永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(45)「輪廻転生」①

前回までの数回に渡り、すべての人間に起こる「死」について、ヨーガ的な観点からの考察をご紹介しましたが、今回からは、「生」と「死」と非常に関連が深いと思われる「輪廻転生」(サンスクリット語では、サムサーラ)について、ご紹介したいと思います。

仏教などでも、「六道輪廻」として語られることもある「サムサーラ」(輪廻転生)ですが、ヨーガの世界では、どのように説明されているのでしょうか?

ヨーガの最終目的が、(輪廻からの)「解脱」(モクシャ)にあることは、紛れもない事実ですが、ヨーガにおける「サムサーラ(輪廻)」とは何なのか?その仕組みとはどのようなものなのか?を明確に知ることで、「解脱」(モクシャ)という究極目標がよりハッキリとし、そこへ向かって迷わず進むことができるという利点につながることが期待できますので、ある程度の知識がある方もいらっしゃるとは思いますが、今一度、振り返ってみましょう。

 

ヨーガにおけるサムサーラ(輪廻転生)を理解することは、前回までの記事でご紹介しました「死」という現象を乗り越えて行くことができる「智慧」として働き、死の際に、非常に役に立つことでしょう。

 

また、それが、自身の「解脱」へとつながっていく唯一の道であり、それは、すなわち、生きている間に起こる「束縛からの自由」へとつながる唯一の道でもあるのです。

 

最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次は、スワミ・シヴァナンダの兄弟弟子であるスワミ・ラーマの「聖なる旅ー目的をもって生き恩寵を受けて逝く」からご紹介したいと思います。

 

 

 

Reincarnation(輪廻転生)

 

人は、植物に譬えられる。

彼は、植物のように成長し、繁茂し、最後に死ぬが、完全にではない。

植物もまた、成長し、繁茂し、最後に死ぬ。

それは、その種子を遺して死ぬ。

種子は、新しい植物を生む。

人は、死ぬ時に、彼のカルマ――彼の人生の良い行為と悪い行為を残して死ぬ。

物理的身体は、死んで分解するかもしれないが、彼の行為の印象は、死なない。

彼は、これらの行為の果実を楽しむために、再び誕生しなければならない。

輪廻転生の理論は、ヴェーダ聖典と同じくらい古いものである。

それは、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の基本である。

この理論は、グル・グラント・サーヒブシク教の経典)の中で、グル・ナナク・デヴィ(シク教を始めた)によって支持されている。

古代エジプト人たちは、それを信じていた。

ギリシアの哲学者たちは、それを彼らの哲学の基本とした。

それは、プラトンがすべての智識は回想であると言う時、プラトン哲学の基本方針である。

エマーソン(※1)、プラトン(※2)、ピタゴラス(※3)は、輪廻転生の理論を完全に信じていた。

カント(※4)やシェリング(※5)、ショーペンハウアー(※6)は、この理論を支持した。

ジュリアス・ミュラー(19世紀のドイツのプロテスタント神学者)、ドーナー(19世紀のドイツのプロテスタント神学者)やエドワード・ビーチャー(19世紀のアメリカの神学者)のような神学者たちは、それを擁護した。

現在、輪廻転生は、大多数の人間によって受け入れられている。

[(※1)19世紀米国の思想家、哲学者、作家。超絶(超越)主義を唱えた。インドの古典『ヴェーダ』から強い影響を受け、彼の著作の多くは一元論の色調が濃い。彼の超越主義哲学は、ラーム・モーハン・ローイのネオ・ヴェーダンタの影響を強く受けたといわれる)

(※2)古代ギリシアの哲学者。プラトンの思想を語る上では、「イデア」と並んで、「魂」(プシュケー)が欠かせない要素・観点となっている。そして、両者は密接不可分に関連している。

初期においても既に、「魂を善くすること」や、死後の「魂」の行き先としての冥府などについて言及されていたが、第一回シケリア旅行においてピュタゴラス派と交流を持った後の作品では、本格的に「魂」(プシュケー)が「イデア」と並んで話の中心を占め、その性格・詳細が語られていくようになっていく。

「(不死の)魂の想起」(アナムーネーシス)がはじめて言及され、「学ぶことは、想起すること」という命題が提示される。中期の『パイドン』においては、「魂の不死」について、問答が行われる。

『国家』においては、理知、気概、欲望から成る「魂の三分説」が説かれ、末尾では「エルの物語」が語られる。『パイドロス』においては、「魂」がかつて神々と共に天球を駆け、その外側の「イデア」を観想していた物語が語られる。

後期末の『法律』第10巻では、「魂」こそが運動の原因であり、諸天体は神々の「最善の魂」によって動かされていることなどが述べられる。

このようにプラトンの思想においては、「魂」の概念は「善」や「イデア」と対になり、その思想の根幹を支える役割を果たしている。

なお、アリストテレスも、『霊魂論』において、「魂」について考察しているが、こちらは感覚・思考機能を司るものとして、今日で言うところの脳科学神経科学的な趣きが強い考察となっている。(Wikipediaより)

(※3)紀元前6世紀のギリシアの数学者、哲学者。彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。アリストテレスは『形而上学』のなかで、この対立項を再現している。彼はオルぺウス教の影響を受けてその思想の中で輪廻を説いていたとされている。魂と肉体の二元論、転生、輪廻からの最終解脱、などを基本的な教義とする。

一般的な古代ギリシア宗教と比較して、オルペウス教の特徴とされる点は以下の通りである。

・人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず、輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされている、という教義。

・「悲しみの輪」からの最終的な解脱、そして神々との交感を目的として、秘儀的な通過儀礼(入信儀式)および禁欲的道徳律を定めていた点。

・生前に犯した特定の罪に対し、死後の罰則を警告した点。

・教義が、神と人類の起源に関する神聖な書物に基づいている点。

 (※4)18世紀のドイツの哲学者)

(※5)18~19世紀のドイツの哲学者)

(※6)18~19世紀のドイツの哲学者。ヴェーダの「ウパニシャッド」に大きな影響を受け、「意志と表象としての世界」を刊行。)]

 

 

Body—A Vehicle for the Soul(身体――魂のための乗り物)

 

特別な身体と魂の結合は、誕生として知られており、その分離は、そこから、死と呼ばれている。

魂が物質的な鞘を離れると、その功罪に従って、それは他の身体、人間、動物、或いは野菜にでさえ転生する。

ガソリンと蒸気は、偉大なる力である。

しかし、それら自身によって、それらは限定されたコースと限定された目的地のある旅をすることはできない。

それらは、機械や走る汽車や汽船につながれなければならない。

それと同じく、魂はそのコースを走り、神の中の目的地に到達するために、身体を持たなくてはならない。

身体は、前進的な進歩へと魂を運ぶために、神によってデザインされた。

善い魂は良い身体を作り、悪い魂は悪い身体を作る。

身体は、神に向かうその進歩において、魂に必要不可欠な補助器具である。

転生の進歩は―われわれは、何生かかるのか?を言うことはできないがー魂が、すべてのその不純物を清め落され、ヨーガにより不滅の魂の真の完全なる智識を獲得し、至高のブラフマン、或いは、至高の真我との合一により、解脱、或いは、最終的な無力化を達成し、完全で永遠の至福を楽しむまで、続く。

達成されれば、輪廻転生は、もはやない。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『死んだ後の生についての論争は、歴史が始まって以来続いてきましたが、魂の不滅についてはどんな明確な結論も、知識層や霊的に目覚めていない人々には届けられていません。

知的な論議や論争によって、何が死後存在するのかを理解することは不可能です。

絶対的な真理は、観察され、証明され、知覚認識により論証されないという理由で、科学的に証明することはできません。

アートマンは、知覚認識を超えています。

科学的な実験は、それ自身の限界により制限されているので、最高の真理を明らかにすることができません。

それは、魂の不滅性とあの世について、科学者がどんな具体的な結論にも到達できず、彼らを納得させることができるものは何もない理由でもあります。

唯物主義者は、何かが死の後に存在し続けると信じることは難しいと思っています。

知覚認識だけに頼って生きている人は、来世を一瞥(いちべつ)することはできません。

人は自分自身の宗教的な信条に従い、死後の生についてある一定の期待を持っています。

人は不死と天国への望みを夢見ています。

彼らは、今は亡き愛する者が永遠に神と共にあるという考えでお互いを慰め合っています。

宗教は、天国には多量の水と果物と美しい女性と音楽と踊りなどがあると、考えています。

ある宗派の信奉者たちは、彼らの敵や獰猛(どうもう)な動物に対する戦いが戦われる英雄の天国の存在を信じています。

すべてのこれらの天国は、申し立ての通りに人の最も高い望みが叶(かな)えられる精神的な領域でしかありません。

誰でも、彼らが最も快いと見なすある一定の願望を持っています。

そして同時に、彼らは、このような願望ができる限り叶えられる領域を望んでいるのです。

そこで、天国を切望することは、人が達成を求めている天国のレプリカである領域を映し出します。

この天国は、夢でしかない人の理想や願望の投影です。

人が夢を見るとき、起きるまで天国にいると思うかもしれません。

目覚めると、夢の現実性は消えます。

夢と天国はある一定の条件の下でのみ現実なのです。

天国の理想はインドの古代の預言者によって考えられました。

しかし、いくつかの宗教がしているように、彼らはそれを永遠なる状態であるとは考えませんでした。

ヒンドゥー教や仏教以外では、天国の観念は永遠の存在を意味しています。

ヒンドゥー教の哲学によりますと、永遠の天国という理想は、現実的には不可能なのです。

天国や死後の他の種類の存在は、固定的ではなく、その人自身の考えや行動により決定されます。

天国の領域を経験し、天国の楽しみを喜ぶ人々は、彼らの善い行いや考えが彼らに資格を与える限り、それをすることができます。

常に、善い行いと考えには限りがあります。

同じように、それらから生じる結果にも限りがあるでしょう。

永遠という単語は、始めがなく終わりがない、ということを意味します。

ヴェーダンタでは、天国はそれ自身の性質により、永遠ではあり得ません。

時間、空間、因果関係という法則に従っているすべての物は、永続的でなく滅びます。

すべてのこの世の楽しみは時間によって制限されています。

それらは永遠に続くことはありません。

天国の楽しみはこの世の楽しみに似ています。

それらが長い間、経験されても、やがては終わりが来ます。

この世以外のところで叶わない願望は、魂を存在の物質的な次元に連れ戻すことでしょう。』

(聖なる旅ー目的をもって生き 恩寵を受けて逝く  by Swami Rama)

 

 

 

『サットワが増してくると

肉体の九門 すなわち目 耳 鼻

口 肛門 生殖器

智慧の光で輝くようになる

 

ラジャス増長のしるしは

物事に対する強烈な執着 利益をうむ活動

激しい努力 抑えきれぬ欲望

そして発展へのあくなき追求 焦燥である

 

アルジュナよ そして--

タマスが増長すれば

暗愚 邪悪 ものぐさ 無気力

狂喜 妄想などが現れてくる

 

サットワの支配下で肉体分解すれば(*)

その魂は聖者たちや

立派な信仰家たちの住む

清らかな世界に上がって往く

[(*)サットワの性質が他の二性(グナ)を抑えている状態で死ねば]

 

ラジャスの支配下で肉体分解すれば

その魂は仕事に追われる人々の世界に生まれ

タマスの支配下で肉体分解すれば

その魂は無知蒙昧な女の胎に宿る

 

サットワによる行動の結果は

善美であって汚れなく

ラジャスによる行動の結果は苦痛であり

タマスによる行動の結果は愚昧である

 

サットワからは真実の智識が生じ

ラジャスからは貪欲が生ずる

そしてタマスからは愚鈍と

狂気と妄想が生じる

 

サットワに生きる人々は次第に高い世界に上がり

ラジャスに生きる者たちはこの世界に留まり

いまわしいタマスに生きる者たちは

地獄のような世界に堕ちていく

 

全ての行為は自分がするのではなく

物質自然の三性質(トリグナ)の作用にほかならぬ事を知り

その上に至上主の実在を正覚した者は

この三性質を超越して”わたし”のもとに来る

 

肉体をまとった者が その体と連合する三性質を

振り捨ててこれを超越したとき

誕生と老と死の苦より解脱し

物質界にいる間から至幸の神酒をのむ

 

アルジュナ問う

「主よ 三性質を超越した人の

特徴(しるし)を何とぞお教え下さい

彼はどんな生活をし 行動をするのか--

またどのようにして三性質を超越(のりこえ)たのですか?」

 

至上主(バガヴァーン)こたえる

「バンドゥの息子よ

サットワの光輝 ラジャスの執着

またタマスの迷妄が現れても嫌わず

消えても追求しない者--

 

これら物質自然の三性質の作用に

動揺することなく 悩むことなく

動くのは物質自然の三性質のみと静観して

超然として不偏中立を保つ者--

 

真我に定住して幸と不幸を区別せず

土塊(つちくれ)も石も黄金も同等に視て

全ての事物に好悪の感情を起こさず

賞讃と非難 名誉と不名誉に心を動かさぬ者--

 

友と敵を同じように扱い

物質次元の仕事には一切手を出さぬ者--

以上のような人は

物質自然の三性質を超越したと言えよう

 

いかなる場合でも身心を尽くして

”わたし”を信じ愛し仕える者は

速やかに物質自然の三性質をのり越えて

ブラフマンに到達するであろう

 

そして”わたし”がブラフマンの住居である

即ち 不死不滅の全一者

永遠の法則(ダールマ)であり

絶対の幸福である(*)

[(*)ブラフマンの本質をサッチャーナンダという。

 サット(永遠の実在)、チット(完全円満な智慧)、アーナンダ(絶対の至福)]

(バガヴァッド・ギーター 第14章11-27)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(44)「死」④

前々回から、「死」について、死のプロセスで起こることなどを中心に、ご紹介しています。

「死」という現象は、人間には避けることの出来ない最後のライフ・イベントと言えますが、あまり多く語られることがないために、必然の出来事であるにも拘わらず、多くのヴェールで覆われており、死後の世界のことも含めて、実態はほとんど知られていません。

 

このテーマでの記事は、今回が最後となりますが、前回同様、最初にスワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次に、4年前に翻訳出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から「死の超越」、そして最後に、チベット仏教において、臨終の際に唱えられるお経が紹介されている「チベット死者の書」から、ヨーガと関連が深いと感じられる箇所を、ご紹介します。

 

これらご紹介する文章の中には、生と死を繰り返す「輪廻転生」からの「解脱」についての多くのヒントが書かれていますので、ヨーガや瞑想修行を行なう上で、何に注意すれば良いか?または、何を心に留めて実践すべきか?が、見えて来ることでしょう。

 

ここに書かれてあることは、高度な修行の成果と言えるものですが、けっして人間には手が届かない実現不可能な結果という訳ではありません。

(ナーナ先生は、良いお手本として、クンダリニー覚醒によって、そのことを実証して下さっています)

 

死のプロセスを通り抜ける一連の身体に起こる現象は、一般的な常識は通用しないと言えるような通常私たちが日常で経験しているものとは大きく異なりますが、ヨーガを修行する中では、似たような体験は起こり得ます。(それ故、聖者の方々や卓越したヨーギーは、死のプロセスを語ることができるのです)

一般的には、理解することが難しいために、広く共有されることなく、死のプロセスや死後の世界についての多くは、禁忌として隠されてきた側面がありますが、「死」は、身体に起こる生理的現象であると同時に、生と死の仕組みを理解することで、人間の宿命である「死」を超えて行く「解脱」への可能性が芽生える第一歩とも言えますので、「死」についての理解は、とても大切な知識であると言えます。

 

ヨーガにおける「解脱」とは、生と死の仕組みを知ることから始まる、と言っても過言ではありません。

そして、それこそが、今回、人間として生まれて来た目的とも言えるわけですから、「死」という現実を直視し、「死」について、少しでも理解を深めることが、人生の最終的な目的である輪廻からの解脱、生と死の繰り返しを乗り越えて行くために必要不可欠とも言える大切な準備であると言えます。

 

 

Interval between Death and Rebirth(生と死の間の間隔)

 

人々は、肉体を離れる時間と再び生まれる時間の間の経過する正確な期間を知りたいと欲する。

魂は、一年で新しい身体を手に入れるのだろうか?

