永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(25)「神」④

前回までの記事で、「神とはどのような存在か?」「神は何処にいるか?」など、神についての智識をお伝えしました。

 

これらのことを知ることは、ヨーガ(神との合一)の道を短縮することにつながる有益な情報として、サンスカーラ(過去の残存印象、潜在意識)に蓄積され、今後の探究のプロセスおいて、有効に働き、良い結果へとつながって行くことでしょう。

目的地に到達しようとする際は、闇雲に行き当たりばったり歩くよりも、地図を参考に見ながら歩く方が、時間も労力をも無駄に浪費せずに済むので、それにより、目的地までのプロセスを楽しむ余裕が生まれますし、信頼できる地図があれば、迷わずに済み、旅に費やす時間の短縮につながるのは、言うまでもありません。

このことは、今私たちが歩んでいる魂の旅(多くの人は、そのことを意識していませんが)にも、同じことが言えます。

 

ヨーガ(神との合一)という山頂に至るには、他者が自分の代わりに上がれる訳ではありませんし、自己実現のためには、山頂までは自分の足で上る必要があります。

自分が歩むのですから、自分が行く道は、少なくとも、自分が決めることができます。

どの道を辿るか?を決める際に、先人が辿った道について知ることは、確実に山頂に辿り着ける道を選択することにつながります。

 

今回も、前半で、シュリ・ラーマ・クリシュナの御言葉をご紹介し、後半で、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋をご紹介したいと思います。

 

 

『聖ラーマクリシュナ

ヴェーダンタ派なんかのブラフマン智の行者たちはこんなふうに言う。

”創造、維持、破壊、そして生物と世界ーーこういうものはすべてシャクティ(造化力)の遊戯(リーラー)である。

よく考えて判断していけば、すべてのものは夢まぼろしである。

ブラフマンだけが実在で、ほかはみな非実在だ。

シャクティでさえ夢のようなものであって実在ではない”とね。

けれども、何千何万回考えて決心してみても、三昧(サマディ)にならない限りはシャクティの領域から逃れる方法(みち)はない。

”私は瞑想している””私は考えている”などというのも、すべてこれシャクティの領域でのこと。

シャクティの勢力の中でのことだよ。

だから、ブラフマンシャクティは不異(おなじ)だというのだ。

一つを思ったら、もう一つの方も思わずにはいられない。

ちょうど火とその燃える力のようなものでねーー火を心に想いうかべると、燃える力もいっしょに思うことになる。

燃える力を除けて火を想像することは出来ないし、火のことを言えばどうしても燃える力を思うことになる。

太陽といえば日光が心に浮かんでくるし、日光がなくては太陽を考えることは出来ない。

牛乳はどんなものかね?

考えるまでもない。

牛乳がなくては牛乳のあの白さを思い浮かべることはできない。

そして、牛乳の白さなしには牛乳を思い浮かべることは出来ない。

だから、ブラフマンなしにシャクティを考えることは出来ないし、シャクティなしにブラフマンを考えることは出来ない。

永遠(ニティヤ)なものなしには変化(リーラー)を、変化(リーラー)なしには永遠(ニティヤ)なものを思うことは出来ないんだよ!

アディヤシャクティ(宇宙生命力・根元造化力)は絶えず変化活動している。

創造し、維持し、破壊している。

その力のことをカーリー(ヒンドゥー教の暴力と殺戮を好む戦いの女神)と呼ぶのだ。

カーリーこそブラフマンで、ブラフマンこそカーリーなんだ!

唯一つの本体が動かないときーーつまり、創造、維持、破壊の仕事をしていなさらぬと考えるとき、その御方をブラフマンと呼ぶ。

その御方がそうした活動をなすっているときにはカーリーとかシャクティと呼ぶ。

その御方はただひとり。名前とポーズが違うだけ。

あの御方のことをアッラーと呼んでいる人もあれば、ゴッドと呼んでいる人もあり、ブラフマンと呼ぶ人も、カーリーと呼ぶ人もある。

ラーマ、ハリ(クリシュナ)、イエスドゥルガーなどと呼んでいる人もある」

「ただ一つのものがあるだけで、ほかには何もないんだよ。

”私”がある間は、かの至高至聖のブラフマンが、アディヤシャクティ(根源造化力)という相(すがた)で創造したり、維持したり、破壊したりしているように見せかけて下さっているだけだ。

ブラフマンがアディアシャクティなのだ。

ある王様が、『たった一言で朕に智慧をさずけよ』と、一人のヨーギーに申しつけた。

ヨーギーは、『よろしい。たった一言であんたは智慧を得るだろう』と請け合った。

しばらくすると、王の傍で突然『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言う。

王は何のことかわからず呆気にとられてただ見ていた。

しばらく見ていると、二本の指は一本になってしまった。

魔術師は一本になった指をグルグル廻しながら、『王よ、これを見よ。王よ、これを見よ』と言っている。

つまり、ブラフマンとアディアシャクティははじめのうちは二つに見える。

しかし、ブラフマン智慧を得ると、もう二つは存在しないんだよ。

同じなんだよ。一つなんだ!

一つが二つになっているんじゃないーー不二(アドヴァイタ)なんだ!」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

How to Realize God ?(神を悟る(実現する)方法)

 

神は、受容と供給の問題である。

もし、あなたが、本当に神のダルシャン(謁見)を切に願うならば、彼は、直ぐにでも、あなたに彼自身を現わして下さるだろう。

あなたは、神を悟ることに、技術も科学も、学びも学識も要らないが、誠実さと純粋さ、献身は必要である。

すべての世俗的な事柄-妻、息子、富、財産、親戚、友人-に対してあなたが大事にする愛をすべてに結合しなさい。

それから、この結びつけられた愛を神に対して適用しなさい。

あなたは、直ちに、悟るであろう。

神と同時に富に仕えることは、不可能である。

あなたは、真我の至福と感覚的な喜びを、一つの同じカップで、楽しむことはできない。

あなたは、光と闇を同時に持つことはできない。

神は、あなたの全ハートを要求している。

あなた自身を、神の前でゼロにまで減少させなさい。

その時だけ、神は完全に、あなたを引き受け、護ってくれるだろう。

その時だけ、帰依は完全となる。

あなた自身の利益や、あなた自身の切望や、あなた自身の望みを忘れなさい。

あなたは、至高の自己の至福に達するであろう。

もしあなたが、神との合一を望むならば、低い自己を磔に処し、生贄に捧げなさい。

あなたのエゴイズムを空にしなさい。

あなたは、神で満たされるであろう。

あなたの個性を失くしなさい。

あなたは、神聖なる命を見出すだろう。

あなたは、神を実現する(悟る)だろう。』

 

 

『The Easiest Approach to God (最も簡単な神へのアプローチ)

 

