永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(43)「死」③

前回の記事では、「死」という現象が私たちに起きた時に、実際には、どのようなプロセスが生じるのか?ということを、ヨーガ的な見地から見た解説をご紹介しました。

 

世の中には、「臨死体験」と呼ばれるような「死」の一歩手前まで行った人たちの生還後の感想などを耳にすることもあるかと思いますが、それは、謂わば、主観的な、個人的な体験談と見ることができると思われます。

 

ここでご紹介しているヨーガ的な見地からの「死」についての解説とは、多くのヨーガ修行を通して得られた体験に共通している事柄を、一つに纏めたもので、ある種の実験結果の総論と言えるような誰にでも共通して起こる現象を述べた客観的な記述と見ることができます。

自転しながら、地球が太陽の周りを回っているという科学的事実は、地動説を個々人が信じるか?信じないか?とは別の話であるように、私たちが、「死」をどのように捉えるか?は、起こる現象とは、全く関係がありません。

 

誰でも避けることができない「死」について、生前に少しでもそのプロセスを知り、考えることは、同時に、「生」について知り、考えることでもあります。

 

目に見え、体験できる世界を「この世」とするならば、死後の世界は、「あの世」ということになりますが、「この世」にいる間に、「あの世」について多少なりとも知ることができれば、知った分だけ、死に対して心の準備ができることでしょう。

 

そして、その心の準備が整えば、死に対する恐怖心は、薄らぐことでしょう。

 

お化け屋敷のお化けも、その正体が予めわかっているならば、どんなお化けが現れようとも、特に大きな恐怖を感じることはないでしょう。

それと同じで、予め、死の際にどのようなことが起こるのか?を知っていたら、死に対する恐怖心は和らぐことでしょう。

 

今回は、初めに、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、次に4年前に翻訳出版いたしましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」から「あの世」について、そして、最後は、ご参考までに、チベット仏教の僧侶が、死に赴く人の枕元で唱えるお経「チベット死者の書:バルドゥ・トェ・ドル(チェンモ)」より、ヨーガとの関連が深いと思われる箇所をご紹介したいと思います。

チベット仏教は、タントラ仏教と言われているように、顕教と呼ばれる大乗仏教に対して、密教と言われていますが、ヨーガにおけるタントラ的な教義と共通する観念や理論が多いと言えます。

それから読み取れることは、チベット仏教で言うところの「不生の法身(ダルマ・カーヤ)」とは、ヨーガで言うところの「真我(アートマン)」であり、究極の存在は、唯一無二であるため、言葉上では異なっていますが、同じものを指していると思われます)

 

 

Death Pangs(死の苦しみ)

 

死の際には、痛みはない。

無知な人々は、死に関する多くの嫌悪や恐れを創り上げて来た。

ガルーダプラーナやアートマプラーナ文献では、死の苦しみが72000匹の蠍の針によって引き起こされる痛みと同程度であると記述されている。

これは、聞き手や読み手の中に恐怖を生み出し、彼らに解脱(Moksha)を求めて働くようにするためだけに書かれている。

スピリチュアリズムにおいては、死の間、少しの痛みでさえないという光明を得た魂からの数多くの報告がある。

彼らは、明らかに、死の際の体験を記述し、彼らがこの物質的身体の脱落によって大きな負担から解放され、彼らが肉体からの分離の時に完全なる平静を楽しむと述べている。

マーヤ(幻妄)は、身体における痙攣性のひきつりを生み出すことで、傍観者の中に無益な恐れを創り出す。

それは、自然であり習慣である。

死の苦しみを恐れてはいけない。

あなたは不滅のアートマンなのだ。

 

 

Prayer for the Dead(死者への祈り)

 

故人の魂は、死の直後は、気絶、或いは、無意識の状態にある。

彼らは、彼らの以前の粗雑体から分離したと感じることができない。

祈り、キールタン(神の御名の称名)や、親族や友人からの良い想念は、故人の魂へ真の慰めを与えることができる。

彼らは、潜在的な波動や彼らの心の鈍くなった状態における目覚めを創り出し、彼らの覆われた意識を取り戻させる。

魂は、彼らが彼らの粗雑体の中に実際にはいないことを悟り始める。

その時、彼らは、虚空(エーテル)の狭い川、境界線を渡って行く努力をする。

それは、ヒンドゥー教徒にとっては、ヴァイタラニ(Vaitarani)として、ゾロアスター教徒にとってはチンナット橋(Chinnnato-bridge)として、イスラム教徒にとってはシラット(Sirat)として知られている。