十年かかるのだろうか?

地球次元に再誕する前に、微細次元上では、魂はどのくらい長く生きるのだろうか?

これらは、幾つかの疑問である。

主に、二つの要因がこの問題を決定する。

それは、個人的なカルマと死の前の最後の印象である。

それは、数百年から数カ月まで、さまざまであるかもしれない。

微細次元である他の次元で、彼らのカルマのいくつかを成就する者は、肉体に入る前にかなりの時間をとる。

地球時間の一年が、天界におけるたった一日として過ぎるために、間隔は非常に長い。

外国人の旅行者が、或る古代の遺跡の堂々とした廃墟に驚き、賞賛するのを見ながら、近くに住む聖者は、何世紀も前に遺跡を作り上げた、と言ったと引用される事例がある。

時々、強い切望をもった非常に好色な人、或いは、強い執着をもった人は、早く生まれ変わる。

また、人生が暴力的な死や、或いは、突然の予期しない事故により、人生が中断された場合には、個の魂は、非常に速く生命の糸を再び始める。

通常、このような瞬時の再誕の場合には、個の魂はしばしば、それ以前の人生の出来事の多くを覚えている。

それは、過去の親戚や友人を認識し、古い家や親密な事柄を見分ける。

これは、時々、非常に風変わりな展開に導く。

殺された人が、再誕し、彼の死に方を明言し、殺人者との一致を明らかにしたといういくつかの例がある。

輪廻した個人は、時々、判断を誤らずに、彼によって隠されていた宝を摘発する。

たいていは、この記憶は残っていない。

これは、正に、全知の存在によって贈られた祝福である。

このような記憶力は、われわれの現在の人生を大いに複雑にするであろう。

過去は、思い出すことが良かったり、助けになるような時まで、あなたには隠されている。

あなたが完全に達し、サイクルの最後に到達すると、すべては明かされ、あなたは一つの人格上に織り交ぜられた命の数珠を見るだろう。

しかし、このような瞬時の再誕の場合は、一般的ではない。

通常は、平均的な個人にとっては、死と再誕の間の間隔は、たまたま地球時間の時間で測ると、かなりの期間になる。

多くの善いカルマを為した人は、再び生まれる前に、天界で多くの時間を過ごす。

霊的に進んだ人々である偉大なる魂は、輪廻転生する前に、長い時間待つ。

死と新しい誕生の間にある期間においては、故人の魂、特に人が精神的に霊的に発達していると、もし必要が起こるなら、地球次元に、しばしば物質化することができる。

それは、人間の形を取り、話し、実体的な感触で感じさせることさえできる。

このような幻影の写真を撮ることは、可能である。

このような物質化した形は、通常の視覚には見えないアストラル体とは異なる。

それは、物質的な身体に対する微細な“生き写し”であり、正しく片割れであり、死後の個人の魂が旅をする乗り物を形成する。

しかしながら、アストラルな意識は、あなたに誕生と死からの自由を保障することはできない。

オカルトやスピリチュアルは、究極の解放をけっして与えることはできないし、来世の十分な秘密を明らかにすることはできない。

霊的な実現と真我の智識だけが、死を超えた死と生の神秘を明らかにするであろう。

 

 

Be Not Afraid of Death(死を恐れるな)

 

死は世俗的な人には、辛いことである。

ヨーギーや聖者は、真の探究者でさえ、死の恐れは持っていない。

願望のない人は、彼が死ぬ時、けっして泣きはしない。

完全に達したジニャーニは、けっして死なない。

彼のプラーナは、けっして出発しない。

あなたの最も主要な義務は、来世の平和的な人生のための準備である。

死の恐れを克服しなさい。

死の恐れの克服、死の克服は、すべての霊的な鍛錬の最も高度な統合である。

すべてのヨーガの鍛錬の一つの目的は、恐れなく、喜びに満ちて、死を迎えることである。

人は、死を恐れる。

年を取ると、彼は神について考えようとする。

もし彼が、少年時から神を思い出すならば、彼は、年老いて、豊かな霊的な収穫を受けるだろう。

ビーシュマは、彼の命令で死んだ。

サヴィトリィは、彼女の夫サッチャヴァンを純潔の力を通して、生き返らせた。

マーカンディヤは、シヴァ神の礼拝を通して、死を克服した。

あなたもまた、ブラフマチャリアの力と知識、献身を通して、死を克服することができる。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

『ヨーガの達人は、死からさらに多くのことが学べることを発見しました。

死は単なる永遠への魂の旅における必要な休止ではありません。

それは、人の意志で使うことができる通路であり道具なのです。

これを理解するために、再びカタ・ウパニシャッドに戻ります。

ヤマは、体を王宮と呼びました。

王はアートマンです。

ヤマは、王宮への11の門を述べました。

この門のうち7つは感覚的なものである、2つの眼、2つの耳、2つの鼻孔、1つの口です。

さらに3つの門は、臍と生殖器官と排泄(はいせつ)器官です。

最後の門は、通常は知られていない器官ですが、脳の中央にあり、頭頂に位置する泉門であるブラフマランドラと呼ばれているものです。

それは、アートマンである王の座であり、永遠の座なのです。

この座より、アートマンはすべての随行者である、心、知性、知覚器官、全体の感覚を支配し、命令します。

最初の10の門はこの世の生への通路です。

ブラフマランドラは、神聖で永遠なる生への入り口です。

普通の人の場合は、生命力は、特にその人の最も強烈な願望の座であった10の門のいずれかを通って離れていきます。

完成されたヨーガ行者は、11番目の門を通って離れていきます。

ウパニシャッドは、違いを強調し、これらすべての門の王はアートマンであると強調しています。

アートマンは、仕えられるべきものであり、そのやり方は、知性や心、感覚をコントロールすることにより、11の門における活動を制することなのです。

ヨーガ行者は、これらの入り口をコントロールする方法や、アートマンを発見し仕える方法について知っています。

彼らは、生まれ変わりの神秘を理解するために、ブラフマランドラを使うことを学んでいるのです。

永遠の世界と永遠の生への入り口が、十分に統制されると、そのとき、この世の生と永遠の生との間のつながりが理解されます。

死の惨めさと死に伴う恐れの大きな苦しみは、消滅します。

感覚、思考の波、心と体のエネルギーを含む人間を構成するすべての要素が調和するとき、アートマンは現れます。

死は、体の習慣です。

どんな化学的な構成が似た体でも、変化し滅び、死ぬことになっているので、誰も同じ体で永遠に生きる人はいません。

必ず死ぬことになっているものにしがみつくことは、恐れと惨めさを作り出します。

その執着は、自然であり物質的な面だけに焦点を合わせる人々により分かち合われます。

彼らは、全体に気付いていないので、苦しむのです。

サマディにおいて最終的に最高点に達する瞑想は、この体にしがみつくことからの自由を約束しています。

瞑想を通して、11の門のコントロールは達成されます。

そのとき、人は心、体、魂への自制力を持ち、全体に気づくようになります。

瞑想の技術には宗教的な教義はありません。

ブラフマランドラは、アートマンとの合一のときにのみ、開きます。

そしてその合一は、心の中に変動がなく、願望もなく、恐れも執着もない超越状態であるサマディを通して可能です。

サマディという単語は、答えられないどんな疑問もなく、解決されないどんな神秘もないというサマヒタンを意味します。

同時に、心のおしゃべりは消え、すべての言語は忘れられます。

このような状態では、心はじっと考えたり、深く考えたりする方法はありません。

これは、心が永遠の超越した知性の黙想に同化している心の栄光ある状態です。

ヤマは、不死の領域が達成され、アートマンが悟られるサマディの状態を述べました。

彼は言いました。〝すべての感覚が器官から退き、静かになったとき、心が静寂になり静止し、思考が心を乱さないとき、その状態で、アートマンの栄光は悟られ、至福が地平線に現れ出す。それが、サマディの状態である〟

サマディの最高の状態は、全く死とは似ていません。

死が無知の暗闇における経験である一方で、サマディは悟りの状態です。

サマディにおいては、人は完全に意識的ですが、死においては、意識はありません。

通常の人にとって、死は長くて深い眠りなのです。

魂は、死後、心に執着したままです。

しかし、個人は深い眠りにいます。

自覚はありません。

ヤマは、ナチケータに語りました。

サマディとは〝死の状態ではない。それは物質的、精神的な世界の領域を超えた単一性であり、同一性である〟

関係性の世界においては、魂は3つの異なる状態を経験します。

目覚めている状態、夢見ている状態、深く夢のない状態。

トゥーリヤとして知られる4つ目の状態においては、アートマンは魂の3つの門の超然とした目撃者としての本質にあると言えます。

深い眠りの状態の間、魂はすべての苦しみと痛みから自由を楽しみますが、トゥーリヤにおいては、それはすべての他の状態から、完全に離れていることを経験します。

超越意識であるトゥーリヤは、サマディと同意語です。

サマディと深い眠りの違いは、表面上はほとんどありません。

深い眠りは喜びの状態ですが、人はそれに気づいていません。

サマディにおいては、ヨーガ行者は、至福の状態に完全に気づいています。

それは、アートマンから引き出された直接体験なのですが、他のどんな方法を通しても推測することはできません。

サマディには、2つの種類があります。

形があるものはサヴィカルパで、形のないものはニルヴィカルパです。

サヴィカルパ・サマディの間、ヨーガ行者は、自分自身の肉体的精神的な状態とプロセスを、それらは彼には属していないのですが、見ます。

彼は、完全に切り離されています。

これは、思考者、対象物、そして(思考の)意味すべてが、この状態の間、現在に在るため、サヴィカルパ・サマディと呼ばれます。

ニルヴィカルパ・サマディにおいては、人はすべての執着から自由です。

この深い状態では、思考の意味と対象物は、存在しません。

知っている者のみが存在します。

ニルヴィカルパは、ヨーガ行者が永遠なる至福と溶け合い、アートマンである真の自己と融合している最高の状態です。

サマディの経験は、述べることができません。

なぜならば、思考、言葉、行いを超えた他に類を見ない状態だからです。

人間は数えきれない束縛に縛られています。

サマディが達成されると、探求者は永遠に自由になります。

これは、死のないヨーガ行者の永遠の住居である最高の状態です。

死後の生は、死の境界が超越される状態であるサマディに到達した人々により、正に今生のここで経験されることができます。

生の知られた部分は、2つの点である誕生と死の間に引き伸ばされている線です。

人の存在の大部分は、これら2つの知られた点を超えては、不可知であり不可視なのです。

通常の人は、死と呼ばれる移行についての知識がありません。

しかし、悟った、あるいは、熟達したヨーガ行者は、この世とあの世を理解しています。

11の門をコントロールすることを学んだ人々は、何があの世であるかを知っており、その知識は、彼らに生だけでなく死への勝利をも与えます。

この勝利した人々は、死の気まぐれには従属していません。

彼らは肉体を脱ぎ捨て、自分自身で決めたときに、自分自身のコントロールの下で死にます。

彼らは、意識的に11番目の門であるブラフマランドラを通過します。

この門を通ることを知っている人は、この世を彼が知っているのとまったく同じように、あの世について知っていると言えます。

もはや、この世とあの世の間にはどんなヴェールもありません。

熟達したヨーガ行者は、いろいろな方法で、体を脱ぎ捨てることを学びます。

私たちは、ここでは、通常の死を横に置いておいて、死ぬという行為に立ち向かう別のやり方があるということを単にわかってもらうために、いくつかのヨーガ行者の古典的な技法について、少し触れておきます。

ヨーガ行者によって使用されている〝死ぬ〟という一般的な単語は、マハー・サマディです。

サマディは、人類により到達可能な静寂の最高の状態に対する単語です。

マハーは、偉大な、という意味です。

ヨーガ行者は、死と同じくらいシンプルに、人生の終わりを死というより、体を脱ぎ捨てる、もはや必要なくなったものを手放す、という言い方をします。

ナチケータは、意識的に体を手放す技法について説明されました。

ヤマは、彼にすべてのナディ、あるいは体のエネルギー通路のうち、最も重要であるのがスシュムナであると説明しました。

スシュムナは脊柱の中央を通り上へと流れます。

スシュムナを通して、クンダリニーという霊的なエネルギー、あるいは神聖なる力が流れます。

スシュムナは自由のキーポイントです。

死の際に、スシュムナに入ることができる人は、人生の最高のゴールであるブラフマンに到達します。

他のすべての道は生まれ変わりの道です。

体を離れるために、ヨーガ行者は、クンダリニーという眠っている蛇の力を目覚めさせ、このエネルギーはスシュムナの通路に入ります。

それは、眉間の間の2つの花弁の蓮の花であるアジナ・チャクラまで上がります。

ここでヨーガ行者は、プラーナとして知られる体の他のすべての生命エネルギーを集め、コントロールします。

彼は、自分の意識を現世的な存在感や感覚、5つの下位のチャクラから引き出します。

彼は、アジナ・チャクラに、それから次第に、クラウン・チャクラであるサハスラーラに向かって集中します。

頭頂に集中している間、彼は泉門を通り体を離れ、最終的に絶対的ブラフマンの領域まで上ります。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by Swami Rama)

 

 

『ああ、善い人よ。

チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)とチョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)とシパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)の三つを汝は体験するであろう。

この三つのバルドゥの現出のうちで、昨日までのチカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)において、チョエニ・バルドゥ(存在本来のすがた)の光明が現れたが、汝はそれを覚ることができなかった。

そこで、汝はさらにここにまで彷徨ってこなければならなかったのである。

今から汝にはチョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)とシパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)の二つが生じるであろう。

これから私によってお導きがなされることを、心を惑わせないで理解しようとすべきである。

ああ、善い人よ。

今や≪私は死んだ≫という、例のあのものがやってきたのだ。

この世界から外へ行くのは汝ひとりではないのだ。

死は誰にでも起こることである。

この世の生に執着や希求を起こしてはならない。

執着や希求を起こしたとしても、この世に留まることは不可能である。

汝は輪廻し彷徨いつづけるよりほかはないのだ。

執着してはならない。

善い人よ、チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)の状態において、どんなに畏怖させ恐怖におののかすような現出があても、汝は次の言葉をわすれてはならない。

