永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(55)ヨーガ③
今回も、前回に続き、「ヨーガ」についてご紹介します。
「ヨーガ」(合一)とは、「ヴィヨーガ」(分離)が前提となっていることは、すでにお伝えしました。
何からの分離か?ということを理解していないと、「ヨーガ」(合一)の最終目標を見誤る恐れがあるという指摘もご紹介しました。
それは、何度もお伝えしていますように、ヨーガにおいては、「分離」(ヴィヨーガ)とは、被造物である「私」と創造主である「神」との「分離」(ヴィヨーガ)を指しています。
この「分離」についてですが、更にわかりやすく表現するならば、自分自身が、紛れもなく「神である(”神”と”私”は分離せず、同一である)」という理解や確信を持っているか、ということが、試金石となります。
それがなければ、それは、「神」と「私」との間の「分離感」は、消滅したことがない、或いは、消滅していない、という「ヴィヨーガ」(分離)の状態にあることを意味し、それは、同時に、「ヨーガ」(合一)の可能性や必然性が潜在している、ということを意味していることになるのです。
意識していなくとも、多くの人は、「ヴィヨーガ」(分離)の状態にあります。
ヨーガの世界では、「神と自分は、分離せず、”一つ”である」という理解(アドヴァイタ=非二元)は、「真我の智識」(Atman Jnana)、或いは、「ブラフマンの智識」(Brahma Jnana)と呼ばれており、その完全なる理解が、ヨーガの最終的な目的、目標とされています。
このことを踏まえた上で、今も尚、多くの示唆に富む言葉で、これまでに世界中の人々に多くのインスピレーションを与え、「グル」(指導者)として仰がれた彼らが、ヴィヨーガ」(分離)から「ヨーガ」(合一)へと向かう途上にいる探究者に遺された数々の有益なヒントに満ちた御言葉をご紹介したいと思います。
前回の続きですが、最初は、Swami Sivanandaの「Bliss Divine」から、次は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの講演集「ラージャ・ヨーガ」から、最後は、ラマナ・マハルシの質問者への回答から、「ヨーガ」についてです。
Benefits of Yoga Practice(ヨーガの実践の恩恵)
今日の生活は、ストレスと緊張、神経の苛立ち、熱情と慌ただしさで満ちている。
もし、人が少しでもヨーガの初歩的な訓練を実践するならば、彼は複雑な存在と上手くやって行く能力を、はるかにより良く養えるだろう。
ヨーガは、完全性、平和、そして持続する幸福をもたらす。
あなたは、ヨーガの実践により、いつでも心の穏やかさを持つことができる。
あなたは、安らかな眠りにつくことができる。
あなたは、エネルギー、活力、生命力、寿命、そして高水準の健康を増進することができる。
あなたは、短い期間に、効率的な仕事をなすことができる。
あなたは、人生のすべての歩みで、成功することができる。
ヨーガは、あなたに、新しい力、自信、独立心を吹き込む。
体と心は、あなたの言いなりになるだろう。
ヨーガは、あなたの感情を制御された状態にする。
それは、仕事中あなたの集中力を増強する。
ヨーガの訓練は、平静や落ち着きを与え、奇跡的に人生を建て直す。
ヨーガ的な生活方法は、人の理解を深め、人に、神や人間と神との関係を知らしめる。
ヨーガは、無知から智慧へ、弱さから力強さへ、不調和から調和へ、憎しみから愛へ、欠乏から満足へ、有限から無限へ、分離から単一へ、不完全から完全へと至る。
ヨーガは、哀しむ人や惨めな人には希望を、弱い人には力を、病気の人には健康を、無知な人には智慧を与える。
ヨーガ的な訓練を通して、心、体、そして話す器官は調和して一緒に働く。
ヨーガ実践者にとって、新しい前途、新しい健康、新しい気づき、新しい哲学が流れ込み、活き活きと彼の人生を変容させる。
力への切望、物質的な貪欲、官能的な興奮、利己心、富への情熱、低い欲望は、霊性において彼の真の人生から物質的な人生へと人を引き寄せる。
もし彼が、真剣にヨーガの原則を実践するならば、彼は、彼の失った神聖なる栄光を取り戻すことができる。
ヨーガは、動物的な性質を神聖なる性質に変え、彼を神の栄光と光輝の頂点へと引き揚げる。
Spiritual Growth Is Gradual(霊的な成長はゆるやかである)
ヨーガにおいて、成功に達することは、すべての人の力量の範囲内である。
必要とされていることは、誠実な献身、不断で着実な実践(アヴィヤーサ)である。
霊的な成長は、ゆるやかである。
進歩的な進展がある。
あなたは、偉大なるヨーガ行者(ヨーギー)の偉業を達成するのに、ニルヴィカルパ・サマディ(無分別三昧)に入るのに、熱狂的に急ぐべきではない。
感覚は、完全に服従されなくてはならない。
神聖なる徳が、養われなくてはならない。
