永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(50)「カルマ」②

前回より、「カルマ」について、ご紹介しています。

前回の記事では、ヨーガやヴェーダンタの考え方においては、「カルマ」は、”「因果の法則」により起きている行為”とみなされていることをお伝えしました。

 

ここで重要なのは、「カルマ」は、”「因果の法則」により起きている行為”であって、その行為の主体としての「わたし」が行っている行為ではない、ということです。

 

「カルマ」は、「因果の法則」の結果であるだけで、究極の視点からは、「カルマ」を背負っている「わたし」も、「因果の法則」によって起きた結果に影響を受ける「わたし」も、「カルマ」によって行為を為す「わたし」もいません。

 

その視点からすると、「カルマ」は、自然法則(ダルマ)により生じた結果なのですが、私たち人間は、主体なる「わたし」がいて、その「わたし」が行為していると感じている(思い込んでいる)ために、「カルマ」を自分の「カルマ」と見做してしまい、「カルマ」に束縛され、「カルマ」に翻弄される「わたし」が、この世において、苦しみ(生、病、老、死、その他)に囚われている、と想定してしまいがちですが、究極の真理においては、(自分を含む)この世に起こることは、ただ自然法則(ダルマ)に則って起きている現象であるだけであり、その現象には、「わたし」に起きる現象も含まれている、ということなのです。

 

つまり、「カルマ」は、実は、「ダルマ」である、ということになります。

 

今回は、その「カルマ」である「ダルマ(自然法則)」について、少し詳しく見て行きたいと思います。

 

初めに、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」より、前回の続きである「カルマ(ダルマ)の法則」についての詳しい説明と、次に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から、「ダルマ」について、そして最後は、ラマナ・マハルシのアシュラムで、探究者よりなされた「カルマ」についての質問に対してお答えになった究極の視点からの御言葉です。

 

 

The Law of Retribution(応報の法則)

すべての悪い行為、或いは、罪は、応報の法則に従い、それ自体の罰をもたらす。

因果関係の法則、作用と反作用の法則、代償の法則、応報の法則—すべては共に作用する。

他者を略奪する人間は、初めに、彼自身を奪うのである。

他者を傷つける人間は、初めに、彼自身を傷つけるのである。

他者を嘲笑う人間は、初めに、彼自身を嘲笑うのである。

神は、依怙贔屓もしないし、不公平でもないことを覚えておきなさい。

神は、人間の富や他者の貧困に責任はないことを覚えておきなさい。

あなたは、あなた自身の悪い行為のために、苦しんでいるのである。

この世界には、混沌とした気まぐれなものはない。

物事は、偶然によって、或いは、無秩序な方法で、この宇宙に起こるのではない。

それらは、規則的に連続して起こる。

それらは、規則的な秩序をもって、互いに従う。

あなたによって今なされていることと、将来起こることの間には、ある明確なつながりがある。

常に、好ましい果実をもたらすことになる種子や、ここかしこであなたを幸せにすることになる種子を蒔きなさい。

 

 

How Karma Is Fashioned (カルマは、どのようにして形づくられるのか?)

人は、彼の性質において、三つの部分がある。

彼は、Ichha(意思)、Jnana(知性)、Kriya(行為)から成り立っている。

イッチャ(Ichha)とは、願望、或いは、感覚である。

ジニャーナ(Jnana)とは、知ること。

クリヤ(Kriya)とは、意志の力で行動することである。

これらの三つが、彼のカルマを形づくっている。

彼は、椅子や木などのような対象物を知っている。

彼は、喜びや悲しみを感じる。

彼は、これをしたい、あれはしたくないと、意図する。

行為の背後には、願望や思考がある。

対象物に対する願望が、心の中で湧き起こる。

その時、あなたは、それを獲得する方法を考える。

その時、あなたは、それを所有しようと努力する。

願望、思考、そして行為、これらは常に相伴う。

それらは、今までそうであったように、カルマの紐の中に編まれている三本の糸である。

願望は、カルマを産み出す。

あなたは、働き、あなたの望む対象物を獲得しようと努力する。

カルマは、苦しみや喜びとして、その果実を産み出す。

あなたは、あなたのカルマの果実を収穫するために、誕生の後に、新たな誕生を手にしなければならないであろう。

これが、カルマの法則である。

 

 

Sanchita, Prarabdha and Kriyamana(サンチッタ、プラーラブダ、クリヤマナ)

カルマとは、三種類の、サンチッタ(蓄積された仕事)、プラーラブダ(実が結んだ仕事)、クリヤマナ(現在の仕事)から成っている。

サンチッタは、過去のすべての蓄積された仕事である。

その一部は、人間の人格、彼の傾向や才能、能力、好み、願望に見られる。

プラーラブダは、現在の身体に責任がある過去のカルマの部分である。

それは、結実するための機が熟している。

それは、避ける、或いは、変更されることはできない。

それは、経験されることで、使い尽されるだけである。

あなたは、あなたの過去の負債を支払う。

クリヤマナは、未来のために今為されているカルマである。

それは、アガミ(Agami:現在の行為、来世で楽しまれるために、今、生み出されるカルマ)、或いは、Vartamana(現在に関係していること)と呼ばれている。

ヴェーダンタ哲学では、美しい例え話がある。

弓矢を放つ人は、すでに矢を放ってしまっている。

それは、彼の手を離れてしまっている。

彼は、それを呼び戻すことはできない。

彼は、別の矢を射ろうとしているところである。

彼の背中の矢筒の中の矢の束が、サンチッタである。

彼が放った矢は、プラーラブダである。

そして、彼が放とうとしている矢が、アガミである。

これらの内、彼は、サンチッタとアガミを完全にコントロールしているが、しかし、彼は、彼のプラーラブダを確実に仕上げなくてはならない。

効力を発し始めた過去を、彼は経験しなければならない。

プラーラブダは、神や創造神でさえ、防ぐことはできない。

偉大な力や智慧を持ったナラ(※1)やラーマ(※2)やユディシュティラ(※3)でさえ、このプラーラブダを経験しなくてはならなかった。

ナラは、森に行きたくはなかった。

それでも、彼は行かなくてはならなかった。

彼のカルマが、彼を強いたのである。

ラーマ神だけが、アヨーディアの王に就任されることになっていた。

彼は、森に入るように強いられた。

ガンジー(※4)は、120年間、生きたかった。

彼は、撃ち殺されたくなかった。

それでも、プラーラブダ・カルマは、この出来事をもたらした。』

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

(※1)絶世の美女ダマヤンティー姫は婿選びの式でかねて恋こがれていた美貌の貴公子ナラ王を夫に選ぶが、幸せの日々は短かかった。嫉妬に狂う魔神カリ王にとりつかれたナラ王は狂気のようにサイコロ賭博を賭けつづけ、ついには王国までも失ってしまい、夫婦共々、森を彷徨うことになる。『マハーバーラタ』の中の物語。

(※2)インドの叙事詩ラーマーヤナ』の主人公。 コ―サラ国の都アヨーダヤーのダシャラタ王と妃カルサリヤーとの間に長子として生を受け、異母兄弟にバラタ、ラクシュマナ、シャトルグナがいる。『ラーマーヤナ』によると、彼ら4兄弟はいずれもラークシャサの王ラーヴァナを倒すために生まれたヴィシュヌ神の4分身であるという。大聖ヴィシュヴァーミトラの導きによって、ミティラーの王ジャナカを尋ね、そこで王の娘シーターと出会い、結婚する。しかしバラタ王子の母カイケーイー妃によって、14年の間アヨーディヤを追放された。ダンダカの森でラーヴァナによってシーターを略奪され、これをきっかけにラークシャサ族との間に大戦争が勃発する。

(※3)ヒンドゥー教聖典の1つである叙事詩マハーバーラタ』に登場する英雄で主人公の一人。 パーンダヴァ五兄弟の長兄。パーンダヴァ五王子が王都で人々の衆望を集めていることに嫉妬を募らせたドゥルヨーダナは、サイコロを自在に操る達人シャクニの献策を元に、父のドリタラーシュトラにユディシュティラをサイコロ賭博の場に呼び出させる。申し込まれた勝負を断ることはクシャトリヤ(古代インドのバラモン教社会におけるヴァルナ(身分)制度の第2位である王族・武人階級)の恥として、勝負に望んだユディシュティラは、シャクニのイカサマにより敗北し、全財産、弟と自分自身、そして妻ドラウパディーまでも奪われてしまい、更には王国を十三年間追放される。

(※4)宗教理由から分かれた1947年8月のインド・パキスタン分離独立に前後して、ヒンドゥー教徒ムスリムイスラーム教徒)による宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとしたが、状況は好転しなかった。同年10月には、カシミール地方の帰属をめぐってムスリム住民が暴動を起こし、第一次印パ戦争が勃発。それでもガンディーは両宗教の融和を目指し、戦争相手のパキスタンに協調しようとする態度を貫いた。そのため、「ガンディーはムスリムに対して譲歩し過ぎる」としてヒンドゥー原理主義者から敵対視され、もはや我慢ならぬと怒りで血が沸騰した有志メンバーが暴走してしまい、印パ戦争さなかの1948年1月30日、ニューデリー滞在場所であるビルラー邸の中庭で射殺される。享年、78歳。

 

 

 

『人生に目的があるときにのみ、恐れは取り去られ、人生は楽しむことができます。

もし、人生が目的を持っているなら、私たちは自分自身に尋ねる必要があります。

人生の意味とは何でしょうか? 

通常、私たちは、財産や人間関係の損失を被った後、大きな痛みを経験したときに、この問いを尋ね始めます。

私たちは、さらに多くの物質的な富や名声、力を得ることに虚しさを見てきました。

私たちは、それらの喜びがどのように素早く過ぎ去るかを見てきました。

私たちは〝もし、富や名声や力が幸福を与えてくれないなら、それでは何が幸福を与えてくれるだろうか?〟と言い始めます。

痛みから私たちは、人生にはもっと何かがあり、人生は私たちの感覚が経験することに限定されない、ということに徐々に気づき始めます。

私たちはうすうす気づくだけかもしれません。

私たちが見たり聞いたりする形ある世界を超えたものについての私たちの知識は、まだかろうじて私たちの奥深くの囁きであるだけかもしれませんが、可能性は探求する価値があります。

探求は、人生にはもっと何かがあるかもしれないという哲学を確立することによって始まります。

最初その哲学は方向を与えます。

哲学を持つと、人生はさらに多くの意味を持つようになり、直ちに違った形をとり始めます。

さらに多くのことを学ぼうという意図が集中し、集中はエネルギーを集めます。

ただそれだけのことに歓びがあります。

ゴールや私たちの動機の曖昧さだけでは、囁きは静かなままですが、私たちは人生における対象物や人間関係を以前とは異なる見方で眺め始めます。

それらはもはや私たちの人生の中心ではなくなります。

痛みはそれらを失うことにあり、あるいはそれらを失う恐れにあるのであって、それほど強烈なものではありません。

所有したり保持したりすることよりも、多くの意味を示唆するこのような哲学を持つことは、人生の雰囲気を変えます。

自由の感覚が育ちます。

次第に私たちは、重要なのは、この世の物を所有したり保持することではなく、何か他の――多分、与えたり手放すことだということに気づき始めます。

それでもこれらの考えは、ただの私たちの内部の微かな音のままです。

特に私たちはそれまであまりに声高にはっきりと、財産や富、力を獲得することや感覚的喜びを持つことは、良い人生にとって優先順位が最上位である、と聞いてきたのですから。

それにもかかわらず、微かな内部の音は続きます。

2番目のステップは、自分の人生を改革することです。

古い習慣を変え、心のあらゆる大きな変化と共に、個人的な理解力が許可し、成長するにつれ、2番目のステップは徐々に遂行されます。

例えば、物を獲得するという哲学からより大きな目的のある哲学へとシフトが起こるので、私たちの必要は減少します。

物質的には、人生はよりシンプルになり、より障害が少なくなります。

人生がより大きな意味を持っているかもしれないという哲学に従っていると、私たちはこれまでと同じやり方で、他者との人間関係を必要としていないことがわかり始めます。

私たちは私たちに何かを与えてくれる他者を必要としていません。

私たちは彼らから得られるもののための人間関係に依存しなくなります。

私たちは人間関係において、より自由であることができ、人間関係において必要とし、手にすることから――夫婦として、親として、子として、あるいは他の何かとして――与えることに重点が変わります。

感情的には、人生はより軽くなります。

哲学と改革は、常に私たちのライフスタイルが以前より華やかなものでなくなり、気晴らしをそれほど必要としなくなることを意味しています。

人により多くのものを与えるようになります。

必要なものは少なくなります。

健康に対する関心が変化します。

皮肉なことに、ご馳走を食べ、多量のアルコールを摂取し、喫煙することで、プロセスを早めるために多くのことをする人々は、死を最も怖がっている人々であるように思われます。

彼らの死に対する恐れは、より早く死をもたらす感覚的快楽に彼らを引き付けます。

人生にはそれ以上のものがあるという哲学があれば、私たちは自然により健康な食事をし、より多くの運動をするようになります。

他の変化も出てきます。

人生における優先順位が物質的で感覚的な豊かさであるという狭い視点から、霊的な目的をもった人生のより大きな視点へと広がるにつれ、その時、私たちはライフスタイルにおける習慣や人間関係において変わるだけでなく、世界を異なって見ます。

もし、私たちが得られるすべてを得るために、この惑星に偶然にどうにかして落とされたなどと、もはや考えないならば、そのとき、私たちは、それはまた他のすべての人にも真実であるとわかります。

もし、私たちが、より大きな目的のためにここにいるのなら、その時、50億人強の地球の住人すべてがそうであるのです。

私たちのコミュニティーの感覚は変わります。

私たちの家族は成長します。

私たちは、異なった道ではありますが、長い旅の途中にいるすべての兄弟姉妹である世界コミュニティーの一部であるということがわかります。

もはや、私たちは他の人々を害するような、あるいは私たちすべてが生きている世界を害するような仕事をすることはできません。

もし、私たちが環境を汚染する仕事を持てば、あるいは他の人々にとって困難を作り出すなら、私たちは他の仕事を見つけざるを得ないと感じることでしょう。

同時に、私たちは、もはや他の人々における違いに怯えることはありません。

もし、地球上の50億の人々が、より高い霊的な目的のためにここにいるのなら、そのときは、人種、肌の色、そして信条の違いは、究極的には表面上のことになります。

これらの違いは、地球上で起こる他のすべてのことと一緒に、より高い霊的な目的に役に立っています。

人種、肌の色、宗教上の信条は、同じゴールに向かっている異なった道の一部なのです。

これらの多種多様な人種や肌の色、宗教上の信条の違いがかつて抱えていた、少しばかり異なる人々は所有されたものへの脅威であるという恐れは、消えます。

東洋哲学においては、人生のこの広い角度の改革は、ダルマと呼ばれています。

ダルマという単語のひとつの意味は、個人的な行動は対人関係や地域や世界のコミュニティーと協調している、というようなやり方で、人生を体系づけることです。

それは、道徳、正義、善行を意味します。

個人的な人間関係や、より大きな世界的なコミュニティーや地球自身に対して、利己的でなく、害することなく、愛情をもって、所有せず、強欲でなく送られる人生は、霊的に健全な人生です。

しかしながら、もし、人が利己的で、他者を害し、何らかの方法でコミュニティーに害をもたらすなら、そして物や人を所有する感覚を感じるなら、そのような人の人生は眉をしかめられるものであり、霊的な進歩は妨げられます。

ダルマの別の解釈は、運命という考えです。

ダルマは人生における個人の義務なのです。

言い換えると、ダルマは最も効果的に人生のゴールに到達するために、この人生を有効に使うために個人が辿る道です。

個人のダルマは、個人的なカルマとサンスカーラに関係しています。

霊的な人生において前進するために、個人が学び、燃やし、捨て去る必要のあるものは、何でしょうか? 

学びと燃焼に影響を与えることができるダルマとは何でしょうか? 