そしてこの言葉の意味を心に思いつづけてゆくがよい。

それがお導きの大切な要点である。

「ああ、私にチョエニ・バルドゥが現れてきている今この時に、すべてについての恐怖・畏怖・戦慄の気持ちを捨てよう。

現れてきるものがなんであっても、自分自身の意識の投影したものであると覚るべきである。

これがバルドゥの現出であると見破らなくてはならない。

今は目的を達成しなければならない大変に重要な時機である。

この時に自分自身の投影である寂静尊と忿怒尊の神群を恐れることはやめよう」

このようにはっきりと何遍も繰り返し唱えることによって、その意味内容を心に思いつづけ刻みつづけるようにすべきである。

そして恐ろしく脅かす幻影がどんなに現れてきても、自分自身の投影であると確実に覚ることが大切な要点である。

それを忘れてはならない。

ああ、善い人よ、汝の身体と心とが離ればなれになるとき、存在本来の姿(法性)の純粋な現出があるであろう。

この現出は微妙であり、色彩と光に満ちている。

光輝に光り輝くであろう。

その本性は幻惑させ、汝をおののかせるものであり、初夏の野に陽炎が立ち昇るようにゆらゆらと揺れ動く。

これを恐れてはならない。

おののいてはならない。

おびえてはならない。

これこそ汝自身の存在本来の姿そのものの現れであると覚るべきである。

光の中から、存在本来の姿そのものが起こす轟音が大きな雷音となり、千の雷が一切に鳴り響くばかりにごろごろと響きわたるであろう。

これもまた汝自身の存在本来の姿そのものの音なのであるから、これを恐れてはならない。

おののいてはならない。

怒りを持ってはならない。

汝には習癖を作る力(ヴァーサナー、習気じっけ)から出来上がっている意識の身体(意成身いじょうしん)というものがある。

しかしこれは実質を持った血肉の身体ではないのである。

したがって音響・色彩・光明の三つからなるものが迫ってきても、それが何であっても汝に害を加えることはできない。

汝には死ぬことがないからである。

それが汝自身の投影であると覚りさえすればよいのである。

それはすべてバルドゥの現出であると知るべきである。

ああ、善い人よ、このように汝自身の投影であると覚ることができない場合には、生前に人間界にあった時にどのように熱心に、いかに瞑想(観想)を行なってきたとしても、現在のこの教誡(おしえ)に遭うことがないならば、色彩によって畏怖させられることであろう。

音響によって脅かされるであろう。

光明によっておののかされるであろう。

教誡(おしえ)のこのような大切な要点を理解することがなければ、音響・色彩・光明の三つの本質を覚ることができずに輪廻し彷徨うことになるであろう。』

チベット死者の書

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(43)「死」③

前回の記事では、「死」という現象が私たちに起きた時に、実際には、どのようなプロセスが生じるのか?ということを、ヨーガ的な見地から見た解説をご紹介しました。

 

世の中には、「臨死体験」と呼ばれるような「死」の一歩手前まで行った人たちの生還後の感想などを耳にすることもあるかと思いますが、それは、謂わば、主観的な、個人的な体験談と見ることができると思われます。

 

ここでご紹介しているヨーガ的な見地からの「死」についての解説とは、多くのヨーガ修行を通して得られた体験に共通している事柄を、一つに纏めたもので、ある種の実験結果の総論と言えるような誰にでも共通して起こる現象を述べた客観的な記述と見ることができます。

自転しながら、地球が太陽の周りを回っているという科学的事実は、地動説を個々人が信じるか?信じないか?とは別の話であるように、私たちが、「死」をどのように捉えるか?は、起こる現象とは、全く関係がありません。

 

誰でも避けることができない「死」について、生前に少しでもそのプロセスを知り、考えることは、同時に、「生」について知り、考えることでもあります。

 

目に見え、体験できる世界を「この世」とするならば、死後の世界は、「あの世」ということになりますが、「この世」にいる間に、「あの世」について多少なりとも知ることができれば、知った分だけ、死に対して心の準備ができることでしょう。

 

そして、その心の準備が整えば、死に対する恐怖心は、薄らぐことでしょう。

 

お化け屋敷のお化けも、その正体が予めわかっているならば、どんなお化けが現れようとも、特に大きな恐怖を感じることはないでしょう。

それと同じで、予め、死の際にどのようなことが起こるのか?を知っていたら、死に対する恐怖心は和らぐことでしょう。

 

今回は、初めに、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、次に4年前に翻訳出版いたしましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から「あの世」について、そして、最後は、ご参考までに、チベット仏教の僧侶が、死に赴く人の枕元で唱えるお経「チベット死者の書:バルドゥ・トェ・ドル(チェンモ)」より、ヨーガとの関連が深いと思われる箇所をご紹介したいと思います。

チベット仏教は、タントラ仏教と言われているように、顕教と呼ばれる大乗仏教に対して、密教と言われていますが、ヨーガにおけるタントラ的な教義と共通する観念や理論が多いと言えます。

それから読み取れることは、チベット仏教で言うところの「不生の法身(ダルマ・カーヤ)」とは、ヨーガで言うところの「真我(アートマン)」であり、究極の存在は、唯一無二であるため、言葉上では異なっていますが、同じものを指していると思われます)

 

 

Death Pangs(死の苦しみ)

 

死の際には、痛みはない。

無知な人々は、死に関する多くの嫌悪や恐れを創り上げて来た。

ガルーダプラーナやアートマプラーナ文献では、死の苦しみが72000匹の蠍の針によって引き起こされる痛みと同程度であると記述されている。

これは、聞き手や読み手の中に恐怖を生み出し、彼らに解脱(Moksha)を求めて働くようにするためだけに書かれている。

スピリチュアリズムにおいては、死の間、少しの痛みでさえないという光明を得た魂からの数多くの報告がある。

彼らは、明らかに、死の際の体験を記述し、彼らがこの物質的身体の脱落によって大きな負担から解放され、彼らが肉体からの分離の時に完全なる平静を楽しむと述べている。

マーヤ(幻妄)は、身体における痙攣性のひきつりを生み出すことで、傍観者の中に無益な恐れを創り出す。

それは、自然であり習慣である。

死の苦しみを恐れてはいけない。

あなたは不滅のアートマンなのだ。

 

 

Prayer for the Dead(死者への祈り)

 

故人の魂は、死の直後は、気絶、或いは、無意識の状態にある。

彼らは、彼らの以前の粗雑体から分離したと感じることができない。

祈り、キールタン(神の御名の称名)や、親族や友人からの良い想念は、故人の魂へ真の慰めを与えることができる。

彼らは、潜在的な波動や彼らの心の鈍くなった状態における目覚めを創り出し、彼らの覆われた意識を取り戻させる。

魂は、彼らが彼らの粗雑体の中に実際にはいないことを悟り始める。

その時、彼らは、虚空(エーテル)の狭い川、境界線を渡って行く努力をする。

それは、ヒンドゥー教徒にとっては、ヴァイタラニ(Vaitarani)として、ゾロアスター教徒にとってはチンナット橋(Chinnnato-bridge)として、イスラム教徒にとってはシラット(Sirat)として知られている。

故人の魂が、平和に沈み込んで行く時に、そして彼らが天国で栄光ある目覚めを持とうとしている時に、彼らは泣いて嘆き悲しんでいる彼らの友人や親戚によって、世俗的な人生の鮮やかな思い出の中に目覚めさせられる。

喪に服す人々の想念が、同じような波動を彼らの心の中に創り出し、激しい痛みと不快さを引き起こす。

そして、制御の利かない彼らの親族の悲しみは、彼らのアストラル次元から、彼らを引きずり下ろす。

これは、天国への道の途上にある彼らをひどく妨害するかもしれない。

これは、彼らにとって、重大な損害を生み出す。

 

 

Last Thought-forms(最後の想いの形)

 

人の最後の想いは、彼の未来の運命を支配する。

それは、彼の未来の誕生を決定する。

放埓な男の最後の想いは、彼の女性についてだろう。

アルコール中毒患者の最後の想いは、彼の酒瓶の栓についてだろう。

戦士の最後の想いは、彼の敵への銃撃についてだろう。

一人息子にひたすら愛着を感じている母の最後の想いは、彼女の一人息子についてだろう。

バラタ王は、慈悲から鹿を看病し、鹿に愛着を感じるようになった。

彼の最後の想いは、鹿についてであった。

それ故、彼は鹿に生まれなくてはならなかった。

人は、常に彼の心を神に固定し、平和に死にたいと願っている。

それは、バガヴァッド・ギーター、ヴァーガバタ、ヴィシュヌ・サハスラナーマ、その他の聖典が病人の死の床で詠唱される理由である。

彼は、話せないかもしれないが、それでも彼は、彼に読まれているものを聞くかもしれない。

これは、彼が身体や病のことを忘れ、神について考えることを助けるだろう。

彼の記憶が弱ると、これらの聖典の聖句が彼に彼の真の性質を思い出させるだろう。

病が身体を苦しめる時、彼の意識が消えそうな時に、死の際に神意識を維持することは難しい。

しかし、彼の心を絶え間ない修練を通して神に固定しようと努力し、生涯を通して、心を訓練した人間にとっては、最後の想いは、神についてだけであろう。

それは、一週間か一か月に一日や二日の時たまの練習によっては起こらない。

それは、一生涯の努力と奮闘である。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『死のときに、魂は外側の装いである肉体を脱ぎ捨てます。

ヤマ(死神=閻魔)はナチケータに肉体が死んで滅びた後、魂は存在し続けると語りました。

物質的な肉体、あるいは物質的な宇宙の現象の助けなしで、魂が残存する霊的な領域があります。

これらの領域は感覚器官には認識できず、霊的な直感を通してのみ知覚され得ます。

悟らなかった魂たちは、死後ある不特定な期間、死んだ魂の領域に残存します。

それらは、この次元で真の実在の真の性質を悟ることができなかったため、死の通常のプロセスを経験したのでした。

死に伴う恐れのほとんどは、死が苦しいかもしれないという恐れです。

死のプロセス自体は、苦しくはありません。

それは単に状態を変化させるだけです。

準備不足と執着は、死のときに経験される苦しみの原因です。

死は、準備がなされ、アートマンの叡智(えいち)を獲得した人にとっては、けっして苦しいものではありません。

このような個人は、肉体や肉体的な感覚から離れ、肉体的な変化に影響されません。

魂が物質次元や、この世のものや個人に非常に執着しているときは、死は苦しみであり、悲惨な状態へと至るかもしれません。

生と死の間には、プラーナが機能を停止する中間の状態(※1)があります。

人はこの瞬間の準備をしていないと、精神的な責め苦を経験し、他人に何かを説明、表現することはできないでしょう。

実在を知っている人は、この悲惨な状態からは救われます。

死への移行において、外側の乗り物が完全に落とされる前に悟らなかった人々は、喜びや苦しみのそれぞれのいろいろな一時的な段階、あるいは領域を経験しますが、それは以前に成したポジティブまたはネガティブなカルマにかかっています。

例えば、ピトルローカ(※2)では、私たちは祖先や親しい人に逢(あ)い、スワルガローカ(※3)では、いろいろな楽しみを楽しみます。

チベット死者の書ヒンドゥー教のガルーダプラナは、肉体を捨てるプロセスで人が通り過ぎる段階を広範囲にわたって説明しています。

物質的な肉体が落とされた後でさえ、残存する構成要素の純粋か不純かにより、低い天国の領域と高い天国の領域という異なる天国の領域があります。

無知な者にとっては、死は、天国のような、あるいは地獄のような夢のような光景がところどころに入っている長くて深い眠りです。

死んだ魂と意思伝達したと主張する人々は、幻覚を起こしているか嘘(うそ)をついているのです。

誰かが深い眠りにあるとき、誰かと意思伝達することは不可能です。

悟った魂のみが、いつでも十分に意識的であるので、死後、他者と意思伝達することができます。

善い行いをして、正しくて利己的でない人生を送り、今生でいくつかの完成を手に入れた人々は、最も高次な領域で、神聖なる自己のはっきりとしたヴィジョンを楽しむことができます。

しかしながら、最も高次への到達と自己の自覚はこの生だけで持つことができると賢者は言います。

ピトリローカとスワルガローカは最高の真理を表すことはできません。

自由は、この領域では達成されることはできず、天国のいろいろな楽しみは、魂がアートマンを悟ることを邪魔します。

自己認識は、死後ではなく、今生のここでのみ可能なのです。

死後の死んだ魂の領域で、真の自己を悟ることができると信じている人々は、悲しくも幻滅を感じるでしょう。

肉体の消滅の前に、アートマンの不滅の性質を悟らない人々は、人間の誕生を通してやって来る大いなる好機を失うでしょう。

ブラフマンの達成は、あの世ではなく、今生のここでのみ可能なのです。

ヴェーダンタによると、人間は5つのコーシャという鞘(さや)から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、5つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。

死と同時に、物質的な肉体は、意識の心と共に、不死の部分から離れます。

感覚器官は肉体と共に置き去りにされるので、死後、感覚的な知覚はありません。

感覚は、微細なレベルでは機能しません。 

死後、外側の乗り物、あるいは鞘を捨てる過程で、人は、短い間、歓喜鞘に接触するようになります。

臨死体験を報告する人々は、彼らが愛で彼らを包む輝く光に引き付けられたことについて語るとき、この短い接触を記述しているのです。

このような経験は、彼らが自己認識、あるいは、悟りに対処すべき何もしていない場合以外は、可能です。

これらの一瞬の経験は誰かを変容させる可能性を持っていませんし、透視能力や他人を癒すエネルギーのような超能力を授けたりはしません。

もし、人が、一生涯、暗闇と無知にあるなら、死のときに、短い時間であっても、アートマン接触するにはどうしたら可能でしょうか? 

もし、ランプが多くの覆いを持っていたら、光はとても暗いときにしか見えません。

すべての覆いが取り除かれたとき、光ははっきりと見えます。

悟りは、光を見ることではなく、内側の光が真の存在だと悟ることです。

これは太陽、月、星々の光ではありません。

智慧(ちえ)と永遠の至福の光です。

悟りに相当する経験は他にはありません。

死は悟った人にはどんな力もありません。

探求者は、死後、悟らされることを期待する代わりに、次のステップの準備をする真摯な努力をし、地球の次元にいる間の今ここで、悟りを達成しようと努力するべきです。

無知なる魂は、天国へ行くか、彼らの満たされない願望の満足を求めて地球に帰ってきます。

願望する者は、生まれます。

願望しない者は、再び生まれることはありません。

生まれ変わりの理論によると、すべての連続する誕生では、より多くの智慧を得て、最後には完全なる自由を獲得するように、行為のメリット、デメリットによって、魂は何度も何度も生まれます。

この生まれ変わりの理論は、現代の科学的な方法では証明することはできません。

 

死は恐ろしいものではありませんが、恐ろしいのは、死の恐れです。

死は、ほとんど中身のない、まったく喉の渇きを癒さないカスを噛(か)んでいるようなものであり、この世を楽しむことに彼らの時間とエネルギーを浪費した人々に慰めを与える母親のようなものです。

死は、点であって、終止符ではありません。

死はただの体験であり、誰も逃れることができない変化でしかありません。

その準備をしない人は愚か者です。

真の自己は死ぬことはできません。

それは、物質的な鞘が滅ぶときでさえも、存在し続けます。

物質的な自己は、アートマンに潜んだままでいる粗野な媒体です。

肉体が滅びたとき、体の微細な物質は同じままです。

何も宇宙では失われていません。

宇宙的なエネルギーは永遠から永遠へと続いています。

現代の科学は、この世のすべては、他のエネルギーの粒子を引き付けようと、エネルギーの粒子を駆り立てる振動の産物にすぎないことを発見しました。

固体は、連続的に、これらの空の粒子の状態になり、それから電磁波になります。

それは、最後には、エネルギーの形であると理解されるようになりました。

ヨーガの哲学においては、この宇宙に存在し、起こるすべては、宇宙エネルギー、あるいはプラーナが原因である運動と振動の結果です。

この宇宙のすべての生物と無生物は、プラーナの振動によって作られます。

このプラーナの振動は、すべての宇宙的な現象の根源であり、宇宙で起こるすべての出来事の第一原因です。

プラーナは宇宙的生命の原理であり、それ自体の法則を持っています。

プラーナなしには、宇宙は存在しないでしょう。

著名な科学者であるサー・アーサー・エディントンは、物質という概念は基本的な物理学から消え、波動の周期性の概念により置き換えられてきていることを、私たちは思い出さなくてはならないと言いました。