悪い性質は、根絶されなくてはならない。
心は、完全に抑制されなくてはならない。
仕事は、途方もないものである。
それは、骨の折れる仕事である。
あなたは、厳格な苦行(タパス)と瞑想を実践し、結果を我慢強く待たなければならないだろう。
あなたは、ヨーガの階段を、一段ずつ昇っていかなくてはならない。
あなたは、霊的な道を、一段階ずつ進んで行かなくてはならない。
A Note of Caution(注意事項)
ヨーガにおいて完成に到達した後、もし人が、世界の好ましくない不適切な風潮に少しも影響されないならば、俗世(世界)に入ることができる。
多くの人々は、世界の向上のための仕事の名の下で、名声を求めて、彼らの低い力を実演するために、ヨーガの完成の前に、世界に入る。
彼らは、世間的な人間のレベルよりも更に悪いレベルにまで引き下げられてしまう。
もしヨーギが注意深くなければ、もしヨーギがヤマ、ニヤマ、の初歩的な実践において充分に確立していなければ、彼は、無意識に誘惑-悪魔によって彼の理想から押し流されてしまうだろう。
彼は、利己的な目的のために彼の力を使い、希望のない転落を被るだろう。
彼の知性は、盲目的になり、邪道に陥り、酔ったものとなる。
彼の理解は、混乱したものになる。
彼は、もはや神聖なるヨーギではない。
彼は、黒魔術師かヨーガの山師である。
彼は、ヨーギ達の群れの中の黒い羊である。
彼は、社会全体に対する脅威である。
多くの人は、体へのヒーリングやテレパシー、読心術やその他の偉大なる神通力(超能力)が得られるのは、ヨーガを通してなので、プラーナヤーマや他のヨーガの訓練に惹きつけられる。
もし彼らが成功に達すると、彼らはそこだけに留まるべきではない。
人生の最終目的は、“ヒーリング”や“超能力”ではない。
彼らは、最高の高みに達することに、彼らのエネルギーを使うべきである。
ヨーガは、超能力を獲得するためのものではない。
もしヨーガの生徒が超能力を獲得する気になっているならば、彼の更なる進歩はひどく遅れるであろう。
彼は、道を見失うであろう。
最も高いサマーディを得ることに懸命なヨーギは、超能力がやって来る度に、それらを拒絶しなければならない。
超能力は、神からの誘惑である。
これらの超能力を拒絶することによってのみ、人はヨーガにおいて成功に達する。
あなたは、少しの一瞥や体験を得た時に、サーダナ(実践)を止めてはいけない。
あなたが完成に達するまで、実践を続けなさい。
実践を止め、世界の中で動き回ってはいけない。
例には、事欠かない。
数多くの人々が、破滅した。
一瞥は、あなたに安全を与えることはできない。
(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)
『これで、このラージャ・ヨーガの研究には信仰も信念も必要ではない、ということがわかりました。
自分でそれを見いだすまでは、何も信じるな、それが、ラージャ・ヨーガがわれわれに教えるところです。
真理には、支えは必要ではありません。
みなさんは、われわれの目覚めている状態の中で起こるもろもろの事実を、夢や想像に証明させる必要があると思いますか?
まったくありません。
ラージャ・ヨーガのこの研究には、長い時と不断の忍耐が必要です。
それの実習の、一部は肉体のものですが、主要な部分は心の実習です。
話を進めて行く内に、わかってくるでしょう。
もしわれわれが、心は単に肉体の一部である、ということを、そして心は肉体に反応する、ということを信じるなら、肉体は心に反応する、ということは当然です。
肉体が病むと心も病気になります。
肉体が健康であると、心も常に強く健康です。
人が怒ると、彼の心は乱されます。
同様に、心が乱されると、肉体もまた乱されます。
人類の大部分の場合、心はごくわずかしか発達していないので、それは大きく、肉体の支配下にあります。
人間の大半は、獣たちからごく僅かしか、隔たってはいません。
そればかりでなく、多くの場合、心を制御する力は、低い獣たちとあまり違いません。
自分の心に命令をする力を、ほとんど持っていないのです。
ですから、この支配力を得るために、肉体と心を制御する力を得るために、われわれはある種の肉体の助けを得なければなりません。
肉体が十分に制御されたら、われわれは、心の操作を試みることができます。
心を操作することによって、われわれはそれを自分の支配下におき、自分の好きなように働かせ、自分の浴する通りにその力を集中させることができるのです。
ラージャ・ヨーガによりますと、外の世界は内なる、つまり精妙なる世界の、粗大な形であるに過ぎません。
より精妙なものは常に原因であり、より粗大なものは、結果です。
従って、外の世界は結果、内なる世界は原因です。
同様に、外界の力は単に、ある力の粗大の部分であり、それの内なる力はもっと精妙なのです。
内なる力を発見し、それらをどのように操作するかを学んだ人は、自然界の全部を自分の支配下に置くでありましょう。
