永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(35)「創造」④

ここ数回にわたり、創造と世界の実在性について、アドヴァイタ(非二元)の世界観をご紹介しています。

 

アドヴァイタ(非二元)の世界観は、自己意識との密接な関係性を抜きに、理解することはできません。

両者は、切っても切れない関係にあるからです。

前回の記事の中では、私たち人間が、外界を認識する際の情報処理プロセス、身体にある5つの感覚知覚器官で得た情報が、どのような仕組みで脳に伝達され、そして、脳で再構築され、再現されるのかについて、詳しく見てみました。

直接体験しているように見えても、実は、それは間接体験であることは、身体の仕組みから言えば、やむを得ないことですが、それが、「ロープを蛇に見間違える」という「錯覚」の原因になっているということは、なかなか実感を伴って、納得することはできないことでしょう。

 

私たちは、寝ている間に、夢を見ますが、感覚知覚器官は対象物から情報を得ている訳ではないのに、脳の中では、夢の世界が展開します。

それは、仕組みとしては、過去に蓄積された情報が元になり、脳の中で、夢の世界が構築され、見える形で、夢の世界が現われるからと言えます。(しかし、この場合も、目と言う感覚知覚器官が使われている訳ではなく、夢を見ているのは、目ではなく、脳ということになります)

夢は、脳が見ている映画のような世界と言えます。

このように、私たちは、リアルな感覚知覚情報がなくても、脳の中に、世界を構築できるわけです。

この時の脳の中に現われた世界は、私たちが目覚めている状態で、夢想、空想、想像によって脳に描くビジョン(映像)に、よく似ています。

しかし、夢の世界、空想、想像の世界は、感覚知覚器官を通して得られた情報を元にして再現された世界ではないことを、私たちは知っているので、その世界に実在性を感じて、現実だと思うことはありません。

それらは、純粋に、心だけが体験する世界であり、物質次元ではない架空の世界だという認識があります。

一般的常識的な感覚から、私たちは、無意識に、肉体が体験する物質世界を現実、そうでない心だけが体験する世界を非現実だと識別しているので、この識別知が正常に働いている間は、夢の世界と現実の世界を混同することは起こりませんが、何らかの原因があって、脳がせん妄状態にある時には、この識別知が働かないために、夢と現実の境が消えてしまい、認識に混乱が生じてしまい、非現実と現実が混同された世界を体験することになります。

 

私たちは、通常は、この肉体が体験する世界を現実=実在だと、無意識に認識しており、このことを疑うことはありません。

そして、映像だけの世界、例えば、TVなどに映される映像も、ドラマなら、フィクション(創作)であり、ドキュメンタリーなら、ノン・フィクション(実写)であるという認識で、TVの画像を観ている訳です。

しかし、ノン・フィクションの映像であっても、その映像を見ない人にとっては、無いも同じです。

そして、たとえ、その影像を見た人であっても、それは映像を通して心だけが体験する世界なので、夢と同じくらいのリアリティをもった体験に留まり、自分が体験した世界ほどには、実在感は湧かないことでしょう。

 

また、薬物などの作用で、リアル感に満ちた幻覚の世界を体験することがあります。

それは、薬によって脳神経が興奮状態になり、幻覚が生じることで、その幻覚の世界をリアルに感じる訳ですが、脳の興奮が収まれば、幻覚は消えます。

このように、薬物の作用ではなくても、時に、心(脳)だけが、体験する世界があり、しかもその世界は、空想や想像の世界よりも、リアルに感じるために、それをアストラル界と呼ぶことがあります。

アストラル界は、心(脳)だけが体験する世界ですが、アストラル界では、物質次元よりも自由が利くため、心は、より自由を感じ、肉体次元では不可能であるような宇宙旅行や世界旅行、今は亡き先祖や高次の存在とされているような聖者や神々、天使や妖精など、非現実な存在に出会ったり、というように非現実な世界を構築して、その世界を体験することがあります。