現代科学は、実験により、物理学の世界が精神的な現象であると示唆しています。

それゆえ、物理学が、事実上、形而(けいじ)上学に帰結したのは不思議ではありません。

したがって、古代の師たちの直感的な啓示を確証しています。Sarvam khalv idam Brahma (確かに、これすべてはブラフマンなり)

最初のプラーナの現れは、アカーシャである空間で、それは次第に現象的な宇宙へと発展しました。

ヴェーダンタによると、宇宙には死んでいる物質のようなものはありません。

全宇宙は生きている有機体です。

ヤマは、ナチケータにこの現象界に存在するものは何であれ、プラーナの振動の現れにすぎない、と説明しました。

リグ・ヴェーダによると、宇宙的な力は、展開が始まる前に存在し、現れた宇宙の消滅後も存在し続けるでしょう。

ひとつの巨大な源から、すべての自然の力が、突然現れました。

宇宙は、宇宙の根本であるひとつなるものの現れです。

この宇宙においては、プラーナの振動の消失と獲得のようなものはありせん。

プラーナの力により、発展の力を通して、内側と外側の世界は生まれます。

全世界は、本質においては永遠です。

しかし、その外側の形においては、永遠ではありません。

すべての宇宙の外的な形は破壊され、形のない物質である宇宙の母なるエネルギーが永遠から永遠に存在し続けることでしょう。

生命があるところには、知性の現れがあります。

知性と生命は相伴っています。

この知性は、内なる自己のものであり、その手段としてプラーナという生命力を持っています。

プラーナの力の助けを通して、生きて機能しているのは、本当は真の自己なのです。

対象的な世界は、単に宇宙の半分です。

私たちが感覚で知覚するものは、完全なる世界ではありません。

心、思考、感情を含むもう半分は、外的な対象物の感覚の知覚によって説明することはできません。

五感は、個人的なエゴが外的な世界と接触する主要なドアです。

これらの五感は、私たちが外的世界から振動を受け取るゲートなのです。

これらの振動は、最初は脳細胞に運ばれます。

分子の変化はこれらの細胞で起こり、振動は順番にエゴにより感覚へと翻訳されます。

次に、感覚は知覚概念に形成され、一連の精神的なプロセスの後、観念に変換されます。

これは、終わりなく続きます。

あなたが何かの対象物を考えるとき、あなたは即座に、そのものの精神的なイメージを受け取ります。それは観念と呼ばれます。

もし、知的な心が存在しなければ、どんな認識もないでしょう。

そういうわけで、ヴェーダンタは見解を述べています。

〝感覚器官よりも感覚は微細であるが、心は感覚を超えている。そして、知性は心を超え、宇宙的な自我は、知性よりも偉大である〟

プラーナの力は、肉体における異なった機能により、プラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、ウダーナ、サマーナという5つの名前を与えられています。

人間の身体では上昇する空気はプラーナで、下降する空気は、アパーナです。

ヴィヤーナはすべてのランプを貫く炎のようにさっと回り、体中ですべての流動体とエネルギーの循環を維持しています。

ダーナは、死の際に、体から魂のガイドを務め、サマーナのおかげで、栄養が吸収されます。

魂、あるいはジィーバが離れるとき、生命エネルギーであるプラーナが続きます。

プラーナが離れるとき、他のすべての生命維持器官が続きます。

呼吸システムはプラーナの乗り物です。

心と体の関係を確立するのは呼吸なのです。

吸息と呼息が機能を止めると、死が起こります。

肉体的な死は変化であり、潜在意識と魂を無にすることはありません。

話す、掴(つか)む、動く、妊娠する、排泄(はいせつ)するという行為の5つの器官の微細な力と、感覚知覚器官と5つのプラーナとマナス、ブッディは微細体を続けます。

生まれ変わりのときに、魂は微細体に伴われます。

全身は死の際に分解しますが、微細体は存在し続けます。

メリットとデメリットの倉庫である潜在意識は、ジィーバ、あるいは魂のための乗り物になります。

私たちの多くの生のすべてのサンスカーラは、種子のような潜んだ状態で、私たちの潜在意識の倉庫にあるのです。

微細体と粗雑体との関係は、種子と植物との関係に似ています。

種子は、種子遺伝子において植物のすべての性質を内包しているように、潜在意識は、私たちの過去生のすべてのサンスカーラを留めています。

仏教徒とヨーガ行者は、魂と心と体を信じ、その間を区別しています。

魂は、創造されていません。

それは本質的には、意識であり完全です。

粗雑体の消滅の後、すべては潜在したままです。

魂は生き返ります。

私たちの魂は、死後も、完全であり、消滅せず、分解せず、破壊されません。

もし魂が、真の実体であり存在であるなら、それを経験するいくつかの方法があるべきです。

適切な霊的な訓練を実行する誰もが、この経験を持つことができます。

生と死は、同じ事実にとっての異なる名前であるだけです。

それは、ひとつのコインの2つの面です。

このような区別を超えることができる人は、死を克服し、彼岸、すなわち、永遠の生命に到達することができます。

アートマンが不死であるという基本的な真理を理解する人は、死の神秘を解き明かすことができるのです。

サマディ(超越意識)を達成した人々は、まさに今生のここで、死後の生を経験することができます。

自らの真の自己を悟った人は、不死なのです。』

(「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」 by スワミ・ラーマ)

 

(※1)中有と言う。仏教では、人が死んでから次の生をうけるまでの49日間を指す。チベット仏教では、バルドゥと言う。

(※2)祖先が住む世界(ローカ=星界

(※3)神々が住む天国

 

 

 

『第一の光明の体験

 

まずはじめに『チカエ・バルドゥ(※1)における光明のお導き』とはいかなるものかを述べよう。

理解力は良いがまだ覚っていない人と、覚ってはいるが実践の浅い人と、教えの伝授を願っている一般の凡俗な人たち(凡夫)のすべてに対して、この時点においてこの『光明のお導き』が授けられるならば、第一の光明である〈根源の光明〉が覚られて、バルドゥを経過することなく死者の意識は上方への一直線の大道を通って、生まれつきそなわっていたダルマ・カーヤ(不生の法身、※2)を獲得するであろう。

外に吐く息が途絶えてしまって生命の風(ルン、※3)が叡知の中枢脈管(※4)に帰入すると、心は無用の働き(戯論)を離れた光明としてひときわ輝く。

その後に生命の風(ルン)が中枢脈管から逆流して、右・左の脈管(※5)に流入すると、バルドゥの現出が一瞬のうちに起こる。

そこで生命の風(ルン)が右・左の脈管に流入しないうちに、死におもむく者にお導きを授けるべきである。

お導きを授ける時間の長さは、外に吐く息が途絶えて内にある息が留まっているうちに、彼に対して朝食に要する時間ほどの長さでお授けすべきである。

 

第二の光明の体験

死におもむく者が、第一の光明において自身の本体を覚ったならば、彼は解脱できたであろう。

しかしもしも第一の光明において覚ることができないままでいるならば、さらに第二の光明と呼ばれるものが現れるであろう。

これまた時期はというならば、外へ吐く息が途絶えて、一回の食事に要する時間を少し過ぎたぐらいの時である。

死者の生前の善業あるいは悪業によって、右の脈管あるいは左の脈管のいずれかふさわしいものの方に生命の風は流れ込む。

そして、いずれかの適当な孔(※6)から抜け出る。

彼の意識は明るい道に出たように明晰になる。

このようになるまでにまた一回の食事に要する時間がかかると言われるが、脈管の善いか悪いかにより、また生前における仏教の実修の有るか無いかによって、要する時間に差異がある。

こうして死者の意識は、体外に抜け出るが、死んでいるのか、死んでいないのか、その自覚は死者自身にはない。

死者にはかつてと同じように親族や関係者が見えるようになる。

彼らの悲観の叫びも聞こえる。

カルマン(業=カルマ)が引き起こす、死者を錯乱させるような恐ろしい幻影はまだ現れできていない。

今のうちに、ヤマ王(閻魔)のもたらす畏怖がまだ現れてきていないうちに、教訓(教え)が授けられるべきである。』

チベット死者の書

 

 

(※1)バルドゥ(中有)には、六種類がある。

  (1)母胎より誕生してこの世に生きる姿のバルドゥ(キエネエ・バルドゥ)

  (2)夢の状態のバルドゥ(ミラム・バルドゥ)

  (3)禅定・三昧状態のバルドゥ(サムテン・バルドゥ)

  (4)チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)

  (5)チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)

  (6)シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)

 

(※2)仏の身体についての三つの考え方。法身・報身・化身。

法身は真理そのもの。

永遠の理法の体現で、一切の存在はこれを根拠とし、これのあらわれとされる。

報身は、唯識で「受用身」とも呼ばれ、過去世における願いと修行の「報い」として数限りない優れた美徳をそなえ、その楽しみを享受している仏の姿。

化身は変化身とも呼ばれ、救いを受ける人々の素質・能力に対応していろいろな時・所において、人・鬼神・動物等のさまざまな姿をとって化現する仏の姿。

 

(※3)ヨーガでは、プラーナ(生気)。生命エネルギーのこと。

 

(※4)ヨーガでは、生気(プラーナ)を通す微細次元の導管をナディと呼び、その中でも、脊髄に沿って尾骶骨から脳まで伸びている中央導管をスシュムナーと呼んでいる。

 

(※5)ヨーガでは、右の脈管をピンガラ(別名、スーリアナディ=太陽の気道)と呼び、左の脈管をイダー(チャンドラナディ=月の気道)と呼ぶ。

 

(※6)ヨーガで言うチャクラのこと。微細次元の神経叢、エネルギー中枢で、身体に7つ、或いは、それ以上、あるとされている。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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☆ 【聖なる旅  目的をもって生き 恩寵を受けて逝く】  

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                                  (翻訳:羽沼真理世 監修:池田直美) 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(42)「死」②

前回から、「死」について考える上でのヒントをご紹介しています。

 

それは、「解脱」つまり、インドで発祥した宗教思想であるヴェーダに大きな影響を受けているヒンドゥー教ジャイナ教シク教などは、すべて、生と死を繰り返すと言われている「輪廻」からの「解放」(解脱)が、その主要な教義の中心にあり、また、日本に一番馴染みが深い「仏教」の教えの中にも、「輪廻転生」からの「解脱」が、仏教で説かれている「ニルヴァーナ」(涅槃)という境地に置き換わっていることは明らかで、仏教の経典に触れたことがある人なら、生と死の繰り返しから自由になることが、仏教を通して人間が到達し得る最高の境地となっていることは、容易に理解できることでしょう。

また、ヨーガにおいても、その根幹には、「解脱」(Moksha)を目指すことが、サーダナ(霊的修練)の最終目標となっていますので、これらの宗教や教義や修練法は、それぞれ異なっていても、共通している唯一のことがあり、それは、いかに生きるか?ということではなく、いかに死ぬか?ということにあると言っても過言ではないと言えます。

 

そのためには、一般的には忌み嫌われている「死」について、普通なら考えたくもない、考えるだけで悲しくなり、恐ろしくなる人々にとっては、「死」について生前に学んでおくことは、人間の宿命として自分自身の将来に必ずや起こる「死」そのものを乗り越えていく大きなヒントになり、それによって、「死」に対する捉え方が変わり、「死」は忌むべきものであり、哀しい苦しいことである、というような「死」に対する先入観や思い込みが変わる可能性があります。

また、その延長で、生と死の繰り返し(輪廻転生)があると思っている人びとにとっては、その繰り返し(輪廻転生)自体をも乗り越えていくという私たち人間に秘められた潜在的にもっている可能性が開花するきっかけともなり得ます。

(もちろん、これは、自死を推奨している訳はなく、むしろ、生と死の繰り返し(輪廻転生)の理論からすれば、自死しても、生と死の繰り返し(輪廻転生)から抜け出せるわけではありませんので、一時的に、肉体を離れても、また、戻って来るというのが、輪廻転生の考え方ですから、その繰り返しを永久にストップすることを目指すならば、どんなに苦しくとも、安易な考えを抱かない、ということを生涯を通して、心に銘記しておくことは、生と死の繰り返しからの完全なる自由を目指して道を歩む上での基本的な心構えとして、とても大切です)

 

前回の記事では、スワミ・シヴァナンダの御言葉「死は、5元素(地水火風空)の分解である。」という内容と、その次にご紹介しましたスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの「魂の科学」でご紹介した文章は、物質である肉体に起こる現象について書かれたものです。

つまり、私たちの肉体は、地元素としては、37兆個とも言われている細胞や骨、水元素としては、血液や体液、胃液、膵液、唾液などの分解酵素液、火元素としては、消化作用(体温約40℃で体内で食べたモノを消化吸収しています)や体温、風元素としては、呼吸、運動や感覚に関する神経伝達及びその結果として生じる心の働き、そして、空元素としては、(これが一番難しいのですが)、「虚空」つまり、実体のない「 」であり、一種のスペース(空間)と考えられており、それだけが、唯一、万物に共通であり、分かち難いモノとして存在しており、これらの五元素が元になって、この宇宙は、この世として成り立っています。

そして、重要なことは、私たちが「死」と呼んでいる現象は、所謂、肉体に起こる現象であって、それが、すべての終りではない、ということなのです。

ヨーガやウパニシャッドでは、肉体の消滅とは、火元素(火葬や腐敗=微生物の消化作用)によって起こる地元素と水元素の消滅を指し、風元素や空元素は、肉体と一緒には消滅しない、とされています。(前回ご紹介しましたスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの「魂の科学」の文章の中で、『次いで、ブラフマランドラの意思、理智、それにすべての感覚器官が五種の微細生気からなる球体とともに心臓部へと向かい、そこで原因体を取り囲みます。こうして、感覚器官の持つ力は五種の微細元素からなる球体中に納められますが、微細体のすぐ内側には、微細生気球、続いて我執球、次に心素球があり、中心には真我が納まっています。そして、真我がこれらの光り輝く球体をその周りに引きつけたまま、肉体から抜け出してゆくのです。』というのは、そのことを言っています。)

 

ヴェーダでは、生命エネルギーの源である「魂」は永遠であり、肉体が消滅した後も、在り続けるとしています。

そして、私たちの本性は、この生命エネルギーの源である「魂」、すわなち、真我(アートマン)なのです。

ですから、私たちは、やがて滅ぶことになっている一番外側の鞘である「食物鞘」である肉体ではありませんし、更には、この世を体験している「心」でもないのです。

 

しかし、反対に、「身体」や「心」を自分だとし、自分と言う個我が実体のある存在だと思い込んでいる場合には、それらの消滅は、個我に大きな苦しみや悲しみをもたらすことでしょう。

それでも、その苦しみや悲しみを乗り越える方法があり、その苦しみと悲しみの繰り返しから自由になる道があることは、「死」が宿命である個我の私たちにとっては、大きな救いと言えるでしょう。

 

前回は、スワミ・ヨーゲシヴァランダの「魂の科学」から「肉体の死」についてご紹介しましたので、今回は、その反対の「誕生」において、どのような現象が起きているのか?をご紹介したいと思います。

その次に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からのご紹介と、4年前に翻訳出版いたしましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」に書かれてある「死を学ぶ」をご紹介いたします。

 

 

