・せっかち・失望・過度の興奮・疑念と懐疑・引きこもり・疑念的で妄想的な信念や思考といった慢性的な感情の不均衡が起きてくる。

 

次の段階は臓器の疾患で、内臓や腺に構造的変化・機能不全・衰退が見られるようになる。

肉体的には、心臓病・がん・多発性硬化症などの退行性疾患として現れる。

精神的には、慢性的な頑固・偏見・狭量・偏狭な人生観・日常生活継続の支障として現れる。

潜在的な劣等感や優越感といった固定観念が、自己中心的考え方としてはっきりと現れるようになる。

 

退行的傾向が継続すると、次の段階として、多様な神経疾患が引き起こされる。

肉体的には、一貫性の欠如・部分的もしくは全般的まひ・その他の筋肉および骨格に見られる症状として現れる。

精神的には、否定的人生観を抱くようになり、しばしば自尊心の喪失・混沌とした言動・統合失調症・偏執症・自暴自棄や破壊的傾向が現れるようになる。

 

ついに最終段階として、利己的・自己中心・うぬぼれ・自尊心・独占的・自己正当化などを含む傲慢さが出現する。

この段階に至ると、全世界が自分に敵対するように思われ、自らの病気や困難は、自分の食事や生活様式とはまったく無関係なものと見なし、他人を操作・強制するような行動に出るか、すべてを諦めて内面世界の空想・幻想に引きこもるようになる。

 

脳は、その構造および機能において腸と関連性がある。

どちらの臓器も細く締まった長い管に多くのらせん状の回旋を伴い、腸は肉体的食べ物を処理する一方、脳は振動や波動の形で精神的食べ物を処理している。

腸に起きた問題は、正常な意識に反映されることが多い。

例えば、便秘は思考を防げ、物事の完結を困難にする。

下痢の場合は、しゃべりすぎ・とめどない発話といった言語的排出作用が、その症状に先立つか付随して見られる。

 

エネルギー中枢のチャクラも、意識および精神的・心理的過程に寄与している。

頭頂にあるクラウンチャクラは、普遍的意識をつかさどっている。

第3の眼とも呼ばれる中脳のチャクラは、直感および精神的過程の全般を統括する。

喉のチャクラは発話や表現を支配し、心臓のチャクラは感情的成長や愛情を含む総体的運命を支配している。

みぞおちにある太陽神経叢のチャクラは、肝臓・脾臓・腎臓など中間部の臓器に分岐して、知性・勇気・思いやり・忍耐などの資質をつかさどっている。

腹部にある腸のチャクラは、全般的な社会的成長を支配する。

生殖器のチャクラは、感情やスピリットを含めたあらゆるレベルの再生をつかさどっている。

 

砂糖などの極陰性食品は、精神および感情の障害を引き起こしている主要原因のひとつである。

明晰な判断力は、砂糖・チョコレート・はちみつ・その他の精製甘味料に影響される。

腸内細菌は、脳に供給されるビタミンB群の合成に関与し、グルタミン酸の形態で神経および高度な意識中枢に刺激を与えている。

単糖類はこの過程を阻害するもので、脳の細胞や組織を拡張させる結果、焦点がぼやけて、集中力や明晰な思考が失われる。

血糖値の不均衡は、幼年期から見られる場合が多く、やがて落ち込みや悲観につながる。

 

強力な収縮作用を持つ食品も、同様に感情の問題を引き起こし、特に執着心・所有欲・罪悪感を抱くようになる。

人生は、いつも順風満帆とは限らず、誰でも何らかの苦渋・苦難・不幸を経験するものである。

こうした否定的経験をうまく切り抜けられる人がいる一方で、いつまでも過去の記憶に執着してとらわれ、ことあるごとにすでに起きた出来事の追体験を繰り返す人もいる。

こうした状況は、主にパンや堅く焼き締めた小麦粉製品のとりすぎによって、脳・神経・チャクラの硬化・収縮が引き起こされ、過去の記憶が手放せなくなったものである。

肉・卵・家禽類・魚介類などの動物性食品や塩分のとりすぎも、同様に感情を内にこもらせて、解放できなくさせる。

 

しゃべりすぎや粗暴で落ち着きのない行動は、主にニンニクによるものである。

生のタマニギや長ネギ・大量のショウガ・その他のハーブやスパイスも、同様の多動症を引き起こす可能性がある。

 

極東において、怒りを表す漢字「癇癪(かんしゃく)」は、肝臓疾患を意味している。

短気・怒り・かんしゃく・攻撃的行為は、肝臓や胆のうが余剰の代謝エネルギーを混沌とした乱暴な方法で排出させて、働きすぎたり、閉塞した結果であることが多い。

対照的に、健全な肝臓や胆のうは、平穏・忍耐・粘り強さなどの落ち着いた資質と関連している。

特に動物性食品は、怒りやかんしゃくを引き起こすもので、中でも肉・家禽類・卵・チーズ・大量の魚介類などがその要因となる。

塩分や塩気の強い食品のとりすぎ・その他の極陽性な食品・加工法・調理法なども肝臓の硬化と働きすぎを引き起こす。

他方、砂糖・その他の精製甘味料・脂っぽい食品・大量の果物や果汁・精白穀物・ミルクなどの軽い乳製品・スパイス・刺激物といった極陰性食品は、肝臓の閉塞につながるか、陽性エネルギーを肝臓や胆のうに集積させて、まるで火山噴火のごとく、急速かつ無秩序に排出させるものである。』

(THE マクロビオティック  久司 道夫 著)

 

次回も、この続きをご紹介したいと思います。

 

 

『マニラルプールの信者たちは、「どのような方法で至聖(かみ)にふれることができるか、何とぞお教え下さい」と申し上げた。

 

聖ラーマクリシュナ

「すこしはお祈りや讃神歌をうたったりしなければね。

”牛乳の中にバターがある”と、ただこう言っているだけではダメだ。

凝乳にしてかきまぜていると、はじめてバターがとれるようになる。

だから時々、静かな処に独りで居ることが必要なのだ。

三日かそこらでも静かな処で独りで瞑想して、信仰をつかんでからそれから後なら、どこへなと住んでもいい。

靴をきっちり履いてからなら、いばらの茂みもやすやすと歩いて行けるからね。

一番だいじなのは信念だ。

ほしいと思うものが得られる根本は信念だよ。

信念が出来上がったら、もう何も恐れるものはない」

 

マニラルプールの信者

「はい。--ときに、グルはどうしても必要でございましょうか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「大部分の人には必要だね。