バクティ(神への信愛)は、いかなる神へのアプローチの他の方法よりも簡単である。

ジュニャーナ(Jnana)とヨーガ(Yoga)には、堕落するリスクがある。

献身の道においては、献身者が神から十分なサポートと助けを受け取るので、リスクはない。

ジュニャーナ(Jnana)やヨーガの道を辿る人は、彼らの力と知恵を誇りがちである。

献身者は、謙虚である。

謙遜は、バクティ・ヨーガ(神への信愛、献身のヨーガ)の基本である。

ジュニャーナ(Jnana)・ヨーガ(不二一元の智識のヨーガ)は、智慧のヨーガである。

それは、分析と拒絶の道である。

それは、終わりのない否定の道である。

これは、大変難しい道である。

ラージャ・ヨーガ(八つの階梯のヨーガ)も、また、難しい。

それは、大海の波を鎮めるのに似ている。

あなたは、全部の波を鎮めなくてはならない。

カルマ・ヨーガ(奉仕のヨーガ)も、難しい。

それは、最も高い頂きに登るのに似ている。

あなたは、強大な意志力を必要とする。

バクティ・ヨーガだけは、簡単である。

神は、サンスカーラ(過去の残存印象、潜在意識)の泥沼からあなたを引き上げるために、手を伸ばしている。

あなたは、神の手をしっかりと掴まなければならないだろう。

しかし、ここでは、一つのことが、絶対に欠くことができない。

あなたは、神と神だけの考えの他に、どんな考えをも持つべきではない。

(神のことだけを思いなさい)』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

ALL WISDOM IS EVER WITHIN YOU (すべての智慧は、いつもあなたの内側にある)

 

すべての智慧は、いつもあなたの内側にある。

不滅の至福は、いつもあなたの内側にある。

すべての善は、いつもあなたの内側にある。

すべての力は、いつもあなたの内側にある。

すべての平和は、いつもあなたの内側にある。

すべての富は、いつもあなたの内側にある。

あなたは、達成方法を知るべきである。

あなたは、それらを得るために勇気を持たなくてはならない。

あなたは、まず初めに、四つのモノを獲得しなくてはならない。

あなたは、四人の歩哨と親しくしなくてはならない。

あなたは、誠実、熱望、献身を持たなくてはならない。

あなたは、純粋なハート、明晰な意識、抗えない意志、燃えるような決意、そして目的の粘り強さを持たなくてはならない。

(Waves of Bliss by Swami Sivananda)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(24)「神」③

ヨーガ(神との合一)という言葉にあるように、「神との合一」(見神)を果たすには、「神」についての智識(Brahma Jnana)は、ある側面では役立つとは言え、智識(Brahma Jnana)は、ただの観念(言葉)にしか過ぎない、ということも否めません。

神の智識(Brahma Jnana)そのものが、実在する「神」そのものではないため、神の智識(Brahma Jnana)によって、神を見たり、神を体験したり、神を知ることにはなりませんが、それでも、神について知ることは、私たちの内部にある「無知」を軽減することに役立ってくれることは、間違いありませんし、「神」についての明確なビジョンを持つことは、「見神」においては、とても重要です。

(ポポーというフルーツを食べたことがない人に、いくらポポーについて語っても、ポポーを知らない人は、聞いた情報を元に想像することはできても、実際にポポーを知ったことにはならないのと同じ理屈ですが、ポポーについて予め知っていると、ポポーを食べた瞬間に、それがポポーだということがわかることでしょう。)

 

今回の記事の前半では、趣向を変えて、4年前に出版した「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の著者であるスワミ・ラーマの「ヒマラヤ聖者とともに」という本の中で語られた、若き日のスワミ・ラーマ自身が体験した教訓的なエピソードを、ご紹介したいと思います。

 

そして、後半部分は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋の続きをご紹介いたします。

 

二人のスワミたちが、仰っていることは、同じです。

(前回の記事でもご紹介しましたが、シュリ・ラーマ・クリシュナも同じことを仰っていました。『智者はよく知っているよ。神様は”ここ、ここ”--ほんとに近く、胸のうちに、心のすべてを見ていてくれるものとしてあること。』)

 

他の聖者の方々も、同じことを仰ることでしょう。

 

彼らが示唆している場所、方法以外には、私たちが、神を直接体験し、神を見ることは不可能と言えますが、しかし、反対に考えれば、ただ一つだけですが、神へと至る道があり、それが、自分自身の中にあるのですから、その道を辿るのに、誰の許可も必要とせず、誰にも邪魔されず、誰にも咎められず、誰にも遠慮することなく、自分の意志次第で、自由に進んで行くことができる訳です。

 

実際にこの道を行こうとする人は、とても少ないのが現実ですが、本当は、誰にでも開かれた道であり、誰であろうとも、進んで行くのに、特別な資格は必要ないのです。

 

 

神とはどんな存在か?

 

ある日、私は師に言った。

「あなたは私をだましています」

自分が不十分なのにエゴが強いとき、人は他を責めようとするものだ。

師は尋ねた。「どういうことだ?」

私は答えた。「あなたは私がまだ子どもだと思い、私に隠しているものがあります」

「言いなさい。私が何を隠している?」

「あなたは私に神を見せようとしない。おそらくあなたにはそれができず、神について教えることしかできないのです。それがあなたの力の限界だということなら、正直にそう言ってください」

師は言った。「では明日の朝、おまえに神を見せよう」

私は尋ねた。「本当ですか?」

師は言った。「おそらくは。。。おまえにはその準備ができているのだな?」

ふだんは規則的に寝る前に瞑想していたが、その晩はできなかった。

朝には神を見られることが確かなのに、瞑想して何の意味があるだろう。

私は興奮して落ちつかず、一晩中眠れなかった。

翌朝早く、師のもとに行った。

風呂にも入らなかった。「師が神を見せるというのに、風呂などに入っている時間はない」私は頬を軽く叩き、髪をなでつけ、師のところへ行った。

師は言った。「座りなさい」

私は思った。「いよいよ神を見せてもらえる」

私がつつましくあったことはめったにないが、その日の朝はこれまでになく謙虚になった。私は師に何度も頭を下げた。

師は私を見て行った。「どうしたというのだ?そのおかしなふるまいは何だ?何をそう高ぶっている?」

私は言った。「忘れたのですか?私に神を見せると約束したのを」

「よかろう。では、おまえがどんな神を見ようとしているのか言いなさい」

私は尋ねた。「マスター、そんなに種類があるのですか?」

「おまえの神というもの、神の定義は何だ?私はおまえの確信と定義どおりの神を見せよう。

心の内に何ら確かな神というものもなしに、誰もが神を見たいと言う。

求める対象について確かでなくて、何が見つかるというのだ?

目にするすべてが神だと私が言っても、おまえは満足しないだろう。

神はおまえの内にいると言っても、やはりおまえは満足しまい。

私が神を見せ、おまえが『いいえ、それは神ではありません』と言うなら、私に何ができる?