ダルマが、大工であろうと、労働者であろうと、消防士であろうと、看護婦であろうと、コンピューター技術者であろうと、父、母であろうと、カリフォルニア人であろうと、イタリア人であろうと、関係ありません。

一般的な視点から言うと、ダルマは他より良いということはありません。

霊的な進歩という視点からすると、小さな野菜を作る農家であるか、道を掃除する掃除人であるかは、社長であり教父であることと同じくらい有能であり正当なことなのです。

それぞれの人々は、その人自身の霊的な必要に最も適したダルマを持っています。

従い発展させ、個人的な成長のプロセスにおいて助けとなるそれらの義務を認識するために、個人的な価値を提供する個人的なダルマを探し出し、確立することは極めて重大なことです。

この世俗的な人生を超えたものの探求においては、霊的な道を見つけることが必要です。

私たちは、みな心の地図の中にガイドブックを必要としています。

私たちはみな、自分たちの真の神聖な本性への聖なる旅をしているのです。

その神聖なる本性は、私たちに非常に身近で、よく知られているのですが、またそれは、私たちの思考や願望の混乱した心の奥深くに隠されています。

すべての宗教と世界の霊的な組織は、私たちの実在の自己認識についての真理を知りたいという人間的な熱望から生じています。

これらの各組織の内部には、すべての人により共有される真理への地図があります。

いくつかの地図は、サンスクリット語ラテン語ヘブライ語アラビア語、中国語で書かれています。

地図の中には、海のルートや他の陸路や空路をとっているものもあります。

山の道をガイドするものや、他の道をガイドするものもいくつかあります。

しかしながら、それらはすべて、真理の同じ頂点に行きます。

私たちは、いつも私たちの文化を代表するそれらの組織に自分自身を見出します。

宗教は、彼らのライフスタイルや環境、歴史の内容において、人々の霊的な必要に仕えるために文化から展開します。

イスラム教は特殊な文化、歴史、コミュニティーの必要から生まれました。

同じことが仏教やキリスト教ユダヤ教、そしてすべての世界の宗教組織に言えます。

他より優れたものはありません。

それらは、ただ文化、時代、必要を反映しているだけです。

ヒンドゥー教も、実際には生き方であり、人生哲学です。

それは宗教ではありません。

世界が、洗練されたコミュニケーションシステムで小さくなるにつれ、他の文化を持った宗教組織の知識を共有することは、より簡単になりました。

世界中の人々に恩恵をもたらすアイディアと技術が混合されてきました。

アメリカ合衆国ヨーロッパ大陸での今世紀の2分の1における東洋哲学の大きな動きは、この共有の見本です。

しかしながら、宗教組織となった霊的な修養が再解釈されているということを思い出すことは大切です。

制度を起こさせる霊的な義務よりも、何か他のものになった制度が現れてきました。

エスは、彼は新しい宗教を生み出してはいないと言いました。

彼は、ただ真理を語っていただけでした。

宗教制度は、発展し、イエスによって語られた真理を隠してしまいました。

真理は今まで通りそこにありますが、しかし、その周りには、この新しい制度と真理の解釈があります。

例えば、イエスは、〝わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません〟と言いました。

彼は、永遠の命、あるいはブラフマンへの道は、すべてによって体現された純粋な自己であるアートマンを知ることによる、ということを意味したのです。

形作られた組織は、述べたことを捕まえ、それを制度上の棍棒として使い、人々が、その制度に参加し、その教義をもつようになるか、あるいは、運命づけられるように要求しました。

それは、イスラム教の場合も同じです。

イスラム教の内部の探求は、スーフィーによりなされてきました。

スーフィーは、イスラム聖典に深く潜り込み、珠玉の智慧と共に浮かび上がってきました。

私は、すべての宗教はコミュニティーで共有されるべきひとつの同じ真理を持っていることを知っています。

この真理を認識している幸運な少数の人は、混乱を作り出してきたのは、聖職者の智慧と教会主義であることを知っています。

同じ現象が、すべての霊的な制度で起きました。

制度は真理を保護するものですが、それらは成長し、コミュニティーを縛りつけます。

それが宗教の意味なのです。

それは、ラテン語のligareから来ており、文化や類似の信念の人々を縛りつける、という意味です。

しかしながら、しばしば、制度はそれが教えようと意図している真理を無視し、それ自身の生気を帯びたものになります。

制度とその指導者たちは、真理そのものよりも生気に満ちたものとなります。

これは、常に、政治、偏見、独断主義、派閥主義、そして時には、お互いに争う宗教集団との流血の惨事に至ります。

精神性は、〝私たちは真理を持っている、あなたがたは持っていない。神はあなたがたではなく、我らと共にある〟ということを進展させます。

宗教の名の下の不正と、有害のあらゆる方法は、この態度から生じます。

宗教的な指導者のエゴは、彼らの追従者が彼らを礼拝する状況を作り出し、彼らを恐れさせ、そして道の目的は忘れ去られます。

望ましい道は、組織の要求や組織の指導者の気まぐれではなく、個人の真の霊的な必要に応えるものです。

真に霊的な組織においては、組織も指導者も、彼らのメンバーや追従者の霊的な必要に仕えるためにのみ存在します。』

(『聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く』by Swami Rama)

 

 

 

『質問者

マントラやジャバを修練することによって、悪業の報いをぬぐい去ることができるでしょうか?」

 

マハルシ

「もし「私がジャパをしている」という感覚がなければ、犯した罪も彼から離れていくだろう。

もし「私がジャパをしている」という感覚がそこにあれば、悪業の報いは彼につきまとうだろう。」

 

質問者

「プンニャ(徳行の報い)はパーパ(罪業の報い)を消し去るのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「「私がこれをしている」という感覚があるかぎり、人は良いものでも悪いものでも行為の結果を経験しなければならない。

どうしてひとつの行為で別の行為をぬぐい去ることが可能だろうか?

「私がこれをしている」という感覚がなくなったとき、何もその人に影響を与えるものはない。

真我が実現されないかぎり、「私がこれをしている」という感覚が消え去ることはないだろう。

真我を実現した人にとって、ジャパをする必要があるだろうか?

タパス(苦行)の必要がどこにあるだろうか?

プラーラブダの力によって、人生はつづいていく。

だが、真我を実現した人にとって望むものは何ひとつないのである。

プラーラブダ・カルマには三つの種類がある。

イッチャー、アニッチャー、パレッチャー(個人的な欲望、無欲、他者のための欲望)である。

真我を実現した人にとってイッチャー・プラーラブダは存在しないが、他の二つは残る。

何であれジニャーニがすることは、他者のためだけに為される。

他者のためにすることがあれば、彼はそれをする。

だが、その結果が彼に影響を与えることはない。

そのような人が為す行為には、どんな徳も罪もともなわない。

ただ、彼らは世間に受け入れられた基準にしたがって正しいことだけを為すのである。

それだけである。

現世で体験されることが、プラーラブダによってすでに決定されていることを知っている人は、何を体験しようとけっしてとまどわない。

すべての体験は、それを望もうと望むまいと避けることのできないものだと知りなさい。」

 

質問者

「真我を実現した人にはこれ以上のカルマもなく、カルマに束縛されることもありません。

それならば、どうして彼は身体のなかにとどまっているのでしょうか?」

 

マハルシ

「誰がこの質問をしているのか?

実現した人か、それともアジャーニか?

どうしてあなたは、ジニャーニが何をなぜするのかということに頭を悩ますのだろうか?

それよりもあなた自身の面倒を見なさい。

あなたは自分が身体だと信じているため、ジニャーニも身体なのだと思いこんでいる。

ジニャーニ自身が身体をもっていると言ったかね?

あなたの目には、彼が身体をもち、他の人のようにその身体でものごとを為しているように見えるかもしれない。

だが、彼自身は身体をもっていないことを知っているのである。

燃え尽きたロープは、いまだロープのように見えるかもしれない。

だがそれで何かを結ぼうとしても、ロープとして使うことはできない。

ジニャーニも同じで、彼は他の人たちと同じように見えるかもしれないが、それは外見だけのことなのだ。

人が身体と同一化しているかぎり、これを理解することは困難かもしれない。

そのため、このような質問に対しては、「ジニャーニの身体はプラーラブダの力が尽きるまでつづき、それが尽き果てたときに身体は死ぬ」と、ときには答えられてきたのでる。

これに関連して、「すでに解き放たれた矢は的を射るまで突き進む」という説明もある。

だが真実は、ジニャーニはプラーラブダも含めたすべてのカルマを超越しており、彼は身体にも、そのカルマによっても束縛されることはない。

「私は在る」として広がり輝く無限の意識空間に絶えず注意を集中している人には、わずかなプラーラブダさえ存在しない。

そのような人だけが、「天国に達した人は運命に支配されない」という古の言葉を理解することができるのである。」

 

質問者

「もし予期もせずに自分のもとにやってきたものごとを楽しんだ場合、それによって何か悪い結果が訪れることはあるのでしょうか?」

 

マハルシ

「それは避けられない。

もしあなたがやってきたものを受け入れ、それ以上を望まず、再び起こることを求めなければ、それ以上の誕生をもたらすような害をあなたに与えることはないだろう。

その反対に、もしあなたがそれに執着し、より多くを求めるなら、より多くの誕生をもたらすことはまぬがれない。」

 

質問者

「占星学によると、星の影響を考慮することで未来に起こる出来事が予測されると言われています。

それは真実なのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが自己中心感覚をもっているかぎり、それはみな真実である。

利己主義が破壊されれば、それはみな偽りとなる。」

 

質問者

「つまり利己主義が破壊された人にとっては、占星術は真実ではないという意味なのでしょうか?」

 

マハルシ

「「それは真実ではない」と言う人が、そこにはもう存在しないのである。

そこに見る人がいるのなら、見るということもあるだろう。

利己主義が破壊された人の場合、たとえ彼らが見ているように見えても、本当は何も見ていないのである。

運命は過去の行為の結果であり、それは身体に関連している。

身体にはそれに適したように行為させればいい。

なぜあなたがそれを気にするのか?

なぜあなたはそれに注意を払うのか?

何かが起こるべきなら、それは過去の行為の結果として、神の意志として、そして他の要因によって起こるのである。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(49)「カルマ」①

前回まで数回にわたり、ヨーガやウパニシャッドで説かれている「輪廻転生」について、ご紹介しました。

 

今回からは、まだ日本人の私たちには、あまり馴染みのない「輪廻転生」からの解放(解脱)に至るプロセスにおいて、また、生きていく上での智慧としても、非常に重要である(誰もが避けては通れない、という意味において)「カルマ」について、ご紹介いたします。

 

「カルマ」とは、”「原因と結果の法則」を通して働く行為”のことを指しています。

(日本語では、「業」と訳され、仏教などでも説かれることがありますが、ここでは、ヨーガ、ウパニシャッドの視点からの解説となります。)

 

今回は、「カルマ」の概要、仕組みや働きについて、見て行きたいと思います。

 

ヨーガやウパニシャッドでは、「カルマ」には、三種類あるとされていますので、先ず、その三種類の「カルマ」からご紹介いたします。

 

①サンチタ・カルマ(前世から積まれてきたカルマの蓄え)

 

②プラーラブダ・カルマ(サンチタ・カルマの一部で、現世で清算されなければならないもの。カルマの法則は人間の活動における決定論を意味するため、プラーラブダはしばしば運命と訳されている)

 

③アーガーミ・カルマ(現世で積まれた新しいカルマ。この一部が来生に持ちこまれる)

 

私たちの人生を植物に例えるならば、私たちは、今、種子から芽が出て、枝葉が伸び、蕾がついて花が咲き、実がなるという一連の流れの中にいる、と見ることができます。

そして、沢山ある種子の中から、一粒の種子が芽吹き、"わたし"となり、今、"わたし"は、世界にたった一つの花として咲いている、ということになりますが、この一連の流れのすべて(人生)が、「原因と結果の法則」に従って展開しており、また、その”わたし”を決定する因子としての種子も、「原因と結果の法則」によって生じた種子である、ということになり、現在の私たちの人生は、過去に蒔いた種が結実する過程(プロセス)と見ることができます。

また同時に、今に生きながら、未来に結実することになる種子を育んでいる、ということにもなります。

 

このような現象が繰り返し起きている、というのが、所謂「輪廻転生」と言われているものですが、ヨーガやウパニシャッドでは、「カルマ」(原因と結果の法則)からの脱却(解放=解脱)について、種子は燃やして消滅させる(根絶やしにする)ことで、次の結果(人間としての再誕)を生じさせない方法(解脱)がある、と説いています。
(仕組みとしては、種子が消滅すると、次に芽吹くことが起きませんので、輪廻転生からの解放(解脱)となります)

 

この三種の「カルマ」の知識を元に、これからご紹介しますSwami Sivanandaの「Bliss Divine」から「カルマ」に関するメッセージとラマナ・マハルシの御言葉をご紹介したいと思います。

 

 

Karma(カルマ)

カルマは、行動、或いは、行為を意味するサンスクリット語である。

いかなる身体的、或いは、精神的な行為も、カルマである。

考えることは、精神的なカルマである。

カルマは、現在の人生と前の誕生におけるわれわれの行動の総合計である。

カルマは、行為だけでなく、行為の結果をも意味している。

行為の結果は、実際には離れたものではない。

それは、行為の一部分であり、それから分けられることはできない。

カルマの法則は、因果の法則である。

原因があるところでは、結果が生み出されなければならない。

種子は、木にとっては原因であり、木は結果である。

原因は、結果の中に見出され、結果は、原因の中に見出される。

結果は、原因に似ている。

これは、終わりのない原因と結果の宇宙的な繋がりである。

いかなる連鎖における繋がりも、不要なものではない。

この世は、この基本的な生命の法則に基づいて動いている。

この法則は、容赦のないものであり、不変である。

この総括的な法則は、身体的で精神的な次元のどこでも作用する。

いかなる現象も、この強力な法則の作用からは逃れられない。

自然のすべての他の法則は、この基本的な法則よりも下位にある。

その背後で、肯定的で、明確で、否定し難い原因を持たない出来事は、起こらない。

戦争の勃発や彗星の出現、地震や火山噴火の発生、伝染病、嵐、雷、洪水、身体の病、運、不運の発生などすべては、それらの背後に明確な原因がある。

原因の総括的な法則は、行為と反応の法則、償いの法則、報いの法則を含んでいる。

これらすべての法則は、一般的な、すべてを包括する見出し、すなわち、カルマの法則の部類に入る。

 

 

The Law of Action and Reaction(作用と反作用の法則)

もし作用があるならば、反作用がなくてはならない。

反作用は、等しい力と同じ性質であるだろう。

すべての考え、願望、想像、感情は、反作用を引き起こす。

徳は、それ自身の報いをもたらし、悪は、それ自身の罰をもたらす。

これは、反作用の法則の働きである。

神は、邪悪な者に罰を与えないし、善人に報いることもない。

報酬や罰をもたらすのは、それら自身のカルマである。

果実をもたらすのは、作用と反作用の法則である。

終りのない精密さと科学的な正確さをもって、法則はあらゆる処で、作用する。

作用と反作用の法則は、物理的な次元においても、精神的な次元においても、作用する。

 

 

The Law o Compensation(代償の法則)

代償の法則は、自然現象において至る処で、作用する。

種子は、破れて、大きな木が種子から芽を出す。

種子の破壊においては、失われるものはない。

代償の法則に従って、木が芽を出す。

燃料は、燃える。

燃料は、破壊される。

しかし、代償の法則に従って、熱がある。

多くの物品が、熱に従って、火で調理される。

もしヴィジャヤワーダに灼熱があるならば、ヒマラヤのカイラス山、或いは、ウッタルカーシには、極寒があるだろう。

これは、代償の法則である。

もしある場所に、十人のならず者がいるならば、代償をもたらすために、二つの純粋な魂があるだろう。

もしプリで上げ潮があれば、ワルタイヤ―では、引き潮がある。

これは、代償の法則である。

もしインドが昼ならば、アメリカは夜だろう。

平和は、戦争の後に来るし、その反対も然りである。

これは、代償の法則である。

代償の法則は、また精神的な次元でも作用する。

代償の法則は、バランスを維持し続け、平和と和合、釣り合い、調和、公平を構築する。

深く考えなさい。

熟考しなさい。

よく考えなさい。

あなたは、この代償の法則が自然現象において至る処で美しく作用しているのを見ることだろう。

それは、曲げられない不変のものである。

誰も、この情け容赦のない抵抗できない法則を無視することはできない。

もしあなたが悪い行いをするならば、あなたは代償で、悪い実を収穫するだろう。

もしあなたが、物質的身体の誕生と共に始まり、死と共に終わる孤立した出来事として個人の人生を送るならば、あなたは人生の出来事に対して、正しい説明や解答を見つけることはできない。

あなたは暗闇と絶望の中で暗中模索することであろう。

全魂の生命と比べれば、あなたの現在の人生は、無いに等しい。

それは、束の間のものである。

それは、単なる断片である。

あなたが、原因、或いは、何かの以前の出来事を見つけ出したい時はいつでも、あなたは、永遠の魂という生命の出来事の中に深く入って行かなくてはならないだろう。

その時だけ、原因と結果、以前の出来事と成り行きの完全なる調和があるであろう。

あなたは、永遠の魂という生命の幅広い視点から、判断しなくてはならないであろう。

代償の法則は、広範囲な全魂の生命を包含している。

生命は、この物質的な身体だけの崩壊と共に終わらない。

輪廻転生がある。

数え切れない過去生もあったのである。

あなたは、最も広範囲な魂の生命を考慮しなくてはならないであろう。

その時、道筋は、極めてはっきりする。

その時、あなたは、人生の入り組んだ複雑な出来事に対する完全で満足できる解答を見つけるであろう。

その時、ぶつぶつ不平を言ったり、悲嘆や思い違いをする余地はないであろう』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「この身体が終わるまでつづくと言われているプラーラブダ・カルマを、身体が存在する間にも克服することができるでしょうか?」

 

マハルシ

「できる。

カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存している。

自我がその源のなかに溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカルマも生き残ることはできない。

それゆえ、「私」がないところにはカルマもない。」

 

質問者

「プラーラブダ・カルマは前世から積まれたカルマの小さなひとかけらにすぎないと言われています。

これは本当なのでしょうか?」

 

マハルシ

「人は前世で多くのカルマを積んできたかもしれない。

そのなかのわずかなものだけがこの生のために選ばれ、人はその結実を現世で味わうことになる。

それはちょうどスライドの展示会で、投影する人がショーに出すスライドだけを選びとり、残りのスライドは次のショーのためにとっておくようなものである。

これらのカルマはすべて、真我の知識を得ることによって破壊される。

過去の体験の結果であるカルマがスライドであり、心が投影機である。

その投影機が破壊されなければならない。

そうすればこれ以上の投影はなく、これ以上の誕生も死もないだろう。」

 

質問者

「誰が投影するのですか?

サンチタ・カルマのなかからわずかな部分を選びとり、それをプラーラブダ・カルマとして体験させることを決定するその構造は、どういう仕組みになっているのでしょうか?」

 

マハルシ

「個人はそれらのカルマに耐えなければならない。

だが、イーシュワラ(創造)神は彼の目的にしたがってそれらのカルマを最善の状態に管理している。

カルマの報いを操っているのは神だが、彼はそれにつけ加えたり、それから取り去ったりするのではない。

人間の無意識層は善業と悪業の倉庫である。

イーシュワラはこの倉庫から、それが喜ばしいものであれ、苦しみに満ちたものであれ、それぞれの人にとって、その時々の霊的進化のためにもっともふさわしいものを選択するのである。

それゆえ、何ひとつ任意のものはない。」

 

質問者

「『ウパデーシャ・サーラム』のなかで、あなたは「カルマは神(カルタ)の定めによって結果を生じる」と述べられています。

つまり私たちは、すべて神の意志によってカルマの報いを受けるという意味なのでしょうか?」

 

マハルシ

「この説のなかの「カルタ」とはイーシュワラ神を意味している。

カルマにしたがって各人は行為の報いをイーシュワラ神から割り当てられる。

それはつまり、イーシュワラとはブラフマンが人格神として姿を現したものだということだ。

真のブラフマンは非顕現であり、不動である。

現れとしてのブラフマンがイーシュワラ神と名づけられただけである。

彼がカルマにしたがって各人に行為の報いを与える。

つまり彼はただの周旋人でしかなく、為された仕事に応じた賃金を支払っているだけである。

ただそれだけのことだ。

このイーシュワラ神のシャクティ(力)なしではカルマも起こり得ない。

それゆえ、それ自体ではカルマは作用しないと言われるのである。」

 

質問者

「現在私たちが体験していることは、過去のカルマの結果です。

もし私たちが以前に犯した過ちを知れば、それらを正すことができるはずです。」

 

マハルシ

「たとえひとつの過ちが修正されたとしても、あなたは数限りない誕生を与えるサンチタ・カルマ全体が残っている。

それゆえ、それは正しい方法ではない。

草木は剪定するほど、より力強く生い茂る。

あなたがカルマを修正すればするほど、それは蓄積していく。

それゆえ、カルマの根本を見いだし、それを断ち切りなさい。」

 

質問者

「カルマの理論は世界が作用と反作用の結果であることを意味しているのでしょうか?

