永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

二元論から限定非二元論へ、そして、不二一元論(アドヴァイタ)へ

前回までの二回にわたって「二元論」について書きましたが、これらは少しばかり哲学的な考察を要する内容です。

これは、インドでは、ギャーナ・ヨーガと呼ばれている智識(ギャーナ)によって真理に到ろうとするヨーガ(行)で、

聖ラーマクリシュナも、度々、「知識のヨーガは大変難しい」と語られているほどのヨーガの中でも実践には困難を要するとされているものですが、

一方で、彼の弟子でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダは、このように著書の中で、書かれています。

 

『今生で完全に調和のとれた人格を形成するということは、われわれすべてにできることではありません。

それでもわれわれは、これらの三つーー知識、愛、およびヨーガーーが調和をもって融合しているタイプの人格がもっとも高貴なものである、ということは知っています。

鳥がとぶには三つのものーー二枚のつばさと、方向を定める舵の役をする尾ーーが必要です。

ギャーナ(智識)は一翼、バクティ(愛)はもうひとつのつばさ、そしてヨーガはバランスをたもつ尾です。』

バクティ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

このように、真理を理解することは、智慧(智識)であり、正しい智慧(智識)無くしては、真理には行き着かない、ということも、また真なのです。

 

それでは、これから更に難しい内容に踏み込んで行きますが、イメージを最大限に活用して、二元の世界を離れ、神秘の領域である一元の世界、アドヴァイタの世界に踏み込んできましょう。

 

『真のヴェーダーンタ哲学は、限定非二元論者とよばれている人びとからはじまります。

彼らは、結果は原因と少しもことなるものではない、という声明をします。

結果は、別のかたちで再生された原因にほかならないのです。

もし宇宙が結果であって、神が原因であるのなら、宇宙は神自身であるにちがいありません。

それ以外のものであるはずがないのです。

彼らは、まずはじめに神は宇宙の動力因であって、同時に質料因でもある、と主張します。

神自身が創造者であり、同時に神自身が、それから全宇宙が投影されるところの原料でもある、というのです。

あなた方キリスト教徒がおつかいになる「創造」という言葉の同義語が、サンスクリットにはありません。

西洋で考えられているような、無から何ものかが出てくるというような創造を信じる宗派はインドにはないからです。

昔あるときに、そのような思想をもつ若干の人びとがいたらしいのですが、彼らはじきにだまってしまいました。

現代では、私はそのような宗派をまったく知りません。

われわれが創造という言葉で意味するのは、すでに存在しているものの投影です。

さて、この宗派によれば、全宇宙は神ご自身です。

彼が宇宙の材料です。

ヴェーダにはこう書いてあります。

「クモが自分のからだから糸をつむぎ出すように・・・・ちょうどそのように、全宇宙はその存在からでてきた」

 

もし、結果は原因の再生であるなら、「この物質の、不活発な、知能のない宇宙が、物質ではない、永遠の知恵である神から生まれたのはどういうことであるか。」という疑問が生まれます。

もし原因が純粋で完全であるなら、どうして結果がそれとまったくことなったものであり得るのでしょうか。

これらの限定非二元論者は何とこたえるのでしょうか。

彼らの学説は非常に特異なものです。

彼らは、神、自然および魂というこれらの三つの存在は一つのものである、と言います。

神は、いわば魂であり、自然と魂たちは神の身体なのです。

ちょうど私が肉体を持ち、魂を持っているように、全宇宙とすべての魂たちは神の身体であり、神は魂たち(souls)の魂(the Soul)なのです。

このように、神は宇宙の質料因であります。

身体は変化するでしょう。

わかかったり年おいたり、つよかったりよわかったりするでしょう。

しかし、それは魂には少しも影響をあたえません。

魂は、肉体を通じてあらわれている、同一の永遠の存在です。

肉体はきたり去ったりしますが、魂はかわりません。

ちょうどそのように、全宇宙は神の身体です。

そしてその意味において、それは神であります。

しかし宇宙の変化は神には影響をあたえません。

この原料から、神は宇宙を創造しました。

そして一つの周期のおわりになると、彼の身体はしだいにかすかになります。

それはちぢまります。

つぎの周期のはじめにそれはふたたびふくらみ、そこからこれらすべてのさまざまの世界が展開するのであります。

 

さて、二元論者も限定非二元論者も、魂は本来きよらかなものであって、それ自身のおこないによって不純になるのである、とみとめています。

限定非二元論者たちはそのことを二元論者たちよりももっとみごとに表現しています。

魂のきよらかさ、完全さは減退してまたふたたびあきらかになる。

われわれはいま、魂固有の知恵、純粋性、力をふたたびあきらかにするよう努力しているのだ、と言うのです。

魂たちは無数の性質を持っていますが、全能ではないし、全知でもありません。

あらゆる悪行はその本性を縮小し、あらゆる善行はそれを拡大します。

そしてこれらの魂たちは、神の部分なのです。

「もえるほのおからおなじ性質の幾百万の花火がとびちるように、ちょうどそのように、この無限の実在、神、からこれらの魂たちはやってきた」

おのおのの魂が同一の目標を持っています。

限定非二元論者の神もやはり人格神であって、無限のよい性質の貯蔵庫です。

ただ、彼は宇宙間のいっさいのものの中に浸透しているのです。

彼はあらゆるものの中、いたるところに内在しています。

そして経典が、神はあらゆるものである、と言う場合は、それは、神はあらゆるものにしみこんでいる、という意味であって、神がかべになっている、というわけではなく神が壁の中にいる、ということになるわけです。

宇宙間に一微粒子、一原子といえども神のやどっていないところはありません。

魂はことごとく有限で、彼らは偏在ではありません。

彼らが力を拡大して完成されたとき、生死のきづなを脱して永遠に神とともにすむことになるのです。

 

さて、われわれはアドヴァイティズム(不二一元論)をとり上げることになりました。

最後のものです。

そして思うには、かつてあらゆる国があらゆる時代に生みだした哲学および宗教の中の、もっともうつくしい花であります。

そこでは人間の思想は最高の表現に達し、透過不可能と思われる神秘のかなたに行きます。

これが、非二元論のヴェーダーンティズムです。

それは、大衆の宗教となるには、あまりに深遠であまりに高度なものです。

過去三千年間これに最高の地位をあたえてきたその生地、インドにおいてさえ、大衆の中に浸透することはできませんでした。

話がすすむにつれて、いずれの国においても、アドヴァイティズムを理解することは、もっとも深い思想を持つ男女にとってさえも困難なことである、ということがおわかりになるでしょう。

われわれはみずからをそれほどよわくしたのです。

それほどひくくしてしまったのです。

りっぱな主張をするかもしれません。

しかしごく自然に、他の誰かによりかかりたいと思います。

われわれはつねにそえ木を必要とする小さい、よわい植木のようなものです。

私はいくたび、「安楽な宗教」はないかともとめられたことでしょう!