おまえが神だと思うものを言いなさい。私はその神をおまえのためにつくりだそう」

私は言った。「ちょっと待ってください。考えてみます」

「神はおまえの思考の範疇にはない。瞑想の座に戻り、準備ができたら言いなさい。どんな神を見たいか決まったら、いつでも私のところに来なさい。私は嘘をつかない――神を見せる。私の責務、それはおまえに神を見せることだ」

私は神とは何か最善をつくして想像したが、私の想像は人の姿を超えなかった。

植物界について考え、動物界について考え、それから人間のことを考えた。

私は賢く美しい人物、たいへん強くすぐれた力のある人物を想像した。

私は思った。「きっと神はこんなふうに違いない」

そのとき、自分が愚かな要求をしていたのだと悟った。心に明晰さがなくて、いったい何を体験できるだろう。

ついに私は師のもとへ行き言った。「マスター、私たちを苦しみから解放し、幸せを授ける神を見せてください」

師は言った。「それはおまえ自身が培うべき、均衡と平静の境地のことだ」

心に明晰さもなく、ただ神を見たいというのは暗闇を探るに等しい。

人の心には限界というものがあり、そうした制約つきの情報源から見えるものを見ることしかできない。

神とは何か説明できる人も、想像で神を理解できる人もいはしない。

神は真理である、愛の源泉である、絶対者である、森羅万象を具現した唯一者である、そう言うことはできる。

しかしこうした抽象的な概念のいずれも、神を見たいという欲望を満たしはしない。

そこに何を見るべきだろう。

神を何らかの存在であると信じる人は、想像したヴィジョンを見ることもあるだろうが、実際には、神は人の目を介して見ることはできない。

自らの真のセルフ、そして万人万物のセルフを知ることでのみ、真に神を見ることができる。

「神が見たい。師は神を見せようとしない。師は私の欲するものを授けない」という姿勢の生徒は、最後にはそれが師の側の責務の問題ではないと知る。

適切でない要求をしていないか探り、師に求めるかわりに内から自分を変えていくことだ。

神は自らの内におり、自らの内にあるものは自ら理解することができる。

誰も他人に神を見せることはできない。

自らの真のセルフを悟らねばならない。

そうして万物のセルフ、神と呼ばれるものを知る。

生徒は、無知の状態で神を何らかの特定の存在であると思い、外界の何かを目にするのとまったく同じように、その存在を見たいと思う。

それは決して起こらない。

しかし、神は真理であると知り、行いと言葉で真理を実践するとき、神というものにまつわる無知は消失し、自己覚醒の夜が明ける。』

(ヒマラヤの聖者とともに by Swami Rama)

 

 

Where is God?(神は何処にいるのか?)

 

神は、何処にいるのか?

神がいない処は、ない。

ちょうど、一本の糸が、一つの花輪のすべての花を貫いているように、一つの真の自己が、これらすべての生きている存在を貫いている。

彼は、種子の中の脂のように、ミルクの中のバターのように、脳の中の心のように、身体の中のプラーナのように、子宮の中の胎児のように、雲の背後の太陽のように、木の中の火のように、大気中の水蒸気のように、水の中の塩のように、花の中の香りのように、蓄音機のレコードの中の音のように、石英の中の金のように、血の中の白血球のように、すべての存在と形の中に隠れている。

神は、生命や意識として、すべての存在の中に住んでいらっしゃる。

神は、ライオンの唸り声、鳥の囀り、赤ん坊の泣き声の中にいらっしゃる。

何処にでも、彼の存在を感じなさい。

蝶の羽に、アルファやオメガの文字に、患者の咳に、小川のせせらぎに、ベルの音に、神を見なさい。

この世界のすべての物質の中に、神の顔の不思議を見出しなさい。

鼻の中を流れるすべての呼吸、心臓における脈打つすべての鼓動、身体における律動するすべての動脈、心に生じるすべての考えは、あなたに、神は近くにいると語っている。

香りを漂わせるすべての花、あなたを魅了するすべての果物、そよぐすべての優しいそよ風、スムーズに流れるすべての川は、神と神の恵みを語っている。

力強い波の大海原、氷河の巨大なヒマラヤ、広大な空の明るい太陽と星々、枝のある背の高い木、丘や谷の冷たい泉は、あなたに神の無限なる力を語っている。

甘美な歌い手たちの音楽、力強い演説者の講義、名だたる詩人たちの詩歌、有能な科学者たちの発明、指先の器用な外科医の手術、聖なる聖者たちの言葉、バガヴァッド・ギーターの教え、ウパニシャッドの啓示は、神と神の知恵について語っている。

すべては神である。

幸福は神であり、不幸も神である。

すべての中に神を拝し、至福の中で平和に安らぎなさい。

神は、全宇宙に充満している。

彼は、乞食のみなりで歩く。

彼は、病人を装い、痛みでうめく。

彼は、ぼろを着て森を彷徨う。

あなたの目を開け、すべての中に、神を見なさい。

すべてに仕え、すべてを愛しなさい。

あらゆる所に、神聖なる存在を感じなさい-あらゆる形、あらゆる考え、あらゆる感覚、あらゆる所感、あらゆる動き、あらゆる感情の中に。

神は、感覚を通して見ると、物質であり、知性を通して見ると、心であり、霊を通して見ると、真我であるアートマンである。

神は、あなたの中に内在している。

神は、内なる支配者であり、内なる目撃者(Antaryamin)であり、あなたの人生を守り、支配している。

神は、あなたの中におり、あなたは、神の中にいる。

神は、あなたのすぐ近くにいる。

神は、少しも離れておらず、あなたよりもあなたの近くにいる。

あなたは、神がカイラス山や、ラーメーシュワラム(註①)やメッカ、エルサレムや空や天国でのみ見出されると、初めは考えていた。

あなたは、とても曖昧な考えを持っていた。

この身体は、神の動く神殿である。

神聖な場所は、あなた自身のハートの空洞である。

あなたの目を閉じなさい。

感覚の対象物からあなたの感覚器官を引っ込めなさい。

一点に集中した心と献身と純粋な愛で、あなたのハートの中に神を探しなさい。

あなたは、必ず、神を見つけるだろう。

神は、あなたを抱擁するために、腕を広げて、そこで待っている。

もし、あなたが神をそこで見つけることができないならば、他の如何なる場所であっても、あなたは神を見つけることはできない。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

(註①この地は、古代インドの叙事詩ラーマーヤナ』において、ラーマ王子(ヴィシュヌ神の化身とされる)がラーヴァナにさらわれた妻シータ―を助けにランカー島へ渡る際に橋をかけた場所、とされている)

 

 

次回に続きます。

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(23)「神」②

前回から、ヨーガの世界における「神」、また、ウパニシャッドで説かれている「神」について、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」(日本未出版)から、抜粋して御言葉をご紹介しています。

 

さて、この「神」については、このブログの過去記事でも、度々ご紹介してきましたが、今回は、その過去記事の中から、今回ご紹介しますスワミ・シヴァナンダの御言葉と、全く同じ趣旨のことをシュリ・ラーマ・クリシュナが語って下さっていますので、改めてその御言葉も、併せてご紹介したいと思います。

 

これは、「神」についての正しい智識(Brahma Jnana)であると同時に、自己実現(Self-Realisation)を望む人なら誰でも、最終的に導かれるゴールであります。

 

So ham !(我、ソレなり!)