もしそうであれば、何の作用と反作用でしょうか?」

 

マハルシ

「真我を実現するまでは、作用と反作用であるカルマは存在するだろう。

実現後には、カルマも世界もないだろう。」

 

質問者

「もし私が身体でないなら、どうして私の善業と悪業の結果の責任が、私にあるというのでしょうか?」

 

マハルシ

「もしあなたが身体でないなら、そして「私が行為者である」という観念をもたないなら、善業と悪業の結果があなたに影響を与えることはないだろう。

なぜあなたは身体が為した行為について「私がこれをした」、「私があれをした」と言うのか?

身体と同一化するかぎり、あなたは行為の結果に影響されるだろう。

つまり身体と同一化しているかぎり、あなたは善と悪のカルマを積んでいるのである。」

 

質問者

「しかし、私は身体ではないのですから、善業と悪業の結果の責任は私にはないはずです。」

 

マハルシ

「もしあなたに責任がないのなら、なぜこの質問を気にするのかね?」

 

質問者

「ある聖典には、人の努力はすべての力の源であり、それはカルマさえ超えられると述べられ、別の聖典では、すべては神の恩寵によると述べられています。

どちらが正しいのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。

ある哲学の学派は、前世のカルマ以外に神というものは存在しないと言う。

その聖典によれば、現世で為されたカルマはブルシャカーラ(人間の努力)として知られ、前世と現世のカルマは雄羊の角どうしが真っ向から衝突するように出合い、弱いほうが消し去られるのである。

そのために、これらの人びとは努力を強化しなさいと言うのである。

もしあなたがたこれらの人びとに「カルマの原因は何か」と尋ねれば、永遠の問いである「種子と木のどちらが先か?」のような質問はするものではない」と彼は言うだろう。

このような論争は、けっして最終的な真理に行き着くことのない単なる議論にすぎない。

だからこそ私は、まずあなたが誰なのかを見いだしなさいと言うのである。

「私は誰か?」、「どうして私はこの生の過ちを手にしたのか?」と尋ねれば、「私」は静まり、真我を実現するだろう。

もしこの探究を正しく行えば、過ちという観念は消え去り、平和が得られるだろう。

なぜ得る必要さえあろうか?

真我はあるがままに在るのである。

「行為者である私とは誰か?誰がカルマを始めたのか?」と問うことで、自己の真理を知ること、それがカルマの本質である。

カルマを為す自我が探究によって消去されるまでは、カルマ・ヨーガの報いである至福の平和を達成することはできない。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

(至上者バガヴァーン・クリシュナ語る)

活動(カルマ)とは また無活動(アカルマ)とは何か

賢明な者でも これを定義するのに迷う

今わたしはここで活動(カルマ)とは何かを説明する

これを知って君はあらゆる罪から離れよ

 

活動(カルマ)の諸相は、まことに複雑 神秘である

これを理解することは難しい だが

人は活動(カルマ) 誤活動(ヴィカルマ) 無活動(アカルマ)について

正しく学ばなければならない

 

活動のなかに 無活動を見

無活動のなかに 活動を見る人は

たとえどんな種類の仕事をしていても

相対世界を超越した覚者である

 

すべて欲望を持たずに行動する者は

完全智を得た人と心得よ

賢者たちは そのような人々を

大智の火で業(カルマ)を焼き尽くした人と呼ぶ

 

仕事の結果に全く執着しない人は

常に楽しく 自由自在である

あらゆる種類の活動をして

しかも無活動 無業報である

 

このような英智の人は精神を完全に統制して

”我所有”(わがもの)の観念が全く無い

肉体を維持するに足るだけ働き

したがって悪業報を全く受けない

 

無理なく入ってくるもので満足し

我・他(あれ)彼・此(これ)を比較して悩み羨むことなく

成功にも失敗にも心を動かさぬ者は

どんな仕事をしても束縛されない

(バガヴァッド・ギーター第4章16ー22)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(48)「輪廻転生」④

これまで数回に渡り、「輪廻転生」について、ヨーガ的な視点から、その仕組みや現象的展開について、詳しく見て来ました。

 

肉体が消滅した後の死後のことは、生と言う現象世界の中では、これまで一度たりとも人類に明白な形で明らかにされたことがない秘密事項であるために、古今東西、いろいろな説が想像され、語られて来ました。

 

ここでご紹介していますのは、ヨーガにおける死生観であり、それは、「魂の輪廻転生」説を抜きにしては語ることができませんが、同時に、ヨーガにおいては、「輪廻転生からの解脱」も明らかにされているため、この宇宙では、「輪廻転生」は、終わりなく繰り返される現象ではなく、その繰り返しは終焉させることが可能であり、そのための方法があり、また、その方法についての詳細も、多くの聖者の方々の御言葉や、聖典とされている多くの書物の随所に、見出すことができます。

 

このテーマに関しましては、今回が最終回となりますが、最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、次にラマナ・マハルシと質問者との間で交わされた会話からの抜粋、そして、最後に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から、「輪廻転生」についてわかりやすく説明してくれていると感じる箇所をご紹介したいと思います。

 

これまでの過去記事では、聖者の方々の遺された御言葉を、その時取り上げたテーマに沿ってご紹介して来ましたが、それらに基づいて導き出される「唯一の真実」を思い出して頂けると、「輪廻転生」について、更に理解が深まることでしょう。

 

それは、「輪廻転生するのは、誰なのか?何なのか?」と言うことと、「私は、本当は誰なのか?何なのか?」ということに集約されます。

 

ジーヴァ(個のわたし)において、この二つの疑問に対する答えが、明確に真理に基づいた形で明らかになっているならば、「輪廻転生」するジーヴァ(個のわたし)は存在しない、という真実が、「輪廻転生」を消滅させることでしょう。

 

 

 

Birth in Lower Yonis(低い子宮の中の誕生)

 

ルシファー(悪魔)の化身である人は、一人もいない。

ある善い性質や善い性質によって促された行為は、悪い性質や彼らの行為よりも、常に優っている。

そして、人間は、次の誕生、低いか、高いかのどちらであっても、同じ種子から、魂の未来の進化へと進むのである。

一般的に、人は上向きに進化する。

より低い方への退化ではなく、より高い方への進化は、一般的には、自然の法則である。

しかし、例外もある。

もし人が、生まれながら悪魔的な特徴を帯びていて、高度に残忍な行為をするならば、もし彼が動物よりも悪いことを行うならば、もし彼が犬や猿のように行動するならば、彼は、確実に、次の生で人間として誕生するに値しない。

彼は、動物の子宮に誕生するであろう。

彼は、犬や猿、ロバとして生まれるであろう。

しかし、このような場合は、実際には稀である。

人が、凶悪な罪を犯しても、彼はこの身体に居住している間は、最大の罰を得ることができる。

そうなれば、彼が動物として誕生する必要はない。

人は、動物として誕生するよりも、人間の体でいる間に、彼の罪ゆえにより多く苦しむ。

人は、この世での厳しく苦しい経験を通して、学習する。

人が、いかに罪深く、残忍で、狂暴であろうと、彼は、苦しみ、痛み、後悔、トラブル、困難、病気、財産の喪失、貧困、愛する近しい親族の死を通して、彼自身を正し、教育する。

神は、神秘的なやり方で、罪人達を型に入れて、正す。

苦しみと痛みは、効果的な学習の力として働く。

それらは、逆戻りから彼らをくい止め、彼らを上向きへと引き上げる。

かつての罪人は、良い行いを始め、聖者の集まりを求め始める。

 

 

Cut the Knot of Birth and Deaths (生と死の結び目を切り離しなさい)

 

われわれが、どのような身体を纏っているかは、それほど問題ではない。

何がわれわれの想いであるのかが、大変重要である。

高い地位にある人間が、野獣の想いを持つかもしれない。

彼が、渇望や怒りへの犠牲になると、彼は、動物よりも悪い。

識別力がなく、卑猥な楽しみに溺れる、些細なことに癇癪を起すような人間よりも、牛の方が千倍も良い。

あなたが、将来どのような人生を受けるかについては、心配してはいけない。

現在の人生を有効に利用し、誕生と死からあなた自身を自由にしなさい。

神への献身を発揮しなさい。

さもしい願望を放棄しなさい。

他者に対して善いことをすることに一心になりなさい。

親切で良い人になりなさい。

ビシュヌ神は、三界の守護者である。

彼の創造のすべてのモノを彼の不滅の住居へと連れて行くという責任は、彼にかかっている。

彼に、彼の好きな道を通って、あなたを連れて行かせなさい。

彼に、あなたが人間、野獣、悪魔の身体である時に、あなたに解脱を与えさせなさい。

あなたの心(マインド)を、彼に集中させ続けなさい。

満開の蓮の花に吸い付く蜂のように、彼の蓮の花の足元にしがみついていなさい。

誕生と死のこの繰り返しにあなたを縛っている鎖は、あなたの願望である。

あなたがこの世の対象物を願望する限り、あなたはそれらを所有し、楽しむためにこの世に戻って来なくてはならない。

しかし、あなたの現世の対象物を求めるすべての願望が止むと、その時、鎖は壊れ、あなたは自由になる。

あなたは、もはや誕生する必要はない。

あなたは、解脱(Moksha)、或いは、最終的な解放に達する。

あなたは、あなたは神とは異なると思っているので、このサムサーラ(輪廻転生)で迷っているのだ。

もしあなたが瞑想やヨーガを通して、彼とあなた自身とを合一させるなら、あなたは不死と永遠の至福を手に入れるであろう。

永遠の智識を通して、カルマの束縛を断ち切り、最奥の真我であり、内なる支配者、アートマンの至高の平和を楽しみなさい。

あなたは、誕生と死の繰り返しから自由になるだろう。

罪から解放され、熱情から解放され、あなたは生前解脱者(Jivanmukta)、或いは、解放された賢者になるであろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

質問者

「ウッダーラカは、(深い眠りの説明のように)すべてがサット(存在)から現れ出すと説明しました。

身体は食物を取り、食物は水を必要とします。

食物を消化するために、水は火を必要とします。

「チャーンドーギャ・ウパニシャッド」によると、「光の輝きの源を探ること」(テージョ―・ムーラマンヴィッチャ)、それが「存在の中に融け入ること」(サット・パラスヤーン・デーヴァターヤーン)です。

もし私たちが「存在の中に融け入った」(サット・サンパンナハ)のなら、なぜ私たちはそれを悟らないのでしょう?」

 

マハルシ

「異なった花々から集められた蜜がハチの巣の中で塊となるように、そしてその一滴一滴がどこから集められたのかわかならいように、深い眠りの中や死におけるサット・サンパンナハでも、人々は自分の個としての存在を認識しません。

彼らは気づかぬうちにその状態に陥り、目を覚ましたときに以前の彼らの個人的特性を取り戻すのです。」

 

質問者

「たとえ異なった花々から集められた蜜でも、一塊となれば一滴一滴の特質を失ってしまいますが、蜜にはもともと個的な部分は存在しませんし、その源に戻ることはありません。

一方、深い眠りに入った後で目覚めた個人は、以前と同じ個人として目覚めます。

どうしてでしょう?」

 

マハルシ

「ちょうど海に流れ入った川がその個としての存在を失い、蒸発して雨水となって丘に降り注ぎ、やがて川となって海へと流れ着くように、眠りについた個人もその個としての存在を失いますが、過去の心の潜在的傾向(ヴァーサナー)によって、目覚めの世界にまた個人として戻ってきます。

このように死においてさえ存在(サット)は失われないのです。」

 

質問者

「どうしてそのようなことがありえるでしょう?」

 

マハルシ

「見てごらんなさい。

木は枝を切られても再び生えてきます。

生命の源が影響を受けないかぎり、それは生長し続けます。

同様に、死においてハートの中に沈み込んだ過去世の潜在的印象(サンスカーラ)も死に絶えることはありません。

それは機が熟せばハートから芽生え始めます。

ジーヴァはこうして生まれ変わるのです。」

 

質問者

「ハートの中に沈み込んだ微細なサンスカーラから、どうしてこの広大な宇宙が芽生えると言うのでしょうか?」

 

マハルシ

バンヤンの大木が小さな種子から芽生えたように、名称と形態をともなうこの広大な宇宙もハートから芽生えるのです。」

 

質問者

「もしその起源がサットであるなら、どうしてそれを感じられないのでしょう?」

 

マハルシ

「塩の山は目に見えても、水に溶けてしまえば見えなくなります。

それでもその存在は味によって知られるのです。

同様にサットは知性によって認識されなくとも、異なった方法、つまり超越的な方法で実現されるのです。」

 

質問者

「どのようにでしょうか?」

 

マハルシ

「密林で強盗に目隠しをされて置き去りにされた人が、道を尋ねて家に帰り着くように、無知で盲目になった人も、眼の開いた人に尋ね、自己の源にたどり着くのです。」

グルーパデーシャ(師の教え)-

ヴァーング・マナシ・サンパディヤテー、マナハ・プラーネー、プラーナステージャシ、テージャハ・プラスヤーン・デーヴァターヤーン・イティ。

死の瞬間、話す力は心の中に融け入り、心はプラーナ(生気)の中に融け入る。

プラーナはテージャス(光輝)の中に融け入り、テージャスはパラマートマン(至高の真我)の中に融け入る。(チャーンドギャ・ウパニシャッド)」

 

質問者

「もしそうなら、ジニャーニ(真我実現した人)もアジニャーニ(真我実現していない人)も同じように死ぬはずです。

なぜアジニャーニは転生し、ジニャーニはそうならないのでしょうか?」

 

マハルシ

「サッティヤービサンダ、つまり無罪の人は罪人とは違い、熱せられた鉄球に触れても焼かれないように、サッドブラフマ・サッティヤービサンダ、つまりジニャーニはサット(存在、真理)の中に意識的に融け入りますが、他の人は気づかぬうちにサットの中に入り、気付かぬうちに放り出されるのです。」

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

質問者

「神智学は、タンハー、つまり再誕生への渇望について語ります。

タンハーの原因とは何でしょうか?」

 

マハルシ

「再誕生への渇望は、輪廻転生を終焉させるために生まれ変わろうとする願望から起こります。

死を迎えようとしている霊魂は、現在の表面的な死の後で生まれ変わらなければなりません。

現在の死とは自己の真の本性を忘れることであり、それを思い出すことが再誕生です。

それは輪廻転生を終焉させます。

それが永遠の生なのです。」

 

質問者

「私はタンハーという言葉の意味を「生にしがみつくこと」と受け取っています。

それは永遠の生への欲望なのです。」

 

マハルシ

「間違いなくそのとおりです。

その欲望はどうして現れるのでしょうか?

なぜなら、現在の人生が耐え難いものだからです。

なぜでしょうか?

なぜなら、それはあなたの真の本性ではないからです。

もしそれがあなたの真の本性であるなら、どんな欲望もあなたを困らすことはないでしょう。

現在のあなたの状態があなたの真の本性とどのように異なると言うのでしょう?

真実のあなたは、霊性です。

しかしこの霊性は誤って自身を身体と同一視しています。

身体は心によって投影されたものです。

心そのものは霊性から生まれました。

それゆえ、誤った自己同一視が終焉すれば、言葉では言い表せない永遠の至福と平和が訪れるのです。」

 

質問者

「生命は身体に属し、転生とは別の身体に生まれ変わることを意味しています。」

 

マハルシ

「単に身体を変えるだけでは意味はありません。

この身体に結びついている自我が別の身体に移し替えられるのです。

どうしてそれで満足できるでしょうか?

しかも生命とは何でしょうか?

生命とは存在であり、あなたの真我です。

それが永遠の生命というものです。

さもなければ、あなたが存在しないときなど想像できるでしょうか?

その生命は現在身体に条件付けられています。

あなたは自己の存在と身体とを誤って同一視したのです。

あなたは条件付けのない生命です。

心の投影である身体があなたに取りついたため、今のあなたは「私は身体だ」という観念に苦しめられています。

もしこの観念が消え去れば、あなたは真我として在るのです。

誕生する前のあなたは、どこでどのようにしていたのでしょうか?

あなたは眠りの中にいたのでしょうか?

どうしていたのでしょうか?

あなたは誕生する前も身体なしで存在していたのです。

それからそこに自我が立ち現れ、そして心が身体を投影しました。

「私は身体だ」という観念はその結果です。

身体が存在するため、あなたは「身体は生まれ、そして死ぬ」と言います。

そしてその考えを自己に置き換え、生まれるのは自分で、死ぬのも自分だと考えるのです。

実際、眠りの中のあなたは身体なしで存在していました。

しかし今は身体とともに在ります。

真我は身体なしでも存在できますが、真我なしに身体が存在することはできません。

「私は身体だ」という考えは単なる無知であり、身体は真我から分離していないという考えが知識なのです。

それが知識と無知との違いです。

身体とは心の投影でしかありません。

心とは自我であり、自我は真我から生まれます。

身体という観念はあなたを真我から逸脱させ心惑わせます。

身体や誕生は誰に起こるのでしょうか?

