永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

プラーナについて(3)

プラーナについての理解を深めるために、前回、ご紹介しましたスワミ・シヴァナンダの「プラーナヤーマの科学」から、私たち日本人には馴染みの浅い「プラーナ」について、詳しい説明が書かれている箇所を、引き続きご紹介したいと思います。

 

このプラーナは、東洋では、「気」と呼ばれているエネルギーですが、私たちの肉体から発されているエネルギー(生体エネルギー)ではなく、むしろ、肉体を動かしているエネルギーであり、反対に、肉体はこのエネルギーが無いと動かなくなり、やがて滅びてしまいます。

 

肉体は、このプラーナによって肉体として存在できるのであって、主役はプラーナなのです。

 

この仕組みが、体験によって理解されることが、見神です。

 

「見神」とは、形ある神を見ることではなく、自分の本性である「真の自己」を悟ることです。

 

すなわち、肉体はプラーナによって動かされているただの器であり、プラーナを体感しすることで、プラーナこそが、この宇宙の普遍的なエネルギーであり、そのプラーナがすべて(自分も含めて)になっている、ということを悟ることなのです。

 

知識ではありますが、これを理解するために、前回の続きを見て行きましょう。

 

 

『呼吸の制御は、体内の様々な動きや、体中を走っている神経の流れの効率的な管理を可能にする。

呼吸もしくはプラーナのコントロールによって、簡単に、しかも時間をかけずに、身体、心、魂の制御と発達が実現する。

プラーナヤーマを通して、周囲の状況と自分の人格をコントロールすること、さらには、個人の生命と宇宙の生命を調和させることが可能になる。

呼吸が意志の支配下に置かれ、思考によって導かれる時、人は活力と再生への力に満ちる。

その力は、自己啓発や、自分自身の不治の病を治療すること、他の人たちの病気を癒すこと、その他いろいろな有益な目的のために意図的に使うことができる。

その力は、いつでも手の届くところにある。

賢明に使ってほしい。

古代より、シュリ・ニャーナデーヴァ、トライリンガ・スワミ・ラーマリンガ・スワミなど大勢のヨーギたちが、この呼吸の力すなわちプラーナを様々な方法で使ってきた。

与えられた呼吸の方法に従ってプラーナヤーマを練習すれば、あなたにも、それが可能になる。

今あなたが呼吸しているのは、空気というよりは、むしろプラーナなのだ。

心を集中して、ゆっくり静かに息を吸う。

楽に止められる範囲で、できるだけ長く息を止め、それから、ゆっくりと息を吐く。

プラーナヤーマの初級者であろうと上級者であろうと、実習は無理のないように行う。

呼吸に秘められている神秘的な内なる生命力を実感してみよう。

ヨーギとなり、あなたの周りを喜びと光と力で照らそう。

プラーナ派の人々やハタ・ヨガの行者はプラーナ・タットヴァ(プラーナの本質)はマナス・タットヴァ(心の本質)より勝ると考えている。

眠っている時、精神はそこにないが、プラーナは存在している。

つまり、生命活動において、プラーナは精神よりも重要な役目を演じているといえる。

カウシータキやチャンドーギャといった教典の中の寓話を読むと、心やプラーナといったインドリヤ(感覚、感覚器官)同士の勢力争いにおいて、プラーナが優位を保っていることに気づくだろう。

プラーナこそ最古の存在なのだ。

なぜなら、プラーナは正に受胎の瞬間から働き始めるのに対し、聴覚器官が働き始めるのは耳という特定の場所が形成された後のことだからだ。

ウパニシャッドでは、プラーナは‘Jyeshtha and Sreshra“(最古で最上)と呼ばれる。

霊的なプラーナの振動を通じて、精神の働きである「サンカルパ」つまり「思い」が保たれ、思考が生み出される。

人はプラーナの助けによって見、聞き、話し、感知し、思い、感じ、望み、知るのだ。

それゆえ、聖典には次のように明記されている。

「プラーナはブラフマン(主宰神、梵)である」と。

(プラーナヤーマの科学 スワミ・シヴァナンダ)

 

 

 

 

「(校長に向かって)いいかい、神だけが永遠の存在で、ほかはみな、その場かぎりのはかないものだよ!