そして、グルの言葉を信じなくてはいけない。

グルを神様だと思って見ていれば、それが出来るはずだよ。

だからヴィシュヌ派の信者たちは、グルとクリシュナとヴィシュヌは一体なり、と言っている。

あの御方の名をいつも念じていることが大切だ。

現代のような末世には、称名が最高の力だ。

物質に頼っている時代だから、昔のようなヨーガは出来ないんだよ。

あの御方の名を称えて手を拍てば、罪の鳥は飛んでいってしまうよ。

それから、誠実でまじめな人たちといつも交際していること。

ガンジス河のそばに近づくほど涼しい風が当たるようになる。

火のそばに近づくほど熱くなるだろう。

のんびりやってちゃダメだ。

世間の楽しみにうつつを抜かしている連中は、『いずれ、そのうちに神様にもお目にかかるとしよう』といった調子だがね。

わたしはケーシャブ・センに言ったよーー『息子が待ちかねてじりじりしていれば、親は予定していた三年前でも財産を分けてくれる』とね。

母親が料理している間、赤ん坊を寝かせておシャブリをくわえさせておく。

赤ん坊がおシャブリを落として泣き叫ぶと、鍋を下ろして抱きかかえて乳を飲ませてやる。

こんな話もケーシャブに聞かせてやった。

末世時代(カリユガ=物質万能主義の時代)だから、一日一夜も泣いて祈れば神様にお会いできる。

自信を持ってこう言え--『あんたが私を創ったのだから、会ってくれるべきだ!』と。

この世にいようがどこにいようが、神様は人の気持ちをちゃんと見ていらっしゃる。

この世のものに執着している心は湿ったマッチ棒みたいなもので、いくら擦っても火が付かん。

エクロビヤという人は、土で自分の師匠のドローナの像を作って、その前で弓の練習をしたそうだ。

前進しろ。

木こりは先へ先へと進んで白檀の木を見つけ、銀の山を見つけて、金の山を見つけて、まだ先へ進んでダイヤの山を見つけた。

無智な人は土壁で囲った部屋の中に住んでいるようなものだよ。

なかにも光はないし外のものも見えない。

智慧を獲て、それからこの世で暮らしている人は、ガラス張りの部屋にいるようなものだ。

内部のものも見えるし外部のものも見える。』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉  マヘンドラ・グプタ著)

 

 

 

かれは光るものの光の源泉であり

物質性(グナ)の明暗を超えて光輝いている

かれは知識であり 知識の対象であり

知識の目的であってーー全個々(すべて)の心臓(フリディ)に住む

 

用地(肉体)と 知識と知識の対象について

わたしは簡単に説明した

いま話したことを理解するわたしの信者だけが

わたしの浄土に来ることができよう

(バガヴァッド・ギーター第13章18ー19)

 

 

 

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詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

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最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(5)

スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉から、「バクティ・ヨーガ」における”真のバクタ(神への信愛)”について、ご紹介しています。

 

それは、前回ご紹介しました、聖ラーマクリシュナの「昔より格段に忙しい毎日を送っている現代人には、他のヨーガ(真理にいたる道)よりも、バクティ・ヨーガを実践する方が、適している」という遺されたお言葉から、

特に「バクティ・ヨーガ」について、より詳細にご紹介することで、真理への道の短縮につながることを期して、時間をかけてご紹介しています。

 

前半は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「最高の愛」から、前回の続きです。

 

後半は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの師(グル)であらせられる聖ラーマクリシュナのお言葉から、「見神」についての詳しい解説をご紹介いたします。

 

これらは、言葉(観念)、知識ですが、真理を悟った人びとの言葉に触れることは、それを聴く人の心にさざ波を立たせ、やがて、そのさざ波は、大きな波となって、大海を渡って行く小船である個人を、探求の最終ゴールへと導いていくことでしょう。

 

 

『バクタになる最初の課題は、そのような願い、たとえ天国に行きたいという願いであろうと、全部投げ捨ててしまうことだ。

天国は、それ自体では、ここと同じようなところ、ほんのちょっとだけよいところだろう。

私たちはここでわずかばかりの不幸と幸福を持っている。

それだけだ。

天国では、たぶん、今より少し少ない不幸と、少し多い幸福を持つのかもしれない。

そこに、ここにあるより多くの光があるわけではなかろう。

それは私たちの良い行為の結果に過ぎないだろう。

クリスチャンたちの天国の観念は強い喜びが得られる場所というものだ。

そんなものがどうして神に値するといえようか。

問題は、どうしたらそのような欲望を全部捨て去ることができるかということになる。

これらの欲望が人を不幸にする。

人間はこれらの欲望に縛られる奴隷だ。

欲望の手の中でおもちゃのようにころげ回っている操り人形だ。

私たちは、どんなものによっても打ちのめされるこの肉体をいつも気に掛けている。

だから、絶えざる恐怖の中で生きている。

鹿は、恐怖のために、平均、日に100~110キロも逃げ回らなければならないということを、何かで読んだことがある。

何キロも走りに走り、やがて立ち止まり、何かを食べる。

だが、私たちは鹿よりも悪い状態にいることを知らなければならない。

鹿はしばしば休息できるが、私たちはできない。

鹿は草を十分に食べれば満足する。

しかし、私たちはあまりにも狂い、不自然になってしまったため、自然のものは私たちを満足させない。

私たちはつねに病的なもの、不自然な刺激、不自然な食べ物、飲物、環境、生き方を追い求めている。

私たちは呼吸できるようになっている空気をまず汚染している。

恐怖についていえば、私たちの生活は恐怖の塊以外の何ものであろうか。

鹿は、虎や狼の恐怖のように一種類のものを恐れるだけだ。

人間は全宇宙を恐れている。

この状態から私たち自身を解放する方法。

これが問題だ。

実利主義者たちは立ち上って言うだろう。

「神や未来について語るのを止めよ。

それらについて私たちは何も知らないのだ。

この世で幸福に生きようではないか」と。

可能ならば、私はまっさきにそうしたい。

しかし、この世界は私たちにそうはさせてくれないだろう。

あなたがたが自然の奴隷である限り、どうしてそんなことができようか。

もがけばもがくほど、ますます巻き込まれてしまうのだ。

何のためか、何年になるかは私は知らないが、あなたがたはいろいろな計画を練ってきた。

だが、ひとつの計画の終りにはことはいっそう悪くなっているように思える。

200年前には、旧世界の人びとはほとんど欲望は持っていなかった。

救いでは、少なくとも天国では、私たちの欲望は満たされるだろうと考え、それで天国に行くことを望むのだ。

この永遠の、消えることのない渇き!

つねに何かを求めている!

人は、乞食のとき、金を求める。

金があると、他のもの、社会を求め、そのあとは、またほかの何かを求める。

休む間もない。

どうしたら、この欲望の炎を消すことができるのだろう。

天国に行ったとしても、欲望は増えるだけだろう。

貧乏人が金持ちになっても、欲望は消せない。

火に油をそそぐようなもので、火勢が強くなるだけだ。

天国に行くことは、ますます金持ちになることを意味し、そして欲望はますます強くなる。

世界中のさまざまの聖典の中には、天の神々がする人間的な遊びの物語が書いてある。

彼らはそこで必ずしも善ではない。

結局のところ、この天国に行きたいという欲望は、快楽を求める欲望である。

この欲望を放棄しなければならない。

天国に行きたいと思うことは余りにもちっぽけで、低俗すぎる。

それは、億万長者になり、人びとに君臨しようと思うのと同じことだ。

この種の天国はたくあんある。

しかし、そこを通っては宗教と愛の門にはいる権利を得ることはできないのだ。」

(最高の愛 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

 

『モニ

「それでは、あの、神をつかむ、体得するとは、どういう意味なのでございますか?

それから、神を見るとか、対面するとかおっしゃいますのは、どういうことなのでしょう?

