チャクラについて(24)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) リカ―ジョンの矛盾
何回にもわたって、脳科学の最新研究によって解明されてきた人間の脳の働きや「心」について、ご紹介してきました。
通常の常識では考えられないような新事実が次々と明らかにされていく中で、ひとつだけはっきりとしていることは、これまで人間がこうだとしてきたことが、どうもそうではないらしい、ということです。
”自分が意図するよりも数秒前に、すでに行動の準備がなされている”という事実は、これを物語っています。
つまり、「自分」が意図しなくても、行動は起きる、ということになりますから、
意図する「主体」としての自己は、一体、どこで何をしているのか?と不思議な気持ちになりますね。
この「主体」としての自己「わたし」が、行動、感情、思考の司令塔で、すべてをコントロールしている、と(わたしは)思っているのですから、脳科学が実験により検証した事実とは違っている、ということは、正に驚き以外の何ものでもないでしょう。
それでは、「わたし」とは一体、どんな存在なのでしょうか?
夜寝ている間は、「わたし」という意識はありません。
それは、脳が休息中であるため、と言われていますが、裏返して言うならば、「わたし」という意識は、脳が活動している間だけの意識ということになり、別の言葉では、「顕在意識」ということになります。
前回の記事では、「潜在意識」は心の表層に浮かび上がってこないので、私たちの表面上の意識「顕在意識」にはわからない、というような内容をご紹介しました。
そして、この潜在意識は、幼年期など、まだ記憶能力が発達していない段階での体験が、記憶の層の深いところに蓄積保存されることから、
普段は、私たち自分自身は気が付かないのですが、「わたし」という顕在意識の気づかないところで、行動、感情、思考に影響を与えている、ということでした。
最近の研究では、覚醒時においては、ノルアドレナリン、セロトニン、ヒスタミン、オレキシン、メラトニン、などの神経伝達物質が、
『中脳橋被蓋から生じる複数の上行性経路と呼ばれている視床および大脳皮質に到達するまでのあいだのニューロンに投射され、
その途中にある視床下部や前脳基底部などの各レベルで付加的な入力が合流して増強され、
これらの経路はさまざまな状況において、それぞれが独自のパターンで活動することによって、
大脳皮質のニューロンの活動を適切に調整していると考えられる。:』ということがわかっているそうで、
これらの神経伝達物質が複雑に絡み合って、「目覚めている状態」「寝ている状態」「夢を見ている状態」という3つの意識状態を造り出していることがわかっています。
しかし、この「目覚めている状態」における脳の働き全体が、「わたし」という自我意識を造り出しているという構造を客観的に理解できても、
それがそのまま、「自己の不在」に結びつくわけではありません。
その理由は、池谷裕二さんが指摘されているように、「自分が自分を考える」という思考が、リカ―ジョンという入り子構造になっているからです。
その上、「自分」が「自分はいない」と言うことは、単純に考えても、矛盾している、ということは、明らかです。
このようなリカ―ジョンの矛盾について、池谷裕二さんの説明を見てみましょう。
『最後にリカ―ジョンについて、さらに深く考えてみようか。
リカ―ジョンという行為は、実は、危険なんだ。
なぜなら、リカ―ジョンは矛盾を生むからだ。
ラッセルはイギリスの数学者かつ科学者だけど、なぜかノーベル文学賞までもらっているから、なんとも多彩な人だ。
このパラドックスはリカ―ジョンを許すと生じる。
高校生のときにこのパラドックスを知って、僕はびっくりしたんだ。
これを説明するために、カタログを例にとって考えてみようか。
カタログって「集合」だよね。
たとえば「靴のカタログ」だったら「靴の集合」だ。
世の中には、クルマのカタログ、文具類のカタログ、などいろいろある。
そこで、ある人が新しいタイプのカタログを考えついた。
世の中にはカタログが溢れてきたから、どんなカタログがあるのかすぐに調べられるように、全カタログを網羅した「カタログのカタログ」をつくろうと。
「カタログのカタログ」ということは、この「カタログのカタログ」には自分自身も載せないといけないよね。
だって、すべてのカタログを網羅しているわけだからね。
となると、「カタログのカタログ」は自分を自分の中に持つという入れ子構造になる。
リカ―ジョンだ。
そこで、別のある人が、さらに考えた。
世の中には2種類のカタログがあるのではないかと。
①「自分自身が載っていないカタログ」、つまり、靴とかクルマとか、そういった具体的なモノを扱ったカタログ。
そして、②「自分自身もそこに載っているカタログ」、つまりカタログのカタログ、の2種類だ。
だったら、①のタイプ、つまり自分自身が載っていないカタログだけを集めて、改めて、新しいタイプのカタログ③をつくりましょう、と。
こうして新たなカタログが完成した。
いいね?③「自分自身が載っていないカタログをすべて載せたカタログ」だ。
さて、ここで質問しよう。
この新型カタログには自分自身は載っているだろうか。
→ 自分自身が載っていないカタログを集めてきて。。。。
そう、いわゆる普通のカタログを、世の中からすべて集めてきてカタログをつくった。そのカタログの中には自分自身は載っているだろうか、という質問。
→ うーん。。。。
あはは、直感的にはどっち?
→ 載っていない・・・
そうだよね。
だって、自分自身が載っていないものだけを集めてきてつくったカタログだから、載ってないはずだよね。
つまり、「載ってない」。
載ってないすべてのものを集めてきたわけだね。
でも、もうこの仕掛けがわかったね。
一歩引いて考えると不思議だ。
載ってないカタログをすべて集めてきたカタログなんだから、もし、そこに自分自身が載っていなかったら、そのカタログ自身もそこに載っけなくてはならない。
だって、そういうものをすべて集めてきたんだもんね。
わかるよね。だから、実は、そのカタログ③のルール上、載せる必要があるの。
でも、もし載せてしまったら、今度は自分自身が載ってるんだから、定義上、そこに乗せてはいけないカタログになってしまうよね。
そのカタログ③は、自分自身が載っていないカタログを集めたカタログなんだから。
つまり、載せても載せなくても、どちらにしても矛盾してしまうんだ。
パラドックスだ。
何がいけなかったかというと、リカ―ジョンだね。
リカ―ジョンしたからマズいことになってしまったわけ。
リカ―ジョンをする集合体は必ず矛盾をはらんでしまう。
どこかで論理破綻が生じる。
ラッセルは、「リカ―ジョンの矛盾からは絶対に逃げられない」という認めたくない運命を、数学的に証明してしまった。
脳を使って脳を考えることは、その行為自体が矛盾を孕む。
リカ―ジョンというスパイラルの悪魔に、どうしようもなくハマってしまう。
脳を駆使して脳を解明するのは、まさに自己言及であって、ラッセルのパラドックスが避けられない。
僕ら脳科学者のやってることは、そんな必然的に矛盾をはらんだ行為だ。
だから、脳科学は絶対に答えに行き着けないことを運命づけられた学問なのかもしれない。
一歩外に出て眺めると、滑稽な茶番劇を演じているような、そういう部分が少なからずあるのではないかなと僕は思うんだ。
ということは、こんな逆説的な言い方もできるよね。
「脳」を扱う科学は、そのリカ―ジョンの性質上、もしかしたら、”ゴールがない”ものかもしれない。
だって脳を脳で考える学問だから、その論理構造上、そもそも「解けない謎」に挑んでいる可能性があるってわけ。』
(単純な脳、複雑な「わたし」 池谷裕二)
謎だとして疑問に感じている「わたし」が、その謎を解く、というのも、一種のリカ―ジョン(入り子構造)と言えます。
自問自答が繰り返される、というリカ―ジョンのスパイラルに入り込んでしまわないためには、どうしたら良いでしょうか?