ごくわずかの人びとが真理をもとめます。

あえてその真理を学ぼうとする人はさらに少ない。

そして、実際の行動の中でそれを実践しようとこころみる人にいたっては、まれであります。

それは彼らのおちどではない。

すべては頭脳のよわさのなすところです。

新しい思想はいずれも、それが高度のものであれば特に、動揺をかもし出します。

頭脳組織の中に、いわば一つの新しいチャネルをひらこうとするので、これが人びとの調子をくるわせ、彼らにバランスをうしなわせるのです。

彼らは、一定の環境にならされています。

そこで、太古以来の迷信、祖先伝来の迷信、階級の迷信、住む町の迷信、国の迷信、などなどの巨大なかたまりを、およびそれらすべての背後にある、人間一人一人に内在する広大な迷信のかたまりを、克服しなければならないのです。

しかし世の中には、その真理をあえて考える、またそれをあえてとり上げる、そしてまたそれを究極まで追求しようとする、若干の勇敢な魂たちもいます。』

(ギャーナ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

次回は、とうとう、人類が到達した最高の叡智、アドヴァイタ(不二一元論)の核心部分に入って行きます。

 

ゴールは、そこにあります。

 

それを理解できたなら、最高の叡智に辿り着いたのですから、もはやこれ以上、人間として、この地上で学ぶべきものはありません。

 

これこそが、人類が抱えるあらゆる疑問への答えであり、私たちが到達すべき究極のゴールであり、魂の帰還の旅の終着点なのです。

 

 

 

わが顕現と活動の神秘を理解する者は

その肉体を離れた後 アルジュナ

再び物質界(この世)に誕生することなく

わが永遠の楽土(くに)に来て住むのだ

(バガヴァッド・ギーター第4章9)

 

 

 

二元論における神と人間

前回の記事では、スワミ・ヴィヴェーカーナンダのギャーナ・ヨーガからの抜粋を元に、二元論における「神」と神による創造である「宇宙」についてご紹介しました。

 

今日も、その続きを見ていきたいと思います。

 

『すべての二元論的学説にともなう最初の困難は、ただしく慈悲深い神、無数のよい性質の貯蔵庫、の支配のもとにあって、この世界にこれほど多くの悪がどうしてあり得るのか、という疑問です。

この疑問はすべての二元論的宗教の内部におこりました。

しかしヒンドゥ民族は、決してそれに対する答えとして悪魔を発明することはしませんでした。

ヒンドゥ民族は、一致して、そのせめを人の上におきました。

また、そうするのが彼らにとってたやすいことなのでした。

なぜか。

たったいま申しあげたように、彼らは魂が無からつくり出されたものであるとは信じなかったのですから。

われわれは、この人生で自分が自分の将来を形成することができるのを知っています。

人は誰でも、毎日、明日を形成しようと努力しています。

今日、われわれは明日の運命をきめます。

明日は明後日の運命をきめるでしょう。

こうして順に未来にお呼ぶでしょう。

この推理は過去にむかっておしすすめることもできる、ということはまったく論理的です。

もしわれわれが自分のおこないによって自分の未来の運命をきめることができるのなら、どうしておなじルールを過去にあてはめることのできないわけがありましょう。

もし、無限につづく一本のくさりの中で、一定数の環が交互にくりかえされるのであれば、その一定数の環のグループの一つが説明されるなら、われわれはそのくさりの全体を説明することができます。

それゆえ、この、時の無限の長さのなかで、もしその一部分をきりとってその部分を説明しそれを理解することができるなら、そして、もし自然は斉一であるということがほんとうであるなら、おなじ説明が時のくさり全体に適用できるはずです。

もし、われわれはここで、このみじかいひとときの間に自分の運命を一心につくり出しているのだ、ということがほんとうなら、もし、現在われわれが見ているように、いっさいのものは原因を持っている、ということが真実であるなら、われわれがいま、あるところのものはすべて、われわれの過去全体の結果である、ということもまた、真実であるにちがいありません。

それゆえ、人類の運命を形成するには、人間自身以外の何者の手も必要とはしないのです。

この世界に存在する悪はほかでもない、われわれ自身によってつくられるものであります。

われわれがこのすべての悪をつくりました。

そして、わるい行為から不幸が生まれるのをたえず見ているのとまさに同様に、この世界に現存する不幸の多くは人間の過去の悪行の結果であるということも見ることができます。

それゆえ、この学説にしたがえば、人間だけに責任があるのです。

神はせめられるべきではありません。

永遠に慈悲深い父なる神は、少しもせめられるべきではありません。

われわれが、「まいた種子をかりとる」のです。

 

二元論者のもう一つの独特の特徴は、あらゆる魂は最後にはかならずすくわれるというものです。

ひとりとしてのこされる者はありません。

さまざまの有為転変をへて、さまざまの苦しみや楽しみをへて、最後には一人の例外もなく出てくるでありましょう。

何から出てくるのか。

すべてのヒンドゥ宗派の一つの共通理念は、いっさいの魂は、この宇宙から脱出しなければならない、というものです。

われわれが見たり感じたりしているこの宇宙も、また想像の宇宙さえも、実在のモノではあり得ません。

なぜなら両方とも、善と悪とがまじりあっているのですから。

二元論者たちによると、この宇宙のかなたに、幸福と善だけにみたされた一つの場所があります。

そこに到達したら、もう生まれることも生まれかわることもないし、生きたり死んだりする必要もないのです。

この思想は彼らにとって非常にしたしみぶかいものです。

そこにはもはや、やまいも死もない。

そこに永遠の幸福があり、人びとはいつも神のみまえにあって永久に彼をたのしむことでしょう。

彼らは、最低の小虫から最高の天使や神々にいたるまでのありとあらゆる生きものは、おそかれ早かれ、もはや不幸はひとつもないというその世界に到達するであろうと信じているのです。

しかし、われわれのこの世界は決しておわりますまい。

それは、波形にうごきながらではあるが、永遠に行きつづけます。

周期的にうごきながらではあるが、決しておわることはありません。

すくわれるべき、完成されるべき魂の数は無限です。

あるものは植物の中に、あるものはひくい動物の中に、あるものは人間の中に、あるものは神々の中にやどっています。

しかし最高の神々をふくむそれらのことごとくが、不完全であり、しばられているのです。

そのしばりとは何であるのか。

生まれなければならない、ということと、死ななければならない、ということです。

最高の神々でさえ死ぬのです。

これらの神々とは何であるか。

それらは、特定の身分、特定の役目を意味しています。

たとえば、神々の王であるインドラは、ある役目を意味します。

この周期には、非常に高いある魂が、行ってその地位につきました。

この周期がおわったのちには、彼はふたたび人間と生まれてこの地上にやってくるでしょう。

そして、この周期中に非常な徳をつんでいる人が、つぎの周期には行ってその地位をふさぐことになるでしょう。

他のもろもろの神の場合もおなじです。

それらは、幾百万の魂たちによってかわるがわるしめられてきた役目であります。

その魂たちは、それらの役目をはたらいたのちにはまたおりてきて人間になりました。

この世界でよいことをし、他者をたすけるが、むくいを得ることをめざし、天国に行くことや仲間からほめられることを期待している魂は、死ぬと、それらの善行の利益を収穫しなければなりません。