どうすればできるのでございますか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「ヴィシュヌ派の人たちはこう言っている。

神への道を進んでいる人びとや、もう神を体得した人たちにはこれこれの種類があると。

つまり、プラヴァルタカ(初心者)、サーダカ(修行者)、シッダ(成就者)それからシッダのシッダ(完全成就者)、道が上がり始めたばかりの人をプラヴァルタカという。

礼拝祈祷の修行をして、つまりお祈り、称名、瞑想、讃神歌の詠唱などをしている人がサーダカだ。

神様がいらっしゃるということを直観と知性ではっきりと認めている人をシッダというのだ。

ヴェーダーンタ派がよくいう譬えだが、真っ暗な部屋で主人が横になっている。

誰かが主人を手さぐりで探している。

寝床の端に手でさわって言う――“これじゃない”。

窓枠にさわって言う――“これじゃない”。

戸にさわってまた――“これじゃない”と言う。

“ちがう(ネーティ)、ちがう(ネーティ)、ちがう(ネーティ)”。

最後には主人の体にさわったとき言う――“ここだ”。

これが主人、つまり“主人がここにいる”ことがわかる。

主人をつかんだが、まだ特に親しく知り合ったというわけではないよ。

それからもう一つ、シッダのシッダというのがある。

もし、主人と特別親しく話し合うことができたら、これはまた別な状態というものだ。

愛と信仰を通して、神様と親しく語り合うようになったらね。

神様にすっかり受けいれられたシッダ――神様と特別親しく語り合っていなさる御方をシッダのシッダと言うのだ。

だが、あの御方をつかんだら、一つの決まった態度をとらなきゃいけない。

シャーンタ、ダーシャ、サッキャ、ヴァッツァリャ、マドゥラのどれかだ。

シャーンタ(静かな)――これは古代の見神者(リシ)たちの態度。

かれらは外に何の楽しみも望まない。

ちょうど妻が夫に見も心も捧げているようなもので――自分の主人がカンダルパ(カーマデーヴァ、愛の神)だということを知っているのだ。

ダージャ(献身的な奉仕)――ハヌマンラーマーヤナの中で、ラーマの信者で猿の英雄)のような境地。

主ラーマの御用をするときはライオン並みになった。

立派な妻にもこの気持ちがあるもので、命がけで主人に仕える態度だ。

母親の中にもいくらかこんなのがある。

ヤショーダー(クリシュナの養母)がそうだったよ。

サッキャ(友愛の)――友達の態度だ。

さあおいで、そばにきて坐っておくれ。

シュリー・ダーマたちは主クリシュナに自分たちの喰いかけの果物を食べさせたり、取っ組み合いをしたりした。

ヴァッツァリャ(母の子に対する態度)――ヤショーダーの態度だ。

妻にも幾分この気持ちがある。――自分の生命をけずっても主人を養うという。

子供が満腹するまで食べたとき、はじめて母親は満足する。

ヤショーダーはクリシュナに食べさせようと、出来立てのバターを持ってあちこち歩き廻ったものさ。

マドゥラ(甘く美しい)――(主クリシュナに対する)聖マティー(ラーダー)の態度。

妻もマドゥラの気持ちをもつ。

この態度の中には、ほかの態度もすべて入っている――シャーンタも、ダーシャも、サッキャも、ヴァッツァリヤも」

 

モニ

「神を見るという場合、この眼で見えるのでございますか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「あの御方は肉眼では見えない。

修行を続けていると、愛の体とでもいうようなものが出来てくるのだ。――そして愛の眼、愛の耳もね。

その愛の眼であの御方が見えるし、その耳であの御方の声がきこえてくる。

その上、愛のリンガ(男性生殖器)やヨーニ(膣)まで出来るのだ」

 

この言葉をきくと、モニはついウフフと吹き出してしまった。

タクルはきにもかけずに話し続けられる。

聖ラーマクリシュナ

「この愛の体で真我と交わるのだよ」

 

モニはまた厳粛な態度に戻った。

 

聖ラーマクリシュナ

「神に向かって猛烈な愛情を持たなければ、そんなふうにはならないよ。

猛烈に好きになれば、四方八方いたるところに神が見えてくる。

黄疸がひどくなれば、そうするとあたり一面が黄色く見えてくるようなものだ。

そのときは“あの御方がわたしだ”という感じになる。

酒飲みがひどく酔っぱらうと、「このおれさまがカーリーだ」と言うだろう。

ゴーピー(牛飼い)たちは愛に夢中になって、「この私がクリシュナだ」と叫びだした。

あの御方を夜となく昼となく思っていると、あの御方があたり一面に見えてくる。

ランプの炎をじっと見つづけてしばらく経つと、四方八方が炎だらけに見えてくる」

 

モニは内心で、「それは、本当の炎ではない」と思った。

タクルはそれを読み取ってこうおっしゃる。

「意識そのものを思っていれば意識を失うことはない。

シヴァナートが、「百回、神のことばかり考えていたら、頭がおかしくなる」と言ったから、私はかれに言ってきかせたよ。

至高意識そのものを想念しているのに、どうして無意識になるんだい?とね」

 

モニ

「そうです、わかります。

一時的な、すぐ変化したり滅びたりするものを想念するのではないからですね?

意識そのもの、生気そのものである御方に心を集中して、人間が無意識になったり知性を失ったりするはずがありません」

 

聖ラーマクリシュナはたいそう満足した様子で、

「これは神様のお恵みだよ。

あの御方のお恵みがなくては、疑いは晴れないものだ。

真我(アートマン)に対面しなくては、疑いや迷いは心からすっきり晴れないものだ。

あの御方のお恵みがあれば、もう何一つ恐れるものはない。

父親の手をつかんでいても、子供は転ぶことがあるよね?

だけど、父親が子供の手をしっかりつかんでいたら、もう大丈夫なんだ。

神様のお恵みがあって、疑いや迷いが消え、そのうえご対面下さったなら、もう何一つ苦しみや悩みはない。

だから、あの御方に届くように、ありったけの力で呼び続ける――つまり修行を熱心に続けていれば、お恵みがいただけるわけだよ。

子供がハァハァ言いながらあちこちかけ廻って探すのをみると、母親は可哀そうに思う。

隠れていたんだが、出てきてやる」

 

あの御方は、どうして我々をかけずり廻らせるのだろう、とモニはいぶかる。

――タクルは、すぐ察して話される。

「しばらくの間、かけ廻らせるのが神の御意(おこころ)だ。

だから面白いんだよ。

あの御方は、遊戯(リーラー)のためにこの世界をお創りになったのだ。

これがマハーマーヤー(大いなる現象、又は幻象)と呼ばれているのだ。

だから、その、力(エネルギー)と美と愛そのものである大実母(マー)にすがって護っていただくんだよ。

マーヤーの足枷につながれているんだから、この足枷を切りさえすれば神様にお会いできるのだ。」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉  マヘンドラ・グプタ著)

 

 

次回も引き続き、「バクティ・ヨーガ」について、ご紹介したいと思います。

 

 

 

かれはあらゆる感覚機能をもつが

かれ自身には感覚器官が無い

一切を維持しながら一切に執着なく

物質性(グナ)を楽しんで 物質性(グナ)を超越している

 

全てのものの内にも外にもかれは在り

不動であって しかも動く

はるかに遠く また極めて近く

その精妙なこと とても肉体感覚では認識不可能だ

 

個々に分かれて存在するように見えるが

かれは決して分かれず常に一(ひとつ)である

かれは万生万物の維持者であるが

一切の絶滅者であり 創造育成者である

(バガヴァッド・ギーター第13章15ー17)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

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など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(4)

「見神」(悟り)に至る道は、いろいろありますが、

今、ご紹介している道は、バクティ・ヨーガ、信仰の道です。

 

スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉から、真の「バクティ」(神への信愛)とは、どういうものか?について、ご紹介しています。

 