 

精子卵子とが結び付き、いかにして母体の中の小さな胎児の身体が造られるか、そのきっかけとなる事柄を考えてみて下さい。

このとき真我は直接この胎児の中に入ってくるのです。

ですから、よく言われるように、真我は地上に降り注ぐ雨とともに地中に浸み込み、まず食物の中に取り込まれ、次に体内に摂取される滋養分に姿を変えて次第に精液の中に取り込まれ、精子卵子とが結合した際に胎児としてその姿を現してくる、などと説明する必要は全くありません。

実際、真我は、私達の身体中に入り込む力を持っていますし、また、身体のどこからでも自由に抜け出すこともできます。

真我が身体内に宿る時は、さしずめ、王様が家臣を従えてその居を定める場合とよく似ていると言えます。

その家臣とは、この場合、二十四とか二十五とか言われる実在原理(Tattwa)のことを言います。

それはまず、根本自生(Prakriti)、大なる実在原理(Mahar Tattwa)、宇宙我執、五種の微細元素の八つの実在原理ですが、これらは総称して八種の根本自生とも言われています。

と言いますのも、これらに続いて生じて来る事物の質料因となっているからです。

そして、知識に関係する五つの知覚感覚器官、運動に関する五つの運動器官、五つの粗雑元素(Mahabhuta=地水火風空)、それに意思を合わせた十六種の実在原理が、前述の八種の根本自生から生じてくる結果なのです。

こうして二十四の実在原理が生じてくるのですが、ここで私は、大なる実在原理を心素(Chitta)と理智(Buddhi)とに分けて考えていますので、全部で二十五の実在原理があるということになります。

胎児が体内に宿る時、これら二十五の実在原理も、ちょうど、卵のような形となって一つに集まり、この楕円形をした胎児の真中に真我が入ってきます。

こうして胎児の中に宿った真我は、心素を介してその生命力を伝え始めますので、胎児は、五種の粗雑元素の中でも特に善性が勝っている部分のみを取り入れて、次第に子供の姿へと育ってゆくのです。

こうして胎児は大きく育ってゆくわけですが、だからと言って真我を取り巻く微細体や原因体もともに大きく育ってゆくかと言うと、決してそうではありません。

それはたとえば、今、一つの光を洞窟の内部に置くとしますと、その光はその洞窟内だけを照らし出しますが、その光を、今度は洞窟よりもさらに広い部屋の中に置けば、その広い部屋全体を照らし出します。

これと同じように、胎児が大きく育ってゆく時、これら二つの身体(微細体や原因体)の光も、その胎児の肉体の大きさにつれて広がってゆくわけです。

また、生殖行為から生まれた胎児の中に、もしも真我が宿らなかったとしたら、その胎児はそれ以上育ちませんし、時には、ある種の業(Karma)の結果、胎児が大きく育っていても流産してしまったりする場合もあります。

そうした時には、真我も身体内から抜け出してしまいます。

つまり、この生命活動を有する真我と一緒でなければ、生命を持ち合わせていない各元素は、どんな働きもなし得ません。

こうして、母親の血液中に混ざっている善性優位の五種の粗雑元素を吸収しながら、胎児は大きく育ってゆくのです。

そして、胎児の成長につれて精妙な二つの身体の光も大きく広がってゆきます。

これら微細体と原因体とは、大きくなったり小さくなったりする事ができますので、これらの身体が宿る肉体の大きさに合わせて、その大きさを自由に変えています。

つまり、肉体がどのような大きさになっても、その肉体全体にゆきわたって働けるようになっているのです。

以上にように、胎児の形をした食物鞘は、次第に大きく育ってゆきます。』

(魂の科学 by スワミ・ヨーガシヴァラナンダ)

 

 

 

Signs of Death(死のサイン)

 

死のリアルなサインを見いだすことは、大変難しい。

心臓鼓動の停止、脈拍や呼吸の停止は、死の実際のサインではない。

心臓鼓動、脈拍、呼吸、四肢の死体硬直、体のじとじとする汗、体温低下は、死の一般的なサインである。

医師は、眼の角膜反射があるかどうかを見つけようとする。

彼は、足を折り曲げようとする。

呼吸や心臓鼓動の停止があり、それでも、しばらくして人が生き返るという幾つかのケースがあったので、これらのサインは、死の本当のサインではない。

ハタ・ヨーガの行者は、箱に入れられ、地中に40日間埋められる。

その後、彼らは取り出され、そして彼らは生き返る。

脈拍は、長い間、止まるかもしれない。

怪しい動画の場合では、脈拍は二日間止まる。

多くの場合は、記録されてきた。

心臓鼓動は、何時間、何日間かは、止まるかもしれないが、その時は、回復することができる。

何が死の実際の最終的なサインであるのかを言うのは、極めて難しい。

体の分解と腐敗が、死のただ一つの最終的なサインかもしれない。

誰でも、分解が始まる前に、死後直ぐに埋葬されるべきではない。

人は死んでいると思うかもしれないが、ところが事実は、彼は、トランス状態にあって、カタレプシー(強硬症、擬死)エクスタシー(恍惚状態、法悦)、或いは、サマディ(超越意識状態)にいるかもしれない。

トランス、サマディ、カタレプシーやエクスタシーは、死に似た状態である。

外面的なサインは、同じである。

心臓疾患を患っている人は、特別な時間の後に、心臓鼓動が再び開始するかもしれないので、直ぐに埋葬されるべきではない。

埋葬は、身体が分解し始めた後にだけ、執り行われるべきである。

 

 

Soul’s Journey after Death(死後の魂の旅)

 

人が死ぬ時、彼は、彼と共に、5つの感覚知覚器官、5つの運動器官、5つのプラーナ、心(マインド)、理智(ブッディ)、チッタ(潜在意識)、我執(アハンカーラ)、次の生の形成を決定する変移するカルマの貯蔵所から作り上げられている永遠の微細体(アストラル体)を運ぶ。

魂は、すべての感覚を結び、退く。

油が切れると、ランプの炎が段々とほの暗くなって行くように、肉体的な感覚は、徐々に朧げになって行く。

微細体(Sukshma Sarira)は、霧のように肉体から消え去る。

魂は、主要な主生気(Mukhya Prana)、感覚器官、心(マインド)、によって伴われ、それ自身の無知、良い悪い行為、過去の存在によって残された印象を伴って、古い身体を去り、新しい身体を手に入れる。

それが、一つの身体から別の身体へと通過する時、新しい身体の種子である要素の微細な部分によって覆い隠される。

魂は、やって来る身体のビジョンを持つ。

ヒルや芋虫が、それが一つの物体の影響力を失う前に、別の物体をつかむように、魂は、現在の身体を離れる前に、やって来る身体を想像する。

 

 

Dissolution of the Elements at Death(死の際の元素の分解)

 

この肉体は、粗雑元素である地水火風空の五大元素から成っている。

神々たちは、神聖、或いは、光輝の身体を授けられている。

火元素は、その中でも他よりも優勢である。

人においては、地元素が勝っている。

水中生物の場合は、水元素が勝っている。

鳥の場合は、風元素が勝っている。

身体の固さは、地の割合による。

流動性は、水の割合による。

あなたが身体に感じる温かさは、火による。

前後に動くことや他の活動は、風による。

空間は、アーカーシャ(宇宙)、エーテル(空)による。

個の魂(Jivatman)は、5つの元素とは異なる。

死後、これらの元素は分解される。

それらは、自然の無尽蔵の貯蔵庫の中に、原初の源に行き着く。

地元素は、地球の貯蔵庫に行き、加わる。

他の元素もまた、それらの源へと還って行く。

器官の主要な機能は、統括する神々と融合する。

視覚は、ヴィジョンの力を持つ太陽へ、話すことは火へ、呼吸は風へ、耳は方位へ、体は地球へ、体毛は一年生植物へ、髪の毛は木々へ、血液と精液は水へと行く。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

『ヤマはナチケータに生を理解するには、死を理解することが大切だと教えました。

そして同様に、生は死を理解するために理解されなくてはならないと。

ナチケータは、死は生の終わりではなく、継続する物語における単なる一時的な休止だと学びました。

死は単に、ニューヨーク市のグランドセントラル駅のような駅――ちょうど特別な列車を降りて別の列車に乗る準備をする場所――での停車です。

これは、生または死の意義を減らすことではありません。

どのようにして生は導かれるのか、言い方を換えると、グランドセントラルへ行く途中で選ぶ列車は、私たちが到着するとき、私たちがどんな心の状態であるか、そして、私たちの旅における次の移り変わりのために、私たちがどれくらい用意できるかを決定します。

私たちは散らかった貧しい列車を拾うこともできるでしょうし、きちんとしたきれいな列車を拾うこともできるでしょう。

私たちはあらゆる種類の誘惑と娯楽、踊り子たちやビデオゲーム、そして富と名声の列車を拾うこともできます。

ひとたび私たちが、あらゆる娯楽と肉体的感覚の満足に釘づけにされると、その列車を降りるのは困難になることでしょう。

または、私たちがグランドセントラルで列車を降りる時間がやって来ると、努力なしに喜んでそうすることができるように、私たちは道に沿った自然の光景を楽しむことを学ぶ列車を拾うこともできるでしょう。

ナチケータは、正しい列車を拾った人の一例です。

彼は知識の列車以外にどんな列車も持とうとしませんでした。

何も彼に興味を持たせられませんでした。

長寿、富、反対の性別、子供たちは、彼の実在の知識と生と死の秘密への願望に対して見劣りがしました。

ナチケータにとっては、生と死の秘密だけが持つに値するものだったのです。

内側に居住するアートマンの永遠の本質は、ウパニシャッドの中心的なテーマです。

これは死の神秘の秘密であり、生を理解するための鍵です。

神はすべてに浸透し、私たちの生命の命である魂に生命力を吹き込んでいるアートマンです。

アートマンは永遠に存続し、不変であり、故に死ぬことはありません。

滅びるものだけが死なねばなりません。

滅びるものは、不滅なるものの発見における道具として仕えるためだけにそこにあります。

死ぬのは、この世の次元を訪問する際に、魂の覆いを提供している外観である体です。

内側の自己は影響を受けないままです。

それは永遠なる存在なので、死にませんし、死ぬことができません。

バガヴァッド・ギーターは述べています。〝彼は非顕現であり、思考の対象ではない、そして不朽だと言われている。それ故、彼を知れば、あなたは誰かのことを嘆き悲しむことはない〟

私たちが人生で気にかけているものを失うことは悲しいことです。

愛する誰かが死ぬときは、悲しいです。

その喪失への哀しみは妥当ですが、その哀しみは長引かせるべきではありません。

過度に喪に服することは不健康です。

哀しみによって消耗すべきではありません。

なぜなら、喪失と死は必然的なことだからです。

それが、いくつかの文化と宗教的な制度において、哀しみに時間制限を設けている理由です。

例えば、厳格なユダヤ人は喪の段階に従います。愛する人の埋葬後は、近しい家族は7日間喪に服します。

この間、彼らは緊急時以外、家を離れません。

そして髭を剃(そ)ったり、髪を切ったりせず、あるいは、新しい服を着ません。

彼らは椅子に座ること、または靴を履くことさえ許されません。

彼らは哀しみに専念することを許され、喪に集中します。

その後、少し緊張が緩んだ23日間の喪中期間が続きます。

ユダヤ人の中には、11か月間の穏やかな喪に服す人もいます。

私たちは、私たちに近い人々の死を哀しみ、私たち自身の死を恐れます。

喪の期間があり、手放す時間があります。

このように、地球上及び私たちの歴史を通して、文化が、手放し喪に服するという、死を釣り合いのとれた見方に委ねる習慣を考案してきたのです。

これらの習慣は人々に彼らの人生を続けさせ、彼ら自身の死の準備をするのを助けています。

肉体の死は魂の終わりではありません。自己は不変です。

それ故、自分の時間の限界を超えた哀しみは賢明ではありません。

もし、人にとって重要なことが死んでいくことであるなら、死は恐ろしいものとして大きく立ちはだかります。

死はその人にとって中心的で意味のあったものに対する終わりを意味します。

その哲学における苦痛は深遠です。

しかし、もし、人が死するものを手放すために、物、あるいは人間関係を手放すことを学び、そして永遠であるものだけを求めるなら、死は恐ろしいものではありません。

それは単に方向転換、服を換えることなのです。

ですから、哀しみなさい。

しかし、そう長い時間は哀しまないことです。

同じアドバイスは失った何に対しても当てはまります。――結婚、仕事、友人、家、夢。そのために哀しみなさい。それから前進しなさい。

死の恐れと死に伴う苦痛は、過ぎ去っていく名前と形を持った世界への執着に本質的につながっています。

悲劇であると同じくらい皮肉ですが、人は、ある意味、死を否定し、彼らのこの世の人生が一時的なものであるという現実を快適なものにするために、この世における物と人間関係を求めます。

手当ては、慢性の病気よりもなお悪いのです。

死の恐れを強化しているのは、これらの物と人間関係への執着と、それらを必要とする信念だけなのです。

物と人間関係につきものの変化は、それらの喪失を確かなものとします。

所有者を快適にする代わりに、これらの変化、破壊、死んでいく物は、人々に彼らが恐れる死を思い出させます。――肉体、思考、癖、物や人間関係への執着の死を。

これらの執着は、喪失と再発する喪失の恐れを生み出し、再生し、強化します。

それらは人生を惨めにし、死を恐ろしいものにします。

この惨めさと恐れからの自由への鍵は、執着を起こさないことにかかっています。

人生の出来事のすべては、死から生が生じることを教えようとしています。

プロセスにおいては、死ぬことができない何かを知り、感じようとする衝動があります。

エスは〝自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです〟と教えました。

次の文では、イエスは尋ねました〝人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう〟

エスは、この世の人生と、この地球的な体に執着する人は誰でも、死においては、それらを失うことを意味して言ったのでした。

しかし、この世の人生とこの地球的な体への執着を離れ、イエスが意味する永久、あるいは、神意識と自分とを同一視する者は、けっして死ぬことはないでしょう。

この世のすべての富やすべての愉しみを持つことは、どんな役に立つのでしょうか? 

それらは私たちが人生と呼ぶ瞬間にすべて消えます。

この世の愉しみに意識を集中することは、心をあまりに散らすため、内側の自己を探求することができないままになります。

仏陀の4つの素晴らしい真理は、人生は苦しみであると述べています。

苦しみには原因があり、苦しみの終わりがあり、それを終わりにする手段である解決法があります。

仏陀の解決法は、人生を正しく生き、人生を生産的に楽しく旅することです。

この道は、苦しみの原因である執着と願望を処理することを必要とします。

〝執着から完全に自由である者にとっては、哀しみはない、恐れもない。

欲することから哀しみが生じ、欲することから恐れが生じる。

欲することから完全に自由である者にとっては、哀しみはなく、恐れもない〟と仏陀は言いました。

別の仏教の経典は〝願望の放棄を通して、不死が悟られる〟と述べています。

一般的に、私たちは人生の早い時期に、幸福とは、何かを獲得することや人間関係から何かを得ることで、もたらされるというメッセージを得ます。

物は失われ、人間関係は変化し、苦痛が結果です。

私たちは、自分と同一視する次から次へと起こる感情と思考を持ち、これが苦痛をもたらします。

私たちは、自分が肉体であると思い、肉体が病気になったり、年をとると、あるいは、他の人の肉体が病気になったり、年を取ったりするのを見ると、苦痛を経験します。

苦痛は、何かがバランスを欠いているということを示唆する警告システムです。

失った物、変化した人間関係、移ろう感情や思考、弱っていく肉体の痛みは、私たちに何を語っているのでしょうか? 