 

これが、最終的なヨーガ(神との合一)の究極的なゴールであり、人間に生じている「無知」を消滅させることができる「最高の智慧」(Brahman Jnana)であり、ここに至る道こそが、私たちが「無知」から生じる「輪廻」から「解脱」する唯一の道と言えるでしょう。

 

 

ラーマ・クリシュナ

『お前さんたち、遠いところから苦労して此処へやってくるが、神様を探して歩いているのかい?

大方の人は庭を眺めて満足しているだけで、庭の造り主のことを聞くのはほんの一人、二人だ。

この宇宙の美しさがわかっても、その造り主を探そうとしない。』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

『Is There a God ?(神はいるか?)

 

神は、人間の想像を超えているが、生きる実在である。

ブラフマン形而上学の抽象概念などではなく、最も豊かでリアルな存在である。

神の存在は、科学的な実験では証明されることはできない。

絶対者は、最も偉大な学者の心でさえ困惑させ、最も強力な知性でさえ、捕らえようとしても捕まらない。

それは、純粋な意識として体験され、そこでは、知性は死に、学識は消滅し、全存在自体が、完全にその中に消え去る。

すべてが消え去り、すべてが見出される。

あなたは、実験室の証明が欲しいのか?

大いに結構!

あなたは、あなたの試験官やガラス管や化学物質の中に、無限で、すべてに遍在している神を制限したいのだ。

神は、あなたの化学物質にとっての源であり、あなたの原子、電子、分子にとっての根本である。

神無しには、どんな原子も電子も動かない。

神は、内なる支配者である。

私たちの感覚に力を、心に認識力を、知性に識別力を、手足に力を与えているのは、神である。

私たちが生きて死ぬのは、神の意志を通してである。

しかし、人間はいたずらに、神が役者であり、享受者であると想像している。

人間は、宇宙における動きを指令する全能で支配する力の前では、ただの無である。

神の意志は、何処においても、法則として、それ自身を表す。

重力、分子の結合力、相対性、原因と結果の法則、電子や化学や物理学の法則、すべての心理学的な法則は、神の意志の表現である。

私たちが原因と結果の法則によって、自然の中のすべてを説明するように、全体としての自然も、説明されなくてはならない。

それは、幾つかの原因を持っていなくてはならないし、この原因は、結果とは異なっていなくてはならない。

それは、超自然的な存在、例えば、神でなくてはならない。

自然は、ただの偶然の出来事の寄せ集めや、ただの機会の偶然の集まりではなく、秩序のある出来事である。

植物は規則正しく蕾になり、種子は規則的に木に成長し、季節はそれぞれ順番に続いて起こる。

自然は生命のないもの(Jada)であり、それ自身に命令することはできない。

それは、責任がある知性のある存在-神の存在を必要としている。

科学者のアインシュタインでさえ、至高の知性による宇宙の創造を強く確信していた。

日中に、星々を見ることはないが、それでも星々は存在する。

曇りの日に太陽を見ることはできないが、それでも太陽は存在する。

あなたは、この肉体の目で神を見ることはできないが、たとえそうであっても、神は存在する。

もしあなたが、瞑想の実践によって、神聖なる目や直感の目を得るならば、あなたは、神を見るだろう。

神は、神ご自身が自己証明される。

神は、証明の過程や行為の基礎であるため、どんな証明も必要としていない。』
(Bliss Divine by Swami Savananda)

 

 

ラーマ・クリシュナ

『神とは何か、もしそれを理解していれば、それこそ生きながら解脱した人だ。

だが、みんなこれを信じていないのだ。

ただ口でしゃべるだけのことだ。

神は実在し、神の意志ですべてのことは起こっている、と世間の連中は聞いているだけで信じてはいない。

世間の人は、神についてどんなふうに知っていると思う?

伯母さんたちの口ゲンカを聞いて、子供たちがけんかをしながらそのマネをして言うーー”あたしには神様がついていらっしゃるから”--あれだよ。

全部の人があの御方を理解できると思うかい?

あの御方は善い人をお創りになる、悪い人をお創りになる、信心深い人をお創りになる、不信人な人をお創りになる、神を信じる人をお創りになる、神を信じない人をお創りになる。

あの御方のリーラー(神の遊戯)の場は、すべてが多種多様で不可思議だよ。

あの御方の力は、ある場所には溢れるほどたくさん顕れているし、ある場所にはほんとに少なくしか顕れていない。

太陽の光は地面よりも水面によく反射するし、水面より鏡にもっとよく反射する。

それから、神の信者にもいろいろある。上、中、下とあるんだ。

バガヴァッド・ギーターにみんな書いてあるよ。

下の信者は、「神様はいらっしゃる。天上はるか遠くに」と言う。

中の信者は、「神はすべての生物のなかに、意識として、生命として宿っていらっしゃる」と言う。

上の信者は、「神ご自身があらゆるものに成っていらっしゃる。見るもの一つ一つが神の色相(すがた)なのだ。

あの御方が現象(マーヤー)、生きとし生けるもの、この世界すべてになっていらっしゃるのだ。

神の外には何一つ存在しない」と言う。

”あんたとあんたのもの”これが智慧だ。”私と私もの”--これが無智だ。

身体も、心も、家も、家族も、ほかの生きとし生けるもの、この宇宙、世界ーーみんな、みんな、あんたのもの、私のものは一つもないーーこの理解が智慧というものだよ。

無智な人はこう言う、神様は”あっち、あっち”、ずーと遠くの方に!

智者はよく知っているよ。

神様は”ここ、ここ”--ほんとに近く、胸のうちに、心のすべてを見ていてくれるものとしてあること。

そして、自分で一つ一つ様々な色形(かたち)をとって、そこに住んでいらっしゃることをね』

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)

 

 

あなたは至高のブラフマン 無上の安息所

そしてすべてを浄化する御方

永遠至聖にして不生無始

全宇宙に遍在する元始の神

(バガヴァッド・ギーター第10章12)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(22)「神」①

今回から数回に渡り、「神」について、スワミ・シヴァナンダの御言葉をご紹介していきたいと思います。

 

前回のテーマは、「人間」でしたが、私たち自身が、人間である自分に対して抱いているイメージ(概念)は、どのようなものでしたか?

また、スワミ・シヴァナンダが語って下さった「人間」の概念と、相違点、相似点はありましたか?

 

これと同様、今回は、「神」について、自分自身に質問してみましょう。

 

あなたにとって、「神」とは、どのようなイメージですか?

また、「神」とは、どのような存在でしょうか?

