永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(41)「死」①

前回まで数回にわたり、「生」や「命」について、ウパニシャッドやヨーガの世界で説かれている智慧をご紹介しましたが、今回の記事は、「生」に対極する「死」についてです。

 

この地球に生息している人間で「自分は生きている」という自覚のない人はいないことでしょう。

そして、誰でも、「いつか、自分は死んで、この世からいなくなる」ということを知っています。

肉体の老いは否定できない事実ですし、他者の死を通して、人間にとって「死は必然」であることを認めると同時に、「死」に対して、予め理解して、その日を迎えたいという想いや、「死後、人間はどうなるのだろう?」という漠然とした疑問が生じることもあるでしょう。

 

「真我実現」や「悟り」「解脱」には興味はないけれども、「死」に関しては知りたいという方も、多くいらっしゃることでしょう。

 

今回からは、「生前解脱」を果たされた(とされる)聖者や賢者の方々の「死」についての解説や洞察をご紹介したいと思います。

(「生前解脱」の境地は、ほとんど「死」と同じ状態になることですので、ヨーガの厳しい修練を通してその境地に至り、そして、その状態から戻ったという聖者や賢者の方々のお話は、非常に貴重であり、死について考える上で、多くのヒントを与えてくれることでしょう。)

 

「死」という現象は、誰にでも突然に起こる可能性がありますが、生前に、少しでも「死」について知っておくことは、何も知識がない場合よりも、死のプロセスが個我に起こる際に、何らかの役に立つことでしょう。

 

仏教やヒンドゥー教ジャイナ教など、インド発祥の宗教思想においては、「輪廻転生」(生と死の繰り返し、生まれ変わりのサイクル)からの「解脱」(解放)が、その教えの根幹にあります。

 

「真我実現」や「悟り」と言われているものは、最終的には、個我に「解脱」(解放)をもたらします。

それと同時に、「死」について、ある理解や洞察がやって来るのですが、しかし、それは、誰にでも起こることではないと言えますので、聖者や賢者の方々による「死とは何なのか?」という智慧に触れるだけでも、「死」に対する理解や印象は、大きく違って来ることでしょう。

 

最初に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、次は、以前にもご紹介しましたスワミ・ヨーゲシヴァランダの「魂の科学」から、「肉体に起こる死」について、ヨーガ的な見地からの解説をご紹介いたします。

 

 

Death(死)

 

偉大なる科学者達、多くの驚異的な物を発明した人達、途方もない仕事を為した力のある皇帝達、霊感溢れる詩人達、素晴らしい芸術家達、多くのブラーマー(司祭)達、賢者達、ヨーギー達は、やって来ては、去って行った。

あなたは、彼らがどうなったのかをとても知りたいと思う。

彼らは、まだ存在しているのか?

死という対岸には、何があるのか?

彼らは、非存在になってしまったのか、空虚な無へと減少して行ったのか?

このような質問は、すべての人のハートに自然に湧き起こるものである。

同じ質問は、何千年も前に湧き起こったように、今日湧き起こる。

誰も、それを止めることはできない、何故ならば、それは、われわれの性質と不可分に繋がっているからである。

死の考えは、宗教や宗教的人生の最も強力な原動力であった。

死は、人を不死の探究へと駆り立てる。

人は、死を恐れる。

人は、死にたくない。

彼は、永遠に生きたいと思う。

これは、哲学のスタートの地点である。

哲学は、質問し、調査する。

それは、大胆にも、宣言する。

「人よ、死を恐れるな。

不滅の住居がある。

それは、ブラフマンである。

それは、あなたの心臓の小房に住まうあなた自身のアートマン(真我、魂)である。

あなたのハートを純粋にし、この純粋で不滅で不変なる真の自己に瞑想しなさい。

あなたは、不死に到達するであろう。」

あなたは、死なない、何故ならば、あなたは生まれたことがないからである。

あなたは不滅のアートマン(真我、魂)なのだ。

誕生と死は、マーヤという非実在のドラマにおける二つの誤った場面なのだ。

それらは、5つの元素(地水火風空)の結合によって形作られた誤りの産物である物質的な鞘(コーシャ)だけに関係している。

誕生と死の考えは、単なる迷信である。

すべての魂は、一つの環である。

この環の周辺は、何処でもないが、その中心は、身体の中にある。

死は、身体から身体へのこの中心の変化を意味する。

その時、あなたは、どうして死を恐れる必要があろうか?

 

 

What Is Death?(死とは何か?)