彼らはこれらの神々になります。

しかし、それはすくいではありません。

むくいをほしがっている間は、すくいはやってこないでしょう。

何であれ、人のほしがるものを、主は下さるのです。

人びとは力をほしがる、彼らは名声をほしがる、彼らは神々となる楽しみをほしがる、するとそれらののぞみはかなえられます。

しかし、どんな働きの果報も永遠ではありません。

一定のときをへたのちには、果報はつかいはたされることでしょう。

それはいく劫という長い時間かもしれない。

けれどもそれがすぎたときには果報も去ってしまっています。

そしてこれらの神々はふたたびおりてきて人間になり、解脱へのあらたなチャンスを獲得しなければならないのです。

ひくい動物たちはのぼってきて人間になり、たぶん神々になり、それからまた人間になり、あるいは動物にまでももどります。

快楽へのいっさいの願望、いのちへの渇望、「私と私のもの」へのこのしがみつきから彼らが脱出するそのときまで。

この「私と私のもの」が、まさに世界のすべての悪の根元です。

もしみなさんが二元論者に、「あなたの子供さんはあなたのものか」とおたずねになるなら、彼はこたえるでしょう。

「それは神のものです。私の所有物は私のものではない、神のものです」とこたえるでしょう。

いっさいのものは、神のものとして持っていなければならないのです。

 

さて、インドのこれらの二元論者たちは、厳重な採食主義者であり偉大な不殺生の説教者です。

しかし、このことについての彼らの考え方は、仏教徒のそれとはまったくちがいます。

もしみなさんが仏教徒にむかって、「なぜあなたは、生きものをころしてはいけないと説くのか」とおたずねになったら、彼はこたえるでしょう。「われわれは何ものの生命をもうばう権利をもたない」と。

そしてもし二元論者に、「なぜあなたは動物をころさないのか」とおたずねになったら、彼はこう言います。「だってそれは主の持ちものだから」そのように二元論者は、この「私」と「私のもの」は神に、神にのみむけられるべきである、と言うのです。

彼が唯一の「私」であり、いっさいのものは彼のものなのです。

人が「私」と「私のもの」を持たない境地に達したとき、あらゆるものが主にささげられてしまったとき、彼が生きとし生けるものを愛して、一匹のけもののためにさえ、すこしもむくいももとめずに、よろこんで自分の生命をなげだすようになったとき、そのときには、彼のハートは清浄なものになるでしょう。

そしてハートが浄化されたとき、そのハートの中には神の愛が入りたもうのです。

神は、あらゆる魂にとっては引力の中心です。

そして、二元論者は言います。「土でおおわれた針は磁石にひきつけられない。だが土が洗いおとされれば、それはたちまちひきつけられる」神は磁石で人の魂は針、そのわるいおこないは針をおおうどろやほこりです。

魂がきよまるやいなや、それは本来の引力によって神のもとに来、永久に神のもとにとどまります。

しかし永久に、神らかはなれたままです。

完成された魂は、そうしたいと思えばどんなすがたでもとることができます。

のぞむなら百個の身体をも持つこともできるし、一個の身体も持たないでいることもできます。

創造することができるないことをのぞけば、それはほとんど全能になるのです。

創造の力は神だけのものです。

どんなに完全であっても、宇宙の仕事にたずさわれる者はいません。

あの働きは神のものです。

しかしすべての魂が完成されれば、永遠に幸福になって、永遠に神とともにくらします。

これが、二元論者の声明です。

 

二元論者が説くもう一つの思想、彼らは神にむかって、「主よ、私にこれを下さい、あれを下さい」といのることに反対します。

彼らは、それはなすべきではない、と考えます。

もし何か物質的なたまものをこわなければならないなら、それはもっとひくい存在にむかってこうべきです。

かりそめのものは、これらの神々または天使の中の誰かにむかって、または完成された魂にむかってこうべきなのです。

神は、ただ愛されるべきものです。

神にむかって、「主よ、これを下さい、あれを下さい」などといのるのは冒涜だと言ってもよろしい。

それゆえ、二元論者たちによると、人が欲するものは、神々(gods)の中の誰かにいのることによって、おそかれ早かれ手にいれることができるでしょう。

しかし、もし彼がすくいを欲するなら、彼は神(Godうちなる唯一最高神)を礼拝しなくてはなりません。

以上が、インドの大衆の宗教であります。』

(ギャーナ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

何度も書きましたが、二元論においては、神と人間は、支配する者と支配される者のような従属関係です。

支配される者は、生と死に束縛されています。

支配されている存在である限りは、完全なる自由はないでしょう。

 

ここに、縛られた者としての苦悩と苦しみがあります。

 

だからこそ、人間には、この縛られた存在から解放されたいという願望が生じるのでしょう。

 

次回は、この束縛からの解放に向かって、ヴェーダンティストたちが、どのような果敢な挑戦をし、完全なる自由に至る道を見つけ出したのか?について、見ていきましょう。

 

 

 

 その時 その場でアルジュナは見たのです

神々のなかの神 至上主の普遍相のなかに

無数の宇宙が展開して

千種万態の世界が活在しているのをーー

(バガヴァッド・ギーター第11章13)

 

 

二元論における神と宇宙

前回の記事で、『私たちは、ヒツジ(人間)だと思って生きているライオン(神)である』と書きました。

 

これは、ウパニシャッド哲学が誕生したインド周辺では、ヴェーダンタという名前で、古い時代から伝えられてきた馴染み深い教えとして、よく知られているものですが、日本においては、初めて触れる人の方が多いことでしょう。

この教えは、これまで、秘法中の秘法、奥義の中の更にその奥にある奥義なので、一般的な人には知られることなく、今日まで隠されてきました。

それは、以前の記事の中でもご紹介しましたが、

<実際、ご紹介しているインドのウパニシャッドの文献の中で、特に哲学的にも純粋性の高い叡智として語られている部分は、アーラヌカヤ(森林書)と呼ばれています。

何故、「森林書」と呼ばれているかと言うと、

<その内容が非常に聖なるものであり、秘儀的であり、神秘的であり、危険であるために、人の住む村落では伝えられない学ばれるべきではないがゆえに、森林の中で一人きりになった上級のヴェーダ学生にのみ伝えられるべき文献、そのような学生により学ばれるべき文献>という意味なのだそうです。>

という説明からも明らかです。

この<秘儀的で、神秘的であり、危険である>教えの部分に、これから踏み込んで行きたいと思います。

 

これからご紹介する文章には、理解しがたい部分が多いと感じますが、これをまずは頭で理解していかなくては、神秘の領域に踏む混んでいくことは不可能なので、

理解するのが難しいところは、何度も読んで理解しようとトライしてみて下さい。

 