 

これは、「自己探求」(真我探究}においては、とても重要な問いです。

 

何故なら、「自己探求」において、最終的な答えは、「神」によってもたらされるからです。

この宇宙に、「神」以外に、無知である私たちを目覚めさせる力を持っている存在は存在しません。

正確に言うならば、神ご自身が、その姿を明らかにして下さるのですが、その「神」の正しい姿を知ることは、「自己探求」における「智識」(Jnana)として重要であり、この「智識」(Jnana)をもたらしてくれるジュナーナ・ヨーガ(Jnana Yoga)の実践は、私たちに生じている「無知」を消滅させるための最も効果的な道と言われています。

 

ジュナーナ・ヨーガ(Jnana Yoga)の中心的な考えは、古代インドで生まれ、その後発展した数多くあるヴェーダ聖典のうち、「ウパニシャッド」と呼ばれる限られた人々だけに伝えられた「秘教」を基本とした教えで、その後、それらを総合的に矛盾なく整理し、一つの思想体系として、インド8世紀の思想家であり聖者とされているシャンカラが、アドヴァイタ(不二一元)・ヴェーダンタとして提唱したもので、今日では、そのエッセンスは、このブログでもご紹介しましたが、ラマナ・マハリシによって、インドだけでなく、世界中に広く知られるようになりました。

 

『目覚めるまでは、夢は真実であるように、アートマン(真我)の知識(Atman-Jnana)が得られるまでは、身体とアートマン(真我)との同一性は真実であり、直接知覚などが知識根拠であることや覚醒状態も真実である。』

『輪廻の根源は、無知であるから、その無知を捨てることが望ましい。

それゆえに、ウパニシャッドにおいて、宇宙の根源原理、ブラフマン宇宙神)の知識(Jnana)が述べられたのである。

その知識(Jnana)から至福(解脱)が得られるであろう。

知識(Jnana)のみが無知を滅することが出来る。

行為は、無知と矛盾しないから、無知を滅することが出来ない。

それゆえに無知を除去するために、輪廻を止息するために、そしてブラフマン宇宙神)の知識(Jnana)を確立するために、ウパニシャッドが開始されたのである。』

(ウパデーシャ・サーハスリー by シャンカラ

 

それでは、ヨーガの世界では、「神」(ブラフマン)をどのように捉えているでしょうか?

スワミ・シヴァナンダの御言葉をご紹介しますので、自分が抱いているイメージと比べて見て下さい。

 

 

Who is God?(神とは誰か?)

 

ランタンは、語らないが、輝き、周りに光を放つ。

ジャスミンは、話さないが、あらゆる処に、その香りを漂わせる。

灯台は、ドラムの音は鳴らさないが、船員たちに友好的な光を送る。

見えないモノは、ドラを打ち叩かないが、その遍在は、冷静で識別力のある賢者によって感じ取られている。

すべての名前と形の背後には、一つの名前も形も無い本質がある。

すべての支配者たちの背後には、一つの至高の支配者の中の支配者がいる。

すべての光の背後には、ただ一つの光の中の光がある。

すべての音の背後には、音の無い至高の静寂がある。

すべての教師たちの背後には、一つの至高のグルの中のグルがいる。

これらすべての必滅の物体の背後には、一つの不滅の絶対者がいる。

これらすべての動きの背後には、一つの動きの無い無限の神がいる。

時間の背後には、一つの時間の無い永遠なる神がいる。

憎しみや暴動、戦争の背後には、一つの隠された愛がある。

神は、動物であろうと非動物であろうと、感覚があろうと、なかろうと、存在するすべてである全体である。

神は、病気や制限からは自由であり、遍在し、全知全能である。

神は、始まりも、中間も、終わりも無く、すべての存在の中に内在しており、内側からコントロールしている。

神は、すべてのすべてであり、この宇宙における唯一の実在である。

事物の存在は、神の光によるものである。

神は、常に生きており、すべては彼に依存しているが、神は、何にも依存していない。

神は、真理であり、すべてのヨーガの実践のゴール、終わりである。

神は、すべてのものが努力する中心であり、最も高い目的、世界における最も高い善である。

あなたには、飢えの衝動があり、その飢えを満たすための食べ物がある。

あなたには、渇きの衝動があり、その渇きをいやす水がある。

あなたには、常に幸せでいたいという衝動があり、この衝動を満たすための何かがなくてはならない。

この何かが、神であり、幸福が体現化されたものである。

神、不死、自由、完全、平和、至福、愛は、同義語である。

 

 

What is God?(神とは何か?)

 

神とは何であろうか?

語ることは難しいが、ガンジス河を見ると、それが神であることを知る。

ジャスミンの花を見ると、それが神であることを知る。

青空を見ると、それが神であることを知る。

鳥の囀りを聞くと、それが神であることを知る。

蜂蜜を味わうと、それが神であることを知る。

至高者は定義できないが、学者たちは、絶対的に真実とは言えない知的な説明をしている。

あらゆる人間は、神についての彼自身の概念を持っている。

軍人の神は、ヘルメットを被っている。

中国人の神は、平らな鼻とアヘンを吸うためのパイプを持っている。

ヒンドゥー教の神は、額にマークをつけ、数珠を持ち、花輪をつけている。

キリスト教の神は、十字架をつけている。

中には、羽をもった神もいる。

バッファローは、神は大きなバッファローだと考えるだろう。

神の擬人的な概念は、明らかに他愛無いものである。

神についてのあなたの確信は、あなたの全人生を支配するので、全世界において、最も偉大で最も重要なことは、神についての正しい概念を得ることである。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(21)

 

 約8年前、当時はまだ表立って活動をされていなかったナーナ先生による”シャクティ・パータ”(一種のエネルギー伝授)を受けた際に、それまで体験したことのない至福体験(自分が消滅して、至福の中に溶け去ったような感覚体験)が起き、その時に、それまで知りたくても知ることができなかった知りたかったことのすべてが(本当に、すべてが!)明らかになり、その時を境に、一見難解に感じられる聖者の方々の言葉でさえ、容易に理解できるようになり、ウパニシャッドで語られている究極の叡智が、何を言い表しているのか?が、手に取るように理解できるようになりました。(クンダリニーの目覚めは、すでに若き日にクンダリニーシャクティの上昇を体験していましたが、それでも尚、宇宙の神秘のすべてが明らかになった訳ではなく、真理を覆う最後のヴェールは被ったままの状態で、究極の真理である真の自己(アートマン)を超意識の中でハッキリと直覚智するには、至っていませんでした)

 

宇宙の実相を覆っていた最後のヴェールが取り除かれたことで、その後の自然な流れで、今から約4年前に、スワミ・ラーマの「聖なる旅-目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」を翻訳出版し、また、今、スワミ・シヴァナンダの「bliss Divine」を翻訳してご紹介しています。

スワミたちが、私たちに伝えようとされていることは、「霊性の科学」と言ってもいい「永遠の真理」であると同時に、誰にでも、何にでも働いている「宇宙の法則」でもあり、人間だけにもたらされる叡智であることを、体験を通して確信しています。

 

しかし、スワミたちが伝えて下さっていることを真に理解するには、自分自身が同じ体験をして初めて可能になることであり、この「霊性の科学」における「宇宙の法則」とも言える「永遠の真理」は、自己の内部を深く掘り下げ、探すことで初めて、根源からの恩寵とも言える力によってもたらされる「究極の叡智」(Atman-Jnana)なのです。

 

私の場合は、神と一つになる至福体験は、ナーナ先生のシャクティ・パータという恩寵の御力によってもたらされましたが、これを起こすことができる力は、人間の力ではなく、根源からの力以外にはあり得ないでしょう。

 

