永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(37)「命」①

『私』とは、肉体(物質)、心(精神)、魂(霊)の三位一体の存在のように言われることがありますが、実は、「肉体」という物質も「心」という精神作用も、「魂」という霊的な存在からの力がなければ、その働きを全うすることはできず、私たちが人間が、「自分」だと言ったり、思ったりしているのは、この「肉体」と「心」であり、「魂」という言葉は知っているけれども、「魂」とは一体どういうモノなのか?を知らないために、自分自身が、「魂」そのものであると考えたことはなく、ましてや、「魂」だけが実在で、「肉体」や「心」は、「魂」の力に依存している幻のような存在であるとは、思えないことでしょう。(このことは、既に前回までの記事で、詳細に書きました)

「魂」については、死んで肉体を離れた後に、「魂」として「あの世」に存在するようになる、というような曖昧な想像の中でしか、存在していない実体のない存在であり、本当のことはよくわからない、と言っても過言ではないでしょう。

特に、宗教的な人でない限り、霊魂について考える時間を持つことも、少ない現代では、目に見えない存在は、無いに等しい存在となっています。

 

ここで言う「魂」とは、オカルトチックな「霊魂」のことではありません。

(多くの場合、「魂」についてはほとんど知られていないために、世の中には、多くの迷信や誤解があることは、事実です)

「魂」は、実体のない存在どころか、むしろ、そちらが「実体」であって、私たちが「実体」だと考えている「私」の方が、実体のない幻のような存在であるということが、真実であり、そのことが明らかになることが、究極の悟りであり、「真我実現」と呼ばれているものです。

 

「魂」とは、ヨーガでは、私たち人間の一人一人のハートに宿っている「真我」(アートマン)であり、サーンキャ哲学では、「プルシャ」とも言います。

「アドヴァイタ・ヴェーダンタ」(不二一元論)の代表的な提唱者であるシャンカラが遺した「ウパデーシャ・サーハスリー」では、「真我」(アートマン)の性質が述べられていますが、そこにおいては、「真我」(アートマン)が「認識主体」として説かれています。

「認識主体」とは、誰の力も借りずに、何の力にも依存せずに、自らの力で「主体」となっている存在のことです。

私たち人間は、生や死、性別、人種など、自分の力で選ぶことはできません。

いつ、どこに生まれ、いつ、どこで死ぬのか?は、自分の意志や力の及ばないことであることは、誰でも認めることでしょう。

このように、私たちの人生は、ナニカに依存しているわけです。(それを運命と呼ぶ場合もありますが)

そして、「認識」とは、睡眠中に「認識」が起きていない時は、「私」という意識も「世界」も消えていることから、「認識」と「存在」とは、切っても切れない関係にあることは明らかで、私たちは、往々にして、「私」や「この世」があるので、それらを「認識」していると考えていますが、シャンカラは、それは「認識主体」(=真我(アートマン))が実在しているからこそ、その力により、私たちに「認識」が起き、その「認識」が脳に生じているがために、脳に、「私」や「この世」の存在に対する認識が起き、それ故、それらは存在することができるのだ、と述べています。

 

つまり、考える順番が、真逆なのです。

本当の「主体」は、「真我」(アートマン)である「魂」であり、個我の「わたし」は、自分は主体だと思っているけれども、本当は、真我の力によって存在しているに過ぎない存在であるに過ぎなく、そのために、アドヴァイタ(不二一元)では、真我(アートマン)を実在とし、個我の「わたし」は、非実在とか、幻としています。

 

”主体だと思っている”のは、完全なる個我の思い込みであり、その”思い込み”は、個我の脳に湧いている完全な「錯覚」です。

 

真の自己が目覚めると、この「錯覚」は、消滅します。

これが「真我実現」で起こることです。

「真我実現」とは、本当に実在しているのは何であるのか?が、明らかになることです。

 

このことから言えることは、「認識主体」である「真我」(アートマン)なくしては、私たち人間は、「私」という自分も「この世」という世界も認識できないために、存在することができません。

それ故、両者は、「認識主体」である「真我」(アートマン)に、依存しているということになり、自ら存在している「実在」ではなく、真の「実在」は、「真我」(アートマン)だけであり、私たち一人一人は、真の自己である「真我」(アートマン)に依存している実在ではない、非実在、幻のような存在である、ということになります。

 

そして、この「認識主体」である「真我」(アートマン)は、「魂」として、生物のハートに宿っています。(ハートは、必ずしも、「心臓」を意味してはいません)

 

今回からのテーマは、この「魂」の現れである「命」についてです。

 

今回も前回同様、前半に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、「秘められたるインド」より、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介いたします。

 

 

Life (命)

 