真我、霊性にではありません。

それは真我から分離していると想像する非真我に起こるのです。

分離の感覚がそこにあるかぎり、苦悩をもたらす想念は起こり続けるでしょう。

しかし存在の源に戻ることができれば、分離の感覚は消え去り、心の平安が訪れるのです。

石を真上に放り投げたときのことを考えてごらんなさい。

それは源を去って上昇し、それから下降し始め、ついに源に戻るまで動きの中にいます。

源には休息があります。

同じように、海の水は蒸発し、雲となって風に吹かれ、水滴となって雨として落ち、水流となって丘を下り、ついには川となって源である海に帰り着きます。

源にたどり着いたとき、初めてそれは安らぐのです。

ですから、わかるでしょうか。

源から分離しているという感覚があるかぎり、そこには不安と動揺があり、分離の感覚が失われるまで動きはやみません。

あなたもまた同じです。

現在のあなたは霊性である真我から分離して自分を身体と同一視しています。

偽りの同一性が消え去る前に、源に戻らなければなりません。

そうして初めて、あなたは幸福になるのです。

金は宝飾品ではありません。

しかし宝飾品は金以外の何ものでもありません。

宝飾品がどのような形を取ろうとも、その本質はただ一つ、金です。

身体と真我についても同じことが言えます。

唯一の真理は真我です。

自身を身体と同一視しながら幸福を探そうとすることは、ワニの背中に乗って河を渡ろうとするようなものです。

身体との自己同一化をもたらすのは、外に向かってさ迷う心です。

そのような状態にとどまるなら、混乱は際限なく続き、心の安らぎはありえません。

あなたの源を探し出しなさい。

そして真我に融け入り、「一なるもの」として在りなさい。

再誕生は現状への不満と、不満のないところに生まれたいという欲望を示しています。

誕生は身体のものでしかないため、真我に影響を与えることはできません。

身体が消滅した後でも真我は在り続けます。

永遠の真我とはかなく消え去る身体との誤った自己同一化、それが現状への不満の正体です。

身体とは自我の必要付属物です。

自我が殺されれば、真我はその栄光とともにあきらかになるでしょう。」

 

質問者

「恐れとは存在を失うという可能性の結果です。

それは身体に根づいたものです。

眠りの中では、人は身体に気づいていません。

人は恐れることなく喜んで眠りにつくというのに、死ぬことは恐れるのです。

どうしてこのような違いが起こるのでしょうか?」

 

マハルシ

「眠りを求めたり死を恐れたりすることは、心が活動しているときだけで、眠りの状態や死の状態の中では起こりません。

心は「身体を持つ実体が眠りの間も存続し、眠りの後に再び現れる」ということを知っています。

それゆえ、眠りに恐れは起こらず、その代わりに身体的存在がなくなることの喜びが求められるのです。

一方、心は死が起こった後、再び現れるかどうかに確信がないため、それを恐れるのです。」

(ラマナ・マハルシとの対話より)

 

 

 

ヴェーダンタによると、人間は5つのコーシャという鞘から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、5つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。

死と同時に、物質的な肉体は、意識の心と共に、不死の部分から離れます。

感覚器官は肉体と共に置き去りにされるので、死後、感覚的な知覚はありません。

感覚は、微細なレベルでは機能しません。 

死後、外側の乗り物、あるいは鞘を捨てる過程で、人は、短い間、歓喜鞘に接触するようになります。

臨死体験を報告する人々は、彼らが愛で彼らを包む輝く光に引き付けられたことについて語るとき、この短い接触を記述しているのです。

このような経験は、彼らが自己認識、あるいは、悟りに対処すべき何もしていない場合以外は、可能です。

これらの一瞬の経験は誰かを変容させる可能性を持っていませんし、透視能力や他人を癒すエネルギーのような超能力を授けたりはしません。

もし、人が、一生涯、暗闇と無知にあるなら、死のときに、短い時間であっても、アートマン接触するにはどうしたら可能でしょうか? 

もし、ランプが多くの覆いを持っていたら、光はとても暗いときにしか見えません。

すべての覆いが取り除かれたとき、光ははっきりと見えます。

悟りは、光を見ることではなく、内側の光が真の存在だと悟ることです。

これは太陽、月、星々の光ではありません。

智慧と永遠の至福の光です。

悟りに相当する経験は他にはありません。

死は悟った人にはどんな力もありません。

探求者は、死後、悟らされることを期待する代わりに、次のステップの準備をする真摯な努力をし、地球の次元にいる間の今ここで、悟りを達成しようと努力するべきです。

無知なる魂は、天国へ行くか、彼らの満たされない願望の満足を求めて地球に帰ってきます。

願望する者は、生まれます。

願望しない者は、再び生まれることはありません。

生まれ変わりの理論によると、すべての連続する誕生では、より多くの智慧を得て、最後には完全なる自由を獲得するように、行為のメリット、デメリットによって、魂は何度も何度も生まれます。

この生まれ変わりの理論は、現代の科学的な方法では証明することはできません。

科学的なアプローチは、原因と結果の法則に一致しているもっともらしい理論として取り扱うことができるだけです。

それが、物質的な宇宙の正に基本なのです。

ウパニシャッドの師たちは、天国か地獄における永遠の生まれ変わりの理論には感銘を受けませんでした。

なぜなら、このような仮説は、原因と結果の不釣り合いな関係に基礎を置いているからです。

地球上の人生は短くて、誘惑に満ちています。

魂に数年の、あるいは全生涯であろうと、その過ちのために永遠の罰を与えることは、物事のあらゆる釣り合いを捨て去ることです。

古代の預言者たちは、魂の体現をもたらすのは、満たされない願望であると示して、合理的な基準で、生まれ変わりの理論を発展させました。

別の体を手に入れる前に、魂が死の移行期で過ごさなくてはならない時間の長さは、ただ、願望の強さに依存しています。

自然に設定された厳しくて固定した法則はありません。

信じる、信じないは、人の霊的な向上にとって重要な考えではありません。

事実は、もし、全能の神が親切で慈悲深く、人間の運命を決定するのなら、彼の創造において不平等はないということになります。

平等は絶対の法則であり、不平等は人間が作ったものなのです。

生まれ変わりの理論によると、私たちはみんな自分の今生とあの世の生に完全に責任があります。

各人は、自分の過去の個人的なカルマを通して形作られた世界に生まれます。

魂は、体の現れを通して、願望を満たした後、体を脱ぎ捨て、新鮮な形を身につけます。

私たちの願望と傾向に応じて、私たちは、微妙な点でいろいろな段階や浄化や微細な鞘のレベルを構成しているより高い、あるいはより低い次元に生まれます。

私たちは、私たちが想いと行いを通して、自分の未来の運命の創造者であることを忘れてはいけません。

神は邪悪な者を罰し、善行者に報いると考えることは愚かなことです。

私たちは、次の生まれ変わりの要因を意識的に選んではいません。

それらは、私たちの以前の行動、想い、願望によって、決定され、あるいは選択されます。

人を表面的に人格として決定する、この決まりきった型である溝の蓄積、あるいはサンスカーラは、ある誕生から次の誕生へと旅をします。

溝は砂漠の砂丘のように、人の経験と意志に応じて、移ります。

それらは、異なる人格と異なる姿を創造しながら、しかしすべては究極の自由に向かって動きながら、形を変え、大きな時間の広がりに影響を与えます。

溝は、姿の特徴を決定します。

男性か女性か、どんな親か兄弟か、どんな身分か、どのくらいの苦しみ、どのくらいの喜びか、等々。

それについて任意のものはありません。

誕生は、展開している個人の魂の霊的な必要性に完全に釣り合っています。

地球、あるいは天国における生の一時的な性質を悟った人々は、生と死の終わりのない繰り返しを避けることを求めます。

彼らは、けっして戻らない天国を超えた最高の実在であるブラフマロカを熱望します。

悟った個人は、完全にすべての状態で、人間の体で生きている間も、死の状態の間も、気づいています。

ブラフマンを知る者は、どんな領域にも、あるいは天国にも行くことはありませんし、常にそうであるもの――すべての自己であるアートマン以外の何かになることもありません。

物質的な外観を落とした後は、悟った魂は、永遠の至福と幸福、無限の愛と智慧の状態にあります。

アートマンを知った者は、眠りから目覚め、もはや夢を見ない人のようです。

視覚を取り戻した目の見えない人のようです。

アートマンの直接体験を持つ解放された魂は、他人に仕えるために戻る選択をしないならば、物質的な次元には戻りません。

このようなジーヴァ・ムクタ(生前解脱者)は、もはや束縛対解放のような二元に身を投げることはありません。

悟った魂は、他の人間を盲目にしているカルマのすべての撚糸(よりいと)を燃やします。

このような人は、自由の意志をふるい、生まれ変わるべきか、絶対と融合すべきかを選択します。

もし選択が生まれ変わりなら、その誕生の環境は、また意識的に選択されます。

仏教によると、このような魂は、アルハット(阿羅漢)と呼ばれます。

死の王(ヤマ)によって明らかにされた秘密は、死後、どこに生きるのかを知りたいと思うすべての人間にとって、すべての秘密の中の最も大きな秘密です。

通常の人間の場合には、これは来たる多くの誕生にとっては秘密のままです。

生と死の神秘やあの世の生は、ごく少数の幸運な人々にのみ知られているのです。

人間は、物質世界や、いかに自然を凌(しの)ぐかについて、非常に多くのことを学びます。

彼らは、誕生の秘密を知るために一生懸命に働き、誕生のプロセスをより楽に苦痛が少なくなるようにする方法を見つけました。

しかしながら、彼らは死に対し適切に準備することを学んでいません。

死は恐ろしいものではありませんが、恐ろしいのは、死の恐れです。

死は、ほとんど中身のない、まったく喉の渇きを癒さないカスを噛んでいるようなものであり、この世を楽しむことに彼らの時間とエネルギーを浪費した人々に慰めを与える母親のようなものです。

死は、点であって、終止符ではありません。

死はただの体験であり、誰も逃れることができない変化でしかありません。

その準備をしない人は愚か者です。

真の自己は死ぬことはできません。

それは、物質的な鞘が滅ぶときでさえも、存在し続けます。

物質的な自己は、アートマンに潜んだままでいる粗野な媒体です。

肉体が滅びたとき、体の微細な物質は同じままです。

何も宇宙では失われていません。

宇宙的なエネルギーは永遠から永遠へと続いています。

 

魂、あるいはジィーバが離れるとき、生命エネルギーであるプラーナが続きます。

プラーナが離れるとき、他のすべての生命維持器官が続きます。

呼吸システムはプラーナの乗り物です。

心と体の関係を確立するのは呼吸なのです。

吸息と呼息が機能を止めると、死が起こります。

肉体的な死は変化であり、潜在意識と魂を無にすることはありません。

話す、掴む、動く、妊娠する、排泄するという行為の5つの器官の微細な力と、感覚知覚器官と5つのプラーナとマナス、ブッディは微細体を続けます。

生まれ変わりのときに、魂は微細体に伴われます。

全身は死の際に分解しますが、微細体は存在し続けます。

メリットとデメリットの倉庫である潜在意識は、ジィーバ、あるいは魂のための乗り物になります。

私たちの多くの生のすべてのサンスカーラは、種子のような潜んだ状態で、私たちの潜在意識の倉庫にあるのです。

微細体と粗雑体との関係は、種子と植物との関係に似ています。

種子は、種子遺伝子において植物のすべての性質を内包しているように、潜在意識は、私たちの過去生のすべてのサンスカーラを留めています。

仏教徒とヨーガ行者は、魂と心と体を信じ、その間を区別しています。

魂は、創造されていません。

それは本質的には、意識であり完全です。

粗雑体の消滅の後、すべては潜在したままです。

魂は生き返ります。

私たちの魂は、死後も、完全であり、消滅せず、分解せず、破壊されません。

もし魂が、真の実体であり存在であるなら、それを経験するいくつかの方法があるべきです。

適切な霊的な訓練を実行する誰もが、この経験を持つことができます。

生と死は、同じ事実にとっての異なる名前であるだけです。

それは、ひとつのコインの2つの面です。

このような区別を超えることができる人は、死を克服し、彼岸、すなわち、永遠の生命に到達することができます。

アートマンが不死であるという基本的な真理を理解する人は、死の神秘を解き明かすことができるのです。

サマディを達成した人々は、まさに今生のここで、死後の生を経験することができます。

自らの真の自己を悟った人は、不死なのです。』

 (聖なる旅-目的をもって生き、恩寵を受けて逝く byスワミ・ラーマ)

 

 

 

 

アルジュナ問う

「信仰を持っていたが 持続できなかった人

はじめ真我実現の道を進んだが 俗心に負けて

ヨーガを完成できなかった人々は

その後いかなる運命をたどるのですか?

 

大力無双のクリシュナよ そのような人は

至上者(ブラフマン)への道をふみ外して

どの領域にも立場がなくなり

ちぎれ雲のように消滅するのですか?

 

クリシュナよ これが私の疑問です

ぜひこの不安をとり除いて下さい

私の疑惑を打ちくだくことのできるのは

あなたをおいて ほかにありません」

 

至上者(バガヴァーン)答える

「プリターの息子よ 真理を求めて

めでたき行いをした人々は

この世でも霊界(あのよ)でも破滅することはない

友よ 善を為した者は決して悪道に堕ちない

 

挫折したヨーギーは次生において

純真清浄な者たちの住む星界に往き

長い間そこの生活を楽しんだ後で

地上の徳高き豊かな貴族の家庭に生まれる

 

または大いなる智識をそなえた

ヨーギーの家庭に生まれてくる

地球上(このよ)において このような誕生は

まことにまことに稀なのである

 

アルジュナよ そのような家庭に生まれて

彼は前世における神聖な意識を

よみがえらせて その力を一新し

再び最高の目的に向かって努力するのだ

 

前世で聖なる意識をもっていた徳により

彼は我知らずヨーガの思想に魅かれる

探求心の強い求道者は常に

宗教儀礼を励行する者よりも勝れている

 

幾多の誕生をくりかえして修行を重ね

誠実に努力して霊的向上に励み

すべての汚濁(よごれ)を洗い清めたヨーギーは

ついに至上の目的地に着くのである

 

ヨーギーは苦行者よりも偉大である

ヨーギーは哲学者よりも偉大である

ヨーギーは有益な働き手よりも偉大である

故にアルジュナよ ぜひヨーギーになりなさい。

 

だが全てのヨーギーのなかで最勝の人は

大いなる信をもって わたしに帰命し

常に信愛を捧げて礼拝奉仕する人だ

彼はわたしの最も親しい身内なのだ」

(バガヴァッド・ギーター 第6章37ー47)

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(47)「輪廻転生」③

ここ数回に渡り、ヨーガの視点から語られている「輪廻転生」について、ご紹介しています。

 

私たちのほとんどは、”一人の人間として生きている”という感覚や認識があるために(それらが生じていない人はいないことでしょう)、死後、自分はどうなるのだろう?とか、この生きている現世(この世)があるように、死後は、死後に生きる来世(あの世)があるのだろうか?などと、まことしやかにこの世に流布しているごく僅かな情報を元に、可能な限りの空想・想像をふくらませ、「死」に対するイメージを抱き、中には、その時を迎えるための心の準備をしている人も、いるかもしれません。

 

所謂「真我の智識(Atman-Jnana)」である「真我だけが実在であり、個我はただの想念に過ぎず、実体のない非実在である」ということが明らかになると、この世に死んだり、誕生したりする「個」と言う存在は存在せず、それまで想像していた「個人の死」は、肉体との誤った同一視によって生じている単なる想念の中で起きている幻想(迷妄)であるという理解が起こり、”個別の魂が輪廻転生する”という誤った想念は、消滅します。

 

肉体が、個々人によって異なることから、その肉体に宿る「魂」までもが、個別であろうという思い込みは、完全に誤りであり、それは、私たちが、”自分とは何であるのか?”を知らないため(明知でないため)に起こること(無知)であるという理解が生まれます。

 

「魂」には、個別性はありませんし、違いはありません。

わかりやすい例えで言うならば、肉体に宿る「魂」とは、源である大きな宇宙発電所から電気(エネルギー)を供給してもらっている個々の変電所のような存在だとイメージすれば、理解しやすいでしょう。

変電所で変圧された電気(エネルギー)が、私たち一人一人の生命エネルギーとして私たちを動かす動力として働いています。

「魂」からの生命エネルギーが供給されなくなると、身体も心も働くことができなくなります。(人間は、この現象を「死」と呼んでいます)

 

本当の自分(真の自己)とは、肉体ではなく、心でもなく、永遠不滅の「魂」であり、その永遠不滅の「魂」は、個別のものではなく、この宇宙を在らしめ動かしている唯一の源である大霊(真の実在)と同じである、ということがわかれば、「個別の魂が輪廻転生する」という幻想(想念)は、消滅することでしょう。

 

この誤った想念が消滅しない限り、誤った想念は顕れ続けますので、誤った想念と共に顕れ続ける「わたし」は、「輪廻転生」という誤った想念と共にいることになります。

 

この自動反応的な結びつきを断ち切るには、「真我の智識(Atman-Jnana)」の実現が、必要不可欠であり、「真我の智識(Atman-Jnana)」が明らかになると、自然と、「個という幻想」が消滅するため、個が生と死を繰り返すという「輪廻転生」という誤った想念も消滅します。

それまで変化する肉体と同化していた「魂」ですが、「真我実現」がなされた後では、常に変化する変化変容のこの世にありながらも、この世の変化に影響を受けない「真我」に留まることで、この世という夢の世界との結びつきが断たれた状態である「解脱」が、自然ともたらされることでしょう。

 

それまでは、個人は、夢の中にいますので(その自覚がなくとも)、夢の中では、個人は、生と死を繰り返す「輪廻転生」を繰り返すことになります。

しかし、ひとたび「真我実現」がもたらされれば、本当に実在するのは、真我である「魂」だけであり、「個としてのわたし」は幻想であることが明らかになるために、「個人の死」という概念は消滅します。

よって、”輪廻転生する「個人のわたし」はいない”、ことになります。

 

それ故、「私は誰か?」この問への答えである「真我の智識(Atman-Jnana)」だけが、個に生じている輪廻転生の束縛を断ち切ることができると言えるでしょう。

 

前回同様、最初は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋、次に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」、次は、ラマナ・マハルシが真我探究者に読むことを推奨したとされている「ヨーガ・ヴァーシシュタ」から「解脱」について、そして、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介したいと思います。