故人の魂が、平和に沈み込んで行く時に、そして彼らが天国で栄光ある目覚めを持とうとしている時に、彼らは泣いて嘆き悲しんでいる彼らの友人や親戚によって、世俗的な人生の鮮やかな思い出の中に目覚めさせられる。

喪に服す人々の想念が、同じような波動を彼らの心の中に創り出し、激しい痛みと不快さを引き起こす。

そして、制御の利かない彼らの親族の悲しみは、彼らのアストラル次元から、彼らを引きずり下ろす。

これは、天国への道の途上にある彼らをひどく妨害するかもしれない。

これは、彼らにとって、重大な損害を生み出す。

 

 

Last Thought-forms(最後の想いの形)

 

人の最後の想いは、彼の未来の運命を支配する。

それは、彼の未来の誕生を決定する。

放埓な男の最後の想いは、彼の女性についてだろう。

アルコール中毒患者の最後の想いは、彼の酒瓶の栓についてだろう。

戦士の最後の想いは、彼の敵への銃撃についてだろう。

一人息子にひたすら愛着を感じている母の最後の想いは、彼女の一人息子についてだろう。

バラタ王は、慈悲から鹿を看病し、鹿に愛着を感じるようになった。

彼の最後の想いは、鹿についてであった。

それ故、彼は鹿に生まれなくてはならなかった。

人は、常に彼の心を神に固定し、平和に死にたいと願っている。

それは、バガヴァッド・ギーター、ヴァーガバタ、ヴィシュヌ・サハスラナーマ、その他の聖典が病人の死の床で詠唱される理由である。

彼は、話せないかもしれないが、それでも彼は、彼に読まれているものを聞くかもしれない。

これは、彼が身体や病のことを忘れ、神について考えることを助けるだろう。

彼の記憶が弱ると、これらの聖典の聖句が彼に彼の真の性質を思い出させるだろう。

病が身体を苦しめる時、彼の意識が消えそうな時に、死の際に神意識を維持することは難しい。

しかし、彼の心を絶え間ない修練を通して神に固定しようと努力し、生涯を通して、心を訓練した人間にとっては、最後の想いは、神についてだけであろう。

それは、一週間か一か月に一日や二日の時たまの練習によっては起こらない。

それは、一生涯の努力と奮闘である。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『死のときに、魂は外側の装いである肉体を脱ぎ捨てます。

ヤマ(死神=閻魔)はナチケータに肉体が死んで滅びた後、魂は存在し続けると語りました。

物質的な肉体、あるいは物質的な宇宙の現象の助けなしで、魂が残存する霊的な領域があります。

これらの領域は感覚器官には認識できず、霊的な直感を通してのみ知覚され得ます。

悟らなかった魂たちは、死後ある不特定な期間、死んだ魂の領域に残存します。

それらは、この次元で真の実在の真の性質を悟ることができなかったため、死の通常のプロセスを経験したのでした。

死に伴う恐れのほとんどは、死が苦しいかもしれないという恐れです。

死のプロセス自体は、苦しくはありません。

それは単に状態を変化させるだけです。

準備不足と執着は、死のときに経験される苦しみの原因です。

死は、準備がなされ、アートマンの叡智(えいち)を獲得した人にとっては、けっして苦しいものではありません。

このような個人は、肉体や肉体的な感覚から離れ、肉体的な変化に影響されません。

魂が物質次元や、この世のものや個人に非常に執着しているときは、死は苦しみであり、悲惨な状態へと至るかもしれません。

生と死の間には、プラーナが機能を停止する中間の状態(※1)があります。

人はこの瞬間の準備をしていないと、精神的な責め苦を経験し、他人に何かを説明、表現することはできないでしょう。

実在を知っている人は、この悲惨な状態からは救われます。

死への移行において、外側の乗り物が完全に落とされる前に悟らなかった人々は、喜びや苦しみのそれぞれのいろいろな一時的な段階、あるいは領域を経験しますが、それは以前に成したポジティブまたはネガティブなカルマにかかっています。