ひとつの可能性は、単純に人生がどういう状態であるかということです。

私たちはここに到着し、私たちが必要だと思うことは何でも手に入れるために努力します。

そして、プロセスにおいて苦痛を経験します。

そして、物語は終わります。

ですが、それはそれほど道理にかなっていません。

もし、誰かが足に痛みを感じるなら、彼に感染症に警戒させる痛みが単に、こう言うでしょう。〝やれやれ、足が感染症に罹った〟

感染は足を通って広がり、その人を殺します。

それは理性的ではありません。

人は、体に注意を必要とする問題を確認するために痛みを使うのです。

彼は、それは解決を必要とする問題だと見るでしょう。

人生の痛みは、私たちが物、人、感情、思考、体に対する関係を間違って知覚していると、私たちに語っているのです。

私たちは、それらの物、人、感情、体に依存しています。

私たちは、それらと自分を同一視し、それらに執着しています。

それらが去ったり、変化したりすると、私たちは苦痛を感じます。

これらの執着は、無知と同伴で、死の恐れの源です。

私たちが執着すればするほど、私たちが持つ死に対する恐れは大きくなります。

どんな執着もない人々――彼らの人生において自分自身が何かを所有していると知覚せず、彼らの肉体はただの器であると知っている人々は、恐れからは自由です。

執着するということは、あるいは、何かと自己同一視するということは、何を意味するのでしょうか? 

執着は、私たちが私たちの存在のために何かを必要とすると信じている、ということを意味します。

これはエゴの働きです。

それは言います〝私はとても重要であるし、私はこの車を持つ必要がある。この車は私のもの、この車は私が成功しているという意味である、この車は私を自己確認するのを助けてくれる〟あるいは、〝私はこの女性と関係を持つ必要がある。彼女なしでは、私は幸せにはなれない。もし、彼女が私のもとを去ったら、私は永遠に壊れてしまうだろう、そして人生は無意味になるだろう〟

人は物の理想にまで執着します。

例えば、アメリカの文化では、人は、人生はこうあるべきというあるイメージを持って育てられてきました。

彼らは、自分が子供の頃から、成長して素晴らしい結婚をし、フェンスと花のある白い家に住み、献身的な子供たちを持つことを夢見ます。

彼らはより大きな家や2台目の車、リゾート地の別荘、早期退職を夢見ます。

これらは文化が作り出した理想であり、これらの物が彼らの理想に合致しないとなると、彼らは惨めになります。

彼らはまるで何かの悪い罠が彼らに仕掛けられたように感じるのです。

これは、理想と自分とを同一視することです。

あなたはあなた自身を、あなたの人格を、花や完璧な人生がある白い家にいる人として見ます。

あなたは、それはあなたであると思います。

しかし、それはあなたではありません。

これらのイメージに執着してはなりません。

人生と共に流れることを学び、すべては浮き沈みがあるということを学びなさい。

同じ傾向が、感情と共に、低次の心で働きます。

私たちは怒り、思います。〝私は怒っている〟誰が怒っているのでしょうか? 〝私は怒っている〟とは感情と自分とを同一視することであり、感情は私であると信じているということです。

私たちは感情にはなれません。

人間として私たちは怒りを持ったり、怒りを経験したりできますが、私たちは怒りや他の感情ではありません。

同様に、私たちは体ではありません。

私たちは体を持っています。

それらは私たちが使用するための道具なのです。

私たちは言います。〝私は6フィート1インチで、金髪で青い瞳を持っています〟私たちはそれではありません。それでもこれは私たちが思っていることなのです。

誰かが私たちの外見を批評すると、私たちは傷つきます。

自分の体が年老いていき、動きがゆっくりとなるのを見ると、それは私たちを恐れさせます。

私たちのほとんどは、体に意識があり、それが、私たちが自分自身を体だと認識している理由です。

人は、不死の自己から死する自己を切り離すことを学ぶと、識別力が徐々に発達します。

死は真の自己に触れません。

それは、ただ私たちがあまりに強く自分自身を体や周りの世界と同一視するので、信じるのが難しいのです。

私たちが何かを意識していないのは、単にそれが存在していないという意味ではありません。

ヤマは、ナチケータに言います。〝すべての願望と情熱が取り除かれると、完全なる静寂が優勢となり、人間は不死となる〟それが鍵です。

死は死を意味しません。

何故なら、死は自己に何の影響も与えないからです。

生と死のサイクルは行き当たりばったりで不運な現実ではありません。

それは指導者です。

タオイズムの思想家、荘子は述べています。

〝誕生は始まりではなく、死は終わりではない。無限の存在があり、始まりのない継続がある。誕生があり、死がある。吹き出るものがあり、入るものがある。人はそれを通して中に入り、それを見ることなく出ていく。それは神の門である〟

永遠を探し求めるために、一時的なものではなく、永久的であるものと生を同一視し、それによって死を克服するように導くのが、今述べているウパニシャッドです。

ヴェーダンタによると、私たちは体のためにではなく、まさに私たちの存在のために存在しています。

内側の自己は体を創造します。

寝ている間、私たちは体を意識しませんが、それでも私たちは存在します。

物質主義的な思想家たちは、あべこべにします。

彼らは体に頼り、それは私たちの存在の証拠であると宣言し、もし内的な存在があるとするなら、それは体を通って生じる、と。

ヴェーダンタは、正に反対のことを言います。

意識が私たちの体を存在するように思わせているのです。

死は恐れるべきものではなく、生における機能であるということが理解されるべきです。

死を受け入れることは現実であり、それは、あなたがここでのこの生は一時的なものであり、世界はただの停車駅であり、あなたは学び成長するための旅の途中でここにやって来て、それで旅は終わるのだと悟るのを助けることでしょう。

同時に、永遠の真実、あるいは、神があなたの内側にいらっしゃるということを忘れずにいなさい。

死はあなたにこの世界に執着しないように注意しています。

世界から学び、それを手放しなさい。

あなたの体をただの道具として見なさい。

それが目的に適うと、その仕事がなされます。』

(聖なる旅-目的をもって生き 恩寵を受けて逝く by スワミ・ラーマ)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(41)「死」①

前回まで数回にわたり、「生」や「命」について、ウパニシャッドやヨーガの世界で説かれている智慧をご紹介しましたが、今回の記事は、「生」に対極する「死」についてです。

 

この地球に生息している人間で「自分は生きている」という自覚のない人はいないことでしょう。

そして、誰でも、「いつか、自分は死んで、この世からいなくなる」ということを知っています。

肉体の老いは否定できない事実ですし、他者の死を通して、人間にとって「死は必然」であることを認めると同時に、「死」に対して、予め理解して、その日を迎えたいという想いや、「死後、人間はどうなるのだろう?」という漠然とした疑問が生じることもあるでしょう。

 

「真我実現」や「悟り」「解脱」には興味はないけれども、「死」に関しては知りたいという方も、多くいらっしゃることでしょう。

 

今回からは、「生前解脱」を果たされた(とされる)聖者や賢者の方々の「死」についての解説や洞察をご紹介したいと思います。

(「生前解脱」の境地は、ほとんど「死」と同じ状態になることですので、ヨーガの厳しい修練を通してその境地に至り、そして、その状態から戻ったという聖者や賢者の方々のお話は、非常に貴重であり、死について考える上で、多くのヒントを与えてくれることでしょう。)

 

「死」という現象は、誰にでも突然に起こる可能性がありますが、生前に、少しでも「死」について知っておくことは、何も知識がない場合よりも、死のプロセスが個我に起こる際に、何らかの役に立つことでしょう。

 

仏教やヒンドゥー教ジャイナ教など、インド発祥の宗教思想においては、「輪廻転生」(生と死の繰り返し、生まれ変わりのサイクル)からの「解脱」(解放)が、その教えの根幹にあります。

 

「真我実現」や「悟り」と言われているものは、最終的には、個我に「解脱」(解放)をもたらします。

それと同時に、「死」について、ある理解や洞察がやって来るのですが、しかし、それは、誰にでも起こることではないと言えますので、聖者や賢者の方々による「死とは何なのか?」という智慧に触れるだけでも、「死」に対する理解や印象は、大きく違って来ることでしょう。

 

最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、次は、以前にもご紹介しましたスワミ・ヨーゲシヴァランダの「魂の科学」から、「肉体に起こる死」について、ヨーガ的な見地からの解説をご紹介いたします。

 

 

Death(死)

 

偉大なる科学者達、多くの驚異的な物を発明した人達、途方もない仕事を為した力のある皇帝達、霊感溢れる詩人達、素晴らしい芸術家達、多くのブラーマー(司祭)達、賢者達、ヨーギー達は、やって来ては、去って行った。

あなたは、彼らがどうなったのかをとても知りたいと思う。

彼らは、まだ存在しているのか?

死という対岸には、何があるのか?

彼らは、非存在になってしまったのか、空虚な無へと減少して行ったのか?

このような質問は、すべての人のハートに自然に湧き起こるものである。

同じ質問は、何千年も前に湧き起こったように、今日湧き起こる。

誰も、それを止めることはできない、何故ならば、それは、われわれの性質と不可分に繋がっているからである。

死の考えは、宗教や宗教的人生の最も強力な原動力であった。

死は、人を不死の探究へと駆り立てる。

人は、死を恐れる。

人は、死にたくない。

彼は、永遠に生きたいと思う。

これは、哲学のスタートの地点である。

哲学は、質問し、調査する。

それは、大胆にも、宣言する。

「人よ、死を恐れるな。

不滅の住居がある。

それは、ブラフマンである。

それは、あなたの心臓の小房に住まうあなた自身のアートマン(真我、魂)である。

あなたのハートを純粋にし、この純粋で不滅で不変なる真の自己に瞑想しなさい。

あなたは、不死に到達するであろう。」

あなたは、死なない、何故ならば、あなたは生まれたことがないからである。

あなたは不滅のアートマン(真我、魂)なのだ。

誕生と死は、マーヤという非実在のドラマにおける二つの誤った場面なのだ。

それらは、5つの元素(地水火風空)の結合によって形作られた誤りの産物である物質的な鞘(コーシャ)だけに関係している。

誕生と死の考えは、単なる迷信である。

すべての魂は、一つの環である。

この環の周辺は、何処でもないが、その中心は、身体の中にある。

死は、身体から身体へのこの中心の変化を意味する。

その時、あなたは、どうして死を恐れる必要があろうか?

 

 

What Is Death?(死とは何か?)

 

死は、肉体からの魂の分離である。

魂が肉体へ入ることは、誕生と呼ばれている。

身体からの魂の離脱は、死と呼ばれている。

魂が不在ならば、体は死んでいる。

死は、一つの側面から他の側面へと開いているドアである。

死は、身体の、物質的な活動の停止であり、物質的な有機的な機能の停止であり、身体的意識の停止である。

死は、在るという一つの状態からもう一つの状態の移行であり、もう一つの次元であるアストラル次元、精神次元への意識の形態の変化である。

振動の度合により、氷は水になり、水は水蒸気や霧や目に見えないガスになる。

肉体、アストラル次元、メンタル次元の命は、それと同じである。

死は、あなたの人格や自我意識を終わりにしない。

それは、単に命のより高い形態への扉を開けるだけである。

死は、より充実した命への入り口に過ぎない。

死は、あなたの人格の消滅ではない。

それは、単に重要な個性の停止であるに過ぎない。

それは、単なる形態の変化であるだけである。

命は、宇宙の獲得を達成するために流れ続け、命は、それが永遠の中に溶け込むまで、流れ続ける。

死は、命の終りではない。

それは、命の一つの側面である。

それは、命の進路における自然な出来事である。

それは、あなたの進化のために必要である。

死は、命の反対ではない。

それは、単なる命の一つの側面であるだけである。

命は、止まることなく流れ続ける。

果実は腐るが、種子は命に溢れている。

種子は死ぬが、大きな木が種子から成長する。

木は腐っても、豊富な命を持つ石炭になる。

水が消えると、水は新しい命の種子を含んだ目に見えない蒸気になる。

石は消えるが、新しい命に満ちた石灰になる。

物質的な鞘だけが脱がれるが、命は持続する。

肉体の分解は、単なる眠りである。

人は、眠り、目覚めるように、死と誕生も同じである。

死は、眠りのようなものである。

誕生は、目覚めのようなものである。

死は、新しい、より良い人生へと昇進をもたらす。

識別力と智慧のある人は、死を恐れない。

彼は、死が命の門であると知っている。

死は、彼にとっては、もはや単に命の糸を切るための剣を身に着けている骸骨ではなく、彼のために、はるかに広く、充実した幸せな存在への扉の錠を開ける黄金の鍵を持つ天使である。

誕生は、目覚めが眠りに従うように、死に従う。

あなたは、あなたの以前の人生において、あなたによって残された仕事を再び始めるだろう。

それ故、死を恐れてはいけない。

誕生と死は、マーヤ(幻妄の力)の手品である。

生まれた彼は、死に始める。

死んだ彼は、生き始める。

命は死であり、死は命である。

誕生と死は、この世という舞台の単なる入口と出口であるだけである。

あなたが、一つの家から別の家へ引っ越すように、魂は、経験を得るために、一つの身体から別の身体へと通過する。

人が、古くなった衣服を脱ぎ捨てながら、新しい衣服を着るように、この身体の居住者は、新しい他者に入り込む。

おお、人よ、死をまったく恐れるな。

死は、マーヤ(幻妄の力)の幻影の現象である。

死は、5元素(地水火風空)の分解である。

あなたは、不滅の魂(アートマン)なのだ。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『死ということの真の意味も、私達は知っておかねばなりません。

ほとんどの生き物の場合、単に死の事実を見せられただけで非常に怖がるものですが、しかし、それは全く必要のないことです。

死に際に味わう肉体的苦痛について言えば、そのほとんどは罪の深い行為から生じてきた結果であるといえます。

ですから、こうした罪深い者がいまわのきわにもだえ苦しむ姿を見て、普通の者は死を迎える時に味わうであろう苦痛を恐れてしまうのです。

しかし、もし死期を迎えても苦しみや悲しみを受けずに済むとしたら、死など少しも恐れる必要はないのです。

そればかりでなく、絶対者ブラフマンから祝福された行者ならば、そうした罪だけでなく、罪から生じた行をも真智の炎で焼き尽くすことができるはずです。

このような行者は、死というものをもう恐れはしません。

しかし俗人の場合は、迷妄の世界に沈み込み苦悩を味わい続けています。

なぜなら、俗人は自分自身の肉体のとりこになってしまっているからです。

つまり、食べること、飲むことといった感覚器官を満足させることにのみ夢中になっていますし、親や子といった身近な者に囚われ、また、富や幸福とかを異常なまでに追い求め、逆に、真我が転生を繰り返すことなど信じようともしません。

もちろん、真我とはどんなものか知ることもありません。

こうした人々ですから、死期を迎えんとする時、この世を離れたくないといって嘆き悲しむのです。

しかし、真我を知る者はこの世の本当の姿を知っていますので、死期を迎えても恐れることがありません。

さて、私達は瞑想の境地にある時、死を迎えた際に肉体の中にどんなことが生じるのか、その事実をあらかじめ霊視することができます。

すなわち、瞑想の中で思考(Samkalpa)と想像(Vikalpa)の働きが消え失せると、私達の意識は身体の中心により鋭く向けられるようになってきます。

この時、まず肉体上にある変化が生じてきます。

すなわち、瞑想の境地に入って間もなく生気の動きが鈍くなってきますと、修行の初心者であっても、自分の手足にまるでアリでもはっているかのような感じを受けることがあります。