 

死は、肉体からの魂の分離である。

魂が肉体へ入ることは、誕生と呼ばれている。

身体からの魂の離脱は、死と呼ばれている。

魂が不在ならば、体は死んでいる。

死は、一つの側面から他の側面へと開いているドアである。

死は、身体の、物質的な活動の停止であり、物質的な有機的な機能の停止であり、身体的意識の停止である。

死は、在るという一つの状態からもう一つの状態の移行であり、もう一つの次元であるアストラル次元、精神次元への意識の形態の変化である。

振動の度合により、氷は水になり、水は水蒸気や霧や目に見えないガスになる。

肉体、アストラル次元、メンタル次元の命は、それと同じである。

死は、あなたの人格や自我意識を終わりにしない。

それは、単に命のより高い形態への扉を開けるだけである。

死は、より充実した命への入り口に過ぎない。

死は、あなたの人格の消滅ではない。

それは、単に重要な個性の停止であるに過ぎない。

それは、単なる形態の変化であるだけである。

命は、宇宙の獲得を達成するために流れ続け、命は、それが永遠の中に溶け込むまで、流れ続ける。

死は、命の終りではない。

それは、命の一つの側面である。

それは、命の進路における自然な出来事である。

それは、あなたの進化のために必要である。

死は、命の反対ではない。

それは、単なる命の一つの側面であるだけである。

命は、止まることなく流れ続ける。

果実は腐るが、種子は命に溢れている。

種子は死ぬが、大きな木が種子から成長する。

木は腐っても、豊富な命を持つ石炭になる。

水が消えると、水は新しい命の種子を含んだ目に見えない蒸気になる。

石は消えるが、新しい命に満ちた石灰になる。

物質的な鞘だけが脱がれるが、命は持続する。

肉体の分解は、単なる眠りである。

人は、眠り、目覚めるように、死と誕生も同じである。

死は、眠りのようなものである。

誕生は、目覚めのようなものである。

死は、新しい、より良い人生へと昇進をもたらす。

識別力と智慧のある人は、死を恐れない。

彼は、死が命の門であると知っている。

死は、彼にとっては、もはや単に命の糸を切るための剣を身に着けている骸骨ではなく、彼のために、はるかに広く、充実した幸せな存在への扉の錠を開ける黄金の鍵を持つ天使である。

誕生は、目覚めが眠りに従うように、死に従う。

あなたは、あなたの以前の人生において、あなたによって残された仕事を再び始めるだろう。

それ故、死を恐れてはいけない。

誕生と死は、マーヤ(幻妄の力)の手品である。

生まれた彼は、死に始める。

死んだ彼は、生き始める。

命は死であり、死は命である。

誕生と死は、この世という舞台の単なる入口と出口であるだけである。

あなたが、一つの家から別の家へ引っ越すように、魂は、経験を得るために、一つの身体から別の身体へと通過する。

人が、古くなった衣服を脱ぎ捨てながら、新しい衣服を着るように、この身体の居住者は、新しい他者に入り込む。

おお、人よ、死をまったく恐れるな。

死は、マーヤ(幻妄の力)の幻影の現象である。

死は、5元素(地水火風空)の分解である。

あなたは、不滅の魂(アートマン)なのだ。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『死ということの真の意味も、私達は知っておかねばなりません。

ほとんどの生き物の場合、単に死の事実を見せられただけで非常に怖がるものですが、しかし、それは全く必要のないことです。

死に際に味わう肉体的苦痛について言えば、そのほとんどは罪の深い行為から生じてきた結果であるといえます。

ですから、こうした罪深い者がいまわのきわにもだえ苦しむ姿を見て、普通の者は死を迎える時に味わうであろう苦痛を恐れてしまうのです。

しかし、もし死期を迎えても苦しみや悲しみを受けずに済むとしたら、死など少しも恐れる必要はないのです。

そればかりでなく、絶対者ブラフマンから祝福された行者ならば、そうした罪だけでなく、罪から生じた行をも真智の炎で焼き尽くすことができるはずです。

このような行者は、死というものをもう恐れはしません。

しかし俗人の場合は、迷妄の世界に沈み込み苦悩を味わい続けています。

なぜなら、俗人は自分自身の肉体のとりこになってしまっているからです。

つまり、食べること、飲むことといった感覚器官を満足させることにのみ夢中になっていますし、親や子といった身近な者に囚われ、また、富や幸福とかを異常なまでに追い求め、逆に、真我が転生を繰り返すことなど信じようともしません。

もちろん、真我とはどんなものか知ることもありません。

こうした人々ですから、死期を迎えんとする時、この世を離れたくないといって嘆き悲しむのです。

しかし、真我を知る者はこの世の本当の姿を知っていますので、死期を迎えても恐れることがありません。

さて、私達は瞑想の境地にある時、死を迎えた際に肉体の中にどんなことが生じるのか、その事実をあらかじめ霊視することができます。

すなわち、瞑想の中で思考(Samkalpa)と想像(Vikalpa)の働きが消え失せると、私達の意識は身体の中心により鋭く向けられるようになってきます。

この時、まず肉体上にある変化が生じてきます。

すなわち、瞑想の境地に入って間もなく生気の動きが鈍くなってきますと、修行の初心者であっても、自分の手足にまるでアリでもはっているかのような感じを受けることがあります。

そして、眠りにつく時のように、手足が次第に重く感じるようになってきます。

初心者の場合、こうした状態を非常に恐れますが、しかし、しばらくして生気の均衡が保たれれば四肢や身体の重みは消え失せてしまいます。

これと同様に、行者が死期を迎えその肉体から抜け出す時も少しも動揺することなく、上手に生気の均衡を保たせることができるのです。

また、行者はその意志の力で、死の間際と同じ状況を瞑想中に創り出すことができますが、一般の人々にとってはいまわのきわに一体どのようなことが起きるのか解らぬままになっています。