アストラル界における体験は、メンタルな世界での体験ですが、夢と同じような睡眠中の非現実の世界という訳ではなく、脳が体験する世界であるために、覚醒時におけるある種のリアルな感覚が伴っているため、全くの想像、空想の世界という訳でもありません。

そうは言っても、アストラル界は、肉体が体験している物質次元とは違い、身体にある感覚知覚器官を通して体験する世界ではないために、脳内で生じている感覚を伴った一種の幻想の世界であり、宇宙の実相の直接体験とは言えません。

しかし、物質次元における体験も、アストラル次元における体験も、その体験の情報がどのようなルートでやって来たか?は、わからなくても、それは脳にとっては大きな問題ではなく、どちらも脳内で再現された世界であり、リアルな感覚を伴うものなのです。

 

そして、ここで注目したいのは、対象物が物質的なモノであろうと、夢の世界の産物であろうと、それらから得られる反応としての感情は、ほとんど違いがないということです。

恐い夢を見て、汗をビッショリ掻いて、目覚め、「あー、怖かった!」と思うこともありますし、夢の中で悲しくて泣いたら、枕が本当に涙で濡れていたということもあることでしょう。

 

このように、体験しているのは(体験として認識しているのは)、心なのです。

同じ風景を見ていても、ある人は、山を見、ある人は、麓の家を見、ある人は、空に飛ぶ鳥を見、それぞれに関心がある、興味があるものを見ており、それが、その人の世界であり、人が体験する世界は、同じようで、全く同じではない、ということが言えます。

山だけを見ている人には、家も空を飛ぶ鳥も存在していません。

つまり、意識するモノだけが、その人の世界、体験する世界であると言えます。

 

このように、心に起きた反応を体験と呼んでいる訳ですが、反応は、いろいろな条件に左右され、現実と非現実の境は曖昧なことも多く、脳の認知機能によっては、現実と非現実は混同されることもあり、また、一分前に起きた現実は、今は、もう記憶の中以外には、どこにも無い(ビデオなどの映像の中には残っていても)一種の夢とも見間違えるほどのリアリティしか感じられないこともあり、何をもって「実在」(現実ではなく)と言うかというところに、非二元の世界観を理解する上での重要なポイントがあります。

 

次回、更に、世界の実在性と意識との関係を見て行きましょう。

 

今回も前回同様、前半に、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介いたします。

 

 

Why Has God Created This World?(何故、神はこの世界を創ったのか?)

 

「何故、神はこの世界を創ったのか?」という問いに対する答えは、とても不十分なものである。

彼自身の賞賛のために?

私たちは、あまりに多くの曖昧さを彼に帰することはできない。

人類への愛によって?

彼は、それが存在する以前に、一つのモノを如何にして愛するのだろうか、惨めで永続する苦しみのために何万ものモノを創造することが、如何にして、愛と呼べるのだろうか?

世界の創造は、倫理的必然性である。

それは、魂に歓びの果実を与え、彼らが神の実現に達成するのを助けるためにある。

神の創造に対する神の望みは、彼の創造を彼自身の覚醒をもたらすために必要とされるすべてを供給することである。

「何故、神は世界を創造したのか?」という問いは、形而上の問いである。

限定された心は、適当な答えを与えることはできない。

理由は、世俗的な問いにのみ、答えを与えることができる。

問い自体が、誤っているのである。

無知やマーヤ(幻妄の力)やサムサーラ(輪廻転生)に対する原因とは、何であろうか?

これは、形而上のものである。

原因を探究する中で、あなたは、あなたの原因作用の内なる精神的な器官がもはや利用できず、そのために作られていない領域の中に突入するために、それを乱用する。

あなたは、無知、苦しみ、惨めな状態でここにいる。

あなたは、それらから離れた方法を知っている。

それらに対する原因の問いは、無意味である。

粗大であり、時間と空間と因果律に条件づけられた限定された心は、超越的な問いである宇宙の何故?と如何に?を理解することができない。

問いは、誰にも、聖典によっても、聖者や教師によっても、答えられたことはない。

この点に、あなたの心を留めてはならない。

あなたは、この問題に対する解答を得ることは、けっしてできない。

この宇宙を創造することは、ブラフマンの遊戯の輝き(Lila-vilasa)なのである。

それは、彼のマーヤ(幻妄の力)である。

それは、彼の性質なのである。

あなたは、単にあなたのエネルギーと時間を、「何故、神はこの世界を創造したのか?世界は、実在なのか?非実在なのか?」という問いに関する熱した討論に突入することで、浪費するだけである。