また、今回は、最後に、ヒンドゥー教聖典とされている「バガヴァッド・ギーター」から、主クリシュナが、探究者アルジュナを諭す御言葉の中から、「私は誰か?」という問いへの答えとして、明確に述べられている真理をご紹介いたします。

 

この理解に至れば、「輪廻転生」とは人間にとって何であるのか?ということが明白になり、「個のわたし」と「輪廻転生」とを結びつける束縛の糸を断ち切ることができることでしょう。

(真我である「魂」は、肉体(物質体)ばかりでなく、心(アストラル体)とも同化していますので、束縛の糸は、一本ではありませんが、肉体と心は固く結びついているので、真我である「魂」と肉体との同化が断たれると、心との同化も断たれるために、一太刀で一刀両断できることになります。

このことについては、後々の記事の中で、解説する予定でいます)

 

 

 

Real-Life Instances that Prove Rebirth(再誕を証明する現実の人生の例)

 

これは、輪廻転生のヒンドゥー教の理論を信じない人々への異議である。

最近、サンティ・デヴィという少女が、デリーにおける彼女の過去生を活き活きと詳しく描写した。

デリーやマトラでは、いや、ウッタルプラデーシュ州中で、大きな物騒ぎとなった。

彼女の記述を聞くために、大勢の群衆が集まった。

彼女は、マトラに住んでいる彼女の過去生の子供や夫を認識した。

彼女は、お金が保管されている場所や、今は表面を覆われている家の中の古い井戸を指摘した。

すべての彼女の供述は、正当に確かめられ、ちゃんとした目撃者達により確証されている。

このような幾つかのケースは、ラングーン、シタプール、その他の場所で起きている。

彼らは、今では、極めて一般的である。

このような場合には、個の魂は、古いアストラル体、或いは、微細身(Linga Sarira)

を伴って直ぐに再誕する。

それは、過去生の記憶がやって来る理由である。

彼は、彼の数々の世界の体験に従い、新しい心とアストラル体を再構築するために、長い時間、精神(メンタル)世界に留まらなかったのである。

 

 

 

Karma and Rebirth(カルマと再誕)

 

再誕の教義は、カルマの法則に対する必然的に引き出せる結論である。

一人の個人と他の個人の間に見出された気質の違いは、彼らの個々の過去の行為に因るものでなければならない。

過去の行為は、過去の誕生を暗示する。

更に、すべてのあなたのカルマは、今生で必ずしも身を結ぶことができない。

それ故、残っている行為を楽しむためにもう一つの誕生がなければならない。

それぞれの魂は、一連の誕生と死を持っている。

誕生と死は、あなたが不死の智識に到達するまで、続くであろう。

善いカルマは、より高い領域への転生へと導き、悪いカルマは、より低い領域への転生へと導く。

徳により、より高い次元への上昇を得、悪により、より低い次元への下降を得る。

至福は、智慧に起因し、束縛は反対である。

カルマが使い尽されない限りは、―良くても、悪くても-人は、数百カルパ(1カルパは432,00,00.000年)の時間を経ても、解脱(Moksha)、或いは、最終的な解放に達することはない。

善いカルマと悪いカルマは、共に、彼らの鎖で個の魂を固く縛っている。

一つは、金の鎖、もう一つは、鉄の鎖である。

解脱(Moksha)は、永遠の智識が獲得されない限り、人によって達成されることはできない。

 

 

 

Christian Theory Contradicted(相反するキリスト教的理論)

 

輪廻転生の目的は、改善と完成である。

それは、生と死の繰り返しから彼を自由にする究極の実現を人間に準備させる。

人は、一つの生で完成に達することは、ほとんどできない。

彼は、彼のハート、知性、手を開発しなくてはならない。

彼は、完璧な方法で、彼の人格を形成しなくてはならない。

彼は、慈悲、寛容、愛、赦し、平等感、勇気など、数々の徳性を開発しなければならない。

彼は、多くの練習と経験をこの大いなる世界という学校で学ばなければならない。

それ故、彼は、多くの人生を経験しなくてはならない。

輪廻転生は、真実である。

一つの小さな生は、あなたの後ろとあなたの前に広がる長い連続の一部分である。

それは、全く些細である。

人は、少しの経験だけを得る。

彼は、ほとんど進化しない。

一つの人生のコースの間、人は、多くの悪い行いをする。

彼は、ほとんど善い行いはしない。

善い人間として死ぬ人は、極僅かである。

キリスト教徒は、一つの人生が、すべてを決定し清算すると信じている。

後の誕生で、彼自身を清めるために、罪人に与えられる機会はない。

彼の限定的な罪は、もし少しも清められなければ、死んでいる彼を終わりのない惨めさに突き落とす。

これは、どうあることができるだろうか?

人の永続する未来は、一つの小さなほとんど意味のない人生に頼るために、どのように作られることができるだろうか?

もし、あの人生で、彼がキリストを信じるなら、彼は天国で永遠の平和を得るだろう。

もし彼が、その人生で不信心なら、彼は永遠の天罰を受けるだろう。

彼は、火の湖か恐ろしい地獄に永遠に投げ込まれるだろう。

これは、最も不合理な教義ではないだろうか?

彼は、修正や改善のためのチャンスを得るべきではないのだろうか?

輪廻転生の教義は、極めて合理的である。

それは、人の矯正、成長、徐々なる進化のための十分なチャンスを与える。

ヴェーダンタは、極悪人のためにでさえ、救済の希望があると言っている。

罪人は、限定された期間、彼の悪行の報いを収穫しなければならない。

彼が、彼の罪から洗い清められた後、彼は再び理性のある存在として生まれ、それと同時に、正しい道と誤った道を選択する意志の自由と共に、そして他のモノから一つを識別する智識と共に、彼の解放を成就するための新しい機会を与えられる。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『ナチケータの父も、供物を施した後にブラフマン智慧が当然の結果として生じるという確信を持っていたにもかかわらず、彼の富を手放すことができませんでした。

カタ・ウパニシャッドは、彼が供物の一部として引き渡すために牛を連れてきたと語っています。

しかし年老いて、乳が出ない盲目で病気の、ほとんど、いえ、全く役に立たない牛だけでした。

ヴァージャシュラヴァサは、良い牛は自分のために取っておいたのでした。

ナチケータは、父が供物のために連れてきた年老いて役に立たない牛を見て、このような価値のない贈り物は父に不幸をもたらすだろうということがわかりました。

父を助けたいと熱望し、ナチケータは父に、息子として彼もまた父の財産であり、分配のための供物に含めるべきだということを思い出させました。

「お父さん、あなたは私を誰に捧げるのでしょうか?」ナチケータは尋ねました。

ヴァージャシュラヴァサは、これらの供物が心無いものだという考えに絶えず付きまとわれていたので、自分の否定的な感情を息子に向け、ナチケータの申し出を生意気な言葉として解釈することを選びました。

三度、ナチケータは父に自分は誰に捧げられるのかを尋ねました。

三度目の後、ヴァージャシュラヴァサは怒って言い返しました。

「わしは、おまえを死の支配者であるヤマにくれてやる」

ナチケータは、純粋な心の持ち主で信仰心にも溢れていたので、陽気に父の言葉をその通りに受け取りました。

「死には何もない」とナチケータは言いました。

「すべての存在は穀物の種のように実り、そして再び死ぬ。

今私は真理を発見し、そして死の神秘を覆うヴェールを取り除く最初の人間となろう」

ナチケータがヤマの住居に行くと、死の支配者は留守でした。

ヤマが戻るまでに三晩が過ぎました。

留守で客人を歓迎できなかったことを穴埋めするために、ヤマはナチケータに、適切なもてなしもせず独り待たせた一晩ごとに一つ、合計三つの願いをかなえることにしました。

最初の願いとして、ナチケータは、彼が父に対して持っている敬意を再び証明するもので、ヤマに今自分は家から離れているので、ヴァージャシュラヴァサの心をなだめ、怒りを鎮め、父が持っているかもしれない心配事を取り除くように頼みました。

ヤマは願いを聞き入れ言いました。

「おお、ナチケータ、おまえの父は幸運にもおまえを認めるだろう、そしておまえを大いなる愛と優しさをもって扱ってくれるだろう」

二番目の願いとして、ナチケータはヤマに火の供物、それに伴うすべての儀式、祭典を見せて欲しいと頼みました。

「天国では」と二番目の願いの要求の中でナチケータは言いました。

「恐れもなく死もなく、年を取ることもなく、滅びることもなく、飢えもなく、渇きもなく、痛みもなく、苦しみもありません。永遠の至福があります。死の支配者であるあなただけが、供物を催行することにより、死に至る者がどのようにこの至福の天国に至ることができるのかを知っています。

これが、私の二番目の願いです。

私は死者を天国に導く供物の性質を知りたいのです」

ヤマはそれをかなえ、ナチケータに火の供物を教えました。

ヤマはそのとき、ナチケータに三番目の願いを選ぶように言いました。

自分の気持ちを検討し、心を静めた後、ナチケータはヤマに言いました。

「人は世界から離れた後、永遠に去ってしまうと信じられています。

一方で、再び生まれるという別の視点もあります。

死の後でさえ、人は真の意味で死ぬのではなく、精妙なる体を持った精妙なる段階にとどまっていて、外の物質的な外観だけが捨てられ、それを死と呼ぶというものです。

死んだ人が生きるというさらに別の視点もあります。

これらのうちどれが本当ですか? 死の後は何が存在するのですか? 

私に説明してください。

死の神秘に関する真理、これが私の三番目の要求です」

ヤマは、彼の若い弟子の熱意と正直さを試すことなく、ナチケータに死の神秘について説明したくありませんでした。

ヤマは、ナチケータに神々でさえこの神秘について理解することは困難であると語りました。

「把握することは誰にとっても大変難しい」とヤマは言いました。

「違う願いを言いなさい。そうすればわしは大いに喜んでそれをかなえよう」

ナチケータの気持ちは揺らぎませんでした。

彼はヤマに、神々が死の神秘に一度は惑わされても、主題を理解するのが難しくても、それを説明するのにヤマよりも良い教師はいない、と言いました。

「おお、死の王よ」とヤマは言いました。

「わしは他のどんな要求もさせまい。これに匹敵する願いはないし、わしは秘密を知らなくてはならない」

ヤマは他の道を試し、神と富、過ぎ去っていく物質的な喜びと永遠の歓び、幻影と真実との間の選択という、すべての人類が直面する誘惑でナチケータを試しました。

ヤマは、ナチケータに天国にあるすべての喜びと共に、彼が望むだけ何年も生きられることを申し出ました。

ヤマはナチケータの子ども、ひ孫、そして玄孫、立派な馬や象、金、宝飾品、珍しい宝石を保証しようと言いました。

彼はナチケータに地球の王国を与え支配させようと言いました。

彼はナチケータの要求する三番目の願いをかなえたくなかったのです。

「求めた三番目の願いの代わりに、この富と力をすべて受け取りなさい」とヤマはナチケータに言いました。

「これ以外のおまえのすべての願いをかなえてあげよう」とヤマは続けました。

「なぜなら、それは、生の最も偉大なる秘密だからである。

普通の人間が持つことはないような天界のすべての乙女たちは、もしおまえが望むならば、おまえものとなろう。

再びあの問いをわしに尋ねるな。わしは生と死の秘密を漏らしたくないのだ」

そのとき、ナチケータは、生と死の関係や人生の目的について知りたいという信念と決意の深さを見せました。

彼はヤマが申し出た誘惑には興味がありませんでした。

彼はヤマに躊躇わずに答えました。

彼は死の支配者に言いました。

「これらすべての一時的で消滅する事物をどうしろというのです? 

感覚によって知覚されたすべては一時的なものです。

そしてこの次元の生命は死によって変化し、滅びます。

天国における生でさえ、自由の知識を獲得しないでは生きる価値はありません。

あなたのすべての踊り子たちや世俗的な誘惑はただ感覚的な喜びであるだけです。

おお、死の王よ、それらはご自分で持っていてください。

誰も世俗的な富によって幸福を得ることはできません。

この世界の物質的な楽しみと天国での生は変化することになっています。

この世界がすぐに過ぎ去るという性質を知った後で、誰が長寿だけを願うでしょうか? 

私は千年も生きたいとは思いません。

もし私が最高の智慧を得て、至高の智慧に達せないのなら、私はこんなに長い人生で何をすべきでしょうか?」 

ヤマがナチケータの明晰さと決意を見た時、彼は喜んで三番目の願いかなえることを申し出ました。

今やカタ・ウパニシャッドは本気で、不死の秘密、生と死の意味を明らかにし始めます。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

 

 

『 解脱の第二の門番である真我探究は、綿密な聖典の研究を通して浄化された知性によって為されるべきだ。

この探究が途切れるようなことがあってはならない。

そのような探求を通して知性は鋭敏になり、「至高なるもの」の実現を可能にする。

それゆえ、ただ真我探究だけがこのサンサーラという長く続く病の最高の治療法なのだ。

賢明な人は、力、知性、能率、時宜を得た行為を真我探究の成果と見なす。

実際に、王国、繁栄、快楽、そして最終的な解脱でさえ、すべては探求の結果なのだ。

軽率な愚か者に襲いかかる災難でさえ、この探究精神が守ってくれる。

探求の欠如で心が愚鈍になると、月の涼しい光でさえ恐ろしい武器となる。

そして、未熟な想像力が暗闇のいたる所に悪鬼を撒き散らすのだ。

それゆえ、探求しない愚か者はまさに不幸の倉庫だ。

探求の不在は、自分自身や他者に害や無数の心身の病気をもたらす行為を生み出す。

そのため、そのような軽率で愚かな人々とともにいることは避けなければならない。

絶えず探求精神に目覚めている人は、出会う人すべてに啓示を与え、無知な心によって生み出された亡霊を追い払い、感覚的快楽とその対象という虚偽を見破る。

ラーマよ。

永久不変の真理は探究の光の中で実現される。

これが「至高なるもの」だ。

それさえあれば、人は何か他のものを得ようとすることも避けようとすることもなくなる。

妄想や執着から自由になり、無為に浸ることも行為に溺れることもない。

彼は世界の中で生き、働く。

そして自然な寿命を全うしたとき、完全に自由な至福の状態に達するのである。

霊的探求の眼は、あらゆる活動の只中にあっても、その視野を失うことはない。

この眼を持たない者は、実に哀れだ。

この眼がないなら、泥の中のカエル、糞の中のウジ虫、穴の中の蛇に生まれたほうがましだ。

真我探究とは何か?

それは「私は誰か?このサンサーラという悪はどうして生まれたのか?」と尋ねることだ。

真理の知識はこのような探求から生まれる。

そのような知識から自己の内に静寂があふれ出す。

そして、そこに理解を超えた至高の平和とすべての哀しみの終焉が訪れるのだ。

 

もう一人の解脱の門番は、「満足すること」である。

満足の甘露を飲み干した人は、感覚的快楽を求めるようなことはしない。

この世のいかなる喜びも、すべての罪を拭い去る「満足」ほど快いものではない。

満足とは何か?

求めても得られないものへの願望を放棄し、求めずして得たものに満足すること、そのために得意がることも憂鬱になることもない――それが満足である。

自己に満足しないかぎり、人は悲しみに支配されてしまう。

満足が生まれると、清らかなハートが花開く。

何も所有せずに満足する人は、世界を所有するのだ。

もう一人の解脱の門番は、サットサンガ(賢者との交際)だ。

サットサンガは人の知性を広げ、無知と心理的苦悩を破壊する。

どんな犠牲を払っても、どんなに困難であろうとも、道を防げる障害が何であろうとも、けっしてサットサンガを軽んじてはならない。

なぜなら、ただサットサンガだけが人生の道を照らすからだ。

慈善、禁欲生活、巡礼や宗教儀式のような他の修練をするよりも、サットサンガは遥かに優れている。

人はハートの無知の暗闇を照らし、真理を実現した聖者を讃え、力の限りをつくして奉仕するべきだ。

その反対に、そのような聖者に無礼を働く者は、間違いなく苦難を招くことになる。

これら四つ――自己制御、探求精神、満足、サットサンガ(賢者との交際)は、サンサーラの海に溺れる人たちを確実に救うことのできる手段である。

満足は最大の報酬だ。

サットサンガは目的地までの旅路の最高の同伴者だ。

探求精神はそれ自体が偉大な叡智であり、自己制御は無上の幸福なのだ。

もしあなたがこれら四つすべてにたずさわれないなら、一つだけでも実行しなさい。

それらの内の一つを誠実に修練すれば、他の三つもあなたの内に見いだされるだろう。

そして、自然とあなたの内に最高の叡智が湧き起こるだろう。

これらの高尚な特質の助けを借りて、心という野生の象を飼いならすまでは、たとえあなたが神や半神半人になったとしても、「至高なるもの」に近づくことはできない。

それゆえ、ラーマよ。

これらの高尚な特質が培われるよう努力しなさい。

ここで挙げたような特質に恵まれた人は、私が今から明らかにすることを聞くにふさわしい。

ラーマよ。

あなたはまさにそれにふさわしい人なのだ。』

(ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我)

 

 

 

『心とは真我と身体の同一化にすぎません。

それによって偽りの自我が生み出され、それがまた偽りの現象を生みだし、あたかもその中で活動するかのように見えるのです。

しかし、これらすべて偽りです。

真我だけが唯一の実在なのです。

偽りの同一化が消え去れば、常在の実在は明らかになるでしょう。

実在が今ここに存在しないということではないのです。

それは常に存在し、永遠に変わりません。

それはまた誰もが体験していることです。

なぜなら、誰もが「自分は存在している」ということを知っているからです。

「自分は誰か?」とは、主観的には「私は誰か?」です。

偽りの自我は対象と関わっています。

この自我自身もその対象なのです。

対象であるなら、それは偽りだということです。

主体だけが実在だからです。

対象、つまり身体とあなた自身を混同してはいけません。

これが偽りの自我を生み出し、その結果、世界とその中で活動するというあなたに不幸が現れ出すのです。

あなた自身をあれこれ、誰それなどと考えてはいけません。

ただ偽りを払い去りなさい。

そうすれば、実在はおのずと明らかになるでしょう。

聖典は「真我はニディア・シッダ、すなわち永遠の存在である」と述べながら、無知を取り除くことについて語っています。

もし真我が永遠の存在なら、どうしてそこに無知がありえるでしょう?

