ヨーガの叡智(シュリー・ヴィッディヤー)
前回の記事で、「経験(直接体験)を通してのみ、真理は悟られる」ということを、多くの聖者と呼ばれている人びとが、口を揃えておっしゃっている、とご紹介しました。
このことは、ナーナさんも、いつも仰っていることで、そのために活動されていることもお伝えしました。
解脱、もしくは、束縛から解放された自由な存在となるには、頭の理解(本などの情報から得た知識)だけでは達成は不可能で、体験が必要であることに、私たちは心の中では、薄々気付いています。
ですから、巷では、「一瞥体験」などという一瞬の体験をした人たちが、自称「覚者」を名乗って、セミナーや講演会を開催したりして、多くの人々の称賛を受け、中には有名になる人も出てくる、という一種の英雄扱いのような現象が起きてしまうのです。
ですから、彼らは勘違いをしているのですが、それは羨望する側の人間がいるからであって、この現象にも、需要と供給の原理が働いている、と見ることができます。
確かに一瞬であっても、真理を垣間見るという体験が、彼らにそのような行動を取らせる動機となっているわけですから、嘘を語っている訳ではありませんが、一瞬垣間見た風景は、神の領域の全風景とは断言できないでしょう。
一瞥とは、”ほんの一瞬垣間見た”という意味なのですから。
そして、それが実際に、彼らに起きたとしても、何故、どうして起きたのか?を全く把握していないので、再現することができない場合が多いのです。
ナーナさんにおいては、けっしてそのようなことありません。
彼女は、何故、どうしてソレが起きたのか?を、よくよく把握しており、再現することが可能で、よって、人にソレを起こさせることができるのです。
これは、一瞥体験をしただけの人には不可能ですが、彼女は、一瞥体験などではなく、完全に自己が消滅して、”ただひとつ”に帰入してしまい、そして、再びソコから戻って来て下さったので、どうしたらソコに到ることができるのか?を完全に理解しており、それ故、他人をソコに導くことができるのです。
もし、私がそのような体験をしていなければ、これらの言葉は無意味ですし、もっと厳しい見方をするなら、嘘、虚偽ということになり、何よりも自分を欺いていることになるでしょう。
しかし、こんな嘘を書いても、何にもならないことを知っているので、敢えて、時間を割いてまで、このような記事を書くことに、エネルギーを注ぐようなことはしないでしょう。
ナーナさんが、サットサンガ、及びシャクティパータで教えて下さろうとしているのは、インドでは、シュリー・ヴィッディヤーと呼ばれる、ヨーガの中でも、”最高の叡智”とされている科学的で客観的な事実を通して、究極の真理に到ろうとする道(ヨーガ)です。
このヨーガ(行)が示す智慧は、ヨーガにおける「人体」についての深い理解が必要です。
この理解があれば、ナーナさんがされているシャクティパータの重要性と有効性、そして、それが何を意味することなのか?ということが、直ぐに理解できることでしょう。
そうでなければ、「猫に小判」「豚に真珠」ということになります。
これまで、カルマ・ヨーガ(献身奉仕の道)、バクティ・ヨーガ(信愛の道)、そしてギャーナ・ヨーガ(智識の道)をご紹介してきましたが、
これからご紹介するのは、ラージャ・ヨーガと呼ばれる”ヨーガの科学”とも言うべき肉体と心という”自然”を通して得られる叡智に関するもので、非常に理解するのが難しいとされているものです。
ですから、ナーナさんが、何気なくされていることが、一般人には全く理解できないので、その価値も正当な評価がされず、「宝の持ち腐れ」になっています。
カルマ・ヨーガでも、バクティ・ヨーガでも、ましてやギャーナ・ヨーガでも、自力で究極のゴールに到達しようとすることは、現代の日本で暮らす一般人には、時間的にみても、不可能と言っても過言ではないでしょう。
(それは、教えて下さる師がいませんし、それらを学ぶ環境が整っていないからです)
神は、そのことをよくご存知なので、シャクティパータという恩寵の形で、私たちに救いの手を差し伸べて下さったのだと、考えることができます。
それでは、ラージャ・ヨーガが指し示す智慧と、シュリー・ヴィッディヤーの叡智について、聖ラーマクリシュナが簡単に説明して下さっているお言葉がありますので、ご紹介させて頂きます。
『この人はいま、六つのチャクラの歌を唄ったね。
あれはヨーガの話なんだよ。
ハタ・ヨーガとラージャ・ヨーガというのがある。
ハタ・ヨーギは体のあちこちを一生懸命鍛錬する。
その目的は超自然力を得たり、長生きをしたり、神通力を身につけたり--こういうことが目的なのだ。
ラージャ・ヨーガの目的は信仰、愛、智慧、離欲ーーラージャ・ヨーガはいいね。
ヴェーダーンタで言う七住地と、ヨーガスートラの六チャクラは大そうよく似ている。
ヴェーダの最初の三住地は、あっちのムラダーラ、スワディスターナ、マニプーラにあたる。
この三つの住地では、肛門と生殖器とへそが心の住地だ。
心が第四の住地に上がると、つまり、アナハタの蓮にとどくと、個霊に炎のようなものが見え、次に光が見えてくる。
修行者は、『何だろう!これは何だろう!』と言って驚く。
五番目の住地に心が上がると、ただもう神についての話ばかり聞きたくなる。
ここがヴィシュッダ・チャクラだ。
第六の住地とアジナー・チャクラは同じだ。
ここに心が上がると神様にお会いできる。
だが、ランタンの中の光のようなもので、触れることはできない。
間にガラスの幕があるからね。
ジャナカ王は第五の住地に心をおいて、そこからブラフマンの智慧を人に教えなすった。
あの方は、時には第五住地に住んでいらっしゃったり、時々、第六住地に上がっていらっしゃったりしていた。
六つのチャクラをたどって、最後が第七住地だ。
心がそこへ行くと心そのものが消えてしまう。
個霊と至高霊が一体となって三昧に入る。
肉体感覚はなくなるよ。
外界は消え去って虚空となる。
いろいろな智識はなくなって考えることもできなくなる。
トライランガ・スワミは言っている--「分別するから多くのものがあると感じ、様々な感じ方がある。
三昧に入れば、21日たつと肉体は滅する』と。
とにかく、クンダリニーが目覚めなければ霊意識は起こってこないんだ!」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著 より)
ナーナさんが、シャクティプラーナを使って明らかにして下さるのは、スシュムナー、ナディ、クンダリニー、チャクラ、などという、日本人には、いえ、ヨーガの知識のない世界の一般市民にとっても、聞き慣れない言葉で表現される「人体の構造図」です。
それが、ラージャ・ヨーガ、および、シュリー・ヴィッディヤーの叡智なのです。
この叡智について、微力ながら、体験を通してわかったことを、次回から少しずつ解説していきたいと思います。
魂にとっては誕生もなく死もなく
元初より存在して永遠に在りつづけ
肉体は殺され朽ち滅びるとも
かれは住在にして不壊不滅である
(バガヴァッド・ギーター第2章20)