脳科学は、ミクロ的な視点で「わたし」、或いは、「人間」を考えるひとつの方法としては、多少なりとも役に立つでしょう。
次回からは、マクロ的な視点に戻り、リカ―ジョンのスパイラルに陥らないように、第7チャクラについて見ていきたいと思います。
無数の河川が流れ入っても
海は泰然として不動である
様々な欲望が次々に起こっても
追わず取りあわずにいる人は平安である
(バガヴァッド・ギーター第2章70)
チャクラについて(23)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 無意識の構造
前回は、脳における「リカ―ジョン」(再帰)という「自分で自分について考える」という一見矛盾した脳の構造について、ご紹介しました。
”自分の心や存在を不思議に思ってしまう、あるいは「自分探し」をしたくなってしまう僕らの妙な癖は、リカ―ジョンの反映だ。
リカ―ジョンができるから、心で心を考え、そのまた考えている心をさらに心で考え、というような入れ子構造が生まれる”とありましたが、
まさにこの構造は、スピリチュアルな探求においては、当たり前にように生じており、誰でも、このリカ―ジョンのスパイラル・ループに陥ってしまいがちです。
「人間とは何だろう?」「自分とは何だろう?」「わたしは誰か?」
などは、この典型的なものと言えるでしょう。
リカ―ジョンの中で、その答えを求めているのが、私たち人間なのでしょう。
古今東西多くの人々が、この問いに対する答えを求めて、探求をしてきました。
自問自答の世界を抜け出るには、明らかなのは、脳で考えないことです。
思考を使っていくら考えても、リカ―ジョンの無限のループに陥るだけと理解できれば、別の方法を探すしかありません。
今回は、まとめとして、これまで連続でご紹介してきました脳科学の最前線から見た「意識」と「無意識」について、ご紹介したいと思います。
『だれしも好き嫌いがあるよね。
好きな食べものとか好きな人のタイプとか、そういう自分の好き嫌いも、結構、無意識のうちにつくられたものなんだろうね。
かつて僕が研究で使っていた実験動物で「スンクス」という動物がいる。
スンクスはネズミみたいに見えるけれど、ネズミではない。
モグラの仲間で、ネズミとは違った能力を持っている。
たとえば、吐く。
嘔吐する能力がある。
ネズミやウサギは吐かないよね。
あるときこんな実験をやった。
スンクスに砂糖水だけをあげる。
ネズミも同じだけど、スンクスも甘いモノが好き。
だから、水と砂糖水を並べて置いておくと、砂糖水を好んで飲む。
そこで、意地悪をしてみたの。
飲んだ後に吐かせるんだ。
どうやって吐かせるかというと、ゆする。
ゆするって、たかるって意味じゃないんだよ。
→ ・・・・・(笑)
物理的に揺り動かすってことね。
すると乗り物酔いになって、一分くらいでゲロを吐くの。
砂糖水を飲んだら、その直後に揺らして吐かせるんだ。
すると、次回からスンクスは砂糖水を飲まなくなる。
僕らヒトも、カキにあたって吐いたことがあれば、カキを嫌いになったりするでしょう。
ヒトの場合は「カキを食したからあたった」という因果関係が意識に上がっているけれど、スンクスはどうなんだろう。
少なくともこの実験では、砂糖水を飲んだから吐いたわけではないよね。
でも、砂糖水と嘔吐が時間的に接近して起こると、次回から、砂糖水を避けてしまう。
そこには因果関係は要らない。
ヒトの心の形成もそんなものではないかな。
好き嫌いも、実は、無根拠なもの、あるいは誤解に基づいたものも結構あるだろうと思う。
ヒトで試した実験例もある。
赤ちゃんのそばに白ウサギのぬいぐるみを置く。
脳にはバイオフィリア(生き物が好き)という性質があって、赤ちゃんは白ウサギのぬいぐるみに好奇心を示して寄って行く。
そこで、白ウサギのぬいぐるみに触ったら、その瞬間に、背後でドラをドーンと鳴らす。
赤ちゃんは大きな音は嫌いなので、泣き出してしまう。
また白ウサギのぬいぐるみに触ろうとしたらドーン。
そんなことを何度も続ける。
やがて赤ちゃんはそのぬいぐるみが嫌いになって、もはや近寄ろうとしなくなる。
この実験で興味深いのは「汎化」だ。
汎化とは対照を拡張して一般化すること。
たとえば、この赤ちゃんの場合、ウサギのぬいぐるみだけが嫌いになるのではなくて、それに類似したものまで嫌いになってしまう。
実物の白ウサギも嫌いになってしまう。
それだけでなく、白いもの全般が嫌いになったりする。
白いネズミも嫌うし、白衣を着た看護婦さんも嫌いになるし、白髭のサンタクロースも嫌いになる。
そんなふうに汎化によって好き嫌いの「世界観」が形成される。
もしかしたら、この赤ちゃんは成長した後も、この実験のせいで白いものが嫌いなままかもしれない。
成長したあと、本人には好悪の理由はわからない。
もの心がつく前に条件づけされているからね。
そんな具合に、僕らの感情や嗜好は、知らず知らずのうちに、まったくあずかり知らぬ原因によって、すでに形成されちゃっている可能性がある。
逆に言えば、この無意識のプロセスをうまく解明できれば、君が今言ってくれたように、精神疾患やトラウマの治療に応用できるだろう。
じゃあ、次は。
→ 自分が行動したいと思うよりも先に、前頭葉で意志を準備しているということは、自分が考えているつもりでも、脳の内部の方から、作為的に「こうしろ」と言われている感じで、自分の思考がコントロールされているんじゃないか・・・。
自分の思考ってどこまで本当に自分が考えていることなのか、自分で行動していると思っていても、マイオネットにすぎないんじゃないか。。。。
うーん、そうだね。
僕の講義では「操られている」という点を強調した。
いや、もしかしたら強調しすぎてしまったかもしれない。
でも、よく考えてみるとわかるけれど、その操っている本体は、結局は、自分の脳にほかならない。
だから、別に操られているわけではなくて、やっぱり自分が行動しているんだね。
単に無意識にスタートしているだけだ、というふうに考えてみたらどうだろう。
少しは気持ちが楽になるかな?
→ 準備されているものに対して、自分の体は応じるだけだとすると、自分の完璧な意志と言えるのはどこまでで、自我はどこまで意識できるのか。
そうやって考えていくと、やっぱりこんがらがってきますね。
少なくとも言えるのは、僕らは自分が思っているほど自由ではないということだ。
自由だと勘違いしているだけ、という部分はかなりある。
でも、「自由」は感じるものであって、本当の意味で「自由」である必要はない。
だから、僕らは「自由意志」をすでに感じて生きているんだから、もうそれでいいではないか、それ以上僕らは何を欲するんだ、という言い方もできるね。
ただ、心に自然とわき起こる感情など、自由にならない部分もいっぱいあることは知っておいて損はないよね。
たとえば、ひどい嫌がらせをされたら、だれだってムッとくるでしょ。
自動的にね。
「僕には自由意志(あるいは自由否定)があるから、怒らない権利を行使しよう」なんてのは無理だよね。
ムッとしてしまう。
しかも、タチが悪いことに一度、怒ってしまうと、なかなか怒りはおさまらない。
「よし、3秒後には怒りを消そう」と念じても、すぐにはおさまらない。
そういうふうに感情は自由ではない。
よく「あのガキ、気にくわないから叱ってやったよ」なんてエラそうにいうオヤジがいるけれど、でも、それは勘違いだ。
自動的に怒りがわいてきて、その感情に従って𠮟っただけ。
でも、本人は教育してやったつもりになっている。
ただそれだけだよね(笑)。
こうした不自由は、もちろん悲しむべきことじゃない。
すべてを意識で制御していたら大変なことになる。
すぐに頭はいっぱいいっぱいになってしまう。
だって、箸をつかむだけでも何十という筋肉が精密に動いているわけでしょ。
一個一個の筋肉の動きまで、すべてを意識して計算していたら、たまったものじゃない。
無意識に任せた方が、はるかにラクではないかと思うわけ。
→ こじつけで自分の思考を歪めているんだったら、自分の考えというのも、自分がほんとに考えていることそのものじゃなくて、周りの状況に迫られて無理やりつくった結果として出てきたものなのか。。。
そうそう。
いいこと言うねえ。
結局は「主体性」とは一体何だろうということになってくる。
芸術における目新しさ、奇抜性、新奇性なんかもそう。
まったくの無から新しい作品をつくりあげるかというと、そんなことはない。
絵画だって、映画だって、音楽だって、詩だってそう。
本人が気づいているいないにかかわらず、やはり「借りもの」が多いでしょう。
アイデアのコラージュ。
そういうことと関係ないかな。
→ 操られているマリオネットが、操っている無意識に作用することもできるわけですよね。
考え方を変えうるということは。
だから、必ずしも完全に操られているとは言い切れないんじゃないか。。。
→ 自分で自分を操っているということで、自分を操っているのも自分、操れているのも自分ってことなんじゃないの。。。
あはは、そうそう、そうやって、なんだか話がこんがらがってしまうね。
そういう心の作用が、無意識の世界で生じるている以上、そこで何が起こっているかは、正直、僕たち脳科学者にもつかみきれない部分が多い。
その辺の研究はこれから著しく進歩するはずだから、10年後に改めて講義をやったら、そのときには「こんなところまでわかったんだぞ!すごいね」と説明できるかもしれないね。
ただ、君らの後輩、未来の高校生にね(笑)。』
(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二)
スピリチュアル的な観点からも説かれてきたテーマについてご紹介してきましたが、
脳科学が明らかにした人間の「心」の構造を垣間見ただけでも、
最近、スピリチュアルな世界で何人かの人が語って、認知度が高まっている「ある世界観」と類似していることに驚きます。
それは、最近では、「ノン・デュアルティ(非二元)」と言われていますが、
古くは、インドのウパニシャッドで説かれた「アドヴァイタ(不二一元)」です。
(ただひとつがあるのみ。)
仏教でも、釈迦の教えのひとつに、「諸法無我」というものがありますが、
これは「すべてのものごとは我ならざるものである」という意味だそうで、
「主体」としての「わたし」、自由意志をもった「わたし」の不在を説いています。
このようなスピリチュアルな世界観と、最新の脳科学が明らかにしつつある私たち人間の脳の仕組みから考えられる数々の仮説とが、不思議と一致しているのも、興味深いことだと言えるでしょう。
アドヴァイタ(不二一元)を完全に理解することは、人間(の頭)にとっては、不可能と言えます。
それは、理解しようとしても、理解しようとする頭に、リカ―ジョンが起こるだけで、「ただひとつがあるのみ」というアドヴァイタは、頭(思考)で理解しようとしても、できないからです。
このリカ―ジョンの入り子構造を打破するには、頭を使って理解するのではなく、他の方法が必要であることは、言うまでもないでしょう。
この方法については、後日、ご紹介する予定です。
あらゆる生物が夜としているときは
物欲を捨てた賢者にとって昼である
あらゆる生物が昼としているときは
見真者にとっては夜である
(バガヴァッド・ギーター第2章69)
チャクラについて(22)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 脳のリカ―ジョン(再帰)
前回の記事で、脳科学の側面から見ると、
「心」とは、フィードバック処理のプロセス上、創発の産物として、自動的に生まれてしまうもの、
という脳科学者、池谷裕二さんの「単純な脳、複雑な「私」」からの驚くような一説をご紹介いたしましたが、
今回は、その私たちの「心」のほとんど知られていない構造について、最新の脳科学研究の成果から導き出された興味深い説をご紹介したいと思います。
『さて、講義の残されたわずかの時間を使い、なぜ僕らが「心」を不思議に感じてしまうのか、その原理について、もう一歩、踏み入ってみよう。
フィードバック回路の特殊なタイプである「リカ―ジョン」の効果を考慮すると、その核心が見えてくる。
そもそも、僕らが「脳はどんなしくみなんだろう」と考えるとき、そう、これが連続講義のテーマだよね。
でも、この問題について考えるとき、その奇妙な姿勢に気づかない?