人や動物、この世界、家屋敷、子供たち、一切合切が魔術師の手品なんだ!

帽子をさし出して伴奏にあわせて言うだろう――“サァ、サァ、お立ち会い、タネも仕掛けもありませんよ!”――覆い布をとりのけると、鳥が何羽かパッと舞い上がる!

だが手品師だけがそこにいるだけで、あとはみな、その場かぎりのものだ、今あったかと思うと、もう無い!

この世に生まれること、死ぬこと――みんな手品のようなものさ!

いま在たのに、もういない!

神だけが永遠の実在で、ほかはみな、はかない幻だよ。

水だけが永遠の実在で、水の泡は出来たかと思うと、すぐ消える。

泡は水に帰る――水から生まれて、同じ水に帰る。

神は大海のようなもの。

生きとし生けるものは泡だ。

あの御方から生まれ、あの御方へ帰ってゆく。

子供たちは、大きな泡のまわりに五つか六つかたまっている小さな泡だ。

神だけが真実。

永遠の実在。

どんなかたちでも方法でもいいから、あの御方を信じ、愛し、あの御方をしっかりわがものにするよう努力しなさい。」

 

「世間の人たちは幸福を求めて四方八方をうろつきまわるが、何もえられないものだから、やがてしまいにはくたびれてしまう。

女と金に執着して、得たものは苦しみと悲しみばかりという経験の挙げ句、利欲の気持ち、世間のことから離れようとする気持ちが自然に湧いてくる。

こうした経験をし尽してしまわないと、たいていの人は世間のことを捨てる決心がつかない。

修行者のなかには二種類あってね――クティチャカとヴァフダカだ。

一ところに止まっていられないであちこちの聖地をまわって歩く人がいてね、沢山の聖地の水を飲まないと落ち着かないんだ!

でも気のすむまでやると、やがて一か所に掘っ建て小屋を作って住みつく。

そして、安らかな気持ちになって、あれをしよう、これをしようとバタバタすることもなく、落ち着いて神様のことを考えるようになる。

この世でどんな楽しみがある?

女と金の楽しみか?

あんなものは一瞬(つか)の間の喜びだよ!

今あったかと思うと、もうない!

まあこの世は、雨期で空が雨雲でいっぱい、横なぐりの雨が絶え間なく降りしきっていて滅多に太陽が顔を出さないようなものだ!

悲しいことやつらいことばっかり!

“女と金”の雨雲で太陽が見えない。

わたしにこう聞く人がいるよ――『先生、では、なぜこんな世の中を神はお創りになったのですか?

我々には助かる方法がないのですか?』と」

「わたしはこう答える――方法がないわけはないだろう?

あの御方にすべてを委ねろ。

一生懸命あの御方に祈れ。

順風(おいかぜ)が吹くようにと――。

諸縁如意吉祥であれと――。

ある人の息子が病気で死にそうになった。

その人は夢中になってあちこち治療方法をききまわった。

するとあるところで、これができたらきっと治るという方法を教わった。――スワィテー星座が上がったときの雨が人間のガイコツのなかに溜まる。

その水を蛙が飲みにくる。

その蛙を一匹の毒ヘビが追いかけてくる。

蛙を咬もうとした瞬間に蛙はピョンと跳んで逃げ、ヘビの口から毒液がタラリとその水の中に堕ちる。

その毒水を病人に飲ませることである。

その人は、是が非でもその薬を手に入れようと決心して、スワティー星座の上がった夜、旅立った。

ちょうど雨が降ってきた。

その人は熱心に神に向かって願った――『神様(タクール)!シャレコウベを恵み給え!』

熱心にさがすと一つのガイコツがころがっていて、雨水が溜まっている。

彼は祈った――『神よ、助け給え!