命は、表現となった神である。

命は、喜びである。

命は、霊の歓びのみなぎりである。

命は、意識の流れである。

命は、あらゆる原子において振動している。

すべての中に、命がある。

命のない物質のようなものはない。

命は、一かけらの石にも含まれている。

物質は、命で振動している。

これは、現代科学者達によって、最終的に証明された。

命は、風景が絶え間なく変化する無限の時間の大海における航海である。

命は、不純から純粋へ、憎しみから宇宙的愛へ、死から不死へ、不完全から完全へ、奴隷から自由へ、多様性から単一へ、無知から永遠の智慧へ、苦しみから永遠の至福へ、弱さから無限の強さへの航海である。

命は、神自身へと進化するために、神の子達のために、創造神によって提供された多いなる機会である。

命は、奉仕と献身である。

命は、愛である。

命は、関係である。

生命は、散文詩ではなく、韻文詩である。

命は、科学ではなく、芸術であり、想像である。

命は、礼拝である。

われわれは、過ぎ行く巡礼者として、ここに居る。

われわれの目的地は、神である。

われわれの探究は、失われた遺産ではなく、忘れられた先祖伝来の遺産である。

命における大いなる中心の目的は、神との一体であるという意識の実現に至ることである。

命は、分離した生命としては、何の意味も無い。

命が全部、或いは、全体になる時、個の魂が至高の魂に結合する時にのみ、命は意味を持つ。

 

 

The Goal of Life (命の目的)

 

命の真の目的は、われわれがやって来た源へと還ることである。

川は、水の供給を得る究極の源である大海に合流するまで、休みなく流れる。

火が、それ自身の起源に溶け込むまで、飛び跳ね、激しく燃えるように、また、われわれも、神の恩恵を得て、神と一つになるまで、ここで休まることはないだろう。

命の単独の目的は、真我実現、絶対的な自由の獲得である。

人間の命の目的は、彼の内に永遠に存在する神性を明らかにし、証明することである。

命の目的は、特色のある個性のすべての意義を失い、神に分解されることである。

無限の命の達成は、限定的な命の至高の目的である。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

 

ラマナ・マハーリシ

「自分自身に向かって、『私は誰か?』という問いかけをしなければなりません。

この探究は最後には、あなたの内部、心の背後にあるものを見い出すでしょう。

この偉大な問いを解決しなさい。

そうすればほかのすべての問題が解決します」

マハーリシは重ねて言う――

「こう言ったらもっとはっきりするだろうか。

すべての人間は常に悲しみに汚されることのない幸福を欲しています。

つまり終わりのない幸福をつかみたいと思っているのです。

この本能はほんものです。

ところであなたは、人びとは個別の自分を最も愛している、という事実に気づいたことがありますか?」

「というと?」

「すなわち人びとは、あらゆる手段を使って熱心に幸福を得たいと求めている、という事実です。

たとえば酒によって、あるいは宗教によって、これが人間の真の性質を知る手掛かりとなるのです」

「よく分かりませんが--」

彼の声の調子が高くなる。

「人の真の性質は幸福です。

幸福は、真の自己の生得のものです。

彼の幸福の探求は、彼の真の自己の無意識の探究なのです。

真の自己は不滅です。

それゆえ、人がそれを発見するときは、終わりのない幸福を発見するのです」

「しかし世界は実に不幸ですが」

「そう、しかしそれは、世界が自分の真の自己を知らないからです。

すべての人が例外なしに意識的または無意識的にそれを探しているのです」

「よこしまで獣のような人びとや、犯罪者でも、ですか?」

「彼でさえ、犯す罪のひとつひとつに自己の幸福を見いだそうとして罪を犯すのです。

この努力は人間の本能的なものですが、彼らは、実は自分たちは真の自己を探し求めている、ということを知らないものだから、最初は幸福への手段として邪悪な方法を試みるのです。

もちろんそれらは間違った道です。

人の行為は反射されてみずからに戻ってくるのですから」

「ではわれわれは、本当の自己を知ったときに、永続する幸福を感じるのですか?」

相手はうなずく。

斜めに太陽光線が、ガラスのはまっていない窓をとおしてマハーリシの顔にあたる。

しわのよっていないひたいには、澄んだ静けさがあり、しっかりした口もとには満足があり、その輝く目には聖所のような平安がある。

彼のしわのない容貌は、その啓示的な言葉が偽りでないことを示している。

これらの一見簡単な言葉で、マハーリシは何を言おうとしているだろう。

通訳者は確かにその外側的意味は、英語で私に伝えた。

しかし、そこには彼が伝えることのできない、もっと深い意味がある。

私はそれを自分で発見しなければならない、ということを知っている。

賢者は彼のハートの奥から語りかけているのだ、と私には感じられる。

それは、哲学者やパンディット(サンスクリット学者)として自分の学説を説明しようとしているのではない。

これらの言葉は彼自身が経験した幸福のしるしなのだろうか。

「あなたがおっしゃる自己とは、正確には何なのでしょうか?

