永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

永遠の至福と自己実現(Self-Realization)(19)

前回の記事では、「願望が、人間をこの世(地球)に縛りつけている一番の要因であり、己の中にある「神性」を悟ることを妨げている最も大きな障壁である」という主旨のスワミ・シヴァナンダの御言葉をご紹介しました。

 

何かを得たい、何かを達成したいという「欲求」は、行為の種子と言えます。

種子は、芽吹いて成長し、何らかの結果として結実しようとします。

多かれ少なかれ、人生は、その繰り返しである訳ですが、私たち人間は、往々にして、その繰り返しを無意識で行っているため、ネズミ籠の中で、エサを求めて走って回転車を回し続けるネズミのように、願望達成のために、ヘトヘトになるのも厭わず、これまで気が遠くなるほどの長い時間を、回転車を回し、走り続けることに費やして来ました。

その結果と言えば、やっと手にしたエサも、あっと言う間に食べ尽してしまい、また、新たなエサを求めて、回転車を回して走ることになり、次から次へと目の前のエサを求めて、ほとんど休むことなく、走り続けています。

しかし、この繰り返しにも、やがて、終止符が打たれる時がやって来ます。

 

それまで、情熱を持って取り組んで来たことや、大好きだったモノに、急に興味がなくなったり、熱が冷めてしまったり、見向きもしなくなったり、ということは、日常でも経験することがあります。

その理由は、本人にもハッキリとはわからないことも多々あり、気持ちがすっかり変わってしまったと言うしかないような事態が起こることがあります。

例えば、大好きだった異性の嫌な面、許せない面を知った、とか、欲しいと思っていたモノが、よくよく調べてみると、自分が思っていたようなモノではなかった、とかいうことが、きっかけとなる場合もあるでしょうが、理由は何にせよ、一度気持ちが冷めてしまうと(願望が消えてしまうと)、もう一度、元の情熱を呼び起こすことは(願望を呼び起こそうとすることは)、不可能でしょう。

それは、言葉で言うと、自然と去って行った、としか表現しようがない出来事であり、去って行ってしまったモノは、文字通り、去って行ってしまったのであって、再び戻って来ることはないでしょう。

 

このように、「願望」とは、自分が創り上げた「幸福」のイメージを対象物に投影することで、あたかも、対象物の中に「幸福」が存在しているかのように思い込む「誤謬」から生じた「錯覚」と言うこともできます。

ある人にとっては、願望の対象であっても、他の人にとっては、そうではない、ということが、この「誤謬」と「錯覚」が、完全に個人的なものであることを物語っています。

そのモノが、自分に与えてくれる(だろう)幸せ、それを手にした時に、自分に起こるだろう「幸せ感」を想定して、人は願望を抱きますが、その両者が一致しないことは、誰でも、一度や二度は、経験していることでしょう。

それでも、また、人は、願望を抱き、「幸福感」を求めて、願望実現にエネルギーを注ぎます。

 

多くの場合は、その「幸せ感」を求める気持ち自体に問題がある訳ではなく、その「幸せ感」と物質的なモノとを結びつけて、モノに執着する気持ちに問題があるのです。

それは、物質次元の存在は、すべて有限であり、終わりがあるからです。

つまり、やっと手に入れた「幸せ感」は、永遠のモノではなく、一時的で限定的であったために、自分を永遠に幸せにしてくれるモノではないことに気づくことになり、その時、人は、また新たに自分に「幸せ感」をもたらしてくれる(だろうと感じる)別のモノを求める、という行動を起こします。

この無意識の繰り返しを、人間は、当たり前のように、そして、このことに対して、何の疑問も抱くことなく、行って来た訳です。

 

しかし、そうは言っても、本当に欲しいモノ、やりたいコト、成し遂げたいコトを、完全に諦めることは、そう簡単ではないため、そういう場合は、ひとつの方法として、何が何でも、その願望を達成するまで、自己努力を重ねて、願望を叶えるという手もあります。

ひとたび、願望が達成されれば、その願望に対する執着は、消え去るでしょう。

願望自体は、ある種の「思考」とも言えるものなので、自然消滅することもありますが、或る思考に、その思考を実現化したいという「欲」が付着すると、「願望」になります。

人間は、その願望と化した思考を何としてでも叶えようとするために、願望に振り回されてしまい、スワミ・シヴァナンダも書いていますが、『彼は、外側のモノとの関係を維持しており、願望によって支配され、駆り立てられ、願望やモノの奴隷になってしまう。願望は、人間を支配し、人間は、彼の顔を神から背ける。』という結果に陥ってしまいます。

何かの奴隷になる、というのは、真の自己であるアートマンという本来は自由で、何にも束縛されない独立した存在とは相反するため、その状態が原因となり、人間の中に、葛藤や苦しみ、自己憐憫が生じ、結果として、自分の中に「神性」を見出すことが、できなくなってしまいます。

また、物質次元のあらゆるモノは、私たち人間が体験する世界を豊かにしてはくれますが、願望の種子は、無限にあると言っても過言ではないために、人間が抱く多くの願望を結実させるには、気が遠くなるような時間が必要ですので、今生だけでは済まなくなる可能性もあります。

 

たとえ、無意味な繰り返しに気づいて、意志の力で「願望」を手放そうとしても、「願望」の結実したいという欲求の方が、意志力よりも強い場合があります。

このような意志力によっても消滅しない「願望」の種子を、芽吹く前の段階の種子のままで消滅させる最良の方法は、「願望」そのものの正体を突き止め、その仕組みを知ることです。

「願望」とは、何なのか?