誰にとっての無知だというのでしょうか?

これは矛盾しています。

しかしそのような言葉は誠実な探究者を正しい道に導くためのものなのです。

「私が存在しなかったことは一度もない。あなたも、ここにいる王たちも。。。。」このような平易な言葉で述べたなら、探究者は唯一の真理を理解できないでしょう。

シュリー・クリシュナは真理を説きましたが、アルジュナは理解できませんでした。

後にクリシュナは「人々は私を身体と同一視するが、真理においては、私は生まれもせず、死にもしない」とわかりやすく語っています。

それでもアルジュナにとって真理が明らかになるには『バガヴァッド・ギーター』のすべてを必要としたのです。

真我とはただ「在る」ことであり、あれやこれとして在ることではありません。

それはシンプルな存在なのです。

在りなさい-そうすれば無知は終焉するでしょう。』

(ラマナ・マハルシとの対話(1))

 

 

 

 至上者(バガヴァーン)クリシュナの言葉

『君は博識なことを話すが

悲しむ値打ちのないことを嘆いている

真理を学んだ賢い人は

君のためにも死者のためにも悲しまない

 

わたしも 君も ここにいる全ての人々も

かつて存在しなかったことはなく

将来 存在しなくなることもない

始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ

 

肉体をまとった魂は

幼年 青壮年を過ごして老年に達し

捨身して直ぐ他の体に移るが

自性を知る魂はこの変化を平然と見る

 

クンディーの息子よ 寒暑 苦楽は

夏冬のめぐる如く去来するが

すべて感覚の一時的作用にすぎない

アルジュナよ それに乱されず耐えることを学べ

 

アルジュナよ 人類の中で最も秀れた男よ

幸福と不幸に心を乱さず

常に泰然として動かぬ者こそ

大いなる自由*を得るにうさわしい

(*解脱)

 

物質と霊の本性を学んで

真理を徹見した人びとは

非実在は一時的に現象(あらわれ)ても持続せず

実在は永遠に存在することを知る

 

一切万有にあまねく充満しているものは

決して傷つかず 壊されもしない

たとえ如何なる人でも 方法でも

不滅の魂を破壊することはできない

 

全ての生物は永遠不滅であり

その実相は人智によっては計り難い

破壊され得るのは物質体(にくたい)だけである

故にアルジュナよ 勇ましく戦え!

 

生物が他を殺す また殺されると思うのは

彼らが生者の実相を知らないからだ

知識ある者は自己の本体が

殺しも殺されもしないことを知っている

 

魂にとっては誕生もなく死もなく

元初より存在して永遠に在りつづけ

肉体は殺されても滅びるとも

かれは常住にして不壊不滅である。

 

プリターの息子 アルジュナ

このように魂は不生不滅 不壊不変である

どうして誰かを殺し

また誰かに殺されることがあり得ようか

 

人が古くなった衣服を捨てて

新しい別の衣類に着替えるように

魂は使い古した肉体を脱ぎ捨て

次々に新しい肉体を着るのだ』

(バガヴァッド・ギーター 第二章12ー22)

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(46)「輪廻転生」②

前回より「輪廻転生」をテーマに、ヨーガの見地からの仕組みや微細領域におけるプロセスなどについてご紹介し、それを踏まえた上で、「解脱」への理解を深めることで、いつか必ずや起こることになっている「死」のプロセスと、それに伴う「輪廻転生」を超えた「解脱」へのプロセスを、数回に渡り、ご紹介する予定です。

 

死後の肉体の消滅は、誰もが認めるところですが、その後、どうなるのか?というのは、漠然ではあっても、誰もが、想像を巡らせる事柄ではあるかと思います。

肉体の消滅後、個人は、完全に無に帰するのではなく、何らかの形で(「魂」として)残り、それがまた物質次元に、何らかの形をもった存在として誕生するというのが、「輪廻転生」(サンサーラ)の考えですが、「魂」が存在するとしたら、肉体の消滅後、それは、どのような形で存在し、そして再誕の時に、どのような方法で、物質次元の存在になるのでしょうか?

 

そして、重要なのは、ヨーガにおいては、「生」と「死」は、セットで起こることなので、生まれたモノは死に、死んだモノは生まれる、という考えが基本にあります。

これは、「因果の法則」でもあり、この宇宙の自然法則(ダルマ)でもあります。

「輪廻転生」は、「因果の法則」とも密接に結びついており、切り離しては考えられない、ある意味で、生と死における「因果の法則」と言えます。

 

つまり、言い換えると、「今のわたし」は、「過去のわたし」の結果である、ということになり、そして、更に、「未来のわたし」は、「今のわたし」の結果である、ということになります。

 

この生と死の連鎖である「輪廻転生」を断ち切る方法は、あるのでしょうか?

 

または、人によっては、この人生を、一回限りの人生であると割り切って(輪廻転生はないという前提にたって)、今の人生をできる限り謳歌し、肉体の消滅と共に、永遠に消滅するか、または、天国のような所に行って、そこで、地上では謳歌しきれなかった夢のような楽しい人生を送ることを期待して、この地上での人生を終えよう、という死生観、人生観を抱きつつ、死の時を迎えることも可能でしょうし、または、何も考えないで(死のことを考えるのは恐ろしいために)、その結果、何も準備しないで、その時を迎えよう、というような選択肢も十分に可能ですので、死後の自分自身の在り方は、(あくまで想像の範囲ではありますが)それぞれでしょう。

 

ここでは、生と死という現象に「因果の法則」が働くことを前提として、人間である限りは例外なく、死後に、「魂」は何らかの形で存在し、そしてやがては、「輪廻転生」を経て、再誕するという現象が、自然現象として起こる、という理論を土台にして、その生と死の繰り返しから脱却する方法「解脱」について、ヨーガで説かれている仕組みや理論、及び方法をご紹介したいと思います。

 

最初は、以前より連続してご紹介しておりますスワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から、次は、ラマナ・マハルシが真我探究者に読むことを推奨したとされている「ヨーガ・ヴァーシシュタ」から「解脱」について、そして、最後にラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介したいと思います。

 

これらの四人の聖者の方々が、指し示していることは、同じ一つのことであり、「輪廻転生」はあるが、同時に、それを乗り越える方法もある、ということです。

 

今、私たちに多くの情報が遺されていますので、それらに感謝しつつ、それらを智慧の言葉としてよく熟考し、実践を推奨されている修練を実践するならば、今生において、良い種子(因)を蒔くことになりますので、やがては、良い実(果)がもたらされることでしょう。

 

種子を蒔かないことには、どんな実もなりません。

 

また、裏返して、この法則を応用すれば、「輪廻転生」を生む種子を蒔かないことで、次の生という実をもたらさないようにすることも、充分可能なのです。

 

この「輪廻転生」をもたらす「種子」とは何なのか?

 

そして、この「種子」を消滅するための方法は、あるのか?

あるとしたら、どのような方法なのか?

 

早速、聖者の方々が遺された御言葉を、見て行きましょう。

 

 

 

Proofs for Rebirth(再誕の証拠)

 

輪廻転生にとっての重要な議論の一つは、ヒンドゥー教徒によって、直感的な感覚がもとに構築された。

直感は、過去の経験の結果である。

赤ん坊は、指しゃぶりをする。

若いアヒルは、泳ぐ。

これは、誰が教えたのか?

彼らは、サンスカ―ラ、或いは、以前の誕生の傾向である。

一目ぼれの愛は、完全に過去生におけるある感覚である。

以前に、これらの魂たちは、愛していた。

彼らは、それを憶えていて、まるで彼らがお互いに会ったことがあるかのように実際に感じる。

このような魂は、性的な事柄ではなく、しばしば壊れる。

ブッダは、彼の妻に、過去の誕生における彼女の彼に対する優しさを語り、何度か、他の人々の過去生の詳細を与えた。

すべての子どもは、過去の意識的な行為によって引き起こされたある傾向や先入的愛好を持って生まれる。

空っぽの心や心に清浄で真っ白な空白の頁を持って生まれる子どもはいない。

われわれは、過去生を持っている。

天才少年もいる。

五歳の少年は、ピアノやヴァイオリンで達人となる。

シュリ・ジニャーナ・デヴィは、彼が14歳の時に、バガヴァッド・ギーターの解説を書いた。

数学の天才少年もいた。

マドラスには、8歳の時、宗教的な講話を行なったバーガヴァター(神の栄光について講演する人)がいた。

この奇妙な現象を、どのように説明することができようか?

これは、自然の気まぐれではない。

輪廻転生の理論だけが、これらすべてのことを説明できるであろう。

もし一人の人が、今生で、音楽や数学を学ぶことに深い楽しさを感じるなら、彼は、次の生にこれらの印象を運び、彼が少年の時にでさえ、これらの科学で神童となる。

遺伝は、これらすべての不平等や多様性―天才の場合を説明できない。

これらの神童の両親や兄弟、姉妹は、極めて普通の人々である。

傾向は、過去の行為の結果である。

それらは、遺伝を通してはやって来ない。

天才は、彼らの過去生で、彼らの才能を獲得したのである。

人は、幾つかの誕生で、傾向や才能を開発し、ある誕生で天才になる。

ブッダは、幾つかの誕生で経験を獲得した。

彼は、彼の最後の誕生でのみ、ブッダとなった。

一つの誕生において、すべての徳が開発されることはできない。

人は、段階的な進化によってのみ、徳を磨く。

聖者は、すべての徳において卓越性を所有する。

聖者や達人の存在は、再誕があることを示唆している。

 

               

 

Why Do We not Remember Our Past?(われわれは何故、過去を覚えていないのか?)

 

輪廻転生の理論に反対の議論が、起こされる。

その反論とは「われわれは、何故、過去を憶えていないのか?」というものである。

あなたは、子供の頃、あなたが何をしたのかを覚えているだろうか?

あなたは、その時、思い出せないからと言って、存在していなかったと言うだろうか?

とんでもない。

もしあなたの存在が、あなたの記憶に依存しているならば、その時、この議論は、あなたが子供の時には存在していなかったということを証明する。

何故ならば、あなたは、あなたの子供時代を覚えていないのだから。

詳細は、あなたの記憶から去ってしまったが、あなたが、あなたの経験を通して獲得した知識は、あなたの存在の重要部分である。

それらの経験は、いまだに印象として、あなたの潜在意識(Chitta)の中にある。

そのように、過去の経験は、あなたの現在の人生に影響を与えている。

われわれが、肉体で生きている限り、われわれは、脳を通して記憶の機能を働かせる。

一つの転生から別の転生を過ぎて行く中で、魂は、新しい身体に過去の頭脳を持ち運んだりはしない。

 

 

 

Knowledge of the Past(過去の智識)

 

あなたが、数々の誕生で得たすべての経験は、潜在意識(Chitta)の中に、残存印象の形で残る。

それらは、音がレコードの中に微細な形で残るように、非常に非常に微細な形で残る。

ヨーギーは、これらの印象に集中して、過去生を思い出すことができる。

彼は、あなたの潜在意識に入っているサンスカーラ、或いは印象に集中することで、あなたの過去生についてもあなたに語ることができる。

母なる自然は、あなたから過去を隠している。

過去を思い出すことは、好ましいことではない。

しばし、あなたが過去を知っていると、考えてみなさい。

あなたは、過去生であなたが罪の行為を犯し、あなたはそのことを苦しんでいることを知っている。

あなたは、常に、このことを考えてしまうだろう。

あなたは、絶えずあなた自身を心配するだろう。

あなたは、健全な眠りに就けなくなるだろう。

あなたは、食べ物を賞味できなくなるだろう。

もしあなたが、あなたの過去を思い出すならば、あなたは現在を有効に活用できないかもしれない。

過去生におけるあなたの執念深い敵は、今生では、あなたの息子として生まれるかもしれない。

もしあなたが過去を覚えているのなら、あなたは彼を殺すために剣を抜くかもしれない。

敵意の感情が、即座にあなたのハートに起こるだろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『ヤマはナチケータに生を理解するには、死を理解することが大切だと教えました。

そして同様に、生は死を理解するために理解されなくてはならないと。

ナチケータは、死は生の終わりではなく、継続する物語における単なる一時的な休止だと学びました。

死は単に、ニューヨーク市のグランドセントラル駅のような駅――ちょうど特別な列車を降りて別の列車に乗る準備をする場所――での停車です。

これは、生または死の意義を減らすことではありません。

どのようにして生は導かれるのか、言い方を換えると、グランドセントラルへ行く途中で選ぶ列車は、私たちが到着するとき、私たちがどんな心の状態であるか、そして、私たちの旅における次の移り変わりのために、私たちがどれくらい用意できるかを決定します。

私たちは散らかった貧しい列車を拾うこともできるでしょうし、きちんとしたきれいな列車を拾うこともできるでしょう。

私たちはあらゆる種類の誘惑と娯楽、踊り子たちやビデオゲーム、そして富と名声の列車を拾うこともできます。

ひとたび私たちが、あらゆる娯楽と肉体的感覚の満足に釘付けにされると、その列車を降りるのは困難になることでしょう。

または、私たちがグランドセントラルで列車を降りる時間がやって来ると、努力なしに喜んでそうすることができるように、私たちは道に沿った自然の光景を楽しむことを学ぶ列車を拾うこともできるでしょう。

ナチケータは、正しい列車を拾った人の一例です。

彼は知識の列車以外にどんな列車も持とうとしませんでした。

何も彼に興味を持たせられませんでした。

長寿、富、反対の性別、子供たちは、彼の実在の知識と生と死の秘密への願望に対して見劣りがしました。

ナチケータにとっては、生と死の秘密だけが持つに値するものだったのです。

内側に居住するアートマンの永遠の本質は、ウパニシャッドの中心的なテーマです。

これは死の神秘の秘密であり、生を理解するための鍵です。

神はすべてに浸透し、私たちの生命の命である魂に生命力を吹き込んでいるアートマンです。

アートマンは永遠に存続し、不変であり、故に死ぬことはありません。

滅びるものだけが死なねばなりません。

滅びるものは、不滅なるものの発見における道具として仕えるためだけにそこにあります。

死ぬのは、この世の次元を訪問する際に、魂の覆いを提供している外観である体です。

内側の自己は影響を受けないままです。

それは永遠なる存在なので、死にませんし、死ぬことができません。

バガヴァッド・ギーターは述べています。

〝彼は非顕現であり、思考の対象ではない、そして不朽だと言われている。それ故、彼を知れば、あなたは誰かのことを嘆き悲しむことはない〟

もし、人にとって重要なことが死んでいくことであるなら、死は恐ろしいものとして大きく立ちはだかります。

死はその人にとって中心的で意味のあったものに対する終わりを意味します。

その哲学における苦痛は深遠です。

しかし、もし、人が死するものを手放すために、物、あるいは人間関係を手放すことを学び、そして永遠であるものだけを求めるなら、死は恐ろしいものではありません。

それは単に方向転換、服を換えることなのです。』

(聖なる旅 目的を持って生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

 

『ラーマよ。

疑いのない純粋なハートと受容的な心で、解脱の本性とそれに達するための修練に関する教えに耳を傾けなさい。

なぜなら、「至高の実在」が実現されるまでは、誕生と死という恐るべき苦難が終わることはないからだ。

今ここで、この無知なる生という恐ろしい毒蛇に打ち勝たなければ、いつ果てるとも知れぬ苦しみは、今生ばかりか数限りない来世にまで起こり続けるだろう。

この苦しみを無視することはできない。

それゆえ、私が授ける叡智という手段を用いて、苦しみを克服しなさい。

ラーマよ、もしこの繰り返されるサンサーラ(輪廻転生)を克服すれば、あなたはこの地上でブラフマー神やヴィシュヌ神のごとく生きるだろう!

なぜなら、妄想が消え去り、真我探究によって真理が実現され、心が平和になってハートが至高の真理に達し、心の中のあらゆる騒がしい想念の波が静まって永遠の安らぎに満ち、ハートが絶対の至福にあふれたとき、つまりハートの中に真理を見いだしたとき、そのときこそ、この世界そのものが至福の住処となるからだ。

そのような人に、得るべきものや避けるべきものは何もない。

彼は生の欠点に穢されず、その哀しみに触れられることもない。

傍観者の目には、彼は来ては去っていくように見える。

だが、彼は存在を現わすこともなければ消え去ることもないのだ。

彼には宗教的な勤めさえ必要ない。

すでに慣性を失った過去の潜在的傾向の影響を受けることもない。

心は不安や疑いを棄て去り、彼は自己の本性である至福の内に安らいでいる。

そのような至福は、他の方法ではなく、真我の知識によってしか得られない。

それゆえ、人は絶えず真我の知識に心を向けなければならない。

ただこれだけが人としての義務なのだ。

聖典や聖者を無視する者が、真我の知識に達することはない。

そのような愚かさは、この世のすべての病気よりも有害だ。

それゆえ、人は真我の知識に導くこの聖典に誠実に聞き入るべきである。

この聖典を得た人が、無知という盲目の井戸にふたたび落ちることはあり得ない。

ラーマよ。

もしもサンサーラの哀しみから解放されたいなら、私のような聖者の有益な教えを受けて自由になりなさい。

ラーマよ。

この恐るべきサンサーラ(輪廻転生)の大海を渡るためには、永遠不滅なるものに頼らなければならない。

永遠なるものの内に心を休め、完全に自己を制御した心安らかな人、ただ彼だけが最上の人なのだ。

彼は快楽と苦痛が互いのあとを追い、打ち消し合うことを理解している。

それゆえ、その叡智の中には自己制御と平和がある。

このことを理解しない人は、燃え盛る家の中で眠っているのと変わらない。

永遠の叡智を得た人は、サンサーラから解放され、ふたたび無知の中に生まれることはない。

人はそのような不変の真理が存在することを疑うかもしれない!

