永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(38)

前回までの記事では、真我(アートマン)は、私たちの「魂」(プルシャ)のことであり、その「魂」は、太陽の如く、自ら存在し(輝き)、エネルギーを放射することで、本来は生命のない物質(Jada)である肉体に、生命エネルギーを送り、肉体はその力を受けて、生命(Chetan)として、この地球上で、「人間」として生命活動をしている、という趣旨のことを書きました。

 

このことを非常に分かり易く説明してくれている文章を、「魂の科学」(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)から、ご紹介したいと思います。

 

『ところで、”私は”とか、”私に”とか言う場合、そう呼ばれているものは、実は、二つの実在原理(Tattwa)が集まってできあがっているのです。

その一つは生命の無い物質(Jada)であり、もう一つは生命(Chetan)です。

そしてこの場合、生命は生命の無い物質の内に隠されています。

ですから生命そのものである真我の居所は、物質元素から創られているこの身体であって、真我は城主であり、身体はこの真我を守る城のようなものです。

そしてこの城は、肉体、微細体、原因体という三つの部分から成り立っています。

肉体はまた、粗雑体とも呼ばれていますが、この肉体は真我に到達する道の上に立つ中央門のようなものです。

ですから私達は、まずこの門を通過せねばなりません。

この肉体は五種の粗雑元素からできており、過去に行った種々の行為を反映して創り出されています。

そしてこの肉体は二つの部分から成り立っています。

そのうちのより粗雑な部分は食物鞘(Annamaya Kosha)であり、もう一つは生気鞘(Pranamaya Kosha)です。

これらの鞘はともに、城主である真我に粗雑次元での奉仕をしているわけですが、こうした肉体自身が真我に奉仕する力を持ち合わせているわけではありません。

この、力とかエネルギーと呼ばれるものは、実は、肉体の内側にある別の身体から送られてくるものなのです。

別の身体とは微細体(Sukshma Sharira)のことですが、この身体の場合は、肉体に具わっているような神経とか動、静脈血管、その他の筋肉とか骨といったようなものを持ち合わせているわけではありません。

微細体の場合は、非常に微細な気球のような物質からできています。

ですから、肉体の四肢のようなものを具えてはいませんが、しかし、肉体全体の内に浸透し広がっている身体なのです。

そして力の面から言えば、この微細体は肉体を動かす立場にあると言えます。

言い換えれば、肉体の動きのすべては、この微細体から送られてくる力や刺激によってのみ惹き起こされるのです。

この刺激として伝わってくる力の中には、知識と運動という二種の力が混ざり合っています。

そして、これら二種の力によって、いわゆる、肉体中の生命力と呼ばれている力が生じてきます。

この生命力があれば、肉体は生き長らえ、そのすべての機能を果たすことができるのです。』

「魂の科学」(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)

 

このことは、長年の厳しいヨーガ修行を通してのみ知り得る智識(Jnana)ですので、一般人である私たちが、通常の日常生活において実感することは、ほとんど不可能と言えますが、ヨーガにおける、私たちをこの三種の身体である粗雑体、微細体、原因体と分けて考える考え方は、以前の記事ですでにご紹介しましたが、極めて一般的なヨーガの常識とも言えるもので、真の自己である真我(アートマン)を悟って行くプロセスにおいては、肉体よりも微細な領域に入って行くことは、必要不可欠であるため、体験や体感が起こるまでは、ここで改めて復習し、頭の中に、忘れずに銘記しておくことは、とても重要です。

 

ご紹介しました「魂の科学」(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)の文章を念頭に置いて、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋の文章とラマナ・マハルシの遺された御言葉の内容を、比べてみて下さい。

 

己のハート(フリダヤ)に「真の自己」である真我(アートマン)として鎮座する「魂」の姿が浮かび上がって来るはずです。

 

その「真の自己」である真我(アートマン)は、神(ブラフマン)であり、神(ブラフマン)の「動」の側面であるシャクティ(力)として顕現していることが、理解できると思います。

 

この世で唯一なる実在は、動いていない場合は、神(ブラフマン)であり、動きのある時は、シャクティ(エネルギー、力)であり、この二つは同じ一つのモノの異なる側面なのです。

(それは、「火」というと、燃焼というモノが燃える「概念」と、実際にモノを燃やす炎という「力」(現象を起こすエネルギー)が含まれており、この二つが「火」を表すのと同じです)

 