例えば、ピトルローカ(※2)では、私たちは祖先や親しい人に逢(あ)い、スワルガローカ(※3)では、いろいろな楽しみを楽しみます。

チベット死者の書ヒンドゥー教のガルーダプラナは、肉体を捨てるプロセスで人が通り過ぎる段階を広範囲にわたって説明しています。

物質的な肉体が落とされた後でさえ、残存する構成要素の純粋か不純かにより、低い天国の領域と高い天国の領域という異なる天国の領域があります。

無知な者にとっては、死は、天国のような、あるいは地獄のような夢のような光景がところどころに入っている長くて深い眠りです。

死んだ魂と意思伝達したと主張する人々は、幻覚を起こしているか嘘(うそ)をついているのです。

誰かが深い眠りにあるとき、誰かと意思伝達することは不可能です。

悟った魂のみが、いつでも十分に意識的であるので、死後、他者と意思伝達することができます。

善い行いをして、正しくて利己的でない人生を送り、今生でいくつかの完成を手に入れた人々は、最も高次な領域で、神聖なる自己のはっきりとしたヴィジョンを楽しむことができます。

しかしながら、最も高次への到達と自己の自覚はこの生だけで持つことができると賢者は言います。

ピトリローカとスワルガローカは最高の真理を表すことはできません。

自由は、この領域では達成されることはできず、天国のいろいろな楽しみは、魂がアートマンを悟ることを邪魔します。

自己認識は、死後ではなく、今生のここでのみ可能なのです。

死後の死んだ魂の領域で、真の自己を悟ることができると信じている人々は、悲しくも幻滅を感じるでしょう。

肉体の消滅の前に、アートマンの不滅の性質を悟らない人々は、人間の誕生を通してやって来る大いなる好機を失うでしょう。

ブラフマンの達成は、あの世ではなく、今生のここでのみ可能なのです。

ヴェーダンタによると、人間は5つのコーシャという鞘(さや)から成っています。

粗大な物質的な鞘(食物鞘)、プラーナ鞘(生気鞘)、心の鞘(意志鞘)、知性の鞘(理智鞘)、そして至福の鞘(歓喜鞘)です。

それらは、鞘が種子を覆っているように、アートマンを覆っているので、鞘と呼ばれます。

それらはひとつの上に別の層が連続して重なって形作られているかのように記述されています。

物質的な鞘は一番外側で、歓喜鞘が一番内側です。

アートマンは分離していて、5つのこれらすべての鞘から離れており、超然としています。

死と同時に、物質的な肉体は、意識の心と共に、不死の部分から離れます。

感覚器官は肉体と共に置き去りにされるので、死後、感覚的な知覚はありません。

感覚は、微細なレベルでは機能しません。 

死後、外側の乗り物、あるいは鞘を捨てる過程で、人は、短い間、歓喜鞘に接触するようになります。

臨死体験を報告する人々は、彼らが愛で彼らを包む輝く光に引き付けられたことについて語るとき、この短い接触を記述しているのです。

このような経験は、彼らが自己認識、あるいは、悟りに対処すべき何もしていない場合以外は、可能です。

これらの一瞬の経験は誰かを変容させる可能性を持っていませんし、透視能力や他人を癒すエネルギーのような超能力を授けたりはしません。

もし、人が、一生涯、暗闇と無知にあるなら、死のときに、短い時間であっても、アートマン接触するにはどうしたら可能でしょうか? 