ここには自己言及の構造があるでしょ。
「脳」を考えるとき、当たり前だけど、自分の「脳」を使って「脳」を考えているよね。
このロジックの利点、あるいは落とし穴には、気をつけないといけない。
→ 自分で自分を。。。。
そう。
こういう構造を「入れ子構造」と言うね。
あるモノの中に同じモノが入っているという構造。
英語では「リカ―ジョン(recursion)」と言う。
日本語だと「再帰」と訳すのかな。
脳においては、このリカ―ジョンがポイントで、脳は考えているし、その脳をまた脳が考える。
つまり「リカ―ジョン=再帰」する。
ロシア人形のマトリョーシカを知ってるかな?
→ 人形の中に人形が入っているヤツ。
そう。
木製の人形を開けたら、中に自分とそっくりな小型の人形が入っている、その人形を開けるとさらに小型のよく似た人形が出てくる。。。それが何個も出てくる。
あれと似ているね。
通常のフィードバックでは、情報が一旦は外に出て、それが再び自分に戻って来るんだけど、リカ―ジョンは、出力先がダイレクトに自分自身だよね。
直接型フィードバックだ。
さて、リカ―ジョンがあると何ができるか。
脳がリカ―ジョンできるという能力は、いろいろな側面で役立っている。
たとえば僕らは数を数えることができるよね。
<数える>という行為はリカ―ジョンだね。わかるかな?
僕らは1+1=2と覚える。
動物でも高等哺乳類ならば1、2、3、4という数字の並びを認識できる。
でも、彼らは「1は1」「2は2」「3は3」というふうに、数を独立して覚えているようなんだ。
本質的な連続性がない。
「3は2の次の数字で、2は1の次の数字」という、繰りこみ的な相関の中で、「数字」を捉えることができるのはヒトだけみたい。
つまり、リカ―ジョンとして数字を捉えるのはヒトだけだということ。
2は1の次の数字であって、
1+1=2
だよね。3は2の次だから、
2+1=3
だけど、そもそも2自体が、1の次だから、これを書き直すと、
(1+1)+1=3
となる。
これは「1の次の次の数字」という意味だね。
つまり、自分に自分を足して、さらに自分を足している。
リカ―ジョン、入れ子構造になっているでしょう。
同じように、
|(1+1)+1|+1
これが4という数字だ。
こういうふうに数字をひとつの数字だけで展開できる。
すべての自然数は入れ子構造を多層にすることによって表現できる。
つまり、僕らはリカ―ジョンを通して、自然数に関して、1、2、3、4・・・とその順位制と階層性を認識している。
リカ―ジョンが可能なのはたぶんヒトだけ。
チンパンジーも教え込むと一階層くらいのリカ―ジョンはできるようになるみたいだけれど、繰り返しをずっと続けることはできない。
僕らヒトのリカージョン能力のすばらしさは、何層にもわたって入れ込むことができる点にある。
そう、無限に入れ込むことができる。
僕らはリカ―ジョンを無限に続けられるから、桁数の多い数字でさえも理解できる。
サルに24783という数字が理解できるだろうか。。。
僕らのようには無理だろうね。
ここで、リカ―ジョンが僕らの想像力に、新たな相転移ーー気づきのブレイクスルーーーをもたらすことに気づいてほしい。
つまり、僕らはリカ―ジョンによって、はじめて「無限∞」という概念を獲得できる。
リカ―ジョンのできない動物は、「無限」なんて概念は理解できないだろう。
無限は実在しないからね。
ちなみに、ヒトでも幼少時は、まだリカ―ジョンがうまくできない。
成長の過程であるとき、自然に数字を操作できるようになる。
リカ―ジョンが自由に行えるようになる。
すると、その瞬間に「無限」の意味も理解可能になる。
君らも成長の過程で、「あれ?」って、無限の不思議に気づいた瞬間があると思う
→ 数字を数え続けていくとキリがないって思ったり。
そうそう。
あるいは、目の前の世界をどこまでも歩いていったらどこに行き着くのだろうとか、宇宙の果てはどうなっているのだろうとかね。
こういう「無限の不思議」にふと気づいて、急に怖くなった経験はだれにもあるはずだ。
その感覚を持った瞬間こそ、リカ―ジョンの能力を手に入れた記念すべき瞬間だ(笑)。
さて、リカ―ジョンによって「無限」の存在に気づくようになると、もうひとつ重要な概念を知ることになるね。
わかるかな。
→ 有限。
すばらしい。その通りだね。
僕らヒトは、おそらく地球上で「有限」を理解している唯一の動物だと思う。
たとえば地球上のエネルギー資源は限られている。
土地や食糧は無尽蔵ではない、とかね。
だから、ヒトは有限のものを奪い合って、醜い争いや無惨な戦争も起こしてしまう。
有限を理解したことによって、ヒトの欲望は過剰になった。
あるいは、「命」の有限性にも気づくよね。
「自分はいつか必ず死ぬ運命にある」と理解できているのはヒトだけ。
僕の飼っているイヌを見ていても、基本手にノウテンキで、自分はあと10年くらいで死ぬだろうな、なんて意識しているようにはとても見えない。
だから自殺なんて企んだりしない。
絶望もない。
わかるよね?
「有限」を知っているというメタ認識こそが、ヒトをヒトたらしめているというわけだ。
人間の心のおもしろさは、まさにそこにあると僕は思っている。
自分の心や存在を不思議に思ってしまう、あるいは「自分探し」をしたくなってしまう僕らの妙な癖は、リカ―ジョンの反映だ。
リカ―ジョンができるから、心で心を考え、そのまた考えている心をさらに心で考え、というような入れ子構造が生まれる。
リカ―ジョンができるから、「我思う。でも、その我って何だろう」と。
もう一段階深い<私>の内部へと入り込んでいくことができる。
もちろん、さらに深層の<私>も考えられる。
そんな複雑な多層構造の<自己>を人間は持っている。
でも、それは複雑に見えるだけのことであって、構造的には単なるリカ―ジョンの繰り返しだ。
ここで今日最後の問いが生まれる。
リカ―ジョンは、なぜヒトでのみ、可能になったのだろう?