また願わくは、蛙とヘビをここに与え給え!』

その熱意に応えるかのように事は進んだ。

そこに一匹のヘビが蛙を追ってきて、咬もうとした瞬間に蛙に逃げられ、口にたまった毒がシャレコウベの中に落ちたんだよ。

神様におすがりして熱心に祈れば、あの御方はきっと聞きとどけて下さるとも。

何事もいいようになるんだよ」

 

大佐

「何とも、すばらしい例え話ですなあ!」

 

聖ラーマクリシュナ

「うん、あの御方が何でも都合よく運んで下さる。

たとえば結婚せずにすんで、心の全部を神様に捧げられるとか、または兄弟が生活費を稼いでくれるとか、息子が成人して、もう俗事は全部その子に任せておけるとかね。

そうなれば、お前は安心して十六アナ(100%)の心を神に向けることができるというものさ。

でも、女と金を捨てなけりゃダメだ。

あれを捨てると無智も無明も消える。

ガラスレンズの上に太陽の光線を当てると、下のものは皆、燃えてしまう。

しかし、部屋の中でそうしてもダメだろう。

暗い部屋から外へ出なけりゃ、そうはならない。」

「智慧を身につけてから世間で暮らす人もある。

彼らは部屋の内も外も見ることができる。

智慧の明かりで世間を見るから、良い悪いも、永遠のものも一時的なものも、みんなその明かりで見分けられる。

無智で神を信じようとも認めようともしない人たちは、土造りの部屋の中で暮らしているようなものだ。

ほんのわずかな隙間から差し込む光線で、部屋の中だけどうやら見えるんだよ!

智識を得て、神を知ってから世間で暮らしている人たちは、ガラス張りの部屋にいるようなもの。

部屋のなかも、部屋の外のものもはっきり見える。

智慧の太陽の光は、ふんだんに部屋のなかに入ってくるからね。

その人は部屋のなかのものをハッキリすみずみまで見ることができる。

どれが良いか、どれが悪いか、どれが永遠のものか、どれがその場かぎりの頼りないものか――神ひとりが行為者、ほかのものは皆、あの御方の道具だ。

だから、どんな智者でも高慢でいられる筈がない。

シヴァ大神の讃歌をつくっている人が、あまりうまくできたのでつい慢心してしまった。

ところが、あるとき、シヴァの乗り物である牡牛が歯をむき出して見せた。

それを見て、彼の高慢の鼻はペシャンコになった。

牡牛の歯の一つ一つが真言マントラ)だったんだよ!

これはどういう意味かわかるかい?

真言はすべて、無限の過去から、始めなきはじめから存在していた、ということなんだよ。

作者はそれを発見したにすぎないんだよ。

宗教の教師を職業にするのはよくない

神のお許しがなければ、霊的指導者(アーチャーリヤ)にはなれない。

自分で「私は教師(グル)だ」などと言っているのは至って知性の低い人間だ。

天秤ばかりを見たことがあるだろう?

軽い方が上に上がっている。

自分を高く言う人は軽いということさ。

猫も杓子も先生、先生と言われたがる!

弟子になって学ぼうという人は滅多にいない!」

 (大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉  マヘンドラ・グプタ著)

 

 

 

 

虚妄の名声を求めず妄想を払い除けた人

執着心を克服し 欲を無くした人

苦楽の二元性を超越して真我(アートマン)に安住する人

このような人々は至上神に順(したが)うことを知って永遠の楽土に入る

 

わたしの住む至高妙楽の住処(すまい)は

太陽も月も火も電気も必要とせず

ただ自ら光り輝いている

ここに来た者たちは決して物質界に戻らない

(バガヴァッド・ギーター第15章5-6)

 

 

  

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チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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