もし、ランプが多くの覆いを持っていたら、光はとても暗いときにしか見えません。

すべての覆いが取り除かれたとき、光ははっきりと見えます。

悟りは、光を見ることではなく、内側の光が真の存在だと悟ることです。

これは太陽、月、星々の光ではありません。

智慧(ちえ)と永遠の至福の光です。

悟りに相当する経験は他にはありません。

死は悟った人にはどんな力もありません。

探求者は、死後、悟らされることを期待する代わりに、次のステップの準備をする真摯な努力をし、地球の次元にいる間の今ここで、悟りを達成しようと努力するべきです。

無知なる魂は、天国へ行くか、彼らの満たされない願望の満足を求めて地球に帰ってきます。

願望する者は、生まれます。

願望しない者は、再び生まれることはありません。

生まれ変わりの理論によると、すべての連続する誕生では、より多くの智慧を得て、最後には完全なる自由を獲得するように、行為のメリット、デメリットによって、魂は何度も何度も生まれます。

この生まれ変わりの理論は、現代の科学的な方法では証明することはできません。

 

死は恐ろしいものではありませんが、恐ろしいのは、死の恐れです。

死は、ほとんど中身のない、まったく喉の渇きを癒さないカスを噛(か)んでいるようなものであり、この世を楽しむことに彼らの時間とエネルギーを浪費した人々に慰めを与える母親のようなものです。

死は、点であって、終止符ではありません。

死はただの体験であり、誰も逃れることができない変化でしかありません。

その準備をしない人は愚か者です。

真の自己は死ぬことはできません。

それは、物質的な鞘が滅ぶときでさえも、存在し続けます。

物質的な自己は、アートマンに潜んだままでいる粗野な媒体です。

肉体が滅びたとき、体の微細な物質は同じままです。

何も宇宙では失われていません。

宇宙的なエネルギーは永遠から永遠へと続いています。

現代の科学は、この世のすべては、他のエネルギーの粒子を引き付けようと、エネルギーの粒子を駆り立てる振動の産物にすぎないことを発見しました。

固体は、連続的に、これらの空の粒子の状態になり、それから電磁波になります。

それは、最後には、エネルギーの形であると理解されるようになりました。

ヨーガの哲学においては、この宇宙に存在し、起こるすべては、宇宙エネルギー、あるいはプラーナが原因である運動と振動の結果です。

この宇宙のすべての生物と無生物は、プラーナの振動によって作られます。

このプラーナの振動は、すべての宇宙的な現象の根源であり、宇宙で起こるすべての出来事の第一原因です。

プラーナは宇宙的生命の原理であり、それ自体の法則を持っています。

プラーナなしには、宇宙は存在しないでしょう。

著名な科学者であるサー・アーサー・エディントンは、物質という概念は基本的な物理学から消え、波動の周期性の概念により置き換えられてきていることを、私たちは思い出さなくてはならないと言いました。

現代科学は、実験により、物理学の世界が精神的な現象であると示唆しています。

それゆえ、物理学が、事実上、形而(けいじ)上学に帰結したのは不思議ではありません。

したがって、古代の師たちの直感的な啓示を確証しています。Sarvam khalv idam Brahma (確かに、これすべてはブラフマンなり)

