永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(24)「神」③

ヨーガ(神との合一)という言葉にあるように、「神との合一」(見神)を果たすには、「神」についての智識(Brahma Jnana)は、ある側面では役立つとは言え、智識(Brahma Jnana)は、ただの観念(言葉)にしか過ぎない、ということも否めません。

神の智識(Brahma Jnana)そのものが、実在する「神」そのものではないため、神の智識(Brahma Jnana)によって、神を見たり、神を体験したり、神を知ることにはなりませんが、それでも、神について知ることは、私たちの内部にある「無知」を軽減することに役立ってくれることは、間違いありませんし、「神」についての明確なビジョンを持つことは、「見神」においては、とても重要です。

(ポポーというフルーツを食べたことがない人に、いくらポポーについて語っても、ポポーを知らない人は、聞いた情報を元に想像することはできても、実際にポポーを知ったことにはならないのと同じ理屈ですが、ポポーについて予め知っていると、ポポーを食べた瞬間に、それがポポーだということがわかることでしょう。)

 

今回の記事の前半では、趣向を変えて、4年前に出版した「聖なる旅ー目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の著者であるスワミ・ラーマの「ヒマラヤ聖者とともに」という本の中で語られた、若き日のスワミ・ラーマ自身が体験した教訓的なエピソードを、ご紹介したいと思います。

 

そして、後半部分は、スワミ・シヴァナンダの「Bliss Divine」からの抜粋の続きをご紹介いたします。

 

二人のスワミたちが、仰っていることは、同じです。

(前回の記事でもご紹介しましたが、シュリ・ラーマ・クリシュナも同じことを仰っていました。『智者はよく知っているよ。神様は”ここ、ここ”--ほんとに近く、胸のうちに、心のすべてを見ていてくれるものとしてあること。』)

 

他の聖者の方々も、同じことを仰ることでしょう。

 

彼らが示唆している場所、方法以外には、私たちが、神を直接体験し、神を見ることは不可能と言えますが、しかし、反対に考えれば、ただ一つだけですが、神へと至る道があり、それが、自分自身の中にあるのですから、その道を辿るのに、誰の許可も必要とせず、誰にも邪魔されず、誰にも咎められず、誰にも遠慮することなく、自分の意志次第で、自由に進んで行くことができる訳です。

 

実際にこの道を行こうとする人は、とても少ないのが現実ですが、本当は、誰にでも開かれた道であり、誰であろうとも、進んで行くのに、特別な資格は必要ないのです。

 

 

神とはどんな存在か?

 

ある日、私は師に言った。

「あなたは私をだましています」

自分が不十分なのにエゴが強いとき、人は他を責めようとするものだ。

師は尋ねた。「どういうことだ?」

私は答えた。「あなたは私がまだ子どもだと思い、私に隠しているものがあります」

「言いなさい。私が何を隠している?」

「あなたは私に神を見せようとしない。おそらくあなたにはそれができず、神について教えることしかできないのです。それがあなたの力の限界だということなら、正直にそう言ってください」

師は言った。「では明日の朝、おまえに神を見せよう」

私は尋ねた。「本当ですか?」

師は言った。「おそらくは。。。おまえにはその準備ができているのだな?」

ふだんは規則的に寝る前に瞑想していたが、その晩はできなかった。

朝には神を見られることが確かなのに、瞑想して何の意味があるだろう。

私は興奮して落ちつかず、一晩中眠れなかった。

翌朝早く、師のもとに行った。

風呂にも入らなかった。「師が神を見せるというのに、風呂などに入っている時間はない」私は頬を軽く叩き、髪をなでつけ、師のところへ行った。

師は言った。「座りなさい」

私は思った。「いよいよ神を見せてもらえる」

私がつつましくあったことはめったにないが、その日の朝はこれまでになく謙虚になった。私は師に何度も頭を下げた。

師は私を見て行った。「どうしたというのだ?そのおかしなふるまいは何だ?何をそう高ぶっている?」

私は言った。「忘れたのですか?私に神を見せると約束したのを」

「よかろう。では、おまえがどんな神を見ようとしているのか言いなさい」

私は尋ねた。「マスター、そんなに種類があるのですか?」

「おまえの神というもの、神の定義は何だ?私はおまえの確信と定義どおりの神を見せよう。

心の内に何ら確かな神というものもなしに、誰もが神を見たいと言う。

求める対象について確かでなくて、何が見つかるというのだ?

目にするすべてが神だと私が言っても、おまえは満足しないだろう。

神はおまえの内にいると言っても、やはりおまえは満足しまい。

私が神を見せ、おまえが『いいえ、それは神ではありません』と言うなら、私に何ができる?

おまえが神だと思うものを言いなさい。私はその神をおまえのためにつくりだそう」

私は言った。「ちょっと待ってください。考えてみます」

「神はおまえの思考の範疇にはない。瞑想の座に戻り、準備ができたら言いなさい。どんな神を見たいか決まったら、いつでも私のところに来なさい。私は嘘をつかない――神を見せる。私の責務、それはおまえに神を見せることだ」