答えは、おそらく言語だよね。
だって文法はリカ―ジョンの典型でしょ。
「タロウ君はキャッチボールをしている」というのは単純な主述の文章だけれど、「私は、タロウ君がキャッチボールをしているのを、見ていた」という入れ子構文になると、「主(主述)述」と主述がリカ―ジョンする。
さらに、「アトム君は、私が、タロウ君がキャッチボールしているのを、見ていたのを、怠けていると責めた」と多層的な構文さえもつくることができる。
言語は原理の上ではいくらでもリカ―ジョンをつくることができる。
ヒトは言語を獲得したから、視点を自在に移すことが可能となって。
一歩先の視点を得たら、今度はそれを基準に、さらに次へと視点を移すことができる。
自己投影の射程距離がぐっと伸びて、自分って何だろう、脳って不思議、命って有限だよなーーと考えることができるようになっていったのだと思う。
さらに言えば、この自己投影によって、僕らは自分に心があることを、自分自身で気付けるようになった。
しかも、その「心」を必要以上に神秘的に捉えるようになってしまった。
なぜ、神秘的かというと、「無限」という概念は、理屈としては頭で理解できるけど、実感としては理解できないからだ。
それは、ワーキングメモリの容量が限られていることが原因だ。
ワーキングメモリとは短期的な記憶のこと。
短期記憶ということは「今現在まさに意識に上がっている情報」でもあるから、僕らのの意識に密接に関係している。
ワーキングメモリには決定的な性質がある。
それは、同時に処理できる情報量が限られているということ。
僕らの意識にはキャパシティがあって、その限界容量は、測定方法にもよるのだけど、だいたい7つ前後だと言われている。
つまり、僕らが並行処理できることは7個まで。
厳密なことを言えば、容量は7に絶対的に固定されてはいないけれど。
でも、やってみるとわかるよ。
たとえば、7桁を超える数値を暗唱するのは、わずか30秒であっても、とってもむずかしい。
そして、ワーキングメモリの容量が一杯になると、僕らは精神的にアップアップになる。
小説やドラマでも、主要な登場人物が7人を超えると、ものすごく複雑なストーリーに感じられる。
というより、頭が混乱して物語のスジがわからなくなってしまう。
あるいは日常生活でも、「忙しくてテンパっているなあ」というときには、「やるべきことリスト」を書き出してみるといい。
だいたいは7項目をちょっと超えているくらいだから。
7個以下ならば落ち着いて対処できるけど、それを超えると急に「猛烈に忙しい」と感じて、どう対応していいのか戸惑って、焦りを感じる。
このようにワーキングメモリには処理容量の限界があって、飽和すると理解不能の不安状態に陥る。
これがヒトの意識の特徴だ。
さてと、僕の言いたいことが、そろそろ見えてきたね?
→ リカ―ジョンは無限に可能だから・・・・
そうそう、そこだね。
つまり自分の心を自分の心で考えるリカ―ジョンは、原理的には、無限に入れ込むことができるけど、でも、それを行う場であるワーキングメモリは、残念ながら、有限だ。
だから、リカ―ジョンはすぐに飽和しちゃう。
自分の心を考える自分がいる。
でも、そんな自分を考える自分がさらにいて、それを考える自分がいて・・・・とね。
そんなふうに再帰を続ければ、あっという間にワーキングメモリは溢れてしまう。
そうなれば、精神的にはアップアップだ。
だからこそ「心はよくわからない不思議なもの」という印象がついて回ってしまう。
でも、その本質はリカ―ジョンの単純な繰り返しにすぎない。
脳の作動そのものは単純なのに、そこから生まれた「私」は一見すると複雑な心を持っているように見えてしまう。
ただそれだけのことではないだろうか。
だから、自分の心を不思議に感じるという、その印象は、いわば自己陶酔に似た部分があって、それ自体は科学的にはさほど重要なことではない。
単にリカ―ジョンの罠にはまっただけだ。
つまり僕たちはこの3日間の連続講義で、リカ―ジョンの悪魔に足をすくわれないように気をつけながら、「心」を考える心構えというか、その最低限の作法を守りながら、リカ―ジョンを使って脳のしくみを解剖してきたわけだね。』
(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二)
私たちが、自分自身の「心」について考えるときには、このようなリカ―ジョン(再帰=入り子構造)という仕組みを使って考えている訳ですが、
それは、脳の働きの容量によって有限であるため、いくら考えても終わりはない、という結論に達して、それで終わってしまいます。
つまり、結局は、考えても、何もわからない、ということになってしまうのです。
それは、私たち人間は、人間の脳の能力以上には考えることができない、
つまり、自我が自我を考えることは有限であるため、自我は自我を超えることができない、と言い換えることができるかと思います。
このように、思考には、限界があります。
次回は、これまでご紹介してきた脳科学の最前線の新事実のまとめをご紹介し、また、古今東西で実践されてきた第6チャクラ(脳)の活性法などもご紹介する予定です。
ゆえに剛勇の士アルジュナよ
諸々の感覚をそれぞれの対象から
断固として抑制できる人の
覚智(さとり)はまことに安定している
(バガヴァッド・ギーター第2章68)
チャクラについて(21)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 心は脳の創発
これまで、脳科学者、池谷裕二さんの「単純な脳、複雑な「私」」から最新の脳科学の研究実験から導き出された興味深い結果についてご紹介していますが、
前回の記事でご紹介した内容は、脳の出力は、脳のゆらぎで決まる、というものでした。
今回は、その「脳のゆらぎ」はコントロールできるのか?という疑問について、その可能性についてご紹介します。
そして、更に、私たちの「心」について、脳科学から見た「心」の正体について、常識では考えられないような結論が導き出されます。
『さて、ここで、昨日、ゆらぎの話をしていたときに君が質問してくれて、そのときは答えを後回しにした話題、「脳のゆらぎをコントロールできるか」ということを取り上げてみよう。
実はこの問題は「構造を書き換える」ということと関りがある。
昨日の講義で、ゴルフのパットは脳のゆらぎにコントロールされているという話をした。
そのとき、「ゆらぎそのものを意志によってコントロールできるか」と言う疑問が出たよね。
覚えている?
仮にパーフェクトではないにしても、少しでも意識的に制御できさえすれば・・・・と。
ゴルフのパットでは、ゆらぎの具合が悪いと外してしまうのだったね。
悪い状態とは、前頭葉のアルファ波が多いときだけど、裏を返すと、アルファ波が少ないときにボールを打てばいいわけだ。
だから、真っ先に思いつくアイデアは、「脳波計を頭につけてプレイすればいい」という対応策だ。
グリーンの上で脳波計を見ながら「あっ、今アルファ波が少なくなった。チャンスだ!」と。
その瞬間に打ち始めればいいわけ。
でも、もっといい方法がある。
アルファ波を自在に操れればいいでしょ。
そうすれば、試合中に意識的に念じて、パットの一番入りやすい脳の状態に持っていって、そしてボールを打つことができる。
その極意を体得すればいいんだね。
結論から言うと、まさに期待通りで、実は、ゆらぎはある程度はコントロールできる。
ただし、訓練を積めば、という条件つきだ。
さて、どうやってアルファ波を減らしたらいいと思う?
→ 念じる。
おっと、じゃあ、君、今この場でアルファ波を減らしてみて。
→ できない(笑)。
ははは。そうだね。
でも、実は、僕はできる。
どうやってやると思う。
→ 想像もできません。。。。
そうでしょ。
では、なぜ、僕はできて、君らにはできないのだろうか。
その鍵を握るのが「フィードバック」だ。
フィードバックとは「情報を戻す」という意味だったね。
そもそも、なぜ君らはアルファ波を自由に減らせないのか。
その理由は一点に集約される。
それは「今、自分のアルファ波の強さを知らないから」だ。
知らないものをコントロールすることはできないでしょ。
ところが、知ってしまうとまったく話が変わってくる。
脳波計を使って、現在の自分のアルファ波の強さを記録する。
そしてモニターを見れば、今のアルファ波の強さがリアルアイムでわかる。
その状態で訓練を積むと、次第にアルファ波の量を自在にコントロールできるようになる。
自分の状態を測定して、測定した値を客観的に認知する。
つまり、脳の情報が再び脳に戻るループだ。
これってフィードバックだよね。
こういうループをつくることによって、脳波は制御可能になるんだ。
やってみるとわかるんだけど、はじめて脳波計を見た人でも、10分もあればアルファ波をある程度コントロールできるようになる。
僕は何度もやったことがあるから、アルファ波を出そうと思えば出せるし、抑えることだってできる。
まだ完璧ではないけれど、今では脳波計を見なくてもできるくらいだ。
やったことがない人にとってはまったくイメージがわかないでしょ。
でも一度やってみれば、「ああ、こういう具合か」と理解できる。
こういう測定装置が安く市販されたら、きっと楽しいよね。
ということで、意志は脳のゆらぎから生まれるけれど、と同時に、脳のゆらぎを調節することに、どうやら「意志」自体が積極的に関与できるのではないかと・・・これが一応、現段階の僕の感触だ。
普段は、脳の中の若干のランダムさと、環境から入ってきた情報の双方によって、ゆらぎが決定されてしまっていて、無意識のうちに惹起された行動を取る。
だから、行動がほぼ一義的に決まったり、あるいは、行動パターンの選択肢が限られたりして、僕たちは真の意味で自由意志がないように見える。
でも、トレーニングすれば、ゆらぎそのものを直接、意識的に変えることができるかもしれない。
それがフィードバックのおもしろさだ。
おもしろいだけではない。
フィードバックは日常生活に役立つのではと期待されている。
なぜなら、これは自分の状態をコントロールする技術だから。
興奮しやすいタイプの人が、落ち着け落ち着け・・・と、脳波計を使ってコントロールできたとしたら、すごく役に立ちそうだよね。
でも、より注目を集めている活用法は、脳ではなくて、身体の制御だ。
たとえば血圧。
たとえば、君、今、血圧を10ミリ水銀(mmHg)だけ下げてみて。
→ そんなこと言われても。。。。(笑)
あはは。できるはずないよね。
でも、もうわかるよね。
下げられない理由はなに?