本当の自分、真の自己である真我(アートマン)を知ることは、ラマナ・マハルシも語っているように、

「人がはじめて真の自己を知るとき、なにか別のものが彼の存在の奥底から生じ、彼を占領します。

そのあるものとは、心の背後の無限、神聖、永遠です。

ある人びとは天の王国と呼び、ある人びとは魂と呼び、ある人びとはニルヴァーナと呼び、われわれヒンドゥは解脱と呼びますが、あなた方は自分たちの好きな名で呼んだらよいでしょう。

これが起こるとき、みずからを失うことは全くなく、むしろ彼は自己を発見するのです。」

 

真の自己の発見。

 

自らの「魂」の発見でもある訳ですが、広く一般的に言われている「魂」には誤解や歪曲があるために、正しく理解されていません。

 

「魂」とは、この世で唯一の永遠の実在であり、永遠不滅の普遍的な存在であり、この意味において、「神」(ブラフマン)と同義なのです。

 

それが、本当の自分であることを真に理解できれば、真理を求める探求は終わります。

(この理解は、頭の中で起こる訳ではなく、直接体験を通してやって来るので、直接体験は、必要不可欠ですが、目的地を知っておくだけでも、プロセスを進む際の指標になることでしょう)

 

 

Life in Matter and Life in the Spirit(物質の中の命と霊的な命)

 

霊的な命は、ただ一つの実在であり、永遠の命である。

忙しなく急いでおり、恐れ、危険、病や軋轢を伴う現代人の人生は、真の人生ではない。

富や権力の人生、或いは、物質的な贅沢は、人生の目的ではない。

このような人生は、心の平和や魂の平静を産み出さない。

感覚的な人生は、生きるに値しない。

肉体的感覚の喜びは、猛毒の薬と調合された蜂蜜のようである。

肉体的感覚の愉しみは、数々の欠点や罪、苦しみ、愛着、悪習、精神的な落ち着きのなさが伴い、感覚的喜びへの耽溺は、神への献身を破壊し、実在を探究するための心(マインド)の能力を弱める。

感覚は、人生、輝き、力、生命力、記憶、富、名声、神聖、至高の存在への献身を破壊する。

それは、地獄という奈落の底へ人を引き入れる。

世俗的な人生は、哀しみ、苦しみ、束縛に満ちている。

それは、欠点、弱さ、制限に満ちている。

それは、憎しみ、羨望、利己心、裏切り、不安、心配、気苦労、病、死、貧困、不正、詐欺、裏表のある行動、激烈な競争、不純と闇、闘い、騒動、紛争と戦争、失望、絶望、落胆、残忍、搾取、扇動、落ち着きのなさで満ちている。

すべての対象物は、少しばかりの想像の喜びで表面を覆われている。

それは、薄い金メッキの板のようである。

本当には、ここでの人生は、すべて金ピカであり、実質のないものである。

砂糖がけの背後に、苦いキニーネがある。

金メッキの背後では、すべてが真ちゅうである。

所謂楽しみの背後には、苦しみ、惨めさ、苦痛がある。

ここでの人生は、恐れ、愛着、苦難で満ちている。

世俗的な人生は、すべて非実在である。

それは、幻であり、束の間のものである。

それは、取るに足らなく、価値のないものである。

その終わりは、ただの塵である。

ほら、噂話、食べることと眠ること以外には何もない。

すべては、幻想であり、すべては苦しみである。

すべては、束の間のものであり、すべてはすばやく過ぎて行く。

世俗的な経験は、価値はなく、実在ではない。

神だけが、実在である。

あなたがそれらの後に1を加えなければ、いかなる数のゼロでも、価値はない。

同じように、あなたが全世界を所有するとしても、もしあなたが霊的な人生を送らなければ、もしあなたが真我実現を持たないならば、何にもならない。

あなたは、魂で生きなくてはならない。

あなたは、ここで人生にアートマン(真我)を加えなくてはならないだろう。

それは、イエス神が言う「先ずは、王国とその正義を求めなさい。そうすれば、すべてのこれらの物は、あなたに加えられるであろう。」と言っている理由である。

(だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイの福音書第六章33)

永遠に生きることは、豊かな人生である。

それは、豊かで内面的で霊的な人生である。

この人生は、哀しみと苦しみはない。

それは、満たされ完全に独立している。

それは、智慧と永遠の至福に満ちている。

それは、すべてに浸透し、不変である。

完全なる満足と滋養物である。

魂という命を抱き締めなさい。

あなたは、純粋で自由となるだろう。

人生の最高の美は、絶対真理の祭壇への最も親愛なる私利私欲という捧げものである。

生きることは、絶対真理を追い求め、そして勇気をもってすべての障害を乗り越えることを意味する。

人生の最も大きな歓びは、神への献身であり、それ自身のハートで神を瞑想することである。

霊的な人生は、人間の人生に意味を与え、栄光を授ける。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

「神は顕現と非顕現として描写されています。

前者としては、神は世界をその一部として包含していると言われています。

もしもそうであるなら、世界の一部としての私たちは、彼を目に見える姿で知っているはずです。」

 

