永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(34)「創造」③

前々回から、「世界の実在性と創造の理論」について、ヨーガの世界観をご紹介しています。

通常、このことを理解することは、かなり難しいので、少し、噛み砕いた説明を試みてみようと思います。

 

改めて、私たちは、どのようにして、世界を体験(認識)しているでしょうか?

 

身体にある感覚知覚器官で得られた感覚情報は、神経線維上は、速い電気現象(活動電位の伝導、または興奮の伝導ともいう)によって、ニューロンニューロンの間隙(シナプス間隙カンゲキ)、およびニューロンと効果器(神経筋接合部)のシナプス間隙は、化学物質(特有の神経伝達物質)によって行われ、末梢から中枢(脳)へとすばやく伝達されます。

 また、身体や内臓の筋肉を動かす時は、同じように、中枢から末梢へと指令が伝達されます。

こうして、人間の体験は、全身からの感覚情報を中枢である脳に伝える神経である求心性神経(感覚神経)、中枢(脳)からの指令を身体の各部位に伝える神経である遠心性神経(運動神経)によって、支えられています。

 

つまり、世界の認識は、一端、求心性神経を通る際には、プラス、マイナスの電気信号に変換され、脳に達した情報は、また、適当な処理を施され、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るという感覚に再現されるという一連のプロセスが瞬時に起こることで、体験している世界が、脳内で自動的に(無意識に)再構築されているのです。

こうして、直接体験しているように思われる世界も、実は、脳内で再構築された世界と言えます。

それ故、肉体の有限な感覚知覚器官を通して体験された世界は、限定された宇宙であると言わざるを得ません。

 

例えば、通常の人間は、3色型色覚(赤、緑、青)ですが、非常に稀に、4色型色覚の人もいます。

鳥は、4色型色覚を持つと考えられており、多くの哺乳類は、2色型色覚を持っています。

このように、視神経がどの波長の光に反応するかによって、体験する世界は違って来ることもある訳です。

同じ世界を体験していても、感覚知覚器官が異なるために、世界に対する認識は異なるため、結果として、違う世界を体験している、と言えます。

そしてまた、この電気信号が、何らかの理由で、神経回路間でスムーズに伝達されなかったり、脳において、情報処理が上手く働かなかったりすることも起こり得ます。

それは、人それぞれであり、私たちは、自分が体験している世界が、他人が体験している世界と全く同じであるか?は、断定することはできないのです。

 

視覚に関して言えば、電磁波の波長が、下界は約360-400mn、上界は760-830nmで、可視光線より波長が長くても(赤外線)、短くても(紫外線)、見ることはできません。(太陽光と呼ばれる電磁波の多くは、可視光線です)

しかし、中には、紫外線が見える人がいたり、視力によって、又は、視神経の状態によって、歪んで見えたり、欠けて見えたり、体験する世界は、異なることもあるのです。

 

しかし、このような身体に起きている情報伝達の仕組みから、一つだけ言えることがあります。

 

それは、各自が体験している世界は、脳(心)の中にあると言うことです。

 

この脳(心)について、深く理解することで、自分という存在と自分が体験する世界との相関性が、これまでとは違った形で、見えてくることでしょう。

 

少なくとも、私たちは、世界を直接体験しているようで、実は、それは間接体験だということに留意するならば、限定された感覚知覚器官によって認識された世界は、やはり限定された世界であり、日常生活を送るには、それで充分ですが、宇宙の実相を知るには、それだけでは充分ではないことは、明白です。

 

私たちの感覚知覚器官が、限定的であるために、体験も限定的であり、且つ、間接体験であるがために、ロープが蛇に見えてしまう、ということが起きてしまっています。

それが、マーヤ(幻妄の力による錯覚)の原因とも言えるのですが、肉体を通して、この世を体験している私たちには、この「錯覚」が常に起こり続けているために、この「錯覚」を「錯覚」だと見抜くことができません。

それ故、宇宙の本当の姿である実相を知るには、この「錯覚」を取り除く必要があります。

ロープをロープとして見るためには、「錯覚」は邪魔なのです。

この私たちに生じている「錯覚」を取り除くためには、「錯覚」が生じる源である五感(五つの感覚知覚器官)の働きを全て取り除く必要があることになります。

 

このために、ヨーガでは、深い瞑想が推奨されているのです。

(深い瞑想中は、睡眠中と同じく、五感は働いていません)

 

五感を通してではなく(「錯覚」を通してではなく)、世界を直接体験した時、それはどのような世界なのでしょうか?