かなり厳しい内容のように感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは解脱へ至る道ですから、平坦な道ではないことは当然であり、「狭き門」より入り、自己の本性を悟ることで、「永遠の実在」であるブラフマンに至る細くて狭い道なのです。

 

そして、この「バクティ・ヨーガ」が、末世(カリユガ)である現代においては、一番適した「悟りへの道」である、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダの師(グル)でいらっしゃいます聖ラーマクリシュナのお言葉も併せて、ご紹介させて頂きます。

 

 

『このように、心がこの具体性という訓練を受けるものには様々な形式がある。

そこから、私たちは、一歩一歩、抽象的なものの理解、抽象的な悟りへと進んでゆく。

再び言うが、同じ形式がすべての人に合っているわけではない。

ある形式があなたに合っているし、別の形式がほかの誰かに合っているだろう、等々。

同じ目標に通じているにしても、すべての形式が私たち皆に合っているわけではない。

ここに私たちが犯しやすい別の過ちがある。

私の理想はあなたに適していない。

それなら、なぜ、私はあなたがたにそれを強制する必要があろうか。

私の教会の建て方や賛歌の読み方はあなたに合っていない。

それなら、なぜ、私はあなたにそれを強制する必要があろうか。

世界を回ってごらん。

馬鹿どもが皆、自分の形式だけが唯一正しい、ほかの形式はみな悪魔のものだ、そして、自分だけがこの世界に生まれた唯一の「選民」だと言うだろう。

これらすべての形式はみな良いもので、役に立っている。

そして、人間の性質にはさまざまの種類があるように、宗教にも数多くの形式が必要だ。

そしてその数が多ければ多いほど世の中にとってはよい。

世界中に20の宗教の形式があれば非常にけっこうだ。

400あればなおけっこうだ。

より多くの中から選択できるからだ。

だから、宗教と、宗教的な観念の数が増えて、何倍にもなれば私たちは喜んだほうがよい。

なぜなら、そうなればそれらがすべての人を含み、人類をよりいっそう助けれくれるからだ。

すべての人がほかの人とまったく異なった、自分自身の宗教を持てるほど宗教の数が増えたら、神にとってはどんなによかろう。

これがバクティ・ヨーガの観念だ。

その最終的な観念は、私の宗教はあなたのものではありえないし、あなたの宗教は私のものではありえないということだ。

目標と目的は同じだが、それぞれの人はその性癖にしたがって、別々の道をとらなければならないのだ。

そして、これらの道はさまざまであるが、それぞれの道はみな真実でなければならない。

それぞれが同じ目標に通じているからだ。

ひとつだけが真実で、ほかは間違いだということはありえない。

自分自身の道を選ぶことは、バクティの用語では、イシュタ、選ばれた道と呼ばれている。

それから、言葉がある。

あなたがたはこの言葉の力について聞いたことがあるだろう。

言葉は本当にすばらしい。

聖書、コーランヴェーダなどの聖典は言葉の力で満ちあふれている。

ある言葉は人間性の上にすばらしい力を及ぼしている。

それから、他の形式や象徴がある。

象徴は人類の心に大きな影響を与えてきた。

しかし、宗教の中の偉大な象徴は偶然にできたものではない。

私たちには、それらが思想の表現だということが分かる。

私たちは象徴を使って考える。

すべての言葉はその背後にある思想の象徴に過ぎない。

そして、民族が違えば理由を知らずに違う象徴を用いるようになる。

それは隠れている。

これらの象徴は思想と結びついている。

思想が象徴を外に引き出すように、象徴は、逆に、思想を内に引き入れることができる。

このように、バクティのこの部分は、象徴と言葉と祈りというさまざまの主題について告げる。

すべての宗教に祈りがある。

しかし、ここで銘記しておかなければならないのは、健康や富を求めてする祈りはバクティではないということだ。

それは皆カルマであり、報償を求める行為だ。

実質的な利益を求めてする祈りは、例えば、天国へ行くことを求めてする祈りなどはカルマに過ぎない。

神を愛し、バクタになることを求める人びとはこのような祈りをすべて捨てなければならない。

光りの国に入りたいと思う人は、この売り買いの、「商売」の宗教を全部束にして脇へ寄せ、それから、門に入りなさい。

あなたがたが祈り求めるものが得られないからではない。

何でも得られるだろう。

だがそれは卑しく、低俗な、乞食の宗教だ。

ガンジスの岸辺に住みながら、水を求めて小さな井戸を掘る者は本当に馬鹿だ。

ダイヤモンドの鉱山に来ていながら、ガラス玉を探す者は本当に馬鹿だ。

ダイヤモンドの鉱山である神に、健康や、夕食や、一枚の布切れを乞うことは何たることだ!

それらはこの世のガラス玉にすぎない!

この肉体はいつかは滅びる。

その肉体の健康を何度も何度も祈って何になるというのだ。

健康や富が何だというのだ。

大富豪だって、自分の富のほんのわずかしか使えない。

私たちはこの世にあるものすべてを手に入れることは決してできない。

そんなものを誰がきにするというのか。

なにか良いものがきたら、大歓迎。

それが行ってしまうのなら、よろしい。

行かせてやろう。

それらが来るならけっこうだ。

それらが行っても、やっぱりけっこうだ。

私たちは神を悟ろうとしているのだ。

王の中の王の面前に行きたいと努力しているのだ。

乞食の衣装ではそこへは行けない。

乞食の衣服で皇帝の面前に出たいと願ったとして、果たして、受け入れられるだろうか。

もちろん違う。

追い払われてしまうだろう。

私たちの神は、帝王の中の帝王だ。

私たちは乞食のぼろでその御前に行くことはできない。

商人もいまだかってそこに受け入れられたことはなかった。

売買はそこでは役に立たないからだ。

聖書にあるように、イエスは神殿から商売人たちを追い払った。

それなのに、ある人びとは「おお、主よ。わたしはこの小さい祈りをあなたがにお捧げします。

お返しに私に新しい洋服をお与え下さい。おお、主よ。

私の頭痛をお治し下さい。

明日はもう2時間お祈りします」

あなたがたの心の状態よりもう少し高く自分を置きなさい。

祈り求める小さなものより自分を高く考えなさい。

人が精神的エネルギーの全部をそんなものの祈りに使うとしたら、人と動物の違いはどこにあるというのか。』

(最高の愛  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

『マリワリの信者

「お上人さま(マハーラージ)、ガンジス河の岸辺で死ななければ、解脱できないのでございますか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「智識が完成すれば、解脱できるんだよ。

どこに居たってかまうものか--死骸やゴミが積み重なった山で死のうが、ガンジス河の岸辺で死のうが、正しい智識をもった人は解脱する。

だが、無智な人にとっては、ガンガーの岸辺がいいんだろうねえ」

 

マリワリの信者

「お上人さま(マハーラージ)、ベナレスで死ねば解脱できるというのは、どういうわけでございますか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「ベナレスで死ぬとシヴァが会って下さる。

そして、『わたしのこの形をとった相(すがた)は、無明(マーヤー)のなかでとった姿だ。

わたしは、信者たちのためにこの相(すがた)をとっている。--さあ、見なさい。

わたしは完全無欠のサッチダーナンダに溶け込んでいく!』こうおっしゃって、その姿は消える!