個人個人の人生ストーリーは、それぞれ違っていますが、その人生の中で、それぞれが、運命として直面する多くの試練を、できる限りの努力で乗り越えた先には、神の恩寵により、人生の最終的な目的を果たすことが可能となるチャンスが訪れ、それまで閉ざされていた神秘の扉が開いて行く、という恵みに与ることを身を以って体験したため、このような「奇跡」は、他の多くの人にも起こり得ることだと確信しています。

 

個人を引き上げてくれるダイレクトな恩寵がやって来るまでは、ヨーガの八支則のヤマである「アヒムサー(非暴力)、サティヤ(正直)、アステヤ(不盗)、ブラフマチャルヤ(禁欲)、アパリグラハ(不貪)」をできる限り実践し、ニヤマである「シャウチャ(清浄)、サントシャ(満足)、タパス(苦行)、スヴァーディヤーヤ(聖典読誦)、イーシュヴァラ・プラニダーナ(信仰)」を心掛けて、アーサナやプラーナヤーマ、瞑想などの実践を通して、または、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ジニャーナ・ヨーガなどの実践を通して、心身を整え、清めることが、とても重要です。

 

私たちが、自分自身が至福の原泉である無限の霊(エネルギー、スピリット)であることを知るまでは、無常な自然の法則に支配されてしまう「限りある命」として、肉体に閉じ込められたまま、自己の不滅を悟ることはできないでしょう。

 

しかし、自分の真の姿を知れば、永遠の自由がもたらされ、その自由は、死によっても阻まれることはありません。

 

私たちは、「ソレ」でなかったことは、一瞬たりともなく、今も「ソレ」ですし、「ソレ」を失ってしまった訳ではなく、ただ「ソレ」であることを忘れてしまっているだけなのです。

こうして、魂は「眠った状態」である訳ですが、ひとたび心身の準備が整うと、必要なプロセスを経て、魂が「目覚めた状態」になるために必要なことが起こり、己の真の正体が明らかになり、真の姿がリアルな感覚で蘇って来ることでしょう。

ですから、自分の真の本性は、新たに発見するのではなく、思い出すと表現する方が、しっくりと来ます。

 

私たちは、永遠の至福の源泉である永遠の霊(エネルギー、スピリット)であり、永遠の実在なのです。

ただそのことを忘れてしまっているだけです。

 

それ故、地球において私たちが経験している個々の人生は、私たちがこのことを完全に思い出すためにある、と言っても過言ではないのです。

 

そして、私たちは、本人が自覚していようが、いまいが、誰でも、生物的進化の途上にいながら、霊的な神化の途上にいる存在として、己の真の姿を思い出そうとしているプロセスにあり、その真の自己(アートマン)を思い出し、真の自己(アートマン)に戻って行くプロセスを、スワミ・ラーマは、「聖なる旅」と呼んでいますが、誰もが、その「聖なる旅」の旅人であり、今この瞬間も、あらゆる存在の源へと帰還して行っているのです。

 

 

『God and Man(神と人間)

 

人間は、戯れで装っている変装した神であるが、しかし、急速に、自分の真の正体を忘れてしまった。

願望は、彼を引きずり下ろし、識別力は、彼を引き上げる。

進化した人間は、神であり、夢中になった神は、人間である。

束縛された神は、人間であり、束縛から自由な人間は、神である。

思い違いをしている無知な人間は、世俗的である。

完全なる人間は、神である。

神は、人間になった。

人間は、再び神になるだろう。

願望を付け足した神は、人間であり、願望を差し引いた人間は、神である。

人間の中で最も不信心な者であっても、彼ら自身を神に熱心に捧げることによって、最も高い至福へと至ることができる。

真理は、あなたの外側にはなく、あなたの内側にあり、あなたのハートの洞窟に住んでいる。

あなたは、神の真理であり、神の仕事であり、神の意志である。

あなたは、束縛を受けない、自由、永遠に自由である。   

あなたは、永遠に自由なアートマン(Nitya-mukta Atman)である。

オーム(OM)を大声で唱えよ。

肉体の檻から出て、自由に漫遊しなさい。

 

 

God(神)

 

神とは誰なのか?

神とは何なのか?

神は何処にいるのか?

神の悟り方は?

人間は、これらの永遠なる疑問に対する答えを欲しがる。

確かに、神はいる。

神は、存在しており、唯一の実在である。

神は、あなたの創造者であり、救い主である。

彼は、すべてに浸透している。

彼は、あなたのハートに住んでおり、いつでもあなたの傍にいる。

彼は、頚静脈や鼻よりも、あなたの近くにいる。

彼は、あなたを愛しているし、あなたに話しかけることができる。

あなたは、知性によっては、神を見つけることはできない。

しかし、あなたは感じ、瞑想し、体験し、悟る(実現する)ことで、彼を見出すことができる。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(20)

ここ数回に渡り、スワミ・シヴァナンダによるヨーガ的な視点から見た「人間」についての考察をご紹介しています。

 

これまでは、多次元的な視点から見た「人間」についてご紹介しましたが、今回は、この二元世界における生物学的、進化論的な視点から見た「人間」についてです。

 

今回ご紹介する内容は、学校での生物の授業で習ったことのある生物発生論を踏まえた延長線上にある人間についての考察も含まれていますので、ここで再確認する必要はないと感じるかもしれませんが、生物学的な進化論では、現在のところ、「人間」が最も進化した生物となっており、「人間」よりも優れた生物は、この地球上では、未だ発見されていない訳ですが、そのことをもってして、今の「人間」が、生物の最終進化の結果であるとの断定はできません。

スワミ・シヴァナンダは、未来に起こるだろうこれからの人間の「進化」(神化)について、確信をもって書かれていますので、ご紹介したいと思います。

 

つまり、今の段階では、私たち人間は、まだ「進化」の途中である、と言うことになり、これからの未来の人間は、順を追って、生物的な進化のレベル(段階)が上がって行くことは、論理的に考えても、間違いないことなのでしょう。

 

原因があって、結果があるように、時間は非可逆であるのが、この宇宙のルールですので、人間には未来しかありませんし、生物学的にも、進化はあっても、退行はないことになります。

 

今も、全人類は、生物学的な進化の段階を進んでいる訳ですが、誰であっても、そのスピードは違えど、霊的な進化(神化)の途上にいることは、間違いないと言えるでしょう。

 

 

Man – A Many-levelled Being(人間-多レベルな存在)

 