もし存在しないとしても、永遠なるものを求めて生の本性を探究することは、人生の変転で生じる苦痛を和らげるだろう。

だが、もし存在するとすれば、それを知ることで人は自由になるのだ。

儀式や、巡礼や、富によって「永遠なるもの」に到達することはできない。

それはただ自己の心を克服し、叡智を培うことによってのみ達せられるのだ。

それゆえ、神々や、半神半人や、人間は、歩いていようと、眠っていようと、座っていようと、常に叡知の成果である心の克服と自己制御を求めるべきだ。

心が安らぎ、純粋で、平静で、妄想や幻想や渇望から自由であれば、何を求めることも拒むこともなくなる。

これが自己制御、つまり心の克服であり、以前に私が語った四人の解脱の門番の一人である。

あらゆる善や幸運は自己制御からあふれ出す。

あらゆる悪は自己制御によって追い散らされる。

この世の喜びもあの世の喜びも、自己制御の喜びには比べようもない。

自己制御で体験された喜びは、類なきものだ。

誰もが自己制御された人を自然に信頼するようになる。

誰もかれを憎むものはいなくなる。

鬼や悪魔でさえも。

ラーマよ。

自己制御はすべての身体的または精神的な病気の最高の治療法だ。

自己を制御すれば、食べ物はさらに美味しくなる。

自己制御の鎧を着る者は、悲しみに悩まされることもない。

彼は快いものや不快なものを聞くときも、触れるときも、見るときも、嗅ぐときも、味わうときも、意気高揚したり、意気消沈したりすることはない。

彼は自己制御されている。

すべての生きとし生けるものを等しい目で見、快楽と苦痛の感覚を制御した人が自己制御された人だ。

人々とともに生きながら、人々に影響されない人、得意がることも憎むこともない人。

それが自己制御された人だ。』

(ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我)

 

 

 

『ある人たちは真我の智識に異なった段階があると信じています。
真我はあなたが知っていようがいまいが、常に実現されているのです。
彼らは、真理を聞くこと(シュラヴァナ)は直接的知識であり、間接的知識ではないと議論します。
真我の知識(Atman-Jnana)は不幸を消し去りますが、真理を聞くことだけではそれを起こりません。
ですから、たとえ直接的であっても、その知識は不動のものではないということです。
知識が確立されない原因は、心の潜在的傾向(ヴァーサナ)が現れることにあります。
ヴァーサナが取り除かれたとき、真我の知識(Atman-Jnana)は揺るぎないものとなって実を結ぶのです。
別の人たちは、真理を聞くこと(シュラヴァナ)は、間接的知識だと言います。
真理についての沈思黙想(マナナ)によって、真我の知識は断続的ながらも直接的なものになります。
それを断続的にさせるのはヴァーサナなのです。
ヴァーサナはマナナの修練の後も、さらに強烈な勢いで湧き上がってきます。
そのため、それは抑制されなければなりません。
「私は身体ではない」ことを油断なく覚えていることと、マナナにおいて得られた直接的体験を固守することによってヴァーサナは抑制されます。
そのような修練はニディディアーサナ(真理の一点に心を集中させること)と呼ばれ、それがヴァーサナを消し去ります。
そうして初めてサハジャ(自然)の境地が開かれるのです。
それが確実な真我の知識(Atman-Jnana)です。
マナナによる直接的体験では、不幸の破壊も束縛からの解放(モークシャ)も得られません。
なぜなら、ヴァーサナが周期的に現れ、真我の知識を制圧するからです。
それゆえ、それはまだ弱いものですが、ニディディアーサナによってヴァーサナが根絶されたとき、初めて真我の知識(Atman-Jnana)は確立されるのです。

(ラマナ・マハルシとの対話より)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(45)「輪廻転生」①

前回までの数回に渡り、すべての人間に起こる「死」について、ヨーガ的な観点からの考察をご紹介しましたが、今回からは、「生」と「死」と非常に関連が深いと思われる「輪廻転生」(サンスクリット語では、サムサーラ)について、ご紹介したいと思います。

仏教などでも、「六道輪廻」として語られることもある「サムサーラ」(輪廻転生)ですが、ヨーガの世界では、どのように説明されているのでしょうか?

ヨーガの最終目的が、(輪廻からの)「解脱」(モクシャ)にあることは、紛れもない事実ですが、ヨーガにおける「サムサーラ(輪廻)」とは何なのか?その仕組みとはどのようなものなのか?を明確に知ることで、「解脱」(モクシャ)という究極目標がよりハッキリとし、そこへ向かって迷わず進むことができるという利点につながることが期待できますので、ある程度の知識がある方もいらっしゃるとは思いますが、今一度、振り返ってみましょう。

 

ヨーガにおけるサムサーラ(輪廻転生)を理解することは、前回までの記事でご紹介しました「死」という現象を乗り越えて行くことができる「智慧」として働き、死の際に、非常に役に立つことでしょう。

 

また、それが、自身の「解脱」へとつながっていく唯一の道であり、それは、すなわち、生きている間に起こる「束縛からの自由」へとつながる唯一の道でもあるのです。

 

最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次は、スワミ・シヴァナンダの兄弟弟子であるスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き恩寵を受けて逝く」からご紹介したいと思います。

 

 

 

Reincarnation(輪廻転生)

 

人は、植物に譬えられる。

彼は、植物のように成長し、繁茂し、最後に死ぬが、完全にではない。

植物もまた、成長し、繁茂し、最後に死ぬ。

それは、その種子を遺して死ぬ。

種子は、新しい植物を生む。

人は、死ぬ時に、彼のカルマ――彼の人生の良い行為と悪い行為を残して死ぬ。

物理的身体は、死んで分解するかもしれないが、彼の行為の印象は、死なない。

彼は、これらの行為の果実を楽しむために、再び誕生しなければならない。

輪廻転生の理論は、ヴェーダ聖典と同じくらい古いものである。

それは、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の基本である。

この理論は、グル・グラント・サーヒブシク教の経典)の中で、グル・ナナク・デヴィ(シク教を始めた)によって支持されている。

古代エジプト人たちは、それを信じていた。

ギリシアの哲学者たちは、それを彼らの哲学の基本とした。

それは、プラトンがすべての智識は回想であると言う時、プラトン哲学の基本方針である。

エマーソン(※1)、プラトン(※2)、ピタゴラス(※3)は、輪廻転生の理論を完全に信じていた。

カント(※4)やシェリング(※5)、ショーペンハウアー(※6)は、この理論を支持した。

ジュリアス・ミュラー(19世紀のドイツのプロテスタント神学者)、ドーナー(19世紀のドイツのプロテスタント神学者)やエドワード・ビーチャー(19世紀のアメリカの神学者)のような神学者たちは、それを擁護した。

現在、輪廻転生は、大多数の人間によって受け入れられている。

[(※1)19世紀米国の思想家、哲学者、作家。超絶(超越)主義を唱えた。インドの古典『ヴェーダ』から強い影響を受け、彼の著作の多くは一元論の色調が濃い。彼の超越主義哲学は、ラーム・モーハン・ローイのネオ・ヴェーダンタの影響を強く受けたといわれる)

(※2)古代ギリシアの哲学者。プラトンの思想を語る上では、「イデア」と並んで、「魂」(プシュケー)が欠かせない要素・観点となっている。そして、両者は密接不可分に関連している。

初期においても既に、「魂を善くすること」や、死後の「魂」の行き先としての冥府などについて言及されていたが、第一回シケリア旅行においてピュタゴラス派と交流を持った後の作品では、本格的に「魂」(プシュケー)が「イデア」と並んで話の中心を占め、その性格・詳細が語られていくようになっていく。

「(不死の)魂の想起」(アナムーネーシス)がはじめて言及され、「学ぶことは、想起すること」という命題が提示される。中期の『パイドン』においては、「魂の不死」について、問答が行われる。

『国家』においては、理知、気概、欲望から成る「魂の三分説」が説かれ、末尾では「エルの物語」が語られる。『パイドロス』においては、「魂」がかつて神々と共に天球を駆け、その外側の「イデア」を観想していた物語が語られる。

後期末の『法律』第10巻では、「魂」こそが運動の原因であり、諸天体は神々の「最善の魂」によって動かされていることなどが述べられる。

このようにプラトンの思想においては、「魂」の概念は「善」や「イデア」と対になり、その思想の根幹を支える役割を果たしている。

なお、アリストテレスも、『霊魂論』において、「魂」について考察しているが、こちらは感覚・思考機能を司るものとして、今日で言うところの脳科学神経科学的な趣きが強い考察となっている。(Wikipediaより)

(※3)紀元前6世紀のギリシアの数学者、哲学者。彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。アリストテレスは『形而上学』のなかで、この対立項を再現している。彼はオルぺウス教の影響を受けてその思想の中で輪廻を説いていたとされている。魂と肉体の二元論、転生、輪廻からの最終解脱、などを基本的な教義とする。

一般的な古代ギリシア宗教と比較して、オルペウス教の特徴とされる点は以下の通りである。

・人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず、輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされている、という教義。

・「悲しみの輪」からの最終的な解脱、そして神々との交感を目的として、秘儀的な通過儀礼(入信儀式)および禁欲的道徳律を定めていた点。

・生前に犯した特定の罪に対し、死後の罰則を警告した点。

・教義が、神と人類の起源に関する神聖な書物に基づいている点。

 (※4)18世紀のドイツの哲学者)

(※5)18~19世紀のドイツの哲学者)

(※6)18~19世紀のドイツの哲学者。ヴェーダの「ウパニシャッド」に大きな影響を受け、「意志と表象としての世界」を刊行。)]

 

 

Body—A Vehicle for the Soul(身体――魂のための乗り物)

 

特別な身体と魂の結合は、誕生として知られており、その分離は、そこから、死と呼ばれている。

魂が物質的な鞘を離れると、その功罪に従って、それは他の身体、人間、動物、或いは野菜にでさえ転生する。

ガソリンと蒸気は、偉大なる力である。

しかし、それら自身によって、それらは限定されたコースと限定された目的地のある旅をすることはできない。

それらは、機械や走る汽車や汽船につながれなければならない。

それと同じく、魂はそのコースを走り、神の中の目的地に到達するために、身体を持たなくてはならない。

身体は、前進的な進歩へと魂を運ぶために、神によってデザインされた。

善い魂は良い身体を作り、悪い魂は悪い身体を作る。

身体は、神に向かうその進歩において、魂に必要不可欠な補助器具である。

転生の進歩は―われわれは、何生かかるのか?を言うことはできないがー魂が、すべてのその不純物を清め落され、ヨーガにより不滅の魂の真の完全なる智識を獲得し、至高のブラフマン、或いは、至高の真我との合一により、解脱、或いは、最終的な無力化を達成し、完全で永遠の至福を楽しむまで、続く。

達成されれば、輪廻転生は、もはやない。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『死んだ後の生についての論争は、歴史が始まって以来続いてきましたが、魂の不滅についてはどんな明確な結論も、知識層や霊的に目覚めていない人々には届けられていません。

知的な論議や論争によって、何が死後存在するのかを理解することは不可能です。

絶対的な真理は、観察され、証明され、知覚認識により論証されないという理由で、科学的に証明することはできません。

アートマンは、知覚認識を超えています。

科学的な実験は、それ自身の限界により制限されているので、最高の真理を明らかにすることができません。

それは、魂の不滅性とあの世について、科学者がどんな具体的な結論にも到達できず、彼らを納得させることができるものは何もない理由でもあります。

唯物主義者は、何かが死の後に存在し続けると信じることは難しいと思っています。

知覚認識だけに頼って生きている人は、来世を一瞥(いちべつ)することはできません。

人は自分自身の宗教的な信条に従い、死後の生についてある一定の期待を持っています。

人は不死と天国への望みを夢見ています。

彼らは、今は亡き愛する者が永遠に神と共にあるという考えでお互いを慰め合っています。

宗教は、天国には多量の水と果物と美しい女性と音楽と踊りなどがあると、考えています。

ある宗派の信奉者たちは、彼らの敵や獰猛(どうもう)な動物に対する戦いが戦われる英雄の天国の存在を信じています。

すべてのこれらの天国は、申し立ての通りに人の最も高い望みが叶(かな)えられる精神的な領域でしかありません。

誰でも、彼らが最も快いと見なすある一定の願望を持っています。

そして同時に、彼らは、このような願望ができる限り叶えられる領域を望んでいるのです。

そこで、天国を切望することは、人が達成を求めている天国のレプリカである領域を映し出します。

この天国は、夢でしかない人の理想や願望の投影です。

人が夢を見るとき、起きるまで天国にいると思うかもしれません。

目覚めると、夢の現実性は消えます。

夢と天国はある一定の条件の下でのみ現実なのです。

天国の理想はインドの古代の預言者によって考えられました。

しかし、いくつかの宗教がしているように、彼らはそれを永遠なる状態であるとは考えませんでした。

ヒンドゥー教や仏教以外では、天国の観念は永遠の存在を意味しています。

ヒンドゥー教の哲学によりますと、永遠の天国という理想は、現実的には不可能なのです。

天国や死後の他の種類の存在は、固定的ではなく、その人自身の考えや行動により決定されます。

天国の領域を経験し、天国の楽しみを喜ぶ人々は、彼らの善い行いや考えが彼らに資格を与える限り、それをすることができます。

常に、善い行いと考えには限りがあります。

同じように、それらから生じる結果にも限りがあるでしょう。

永遠という単語は、始めがなく終わりがない、ということを意味します。

ヴェーダンタでは、天国はそれ自身の性質により、永遠ではあり得ません。

時間、空間、因果関係という法則に従っているすべての物は、永続的でなく滅びます。

すべてのこの世の楽しみは時間によって制限されています。

それらは永遠に続くことはありません。

天国の楽しみはこの世の楽しみに似ています。

それらが長い間、経験されても、やがては終わりが来ます。

この世以外のところで叶わない願望は、魂を存在の物質的な次元に連れ戻すことでしょう。』

(聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く  by Swami Rama)

 

 

 

『サットワが増してくると

肉体の九門 すなわち目 耳 鼻

口 肛門 生殖器

智慧の光で輝くようになる

 

ラジャス増長のしるしは

物事に対する強烈な執着 利益をうむ活動

激しい努力 抑えきれぬ欲望

そして発展へのあくなき追求 焦燥である

 

アルジュナよ そして--

タマスが増長すれば

暗愚 邪悪 ものぐさ 無気力

狂喜 妄想などが現れてくる

 

サットワの支配下で肉体分解すれば(*)

その魂は聖者たちや

立派な信仰家たちの住む

清らかな世界に上がって往く

[(*)サットワの性質が他の二性(グナ)を抑えている状態で死ねば]

 

ラジャスの支配下で肉体分解すれば

その魂は仕事に追われる人々の世界に生まれ

タマスの支配下で肉体分解すれば

その魂は無知蒙昧な女の胎に宿る

 

サットワによる行動の結果は

善美であって汚れなく

ラジャスによる行動の結果は苦痛であり

タマスによる行動の結果は愚昧である

 

サットワからは真実の智識が生じ

ラジャスからは貪欲が生ずる

そしてタマスからは愚鈍と

狂気と妄想が生じる

 

サットワに生きる人々は次第に高い世界に上がり

ラジャスに生きる者たちはこの世界に留まり

いまわしいタマスに生きる者たちは

地獄のような世界に堕ちていく

 

全ての行為は自分がするのではなく

物質自然の三性質(トリグナ)の作用にほかならぬ事を知り

その上に至上主の実在を正覚した者は

この三性質を超越して”わたし”のもとに来る

 

肉体をまとった者が その体と連合する三性質を

振り捨ててこれを超越したとき

誕生と老と死の苦より解脱し

物質界にいる間から至幸の神酒をのむ

 

アルジュナ問う

「主よ 三性質を超越した人の

特徴(しるし)を何とぞお教え下さい

彼はどんな生活をし 行動をするのか--

またどのようにして三性質を超越(のりこえ)たのですか?」

 

至上主(バガヴァーン)こたえる

「バンドゥの息子よ

サットワの光輝 ラジャスの執着

またタマスの迷妄が現れても嫌わず

消えても追求しない者--

 

これら物質自然の三性質の作用に

動揺することなく 悩むことなく

動くのは物質自然の三性質のみと静観して

超然として不偏中立を保つ者--

 

真我に定住して幸と不幸を区別せず

土塊(つちくれ)も石も黄金も同等に視て

全ての事物に好悪の感情を起こさず

賞讃と非難 名誉と不名誉に心を動かさぬ者--

 

友と敵を同じように扱い

物質次元の仕事には一切手を出さぬ者--

以上のような人は

物質自然の三性質を超越したと言えよう

 

いかなる場合でも身心を尽くして

”わたし”を信じ愛し仕える者は

速やかに物質自然の三性質をのり越えて

ブラフマンに到達するであろう

 

そして”わたし”がブラフマンの住居である

即ち 不死不滅の全一者

永遠の法則(ダールマ)であり

絶対の幸福である(*)

[(*)ブラフマンの本質をサッチャーナンダという。

 サット(永遠の実在)、チット(完全円満な智慧)、アーナンダ(絶対の至福)]

(バガヴァッド・ギーター 第14章11-27)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(44)「死」④

前々回から、「死」について、死のプロセスで起こることなどを中心に、ご紹介しています。

「死」という現象は、人間には避けることの出来ない最後のライフ・イベントと言えますが、あまり多く語られることがないために、必然の出来事であるにも拘わらず、多くのヴェールで覆われており、死後の世界のことも含めて、実態はほとんど知られていません。

 

このテーマでの記事は、今回が最後となりますが、前回同様、最初にスワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から「死の超越」、そして最後に、チベット仏教において、臨終の際に唱えられるお経が紹介されている「チベット死者の書」から、ヨーガと関連が深いと感じられる箇所を、ご紹介します。

 

これらご紹介する文章の中には、生と死を繰り返す「輪廻転生」からの「解脱」についての多くのヒントが書かれていますので、ヨーガや瞑想修行を行なう上で、何に注意すれば良いか?または、何を心に留めて実践すべきか?が、見えて来ることでしょう。

 

ここに書かれてあることは、高度な修行の成果と言えるものですが、けっして人間には手が届かない実現不可能な結果という訳ではありません。

(ナーナ先生は、良いお手本として、クンダリニー覚醒によって、そのことを実証して下さっています)

 

死のプロセスを通り抜ける一連の身体に起こる現象は、一般的な常識は通用しないと言えるような通常私たちが日常で経験しているものとは大きく異なりますが、ヨーガを修行する中では、似たような体験は起こり得ます。(それ故、聖者の方々や卓越したヨーギーは、死のプロセスを語ることができるのです)

一般的には、理解することが難しいために、広く共有されることなく、死のプロセスや死後の世界についての多くは、禁忌として隠されてきた側面がありますが、「死」は、身体に起こる生理的現象であると同時に、生と死の仕組みを理解することで、人間の宿命である「死」を超えて行く「解脱」への可能性が芽生える第一歩とも言えますので、「死」についての理解は、とても大切な知識であると言えます。

 

ヨーガにおける「解脱」とは、生と死の仕組みを知ることから始まる、と言っても過言ではありません。

そして、それこそが、今回、人間として生まれて来た目的とも言えるわけですから、「死」という現実を直視し、「死」について、少しでも理解を深めることが、人生の最終的な目的である輪廻からの解脱、生と死の繰り返しを乗り越えて行くために必要不可欠とも言える大切な準備であると言えます。

 

 

Interval between Death and Rebirth(生と死の間の間隔)

 

人々は、肉体を離れる時間と再び生まれる時間の間の経過する正確な期間を知りたいと欲する。

魂は、一年で新しい身体を手に入れるのだろうか?