理解し難いことを理解しようとすることは、脳に新しい回路を切り開くことになります。

新しい考えをどう処理してよいかわからない脳は、一時的に拒否反応を示すことがありますが、今まで知らなかった考えに対して柔軟な姿勢で受け入れることができるように努力することは、やがて、脳に新しい回路を切り開くことにつながっていきます。

そして、それが、やがては、人間の最高の叡智である「悟り」につながっていくのですから、この難関を突破することは、彼岸に到れるかどうかの重要なポイントであり、通過門だと言えます。

 

脳に新しい回路が切り開かれるときは、多少のバランスを崩して、不調が生じることがあるかもしれませんが、それは一時的なものなので、大丈夫です。

時には、体験がやって来て、回路が一気に開くことがありますが、このブログを読んだだけでは、そのようなことは起きませんので、ご心配は無用です。

 

それでは、人類が到達した最高の叡智、アドヴァイタ(不二一元)の世界に、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ギャーナ・ヨーガ」からの抜粋を通して、踏み込んで行きましょう。

 

『われわれは、ヴェーダーンティスト(ヴェーダウパニシャッドの研究を行う人)たちの間に三つのことなるタイプがあるのを見いだします。

ある一つの点では、彼らの全部が一致しています。

それは、神を信じる、という点です。

これらすべてのヴェーダンティストたちはまた、おそらくキリスト教徒や回教徒の場合とまったくおなじ意味でではなく、非常に特異な意味で、ヴェーダを、啓示された神の言葉であると信じています。

彼らの考えは、ヴェーダは神の知識の表現である、そして神は永遠であるから、彼の知識も彼とともに永遠である、それゆえヴェーダは永遠である、というものであります。

そこにはもう一つ、共通の根本信念があります。

創造は周期的におこなわれる、という信念です。

宇宙は出現して、そしてまたきえる、それは放射されてしだいしだいに粗大になり、かぞえることのできないほどの長いときをへたのちには、しだいしだいにかすかになったあげくに消滅し、ひいてしまう、それから休息の一時期がくる、と言います。

そしてふたたび、それはあらわれはじめ、まえとおなじ過程をたどる、と言うのです。彼らは、アーカーシャと呼ぶ、現代科学者が言うエーテルににたような物質と、プラーナと呼ぶ、一つの力との存在を仮定します。

このプラーナについては、彼らは、それの振動によってこの宇宙は生み出されるのだ、と断言しています。

一つの周期がおわったときには、自然界のいっさいのあらわれはしだいしだいにかすかになって、見ることもふれることもできないけれども、それの中からいっさいのものはつくられるのだという、このアーカーシャの中に解消してしまうのです。

重力、引力、および斥力というような、または思い、感情、および神経活動というような、われわれが自然界に見るこれらのさまざまの力は全部プラーナと化し、そしてプラーナの振動はやみます。

つぎの周期のはじまりまで、この状態がたもたれます。

それからプラーナは振動をはじめ、その振動はアーカーシャに働きかけ、そしてすべてのこれらの形がさだまった順序にしたがって放射されるのです。

 

私がお話ししようと思う第一の流派は、二元論学派とよばれています。

二元論者は、宇宙の創造者でありその支配者である神は、永遠に自然とは別個のもの、人間の魂とは別個の存在である、と信じています。

神は永遠、自然は永遠、すべての魂も永遠です。

自然と魂たちは形にあらわれて変化します。

しかし神はかわりません。

また、二元論者に言わせると、この神は、肉体を持っているわけではないが、性質を持っているのです。

彼は慈悲深い、彼は正しい、彼は力づよい、彼は全能だ、彼に近づくことができる、彼にいのることができる、彼を愛することができる、彼の方からも愛してくれる、などなどであります。

一口に言えば、彼は人間の神です。

ただ、人間よりも無限に偉大です。

彼は人間が持っているわるい性質は一つも持っていないのです。

「彼は、無限のめぐまれた性質の貯蔵庫である」

彼らは神をこのように定義するのです。

神は材料がなければ宇宙を創造することはできません。

そこで自然は、神がそれから全宇宙をつくりだすところの原料です。

アトミストとよばれる若干の非ヴェーダーンタ的二元論者もいます。

彼らは、自然は無数の原子にほかならない、神の意志がこれらの原子の上にはたらいて創造をおこなうのだ、と信じています。

ヴェーダーンティストたちはこの理論を否定します。

彼らは、これはまったく非論理的だ、と言います。

不可分の原子は、部分も大きさも持たない、幾何学上の点にようなものでしょう。

しかし、部分も大きさも持たないものを無限にあつめてもおなじことです。

部分を持たないものは決して、部分を持つ何ものかをつくることはできますまい。

ゼロはいくつあつめても結局はゼロでしかないのです。

それゆえ、もしこれらの原子が部分も大きさも持たないというようなものであれば、そのような原子からは、宇宙の創造は不可能というほかありません。

それゆえ、ヴェーダンタ的二元論者に言わせれば、分離させることのできない、もしくは区分することのできない自然というものがあって、そのものから、神が宇宙を創造するのです。

インドの大衆の大部分は二元論者です。

人間の性質は、ふつうはそれより高いものを考えることはできません。

われわれ地球上の住民で何かの宗教を信じている者の90%は二元論者であることを見いだします。

ヨーロッバおよび西アジアのすべての宗教は、二元論です。

そうならざるを得ないのです。

通常の人間は、具体的でないものについて考えることはできません。

彼は当然、自分の知性が把握し得るものにしがみつきたがります。

つまり、彼自身のレベルまでひきおろしてきてはじめて、より高い霊的観念をも心にえがくことができます。

彼は、抽象的概念を具体化してはじめて、理解することができるのです。

これが、世界中の大衆の宗教です。

彼らは自分たちとはまったく別の、偉大な王、高く強力な君主、というような神を信じるのです。

同時に彼らは、神を地上の君主よりも純粋なものにします。

神にあらゆるよい性質をあたえ、わるい性質はとりのぞきます。

まるで、悪が存在しなくても善の存在は可能である、やみがなくても光の存在は可能である、と言わんばかりに!』

(ギャーナ・ヨーガ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

スワミ・ヴィヴェーカーナンダも書かれている通り、多くの人が、二元論者であるわけですが、

「神 対 人間」の記事にも書きましたが、神は創造者であり、人間は神の被造物である、とする限り、神と人間は永遠に対峙したままで、その間が縮まることはありません。

 

ここの部分は、「わたし=神」という理解に辿り着くためには、とても重要な部分であるので、次回でももう少し考えてみたいと思います。

 

 

 

非顕現のわたしのなかに

この全宇宙はひろがっている

全ての存在はわたしのなかにあり

わたしが彼らのなかにあるのではない

(バガヴァッド・ギーター第9章4)

 

 

 

 

 