最初のプラーナの現れは、アカーシャである空間で、それは次第に現象的な宇宙へと発展しました。

ヴェーダンタによると、宇宙には死んでいる物質のようなものはありません。

全宇宙は生きている有機体です。

ヤマは、ナチケータにこの現象界に存在するものは何であれ、プラーナの振動の現れにすぎない、と説明しました。

リグ・ヴェーダによると、宇宙的な力は、展開が始まる前に存在し、現れた宇宙の消滅後も存在し続けるでしょう。

ひとつの巨大な源から、すべての自然の力が、突然現れました。

宇宙は、宇宙の根本であるひとつなるものの現れです。

この宇宙においては、プラーナの振動の消失と獲得のようなものはありせん。

プラーナの力により、発展の力を通して、内側と外側の世界は生まれます。

全世界は、本質においては永遠です。

しかし、その外側の形においては、永遠ではありません。

すべての宇宙の外的な形は破壊され、形のない物質である宇宙の母なるエネルギーが永遠から永遠に存在し続けることでしょう。

生命があるところには、知性の現れがあります。

知性と生命は相伴っています。

この知性は、内なる自己のものであり、その手段としてプラーナという生命力を持っています。

プラーナの力の助けを通して、生きて機能しているのは、本当は真の自己なのです。

対象的な世界は、単に宇宙の半分です。

私たちが感覚で知覚するものは、完全なる世界ではありません。

心、思考、感情を含むもう半分は、外的な対象物の感覚の知覚によって説明することはできません。

五感は、個人的なエゴが外的な世界と接触する主要なドアです。

これらの五感は、私たちが外的世界から振動を受け取るゲートなのです。

これらの振動は、最初は脳細胞に運ばれます。

分子の変化はこれらの細胞で起こり、振動は順番にエゴにより感覚へと翻訳されます。

次に、感覚は知覚概念に形成され、一連の精神的なプロセスの後、観念に変換されます。

これは、終わりなく続きます。

あなたが何かの対象物を考えるとき、あなたは即座に、そのものの精神的なイメージを受け取ります。それは観念と呼ばれます。

もし、知的な心が存在しなければ、どんな認識もないでしょう。

そういうわけで、ヴェーダンタは見解を述べています。

〝感覚器官よりも感覚は微細であるが、心は感覚を超えている。そして、知性は心を超え、宇宙的な自我は、知性よりも偉大である〟

プラーナの力は、肉体における異なった機能により、プラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、ウダーナ、サマーナという5つの名前を与えられています。

人間の身体では上昇する空気はプラーナで、下降する空気は、アパーナです。

ヴィヤーナはすべてのランプを貫く炎のようにさっと回り、体中ですべての流動体とエネルギーの循環を維持しています。

ダーナは、死の際に、体から魂のガイドを務め、サマーナのおかげで、栄養が吸収されます。

魂、あるいはジィーバが離れるとき、生命エネルギーであるプラーナが続きます。

プラーナが離れるとき、他のすべての生命維持器官が続きます。

呼吸システムはプラーナの乗り物です。

心と体の関係を確立するのは呼吸なのです。

吸息と呼息が機能を止めると、死が起こります。

肉体的な死は変化であり、潜在意識と魂を無にすることはありません。

話す、掴(つか)む、動く、妊娠する、排泄(はいせつ)するという行為の5つの器官の微細な力と、感覚知覚器官と5つのプラーナとマナス、ブッディは微細体を続けます。

生まれ変わりのときに、魂は微細体に伴われます。

全身は死の際に分解しますが、微細体は存在し続けます。

メリットとデメリットの倉庫である潜在意識は、ジィーバ、あるいは魂のための乗り物になります。

私たちの多くの生のすべてのサンスカーラは、種子のような潜んだ状態で、私たちの潜在意識の倉庫にあるのです。

微細体と粗雑体との関係は、種子と植物との関係に似ています。

種子は、種子遺伝子において植物のすべての性質を内包しているように、潜在意識は、私たちの過去生のすべてのサンスカーラを留めています。

仏教徒とヨーガ行者は、魂と心と体を信じ、その間を区別しています。

魂は、創造されていません。

それは本質的には、意識であり完全です。

粗雑体の消滅の後、すべては潜在したままです。

魂は生き返ります。

私たちの魂は、死後も、完全であり、消滅せず、分解せず、破壊されません。

もし魂が、真の実体であり存在であるなら、それを経験するいくつかの方法があるべきです。

適切な霊的な訓練を実行する誰もが、この経験を持つことができます。

生と死は、同じ事実にとっての異なる名前であるだけです。

それは、ひとつのコインの2つの面です。

このような区別を超えることができる人は、死を克服し、彼岸、すなわち、永遠の生命に到達することができます。

アートマンが不死であるという基本的な真理を理解する人は、死の神秘を解き明かすことができるのです。

サマディ(超越意識)を達成した人々は、まさに今生のここで、死後の生を経験することができます。

自らの真の自己を悟った人は、不死なのです。』

(「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」 by スワミ・ラーマ)

 

(※1)中有と言う。仏教では、人が死んでから次の生をうけるまでの49日間を指す。チベット仏教では、バルドゥと言う。

(※2)祖先が住む世界(ローカ=星界

(※3)神々が住む天国

 

 

 

『第一の光明の体験

 