人間は、完全に社会的な動物である。

人間は、生物学上の有機体であり、血液循環、消化、呼吸、排泄などのような或る生理学的な機能の所有によって、明確に特徴づけられている。

人間はまた、思考、知覚、記憶、想像などのような或る心理学的な機能の所有によって、明確に特徴づけられている。

彼は、見て、考え、味わい、嗅いで、感じる。

哲学的に言えば、彼は神のイメージである、否、彼は神自身である。

人間は、禁断の木の実を味わったことで、彼の神聖なる栄光を忘れてしまった。

人間は、精神的な訓練と集中の実践によって、彼の失われた神性を取り戻すことができる。

人間は、多レベルな存在であり、彼の真の実在を隠している数多くの鞘を持っている。

彼は、自分自身を粗大な肉体と見做すかもしれないし、動物がそうするように、彼の必要なものを当てにするかもしれない。

或いは、彼は、自分自身を自意識の理性だと見做すかもしれないし、或いは、両者の永遠の目撃者である真の自己との一致を感じるかもしれない。

人間の生命の目的は、そこにおいては、それらがいかに価値あるものであろうと、人格への完全な混乱なしに、長い間、霊的な存在の支配権を握ることはできない。

現代人においては、自意識過剰な知性は、全自然界の範囲では、最も高い地位を得ており、自滅的な無神論は結果である。

人間は、三つの構成要素、つまり、人間的な要素、動物的な要素、神の光線の混合物である。

彼は、有限な知性、腐敗しやすい身体、少しばかりの智識、少しばかりの力を賦与されている。

これは、彼を確かに人間にする。

強い欲望、怒り、憎しみは、彼の動物的な性質に属している。

宇宙的な知性の反映は、彼の知性の背後にある。

そう、彼は神のイメージである。

動物的な本能が死ぬと、無知がばらばらに引き裂かれると、侮辱や屈辱に耐えることができると、彼は神と一つになる。

人間は、この地球上で、最も高い命の顕れである。

彼は、神のイメージであり、神の光線である。

神は、神自身の自己になぞらえて人間を作った。

本質では、人間は神と一体である。

彼は考え、感じ、知り、識別し、よく考え、瞑想する。

彼は、真の自己の最も高い智識に到達することができる。

それ故、食事、睡眠、恐れ、性交は共通であるが、人間は他の存在よりも優れている。

 

Evolution(進化)

 

人間は、昨日は、ただの動物であったが、今日、彼は人間である。

彼の運命は、自己完成の徐々なる過程の結果として、絶対者であるブラフマンになることである。

鉱物は、生命を伴って植物になる。

植物は、生命のより高い進歩を伴って、動物になる。

動物は、生命と思考を伴って、人間となる。

石は、眠る。

植物は、呼吸をする。

動物は、動く。

人間は、意識がある。

聖者は、超意識がある。

人類は、理性的である。

すべての動物は、本能的である。

聖者は、直感的である。

神のすべての動物の創造物の内で、人間だけが、神を悟ることができる。

人間だけが、識別、知性、洞察力、推理力、判断力を賦与されている。

知性は、神の人間への最も偉大な贈り物である。

人間は、身体的には、弱い存在であるが、しかし、彼の尊厳は、思考、識別力、推理力、疑問から成り立っている。

人間は、彼の思考と行為に応じて、彼自身を進化させる。

人間は、彼が考えるあらゆる思考と、彼が成すあらゆる行為によって、変えられる。

ボンベイという乗り換え駅から、列車は、デリーに直行し、他の列車は、マドラスに行き、他の列車は、ナグプールへ行く。

それと同じく、この身体は、乗り換え駅である。

もしあなたが、善行を行うならば、あなたは、天界(ブラフマ・ローカ)である絶対者ブラフマンの世界へと行くことができる。

もしあなたが、悪行を行うならば、あなたは、より低い動物に生まれるまで堕落するだろう。

もしあなたが、通常の(善悪の)混ぜ合わせの行いをするならば、あなたは、人間として留まることができる。

人間自身は-彼だけが-彼の人生において善い悪いすべてに責任がある。

人間は、持続的な自己努力と進化の長い過程を通して、完全さと自由を達成することができる。

人間は、何度も何度も生まれ、彼の地球での人生から、完全さを達成する方法を学び、神と一つになる。

ランプ内の蝋燭が、とても小さいと、灯りもまた小さいだろう。

蝋燭がとても大きいと、灯りもまた強力になるだろう。

同じように、もし個人が純粋なら、もし彼が瞑想を実践するならば、真の自己の顕れである表れは強力だろう。

彼は、大きな灯りを放出するだろう。

もし彼が、罪深く不純であるならば、彼は、完全に焼かれた炭のように(真っ黒に)なるであろう。

蝋燭が大きければ大きいほど、灯りも大きくなる。

同じく、魂が純粋であればあるほど、表れはより偉大になる。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(19)

前回の記事では、「願望が、人間をこの世(地球)に縛りつけている一番の要因であり、己の中にある「神性」を悟ることを妨げている最も大きな障壁である」という主旨のスワミ・シヴァナンダの御言葉をご紹介しました。

 

何かを得たい、何かを達成したいという「欲求」は、行為の種子と言えます。

種子は、芽吹いて成長し、何らかの結果として結実しようとします。

多かれ少なかれ、人生は、その繰り返しである訳ですが、私たち人間は、往々にして、その繰り返しを無意識で行っているため、ネズミ籠の中で、エサを求めて走って回転車を回し続けるネズミのように、願望達成のために、ヘトヘトになるのも厭わず、これまで気が遠くなるほどの長い時間を、回転車を回し、走り続けることに費やして来ました。

その結果と言えば、やっと手にしたエサも、あっと言う間に食べ尽してしまい、また、新たなエサを求めて、回転車を回して走ることになり、次から次へと目の前のエサを求めて、ほとんど休むことなく、走り続けています。

しかし、この繰り返しにも、やがて、終止符が打たれる時がやって来ます。

 

それまで、情熱を持って取り組んで来たことや、大好きだったモノに、急に興味がなくなったり、熱が冷めてしまったり、見向きもしなくなったり、ということは、日常でも経験することがあります。

その理由は、本人にもハッキリとはわからないことも多々あり、気持ちがすっかり変わってしまったと言うしかないような事態が起こることがあります。

例えば、大好きだった異性の嫌な面、許せない面を知った、とか、欲しいと思っていたモノが、よくよく調べてみると、自分が思っていたようなモノではなかった、とかいうことが、きっかけとなる場合もあるでしょうが、理由は何にせよ、一度気持ちが冷めてしまうと(願望が消えてしまうと)、もう一度、元の情熱を呼び起こすことは(願望を呼び起こそうとすることは)、不可能でしょう。

それは、言葉で言うと、自然と去って行った、としか表現しようがない出来事であり、去って行ってしまったモノは、文字通り、去って行ってしまったのであって、再び戻って来ることはないでしょう。

 

このように、「願望」とは、自分が創り上げた「幸福」のイメージを対象物に投影することで、あたかも、対象物の中に「幸福」が存在しているかのように思い込む「誤謬」から生じた「錯覚」と言うこともできます。

ある人にとっては、願望の対象であっても、他の人にとっては、そうではない、ということが、この「誤謬」と「錯覚」が、完全に個人的なものであることを物語っています。

そのモノが、自分に与えてくれる(だろう)幸せ、それを手にした時に、自分に起こるだろう「幸せ感」を想定して、人は願望を抱きますが、その両者が一致しないことは、誰でも、一度や二度は、経験していることでしょう。

それでも、また、人は、願望を抱き、「幸福感」を求めて、願望実現にエネルギーを注ぎます。

 