何故、それが欲しいのか?何故、それをしたいのか?願望が叶ったら、自分はどういう気持ちになるのか?そういう気持ちにどうして自分はなりたいのか?等、自分自身に問い、自分なりの答えを探すことで、明らかになることがあるはずです。

これは、一種の「内観」であり、一つの自己探求でもあり、自分を深く理解することにつながって行きます。

そして、自分のことを深いところで理解することは、ひいては、人類全体を深いところで理解することにつながって行きます。

 

何故、聖者の方々は、悉く、「願望」と霊的な探求とは相反すると言っているのでしょうか?(同じようなことは、キリスト教でも仏教でも、同様に言われています)

 

その最も大きな理由は、「執着」です。

 

実は、「願望」自体が問題なのではなく、(何故なら、先ほども書きましたが、「願望」は一種の「思考」と言え、「願望」という「思考」は湧いて来ますが、その「思考」に「執着」しなければ、「思考」は、自然と消えて行き、跡形も無くなります)物質次元に執着することが、霊的な探求においては、乗り越えなくてはならない障壁と言えるからです。

特に、物質次元への執着は、意識が表面的な物質次元に集中し、そこに固定されてしまい、全エネルギーをそこに注ぐために、目には見えない世界へと意識を向けることによって起こる精神的な気づきや、霊的な意識の拡大がストップしてしまうからです。

 

この「願望」を如何に自分の中で処理するか?という難題に取り組むに当たって、今日は、スワミ・シヴァナンダではなく、約三年前に出版しましたスワミ・ラーマの「聖なる旅 -目的をもって生き、恩寵を受けて逝く」の中で、スワミ・ラーマは、このような智慧の言葉を書いて下さっていますので、ご紹介したいと思います。

 

 

 『どこに行こうと、何をしようと、世俗的な願望がある限り、真の平安はありません。

人が完全に世俗に生きて、世俗的な楽しみに囲まれそれを十分に享受するか、または、あらゆる誘惑から離れて荒れ地にいるかは関係ありません。

世俗的なものへの願望がある限りは、満足することはないでしょう。

死は不毛な砂漠の荒れ地ではないと同様に、これらすべての願望からの逃避でもありません。

人は死ぬまで自分の願望につながっており、この願望と共に再び彼らが満たされる世俗的な水準へと自分を引き戻します。

人々が願望に対処でき、願望を操縦する感覚や思考を自己コントロールできるのは、実践的な日常生活においてのみなのです。

人々は願望を超越し、それらの限られた価値を理解するために学ばなくてはなりません。

彼らが願望を超越し、彼らの感覚と思考を制御するときにのみ、彼らは真の喜びを理解し始めることでしょう。

彼らは世俗的な物に対する執着を手放すにしたがって、それらは彼ら自身の肉体をも含みますが、どんな富や物質的な存在が提供できる快適さよりも、計り知れないほど価値のある平和な感覚を経験し始めることでしょう。』

 

『この世のものは楽しまれるようになっています。

それらは永続しないので、それらに執着することは賢明ではありません。

この世のものを楽しみなさい。

それからそれらを行かせなさい。

それらにあなたの人生を通過させなさい。

人生のすべてを抱擁し、人生のすべてを理解しなさい。

しかし智慧をもってそれを成し、叡智に向かって動きなさい。

この世の生は目的ではなく手段なのです。

うまく人生を生きることは技術です。

それは智慧だけでなく勇気をも必要とします。

”この人間の永遠でない現実への束縛は”とシャンカラは言いました。

”武器によて、風によって、火によって、あるいは何万という行動によって破壊されることはない。

叡知の鋭い剣以外のものはこの束縛を切断することはできない。

それは識別力により鍛えられ、神聖なる恩寵を通して心の純粋さにより作られる。”

人生は短く特別です。

対象物と誘惑の鼠籠の中のここで、あなたの時間を浪費してはなりません。

楽しみを追い駆けないことです。

霊的な成長のためにこの世のものを使いなさい。

それが人生を選択するということです。

ゴールはアートマンです。

ウパニシャッドのメッセージは、ただひとつが在るということです。

すべてはひとつです。

この世のものに対して願望を持つことは、ひとつを多くに変えます。

選択とは、神か富が、永遠か一時的か、ひとつか多くか、アートマンかこの世の願望かということです。

ひとつの選択は永遠の生であり、他の選択は死から死を意味します。

それが奥義なのです。』

(聖なる旅 -目的をもって生き、恩寵を受けて逝く- by Swami Rama)

 

 『人は外にあるものを見、内にあるものを見ない。

不死なるものを求める人は稀である。

自分の外にあるものに目を閉ざし、真の自己を見る。

愚か者は肉の欲望に従い、死を取り囲むすべての誘惑に陥る。

しかし、永遠なるものとしての自己を知る賢者は過ぎ去るものを求めない。』

(カタ・ウパニシャッド

 

 

次回に続きます。

 

 

Hari Om Tat Sat!

So ham !

 

 

 

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