プラーナでは、賤民でさえ神を信仰すれば解脱できると言っている。

この教義では、称名をしさえすれば解脱できると言う。

犠牲供養も、密教的修行も、マントラも、一切合切必要ないと言っている。

ヴェーダの考え方はこれとは別だ。

バラモン(祭祀を執り行う階級)でなくては解脱できない。

マントラを正しく発音して称えなければ、神は祭祀を受けつけない。

犠牲供養、秘密の修行、マントラのくり返し--みんな規則通りに行わなければならない」

「末世(カリユガ)の今、ヴェーダに書いてある通りの行事をする時間があるかい?

だから現代は、ナーラダのような”信仰”(バクティ)がいいのだ。

カルマ(行い)・ヨーガは大そう難しい。

無私の気持ちになれなければ、行いは束縛(しばり)の原因になる。

その上、食物なしには生きられないから--すべてのことをその通りに行うヒマがない。

昔ながらの木根草皮を十種類もあつめて煎じ薬をつくっているうちに、熱病人の方は間に合わなくてオダブツだ。

現代の熱サマシを飲まなけりゃだめだ。

ナーラダのような信仰--あの御方の名を唱え、讃歌をうたうことだ。

末世(カリユガ)にはカルマ・ヨーガは合わない。

信仰(バクティ)のヨーガが適している。

世間にいて、過去世でしのこした経験(ボーガ)がある分だけ仕事をしろ。

そして、神への信仰、恋慕の気持ちを養うことだ。

あの御方の名をとなえて讃歌をうたえば、過去の行為は帳消しになるからね。

仕事を一生の間する必要はないんだよ。

あの御方を清浄(きれい)な気持ちで慕うにつれて、仕事の方は減ってくる。

あの御方をつかんでしまえば仕事は捨てられる。

嫁が胎に子をはらめば、姑は家事を減らしてくれる。

赤ん坊が生まれたら、もう何もしないで子守だけしていればよくなる」

 

青年

「先生、智慧とはどういうものですか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「神だけが真実在で、そのほかはすべて虚仮(こけ)。

これを知るのが智慧だ。

真実在--またの名をブラフマン

もう一つの名を”時”(カーラ)という。

だから、こう言われているよ。--『兄弟よ、ごらん、何と多くのものが”時”(カーラ)のなかに生まれ、”時”(カーラ)の中に消え去るか』

大実母カーリーは、”時”(カーラ)と交接なさる。

カーリーは根源造化力(アディアシャクティ)のことだ。

時(カーラ)とカーリー、ブラフマンと創造力(シャクティ)--不異(おなじ)ものだ。

”それ”(タット)、真実在のブラフマンは永遠だ。--

三世(過去、現在、未来)にわたって実在している。

初めも終わりもない。

それを言葉で表現することはできない。

無理して言えば、それは霊(精神)そのものであり、歓喜(よろこび)そのものだ。

世界は一時的なもの、あの御方だけ永遠だ!

われわれの見ている世界は魔術のようなものだ。

魔術師だけはほんとうにいるが、魔術師の見せる魔法はその場かぎりの現象だよ」

 

青年

「この世界は幻象(マーヤー)で、魔法だとおっしゃいますが、どうしてこの幻象(マーヤー)は、いつまでも消えないのでしょうか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「前生から続いてきた錯覚で、幻象(マーヤー)は消えないのさ。

何度も何度もこの幻象(マーヤー)の世界に住み続けてきたから、この幻象(マーヤー)が実在だと思い込んでしまっているのさ。」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉  マヘンドラ・グプタ著)

 

 

この錯覚を取り去ること、眼に見える現象はすべて幻象(マーヤー)だと見抜くこと。

それは同時に、永遠の真実在が、自己の本性として悟られることを意味します。

 

自分の中に、「神」を見い出すこと。

 

それが、「見神」であり、探求者にとっては、自己の本性を悟ることが、探求のゴールなのです。

 

 

 

さて、永遠の生命を得るために

知るべきことを これから説明しよう

大霊ブラフマンは無死であり

有と無を超越している

 

あらゆるところに かれの手あり足あり

眼も頭も顔も至る処にあり

至る処に耳があって全ての音を聞き

全てを覆いつくして時空に充満している

(バガヴァッド・ギーター第13章13ー14)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(3)

前回と前前回の記事では、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集より、「見神」(所謂、「悟り」)の準備段階においては、感覚の制御という点から、「食物の識別、選択」が、非常に重要であるということ、また、そのための具体的な実践方法について、詳しくご紹介いたしました。

 

小さなモノも、積み重ねていくと、大きなモノとなります。

 

日々のちょっとした実践であっても、諦めずに続けていくと、やがて、人生の流れを大きく変えるきっかけとなることでしょう。

 

それは、実践した者のみが、手にすることができる果としての結実なのです。

 

今回は、同じく、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺された遺稿集から、「バクティ(神を信愛する)とはどういうことか?」ということを、具体的に説明している部分をご紹介させて頂きます。

 

 

バクティは2つの部分に分かれている。

ひとつはヴァイデイと呼ばれ、形式的、儀式的なものだ。

もうひとつはムクヤと呼ばれ、最高のものだ。

バクティという言葉は礼拝の最低の形式から最高の形式まで、すべての領域を含んでいる。

世界中のあらゆる国、あらゆる宗教でみられる礼拝はすべて愛というもので順序づけられている。

単なる儀式であるものも数多くある。

儀式ではないけれども、まだ愛ではない、低い段階にあるものもある。

それでもこれらの儀式は必要だ。

バクティのこの外的な部分は魂の前進を助けるために絶対必要だ。

自分が最高の状態まで一跳びで到達できると考えているとしたら、大きな間違いだ。

そして、私は、あなたがたが、宗教は書物の中にも、知的に同意することの中にも、推理の中にもないという考えをつねに心に抱いていただきたいと思う。

推理、理論、教義、信条、書物、宗教的な儀式はすべて宗教に至る補助に過ぎない。

宗教そのものは悟りから成り立っている。

私たちはみな「神はいます」という。

あなたがたは神を見たことがあるのか。

これが問題なのだ。

ある人が「神は天にいます」というのを聞く。

あなたがたは、彼が神を見たかと尋ねる。

もし見たといったら、あなたがたは笑って、彼は気違いだというだろう。

大部分の人の場合、宗教はある種の知的な同意か、教義以上のものではない。

私は今まで一度もこのような宗教を説いたことはないし、それを宗教と呼ぶこともないだろう。

この種の宗教を持つよりは無神論者でいる方がましだ。

宗教は知的な同意とかには依存しない。

あなたがたは魂はあるという。

魂を見たことがあるか。

私たちはみな魂を持ち、それを見たことがないというのはどういうことなのか。

あなたがたはこの質問に答えなければならないし、魂を見る方法を発見しなければならない。

もしできなければ、宗教について話すことは無駄だ。

もし、何かの宗教が真実だとしたら、それは私たちに魂を示し、私たちの中にある神と真理を示すことができなければならない。

もし、私とあなたがたがこれらの教義や信条について永久に争ったとしても、決して何らかの結論に達することはないだろう。

人びとは長年このように闘ってきたが、結果はどうか。

知性は決してそこに到達することはない。

私たちは知性を超えていかなければならないのだ。

宗教の証明は直観の中にある。

壁の証明は私たちがそれを見ることにある。

もし、私たちがすわり込んで、その壁の存在や非存在について長年にわたって議論したとしても、何かの結論に到達することはない。

しかし、直接壁を見れば、それで十分だ。

世界中の人がみなそんなものは存在しないといったとしても、あなたがたは彼らを信じないだろう。

あなたがた自身の眼の証拠が、世界中のすべての教義や信条の証拠よりも勝っているということをあなたがたは知っているからだ。

宗教的になるためには、書物をまず船から捨てなければならない。

書物を読まなければ読まないほどよい。

一時に一事だけをせよ。

現代にあっては、西洋諸国では脳みそのごったまぜを作ることがはやっている。

あらゆる種類の不消化の観念が脳の中を暴れまわり、混沌を生じ、落ち着いてハッキリした形を形成する機会を持つことができないでいる。

多くの場合、それは一種の病気にはなるが、宗教ではまったくない。

そこで、中には神経的な感覚を求める人びともいる。

彼らに、見えない状態で存在し、彼らを見張っている幽霊とか、北極や、ほかのどこか遠いところからやってくる、羽を持ったり、グロテスクな格好をした人びとについて語り、彼らをぞっとさせたら、彼らは満足して家に帰るだろう。