→ 自分の血圧がわからないから。
その通り。
ということは、血圧計を使って「現在の血圧は115mmHg」などと表示させると、血圧を下げられるようになるはずだよね。
これは、実際、可能なんだ。
となれば、臨床応用できるでしょ。
高血圧治療として、普通は薬で血圧を下げる。
降圧薬を使う。
薬は有効だとはいえ、やっぱり副作用があったり、あるいは毎日忘れずに飲まなきゃいけなかったりで、大変なこともある。
でも、フィードバックを使うことによって、意図的に血圧を下げることができたら、すばらしいね。
副作用もないし、治療費もかからない。
まあ、寝ているあいだは制御できないという欠点もあるのだけれどね。。。
フィードバックが欠けたシステムは自己制御できない。
その代表的な例は「自律神経系」だ。
→ 心臓を動かしたり。。。
そうだね、心拍数を調節したり、あるいは胃酸を出したり、汗をかいたり、そういう内臓や皮膚を支配する神経系のことを自律神経と言うね。
血圧もそのひとつだ。
「自律」という言葉は「意志とは無関係に独立して作動している」という意味。
つまり、「意識的にはコントロールできない」という意味だよね。
でも、本当はそうではなくて、自律神経系には意識に上がるフィードバック機構が備わっていない、だからコントロールできないだけのことだ。
実際には、計測器をつかった人工フィードバック装置さえあれば、血圧は制御可能だ。
この意味では、もはや自律神経系は「自律」ではない。
きっと血圧だけでなく、胃酸の分泌も、発汗の量も、気管支の太さも、トレーニング次第でコントロールできるようになるだろうね。
ということで、フィードバック回路が、僕らの意識制御にとって、いかに重要かがわかってもらえると思う。
ここで改めて思い返してほしいのだけど、一昨日の講義の話も、これと同じ構図をしているよね。
「自分が行動している」様子を脳がモニターして、「自分がやっていること」の目的や意味が理解できる。
これも一種のフィードバックでしょう。
自分の心臓がドキドキしている、あるいは自分がギタリストのマネをしているのを見て、あっ、なるほどこういうことか、と自分をわかる。
これはフィードバックだ。
もちろん、幽体離脱も一種のフィードバックだ。
外から自分を眺めて自分を知る。
つまり、僕らの「心」はフィードバックを基礎にしている。
これが意味していることはわかるかな。
今日は、脳の中身を顕微鏡レベルで眺めると、ニューロンの回路はフィードバックになっているという話をした。
そのフィードバックの回路から発火活動の「創発」が生じる。
(創発とは、数少ない単純なルールに従って、同じプロセスを何度も繰り返すことで、本来は想定していなかったような新しい性質を獲得すること。
http://bluebacks.kodansha.co.jp/special/brain_move10.html
<ラングトンのアリ>素子と環境の相互作用の動画)
と同時に、僕ら自体もまた、身体や環境や幽体離脱を介して、フィードバックの回路になっている。
だから、やはり創発を生む。
その創発の産物のひとつが「心」だ。
だからこそ、「心」は予想外な産物だったし、それゆえに、崇高でさえある。
でも、創発は、実のところ、驚くほど少数の簡素なルールの連鎖で勝手に生まれてしまうもの。
それを、僕らが一方的に「信じがたい奇跡」に触れたかのように、摩訶不思議に感じているだけ。
つまり、脳は「ニンゲン様に心をつくってさしあげよう」などと健気に頑張っているわけではない。
心は、脳の思惑とは関係なく、フィードバック処理のプロセス上、自動的に生まれてしまうものなんだ。
そして、その産物を、僕らの脳は勝手に「すごい」と感じているわけ。
僕らが一方的に脳の創発性に驚いているだけのこと。』
(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二)
今日ご紹介した脳科学で解明されてきた新事実を踏まえると、
私たち人間が、行動したり、欲したり、感じたり、感情を持ったり、考えたり・・するのは、「心」があるからだと思っているわけですが、
実は、この「心」は自動的に生まれてしまった脳の創発の産物であるというのですから、本当に驚き以外の何ものでもありません。
私たちは、自分の「心」=「わたし」だと思っていますから、人間にとっては、「心」はとても大切なものなのですが、
しかし、今日ご紹介した内容は、実際には、脳、いえ、身体の中の何処にも、そのような主体的な存在はいない、ということを示唆しています。
私たち人間は、脳を介して「自分(人間)」を客観的に体験(認識)しているので、
その認識のフィードバックのプロセスの過程で、「心」=「わたし」が生まれてしまう、ということを著者は語っています。
次回は、「心」について更に理解を深めるために、この「心」のカラクリについて詳しく解説されている部分をご紹介したいと思います。
水の上を行く舟が
強い風に吹き流されるように
諸感覚のただ一つにさえ心ゆるしたなら
人の知性(ブッディ)は忽ち奪われてしまうのだ
(バガヴァッド・ギーター第2章67)
チャクラについて(20)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 自由否定の生まれる場所
前回の記事では、最新の脳科学の実験結果から、私たち人間の行動は「自由意志」ではなく、自動で起こる反応を「自由否定」しなかった結果である、との説が展開されました。
自分の行動は、自分で意図した結果である、と思い込んでいる私たちには、この事実は衝撃的なものですが、
改めて、「自分」という存在を見直すきっかけとなるかもしれません。
その他にも、これまでにご紹介してきました幾つかの衝撃的な、これまでの常識を覆すような新事実は、「自己」に対する固い思い込みを覆す可能性を秘めたものであるように感じます。
神秘の扉の向こうには、「常識」を携えて行くことはできません。
「人間」として生まれた時から、生まれ持ってしまっている頑なな思い込みは、私たちが神秘の扉の向こう側に行くのを阻みます。
恩寵は、神秘そのものです。
恩寵を理解できなければ、恩寵がやって来ることはないでしょう。
まずは、「自分」という存在に対する正しい智識を得て、知性(ブッディ)が、間違った思い込みを塗り替える必要があります。
脳科学最前線の新事実に触れることで、「自分」に対する考え方が変化し、神秘の扉へと続く道を一歩一歩歩んでいくことができるやもしれません。
神秘と私たちを隔てているのは、「わたし」という存在に対する間違った思い込みだけなのですから。
『さて、もう一歩先に進もう。
では、自由否定はどこから生まれるのだろう?
先ほど、君はこれを疑問に思っていたようだね。
だって、僕が自由否定の説明をしているときに、首を傾げていたよね。。。
そうなんだ、自由否定そのものは一体どこから生まれるんだろう。
脳の画像を撮影したところで、それはあくまで、自由否定をしている最中の脳活動の様子を観察しているだけだよね。
では、その活動自体はそもそも、どこから生まれてきたんだろう。
その起源はどこだ?
→ 自由否定を生み出す自由意志。。。。(笑)
そうそう。
結局、そういうふうになっていくんだよね。
意志はゆらぎから生まれるとしても、案外と自由否定さえも、もしかしたら、ゆらぎじゃないか、という話になってくる。
そうやって結局は、終着駅のない疑問で、延々と堂々巡りすることになる。
はて、僕らの「自由」は一体どこに行ってしまったんだろう。
→ 結局は決定論になってしまうんですか。
これを解決するひとつの方法は、ゆらぎが環境や身体によって規定されるという考え方だ。
たとえば、昨日の例だと、サブリミナル映像で「がんばれ!」と表示すると、それだけで握力が高まるというのがあったよね。
なぜか力が入ってしまう。
その一方で、先ほど論文を紹介したように、そもそもレバーを握る力は「ゆらぎ」で決まるのだったよね。
強く力が入るときと、弱いときがあって、脳のゆらぎ状態を観察していれば、握力は事前に予測できるんだと。
ところが、「がんばれ」と出ると強く握る。
これは重要なことを意味している。
つまり、「がんばれ!」という文字を見ることによって、脳のゆらぎが「強く握る」モードに固定されるってわけだ
だから、「がんばれ!」と表示されれば、いつも強く握ることになる。
つまり、環境や外部からの刺激が、脳のゆらぎのパターンをロックしてくれて、だからこそ、僕らの行動は完全なランダムではなくて、場面や状況が似ていれば、毎回だいたい同じ行動を取ることができる。
つまり、僕らの意志は環境によって決定されている。
これは広い意味で「反射」だ。
環境や刺激に単純に反応しているだけ。
本人は自分で決めたつもりになっているけど、実は環境がゆらぎを決めてしまって、それに従ってしているだけ。
「〇くら」と見たら「さくら」と答えてしまうのも、そのときは自分の「意志」で思い出したつもりになっているかもしれないけど、実は、外部の状況から、単にそう答えさせられているだけ。
→ でも、それってつまりは、自分で選べてないってことじゃ。。。。
まったくそうなんだけど、だからといって、悲観すべきではない。
だって、すべての選択を自分で決めるとしたら、これは大変なことだ。
僕らはあまりにも「やれる」ことが多すぎる。
そのすべてを細部のレベルまで真剣に検討していたら、時間がいくらあっても足りない。
だから、そのときの状況に応じて自動的に決まってしまっていいんだ。
その方が楽だし、効率がよい。
現状に差し障りがなければなんの問題もないでしょ。
しかも、本人は「自分で決めた」とエラそうに勘違いしている。
本人が満足ならば、まあ、それでいいのではないのかな(笑)。
ただ、僕らには学習という能力がある。
たしかに、反射によってゆらぎの大枠が決定されるかもしれないけど、学習や記憶によって、同じ刺激でも、ゆらぎのパターンは変わりうる。
そういう自由度があることもまた確かだ。
先ほどの君の質問はこのことを訊きたかったんだよね。
さて、講義の残った時間で、脳を直接刺激することでわかってきた奇妙な現象の話をしよう。
このために、先ほどの話を思い出してほしい。
手首を動かすとき、まず脳で「準備」が始まって、それから「意志」が生まれて。。。。その後のプロセスは覚えてる?