私は神とは何か最善をつくして想像したが、私の想像は人の姿を超えなかった。

植物界について考え、動物界について考え、それから人間のことを考えた。

私は賢く美しい人物、たいへん強くすぐれた力のある人物を想像した。

私は思った。「きっと神はこんなふうに違いない」

そのとき、自分が愚かな要求をしていたのだと悟った。心に明晰さがなくて、いったい何を体験できるだろう。

ついに私は師のもとへ行き言った。「マスター、私たちを苦しみから解放し、幸せを授ける神を見せてください」

師は言った。「それはおまえ自身が培うべき、均衡と平静の境地のことだ」

心に明晰さもなく、ただ神を見たいというのは暗闇を探るに等しい。

人の心には限界というものがあり、そうした制約つきの情報源から見えるものを見ることしかできない。

神とは何か説明できる人も、想像で神を理解できる人もいはしない。

神は真理である、愛の源泉である、絶対者である、森羅万象を具現した唯一者である、そう言うことはできる。

しかしこうした抽象的な概念のいずれも、神を見たいという欲望を満たしはしない。

そこに何を見るべきだろう。

神を何らかの存在であると信じる人は、想像したヴィジョンを見ることもあるだろうが、実際には、神は人の目を介して見ることはできない。

自らの真のセルフ、そして万人万物のセルフを知ることでのみ、真に神を見ることができる。

「神が見たい。師は神を見せようとしない。師は私の欲するものを授けない」という姿勢の生徒は、最後にはそれが師の側の責務の問題ではないと知る。

適切でない要求をしていないか探り、師に求めるかわりに内から自分を変えていくことだ。

神は自らの内におり、自らの内にあるものは自ら理解することができる。

誰も他人に神を見せることはできない。

自らの真のセルフを悟らねばならない。

そうして万物のセルフ、神と呼ばれるものを知る。

生徒は、無知の状態で神を何らかの特定の存在であると思い、外界の何かを目にするのとまったく同じように、その存在を見たいと思う。

それは決して起こらない。

しかし、神は真理であると知り、行いと言葉で真理を実践するとき、神というものにまつわる無知は消失し、自己覚醒の夜が明ける。』

(ヒマラヤの聖者とともに by Swami Rama)

 

 

Where is God?(神は何処にいるのか?)

 

神は、何処にいるのか?

神がいない処は、ない。

ちょうど、一本の糸が、一つの花輪のすべての花を貫いているように、一つの真の自己が、これらすべての生きている存在を貫いている。

彼は、種子の中の脂のように、ミルクの中のバターのように、脳の中の心のように、身体の中のプラーナのように、子宮の中の胎児のように、雲の背後の太陽のように、木の中の火のように、大気中の水蒸気のように、水の中の塩のように、花の中の香りのように、蓄音機のレコードの中の音のように、石英の中の金のように、血の中の白血球のように、すべての存在と形の中に隠れている。

神は、生命や意識として、すべての存在の中に住んでいらっしゃる。

神は、ライオンの唸り声、鳥の囀り、赤ん坊の泣き声の中にいらっしゃる。

何処にでも、彼の存在を感じなさい。

蝶の羽に、アルファやオメガの文字に、患者の咳に、小川のせせらぎに、ベルの音に、神を見なさい。

この世界のすべての物質の中に、神の顔の不思議を見出しなさい。

鼻の中を流れるすべての呼吸、心臓における脈打つすべての鼓動、身体における律動するすべての動脈、心に生じるすべての考えは、あなたに、神は近くにいると語っている。

香りを漂わせるすべての花、あなたを魅了するすべての果物、そよぐすべての優しいそよ風、スムーズに流れるすべての川は、神と神の恵みを語っている。

力強い波の大海原、氷河の巨大なヒマラヤ、広大な空の明るい太陽と星々、枝のある背の高い木、丘や谷の冷たい泉は、あなたに神の無限なる力を語っている。

甘美な歌い手たちの音楽、力強い演説者の講義、名だたる詩人たちの詩歌、有能な科学者たちの発明、指先の器用な外科医の手術、聖なる聖者たちの言葉、バガヴァッド・ギーターの教え、ウパニシャッドの啓示は、神と神の知恵について語っている。

すべては神である。

幸福は神であり、不幸も神である。

すべての中に神を拝し、至福の中で平和に安らぎなさい。

神は、全宇宙に充満している。

彼は、乞食のみなりで歩く。

彼は、病人を装い、痛みでうめく。

彼は、ぼろを着て森を彷徨う。

あなたの目を開け、すべての中に、神を見なさい。

すべてに仕え、すべてを愛しなさい。

あらゆる所に、神聖なる存在を感じなさい-あらゆる形、あらゆる考え、あらゆる感覚、あらゆる所感、あらゆる動き、あらゆる感情の中に。

神は、感覚を通して見ると、物質であり、知性を通して見ると、心であり、霊を通して見ると、真我であるアートマンである。

神は、あなたの中に内在している。

神は、内なる支配者であり、内なる目撃者(Antaryamin)であり、あなたの人生を守り、支配している。

神は、あなたの中におり、あなたは、神の中にいる。

神は、あなたのすぐ近くにいる。

神は、少しも離れておらず、あなたよりもあなたの近くにいる。

あなたは、神がカイラス山や、ラーメーシュワラム(註①)やメッカ、エルサレムや空や天国でのみ見出されると、初めは考えていた。

あなたは、とても曖昧な考えを持っていた。

この身体は、神の動く神殿である。

神聖な場所は、あなた自身のハートの空洞である。

あなたの目を閉じなさい。

感覚の対象物からあなたの感覚器官を引っ込めなさい。

一点に集中した心と献身と純粋な愛で、あなたのハートの中に神を探しなさい。

あなたは、必ず、神を見つけるだろう。

神は、あなたを抱擁するために、腕を広げて、そこで待っている。

もし、あなたが神をそこで見つけることができないならば、他の如何なる場所であっても、あなたは神を見つけることはできない。』

(Bliss Divine by Swami Sivananda)

 

(註①この地は、古代インドの叙事詩ラーマーヤナ』において、ラーマ王子(ヴィシュヌ神の化身とされる)がラーヴァナにさらわれた妻シータ―を助けにランカー島へ渡る際に橋をかけた場所、とされている)

 

 

次回に続きます。

 

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

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