十年かかるのだろうか?

地球次元に再誕する前に、微細次元上では、魂はどのくらい長く生きるのだろうか?

これらは、幾つかの疑問である。

主に、二つの要因がこの問題を決定する。

それは、個人的なカルマと死の前の最後の印象である。

それは、数百年から数カ月まで、さまざまであるかもしれない。

微細次元である他の次元で、彼らのカルマのいくつかを成就する者は、肉体に入る前にかなりの時間をとる。

地球時間の一年が、天界におけるたった一日として過ぎるために、間隔は非常に長い。

外国人の旅行者が、或る古代の遺跡の堂々とした廃墟に驚き、賞賛するのを見ながら、近くに住む聖者は、何世紀も前に遺跡を作り上げた、と言ったと引用される事例がある。

時々、強い切望をもった非常に好色な人、或いは、強い執着をもった人は、早く生まれ変わる。

また、人生が暴力的な死や、或いは、突然の予期しない事故により、人生が中断された場合には、個の魂は、非常に速く生命の糸を再び始める。

通常、このような瞬時の再誕の場合には、個の魂はしばしば、それ以前の人生の出来事の多くを覚えている。

それは、過去の親戚や友人を認識し、古い家や親密な事柄を見分ける。

これは、時々、非常に風変わりな展開に導く。

殺された人が、再誕し、彼の死に方を明言し、殺人者との一致を明らかにしたといういくつかの例がある。

輪廻した個人は、時々、判断を誤らずに、彼によって隠されていた宝を摘発する。

たいていは、この記憶は残っていない。

これは、正に、全知の存在によって贈られた祝福である。

このような記憶力は、われわれの現在の人生を大いに複雑にするであろう。

過去は、思い出すことが良かったり、助けになるような時まで、あなたには隠されている。

あなたが完全に達し、サイクルの最後に到達すると、すべては明かされ、あなたは一つの人格上に織り交ぜられた命の数珠を見るだろう。

しかし、このような瞬時の再誕の場合は、一般的ではない。

通常は、平均的な個人にとっては、死と再誕の間の間隔は、たまたま地球時間の時間で測ると、かなりの期間になる。

多くの善いカルマを為した人は、再び生まれる前に、天界で多くの時間を過ごす。

霊的に進んだ人々である偉大なる魂は、輪廻転生する前に、長い時間待つ。

死と新しい誕生の間にある期間においては、故人の魂、特に人が精神的に霊的に発達していると、もし必要が起こるなら、地球次元に、しばしば物質化することができる。

それは、人間の形を取り、話し、実体的な感触で感じさせることさえできる。

このような幻影の写真を撮ることは、可能である。

このような物質化した形は、通常の視覚には見えないアストラル体とは異なる。

それは、物質的な身体に対する微細な“生き写し”であり、正しく片割れであり、死後の個人の魂が旅をする乗り物を形成する。

しかしながら、アストラルな意識は、あなたに誕生と死からの自由を保障することはできない。

オカルトやスピリチュアルは、究極の解放をけっして与えることはできないし、来世の十分な秘密を明らかにすることはできない。

霊的な実現と真我の智識だけが、死を超えた死と生の神秘を明らかにするであろう。

 

 

Be Not Afraid of Death(死を恐れるな)

 

死は世俗的な人には、辛いことである。

ヨーギーや聖者は、真の探究者でさえ、死の恐れは持っていない。

願望のない人は、彼が死ぬ時、けっして泣きはしない。

完全に達したジニャーニは、けっして死なない。

彼のプラーナは、けっして出発しない。

あなたの最も主要な義務は、来世の平和的な人生のための準備である。

死の恐れを克服しなさい。

死の恐れの克服、死の克服は、すべての霊的な鍛錬の最も高度な統合である。

すべてのヨーガの鍛錬の一つの目的は、恐れなく、喜びに満ちて、死を迎えることである。

人は、死を恐れる。

年を取ると、彼は神について考えようとする。

もし彼が、少年時から神を思い出すならば、彼は、年老いて、豊かな霊的な収穫を受けるだろう。

ビーシュマは、彼の命令で死んだ。

サヴィトリィは、彼女の夫サッチャヴァンを純潔の力を通して、生き返らせた。

マーカンディヤは、シヴァ神の礼拝を通して、死を克服した。

あなたもまた、ブラフマチャリアの力と知識、献身を通して、死を克服することができる。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

『ヨーガの達人は、死からさらに多くのことが学べることを発見しました。

死は単なる永遠への魂の旅における必要な休止ではありません。

それは、人の意志で使うことができる通路であり道具なのです。

これを理解するために、再びカタ・ウパニシャッドに戻ります。

ヤマは、体を王宮と呼びました。

王はアートマンです。

ヤマは、王宮への11の門を述べました。

この門のうち7つは感覚的なものである、2つの眼、2つの耳、2つの鼻孔、1つの口です。

さらに3つの門は、臍と生殖器官と排泄(はいせつ)器官です。

最後の門は、通常は知られていない器官ですが、脳の中央にあり、頭頂に位置する泉門であるブラフマランドラと呼ばれているものです。

それは、アートマンである王の座であり、永遠の座なのです。

この座より、アートマンはすべての随行者である、心、知性、知覚器官、全体の感覚を支配し、命令します。

最初の10の門はこの世の生への通路です。

ブラフマランドラは、神聖で永遠なる生への入り口です。

普通の人の場合は、生命力は、特にその人の最も強烈な願望の座であった10の門のいずれかを通って離れていきます。

完成されたヨーガ行者は、11番目の門を通って離れていきます。

ウパニシャッドは、違いを強調し、これらすべての門の王はアートマンであると強調しています。

アートマンは、仕えられるべきものであり、そのやり方は、知性や心、感覚をコントロールすることにより、11の門における活動を制することなのです。

ヨーガ行者は、これらの入り口をコントロールする方法や、アートマンを発見し仕える方法について知っています。

彼らは、生まれ変わりの神秘を理解するために、ブラフマランドラを使うことを学んでいるのです。

永遠の世界と永遠の生への入り口が、十分に統制されると、そのとき、この世の生と永遠の生との間のつながりが理解されます。

死の惨めさと死に伴う恐れの大きな苦しみは、消滅します。

感覚、思考の波、心と体のエネルギーを含む人間を構成するすべての要素が調和するとき、アートマンは現れます。

死は、体の習慣です。

どんな化学的な構成が似た体でも、変化し滅び、死ぬことになっているので、誰も同じ体で永遠に生きる人はいません。

必ず死ぬことになっているものにしがみつくことは、恐れと惨めさを作り出します。

その執着は、自然であり物質的な面だけに焦点を合わせる人々により分かち合われます。

彼らは、全体に気付いていないので、苦しむのです。

サマディにおいて最終的に最高点に達する瞑想は、この体にしがみつくことからの自由を約束しています。

瞑想を通して、11の門のコントロールは達成されます。

そのとき、人は心、体、魂への自制力を持ち、全体に気づくようになります。

瞑想の技術には宗教的な教義はありません。

ブラフマランドラは、アートマンとの合一のときにのみ、開きます。

そしてその合一は、心の中に変動がなく、願望もなく、恐れも執着もない超越状態であるサマディを通して可能です。

サマディという単語は、答えられないどんな疑問もなく、解決されないどんな神秘もないというサマヒタンを意味します。

同時に、心のおしゃべりは消え、すべての言語は忘れられます。

このような状態では、心はじっと考えたり、深く考えたりする方法はありません。

これは、心が永遠の超越した知性の黙想に同化している心の栄光ある状態です。

ヤマは、不死の領域が達成され、アートマンが悟られるサマディの状態を述べました。

彼は言いました。〝すべての感覚が器官から退き、静かになったとき、心が静寂になり静止し、思考が心を乱さないとき、その状態で、アートマンの栄光は悟られ、至福が地平線に現れ出す。それが、サマディの状態である〟

サマディの最高の状態は、全く死とは似ていません。

死が無知の暗闇における経験である一方で、サマディは悟りの状態です。

サマディにおいては、人は完全に意識的ですが、死においては、意識はありません。

通常の人にとって、死は長くて深い眠りなのです。

魂は、死後、心に執着したままです。

しかし、個人は深い眠りにいます。

自覚はありません。

ヤマは、ナチケータに語りました。

サマディとは〝死の状態ではない。それは物質的、精神的な世界の領域を超えた単一性であり、同一性である〟

関係性の世界においては、魂は3つの異なる状態を経験します。

目覚めている状態、夢見ている状態、深く夢のない状態。

トゥーリヤとして知られる4つ目の状態においては、アートマンは魂の3つの門の超然とした目撃者としての本質にあると言えます。

深い眠りの状態の間、魂はすべての苦しみと痛みから自由を楽しみますが、トゥーリヤにおいては、それはすべての他の状態から、完全に離れていることを経験します。

超越意識であるトゥーリヤは、サマディと同意語です。

サマディと深い眠りの違いは、表面上はほとんどありません。

深い眠りは喜びの状態ですが、人はそれに気づいていません。

サマディにおいては、ヨーガ行者は、至福の状態に完全に気づいています。

それは、アートマンから引き出された直接体験なのですが、他のどんな方法を通しても推測することはできません。

サマディには、2つの種類があります。

形があるものはサヴィカルパで、形のないものはニルヴィカルパです。

サヴィカルパ・サマディの間、ヨーガ行者は、自分自身の肉体的精神的な状態とプロセスを、それらは彼には属していないのですが、見ます。

彼は、完全に切り離されています。

これは、思考者、対象物、そして(思考の)意味すべてが、この状態の間、現在に在るため、サヴィカルパ・サマディと呼ばれます。

ニルヴィカルパ・サマディにおいては、人はすべての執着から自由です。

この深い状態では、思考の意味と対象物は、存在しません。

知っている者のみが存在します。

ニルヴィカルパは、ヨーガ行者が永遠なる至福と溶け合い、アートマンである真の自己と融合している最高の状態です。

サマディの経験は、述べることができません。

なぜならば、思考、言葉、行いを超えた他に類を見ない状態だからです。

人間は数えきれない束縛に縛られています。

サマディが達成されると、探求者は永遠に自由になります。

これは、死のないヨーガ行者の永遠の住居である最高の状態です。

死後の生は、死の境界が超越される状態であるサマディに到達した人々により、正に今生のここで経験されることができます。

生の知られた部分は、2つの点である誕生と死の間に引き伸ばされている線です。

人の存在の大部分は、これら2つの知られた点を超えては、不可知であり不可視なのです。

通常の人は、死と呼ばれる移行についての知識がありません。

しかし、悟った、あるいは、熟達したヨーガ行者は、この世とあの世を理解しています。

11の門をコントロールすることを学んだ人々は、何があの世であるかを知っており、その知識は、彼らに生だけでなく死への勝利をも与えます。

この勝利した人々は、死の気まぐれには従属していません。

彼らは肉体を脱ぎ捨て、自分自身で決めたときに、自分自身のコントロールの下で死にます。

彼らは、意識的に11番目の門であるブラフマランドラを通過します。

この門を通ることを知っている人は、この世を彼が知っているのとまったく同じように、あの世について知っていると言えます。

もはや、この世とあの世の間にはどんなヴェールもありません。

熟達したヨーガ行者は、いろいろな方法で、体を脱ぎ捨てることを学びます。

私たちは、ここでは、通常の死を横に置いておいて、死ぬという行為に立ち向かう別のやり方があるということを単にわかってもらうために、いくつかのヨーガ行者の古典的な技法について、少し触れておきます。

ヨーガ行者によって使用されている〝死ぬ〟という一般的な単語は、マハー・サマディです。

サマディは、人類により到達可能な静寂の最高の状態に対する単語です。

マハーは、偉大な、という意味です。

ヨーガ行者は、死と同じくらいシンプルに、人生の終わりを死というより、体を脱ぎ捨てる、もはや必要なくなったものを手放す、という言い方をします。

ナチケータは、意識的に体を手放す技法について説明されました。

ヤマは、彼にすべてのナディ、あるいは体のエネルギー通路のうち、最も重要であるのがスシュムナであると説明しました。

スシュムナは脊柱の中央を通り上へと流れます。

スシュムナを通して、クンダリニーという霊的なエネルギー、あるいは神聖なる力が流れます。

スシュムナは自由のキーポイントです。

死の際に、スシュムナに入ることができる人は、人生の最高のゴールであるブラフマンに到達します。

他のすべての道は生まれ変わりの道です。

体を離れるために、ヨーガ行者は、クンダリニーという眠っている蛇の力を目覚めさせ、このエネルギーはスシュムナの通路に入ります。

それは、眉間の間の2つの花弁の蓮の花であるアジナ・チャクラまで上がります。

ここでヨーガ行者は、プラーナとして知られる体の他のすべての生命エネルギーを集め、コントロールします。

彼は、自分の意識を現世的な存在感や感覚、5つの下位のチャクラから引き出します。

彼は、アジナ・チャクラに、それから次第に、クラウン・チャクラであるサハスラーラに向かって集中します。

頭頂に集中している間、彼は泉門を通り体を離れ、最終的に絶対的ブラフマンの領域まで上ります。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by Swami Rama)

 

 

『ああ、善い人よ。

チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)とチョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)とシパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)の三つを汝は体験するであろう。

この三つのバルドゥの現出のうちで、昨日までのチカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)において、チョエニ・バルドゥ(存在本来のすがた)の光明が現れたが、汝はそれを覚ることができなかった。

そこで、汝はさらにここにまで彷徨ってこなければならなかったのである。

今から汝にはチョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)とシパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)の二つが生じるであろう。

これから私によってお導きがなされることを、心を惑わせないで理解しようとすべきである。

ああ、善い人よ。

今や≪私は死んだ≫という、例のあのものがやってきたのだ。

この世界から外へ行くのは汝ひとりではないのだ。

死は誰にでも起こることである。

この世の生に執着や希求を起こしてはならない。

執着や希求を起こしたとしても、この世に留まることは不可能である。

汝は輪廻し彷徨いつづけるよりほかはないのだ。

執着してはならない。

善い人よ、チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)の状態において、どんなに畏怖させ恐怖におののかすような現出があても、汝は次の言葉をわすれてはならない。

そしてこの言葉の意味を心に思いつづけてゆくがよい。

それがお導きの大切な要点である。

「ああ、私にチョエニ・バルドゥが現れてきている今この時に、すべてについての恐怖・畏怖・戦慄の気持ちを捨てよう。

現れてきるものがなんであっても、自分自身の意識の投影したものであると覚るべきである。

これがバルドゥの現出であると見破らなくてはならない。

今は目的を達成しなければならない大変に重要な時機である。

この時に自分自身の投影である寂静尊と忿怒尊の神群を恐れることはやめよう」

このようにはっきりと何遍も繰り返し唱えることによって、その意味内容を心に思いつづけ刻みつづけるようにすべきである。

そして恐ろしく脅かす幻影がどんなに現れてきても、自分自身の投影であると確実に覚ることが大切な要点である。

それを忘れてはならない。

ああ、善い人よ、汝の身体と心とが離ればなれになるとき、存在本来の姿(法性)の純粋な現出があるであろう。

この現出は微妙であり、色彩と光に満ちている。

光輝に光り輝くであろう。

その本性は幻惑させ、汝をおののかせるものであり、初夏の野に陽炎が立ち昇るようにゆらゆらと揺れ動く。

これを恐れてはならない。

おののいてはならない。

おびえてはならない。

これこそ汝自身の存在本来の姿そのものの現れであると覚るべきである。

光の中から、存在本来の姿そのものが起こす轟音が大きな雷音となり、千の雷が一切に鳴り響くばかりにごろごろと響きわたるであろう。

これもまた汝自身の存在本来の姿そのものの音なのであるから、これを恐れてはならない。

おののいてはならない。

怒りを持ってはならない。

汝には習癖を作る力(ヴァーサナー、習気じっけ)から出来上がっている意識の身体(意成身いじょうしん)というものがある。

しかしこれは実質を持った血肉の身体ではないのである。

したがって音響・色彩・光明の三つからなるものが迫ってきても、それが何であっても汝に害を加えることはできない。

汝には死ぬことがないからである。

それが汝自身の投影であると覚りさえすればよいのである。

それはすべてバルドゥの現出であると知るべきである。

ああ、善い人よ、このように汝自身の投影であると覚ることができない場合には、生前に人間界にあった時にどのように熱心に、いかに瞑想(観想)を行なってきたとしても、現在のこの教誡(おしえ)に遭うことがないならば、色彩によって畏怖させられることであろう。

音響によって脅かされるであろう。

光明によっておののかされるであろう。

教誡(おしえ)のこのような大切な要点を理解することがなければ、音響・色彩・光明の三つの本質を覚ることができずに輪廻し彷徨うことになるであろう。』

チベット死者の書

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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