ヒツジ(人間)だと思っているライオン(神)のお話し

前回の記事で、

『ナーナさんから湧き出でるプラーナという磁石の力は強力です。

多くの人の執着心を抑え、無駄な思考や感情を消滅させます。

こうして、エゴは自然と大人しくなり、やがては、エゴの層は限りなく薄くなり、心は素直で柔和となり、真の自己がその真の姿を現すための準備が整います。』

と書きましたが、このプラーナは、シャクティ(この宇宙を在らしめている力)と言う”神の力”であると言うことができます。

クンダリニー覚醒が数回起こった後、ナーナさんは”自分が誰であるか?”に完全に目覚められ、

その後、シャクティそのものとなって、私たちを自己の真の本性に目覚めさせて下さろうとしています。

 

それは、ちょうど、私たちに、この物語に書かれていると同じようなことが起きていると考えることができます。

 

『えさをさがしていた、身ごもっためすライオンについての話があります。

ヒツジのむれを見て、彼女はそれにとびかかりましたが、そこで死んでしまい、母親のいない子ライオンが生まれました。

それはヒツジにやしなわれて彼らとともに大きくなり、草をたべてメエメエとないていました。

そして、やがて一頭の十分に成長したライオンになったのですが、自分はヒツジだ、と思っていました。

ある日、もう一頭のライオンがえさをさがしにきて、このヒツジのむれの中に一頭のライオンがおり、ヒツジといっしょに逃げていくのを見てびっくりしました。

彼はこのヒツジライオンに近づいておまえはライオンであるぞと言ってやりたいと思いましたが、あわれなけものは、彼が近づくと逃げて行ってしまいました。

それでも彼は機会をねらい、ある日、ヒツジライオンがねむっているのを見つけました。

彼はそれに近づき、「おまえはライオンだぞ」と言いました。

あいてが、「私はヒツジです」と言ってメエメエなくので、彼をみずうみのほとりまでひきずって行き、「ここをごらん、おまえと私のかげだ」と言いました。

彼はライオンと自分の影とを見くらべ、一瞬のうちに、自分はライオンである、ということを悟りました。

ライオンはほえました。もう、メエメエとはなきませんでした。

みなさんはライオンなのです。きよらかで、無限で、完全な魂なのです。

宇宙の力はみなさんのうちにあります。』

(ギャーナ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

これが、所謂、「霊的探求」の結論、私たちが辿り着くゴールなのですが、

にわかには、私たちは、自分自身が「ヒツジ(人間)だと思い込んで生きているライオン(神)」だとは思えないでいます。

そう思おうとしても、どうしても思えない、というのが人間の一般的な普通の反応です。

 

ナーナさんは、すでに「ライオン」として目覚められていらっしゃいますが、同時に、

私たちにも、同じく自分が「ライオン」であることを悟らせて下さろうとしています。

 

私たちを含む全ての存在は、”ひとつなるもの”の多様な顕れです。

すべての人は、ライオン(神=ひとつなるもの)なのですが、自分はライオンではなく、ヒツジ(人間)だと思って、生き、そして死んでいきます。

 

このことを頭で理解し、言葉で言うのは、比較的簡単ですが、これを身を以って悟っていくには、人間には、乗り越えなくてはならないいくつかの課題があることも事実です。

 

この課題がクリアーされていないがために、自己の真の本性を悟り、「自分は神である」とは、とても思えないでいるのです。

そして、ここに、霊的探求者の共通の困難があります。

 

私たちは、実際、自分がライオンであることを思い出すために、これまで気が遠くなるくらいの長い時間を経てきたわけですし、これからも予測できないほどの長い時間がかかるかもしれない、ということは、十分に考え得ることです。

 

しかしながら、いつかはこの課題に挑戦し、乗り越え、クリアーしていくことになるとしたら、

それ以外には、被造物なる有限なる存在が、完全に自由になるチャンスはあり得ないとしたら、

今生で、この課題クリアーに向かって前進するために、そのヒントだけでも知っておくことは、最終的ゴールへと至る道の短縮につながることは確実でしょう。

 

二元論者として、対象としての神を愛する、創造者(イシュワラ)としての神を信仰(信愛)するという大前提の元に、神秘の更なる奥へと足を踏み入れていきましょう。

 

神の創造物である人間としての”わたし”。

神による創造の世界における人間という被造物として、対象としての神を信愛するという二元論者である”わたし”を超えて、

人間が到達した最高の叡智、アドヴァイタ(不二一元論)の世界に踏み込んで行きましょう。

 

そこに到達しなければ、完全に自由なる存在であられる「神」との合一はあり得ません。

 

求める者が、求めるモノであった、という自も他もない一元の世界への理解は、神の領域に入って行くには、絶対必要不可欠なのです。

 

それでなければ、私たちが、ヒツジ(人間)ではなく、ライオン(神)であった、と完全に悟るまでは、

私たちの人間としての顕れは、因果の法則に縛られた存在として、いままでと同様に、これからも続くことになるでしょう。

 

 

 

わたしも、君も、ここにいる全ての人々も

かつて存在しなかったことはなく

将来 存在しなくなることもない

始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ

(バガヴァッド・ギーター第2章12)

 

 

 

神の化身(アヴァターラ)

前回の記事で、聖ラーマクリシュナの「不滅の言葉」よりご紹介させて頂いた文章の中で、

『船が突然、磁石の岩に近づきます。

するとそれの鉄のねじ釘や鉄の棒は全部ひきよせられてぬけ出し、船板は突然、バラバラになって自由に海上にうかびます。

神の恩寵がこのようにしてたましいをしばっているねじくぎや棒をぬき、それが自由になるのです。

そのように、帰依(信仰)をたすけるこの放棄には、きびしさはなく、つめたさもなく、苦闘もなく、抑制も抑圧もありません。』

 

ということが起きるのは、本当です。

私も、それを体験した一人です。

 

そして、ナーナさんのサットサンガでは、そのような人が続出しています。

 

http://ameblo.jp/premagrace/ (すべては本質の流れのままに――サットサンガ参加者の体験談、感想)

 

それまで、何かに拘っていた執着心がすっかりと無くなったり、興味の対象が完全に変わったり、考え方や感じ方が変化し、そのことで周囲の人たちに良い影響が起きたり、人生の目的が変わってしまったり。。。

 

ナーナさんの恩寵の力により、自然に手放し、放棄が起こるので、何の苦痛もありませんし、抑制も抑圧も感じることはありません。

 

それは、サットサンガの参加者の感想文からも明らかです。

 

そこには、安心感、歓び、ワクワク感、満足感、幸福感などがあります。

 

意識の変容が、自然とスムーズに起こります。

本人は、恩寵の力に任せるだけで、『神の恩寵がこのようにしてたましいをしばっているねじくぎや棒をぬき、それが自由になるのです。』

 

これには、苦痛がありませんし、とても自然な形で起こるので、変容はゆっくりと進みますが、しかし、後退はありません。

後退があるとしたら、神よりもエゴの声である”自分の欲望”に従った時です。

 

今回も、昨日に引き続き、聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「バクティ・ヨーガ」から抜粋し、

今回は、神が有形の神となって現れた「神の化身」について詳しくご紹介したいと思います。

 

『神の御名の語られるところはどこであれ、その場所は神聖です。

彼の御名を語る人はそれにもましてどんなに神聖なことでしょう。

そして、われわれにむかって霊的真理をあたえるその人には、どれほどの尊敬をもってわれわれは近づくべきでありましょう!