→ 「行動」が起きて、それを「知覚」する。
→ いや、「行動した」と感じてから、「行動する」でした。
そう。動いたと「知覚」してから、「運動する」だったね。
ここなんだ。
この時間の逆転を取り上げない研究者、というか、気にしない研究者は意外と多い。
なぜ僕らは「動く」よりも前に「動いた」気がしてしまっているのか。
不思議な現象だ。
①「脳の準備」→ ②「意志」 →③「動いた=知覚」 →④「脳の指令=運動」
まず、こうした事実から言えることは、「知覚」と「運動」は、独立した脳機能であるってことだ。
それは簡単な実験で確かめることができる。
運動準備野という脳の場所があったね。
手を動かすときに、この脳部位をTMS(狙った脳回路を短時間だけ不活性化させる時期刺激装置)でマヒさせると、一瞬、準備ができないから、手が動くのがちょっと遅れる。
0.2秒ぐらい遅くなる。
このとき僕らの知覚はどう変化するだろうか?
おもしろいことに、動くのは遅くなっても、知覚はほとんど遅くはならない。
→ 動かしているつもりだけど、まだ動いていない。。。
その通り!
本当は遅れて動いているのだけど、自分ではいつも通りに、もうとっくに動かしたつもりになっている。
そんな事実からも、知覚と体の動きがある程度は独立した機能だというのがわかるよね。
僕らにとって時間の感覚は一体どうなっているのだろう。
同じように、大脳皮質の感覚野を刺激してもおもしろい結果が得られる。
たとえば体性感覚野を刺激すると、そこに対応した体表が「さわられた」という感じがする。
手に対する体性感覚野だったら手が、頬だったら頬が、触られたような気がする。
でも、この実験をやってみて、すぐにわかる不思議な現象は、刺激すればそれでよいというのではなくて、強い刺激を0.5秒ぐらい継続しないと「感じない」ということなんだ。
しかも、刺激のスタートから「さわられた」と感じるまで、なぜか0.5秒もかかる。
これは不思議なことだ。
なぜかといえば、実際に手を触れられたときは0.1秒後にはもう「手に触られた」と感じるからだ。
不思議だよね。
だって、さわられたという触覚の機械信号が、手の皮膚で電気信号に変換されて、さらに、その神経情報が長い腕を伝わって、脊髄に入り込んで脳まで行くまでに、ずいぶんと時間がかかるはずでしょ。
にもかかわらず、手に触られたときには、ほとんどその瞬間に「感じる」ことができる。
一方、脳を直接刺激したときには、刺激してからしばらく経たないと「さわられた」とは感じない。
なぜこんなことが起きるんだろう?
神経伝達のプロセスは時間がかかるから、今、感覚器で受容したことをそのまま感じるとすると、情報伝達の分だけ常に遅れて感知されるだろう。
こうなると、常に僕らは「過去」を生きていることになる。
今君らが感じたもの、目に見えたもの、脳の中だけで「自分は”今」ここにいて、こんな風景を見て、こんなことを考えている」と感じている限りは、その”今”は過去の世界を感知していることになる。
現実の時間と心の時間に差があったままでは、きっと、いろいろな不都合が起こるんだろう。
ということで、脳は感覚的な時間を少し前にズラして、補正しているんだ。
それも、無理して補正しているから、こんな簡単な実験で矛盾が見えてきてしまう。
しかも、おもしろいことに、補正しすぎてしまっている傾向がある。
「動く」前に「動いた」と感じるということは、補正が過剰で「未来」を知覚してしまう証拠だね。
脳には、まあ、そんな不思議なことが時折起こる。』
(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二)
さて、何回にも渡って、脳科学最前線の実験結果から、脳についての不思議な現象をご紹介してきましたが、そろそろ終盤に入ります。
次回は、「ゆらぎを意志でコントロールできるか?」についてです。
至上主(かみ)に知性(ブッディ)が帰入せぬ者は
心も統御されず 知性(ブッディ)も安定せず
平安の境地は望むべくもない
平安なき所に真の幸福はない
(バガヴァッド・ギーター第2章66)
チャクラについて(19)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 自由意志と自由否定
何回にも渡り、最新の脳科学の研究成果によって、次々と私たちの目の前に開示されつつある驚きの新事実について、ご紹介してきました。
私たちは、自分の意志で、行動していると感じていますが、
どうも、脳を詳しく見ていくと、そうではない、ということがわかってきた、
私たちが「意図する」よりも前に、すでに脳は「準備をしている」ということがわかったということで、
行動を選択しているのは、「自由意志」によるものではなく、
それは、脳の自動反応の結果である、というのが結論のようですが、
それでは、私たち人間には、100%自由はないのでしょうか?
前回の続きを見ていきましょう。
『ここまでいろいろな例を挙げながら説明してきた。
僕らの行動だけではなく、高度な心の機能も脳の「ゆらぎ」によって決まっているのかもしれない。
そんな、思わず心が折れてしまうような事実だ。
さて、みんな、それでも、自由意志はあると思う?
→ なんだか、ないような気がしてきた。。。
→ 脳の動きというのは、経験によって変化しないんですか。
ゴルフをいっぱいやっている人はそれに適した脳のゆらぎにすることができるとか。
なるほど。
とっても大切な視点だ。
要するに、仮に「ゆらぎ」で決まっているとして、そもそもその「ゆらぎ」は単なるランダムかどうか知りたいわけでしょ。
とてもいいポイントに気づいてくれた。ありがとう。
しかも、君の質問は、もう一歩先を行っていて、ランダムかどうかじゃなくて、自分の意図でその「ゆらぎ」をコントロールできるかどうかというニュアンスを含んでいる。
ただ、この話はもう少し後でしたい。
もしかしたら明日になってしまうかもしれないけど、でも大切なことだから、後でこの話題には必ず立ち戻ってきたい。
その問いに答えるためにも、今は、自由意志の問題をもう少し追いかけておかなくてはならない。
さきほどの自由意志との実験を復習してみよう。
まず脳が、動かす「準備」を始める。
準備が整って、いよいよ動かせるぞと思ったときに、「動かそう」という意志が生まれる。
だから「動かそう」と思ったときは、すでに脳は動くつもりで準備をしているのだったね。
こういう話をすると、文句をつける人もいて、「ということは、私が殺人事件を起こしても、罪には問えないですよね」などと言う。
自由意志がないということは、体が勝手に本人の意志とは無関係に作動したわけだから、それは私ではない、と。
この意見、どう思う?
→ うーん、否定したいけど。。。。
でも、たしかに、意志の生まれる時間的経過を知ってしまった今、この主張は否定するのは難しい気がするね?
となると、殺人犯を有罪にすることはできないのだろうか。
→ 準備ができたから行動したくなるんだけど、一般生活では何かしたいと思っても、それをしないということはできますよね。
つまり、<しない>ことを決める意志は、人間にはまだあるんじゃないですか。
たしかに今僕は、こうやって手首を曲げたいと思って曲げているけど、曲げなくても支障はないわけだし。。。。
ほう、なるほど。
この意見についてみんなはどう思う?
納得する?