ラマナ・マハルシ

「神や世界の本質について決める前に、あなた自身を知りなさい。」

 

質問者

「私自身を知ることが、神を知ることなのでしょうか?」

 

ラマナ・マハルシ

「そうだ。神はあなたの内にいる。」

 

質問者

「それでは、私自身あるいは神を知る上で障害となるのは何でしょうか?」

 

ラマナ・マハルシ

「あなたのさ迷う心と、道を踏みはずすことである。」

 

質問者

「神は個人なのですか?」

 

ラマナ・マハルシ

「そうだ。彼はつねに第一番目の人であり、「私」であり、永遠にあなたの目の前に存在する人である。

あなたが世俗的なことに優位を与えてきたため、神は背後に遠のいてしまった。

もしあなたが神のみを求め、それ以外のすべてをあきらめるなら、唯一神のみが「私」、真我として残るだろう。」

 

質問者

「神と真我は別のものなのでしょうか?」

 

ラマナ・マハルシ

「真我は神である。

「私は在る」(I AM)が神である。

あたなが自我にしがみついているため、このような質問が起こる。

もしあなたが真我をとらえれば、質問は起こらないだろう。

なぜなら、真我は何も問わないだろうし、問いようがないからである。

もし神が真我から分離しているとしたら、その神は真我のない神であり、それはありえない。

存在していないかのように見える神だけが真に存在し、存在しているかのように見える個人はけっして存在しない。

だからこそ、「自分が存在していない」(シューンニャ=空)ことを知っている状態だけが、栄光ある至高の知識である」と聖者たちは言うのである。

現在のあなたは自分を個人だと考え、そして宇宙が存在し、宇宙の彼方に神がいると考えている。

そのため、そこには分離という観念がある。

この観念が去らなければならない。

なぜなら、神はあなたからも宇宙からも分離していないからである。

『バガヴァッド・ギーター』もこう言っている。

アルジュナよ、

私は万物のハートに宿る真我である。

私は万物の原初であり、中間であり、終末である。

(『バガヴァッド・ギーター』第10章20節)

このように、神はただすべての生けるもののハートのなかにいるだけではなく、彼はすべての支柱であり、すべての源であり、すべての生けるものの住まう場であり、彼らの終着点でもある。

すべてが彼から存在を現わし、彼のなかに生き、ついには彼のなかに溶け去る。

それゆえ、彼は分離していないのである。」』

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

アルジュナ

「クリシュナよ 今一度詳しくお話し下さい

あなたの神秘な御力と顕現(あらわれ)について

どんなに聞いても私は飽きない

聞けば聞く程もっとその甘露(アムリタ)を味わいたくなるのです」

 

至上者(バガヴァーン)

「よろしい ではアルジュナ

わたしの光り輝く表現(あらわれ)の

主要なものだけを語って聞かせよう

詳しく言えば際限(きり)がないのだ

 

アルジュナよ わたしは真我(たましい)として

一切生類の胸に住んでいる--また

わたしは万物万象の初めであり

中間であり そして終わりである

ーーーーーーーーーーーーーー

そしてその上に アルジュナ

わたしは全存在を生み出す種子である

動くも 動かぬものの

わたし無しには存在し得ない

 

愛するアルジュナ

いま君が見ているわたしの姿を

見ることは まことに難しいのだよ

神々でさえこの姿を見たいと常に憧れている

 

いま君が見ているわたしの姿は

ただヴェーダを学んだだけでは見えない

厳しい苦行や慈善 供犠を重ねても見えない

そうした手段ではわたしの真実の姿は見えないのだ

 

アルジュナ

わたしを信じて愛慕することによってのみ

いま君の前に立っている真実の姿を見得るのだ

わたしの神秘に参入できるのは

この方法をおいて他に無いのだ

 

アルジュナよ 利得の業を離れ 空理空論を捨て

わたしを愛慕し わたしのために働き

わたしを至上目的とし 一切生類に思いやりをもつ者は

必ず 疑いなくわたしのもとに来るのだ」
(バガヴァッド・ギーター)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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