霊的真理のこのように偉大な教師たちは、この世界では実にごく数すくないものです。

しかし、まったくいないというわけではありません。

彼らはつねに人生の、もっともうつくしい花々です。

「いかなる意図も持たない、慈悲の大海」、「グルを、私であると知れ」と、シュリー・クリシュナはバーガヴァタの中で言っています。

世界は、このような人びとを全部うばわれたらその瞬間におそろしい地獄となり、すみやかに破滅にむかうでしょう。

 

この世界で、すべての普通の人びとより高く尊いのがもう一組の教師たち、イシュワラ(創造神)の化身(アヴァターラ)たちです。

彼らはひとふれで、ただ思っただけでも、霊性をつたえることができます。

もっともひくい、もっとも堕落した人物が彼らの命令で、たちまち聖者になります。

彼らは教師たちの教師、人間による神の最高のあらわれです。

われわれは彼らを通してでなければ、神を見ることはできません。

われわれは彼らを礼拝せずにはいられないのです。

そして実に、彼らはわれわれが礼拝しなければならない唯一の人びとです。

 

誰も、このような人間としてのあらわれを通じてでなければ、ほんとうに神を見ることはできません。

もし他の方法で神を見ようとすると、われわれは自分たちのために彼の奇怪至極な漫画をつくり、その漫画を、本物よりもわるくない、と信じるのです。

大神シヴァの御像をつくってくれとたのまれて、何日もたいそう骨をおったすえに一匹のサルの像しかつくらなかった、という無知な男の話があります。

そのように、神の絶対に完全なすがたを心にえがこうとすればかならず、われわれは一様に、もっともみじめな失敗に直面するでしょう。

なぜなら人間であるかぎり、われわれは人間より高いものとして彼を考えることはできないのですから。

われわれが人間性を超越して、あるがままの神を知ることのできるときはくるでしょう。

しかし人である間は、彼を人の中に、そして人として、礼拝するほかはありません。

口では言うかもしれない、こころみるかもしれない、しかしみなさんは、人以外の者として神を思うことはできないのです。

神およびこの世のすべてのものについてりっぱな知的な講義をおこない、偉大な合理主義者となって心ゆくまで、人間である神の化身たちについてのこれらすべての報告は無意味である、ということを証明なさるかもしれない。

しかしちょっと、実用的な常識をはたらかせてみましょう。

この種のみごとな知性の背後には何がありますか。ゼロです、何もありません。

ただのあぶくです。このつぎに、誰かがこの化身の崇拝に反対する偉大な知的な講演をおこなっているのをきいたら、彼をつかまえてきいてごらんなさい。

神についての彼の考えを、「全能」とか「遍在」とか、それににたすべてのことばの、つづりをこえた意味を彼はどのように理解しているのかを。

彼は実はそれらのことばで何を言いあらわしているのでもありません。

それらの意味として、彼は自分の人間としての性質にはまったく影響されることなしに、どんな概念を形成することもできはしないのです。

この点で彼は、一冊の本を読んだこともない街頭の男と少しもちがいはしません。

しかしながら、街頭のその男はしずかであって社会の平安をみだすようなことはしませんが、このえらそうなしゃべり手は、人類の間に混乱と不幸をもたらします。

宗教は結局はさとりなのであり、われわれは、おしゃべりと直観的経験とを、もっともするどく見わけなければなりません。

自分のたましいのおくそこの深みで経験するのがさとりなのです。

ほんとうに、このことに関する常識ほど、世にゆきわたっていないものはありません。

 

われわれは、現在の体質によって、神を人の形でしか見ないようにさだめられているのです。

たとえば、もし水牛が神をおがみたいと思えば、自分の性質にあわせて彼を巨大な水牛として見るでしょう。

もし魚が神をおがみたいと思ったら、大きな魚としての彼を考えなければならないでしょう。

そして人は、彼を人と思わなければならないのです。

これらそれぞれの概念は、病的にはたらく想像力の産物なのではありません。

人も水牛も魚も、いわばさまざまの形のうつわのようなものだ、と思ったらよいでしょう。

これらすべてが神という海にゆき、それぞれの形と容量に応じて、海水にみたされるとします。

人の中では海水は人の形をとり、水牛の中では水牛の、魚の中では魚の形をとるでしょう。

それぞれのうつわをみたしているのはおなじ神の海の水です。

人びとが神を見るときには、彼らは彼を人として見ます。

そしてけものたちはもし、彼らが神を考えたとしたら、彼をけものとして見るにちがいありません。

各自がみずからの理想に応じて見るのです。

ですからわれわれは、神を人として見ないわけには行かず、したがって人としておがまないわけには行きません。

他に道はないのです。

 

神は人の弱点を理解しておられ、人類をしあわせにするために、人となられます。

「徳がおとろえ、悪がはびこるとき、私はみずからをあらわす。

徳を確立するために、悪をほろぼすために、よき人びとをすくうために私はユガ(時代)からユガへとやってくる」

「愚者たちは、宇宙の主である私の本性を知らないで、人の形をとっている私をあざける」

シュリー・クリシュナはギーターのなかで、化身についてこのように言明をしています。

バガヴァーン・シュリー・ラーマクリシュナはこう言っています、

「大きな上げ潮が来ると、小川やみぞは、自分で努力も意識もしないでふちまでいっぱいになる。

そのように、化身がくると、霊性の上げ潮がどっとおしよせ、人びとはほとんど空中いっぱいに、霊性を感じる」

バクティ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

ナーナさんから湧き出でるプラーナという磁石の力は強力です。

多くの人の執着心を抑え、無駄な思考や感情を消滅させます。

こうして、エゴは自然と大人しくなり、やがては、エゴの層は限りなく薄くなり、心は素直で柔和となり、真の自己がその真の姿を現すための準備が整います。

 

神の化身は、このような形で、至高の自己を悟る、という最高の神の恩寵を、それを心から求め、自らも喜んで準備をする人たちに授けるために、いまここにおいて、無私の心で働いて下さっているのです。

 

これは、神の恩寵の扉が開いている間だけのチャンスです。

ナーナさんのサットサンガへは、以下の公式ホームページよりお申し込みをすることができます。

 

いつか、と思っているならば、そのいつかは、永遠にやって来ないでしょう。

 

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――ナーナさんの公式ホームページ)

 

http://ameblo.jp/oneness-113/(突然私がアセンションした記録ーーナーナさんの変容のプロセスの記録)

 

 

宗教(ダルマ)が正しく実践されなくなった時

反宗教的な風潮が世にはびこった時

バラタ王の子孫 アルジュナ

わたしは何時何処(いつどこ)へでも現れる

(バガヴァッド・ギーター第4章7)

