永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(3)

前回と前前回の記事では、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集より、「見神」(所謂、「悟り」)の準備段階においては、感覚の制御という点から、「食物の識別、選択」が、非常に重要であるということ、また、そのための具体的な実践方法について、詳しくご紹介いたしました。

 

小さなモノも、積み重ねていくと、大きなモノとなります。

 

日々のちょっとした実践であっても、諦めずに続けていくと、やがて、人生の流れを大きく変えるきっかけとなることでしょう。

 

それは、実践した者のみが、手にすることができる果としての結実なのです。

 

今回は、同じく、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺された遺稿集から、「バクティ(神を信愛する)とはどういうことか?」ということを、具体的に説明している部分をご紹介させて頂きます。

 

 

バクティは2つの部分に分かれている。

ひとつはヴァイデイと呼ばれ、形式的、儀式的なものだ。

もうひとつはムクヤと呼ばれ、最高のものだ。

バクティという言葉は礼拝の最低の形式から最高の形式まで、すべての領域を含んでいる。

世界中のあらゆる国、あらゆる宗教でみられる礼拝はすべて愛というもので順序づけられている。

単なる儀式であるものも数多くある。

儀式ではないけれども、まだ愛ではない、低い段階にあるものもある。

それでもこれらの儀式は必要だ。

バクティのこの外的な部分は魂の前進を助けるために絶対必要だ。

自分が最高の状態まで一跳びで到達できると考えているとしたら、大きな間違いだ。

そして、私は、あなたがたが、宗教は書物の中にも、知的に同意することの中にも、推理の中にもないという考えをつねに心に抱いていただきたいと思う。

推理、理論、教義、信条、書物、宗教的な儀式はすべて宗教に至る補助に過ぎない。

宗教そのものは悟りから成り立っている。

私たちはみな「神はいます」という。

あなたがたは神を見たことがあるのか。

これが問題なのだ。

ある人が「神は天にいます」というのを聞く。

あなたがたは、彼が神を見たかと尋ねる。

もし見たといったら、あなたがたは笑って、彼は気違いだというだろう。

大部分の人の場合、宗教はある種の知的な同意か、教義以上のものではない。

私は今まで一度もこのような宗教を説いたことはないし、それを宗教と呼ぶこともないだろう。

この種の宗教を持つよりは無神論者でいる方がましだ。

宗教は知的な同意とかには依存しない。

あなたがたは魂はあるという。

魂を見たことがあるか。

私たちはみな魂を持ち、それを見たことがないというのはどういうことなのか。

あなたがたはこの質問に答えなければならないし、魂を見る方法を発見しなければならない。

もしできなければ、宗教について話すことは無駄だ。

もし、何かの宗教が真実だとしたら、それは私たちに魂を示し、私たちの中にある神と真理を示すことができなければならない。

もし、私とあなたがたがこれらの教義や信条について永久に争ったとしても、決して何らかの結論に達することはないだろう。

人びとは長年このように闘ってきたが、結果はどうか。

知性は決してそこに到達することはない。

私たちは知性を超えていかなければならないのだ。

宗教の証明は直観の中にある。

壁の証明は私たちがそれを見ることにある。

もし、私たちがすわり込んで、その壁の存在や非存在について長年にわたって議論したとしても、何かの結論に到達することはない。

しかし、直接壁を見れば、それで十分だ。

世界中の人がみなそんなものは存在しないといったとしても、あなたがたは彼らを信じないだろう。

あなたがた自身の眼の証拠が、世界中のすべての教義や信条の証拠よりも勝っているということをあなたがたは知っているからだ。

宗教的になるためには、書物をまず船から捨てなければならない。

書物を読まなければ読まないほどよい。

一時に一事だけをせよ。

現代にあっては、西洋諸国では脳みそのごったまぜを作ることがはやっている。

あらゆる種類の不消化の観念が脳の中を暴れまわり、混沌を生じ、落ち着いてハッキリした形を形成する機会を持つことができないでいる。

多くの場合、それは一種の病気にはなるが、宗教ではまったくない。

そこで、中には神経的な感覚を求める人びともいる。

彼らに、見えない状態で存在し、彼らを見張っている幽霊とか、北極や、ほかのどこか遠いところからやってくる、羽を持ったり、グロテスクな格好をした人びとについて語り、彼らをぞっとさせたら、彼らは満足して家に帰るだろう。