・・・・何人かはうなずいているね。
今すごくいいことを言ってくれた。
僕はあえて大事なことを言わずにここまで来た。
行動したいという「欲求」よりも0.5秒ぐらい前には行動の「準備」は始まっている。
しかし、その一方で、「準備」から「行動」までは、その0.5秒よりももっと時間がかかる。
1.0秒とか1.5秒とか。
ということは、どういうことか。
もう一度言うよ。
「行動したくなる」よりも、「行動する」ことの方が必ず遅い。
時間的には、まず欲求が生まれてから、行動をする。
この時間差は長ければ1秒近くになる。
この期間が重要なんだ。
おそらく「執行猶予」の時間に相当するのだろうと言われている。
うーん、執行猶予というと語感が悪いな(笑)。
今、まさに君が言ってくれたように、その行動をしないことにすることが、可能な時間という意味ね。
その時間内に、行動を起こすのをやめることができる。
手首を動かしたくなったとき、たしかに、その意図が生まれた経緯に自由はなかった。動かしたくなるのは自動的だ。
でも、「あえて、今回は動かさない」という拒否権は、まだ僕らには残っている。
この構図が決して「自由意志」ではないことに気づいてほしい。
自由意志と言ってはいけない。
「準備」が生まれる過程は、オートマティックなプロセスなので、自由はない。
勝手に動かしたくなってしまう。
そうではなくて、僕らに残された自由は、その意志をかき消すことだから、「自由意志」ではなく、「自由否定」と呼ぶ。
英語でいえば、自由意志は”free will”で、自由否定は”free won't)と言う。
→ しないことをする。。。
そうだね。
僕らにある「自由」は、自由意志ではなく自由否定。
「人は一生に一回ぐらいは殺意を覚えるものさ」なんて、ホントかウソか知らないけど、そんなことを言う人がいる。
でも、殺意を覚えるだけだったら犯罪じゃないよね。
頭の中で思うだけだったら、罪には問われない。
そもそも、そこには自由はなく、勝手に脳がそう思ってしまっているだけのこと。
ただし、そのときに「殺人はダメだ」と自由否定の権利を行使しなかったら、つまり、本当に殺してしまったら、それは犯罪なんだ。
だから、殺人は有罪になる。
これが答え。
ということで、僕らの「心」の構造が見えてきたね。
自由否定が鍵を握っているんだと。
子どもは自由否定がヘタだよね。
だって、友達のこと強く殴ったりするでしょ。
でも、大人になると、行動の衝動を「否定」できるようになる。
いやいや、ここで殴ってはいけないぞ・・・ととどめるわけだ。
あるいは子どもは口も悪い。
つい、「おじちゃんハゲてるね」とか、「おばちゃんデブだね」とか言っちゃう(笑)。
大人になると、そうした発言をぐっと抑える。
自由否定がうまくなる。
大人でも、ハゲてる人を見たら、「あ、ハゲてる」とは思うよね。
いや、思ってしまうよね。
そこに自由はない。
でも、口に出すのはやめておく。
それが大人の態度。
つまり、人間的に成長するということは、自由否定が上達するということと絡んでくる。
日常生活でも自由否定の考えは大切だよ。
たとえば、明日までにいい企画を考えないといけないという状況では、よく「アイデアを絞る」という表現をするよね。
でも、アイデアはそもそもの「絞る」ものかな?
アイデアなんて頑張って絞り出すようなものではないでしょ。
それは自由意志の存在を盲信した姿勢だ。
そうではなくて、僕らにできるのは、自動的に脳から発生してきたアイデアを自由否定するかどうか、つまり、採用するか不採用にするかだけだ。
そこにしか僕らの選択の余地はない。
そして、最後に、これならいいね。。。と自由否定をしない。
僕らの脳は、そういうスタイルだけが許されている。
アイデアそのものは脳のゆらぎから自動的に生まれる。
そう。僕らはゆらぎに任せることしかできないんだ。
さて、先の質問に立ち戻ろう。
<手を上げる>から<手が上がる>を引き算すると何が残るか?
もう答えが見えたでしょ。
当初の君らの解答は「自由意志が残る」という結論だったね。
でも、今こうやってじっくりと脳のしくみに考えを巡らせた後だと、見え方が変わったのではないかな。
さて、この引き算の後に何が残る?
→ 手を上げることをやめなかった意志。
そうだね。
「自由否定」をしなかったという事実が残る。
去年、自由否定しているときの脳の活動がMRIで調べられた。
まさに、その「引き算」の脳の活動が記録されたんだ。
ちなみに、この論文、タイトルがおもしろい。
”To do or not to do"という言葉が冒頭にある。
→ 「ハムレット」の。。。。
よく知ってるね。
”To be, or not to be..."ならばハムレットの独白の場に出て来る台詞だ。
「生きるべきか死すべきか」などと訳されたりする。
これをもじって洒落たタイトルをつけた論文。
この研究で示されたのが「引き算」の結果だ。
自由否定した瞬間、つまり「しようと思ったのにしなかった」ときの脳の活動を記録して、「してしまった」ときの活動を引き算した。
さて、何か残ったか。
前頭葉の一番前の部分と、側頭葉の一番端っこの部分。
これが引き算して残った脳活動だった。
言ってみれば、自由否定に連関する脳の活動だよね。
つまり、僕らの「自由」な脳活動だ。
これこそが、自由な心が宿る場所なんだ。』
(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二)
脳が働く仕組みから導き出された結論は、私たち人間にあるのは、「自由意志」ではなくて、「自由否定」という従来の常識を覆すような驚きの新事実でした。
脳に生じるのは、脳ゆえの自動反応であり、「自由否定」が無ければ、自動反応は、そのまま表に行動として現われます。
そして、その表に現れた行動を、認知(認識)することで、私たちは、その行動を
「自分が起こした」「自分が選択した」と思います。
しかし、脳の活動を詳しく分析してみると、実際には、この表に現れた行動は、脳の単なる自動反応であることがわかった、というのですから、驚きです。
更に言うならば、私たち人間は、後付けで、脳の自動反応を認識しているに過ぎないにも拘わらず、
自分の「自由意志」で「自分」が「選択」した、と思ってしまっている、ということになります。
しかし、こんな疑問が湧いて来ます。
ここで解説されたように、「自由否定」以外は、すべて自動反応である、ということならば、
行動、感情、思考の主体であるとされている「わたし」という個人のアイデンティティは、脳の何処にあるのでしょうか?
「我思う、故に、我在り」とは、有名なデカルトの言葉ですが、
この「我」の正体とは何でしょか?
「自由意志」が、実は、脳の自動反応であるからには、そこには、選択する主体である「わたし」が存在しなくても、肉体がある限りは、自動反応は起こるでしょう。
となると、「わたし」という主体、この「わたし」とは、一体、何なのでしょうか?
こんな疑問が浮かんできますが、
最新の脳科学によって明らかにされつつある世界は、更に驚くべき事実を示唆しています。
その脳科学最前線の衝撃の事実を、次回も見ていきたいと思います。
至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)を得たとき
物質界の三重苦*は消滅し
この幸福(さち)ゆたかな境地で
速やかに知性(ブッディ)は安定する
(バガヴァッド・ギーター第2章65)
(*①自然界からくるもの(天災、気候)
②人間を含めた他の生物からくるもの
③自分の肉体に関するもの)
チャクラについて(18)ーアジナー・チャクラ(第6チャクラ) 脳のゆらぎ
前回からのテーマである「自由」について、「私たちに自由(意志)はあるのか?」という哲学やスピリチュアルの分野でも、時々論じられるテーマについて、
脳科学の最先端の研究成果から、驚きと衝撃の結果をご紹介しています。
脳の働きから見て、私たち人間に、果たして「自由」はあるのでしょうか?
続きを見ていきましょう。
『さて、これまでの話題を前提として、ここから「自由」の話題の核心に入って行くよ。
まず、この論文から紹介したい。
これは3か月前に発表された論文で、すごく衝撃的な内容だった。
ゴルフプレイヤーで行った実験だ。
グリーンの上でパッティングするでしょ。
パターでカップにボールを沈める。
でも、いかにプロ級の達人といえども外すことがあるよね。
つまり、成功するときと失敗するときがある。
たとえ、同じ場所、同じ距離、同じクラブと、すべてを同じ条件にして打ったとしても、なぜかうまくいくときと、いかないときがあるんだ。
それはなぜかという話。
あ、これはあくまで上級者の話ね。
初心者が外すのは。。。
→ 単に「下手くそ」だから。
でも100%成功するわけではないでしょ。
では、なぜ彼らは失敗するのだろか?
この論文によれば「プレイヤーの脳活動を観察していれば、パットが成功するか失敗するかを予測できる」という。
これはビックリだね。
さて、なぜそんなことが可能なのだろう。
→ 全然、わかりません。。。。
あはは、ちょっと理解に苦しむ研究だよね。
でも、たしかにパターの成績が事前に予測できてしまうんだ。
少し難度が高い質問だったかもしれない。
では、もっと簡単な実験を例にとって解説しよう。
半年ぐらい前に発表された科学論文だ。
ここでは「ランプが点灯したら、できるだけ早くレバーを握ってください」という実験を行っている。
これなら簡単だ。
だって、ただレバーを握るだけだからね。
人間は、正確な機械ではないから、レバーを毎回一定の力で握ることはできないよね。
さっきは強めに握ってしまったけれど、今回はちょっと軽めの力だったとか、そういうバラツキが自然にできる。
わざと握力を変えているわけではない。
本人はいつも同じように握っているつもりだけれど、強く握ってしまうときと弱く握ってしまうときがある。
では、その握力の強弱は、何によって決まるのか、というのがこの論文の問い。
結論から言うと、それは「脳のゆらぎ」で決まる。
→ ゆらぎ、が準備している?