そして、眠りにつく時のように、手足が次第に重く感じるようになってきます。

初心者の場合、こうした状態を非常に恐れますが、しかし、しばらくして生気の均衡が保たれれば四肢や身体の重みは消え失せてしまいます。

これと同様に、行者が死期を迎えその肉体から抜け出す時も少しも動揺することなく、上手に生気の均衡を保たせることができるのです。

また、行者はその意志の力で、死の間際と同じ状況を瞑想中に創り出すことができますが、一般の人々にとってはいまわのきわに一体どのようなことが起きるのか解らぬままになっています。

そのために、死を迎えた時に驚き戸惑うのです。

しかし肉体に死が訪れた際には、ちょうど水源地からの水の流れが止まったために川の水が干し上ってしまうのと全く同じことが生じるだけなのです。

つまり、まず心臓内の心素から放射されてくる生命力としての微細生気(Sukshuma Prana)の動きが鈍くなってきます。

このように、死は普通、一瞬の内にやってくるということはありません。

もちろん、心臓が一時に止まってしまえば、その時死は即座にやってきますが、一般的には死は少しずつやってきます。

ですから、まず自分ではウトウト眠っているような気の遠くなった無意識の状態が肉体全体に広まってきますが、やがて再び無意識状態へと戻っていってしまいます。

しかし時には、この状態から抜け出して目覚めることもあり、そうした時は周りの者と言葉を交わしたりもしますが、やがて再び無意識状態へと戻っていってしまいます。

ですからあなた自身、瞑想の境地にあってこうした生命力がどこから生じて来るのか、よく霊視してみなくてはなりません。

実際こうした時は、心臓内にあって生命力をたえず流し続けてきた微細生気の動きが阻害されてしまっています。

そのため、流れが止まったり再び流れ出したり、間歇的なこうした生命の流れの中には、知識と運動に関するは働きが混ざっていますが、通常この生命の流れは各鞘を通過して肉体へと到達し、そして肉体全体へと行きわたり、肉体を機能させています。

しかし死期を迎えた今、この肉体に向けての生命の流れが阻害されているのです。

それはちょうど、部品が壊れてしまったポンプが、遠くまで思うように水を飛ばすことができなくなるのと同じで、生命の流れる今、その力を失いつつあるのです。

ですから、時としてはある鞘までは届き、また、別の時は他の鞘までは届くのですが、最後には、心臓の内部にしか流れなくなってしまうのです。

その結果、生気鞘の動きが止まりその影響がまず肉体上に表われてくると言うわけです。

ところで、主生気と補助生気という肉体全体に行きわたっている生命の活動力は、その源となる力を得るために心臓部分へと向かって動いていますが、心臓部ですでに生命の活動力が充分に流れなくなっているのを見て、この心臓内部へと戻ってきてしまうのです。

この瞬間に肉体全体に行きわたっていた動きと意識とが失われてしまいます。

つまり、手足が重く冷たくなり収縮してくるのを感じるようになり、遂には肉体全体が全く動かなくなり、さらに脳内部にある意思鞘と理智鞘とがその働きを止めてしまいます。

次いで、ブラフマランドラの意思、理智、それにすべての感覚器官が五種の微細生気からなる球体とともに心臓部へと向かい、そこで原因体を取り囲みます。

こうして、感覚器官の持つ力は五種の微細元素からなる球体中に納められますが、微細体のすぐ内側には、微細生気球、続いて我執球、次に心素球があり、中心には真我が納まっています。

そして、真我がこれらの光り輝く球体をその周りに引きつけたまま、肉体から抜け出してゆくのです。

これらの球体全体は、ちょうど巻貝のような形をした光の塊となって宇宙空間へと入ってゆきますが、微細体と原因体の場合は、どんな生物の中に入るかによって、その姿形が変わります。

ですから、たとえば人間の肉体に入るとその姿形も人間の肉体と同じものになりますが、動物や昆虫、うじ虫などの中に入れば、そうした姿形になるわけです。

しかし、真我の場合は全く変化するということがありません。

つまり、微細体と原因体だけが膨張したり収縮したりしながら、どんな肉体の中にでも入ってゆくという性質をもっているのです。』

(「魂の科学」by スワミ・ヨーゲシヴァランダ)

 

 

 

 

『物質世界の生物に内在(やど)る不滅の霊魂は

わたし自身の極小部分である--かれは

心をふくむ六つの感覚を用いて

苦労しながら肉体を操っているのだ

 

霊魂は風が芳香を運ぶように

自らの意想感情を次の体に運ぶ

このようにしてかれは或る種の身体をとって生き

またそれを捨てて他の体をまとう

 

不滅の霊魂はこのようにして

耳 眼 舌 鼻 触覚と

また心意(こころ)をもった物質体をとって誕生し

それらに相応した対象を味わい経験する

 

霊魂は物質自然(プラクリティ)の三性質(トリグナ)の支配下

自己の心性に相応した体で様々な経験をし

時期が来ればその体を離れていく

迷える者にはこの事実が見えないが智慧の眼をもつ者には見える

 

修行する求道者(ヨーギー)たちは自己の本性を覚って

この事実を明らかに理解している

だが未熟で自覚(さとり)に到らぬ者たちは

努力しても不滅の霊魂を感知できない』

(バガヴァッド・ギーター 第15章7ー11)

 

 

次回に続きます。

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(40)「命」④

前回から「生命」「命」「生」について、ご紹介しています。

 

私たちは、今、「命」を体験し、人間として「生きている」わけですが、それぞれの人が、「命」については、個人的な感想を持っているとは思いますが、ヨーガにおける「命」の捉え方をご紹介したいと思います。

 

今回は、いつものような前もっての解説は省略しますので、ダイレクトに聖者の方々が遺された御言葉を感じ取って頂けたらと思います。

 

前半は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉から、「命」の根源としての「神」について、多くのヒントが込められた数々の叡智の言葉に触れ、人生の隠された目的を果たすために、役立てて頂きたいと思います。

 

 

 

Sure Ways for Success in Life and God-realization(人生における成功への確実な道と神の実現)

 

シンプルで謙遜に満ちた生き方をしなさい。

食べるために生きるのではなく、生きるために食べなさい。

妬むな、中傷するな、嘘をつくな、詐欺を犯すな、悪意を抱くな。

あなたは、常に歓びに溢れ、幸せで平和になるだろう。

道義的に正しいことは、人生のルールである。

高潔な人生を送りなさい。

ダルマ(宇宙の理)を厳格に信奉しなさい。

人間の人生は、徳なしには、人間的ではない。

人生の塩は、無私の奉仕である。

人生のパンは、宇宙的な愛である。

もしあなたが、全人類に奉仕し愛するのでなければ、人生は充分に生き、充分に実現しされてこなかったのである。

真の人生の秘密は、神の愛と人類への奉仕の中にある。

他者を助けるために生きなさい。

神聖なる力は、あなたを通して、命を与える力として流れるであろう。

聖者の人生を学び、彼らから直感を引き出しなさい。

優しいハート、与える手、親切な会話、奉仕の人生、平等な視野、偏見のない態度を養いなさい。

あなたの人生は、必ず、祝福されるだろう。

奉仕し、愛し、与え、浄化し、瞑想しなさい。

あなたの旅は、あなたを新しい無限の至福の王国の中へと連れて行くだろう。

あなたは、輝く宝を発見するであろう。

あなたは、神を再発見するであろう。

あなたは、強くなり、健康になり、自由になり、快適になり、幸せになり、平和になるであろう。

あなたは、あなたが触れるすべての命に霊感を与え、祝福するであろう。

人生を絶え間ない喜びにしなさい。

正直(Satya)から歓びを得なさい。

苦行(Tapas)から歓びを得なさい。

同情心から歓びを得なさい。

シンプルな人生を送りなさい。

規則正しい人生を送りなさい。

勤勉な人生を送りなさい。

まるでそれが最後の日であるかのように、日々を捉え、祈りや瞑想、奉仕の中でどんな瞬間も役立たせなさい。

あなたの人生を神への絶え間ない捧げものとしなさい。

現在に生きなさい。

過去に生きてはいけない。

未来の希望を諦めなさい。

人生の意味をよく理解し、それから探求を始めなさい。

人生は、最も偉大なる贈り物である。

どんな瞬間も、有効に役立たせなさい。

成功は、しばしば、躊躇わず行動する人にやって来る。

成功は、臆病者にはやって来ない。

 

 

Unity of Life(命の統合)

 

命を一つの全体として見なさい。

命の包括的な見方をしなさい。

すべての命は、一つである

すべての命は、ただ一つであり、唯一の実在であるブラフマン、或いは、絶対者から発している。

神は、すべての命の中で息づいている。

世界は、一つの家である。

すべては、一つの人間の家族のメンバーである。

すべての創造は、有機的な全体である。

その全体から独立している人はいない。

人は、他者から彼自身を分離させることによって、彼自身を惨めにしている。

分離は、死である。

統一は、永遠の命である。

宇宙的な愛を養いなさい。

すべてを包み込みなさい。

すべてを抱擁しなさい。

他者の価値を認めなさい。

人から人を分離するすべての障害を破壊しなさい。

すべての創造物の内側に、不滅の本質である非二元の原理を認めなさい。

すべての命を神聖なものとしなさい。

その時、この世界は、美の楽園、平和と平静の天国になるであろう。

花や植物と共に笑いなさい。

蝶や鳥、鹿と共に遊びなさい。

灌木やシダ、木の小枝と握手しなさい。

虹や風、星や太陽に話しかけなさい。

流れている小川や海の波と語り合いなさい。

杖と話しなさい。

あなたの隣人、犬、猫、牛、人間、木、花などと友情を持つようになりなさい。

その時、あなたは広く、完全で、豊かな、満ち足りた人生を持つことができるであろう。

あなたは、ワンネス、或いは、命の統合を実現するだろう。

これは、ほとんど言葉で述べることはできない。

あなたは、あなた自身で感じなくてはならないだろう。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「いったいどうしてサンサーラ(誕生と死の輪廻)は悲しみと邪悪に満ちているのでしょうか?」

 

マハルシ

「それは神の意志によって!」

 

質問者

「なぜ神はそう望まれるのでしょうか?」

 

マハルシ

「それは測り知ることのできないものなのだ。

どんな動機も神の力には属さない。

欲望も、成し遂げようとする目的も、無限の一者、全知全能の存在は主張しない。

神は彼の存在のなかで起こる現象とは無縁である。

太陽と世界の現象を比べてみなさい。

多者(世界)となる前に、一者(神)に現象の動機や責任を負わせることは意味がない。」

 

質問者

「すべては神の意志で起こるのでしょうか?」

 

マハルシ

「全能である神の命令にさからって何かを為すことは誰にもできない。

それゆえ、すべての苦悩の源である、邪悪で不安定な、人を惑わす心を棄て去り、神の御足元に沈黙の内にとどまることが最善である。」

 

質問者

「徳行に報い罪業を罰す、イーシュワラ神(人格神)というひとつの独立した存在があるのでしょうか?

神は存在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。」

 

質問者

「彼はどのような存在なのですか?」

 

マハルシ

「イーシュワラは心と身体のなかに、いずれは滅びゆく個体性をもっている。

だが、それと同時に、彼は超越意識と解脱を内に秘めている。

宇宙の至高の創造者であるイーシュワラ、人格神は本当に存在している。

だがこれは、まだ真理を実現せず、個我の実在性を信じている人びとの相対的な見地から見たときに誤った真実である。

賢者の絶対的な見地からすれば、無形の一者である、個我を超えた真我以外には、他のどんな存在もありえない。

イーシュワラは物理的身体、名前と形をもっている。

だが、それはこの物理的身体ほど粗大なものではない。

それは幻想のなかで帰依者によって想い描かれた姿で見られる。

神の名前と形は数多くさまざまであり、それぞれの宗教によって異なっている。

彼の本質は、われわれの本質と同じ無形の一者の真我である。

それゆえ、彼がとる姿はただの想像あるいは現れにすぎない。

イーシュワラは宇宙の至るところに存在するすべての人、すべてのもののなかに内在している。

すべてのものとすべての生けるものの総体が神を成しているのである。」

 

質問者

「それでは、究極的にはイーシュワラは実在ではないのですね?」

 

マハルシ

「イーシュワラの存在は、われわれがもつイーシュワラの概念の結果である。

まず、イーシュワラが誰の概念なのかを知ろうではないか。

概念はそれを考え出した人によって生じる。

あなたが誰なのかを見いだしなさい。

そうすれば他の問題はひとりでに解決するだろう。

イーシュワラ、神、創造者、人格神は消え去るべき最後の非実在の姿である。

唯一、絶対的存在のみが実在である。

それゆえ、世界だけではなく、自我だけではなく、人格神もまた非実在なのである。

われわれはまさしく絶対なるものを見いださなければならない。」

 

質問者

「あなたは最高位の神さけも、ひとつの概念にすぎないと言われます。

それはつまり、神は存在しないということでしょうか?」

 

マハルシ

「いいや、イーシュワラは存在している。」

 

質問者

「彼はある特定の場所に、特定の姿で存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「もし個人が姿をもっているなら、主である真我、源でさえひとつの姿をもって現れるだろう。

神は、長期の瞑想のなかで帰依者によって繰り返し思い描かれたいかなる姿もとる。

このように、神は無数の名前を受け入れるが、真の無形の意識だけが本当の神である。

神の住みかについてだが、彼はハート以外のどこにも住むことはない。

自我によって産まれた「私は身体だ」という観念のために、神の王国はどこか他にあると思われている。

ハートこそが神の王国だと知りなさい。

あなたは、神の王国の存在を可能にするだけでなく、それを何か素晴らしい天国のように見せる完全な光輝であるということを知りなさい。

ただこれを知ることだけがジニャーニである。

それゆえ、神の王国はあなたの内側にある。

心が完全に没入した状態にある高度に成熟した探究者のハートのなかで、突如として、あふれんばかりに輝きだすトウリーヤーティータ(四つの状態を超えた、つまり真我)の無限の空間、今まで知らなかったような新鮮な体験、それはごうまれにしか到達されることのない、真我の光に輝く真のシヴァ・ローカ(神の王国)である。」

 

質問者

ジーヴァ(個人)は限定された視野と知識といった邪悪な幻想の影響の支配下にあると言われています。

その反対に、イーシュワラはすべてを包括する視野と知識をもっています。

また、個人が限定された視野と知識を放棄すれば、ジーヴァとイーシュワラは同一化するとも言われています。

もしそうだとすれば、イーシュワラもまたすべてを包括する視野と知識を放棄するべきではないでしょうか?

それらもまた幻想なのではないでしょうか?」

 

マハルシ

「それがあなたの疑いなのかね?

まず自分の限定された視野を放棄しなさい。

そのあとで、すべてを包括するイーシュワラの視野と知識について充分考える時間があるだろう。

まず自分の限定された知識を取り除きなさい。

なぜイーシュワラについて心配するのかね?

彼が彼自身の面倒を見るだろう。

われわれがもっている能力と同じだけイーシュワラももっているのではないかね?

なぜわれわれが、イーシュワラがすべてを包括する視野と知識をもっているかどうかを気に病むのだろうか?