これを識ることは、宇宙の実相を識ることであり、これは、ヨーガでは、”ブラフマンの智識(Brahman-Jnana)”と呼ばれている、究極の真理です。

 

このブラフマンの智識(Brahman-Jnana)について、前回同様、前半は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋と、後半は、ラマナ・マハルシの遺された御言葉をご紹介いたします。

 

 

World Is Mental Creation(世界は、心の創造である)

 

私たちの前に、この創造をもたらすのは、覚醒状態だけである。

この宇宙は、宇宙の原因であるブラフマンから自己展開された心の形態であるに過ぎない。

プラーナの振動である動きは、心を動かす。

心の動きは、宇宙を生み出す。

心は、外側の世界として、現れる。

名前と形は、マーヤ(幻妄の力)の力の一つである心の動揺の力(Vikshepa Sakti)に従って発生する。

動揺(Vikshepa)の力は、覚醒の状態(Jagrat)と夢見(Svapna)の状態で働き、全世界は、この力のために投影される。

眠りでは、それは消滅する。

深い眠りの状態では、あなたは世界の経験は持っていない、何故なら、心がないからである。

これは、明らかに、心があると、その時だけ世界はあり、心だけがこの世界を創造していることを示している。

世界は、心の創造である。

眠りにおいては、世界はない。

サマディにおいては、世界はない。

聖者にとっても、世界はない。

それは、天啓聖典が、この世界は、心のために現われている世界

(Manomatra jagat,Manah-kalpitajagat)であると宣言している理由である。

この動揺し続けるマナス(意思)は、言葉では言い表せないブラフマンから存在の中へとやって来て、この世を自身の意志力(Samkalpa)、想いで創造している。

宇宙のこの虚偽は、マナス(意思)のサンカルパ(意志力)から生まれる。

宇宙が在るように思われるのは、あなたのマナス(意思)のサンカルパ(意志力)を通してであり、そして、もしあなたが宇宙を超越した唯一の実在の高みに舞い上がりたいと望むならば、あなたが捨てることを求められるのは、このサンカルパ(意志力)である。

部分的な意志力(Sankalpa)の成長と共に、宇宙は発生する。

前者の消滅と共に、後者もまた消える。

意志力(Sankalpa)の全滅で、見る者と見られる者との間の相違のすべての概念は消滅し、その時、ブラフマンという実在が、途切れることなく、輝き始めるだろう。

その時、全宇宙の影は、動きがあろうと、なかろうと、非二元状態で、その中に沈み込むのがわかるだろう。

心は、考えることを止め、世界は消滅し、言語に絶する至福がある。

心が考え始めると、直ちに、世界は現れ、そしてそこには、哀しみがある。

“わたし”の黙想で、宇宙の想念のすべてのつながりは始まる。

さもなければ、全宇宙は、太陽の前の闇と同じ位たちどころに消滅するであろう。

心と“わたし”は、一つである。

この“わたし”を破壊しなさい。

その時、心は破壊される。

もし、知性や知覚、活動の道具である心が、消滅するならば、それと共に、この付属的な世界も消滅する。

 

 

The Cosmic Drama(宇宙的ドラマ)

 

この現象的な宇宙は、神聖なる神の意志からの産物であるだけで、心の働きを通して実在しているように見えるだけである。

あなたが、ドラマを書く前に、あなたは、ドラマ全体の生き生きとした精神的な画を心の中に持つ。

その時、あなたは、四幕で連続してそれを書く。

それが上演されると、一部分毎に、連続して演じられる。

同様に、宇宙とその動きは、宇宙の心(マインド)、イーシュワラ(創造神)の心の中では、活き活きとした精神的な画像である。

彼においては、”過去“も”未来“もない。

すべては、彼にとっては“今”である。

彼にとっては、“近い”も“遠い”もない。

すべての場所は、“ここ”である。

すべての時間は“いま”である。

出来事は、長い世界のドラマの舞台上では、時間の経過につれ、連続して出現する。

原子は、継続的に回転する。

古いものは、新しくなり、新しいものは古くなる。

現実において、古いものはないのだ。

新しいというものもないのだ。

個別の心を持った個我は、出来事を連続して目撃している。

しかし、創造神(イーシュワラ)は、すべての出来事を一挙に知る。

彼は、すべてを知っている。

彼は、全知である。

彼は、彼の創造物のすべての細部も知っている。

この巨大な感覚宇宙は、アートマンの意志(Atma-sankalpa)として輝いている。

宇宙的な心(Cosmic Mind)は、マーヤ(幻妄の力)を創り上げる。

個人の心は、妄想の下で、物事を受け取る。」

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

 