そのために、死を迎えた時に驚き戸惑うのです。

しかし肉体に死が訪れた際には、ちょうど水源地からの水の流れが止まったために川の水が干し上ってしまうのと全く同じことが生じるだけなのです。

つまり、まず心臓内の心素から放射されてくる生命力としての微細生気(Sukshuma Prana)の動きが鈍くなってきます。

このように、死は普通、一瞬の内にやってくるということはありません。

もちろん、心臓が一時に止まってしまえば、その時死は即座にやってきますが、一般的には死は少しずつやってきます。

ですから、まず自分ではウトウト眠っているような気の遠くなった無意識の状態が肉体全体に広まってきますが、やがて再び無意識状態へと戻っていってしまいます。

しかし時には、この状態から抜け出して目覚めることもあり、そうした時は周りの者と言葉を交わしたりもしますが、やがて再び無意識状態へと戻っていってしまいます。

ですからあなた自身、瞑想の境地にあってこうした生命力がどこから生じて来るのか、よく霊視してみなくてはなりません。

実際こうした時は、心臓内にあって生命力をたえず流し続けてきた微細生気の動きが阻害されてしまっています。

そのため、流れが止まったり再び流れ出したり、間歇的なこうした生命の流れの中には、知識と運動に関するは働きが混ざっていますが、通常この生命の流れは各鞘を通過して肉体へと到達し、そして肉体全体へと行きわたり、肉体を機能させています。

しかし死期を迎えた今、この肉体に向けての生命の流れが阻害されているのです。

それはちょうど、部品が壊れてしまったポンプが、遠くまで思うように水を飛ばすことができなくなるのと同じで、生命の流れる今、その力を失いつつあるのです。

ですから、時としてはある鞘までは届き、また、別の時は他の鞘までは届くのですが、最後には、心臓の内部にしか流れなくなってしまうのです。

その結果、生気鞘の動きが止まりその影響がまず肉体上に表われてくると言うわけです。

ところで、主生気と補助生気という肉体全体に行きわたっている生命の活動力は、その源となる力を得るために心臓部分へと向かって動いていますが、心臓部ですでに生命の活動力が充分に流れなくなっているのを見て、この心臓内部へと戻ってきてしまうのです。

この瞬間に肉体全体に行きわたっていた動きと意識とが失われてしまいます。

つまり、手足が重く冷たくなり収縮してくるのを感じるようになり、遂には肉体全体が全く動かなくなり、さらに脳内部にある意思鞘と理智鞘とがその働きを止めてしまいます。

次いで、ブラフマランドラの意思、理智、それにすべての感覚器官が五種の微細生気からなる球体とともに心臓部へと向かい、そこで原因体を取り囲みます。

こうして、感覚器官の持つ力は五種の微細元素からなる球体中に納められますが、微細体のすぐ内側には、微細生気球、続いて我執球、次に心素球があり、中心には真我が納まっています。

そして、真我がこれらの光り輝く球体をその周りに引きつけたまま、肉体から抜け出してゆくのです。

これらの球体全体は、ちょうど巻貝のような形をした光の塊となって宇宙空間へと入ってゆきますが、微細体と原因体の場合は、どんな生物の中に入るかによって、その姿形が変わります。

ですから、たとえば人間の肉体に入るとその姿形も人間の肉体と同じものになりますが、動物や昆虫、うじ虫などの中に入れば、そうした姿形になるわけです。

しかし、真我の場合は全く変化するということがありません。

つまり、微細体と原因体だけが膨張したり収縮したりしながら、どんな肉体の中にでも入ってゆくという性質をもっているのです。』

(「魂の科学」by スワミ・ヨーゲシヴァランダ)

 

 

 

 

『物質世界の生物に内在(やど)る不滅の霊魂は

わたし自身の極小部分である--かれは

心をふくむ六つの感覚を用いて

苦労しながら肉体を操っているのだ

 

霊魂は風が芳香を運ぶように

自らの意想感情を次の体に運ぶ

このようにしてかれは或る種の身体をとって生き

またそれを捨てて他の体をまとう

 

不滅の霊魂はこのようにして

耳 眼 舌 鼻 触覚と

また心意(こころ)をもった物質体をとって誕生し

それらに相応した対象を味わい経験する

 

霊魂は物質自然(プラクリティ)の三性質(トリグナ)の支配下

自己の心性に相応した体で様々な経験をし

時期が来ればその体を離れていく

迷える者にはこの事実が見えないが智慧の眼をもつ者には見える

 

修行する求道者(ヨーギー)たちは自己の本性を覚って

この事実を明らかに理解している

だが未熟で自覚(さとり)に到らぬ者たちは

努力しても不滅の霊魂を感知できない』

(バガヴァッド・ギーター 第15章7ー11)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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