しかし、24時間もたたないうちに、また新しい感覚を受け入れる準備をしているだろう。

ある人びとが宗教と呼んでいるのはこれだ。

これは精神病院に通じる道で、宗教に通じる道ではない。

あなたがたが1世紀もこの道を歩み続ければ、この国は巨大な精神病院と化するだろう。

弱虫は主に到達することはできない。

そして、このぞっとさせるようなものは弱さに通じるものだ。

したがってこのようなものには、一指たりとも触れてはいけない。

それらは、人を弱くし、脳をかき乱し、心を弱め、魂を堕落させ、そして、救いようもない混乱をその結果としてもたらすだけだ。

あなたがたは、宗教が、お喋りや、教義や、本の中にあるのではなく、悟りの中にあるということを銘記しなければならない。

それは、知ることではなく、在ることだ。

「盗むな」はみな知っている。

だが、それがどうだというのだ。

盗まなかったひとが、それを本当に知ったのだ。

「人を害してはならない」ということはみな知っている。

だが、それに何の価値があるのか。

害しなかった人がそれを悟ったのだ。

彼らはそれを知り、その上に彼らの性格を築いたのだ。

だから、私たちは宗教を悟らなければならない。

そして、宗教のこの悟りは長い道のりだ。

人びとは、何か非常に高級ですばらしいものことを聞くと、みな、それがすぐに得られるものだと思いこみ、その高みに至るまで、努力して徐々に進まなければならないということを考えるために、一瞬たりとも立ち止まろうとはしない。

彼らはみなそこまで跳び上がりたがるのだ。

もしそれが最高のものだとしたら、私たちこそそれにふさわしいと思う。

私たちは、自分たちが力を持っているかどうかを考えるために立ち止まろうとは決してしない。

その結果は、私たちは何もしないということだ。

あなたがたはくま手に人を乗せて、そこまで押し上げてやることはできない。

私たちは皆少しずつやりとげてゆかなければならないのだ。

したがって、宗教の最初の部分はこのヴァイディ・ヴァクティ信仰の低い段階だ。

信仰のこれらの低い段階とは何か。

それらが何であるかを説明する前に、私はひとつの質問をしたいと思う。

あなたがたは皆、神がいます、そして、神は遍在する実在だという。

しかし、あなたがたの遍在という観念は何なのか。

答えとして、あなたがたは、眼を閉じて、それがどのようなものであるかをいうだけに過ぎない。

そして、あなたがたは何を見いだすか。

あなたがたは、それまでに見たことのある、海とか、青空とか、草原の拡がりのようなものを思い浮かべるだろう。

もしそうだとしたら、あなたがたは「遍在する神」によって、何の意味のあることも言ってはいない。

あなたがたにとって、それはまったく何の意味もない。

神の他の属性についても同じことだ。

一般的に、全能とか全知について、私たちはどのような観念をもっているだろうか。

何も持っていない。

宗教とは悟ることだ。

そして、あなたがたが神の観念を悟ることができたとき、私はあなたがたを神の礼拝者と呼ぼう。

それまでは、あなたがたが知っているのは言葉のスペリングだけで、それ以上のものではない。

そして、私たちが悟ることのできる、この状態に到達するために、具体的なものを通らなければならない。

ちょうど、子供たちがまず具体的なものから出発し、それから徐々に抽象的なものに進むように。

もし、赤ん坊に5かける2は10を教えたとしても、理解できないだろう。

でも、10個のものでどうして5かける2は10なのかを見せてやれば、赤ん坊は理解するだろう。

それは、ゆっくりとした、長い過程だ。

私たちはここではみな赤ん坊だ。

私たちは年をとっていて、世界中の本を勉強したかもしれない。

しかし、この霊性の領域ではみな赤ん坊だ。

宗教を宗教とするのはこの悟りの力だ。

教養や、哲学や、論理学説をいくらたくさん頭に詰め込もうと、たいして問題にはならない。

問題になるのは、あなたが何であるか。

何を悟ったかということだけだ。』

(最高の愛 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

時に、これらの言葉は、とても厳しく聞こえるかもしれませんが、その根底には、私たちを真の救済に導こうとする師(グル)の深い愛があることを感じます。

 

その道は、けっして平坦な道ではありませんが、それでも、敢えてその道を辿ろうと決めた人びとにとっては、その道を歩んでいくことは、けっして不可能ということはありません。

 

そのために、神は師(グル)という形で、この世に出現して下さっています。

 

その存在は、私たち探求者の心を照らして下さる光であり、神の恩寵そのものなのです。

 

 この事実を信じることのできる人、この神の恩寵に素直に与れる人は、迷うことなく、真直ぐに、導かれることになるので、探求者にとっては、道の短縮に繋がるでしょう。

 

 

 

至上者(わたし)に対する不動の信仰

世俗を離れ 静かな処に独居する希望

一般大衆 俗世間の人々と

無益な交際をしないこと

 

自己の本性を知る(さとる)ことの重要さを認識すること

絶対真理への探究心ーー

以上のことは智慧の本質であり

これに反することは無知無明である

(バガヴァッド・ギーター第13章11ー12)

 

 

 

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☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

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など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(2)

前回の記事では、神を覚る(見神)のためには、「食物の識別」が大切である、という12世紀の南インドが排出したヴェーダンタ哲学者のラーマーヌジャが遺された文献を引用しながら、

スワミ・ヴィヴェーカーナンダが、私たちに分かり易く解説して下さった「神を識るための準備段階」としての「食物の識別」に関する実践方法を、ご紹介させて頂きました。

 

「神を識る」とは、知識によってではなく、体験を通して識ることを意味します。

 

ですから、「見神」あるいは、「神を識る」とは、「神を体験する」と同じです。

 

このためには、口から入れる物に対して、意識的である必要がある、ということ。

 

人間は、体を育み、生を持続させるために必要なエネルギーを「食物」という形で摂取しているわけですが、この食物の持つエネルギーには、いろいろあり、すべてが同じというわけではありません。

 

簡単に言うと、エネルギーには、重いもの、軽いもの、不純なもの、純粋なもの、など、そのレンジ(幅)は様々であり、それぞれに影響力が異なります。

 

もちろん、その影響力には、宇宙的な巨視的な観点からすれば、良い悪いはありませんが、

神は純粋意識、純粋エネルギーですから、私たちが、神に近づき、神に出会うためには、私たち自身のエネルギーが、純粋になる必要がある、ということを意味している、ということを理解するだけでも、探求者にとっては、道の短縮につながるでしょう。

 

そのためには、日々の食物に気を配り、自分自身のエネルギーを澱みや汚れのない浄いエネルギーにすることが必要で、

それにより、私たちは、純粋エネルギーである「神」に近づくことができるのです。

 