しかし、24時間もたたないうちに、また新しい感覚を受け入れる準備をしているだろう。

ある人びとが宗教と呼んでいるのはこれだ。

これは精神病院に通じる道で、宗教に通じる道ではない。

あなたがたが1世紀もこの道を歩み続ければ、この国は巨大な精神病院と化するだろう。

弱虫は主に到達することはできない。

そして、このぞっとさせるようなものは弱さに通じるものだ。

したがってこのようなものには、一指たりとも触れてはいけない。

それらは、人を弱くし、脳をかき乱し、心を弱め、魂を堕落させ、そして、救いようもない混乱をその結果としてもたらすだけだ。

あなたがたは、宗教が、お喋りや、教義や、本の中にあるのではなく、悟りの中にあるということを銘記しなければならない。

それは、知ることではなく、在ることだ。

「盗むな」はみな知っている。

だが、それがどうだというのだ。

盗まなかったひとが、それを本当に知ったのだ。

「人を害してはならない」ということはみな知っている。

だが、それに何の価値があるのか。

害しなかった人がそれを悟ったのだ。

彼らはそれを知り、その上に彼らの性格を築いたのだ。

だから、私たちは宗教を悟らなければならない。

そして、宗教のこの悟りは長い道のりだ。

人びとは、何か非常に高級ですばらしいものことを聞くと、みな、それがすぐに得られるものだと思いこみ、その高みに至るまで、努力して徐々に進まなければならないということを考えるために、一瞬たりとも立ち止まろうとはしない。

彼らはみなそこまで跳び上がりたがるのだ。

もしそれが最高のものだとしたら、私たちこそそれにふさわしいと思う。

私たちは、自分たちが力を持っているかどうかを考えるために立ち止まろうとは決してしない。

その結果は、私たちは何もしないということだ。

あなたがたはくま手に人を乗せて、そこまで押し上げてやることはできない。

私たちは皆少しずつやりとげてゆかなければならないのだ。

したがって、宗教の最初の部分はこのヴァイディ・ヴァクティ信仰の低い段階だ。

信仰のこれらの低い段階とは何か。

それらが何であるかを説明する前に、私はひとつの質問をしたいと思う。

あなたがたは皆、神がいます、そして、神は遍在する実在だという。

しかし、あなたがたの遍在という観念は何なのか。

答えとして、あなたがたは、眼を閉じて、それがどのようなものであるかをいうだけに過ぎない。

そして、あなたがたは何を見いだすか。

あなたがたは、それまでに見たことのある、海とか、青空とか、草原の拡がりのようなものを思い浮かべるだろう。

もしそうだとしたら、あなたがたは「遍在する神」によって、何の意味のあることも言ってはいない。

あなたがたにとって、それはまったく何の意味もない。

神の他の属性についても同じことだ。

一般的に、全能とか全知について、私たちはどのような観念をもっているだろうか。

何も持っていない。

宗教とは悟ることだ。

そして、あなたがたが神の観念を悟ることができたとき、私はあなたがたを神の礼拝者と呼ぼう。

それまでは、あなたがたが知っているのは言葉のスペリングだけで、それ以上のものではない。

そして、私たちが悟ることのできる、この状態に到達するために、具体的なものを通らなければならない。

ちょうど、子供たちがまず具体的なものから出発し、それから徐々に抽象的なものに進むように。

もし、赤ん坊に5かける2は10を教えたとしても、理解できないだろう。

でも、10個のものでどうして5かける2は10なのかを見せてやれば、赤ん坊は理解するだろう。

それは、ゆっくりとした、長い過程だ。

私たちはここではみな赤ん坊だ。

私たちは年をとっていて、世界中の本を勉強したかもしれない。

しかし、この霊性の領域ではみな赤ん坊だ。

宗教を宗教とするのはこの悟りの力だ。

教養や、哲学や、論理学説をいくらたくさん頭に詰め込もうと、たいして問題にはならない。

問題になるのは、あなたが何であるか。

何を悟ったかということだけだ。』

(最高の愛 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

時に、これらの言葉は、とても厳しく聞こえるかもしれませんが、その根底には、私たちを真の救済に導こうとする師(グル)の深い愛があることを感じます。

 

その道は、けっして平坦な道ではありませんが、それでも、敢えてその道を辿ろうと決めた人びとにとっては、その道を歩んでいくことは、けっして不可能ということはありません。

 

そのために、神は師(グル)という形で、この世に出現して下さっています。

 

その存在は、私たち探求者の心を照らして下さる光であり、神の恩寵そのものなのです。

 

 この事実を信じることのできる人、この神の恩寵に素直に与れる人は、迷うことなく、真直ぐに、導かれることになるので、探求者にとっては、道の短縮に繋がるでしょう。

 

 

 

至上者(わたし)に対する不動の信仰

世俗を離れ 静かな処に独居する希望

一般大衆 俗世間の人々と

無益な交際をしないこと

 

自己の本性を知る(さとる)ことの重要さを認識すること

絶対真理への探究心ーー

以上のことは智慧の本質であり

これに反することは無知無明である

(バガヴァッド・ギーター第13章11ー12)

 

 

 

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