世界が実在であろうか、そうでないかは、あなたには、構わないことであろう。

あなたは、このような議論の中に入ることによって、何か価値のあるモノを得ることはないであろう。

あなたは、至高の真我に留まるために、心(マインド)と外に向かう感覚を引っ込めることで、あなたのハートの空洞(※)に深く潜って行かなくてはならないであろう。

それ故、これらの無益な討論を諦め、真の自己の探究とその実現に真直ぐに進みなさい。

木の葉っぱの枚数を数える代わりに、果実を直接食べようとしなさい。

実現によって真の自己の永遠の至福を楽しもうとしなさい。

これは、智慧である。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda )

 

(※)『この見難き秘奥に匿(かく)れ、玄洞(心臓)に棲み、深遠に潜む久遠の神(真我)」』(カタ・ウパニシャッド

 

 

『質問者

「まだまだ完全に理解できたとは言えません。

私たちがさまざまな方法で見、感じ、触れているこの世界は何か夢のようなもの、幻想なのでしょうか?」

 

マハルシ

「もしあなたが真理を、ただ真理のみを求めるならば、世界を非実在として受け入れる以外に方法はない」

 

質問者

「なぜでしょうか?」

 

マハルシ

「その理由は明らかだ。

世界が実在だという考えをあなたが捨て去らないかぎり、あなたの心はいつも世界を追い求めるからである。

存在するものは実在だけであるにもかかわらず、現れを実在と見なせば、実在そのものを知ることはけっしてできないだろう。

このことが「ロープのなかの蛇」という類似性によって説明されている。

あなたは騙されて一本のロープを蛇だと信じこむかもしれない。

そこに蛇を見ているかぎり、ロープを見ることはない。

あなたにとっては実在しない蛇が実在し、本物のロープがまったく実在していないように見えるのである。」

 

質問者

「究極的には世界が非実在だということを試みに受け入れることはできるのでしょうが、それが本当に非実在だと確信するのは難しいことです。」

 

マハルシ

「あなたが夢を見ている間は、その夢でさえも実在なのだ。

夢がつづいているかぎり、あなたが見たり感じたりするものはすべて実在である。」

 

質問者

「では、世界は夢と同じだということでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたが夢を見ている間に、実在としての感覚のなかで何かおかしいと感じることはないだろうか?

あなたが何かまったく不可能な夢、例えば、死んだはずの人と会話をするような夢を見たとしよう。

一瞬あなたは夢のなかでその夢を疑って自分自身に言うだろう。

「彼は死んだのではなかったか?」

けれどもあなたの心は、何とかしてその夢のできごとと和解して、夢の目的に合わせてその人が生きていてもよいとする。

つまり夢は夢として、あなたがその実在を疑うことを許さないのである。

夢でさえそうであるから、ましてあなたが目覚めの間に体験している世界の実在性を疑うことはできない。

心自体が創り出した世界を、どうして心が非実在として受け入れることができよう。

これが夢見の世界と目覚めの世界を比較した理由である。

どちらも心の産物なのである。

心がどちからかに没頭しているかぎり、どちらの実在性も疑うことができない。

夢を見ている間は夢見の世界の実在性を疑えず、目覚めているときは目覚めの世界の実在性を疑うことができない。

反対に、もしあなたが心を完全に世界から引っ込めて内側に向かい、そこにとどまるならば、つまりもしあなたがつねにすべての体験の根底である真我に目覚めつづけるなら、あなたが今気づいている世界は、あなたが夢見のなかで生きていた世界と同じように非実在であることがわかるだろう。」

 