ヨーギーが自らに課するのは実に、全宇宙を支配するという、自然界全体を制御するという仕事です。
彼は、われわれが「自然の法則」と呼ぶものが彼に影響を与えない境地、彼がそれらすべてを超越することのできる境地、に達したいと欲するのです。
彼は、内外の自然全体の主となるでありましょう。
人類の進歩と文明は要するに、この自然を制御することなのです。
すべての科学の究極目的は、単一性、それから多様なものが作り出される一者、多者として存在する一つなるもの、を見いだすことです。
ラージャ・ヨーガは内なる自然を研究し、それを通じて全体――内外両方の――を制御しようとします。
それは非常に古くからの試みです。
インドは、それの特別の中心地でしたが、それはまた、他の民族にとっても試みられました。
西洋の国々ではそれは神秘主義とみなされ、それを実践しようと欲した人々は魔女や魔法使いと見なされて焼かれたり殺されたりしました。
インドでは、さまざまの理由からそれは、その知識の90パーセントを破壊し、残りを大きな秘術にしようとするような、人々の手中に落ちました。
現代になって、インドのそれらよりもっと悪い自称教師たちが、西洋に生まれました。
インドのは何かを知っていましたが、この現代の解説者たちは何も知ってはいないのです。
これらのヨーガの体系の中で、秘密で神秘的なものは何であれ、ただちに捨て去られなければなりません。
人生における最善のガイドは、強さです。
宗教においても、他のすべてのことにおけると同様、みなさんを弱くするものはことごとく、お捨てなさい。
それに係わってはなりません。
神秘を売り物にすることは、人間の頭脳を弱くします。
それは、科学の中の最も偉大なものの一つであるヨーガを、ほとんど破壊してしまいました。
四千年以上前、それが発見されたときから、ヨーガはインドで、完全に輪郭を描かれ、組織だてて説明され、教えられていたのです。
古代に遡るほど、それの著者は論理的であり、近代になるほど、注釈者がより大きな誤りを犯している、というのは、著しい事実です。
近代の著者たちの多くは、あらゆる種類の神秘を語っています。
このようにしてヨーガはごく僅かの人々の手中に落ち、彼らがそれを日の光と理性の十分な輝きの元に晒す代わりに、一個の秘密としてしまいました。
彼らは、力を自分たちのものにしたくて、そうしたのです。
まず第一に、私が教えることには何の神秘もありません。
私が知っているわずかのことは全部、みなさんにお話しましょう。
私に論証できる限りのことは、論証しましょう。
しかし私が知らないことは、ただ書物に書いてあることだけをお話しましょう。
盲目的に信じるのは間違いです。
みなさんは、理性と判断力を働かせなければなりません。
実践して、そのようなことが起こるかどうか、確かめなければなりません。
他のすべての科学を取り上げる場合とまったく同じ態度で、この科学を取り上げ研究なさるべきです。
そこには神秘もなければ危険もありません。
真理である限り、それは街頭、白日のもとで説かれるべきです。
これらを神秘化しようとする試みはすべて、大きな危険をもたらします。』
(ラージャ・ヨーガ by スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
『質問者
「どのようにナーディ(霊的神経)を撹拌し、クンダリニーを目覚めさせてスシュムナーまで登らせるのでしょうか?」
マハルシ
「ヨーギはこの目的のために呼吸の制御法をするだろうが、ジニャーニには探求の方法しかない。
探求によって心が真我に溶け去ったとき、真我と異ならないクンダリニーあるいはシャクティは自動的に目覚めるだろう。
ヨーギたちはクンダリニーを目覚めさせ、サハスラーラ、頭頂点の霊的センターもしくは千の花弁の蓮に送り上げることを最も重要なこととしている。
彼らは聖典のなかにある「生命の気の流れは頭の泉門から身体に入る」という言葉を指摘し、ヴィヨーガ(分離)がそのようにして起こるため、ヨーガ(合一)は逆の経路から起こるのだと主張している。
それゆえ、ヨーガの成就のためには修練によってプラーナを集め、泉門に到達しなければならないと彼らは言う。
その反対にジニャーナは、ヨーガが身体の存在を認め、身体が真我から分離していると仮定していることを指摘する。
この分離という見解が受け入れられて、はじめてヨーギはヨーガの修練によって再び合一するための努力を推奨できるのである。
だが真実は、身体は心の中に存在し、脳をその中枢としている。
脳が別の源から借りた光によって機能していることは、ヨーギ自身も泉門の理論のなかで認めている。
ジニャーニはさらに一歩進めて議論する。
もし光が借り物であれば、それはそれが生じた源から来たに違いない。
それゆえ、その源に直接行きなさい。
借り物に依存してはならない。
その源こそがハート、真我なのである。
真我がどこか他のところからやってきて、頭頂から身体のなかに入るわけではない。