更に言うならば、私たちに直接影響を与えているのは、食物だけではありませんが、食物は、人間に最も大きな影響を与えているエネルギー源であることは、明らかです。

 

後日、この他にも、人間というエネルギー体に影響を与えているエネルギーの種類をご紹介したいと思いますが、

まずは、食物から受けるエネルギーを識別し、心身を浄くしてくれるモノを選んで食べることが重要です。

 

重く濁ったエネルギーは、見神どころか、心身を蝕み、病の原因となることがありますので、要注意です。

 

それでは、前回の続きを見てみましょう。

 

 

『さて、同じことを他の注釈者シャンカラチャーリヤ(700年頃に活躍した中世インドの思想家。不二一元論(アドヴァイタ)を提唱した)が説明しているが、それを話そう。

彼はまったく別の見解を持っている。

食物に該当するサンスクリット、アーハーラは「集めること」を意味する語幹から出ており、したがって、それは、集められたものを意味する。

彼の説明はどうか。

彼は「食物が浄ければ、心は浄くなる」と言っている。

つまり、感覚に執着しないためには、ある種のことを避けなければならないということだ。

先ず、執着についてだが、神を除いて、何ものにも極度に執着してはならない。

何ものを見ても良い、何をしても良い、何に触れても良い。

しかし、それに執着してはならない。

極端な執着が生じると、人は自分自身を見失ってしまう。

彼はもう自分の主人ではない。奴隷だ。

女が一人の男に極端に執着したとする。

彼女はもうその男の奴隷だ。

男の場合も同じである。

奴隷になることに益はない。

この世にはひとりの人間の奴隷になるより優れたことがある。

すべての人を愛せよ、すべての人に尽くせ。

しかし、奴隷にはなるな。

それは、まず、私たちをそれぞれに堕落させる。

つぎに、私たちを極端に利己的にする。

その結果、私たちは自分が愛する人に善を行うために他者を傷つけようとする。

この世界でなされる悪の大部分は、実は、特定の人びとに対する執着からなされるのだ。

良い仕事に対する執着を除いて、この種の執着は避けなければならない。

そして、愛はすべての人に与えられなければならない。

次は、嫉妬についてだ。

感覚の対象に対して、嫉妬を持ってはならない。

嫉妬はすべての悪の根元であり、しかも、最も克服しがたいものだ。

次は妄想だ。

私たちはいつも、あるものを別のものと取り違え、それに対して働きかけている。

そして、その結果、自分で自分を惨めなものにしている。

私たちは悪を善と取り違えている。

神経をちょっとくすぐるものを最高の善だと思い込み、じきにその中にとびこんでしまうが、それは私たちに手痛い打撃を与える。

だが、もうおそすぎる。

私たちは毎日この過ちを繰り返している。

しばしば、一生繰り返している。

感覚が、極端な執着なしに、嫉妬なしに、妄想なしに、この世界で働くとき、シャンカラチャーリヤによると、このような働きは「浄い食物」と呼ばれる。

食物が浄いと、心は対象を取り入れて、それについて執着も嫉妬も妄想もなく、考えることができる。

そのとき、心は浄まり、つねに神を考えているようになるのだ。

人がシャンカラチャーリヤの考えが結局は最善だ、と言うのは極めて自然だ。

しかし、私は最初の、ラーマーヌジャの考えも無視してはならないということを、つけ加えたい。

物質の食物について実際に気を配って初めて他のものはやってくるのだ。

心が主人だと言うことはまったく真実だ。

しかし、感覚に縛られない人は非常に稀である。

私たちはみな物質に支配されている。

物質に支配されている間は、物質の助けをかりなければならない。

十分に強くなったときに初めて、私たちは何を食べてもよくなるのだ。

それだから、私たちは、飲食について気を配るときはラーマーヌジャに従わなければならない。

また同時に、心の食物についても注意しなければならないのだ。

そのとき、霊的自己は徐々に強くなって行き、物質的自己は徐々にひかえ目になる。

そして最後には、どんな食物も、自分を害うことはない、と知る時がやってくる。

非常に危険なことは、みなが一度に最高の理想にまで飛び上がりたがることだ。

それは正しいやり方ではない。

落ちて脚を折るだけのことだ。

私たちはこの低い場所に縛りつけられている。

その鎖をゆっくり壊して行かなければならないのだ。

これがヴィヴェーカ、「食物の識別」と呼ばれているものだ。』

(最高の愛  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

前回と今回の二回にわたって、「食物の識別」に関してのスワミ・ヴィヴェーカーナンダのお言葉をご紹介しましたが、

これらは、理解するのは簡単であるかもしれませんが、言うは易し、行うは難し、で、実際に実践することは、お金を出せば、何でも食べることができる現代人には、とても難しいことでしょう。 

 

しかし、一時的な快楽は、永遠なる存在である「神」とは、相反するもので、両者は、けっして相容れないため、

見神を望むならば、バクティ・ヨーガの道においては、浄い食物を摂ることは、とても重要なことなのです。

 

厳しいようですが、スワミ・ラーマのお言葉の通り、

 

『選択とは、神か富か、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望か、ということです。

ひとつの選択は、永遠の生であり、他の選択は、死から死を意味します。

それが奥義なのです。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

ということを深く理解するならば、「食物の識別」の実践は、探求者が通るべき最初の関門と言うことができるでしょう。

 

次回は、見神のための「予備訓練」として、心の在り方についての解説が続きますので、引き続き、ご紹介したいと思います。

 

 

 

 

謙虚 虚栄(みえ)を捨てること

非暴力 寛容 正直

正師を求めて師事すること

清潔 堅忍不抜の精神 自制

 

欲望の対象から心を離すこと

我執を無くすこと

生死病死を苦とみなし

その本質を究めること

 

あらゆる事物に執着しないこと

妻子や家庭に対する愛着を捨てること

愉快なこと 不愉快なことにあたって

冷静であることーー

(バガヴァッド・ギーター第13章8ー10)

 

 

 

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☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(1)

真理の概要、イメージは掴めたけれども、実際に、神を掴む、神に出会うには、どうしたら良いのか?、具体的な実践方法が思い浮かばないのが、一般的な反応だと思います。

 

これまでに、チャクラの記事のところで、プラーナヤーマ(調気法)や瞑想をご紹介いたしましたが、それに加えて、もう少し取り組みやすく効果的な方法として、以下のスワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉をご紹介させて頂きたいと思います。

 

これは、誰もが比較的簡単に取り組むことが出来、そして、効果をダイレクトに感じ取ることができる優れた実践法です。

 

インドにおける多くのヨーギーや聖者の方々が、菜食であることは、偶然ではありません。

彼らは、私たち人間が、食物から受け取るエネルギーを完全に理解した上で、菜食を選択していると言うこともできるかと思います。

 

何故なら、私たちの心身を形成しているのは、口から入る食物であり、生きるエネルギーを与えてくれているのも、食物なのですから、食物が人間に与える影響は、人間が想像する以上であることは、明らかで、

食べた物により、どのような人間になるか?とまで言えるのです。

 

 

バクティ・ヨーガの最善の定義はたぶんプララーダによって与えられた次のものだろう。

即ち、「識別力のない者が、はかない感覚の対象に対してつねに抱いているあの愛、それと同じ種類の愛を、“あなた”(主)に対して持つことができますように、“あなた”を想うときに感じる喜びが私のハート(感じる心)から消え失せませんように」(ヴィシュヌ・プラーナ)というものだ。

