永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

チャクラについて(14)-アジナー・チャクラ(第6チャクラ) 意識と無意識

ここ数回にわたって、第6チャクラのアジナー・チャクラについて理解を深めるために、

アジナー・チャクラが位置する「脳」についての、これまでの常識を覆すような最新の脳科学のトピックをご紹介してきました。

 

それは、「人間」、または、個人である「わたし」に対する、これまでの人生で「常識」として取り込んできてしまった根拠のない強固なまでの思い込みを手放すためです。

 

いままで当たり前だと思い込んでいたことに「待った!」をかけることで、思考が柔軟になり、新しい世界観も受け入れやすくなることでしょう。

 

脳内に新しい回路が作られると、世界の捉え方が変化しますが、それは意識の変容につながっていく可能性を秘めています。

 

それでは、今回は、「意識」と「無意識」、そして「感情」について見ていきましょう。

 

 

『さきほど、言葉は<意識>の典型例だと話をしたね。

まあ、たしかに意識だろう。

でも、「どこまで自由な意志によって言葉が発せられているか」という点は、どう思う?

言葉は<自由に選べる>って言ったよね。

たとえば、何かに感動したとき、きみらは「すげぇ!」と言ったり、「マジかよ」と言ったり、いろいろな言い方があり得るでしょう。

選べるよね。

でも、自由に選べるけれども、よく考えたらどう?

感動したときに「すげぇ!」と出て来るのは意識?

いろいろと可能な表現方法をあれこれ比較して、「よし、今回は「すげぇ!」を選択して表現しよう」と堅実に推敲してから発話している?

まさか、そんなことはないよね。

ほぼ、無意識に「すげぇ!」と言っているよね。

いろいろな選択があるにもかかわらず、ほとんどの場合は無意識に発声している。

いま実際に僕はこうして君らの前に立ってベラベラとしゃべっているけれども、話言葉には一秒間にだいたい2文字から5文字ぐらい入っているらしい。

これをいちいち、次は<つ>という発音だ、その次は<ぎ>だなどと考えていたら、こんなふうにスラスラしゃべれるはずがない。

となると、僕はさきほど「言葉は自由意志の表れだ」と言ったけれども、必ずしもすべてが意識でコントロールされているとは言いがたい。

むしろ、「反射」に近い部分もある。

そうすると、人間にとってもっとも象徴的な高次機能<意識>を生み出す泉だと思われている「言葉」ですら、その多くの部分では意識ではないのではないか、となってくる。

言葉でさえそうなのだから、ほかの機能はもっと意識から遠い(つまり反射や無意識である)ことになる。

もう一度改めて質問しよう。

人間の行動のなかでどこまでが意識かな。

悲しいから涙が出てくる、これは明らかに無意識だね。

まあ、がんばれば涙を止めることはできるかもしれないけども、基本的には無意識だ。

僕らは風呂からあがったら服を着るね。

ボタンをはめる。

これもボタンをはめようと思ってはめているかもしれないけど、ほかのことを考えていても、ほかの人とおしゃべりしながらでもボタンをはめられる。

手はほぼ無意識に動いている。

歩くときも、歩き方をいちいち考えてないでしょ。

右足を出しながら同時に左腕を出して、そして次に・・・など意識せずに歩くことができる。

最初に「歩こう」という意志はあったかもしれないけれど、歩き始めてしまえばほとんど無意識だよね。

そう考えると、人間の行動のなかで、どこまでが意識なんだろう。

恋愛なんかはどうだろう?

たとえば人を好きになってしまうのはコントロールできる?

だって、きみの前に女の子をひとり連れてきて、「その人のことを好きになれ」と強引に命令されたって、無理なものは無理だし、逆に好きになてしまったらそれでしかたがないでしょ。

世間では<恋>というものは人間の行動ではとりわけ崇高なものとして扱われていて、古今多くの人が詩に書いたり、絵を描いたりと、幻術の対象にしてきた。

その「恋愛」ですら、おそらく意識のたまものではない。

たとえば、付き合っている彼女に「私のどこが好きなの?」「なんで好きなの?」と訊かれても答えられるわけがない。

だって無意識なんだからさ。

「ただ、なんとなく」と答えるしかない。

これをもっともっと突き詰めた究極の実験があるので、それを最後に紹介したい。

 

意識を測定するためには、人を椅子に座らせて、ボタンを与えて、「好きなときにボタンを押してください」という実験ができるね。

つまり、ボタンを押そうとしているときの脳の活動を測ればいい。

好きなときにボタンを押すのだから、これは明らかに自由意志でしょ?

だから、普通に考えると「ボタンを押そう」という意識が現れて、それから脳が手を動かす準備を始めて、いよいよ「ボタンを押す」という行為が始動すると予想できるよね。

研究者のだれもが実際にそう思ったの。

ところが、答えは違ったんだ。

「好きなときにボタンを押す」という、もっとも単純な行動の仕組みは、なんと自由意志の存在に疑いをはさむものだった。

脳波をモニターしながら脳の活動を調べると、なんと、先に「運動前野」という運動をプログラムするところが活動し始めて、それから一秒ほども経ってから、「動かそう」という意識が現れたんだ。

つまり、脳のほうが先に動き始めようとしてたってことだ。

 

→ その「動かそう」と思ったのは無意識なんですか。

 