質問者

「私たちはさまざまな方法で世界を見たり感じたりしています。

これらの感覚は、見られ感じられる対象物の反作用であって、人によって異なるばかりか同じ人にとってさえ異なるため、心が創造した夢の世界とは違ったものです。

このことは、じゅうぶん世界の実在性を実証しているのではありませんか?」

 

マハルシ

「世界と夢との矛盾に関する話は、あなたが目覚めている今だけ現れる。

あなたが夢を見ている間、夢はひとつの完全に統合された統一体としてあった。

つまり、夢の中で喉が渇いたとき、幻の水を幻に飲んでも、幻の喉の渇きは癒されたのである。

だが夢自体が幻想だと知らないかぎり、このことはあなたにとって真実であり、幻想ではない。

目覚めの世界についても同じことが言える。

あなたの今の感覚が、世界は実在であるという印象をあなたに与えるように調整をしているのである。

その反対に、もし世界がそれ自体で独立した実在ならば、眠っているとき、なぜ世界は現れないのだろうか?

眠りのなかであなたが存在していかなったと言うことはできない。」

 

質問者

「私は、私が眠っている間の世界の存在を否定などしていません。

それはずっと在りつづけています。

私が眠っている間に見なかったとしても、他の眠っていない人たちが世界を見たでしょう。」

 

マハルシ

「眠っている間もあなたが存在していたというために、それを証明してくれる他者の証言が必要だろうか?

なぜあなたは今その証言を求めるのかね?

あなたが眠っている間に、他者が世界を見たと告げることができるのも、あなた自身が目覚めているときだけである。

あなた自身の存在に関しては別である。

目を覚ましたとき、あなたはよく眠ったと言う。

そう言えるということは、最も深い眠りのなかで、あなたはあなた自身に気づいていたのだ。

ところが世界の存在についてはまったく気づいていなかった。

目覚めている今でさえ、「私は実在だ」と言っているのは世界だろうか、それともあなただろうか?」

 

質問者

「もちろんそれを言うのは私ですが、私は世界について言っているのです。」

 

マハルシ

「なるほど、あなたは世界が実在だと言う。

だとすれば、自分自身の実在性いついてさえ無知なあなたが、世界の実在性を証明しようとしていることを、世界は無私しているのである。

いずれにせよ、あなたは世界が実在であると主張したがっている。

その実在性の基準とは何だろうか?

何にも依存せずそれ自体で存在し、それ自身によってそれ自身を現わすもの、そして永遠で不変なるもの、それが実在である。

世界はそれ自身で存在するだろうか?

世界が心の助けなしに見られたことはかつてあっただろうか?

眠りのなかでは心も世界も存在しない。

目が覚めれば心があり、世界が存在する。

この不変の付属関係は何を意味するのだろうか?

あなたは科学研究の基礎そのものと見なされている帰納法の原理をよく知っているだろう。

世界の実在性についてのこの問いを、なぜこの一般的な論理の光のなかで解決しないのか?

あなたはあなた自身について「私は在る」と言う。

つまり、あなたの存在は単なる存在ではない。

それはあなたが意識している存在である。

実に、それは意識と同一の存在なのである。」

 

質問者

「世界はそれ自身を意識していないかもしれませんが、それでも存在しているのです。」

 

マハルシ

「意識とはつねに真の自己意識である。

もしあなたが何かを意識しているなら、それは本質的にあなた自身を意識しているのである。

自己のない意識の存在とは、言葉の矛盾である。

それはまったく存在などではない。

それは単に属性的な存在であり、真の存在、サットは属性ではなく本質そのものである。

それはヴァストゥ(実在)である。

それゆえ、実在はサット-チット、つまり存在-意識として知られており、単に他方を除いたものなどではけっしてない。

世界はそれ自身では存在せず、またそれ自身の存在を意識してもいない。

どうしてそのような世界を実在と言えよう?

さらに、世界の本性とは何だろうか?

それは尽きることのない変化であり、絶え間なく、果てしない流転である。

依存し、非-自己意識であり、永遠に変化しつづける世界は、実在ではありえない。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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