神への愛(パラー・バクティ)

前回ご紹介したラーマクリシュナのお言葉の中に、

”いちばん肝心なことは、神様に激しい信仰を持つこと。それから識別と離欲だ”という一文がありましたが、何故、そうなのか?ということを、ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「バクティ・ヨーガ」から抜粋してご紹介させて頂きます。

 

ナーナさんは、カルマ・ヨーガとバクティ・ヨーガは、比較的他のヨーガ(ラージャ・ヨーガやギャーナ・ヨーガなど)よりも、一般人が取り組みやすい行(ヨーガ)であり、

それ一つだけでも、十分に完成度の高い行(ヨーガ)であると仰っています。

 

ラーマクリシュナも、現代には、信仰(バクティ)のヨーガが一番楽である、と仰っています。

 

その理由は、以下の文の中に書かれています。

 

『私たちはいまや、準備段階のバクティとよぶべきものの考察をおわり、パラー・バクティすなわち最高の帰依(信仰、献身)の研究に入ろうとしています。

私たちは、このパラー・バクティの実践への一つの準備について語らなければなりません。

このような準備のすべては、たましいの浄化だけをめざすものです。

唱名、儀式、像およびシンボル、これらさまざまのものすべては、たましいの浄化のためにあるのです。

このようなものすべての中の最大の浄化者、それなしには誰もこのより高い帰依(パラー・バクティ)の領域には入れない、という浄化者は放棄です。

このことは多くの人をこわがらせます。

しかし、それなしには霊的成長はあり得ないのです。

われわれのヨーガのすべてに、この放棄は必要です。

放棄--これはすべての霊的文化のふみ石(足がかり)であり真の中心であり、真のハートです。

放棄--これが、宗教なのです。

人間のたましいが世間の事物からしりぞいてもっと深いものの中に入ろうとこころみるとき、人、つまりここにどういうわけか具体化され、物質化されている霊魂が、自分はそのためにいずれは破壊され、ほとんど単なる物質にまで還元されようとしているのだ、ということを理解して物質から顔をそむけるとき--そのときに放棄がはじまり、そのときに真の霊的成長が、はじまります。

カルマ・ヨギの放棄は、彼の活動の果実のすべてをすてる、という形をとります。

彼は自分のはたらきの結果に執着しません。

現世または来世におけるどんなむくいもあてにしません。

ラージャ・ヨギは、自然界の全部はたましいにとっては経験を得るためにあるのだ、ということを、そしてたましいのすべての経験の結果は、自分は自然からは永遠にはなれたものである、と知るようになることだ、ということを知っています。

人間のたましいは、自分は永遠にわたって物質ではなく霊だったのだということを、そして自分の物質との結合は一時的のものでしかあり得ないのだ、ということを理解し、自覚しなければなりません。

ラージャ・ヨギは放棄の教訓を、みずから自然を経験することによってまなぶのです。

ギャーナ(ジュナーナ)・ヨギは、すべての放棄の中のもっともきびしいものを、体験しなければなりません。

まさに最初から、この固体と見える自然界の全体はすべて一個のまぼろしである、とさとらなければならないのですから。

彼は、いかなる種類であれ自然の力のあらわれであるものはすべて、たましいに属し、自然には属さない、ということを理解しなければなりません。

彼はまさに出発のときから、すべての知識とすべての経験はたましいの中にある、自然界にはない、ということを知っていなければなりません。

ですから、彼はただちに、そして理性によるひたむきな確信をもって、自然のすべての束縛から自分をたち切らなければなりません。

彼は自然と彼女に属するすべてのものを、追放します。

彼はそれらを消滅させ、ひとりで立とうとつとめるのです。

すべての放棄の中で、もっとも自然であると言ってよいのは、バクティ・ヨギの放棄です。

ここには、すさまじさはありません。

何一つすてるものはないし、私たちからたち切らなければならない、というようなものもなく、私たちが力づくでそれから自分をはなさなければならない、というものもありません。

バクタの放棄はたやすく、スムーズにながれ、私たちをとりかこむ事物のように自然です。

私たちはこの種の放棄の表現を、多少漫画めいた形でではありますが、毎日自分のまわりに見ています。

ある男が一人の女を愛しはじめます。しばらくすると、彼は別の女を愛し、最初の女をすてます。

彼は彼女とわかれたことを少しもおしいとは感じず、彼女は彼の心からなめらかにしずかにきえてゆきます。

ある女が一人の男を愛します。彼女はそれから別の男を愛しはじめます。

すると最初の男はごく自然に、彼女の心からきえてゆきます。

ある男が自分のすむ町を愛します。やがて彼は自分の国を愛しはじめます。

すると、小さな自分の町に対する彼の熱烈な愛は、なめらかに自然に、きえます。

また、ある男が全世界を愛することをまなびます。

彼の自分の国への愛、彼の熱烈な、狂信的な愛国心は、少しも彼をきずつけることなく、少しもあらあらしい経過をたどることなしに脱落します。

ある教養のない男が、感覚的なたのしみを非常に愛します。

彼が教育され、しだいに教育が深まってくると、知的なたのしみを愛しはじめ、彼の感覚的な享楽はしだいにへってゆきます。

どんな人も、犬やオオカミのように夢中でうまそうにものをたべることはできません。しかし人が知的経験や成功から得るたのしみを、犬は決してたのしむことはできません。

はじめは、快楽はもっともひくい感覚にむすびついたものです。

しかし動物が存在のもっと高い段階に達すると、ひくい種類の快楽はそれほどつよくなくなります。

人間の社会では、人がけものに近ければ近いほど、彼の感覚のたのしみはつよく、人がもっと高く、教養がもっとゆたかであればあるほど、知的な、また他のそのような、もっと洗練されたいとなみによろこびを感じます。

そのようにして、人が知性の段階よりさらに高く、単なる思考の段階より高くのぼるとき、彼が霊性の段階、神的霊感の段階に達するときには、彼はそこに至福の境地を見い出します。

それに比べたらすべての感覚のたのしみは、いや知性のたのしみさえ、無にひとしいのです。

月が光かがやくと星々のすがたはかすかになります。

そして太陽がかがやくと、月そのものがかすかになります。

バクティを得るために必要な放棄は、決して何かをころすことによって得られるものではなく、ごく自然な形でやって来ます。

ちょうど、もっとつよい光の前ではよわい光はつぎつぎにかすかになってゆき、ついには全部がきえてしまうようなものです。

ですから、この感覚のたのしみや知性のよろこびへの愛はすべて、神ご自身への愛によって影がうすくなり、かげの方になげすえられてしまうのです。

神への愛は成長し、パラー・バクティ、すなわち至高の帰依(信仰)という形をとります。

もろもろの形はきえ、儀式はとんで行ってしまい、書物は見すてられます。

神像、寺院、教会、宗教や宗派、国や民族ーーこれらはすべての小さな限定や束縛はおのずから、神へのこの愛を知る人からはおちてしまいます。

彼をしばったり、彼の自由をさまたげたりするものは一つものこりません。

船が突然、磁石の岩に近づきます。

するとそれの鉄のねじ釘や鉄の棒は全部ひきよせられてぬけ出し、船板は突然、バラバラになって自由に海上にうかびます。

神の恩寵がこのようにしてたましいをしばっているねじくぎや棒をぬき、それが自由になるのです。

そのように、帰依(信仰)をたすけるこの放棄には、きびしさはなく、つめたさもなく、苦闘もなく、抑制も抑圧もありません。

バクタは、自分の感情のどれ一つをおさえる必要もなく、彼はただ、それらをつよくして神にむけるよう、努力するのです。』

バクティ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

神秘である神の領域に入って行くには、神を愛することが第一条件となることは、当たり前と言えば当たり前でしょう。

 