真我はただあるがままに在る。
それは永遠に輝き、永遠に不動であり、揺らぐことも変わることもない。
個人ははかなく変化する身体や心の限界に閉じこめられている。
その身体と心も、不変の真我からその存在を得ているのである。
ただこの誤った自己同一視が放棄されなければならない。
それさえできれば、永遠に輝く真我は単一の非二元性の真理として見られるだろう。
もしサハスラーラに精神を集中すれば、サマーディの歓喜が得られることは疑いない。
だが、それでもヴァーサナー、心の潜在的傾向が破壊されることはない。
それゆえ、ヨーギはサマーディから目覚めざるをえない。
なぜなら、束縛からの解放がまだ達成されていないからである。
彼はまだ生来のヴァーサナーを根絶しなければならない。
そうでなければヴァーサナーは彼のサマーディを防げるだろう。
そのため、クンダリニーはスシュムナーを通ってサハスラーラに達し、サハスラーラからジーヴァナーディを通ってハートへと降りていく。
スシュムナーは曲線を描く。
それは最も低いチャクラから始まり、脊椎を通って脳に昇りつめ、そこから曲がって降りていき、ハートのなかに到達する。
ヨーギがハートに到達したとき、サマーディは永久的なものとなるのである。
これでハートこそが最終のセンターであることが理解できるだろう。」
質問者
「ハタ・ヨーガは効果的に病気を払いのけます。
そのため、それはジニャーナ・ヨーガの必要な準備段階だと唱道されています。」
マハルシ
「それを唱道する者たちにそれをさせればいい。
それはここでの体験ではない。
すべての病気は絶え間ない真我探究によって効果的に絶滅されるだろう。
心の健康のためには身体の健康が欠かせないという考えに沿って進めていくなら、身体の世話にはきりがないだろう。
身体そのものがひとつの大きな病気なのである。
この病気に打ち勝つためにわれわれがすべきことは、ただ静かにあることだけである。」
質問者
「ハタ・ヨーガは真我を探究するためには必要ではありませんか?」
マハルシ
「各人がそれぞれにふさわしい何らかの方法を見いだす。
それは潜在的傾向(プールヴァ・サンスカーラ)のためである。」
質問者
「私の年齢でもハタ・ヨーガをやり遂げることができるでしょうか?」
マハルシ
「なぜそのようなことを考えるのだろうか?
なぜなら、あなたは真我があなたの外側に存在すると考えるため、それを求めて努力するのである。
だが、あなたはつねに存在しているのではないだろうか?
なぜあなた自身を離れて、外側にある何かを追い求めるのだろうか?」
質問者
「『アパロクシャ・アヌプーティ』のなかに、ハタ・ヨーガは真我の探究に必要な補助であると述べられています。」
マハルシ
「探究が障害なく効果的に行われるためには、身体が健康でなければならないとハタ・ヨーギは言う。
また探究が成就されるには、寿命を長引かせなければならないとも言っている。
さらにその目的のために薬(カーヤカルパ)を用いる者たちもいる。
絵を描きはじめる前にキャンパスは完全でなければならないというのが、彼らが好んで使う比喩である。
確かにそうだろう。
だが、いったい何がキャンパスで、何が絵なのだろうか?
彼らによれば、身体がキャンパスで、真我への探究が絵だという。
ところが、実際は身体自身がキャンパス上の絵なのではないだろうか?」
質問者
「しかし、ハタ・ヨーガは助けになるとよく言われるのではないでしょうか?」
マハルシ
「そうだ。
ヴァーダンタに精通した学者でさえ、その修練を続けている。
さもなければ、彼らの心は静まらないからである。
それゆえ、ハタ・ヨーガをしないかぎり心を静めることができない者たちにとって、それは役に立つと言えよう。」
(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)
次回に続きます。
Hari Om Tat Sat!
So ham!
♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡
☆ 【聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】
(Parade books) - スワミ ラーマ著
(翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美)
単行本(ソフトカバー) ¥1,760(税込み)
Amazonで購入できます。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
Pranahna Official HP 〜 真我が目覚めるとき 〜
オンライン「プラナーナ瞑想会」
意識の変容を促す恩寵のエネルギープラナーナによる直接体験会
[事前に準備して頂くこと]
パソコン、タブレット、スマホのいずれかをご用意いただき、zoomのダウンロード(無料)をお願いします。
お申し込み後に詳細を返信いたします。