 

『質問者

ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」とはシュリー・シャンカラーチャリヤ(※)の常套句です。

しかし、別の人たちは「世界は実在である」と言います。

どちらが真実なのでしょうか?」

 

マハルシ

「どちらも真実である。

それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものである。

真理の探究者(アビャーシ)は、「つねに存在するものが実在である」という定義から進みはじめる。

それから彼は世界を非実在として捨て去る。

なぜなら世界は究極的に真我にたどり着く。

その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。

そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ることの一部分だったことが理解されるのである。

実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。

真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。」

 

質問者

「バガヴァーンはマーヤ(幻想)と実在が同じものだと言われます。

どうしてそれが可能なのでしょうか?」

 

マハルシ

シャンカラーチャーリヤは彼のマーヤの見解について、人びとから理解されないまま批判された。

彼はこのように言った。

 (1)ブラフマンは実在である。

 (2)宇宙は非実在である。そして

 (3)宇宙はブラフマンである。

彼は第二番目のところで留まらなかった。

なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。

それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、真我から分離したものとして知覚されれば宇宙は非実在だということを意味している。

したがって、マーヤと実在はひとつであり、同じものなのである。」

 

質問者

「そうだとすれば、世界は、本当は幻想ではないのでしょうか?」

 

マハルシ

「真理の探究者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わねばならないだろう。

他に道はない。

ある人が、自分は実在であり、永遠に、すべてに遍在するブラフマンだということを忘れ、はかない身体であふれた宇宙のなかのひとつの身体を自分自身だと思い込んで、その迷妄(マーヤ)ゆえに苦しんでいるとき、あなたは彼に世界は非実在でしかなく、それは迷妄(マーヤ)なのだと気づかせなければならない。

なぜか?

なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、外側の物理的な世界のなかに浸っているからである。

あなたが外側の物理的な世界は非実在だということを彼の心に焼き付けないかぎり、彼が内側に向かい内観することはないだろう。

ひとたび彼が真我を実現すれば、彼自身の真我以外に存在するものは何もないと知るだろう。

そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。

真我を離れて宇宙は存在しないからである。

人が、すべての源である真我を見ずに、外側の世界だけを実在で不変のものと見ているかぎり、あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝えなければならない。

それはどうすることもできないのだ。

紙を見てみなさい。

われわれは文字だけを見ている。

文字が書かれている紙に気づく人はいない。

文字がそこにあろうとなかろうと、紙はそこに在る。

あなたは文字だけを実在と見なしている人に、それはただ紙の上に載っているだけで非実在、幻想なのだと言わなければならない。」

 

質問者

「それでは、真我として体験されたとき世界は実在であり、個々に分離した名前と形として見られたとき世界は非実在なのでしょうか?」

 

マハルシ

「炎が煙で隠されてしまうように、意識の輝く光は世界という名前と形の集まりで隠されてしまう。

慈悲深き神の恩寵によって心が清らかになったとき、世界の本性は幻想としてではなく、ただ実在として知られるのである。

心がマーヤの邪悪な力から解放され、世界の知識を棄て去って無執着となり、自らが輝く至高の実在の智識に到達した人だけが、「世界は実在である」という言葉の意味を正しく知ることができるのだ。

もし真理の知識の本質に沿って世界が変容すれば、エーテルアーカーシャ)から始まる5つの元素でできた世界は至高の真理の実在として見られるだろう。

多くの名前と形であふれかえり混雑した、この空なる世界の原初の状態は至福であり、多様な色彩のクジャクの卵の黄身が単一であるように、それも単一である。

真我の内に在ることで、この真理を知りなさい。」

(あるがままに ラマナ・マハルシの教え)

 

(※)8世紀に活躍した中世インドの思想家。不二二元論(アドヴァイタ)を提唱した。

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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