そうとも言える。
つまり、ランプを点灯した瞬間、あるいはその直前の脳の状態をMRIで測定すれば、次に強く握るか、弱く握るかがわかるっていうわけだ。
先ほど映像で見てもらったように、脳の回路はゆらいでいる。
あんなにも脳回路の活動状態がゆらいでいたら、どのタイミングで情報が入って来るかによって、出力が変わってしまっても不思議ではない。
そういうことが実際に起こるんだ。
いいかな、よく見てね。
これは僕らの行った実験データだ。
先ほどの映像で撮影した海馬ニューロン群に、刺激を与えてみよう。
海馬回路の入り口の繊維に電気刺激を与える。
すると海馬回路で素早い計算がなされて演算結果が出力される。
この出力パターンを示したのがこの図だ。
白と黒で示されている〇が、ひとつひとつのニューロンだね。
この中で、黒丸のニューロンが、刺激に反応して活動したニューロンだ。
つまり入力に応じてピカッと光ったニューロン。
一方、白丸は反応しなかったニューロン。
つまり、黒丸の空間パターンが海馬回路の「計算結果」だと思ってもらってよい。
さて、ここからが重要。
このデータは一回の刺激応答の結果だ。
そこで、同じ入力刺激をこの回路に再び与えたら、
今度はどんな反応が返ってくるだろうか。
答えはこうなる。
別のニューロンの組み合わせが活動するんだ。
回路に入ってくる情報はまったく同じだけれど、計算の結果が異なる。
よく比べてみて、パターンが違うでしょ。
刺激をもっと繰り返そうか。
3回目の応答はこれ。
4回目はこれ。5回目はこれ。。。。
こんな具合で、同じ刺激、同じ神経回路なのに、まったく違う計算結果が返ってきてしまう。
これこそが脳回路の本質なんだ。
コンピュータではそんなことないよね。
気まぐれで計算結果が変わってしまうようなコンピュータなんか要らないよね。
でも、脳はいつでも同じように反応するとは限らない。
その非定常さ、一定じゃないことの原因は。。。
→ ゆらぎ。
そう、回路の内部には自発活動があって、回路状態がふらふらとゆらいでいる。
そして「入力」刺激を受けた回路は、その瞬間の「ゆらぎ」を取り込みつつ、「出力」している。
つまり、
入力 + ゆらぎ = 出力
という計算を行うのが脳なんだ。
となると「いつ入力が来るか」が、ものすごく大切だとも言える。
なぜなら、その瞬間のゆらぎによって応答が決まってしまうから。
結局、脳回路の計算はタイミングの問題になってくる。
逆に、今の時点の「ゆらぎ」がわかれば、出力を予測できるとも言える。
ここで先ほどの実験に戻ろう。
レバーを握ろうと思ったときに、強く握るか弱く握るかがどのように決まるかという話。
今はもっとすっきりと理解できるでしょ。
これは本人の意図の問題ではない。
「いつ押すか」というタイミングで決まる。
つまり、「握れ」というランプが点灯するタイミングだ。
だから、そのときの脳の活動状態がわかれば、握力の強さが予測できる。
→ そのとき、って言っても、予測するってことはランプが光る前の脳の状態ってことですよね?
うん、そうだね。
2秒から3秒前の脳の様子を見れば予測できる。
同じようにゴルフパットの実験についても、もう理解できるよね。
プレイヤー本人はいつも同じように打っているつもりかもしれないけど、外してしまうことがある。
その成否は何で決まるか。
そう、これもパッティングを開始する瞬間、あるいはその直前の脳の「状態」で決まる。
この論文を書いた研究者は、脳の前の方、つまり、前頭葉のゆらぎを見ていれば予測できると言っている。
さらにすごいのはね、ホールに「入る」か「入らない」かだけではなくて、外したときには、どのくらい外すか、つまり、ホールまでの距離さえも予測できるというんだ。
よく考えると怖い話だね。
プレイヤーはいつも通り真剣にプレイしているのに、脳研究者は「あらら、気の毒に。17センチショートするね」などと、スイングを始める直前には、もう言い当ててしまうんだから。
以上の話はすべて身体の動き、つまり筋肉運動の話だ。
では、もっと内面のレベル、たとえば知覚や認知はどうだろうか。
実は、これについても研究が進んでいて、おもしろい例としては、こういう実験がある。
「ルビンの壺」というトリックアートは知っているかな。
顔と壺の像が入れ替わる絵。
黒い模様に注目するとふたつの顔が向かい合っているように見えるけれど、白い図形に注意を向けると壺に見える。
このように、2通りの解釈が可能なイラストだ。
こうしたトリック図のおもしろい点は、ずっと顔に見え続けることも、ずっと壺に見え続けることもないというところだ。
時間が経つと自然に入れ替わる。
これもおそらく脳がゆらいでいるからだろうね。
ただし、ここで紹介したい実験は、そういう絵の入れ替わりではなくて、一回だけ見せるという実験だ。
つまり、一目眺めたときに、まずどちらの絵が心に浮かんだかを問う。
ちなみに、先ほどこの図形を君らに見せたとき、はじめにどちらが見えた?
はい、顔だった人。。。。壺だった人。。。
うん、だいたい半々だね。
実はね、これも君らの脳をMRIで測定しておけば、どちらの絵に見えるかを予測できるんだ。
「お、今見せたら、顔に見えるはずだぞ」とね。
これも2~3秒くらい前には十分に言い当てられる。
僕らの知覚は、見えている情報だけで決定されるのはなくて、内部のゆらぎの状態も強く反映されている。
そういう話だ。わかるよね。
→ 見たいように見れるんじゃないんですね。
「モノを見る」と一口にいうけれど、別に、網膜に届く「光」の物理的性質によって、モノの見え方が決まるわけではない。
その光をどう解釈するかは、僕らの脳の問題だ。
楽しいときと落ち込んだときでは、同じ風景を眺めても、「見え方」が違うように、脳の内面がモノの「見え方」を規定するということだ。
この話はさらに展開する。
「運動」や「知覚」だけではなくて、「記憶」にもゆらぎが関係しているようなんだ。
つまり、覚えられるかどうかも、覚えようとしているときの脳のゆらぎを見ておけば、後で思い出せるかどうかが予測できる。
覚えるべき内容の難易度ではなくて、脳のゆらぎが、記憶できるかどうかを決めてしまうというわけだ。
さらに「注意力」もゆらぎだということがわかってきた。
たとえば、こんな実験だ。
ネズミの部屋にランプがついている。
ランプが点灯するとエサが出る。
そういう仕掛け部屋で育ったネズミは、ランプが点灯すると、そちらに視線をやって、ランプが点灯したのを確認するようになる。
ときにはランプがついたことに気づかないこともある。
注意がそちらに向かないってことだ。
注意力はかなり高度な能力だ。
特定の対象に意識を向けて、さらに、それを持続させて、気づくことができたかという問題だからね。
これもランプがつく前に、脳のゆらぎで決まっている。
ただ、この実験のおもしろさは、MRIで脳の反応を見るという大ざっぱな方法ではなくて、前頭葉のアセチルコリンという神経伝達物質に絞って、その反応を観察したことにある。
ネズミだからこそ、そういう詳細な実験が可能になるのだけれど、そうして細部をきちんと調べてみると、ランプ点灯に気づくかどうかが、なんと20秒も前から予測できることがわかった。
この研究を受けて、ヒトでも注意力の実験が行われている。
単純作業を繰り返していると、僕らヒトは、ときどきミスすることがある。
気をつけていても、うっかりミスしてしまう。
そうしたミスが「いつ起こるか」を脳の活動から事前に予測できるのではないか、というのが研究の目的だ。
もし予測できれば、医療事故や交通事故などの人為ミスを未然に防ぐことができるかもしれない。
実際にしらべてみると、やはり有意に予測できることがわかった。
作業ミスが出てしまうよりもだいたい6秒前、早い場合には30秒前にはわかるというから驚きだ。
というか、単調作業をしているときに、突然に警告装置が鳴って、「君は30秒後にミスをする」なんて喚起されたら、どんな気分なんだろうね。
→ 認めたくない。
あはは。
もはや、怖さを超えて、あきれてきた?
「俺たちの心って一体どうなっているんだあ・・・」と叫びたい気持ちになってくる。
ちなみに、こうした研究は最近とくに盛んで、ここ半年ぐらいの間にも、ワクワクするような論文がたくさん発表されている。
これからどんなふうに研究が展開していくのか目が離せない。
まさにホットな研究分野だ。』
(単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二)
脳は、常に自発的に活動しており、脳内では常に「ゆらぎ」が生じていて、
その「ゆらぎ」によって、脳から出力される情報は影響を受けており、
すべての現われ(運動、感覚、記憶、気づき。。。など)が決定する、ということになりますね。
行動ばかりではなく、感覚や思考、心の働きなども、本人の自由意志ではなく、脳のゆらぎがすべてを決定している、ということになりそうですね。
次回も、この続きを見ていきたいと思います。
解脱への正規の方法を修行し
感覚の統御に努力する人は
至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)をいただいて
あらゆる愛着と嫌悪から解放される
(バガヴァッド・ギーター第2章64)