多くの場合は、その「幸せ感」を求める気持ち自体に問題がある訳ではなく、その「幸せ感」と物質的なモノとを結びつけて、モノに執着する気持ちに問題があるのです。

それは、物質次元の存在は、すべて有限であり、終わりがあるからです。

つまり、やっと手に入れた「幸せ感」は、永遠のモノではなく、一時的で限定的であったために、自分を永遠に幸せにしてくれるモノではないことに気づくことになり、その時、人は、また新たに自分に「幸せ感」をもたらしてくれる(だろうと感じる)別のモノを求める、という行動を起こします。

この無意識の繰り返しを、人間は、当たり前のように、そして、このことに対して、何の疑問も抱くことなく、行って来た訳です。

 

しかし、そうは言っても、本当に欲しいモノ、やりたいコト、成し遂げたいコトを、完全に諦めることは、そう簡単ではないため、そういう場合は、ひとつの方法として、何が何でも、その願望を達成するまで、自己努力を重ねて、願望を叶えるという手もあります。

ひとたび、願望が達成されれば、その願望に対する執着は、消え去るでしょう。

願望自体は、ある種の「思考」とも言えるものなので、自然消滅することもありますが、或る思考に、その思考を実現化したいという「欲」が付着すると、「願望」になります。

人間は、その願望と化した思考を何としてでも叶えようとするために、願望に振り回されてしまい、スワミ・シヴァナンダも書いていますが、『彼は、外側のモノとの関係を維持しており、願望によって支配され、駆り立てられ、願望やモノの奴隷になってしまう。願望は、人間を支配し、人間は、彼の顔を神から背ける。』という結果に陥ってしまいます。

何かの奴隷になる、というのは、真の自己であるアートマンという本来は自由で、何にも束縛されない独立した存在とは相反するため、その状態が原因となり、人間の中に、葛藤や苦しみ、自己憐憫が生じ、結果として、自分の中に「神性」を見出すことが、できなくなってしまいます。

また、物質次元のあらゆるモノは、私たち人間が体験する世界を豊かにしてはくれますが、願望の種子は、無限にあると言っても過言ではないために、人間が抱く多くの願望を結実させるには、気が遠くなるような時間が必要ですので、今生だけでは済まなくなる可能性もあります。

 

たとえ、無意味な繰り返しに気づいて、意志の力で「願望」を手放そうとしても、「願望」の結実したいという欲求の方が、意志力よりも強い場合があります。

このような意志力によっても消滅しない「願望」の種子を、芽吹く前の段階の種子のままで消滅させる最良の方法は、「願望」そのものの正体を突き止め、その仕組みを知ることです。

「願望」とは、何なのか?

何故、それが欲しいのか?何故、それをしたいのか?願望が叶ったら、自分はどういう気持ちになるのか?そういう気持ちにどうして自分はなりたいのか?等、自分自身に問い、自分なりの答えを探すことで、明らかになることがあるはずです。

これは、一種の「内観」であり、一つの自己探求でもあり、自分を深く理解することにつながって行きます。

そして、自分のことを深いところで理解することは、ひいては、人類全体を深いところで理解することにつながって行きます。

 

何故、聖者の方々は、悉く、「願望」と霊的な探求とは相反すると言っているのでしょうか?(同じようなことは、キリスト教でも仏教でも、同様に言われています)

 

その最も大きな理由は、「執着」です。

 

実は、「願望」自体が問題なのではなく、(何故なら、先ほども書きましたが、「願望」は一種の「思考」と言え、「願望」という「思考」は湧いて来ますが、その「思考」に「執着」しなければ、「思考」は、自然と消えて行き、跡形も無くなります)物質次元に執着することが、霊的な探求においては、乗り越えなくてはならない障壁と言えるからです。

特に、物質次元への執着は、意識が表面的な物質次元に集中し、そこに固定されてしまい、全エネルギーをそこに注ぐために、目には見えない世界へと意識を向けることによって起こる精神的な気づきや、霊的な意識の拡大がストップしてしまうからです。

 

この「願望」を如何に自分の中で処理するか?という難題に取り組むに当たって、今日は、スワミ・シヴァナンダではなく、約三年前に出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 -目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の中で、スワミ・ラーマは、このような智慧の言葉を書いて下さっていますので、ご紹介したいと思います。

 

 

 『どこに行こうと、何をしようと、世俗的な願望がある限り、真の平安はありません。

人が完全に世俗に生きて、世俗的な楽しみに囲まれそれを十分に享受するか、または、あらゆる誘惑から離れて荒れ地にいるかは関係ありません。

世俗的なものへの願望がある限りは、満足することはないでしょう。

死は不毛な砂漠の荒れ地ではないと同様に、これらすべての願望からの逃避でもありません。

人は死ぬまで自分の願望につながっており、この願望と共に再び彼らが満たされる世俗的な水準へと自分を引き戻します。

人々が願望に対処でき、願望を操縦する感覚や思考を自己コントロールできるのは、実践的な日常生活においてのみなのです。

人々は願望を超越し、それらの限られた価値を理解するために学ばなくてはなりません。

彼らが願望を超越し、彼らの感覚と思考を制御するときにのみ、彼らは真の喜びを理解し始めることでしょう。

彼らは世俗的な物に対する執着を手放すにしたがって、それらは彼ら自身の肉体をも含みますが、どんな富や物質的な存在が提供できる快適さよりも、計り知れないほど価値のある平和な感覚を経験し始めることでしょう。』

 

『この世のものは楽しまれるようになっています。

それらは永続しないので、それらに執着することは賢明ではありません。

この世のものを楽しみなさい。

それからそれらを行かせなさい。

それらにあなたの人生を通過させなさい。

人生のすべてを抱擁し、人生のすべてを理解しなさい。

しかし智慧をもってそれを成し、叡智に向かって動きなさい。

この世の生は目的ではなく手段なのです。

うまく人生を生きることは技術です。

それは智慧だけでなく勇気をも必要とします。

”この人間の永遠でない現実への束縛は”とシャンカラは言いました。

”武器によて、風によって、火によって、あるいは何万という行動によって破壊されることはない。

叡知の鋭い剣以外のものはこの束縛を切断することはできない。

それは識別力により鍛えられ、神聖なる恩寵を通して心の純粋さにより作られる。”

人生は短く特別です。

対象物と誘惑の鼠籠の中のここで、あなたの時間を浪費してはなりません。

楽しみを追い駆けないことです。

霊的な成長のためにこの世のものを使いなさい。

それが人生を選択するということです。

ゴールはアートマンです。

ウパニシャッドのメッセージは、ただひとつが在るということです。

すべてはひとつです。

この世のものに対して願望を持つことは、ひとつを多くに変えます。

選択とは、神か富が、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望かということです。

ひとつの選択は永遠の生であり、他の選択は死から死を意味します。

それが奥義なのです。』

(聖なる旅 -目的をもって生き、恩寵を受けて逝く- by Swami Rama)

 

 『人は外にあるものを見、内にあるものを見ない。

不死なるものを求める人は稀である。

自分の外にあるものに目を閉ざし、真の自己を見る。

愚か者は肉の欲望に従い、死を取り囲むすべての誘惑に陥る。

しかし、永遠なるものとしての自己を知る賢者は過ぎ去るものを求めない。』

(カタ・ウパニシャッド

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

 

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