まずはじめに『チカエ・バルドゥ(※1)における光明のお導き』とはいかなるものかを述べよう。

理解力は良いがまだ覚っていない人と、覚ってはいるが実践の浅い人と、教えの伝授を願っている一般の凡俗な人たち(凡夫)のすべてに対して、この時点においてこの『光明のお導き』が授けられるならば、第一の光明である〈根源の光明〉が覚られて、バルドゥを経過することなく死者の意識は上方への一直線の大道を通って、生まれつきそなわっていたダルマ・カーヤ(不生の法身、※2)を獲得するであろう。

外に吐く息が途絶えてしまって生命の風(ルン、※3)が叡知の中枢脈管(※4)に帰入すると、心は無用の働き(戯論)を離れた光明としてひときわ輝く。

その後に生命の風(ルン)が中枢脈管から逆流して、右・左の脈管(※5)に流入すると、バルドゥの現出が一瞬のうちに起こる。

そこで生命の風(ルン)が右・左の脈管に流入しないうちに、死におもむく者にお導きを授けるべきである。

お導きを授ける時間の長さは、外に吐く息が途絶えて内にある息が留まっているうちに、彼に対して朝食に要する時間ほどの長さでお授けすべきである。

 

第二の光明の体験

死におもむく者が、第一の光明において自身の本体を覚ったならば、彼は解脱できたであろう。

しかしもしも第一の光明において覚ることができないままでいるならば、さらに第二の光明と呼ばれるものが現れるであろう。

これまた時期はというならば、外へ吐く息が途絶えて、一回の食事に要する時間を少し過ぎたぐらいの時である。

死者の生前の善業あるいは悪業によって、右の脈管あるいは左の脈管のいずれかふさわしいものの方に生命の風は流れ込む。

そして、いずれかの適当な孔(※6)から抜け出る。

彼の意識は明るい道に出たように明晰になる。

このようになるまでにまた一回の食事に要する時間がかかると言われるが、脈管の善いか悪いかにより、また生前における仏教の実修の有るか無いかによって、要する時間に差異がある。

こうして死者の意識は、体外に抜け出るが、死んでいるのか、死んでいないのか、その自覚は死者自身にはない。

死者にはかつてと同じように親族や関係者が見えるようになる。

彼らの悲観の叫びも聞こえる。

カルマン(業=カルマ)が引き起こす、死者を錯乱させるような恐ろしい幻影はまだ現れできていない。

今のうちに、ヤマ王(閻魔)のもたらす畏怖がまだ現れてきていないうちに、教訓(教え)が授けられるべきである。』

チベット死者の書

 

 

(※1)バルドゥ(中有)には、六種類がある。

  (1)母胎より誕生してこの世に生きる姿のバルドゥ(キエネエ・バルドゥ)

  (2)夢の状態のバルドゥ(ミラム・バルドゥ)

  (3)禅定・三昧状態のバルドゥ(サムテン・バルドゥ)

  (4)チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)

  (5)チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)

  (6)シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)

 

(※2)仏の身体についての三つの考え方。法身・報身・化身。

法身は真理そのもの。

永遠の理法の体現で、一切の存在はこれを根拠とし、これのあらわれとされる。

報身は、唯識で「受用身」とも呼ばれ、過去世における願いと修行の「報い」として数限りない優れた美徳をそなえ、その楽しみを享受している仏の姿。

化身は変化身とも呼ばれ、救いを受ける人々の素質・能力に対応していろいろな時・所において、人・鬼神・動物等のさまざまな姿をとって化現する仏の姿。

 

(※3)ヨーガでは、プラーナ(生気)。生命エネルギーのこと。

 

(※4)ヨーガでは、生気(プラーナ)を通す微細次元の導管をナディと呼び、その中でも、脊髄に沿って尾骶骨から脳まで伸びている中央導管をスシュムナーと呼んでいる。

 

(※5)ヨーガでは、右の脈管をピンガラ(別名、スーリアナディ=太陽の気道)と呼び、左の脈管をイダー(チャンドラナディ=月の気道)と呼ぶ。

 

(※6)ヨーガで言うチャクラのこと。微細次元の神経叢、エネルギー中枢で、身体に7つ、或いは、それ以上、あるとされている。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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