ということになるよね。

だって、「動かそう」と思った瞬間には、もうとっくに動く準備を脳は始めていたのだから。

この実験はもっともシンプルだよね、「好きなときに押せ」というんだから、これ以上単純な意識の実験はありえない。

そんな行動ですらもなんと無意識にスタートしている。

「動かそう」と脳が準備を始めてから、「動かそう」という<意図>が生まれる。

あ、厳密にいえば、「動かそう」ではなくて「『動かそう』と自分では思っている」クオリアだ。

だって、体を自分の意識でコントロールしているつもりになっているだけで、実際には違うのだから。

つまり、自由意志とは、じつのところ潜在意識の奴隷にすぎないんだ。

こんな事実から、意識は脳の活動を決めているものではなくて、脳の活動の副産物にほかならないことがわかる。

「動かそう」という意図がまず生まれて、それで体が動いてボタンを押すのではなくて、まずは無意識のうちに神経が活動し始めて、その無意識の神経活動が手の運動を促して「ボタンを押す」という行動を生み出すとともに、その一方で意識、つまり「押そう」という感覚を脳に生み出しているというわけだ。

 

もっとも原始的な感情はおそらく「恐怖」。

「恐怖」とは、動物の脳のなかに古くから存在しただろう。

「喜び」や「悲しみ」よりも「恐怖」のほうが起源が古い。

理由はわかるよね。

動物は危険なものを避けなければいけない。

それは生死にかかわる重要な問題だ。

だからこそ、動物は「恐怖」という感情を進化の過程で最初につくり上げた。

「恐怖」を生み出すのは「扁桃体」という脳の場所。

つまり扁桃体は、以前にこわい体験をした場所には行かない、危険な行動は避けるという記憶を脳に植えつけるために重要だ。

その記憶をもとに動物は次回からは危険を回避する。

生物の後天的な行動プログラムの多くはこのパターンでできている。

 

重要なことはここからだ。

扁桃体が活動すれば危険を回避できる。

でも、扁桃体の活動には「こわい」という感情は入っていない。

扁桃体そのものは感情とは直接の関係はない。

感情そのものは別の脳の経路で生まれるようなんだ。

扁桃体が活動して、その情報が何らかの形で大脳皮質に送られると、そこではじめて「こわい」という意識にあがる感情が生まれる。

ここら辺はややこしいから、もう一回言うね。

扁桃体が活動するとたしかに恐怖反応が生まれる。

心拍があがったり、汗が出たり、ふるえたりとね。

でも、「こわい」という感情は扁桃体ではなくて大脳皮質で生まれる。

でも、扁桃体はこれとは別に、記憶力を促進したり、メモリを強固にしたりという影響力を持っている。

だから、扁桃体を刺激すると、その瞬間の記憶の素子は強まる。

それと同時に「こわい」という感情が別経路で生まれる。

つまり結論はこうだ。

動物は「こわいから避ける」ではなくて、「こわい」かどうかとは無関係に、単に扁桃体が活動したから避けている。

この違いはわかるかな。

前回の講義の質問に答えて言うと、「悲しいという感情を引き起こすような神経を刺激すると涙が出るのか?」というのは、科学的な説明としては間違いで、おそらく「悲しみ」を感じさせる<源>になる神経細胞がきっとあるんだろう。

そこが活動すると「涙が出る」という脳部位に情報が送られる。

でも、その涙の経路と「悲しい」という感情自体はたぶん直接の関係はない。

つまり、悲しみが涙を誘発しているというのは、ちょっとニュアンスが違う。

悲しみとは感情にすぎないんだ。

つまり、神経の活動の<副産物>でしかない。

もっと言ってしまおう。

感情とは<抽象的なもの>だよね。

「こわい」とか「悲しい」は、抽象そのものだ。

今日の講義のテーマでもあったけれども、<抽象的なもの>は言葉が生み出したものだったね。

たぶん、感情やクオリアもまた言葉によって生み出された幻影なんだと思う。

なぜならクオリア感じているという状況は一種の二元論だからだ。

「感じている」と自分でわかっているということ自体が、「感じている自分」を客観視している一階層上の自分の存在を前提としている。

そうした自己繰り込みは言葉があるから可能な一種の幻影だ。

ここで言う、幻影とは<実在しない>って意味じゃないよ。

クオリアはたしかに存在する。

幻覚や夢と同じ。

幻覚や夢は実在するでしょ。

夢の存在を否定する人はいないよね。

みんなも見たことあるでしょ。

夢という<視覚体験>は脳のなかに存在するんだ。

それと同じことで、感情やクオリアは明らかに存在する。

でも、喜びや悲しみは言葉の幽霊なんだろうね。

あれ、みんな静かになっちゃったけど、大丈夫かな。』

(進化しすぎた脳  池谷裕二

 

 

脳科学の本であるにも拘わらず、スピリチュアル的にも、非常に深いことを示唆していますね。

 

前回の記事の内容をも踏まえて言うならば、私たち人間は、この世界を経験していますが、

実は、厳密に言うならば、「この世界を経験している<わたし>を客観視(経験)している」と言えるかと思います。

 

それが、自我意識である「認識する自己(自我)」の正体と言えるでしょう。

 

私たちは、自我意識が自分自身を感じているからこそ、「悲しい」とか「楽しい」という感情が、自分に沸き起こっていることを認識できるのです。

 

自我意識が自分自身を常に客観視し、モニターしているのですが、それは無意識、自動反応として起こっているので、

意識しないと、そのことを自分自身(自我意識)では気づけないのです。

 

この自動反応に気付けるようになるために、「瞑想」という心を静め、自分の内側を探る自動反応ではない自発的で意識的な訓練がとても有効だということは、言うまでもありません。

 

「意識」の問題は、とても重要なので、後日、また詳しく見ていきたいと思います。

 

 

 

 

肉体をまとった魂は 禁欲しても

経験してきた味わいを記憶している

だが より上質なものを味わうことにより

その記憶も消滅するのだ

(バガヴァッド・ギーター第2章59)