仰せのとおりだとすると、人の内部にもうひとつの自分があることになりますか?」

彼の口もとは一瞬微笑にゆるむ。

「人が二つの自分をもつことなどできますか」と、彼は答える。

「この問題を理解するにはまず、その人を分析する必要があります。

長い間、他者の考える通りに考えるのが習慣であったために、いまだかつて彼は、正しい態度で彼の『私』に直面したことがないのです。

彼は、自分というものの正しい概念を持っていません。

あまりに長い間、自分を肉体であり頭脳であると思ってきましたから。

だからこの、『私は誰か?』という探求をする必要があるのです」

彼はこれらの言葉を私の内部にしみ込ませるために間をおく。

私は一心に次の言葉を待つ。

「あなたは、この真の自己を説明してくれとおっしゃるが、それは何と言ったらよいか。

それは、『それ』から人の『私』が生じ、それの中に消えていく、それなのです」

「消える?」答えが反響する。

「どうして人が、自分という感覚を失うことができるのですか?」

「あらゆる思いの最初の最初、すべての人の心に浮かぶ原初の思い、それが『私』という思いです。

この思いが生まれたあと、ほかのあらゆる思いが生じます。

第一人称代名詞『私』が心に生じたあとに、第二人称代名詞『あなた』は現れるのです。

もし『私』という糸を心でたどり、ついにその源に至るなら、それが最初の思いであると同時に最後に消える思いであると、発見するでしょう。

これは経験できる問題です」

「そのような自己の内部への心理的探求はわれわれに充分できる、とおっしゃるのですね?」

「そうですとも!最後の思いである『私』が徐々に消えていくまで、内に入ることができるのです」

「何が残るのですか?」と私はたずねる。

「人はそのときまったく無意識になるのですか?

それとも馬鹿になるのでしょうか?」

「そうではない!まったく逆です。

人の真の性質、真の自己に目覚めると、彼は永遠の意識となり、本当の意味の賢者となるのです」

「しかし、『私』という感覚も、間違いなくそれについてくるのではないですか?」

「『私』という感覚は人格、肉体、頭脳に付属しています」とマハーリシは静かに答える。

「人がはじめて真の自己を知るとき、なにか別のものが彼の存在の奥底から生じ、彼を占領します。

そのあるものとは、心の背後の無限、神聖、永遠です。

ある人びとは天の王国と呼び、ある人びとは魂と呼び、ある人びとはニルヴァーナと呼び、われわれヒンドゥは解脱と呼びますが、あなた方は自分たちの好きな名で呼んだらよいでしょう。

これが起こるとき、みずからを失うことは全くなく、むしろ彼は自己を発見するのです」

「人が真の自己のこの探究をはじめない限り、また、それをはじめるまでは、生涯を通じて疑惑と確信の欠如がついてまわるでしょう。

偉大な王や政治家は他者を支配しようと努めますが、同時に心の奥底では、自分が自分を支配し得ないことをよく知っています。

しかし、自分のもっとも深いところを洞察できた人は、最大の力を駆使できるのです。

生涯をさまざまな知識の収集に費やす知性の巨人に、人間の神秘を解明できたかどうか、彼ら自身を征服し得たかどうか、聞いてごらんなさい。

彼らは恥じて頭をたれるでしょう。

自分は何者か、ということをまだ知らないで、あらゆることを知ったとして何になりますか。

人々は真の自己へのこの探究を避けますが、ほかの何がこれほどの価値をもつでしょうか」

「真理の実現は、インド人にとってもヨーロッパ人にとっても同じです。

それにいたる道は、世俗の生活に巻き込まれている人びとにとってはより難しいだろうことは認めますが、それは成し遂げられるものであり、成し遂げなければならないものなのです。

瞑想でもたらされた流れは、実践によって習慣にすることができます。

すると仕事や活動をまさにその状態のまま、おこなうことができるようになります。

それは中断されることはありません。

瞑想と外面的活動との間にちがいはなくなるのです。

もしあなたが、私は誰か、を瞑想するなら――もし肉体も頭脳も欲望も本当の自分ではないということを認識しはじめるなら、その探究自身が、ついには存在の奥底から答えをもたらすでしょう。

それはおのずと深い悟りとしてあなたにおとずれるでしょう。」

「真の自己を知りなさい。

そうすれば真理が、あなたのハートで太陽のように輝くでしょう。

心は悩みなく、真の幸福にあふれます。

幸福と真の自己とはひとつのものですから、ひとたびこの自己に気づけば、けっして疑いを持つことはありません」

(秘められたるインド by ポール・ブラントン)

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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