もしわれわれが自分自身の面倒を見ることができるなら、それ以上のことはない。」

 

質問者

「しかし、神はすべてを知っているのでしょうか?」

 

マハルシ

「『ヴェーダ』は神が全知全能だと述べている。

だがそれは、無知ゆえに自分が智識をもたないと考えている人たちに向けられた言葉なのだ。

だが、もし人が真実ありのままの神を知ったなら、神が何も知らないことを悟るだろう。

なぜなら、彼の本性は永遠なる実在の全体であり、その他に知られるべきものは何ひとつ存在しないからである。」

 

質問者

「なぜ、宗教は神や天国や地獄などについて語るのでしょうか?」

 

マハルシ

「ただ人びとに、それらがこの世界と同程度のものであり、そしてただ真我だけが実在だということに気づかせるためである。

宗教は真理の探究者の見地にしたがって現れる。」

 

質問者

「ヴィシュヌ、シヴァなどの神々は存在するのでそうか?」

 

マハルシ

「存在するものとして知られているのは人間だけではない。」

 

質問者

「では、神々の聖地カイラーサやヴァイクンタは実在するのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたがこの身体のなかにいるのと同じようにそれらは実在である。」

 

質問者

「彼らは私の身体のように、現象的存在を所有しているのでしょうか?

あるいは、彼らは野ウサギの角のような作り話にすぎないのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼らは確かに存在している。」

 

質問者

「もしそうであれば、彼らはどこかにいるはずです。

どこにいるのでしょうか?」

 

マハルシ

「彼らを見たことのある人びとは、彼がどこかに存在していると言っている。

それゆえ、われわれはその言葉を信じなければなるまい。」

 

質問者

「どこに存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたのなかに。」

 

質問者

「では、それは私が創造し、支配できるただの観念なのでしょうか?」

 

マハルシ

「すべてがそのようなものなのだ。」

 

質問者

「しかし、野ウサギの角のようなまったくの虚構や、部分的には真実である蜃気楼のようなものなら想像で作りだすこともできます。

それにもかかわらず、私の想像力と関わりのない事実もまた存在するのです。

イーシュワラ神やシヴァ神はそのように存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「そうだ。」

 

質問者

「神はプララヤ(宇宙的崩壊)を被るのでしょうか?」

 

マハルシ

「どうしてかね?

真我に気づいている人は宇宙の崩壊をも超越して解脱を得る。

ならば、なぜはるかに賢く能力をもったイーシュワラのそうできないことがあろう?」

 

質問者

「デーヴァ(天使)たちやピサーチャ(悪魔)たちも同じように存在しているのでしょうか?」

 

マハルシ

「そのとおりだ。」

 

質問者

「神々は真我との関係のなかでどのような位置をしめているのでしょうか?」

 

マハルシ

「シヴァやガナパティやブラフマンのような他の神々は、人間の視点から見れば存在している。

つまり、あなたが個人的な自己を実在だと考えるなら、神々も存在する。

ちょうど政府の行政雲絵のために高官がいるように、創造者がいるのである。

たが、真我の見地からすれば、これらの神々はすべて幻想であり、神々自身が実在のなかに溶け去らなければならないのである。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(39)「命」③

人間の真の本性を悟ることは、Jnana Yogaでは、「真我実現」とか「自己実現」と称され、修行の目的となっていますが、この「真我実現」「自己実現」”Self-Realization”への足がかりとして、このブログでは、これまで、様々な聖者と呼ばれている方々の御言葉をご紹介してきました。

それに伴い、少しばかり解説も試みて来ました。

 

今回は、前もっての拙い説明は省略し、三人の聖者の方々の御言葉をご紹介したいと思います。

 

この三つの文章のそれぞれが、最初は、異なるテーマで始まっているにも拘わらず、最終的には、その中心的なテーマが、一つの焦点に絞られていることに気づかれることでしょう。

 

前回同様、最初は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」よりの抜粋と、次は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉、そして最後は、「ヨーガ・ヴァーシシュタ」(ヴァーシシュタとは、インドの長編叙事詩ラーマーヤナに出て来る七人の聖仙の一人とされている聖者の名)からです。

 

 

The Struggle of Life(人生という闘い)

 

生きることは、理想のために闘うことである。

人生は、充足と完成を求める闘いである。

人生は、最高の独立を達成するための闘いである。

人生は、闘いであり、抵抗である。

人生は、獲得の連続である。

人は、進化し、成長し、拡張し、闘いを通して、数々の経験を得る。

人生と社会は、闘い、或いは、闘争なくしては、存在することができない。

もしあなたが、あなたの存在を続けたいのであれば、闘いは必須である。

あなたが闘いを止める時、存在することを止めるだろう。

あなたのハートの戦場で、内面的な敵と勇敢に闘いなさい。

あなたの心や感覚を用いた内なる戦いにおける小さな勝利でさえ、あなたの意志力を開発し、より多くの確信や勇気を与えるだろう。

闘いが激しければ激しいほど、勝利はより栄光あるものとなる。

自己実現は、非常に大きな闘いを必要とする。

神のために生きなさい。

この哀れで、世俗的な人生のすべての困難や苦難に勇敢に立ち向かいなさい。

人間でありなさい。

勇気を持って、偉大なる成就を求めて闘いなさい。

山に登ること、海峡を横切ること、都市を爆破すること、城砦を爆破すること――これらは、英雄的な真の勇気ある行為ではない。

あなたの心(マインド)と感覚をコントロールすること、自制心を獲得することで、怒りや熱情、利己心を克服すること――これらは、人に真の英雄的資質をもたらす。

あなたは、どのくらい長く、情熱や感覚の奴隷でいるのだろうか?

あなたの真の神聖なる性質を断言し、あなたの低い性質や低い自己を抑えることを断言しなさい。

これは、あなたの最も重要な義務である。

 

 

Life is a School(人生は、学校)

 

しかしながら、これは、われわれが物質の物理次元における人生を否定すべきであるという意味ではない。

物質は、神自身のリーラ(神の戯れ)にとっての神の表現である。

物質と霊は、熱と火、冷たさと氷、花と香りのように、不可分である。

ブラフマンとマーヤ(幻妄)は、不可分であり、一つである。

物質次元における人生は、ブラフマンにおける永遠の命のための限定的な準備である。

人生は、多くの有益な修練、人格の発達や神聖なる徳を学ぶための大いなる学校である。

人生は、あらゆる哀しみ、あらゆる苦しみ、あらゆる心痛が特別な修練をもたらす学校である。

地球上の人生は、自己完成の手段である。

世界は、あなたの最も良い教師である。

この世界は、あなたの最も良いグル(導き手)である。

あらゆるモノの中に、修練がある。

それぞれの経験の中に、修練がある。

世界は、慈愛や赦し、辛抱、宇宙的な愛、寛容、高貴、勇気、雅量、忍耐、強い意志、など、数々の神聖な徳の開発のための最も良い修練場である。

世界は、悪魔のような性質で戦うための闘技場であり、そして内側から神性を表現するための闘技場である。

バガヴァッド・ギーターとヨーガ・ヴァシシュタの中心的教えは、人は、この世に在ることにより、真の自己を実現するべきであるということである。

蓮の葉の上の水のように振る舞いなさい。

利己心、渇望、怒り、貪欲、憎しみ、羨望で構成される低い悪魔のような性質を放棄しなさい。

神性なる性質を断言しなさい。

精神的な放棄と献身の人生を送りなさい。」

(「Bliss Divine」 by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「『ギーター』のなかの一節に、「この宇宙全体は私の小片である」とあります。

これはどう理解すればよいでしょうか?」

 

マハルシ

「神の小さな一部分が分離して、それが宇宙を形成しているという意味ではない。

彼のシャクティ(力)は活動している。

その力による活動の相のひとつの結果として宇宙が姿を現したのである。

同じように、『プルシャ・スークタ』のなかには「すべての生けるものが神の御足の片方を形作っている」と述べられているが、それはブラフマンがいくつかの部分に分かれているという意味ではない。」

 

質問者

「それは理解できます。

ブラフマンは間違いなく分割できるものではありません。」

 

マハルシ

「それゆえ、ブラフマンはすべてであり、分割不可能である。

それはつねに明らかである。

だが、人びとはこのことに気づいていない。

彼はこのことを知らねばならない。

真我がブラフマンだという永遠の真理の啓示を防げる障害を克服すること、それが知識である。

その障害はあなたがひとりの個人として分離しているという概念から成っている。」

 

質問者

「神と真我は同じものでしょうか?」

 

マハルシ

「誰もが真我を知っている。

だが、明確には知られていない。

あなたはつねに存在している。

その「在ること」が真我である。

「私は在る」(I AM)が神の名前である。

神を定義した言葉のなかで、『旧約聖書』の出エジプト記第三章十四節にある「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)ほど、ふさわしい言葉はない。

他にも「ブラフマイヴァーハム」(ブラフマンは私である)「アハム・ブラフマースミ」(私はブラフマンである)、「ソーハム」(私は彼である)という言葉がある。

だが、「私は在る」(I AM)を意味するエホヴァという名前ほど、直接的に表現したものはないだろう。

絶対的存在とは、ただ在るものである。

それが真我である。

それが神である。

真我を知れば神を知る。

実際、神は真我以外の何ものでもない。」

 

質問者

「神は多くの異なった名前で知られています。

そのなかのいくつかが正しいものと言えるのでしょうか?」

 

マハルシ

「ハートの内に宿る無心の神にとって、何千という神の名前の中でも「私」或いは「私は在る」のように真実で、適切で、美しい名前はない。

自我が破壊されたそのとき、真我に注意を向ける人のハートのなかでは、至高なる沈黙の言葉(マウナ-パラー-ヴァーク)が響きわたる。

それが神の名前「私-私」である。

「私」という感覚に注意を払い、「私-私」に絶えず瞑想するなら、人は想念の起こる源に飛びこみ、自我を破壊し去るだろう。

 

質問者

「神と世界の関係とは何でしょうか?

神は世界の創造者あるいは維持者なのでしょうか?」

 

マハルシ

「感覚のある存在も、感覚のない存在も、すべてのものは太陽が単にそこに在るおかげで活動をしている。

同じように、すべての生けるものたちの活動は、意志も欲望ももたない神の存在によって為されている。

ただ太陽が存在するだけで、蓮のつぼみは開き、睡蓮の花は閉じ、すべての無数の生けるものたちは活動し、休息する。

針が磁石の前で動くように、ムーンストーンが水を放つように、月光が睡蓮の花を咲かせ、蓮の華を閉じさせるように、おびただしい数の世界の秩序は、ただ神の存在によって維持されている。

わずかな意志さえももたない神が存在するというだけで、無数の活動に従事する生きとし生けるものたちは、カルマによって定められた進路に沿って引き寄せられたさまざまな生き方を経て、ついにはその行動のむなしさに目覚め、真我に向きを変え、そして解脱を達成するのである。

世界の活動が太陽に影響を与えることのないように、そして四大元素(土、水、火、空気)の顕著な特質が無限の空間に影響を与えることのないように、生きとし生けるものの行為が、心を超越した神に影響を与えることはない。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

 

『観念や想念が空に青さを「見る」ように、心は世界を実在と見る。

だが、空に青さはない。

視覚の能力の限界が、空を青だと見なすのだ。

同じように、世界の現れを知覚するのは思考の能力の限界に他ならない。

この世界の現れは錯覚だ。

心の中でそれについての考えを起こさせないほうがいい。

「私は迷っている」と考えることで人は苦悩する。

そして、「私は気づいている」と考えることで人は至福に向かうのだ。

初めから存在していなかったものは、今も存在していない。

存在していたものは、今も存在している。

それが絶対なるブラフマンだ。

これに瞑想することが平安を与える。

なぜなら、そのブラフマンこそが平安だからだ。

いつであれどこであれ、これ以外のものに瞑想してはならない。

そして、人は最大限の力で、最大限の知性を使って、快楽への期待そのものを根こそぎにしなければならないのだ。

老いと死の原因は、ただ無知のみにある。

希望や執着は、無知である精神的条件づけのせいで起こる。

それが、「これは私の財産だ」や「これは私の息子だ」といった考えを生み出す。

この空っぼの物質的身体のどこに「私」と呼ばれるものが存在するというのか?

ラーマよ。実際は「私」や「私のもの」などといった概念はまったく存在しない。

ただ一なる真我だけが真理なのだ。

無知の状態の中でだけ、人はロープの代わりに蛇を見る。

光明を得た状態では、そうは見ない。

光明を得た視野の中にはただ無限の意識だけが存在し、他には何もない。

ラーマよ。

無知な人間になってはならない。

世界の現れを起こさせる精神的条件づけを破壊しなさい。

なぜ無知な人のように、この身体を自己と見なして惨めになるのか?

身体と自己は一緒に存在しているように見えるかもしれないが、それらは別なのだ。

たとえ身体が死んでも真我は死なないからだ。

ラーマよ。「絶対なるブラフマンだけが存在する」という真理を忘れ、存在さえしない無知に人々が確信を抱くのは何と不思議なことだろうか?

無知の存在という愚かな考えを根づかせてはいけない。

なぜなら、意識が無知で穢されると、果てしもない苦しみを招くからだ。

それは非実在であるにもかかわらず、現実の苦しみをもたらす。

蜃気楼や空を飛ぶような幻覚や、天国や地獄を体験するのは無知のせいだ。

それゆえ、ラーマよ。二元的知覚の原因である精神的条件付づけを放棄して、完全に無条件な状態にとどまりなさい。

そうすれば、あなたはすべてに勝る、類い稀な、至高の真我に到達するだろう。

 

ラーマはしばらくの間、深く瞑想し、それからこう尋ねた。

聖者よ!存在しない世界を実在するように見せる幻想を、存在しない無知がつくり出しているとは、実に信じがたいことです。

それに、どうしてラヴァナ王はさまざまな苦しみを体験しなければならなかったのでしょうか?

それを体験したのはいったい誰(何)だったのでしょうか?

どうか教えてください。

 

ヴァシシュタは答えた。

ラーマよ。意識と身体の間に何らかのつながりがあるということは、まったく真実ではない。

この身体は夢の中に現れる身体のように、意識によって空想されたものなのだ。

意識がそれ自身を限定し、自分をジーヴァだと考えたとたん、落ち着きのないエネルギーを授かったそのジーヴァは、世界の現れに巻き込まれてしまう。

過去の行為の結果を楽しんだり、それに苦しんだりする身体を得た存在が、自我、心、ジーヴァと呼ばれるものだ。

苦しみを体験するのは、身体でも光明を得た存在でもない。

ただ無知な人だけが苦しむのだ。

心が世界の現れを夢見るのは、目覚めているときや覚醒を得たときではなく、無知の状態の中だけだ。

それゆえ、苦しみを体験する身体を得た存在は、心、無知、ジーヴァ、精神的条件づけ、個人意識などのさまざまな名前で呼ばれている。

この身体は生命意識を持たないただの物質だ。

それゆえ、それは楽しむことも苦しむこともできない。

不注意や愚かさをもたらすのは無知だけだ。

それゆえ、楽しんだり苦しんだりするのも無知だけなのだ。

実際、生まれたり、泣いたり、殺したり、死んだり、他者を苦しめたりするのは、身体ではなく心だ。

幻想や想像も、幸福や不幸の体験も、すべてを為し、すべてを体験するのは心だ。

心が人なのだ。

心が完全に浄化されたとき、あなたは心が織り成す二元性や多様性から脱する。

ラーマよ、私はすでに「宇宙崩壊のあとに続く」創造の循環の過程について、また、どのように人が「私」や「私のもの」という偽りの観念を心に抱くのかについて述べてきた。

叡知をたずさえた人はヨーガの完成への七つの段階を登り、徐々に解脱を達成するのだ」

(ヨーガ・ヴァーシシュタ 至高の真我)

 

 

次回に続きます。

 

 

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