より良いものを知らない者たちが、感覚の対象、金銭、衣服、妻子、友人、所有物などに対してどんなに強い愛を持っているか、どんなに強く執着しているかを、われわれは知っている。

だから、この定義の中で賢者は言っているのだ、「この執着、この強い執着を、“あなた”に対してだけ持とう」と言っているのだ。

この愛が神に向けられたとき、それをバクティと呼ぶ。

バクティはこわれない。

それは、私たちに与えられた能力に、ひとつとして無駄なものはない、それらの中に、解脱にいたる自然な道が見いだされるのだ、と説く。

バクティは何ものをも抑制しない。

それは自然に反することはしない。

ただ、それに、より高い、より力に満ちた方向を与えるだけである。

なんと自然に、私たちは感覚対象を愛することか、また、私たちはそうせざるを得ないのだ。

それらが私たちにとって非常にリアルであるからだ。

私たちは、通常は、より高いものには現実感を持たない。

しかし、人がこれらの感覚の彼方に、感覚世界の彼方に、リアルな何ものかを見たときには、彼は、同じ執着を持ち続けるが、しかし、それをこの感覚を超えた対象、つまり、神に向けるようになる、という意味である。

そして、かつては感覚対象に向けられていた同じ愛が神に向けられたとき、それがバクティと呼ばれるのだ。

賢者ラーマーヌジャによると、この強い愛を得るための準備段階は次のようなものである。

第一はヴィヴェーカ。

そしてそれは、特に西洋の人びとには、非常に奇妙なものである。

ラーマーヌジャによると、これは「食物についての識別」なのである。

食物は、その中に私たちの心身の力を作り上げる全エネルギーを含んでいる。

私の現在あるすべては私が食べた食物のかたまりの中にあった。

それは私の中に取り入れられ、蓄えられ、私の中で新しい方向が与えられたのだが、しかし本質的には、私の心身は、私が食べた物と異なるものではない。

物質世界には力と物質があり、この力と物質が、私たちの中で心と身体になっているのだから、心身と食物とのちがいは本質的には現れ方のちがいに過ぎないのだ。

食物という物質の粒子から私たちは思いの道具をつくり、これらの粒子の中にやどる精妙な力から思いそのものをつくる、というのであれば当然、この思いとその道具は、私たちが摂る食物から影響を受けることになる。

心にある種の変化をもたらす食物がある。

私たちはそれを毎日はっきりと見ている。

また、まず身体に変化をもたらし長い間には心に大きな影響を与える、というものもある。

それは、学ぶべき大切なことである。

私たちが被る悲惨の多くは、単に、私たちが摂る食物によって引き起こされているのだ。

重い消化され難い食事の後では、心を統御することが非常に難しいということはご存じだろう。

心は絶えず走り、走っているのだ。

また、ある種の興奮させる食物がある。

このような食物を摂ると、心が統御できなくなることに気づかれるはずだ。

多量のワインや、その他のアルコール性の飲物を飲んだ後には、人が自分の心を統御することができなくなるのは当たり前のことだ。

おさえても逃げてしまうのだ。

ラーマーヌジャによると、避けなければならない3種類の食物がある。

まず、ジャティ、即ち、食物の性質、または、種類。

すべての興奮性の食物は避けるべきだ。

例えば、肉、これはもともと不浄なものだから避けなければならない。

他者の生命を奪ってしか得られないからだ。

私たちはそれを食べて瞬間的に快楽を感じる。

しかし、その快楽を得るためには他の生きものが生命を失わなければならない。

そればかりでなく、私たちは同時に他の人びとを堕落させることになる。

肉を食べる人が動物を殺すなら、むしろましだろう。

しかし、そうする代わりに、社会はそれを職業とする階級をつくり、それを理由に彼らを嫌っている。

私はこの国の法律は知らない。

しかし、イギリスでは屠殺人は陪審員になれない。

生まれつき残忍だというのが理由だ。

誰が彼らを残忍にしたのか。

社会だ。

もし我々が牛肉やマトンを食べなかったら、彼らは屠殺人にはならなかったであろう。

肉食は、非常にはげしい仕事をする人、バクタになろうとはしない人びとだけに許される。

しかし、もしあなたがバクタになろうとするなら、肉類や、タマネギやニンニクのような刺激の強いもの、「ザウエルクラウト」(ドイツの漬物の名前)のように悪臭のするものは避けなければならない。

日が経って腐りかけたもの、もともとあったジュースが乾きかけたもの、悪臭のするものも避けなければならない。

食物について、次の項目は西洋人には、ますます複雑に思われることだろう。

それはアーシュラヤ、つまり、それを用意した人、と呼ばれるものだ。

これは、ヒンドゥの神秘的理論と言ってよかろう。

その考え方は、人はみな、その周囲にある種のオーラを漂わせていて、彼が触れる物は何であれ、彼の性格の一部、いわば、彼の影響をその物の上に残す、というものだ。

それぞれの人から体臭が出るように、性格も彼から発散されていて、彼が触れる物はそれを受けるのだ。

したがって、私たちは、食物が調理されるとき誰がそれに触れるか、に気を配らなければならない。

邪悪な、不道徳な人はそれに触れてはならないのだ。

バクタになりたいと願う人は邪悪だということを知っている人とともに食事をしてはならない。

彼らの影響が食物を通じてもたらされるからである。

次にはミニッタである。

これは非常に理解しやすい。

汚れやほこりなどは食物の中に入ってはならない。

食物を、外界の汚れや、塵などをつけたまま、市場から持って来て、洗わないまま食卓の上に置いてはならない。

又、唾やその他の、口から出る分泌物のついた物に触れてはならない。

唇を触れる習慣や、唾の付いた物に触れる習慣は、私が経験したうちで最も恐ろしいものだ。

神は洗うための水を十分に与えていて下さるのに――。

粘膜は身体の中で最も繊細な部分だ。

あらゆる影響は唾を通じて非常に容易に運ばれる。

したがって、粘膜の接触は、不快であるばかりでなく、危険でもある。

したがって、ほかの人の食べかけた食物、つまり、誰かがりんごを半分かじって、残りを他人に与えたような場合、それを食べてはならない。

今述べたようなことを避けた場合、その食物は浄い。

「浄い食物は浄い心をもたらし、浄い心は絶えず神を覚えている」(チャンドーギヤ・ウパニシャッド)』

(最高の愛  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

この続きは、次回ご紹介いたします。

 

真理を覚るためには、バクタ(神を信愛する人)であることは、必須です。

 

無神論者は、バクタになり得ませんし、真理を覚ることもできないでしょう。

 

神とは自己の本性であり、それが真理なのですから。

 

そして、そのことを覚ることが、私たち探求者が目指す最終ゴールと言えるのです。

 

 

 

 

さて、この用地ーー活動の場は何なのか

どのように構成され 変化し また何処から来るか

用地の認識者は誰で どんな作用をするか

簡単に説明するから よく聞きなさい

 

古来の聖賢たちは この知識について

多くの讃歌や格言のかたちで

様々に表現し説明している

特にヴェーダンタスートラが道理分明である

 

五大要素 我執 理解力

気(未発の活力)

十根(五官の受動両面)

心 五官の対象(色声香味触)

 

欲望 憎悪 喜楽

悲苦 身体の諸機能 知力 意志力

およそ これらのものが

活動の場とその相互作用である。

(バガヴァッド・ギーター第13章4ー7)

 

 

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