神社や教会で手を合わせたり、祈ったり、讃歌を歌ったり、儀式を行うよりも、放棄の方が、神への愛としては勝っている、ということになります。

 

この放棄とは、離欲とも通じます。

 

ラーマクリシュナの『いちばん肝心なことは、神様に激しい信仰を持つこと。それから識別と離欲だ』というお言葉の中で、

”識別”については、別の機会にご紹介することにして、

神の領域に入って行き、神に出会うためには、放棄、離欲、無執着、無私の心が、必要不可欠である、ということになります。

 

これは絶対的条件であり、この放棄のために、人生におけるあらゆる苦しみは起きている、とさえ言えるのです。

 

これについては、また別の機会に書くことにして、

神を愛する、ということは、神に出会っていくためには、とても重要な要素なので、

神への愛を抜きにしては、所謂、”解脱”は、不可能だと言えるでしょう。

 

 

 

 彼らは常にわたしを思い

生活のすべてをわたしに捧げる

常にわたしについて語り合い

啓発し合うことに無上の歓喜(よろこび)を味わう

(バガヴァッド・ギーター第10章9)

有形の神、無形の神

今回も、前回に引き続き、

パラー・バクティとは、どういうものか?

また、有形の神、無形の神について、

聖ラーマクリシュナの「不滅の言葉」より抜粋してご紹介いたします。

 

 

ラーマクリシュナ

「情熱的な信仰(バクティ)が持てたらーー恋い慕う気持ちの信仰だ。

そうすれば、あの御方もじっとしていられなくなる。

信仰は、あの御方にとってどんな喜びか

激情の信仰ーー純粋な信仰ーー無私の、報いを欲しがらない信仰だ。

あんたが、金持ちでしかも有力な男のところへ、何一つ欲しがりもせずに毎日行く。

その人に会うのが好きだからーー『何か、用か?』と訊かれたらこう答えるーー

『はい。何も欲しいものはありません。あなた様に会いに来ているだけです』

こういうのを無私の信仰、報いを求めない信仰というのだ。

あんたは神様に何も求めないーーただ好きになれ」

 

わたしに解脱はいりませぬ

清らかな信仰がほしいだけ

 

いちばん肝心なことは、神様に激しい信仰を持つこと。それから識別と離欲だ」

 

「せんせい、師匠(グル)につかなくてはどうにもならぬものでしょうか?」

 

ラーマクリシュナ

「サット・チット・アーナンダ(実在、智慧、至福)が師匠なんだよ。

死骸を見る修行をして、いよいよイスト(信者の理想とする神の姿)を見る段になると、グルが目のまえに来てこう言う。

『見よ、汝のイストなり』--そのあと、グルとイストは溶け合ってしまう。

グルであるものがイストなのだ。グルは糸口をつかんで下さる。

無限者に敬礼するという。だが、実際にはビシュヌを拝んでいるのだ。

あの御方のなかに、神の無限の形があるんだよ!」

「どんな(神)姿を考えたらいいかと言えば、自分の一番好きな姿を想って瞑想すればいいんだよ。

けれども、どれも皆、一つのものだということを、よーっく心得ておけ。

神のどんな姿に対しても、妬んだり憎んだりしてはいけない。

シヴァ、カーリー、ハリ、みんな一つの神がいろいろな姿をなさっているのだぞ。

一を悟ったものこそ幸いだ。」

 

「どんなふうにしたら、神をつかむことができるのですか?」

 

ラーマクリシュナ

「今言った信仰によってだ。だた、あの御方に圧力をかけなけりゃいけない。

会ってくれないなら喉をナイフで切れーーという位に、

こういうのを信仰のタマス性というのだ」

 

「神は見ることができるのですか?」

 

ラーマクリシュナ

「ああ、もちろん見えるともさ。

形なき神も、形ある神も、両方とも見える。

形ある神ーーつまり、霊の姿を見ることができる。

また、人間の姿をした神を直に見たり、触れたりすることもできる。

神の化身(アヴァタラ)を見ることは、神そのものを見ることと同じだ。

神様はその時代、その時代に、人間の姿に化身してお生まれになる」

 

「神には形がある、とばかり言っていてもだめだよ。

あの御方は、聖クリシュナの場合のように人間の体をとって現れる、というのも真実だ。

いろんな姿で信者たちに会ってくださる、これも真実だ。

それから、あの御方は無相無性で完全円満なサット・チット・アーナンダ、これも真実だ。

あの御方は有形無形の両方であり、無性であって同時に一切性である、とヴェーダでは言っている。

どういうことか、わかるかい?

サット・チット・アーナンダは無限の大海のようなものだ。

寒さが海の水を凍らせて、いろんな形の氷が海に漂っている。

それと同じように、信仰の力がサット・チット・アーナンダの海に形ある神を見ているのだよ。

形ある神は信仰者のために現れている。

そして、智慧の太陽がのぼると氷はとけて元通りの水になる。

下も上も全部が水また水。

だからシュリーマッド・バーガヴァタにはこんな讃歌があるよーー

”主よ、御身こそ形ある神、御身こそ形なき神。

われらの前に人となりて歩きたまえど、御身こそ、言葉と心を超えたるものとヴェーダは語る”

しかしまた、ある種の信仰者たちにとっては、あの御方は永遠に変わらぬ姿をした神だ、ということも出来る。

無限の海には、決して氷がとける時のない場所もあるからね。

そこでは氷が水晶みたいになっているんだよ」

「神は有形でも無形でもある。

またその上、有形無形を超越したものだ。

あの御方はコレだ、ときめつけることはできない」

 

おお、宇宙の主よ! 

我が弱さゆえの 三つの罪科を赦したまえ

あなたは形なき御方 にもかかわらず 我 あなたの姿形を瞑想せり

あなたは言葉を超えた御方 にもかかわらず 我 あなたを讃美する歌をうたえり

あなたはすべてに遍在する御方 にもかかわらず 我 あなたを慕いて聖地を巡礼せり

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より) 

 

 

 

クンティーの息子よ 他の神々の信者で

真心こめて清らかな気持ちで信仰する者たちは

実はわたしを拝んでいるのである

正しい方法ではないけれどもーー

(バガヴァッド・ギーター第9章23)