永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(11)

これまでの記事で、わたしにとってナーナ先生は、わたしの中で真我を明らかにして下さった真のグル(師)であると書きましたが、今回は、ナーナ先生のお力により明らかになったことを、少し丁寧に言葉で描写してみようと思います。

(それは、真我そのものではありませんが、このブログを読んで下さる方々に、わたしたちの本質である真我をイメージしやすくなるように、言葉で表現してみたいと思います)

 

通常、わたしたちは、「わたしは存在している」と思っていますが、それは覚醒時に、ある種の感覚を感じていて、その感覚を「存在感」だと思っているからです。

その感覚は、寝ている時は、全く感じません。

それは、その感覚を生みだしている脳が働きを休んでいるので、起きている時に感じている「存在感」が消滅しているからです。

つまり、寝ている間に、「わたしは存在している」という感覚は消滅しています。

そして、眠りから目覚めると、また同じ感覚が戻って来て、「わたしは存在している」という感覚が生じます。

わたしたちは、これを毎日繰り返しています。

あまりにこの感覚に慣れ親しんでしまっているため、この「存在感」は、わたしたちの中では、ごくごく当たり前な感覚となってしまっています。

 

わたしがナーナ先生に体験を通して教えて頂いたのは、ある種のエネルギー共鳴による「実在感」とも言えるもので、それは、それまでわたしの体が慣れ親しんでいた「存在感」とは全く異なるものでした。

 

いつも耳元で、エアコンの室外機の50デシベル位の音がしている状態を想像してみて下さい。

通常は、その音がしている状態に耳が慣れ過ぎてしまい、それよりも静かな木の葉のふれ合う音(20デシベル)はかき消されてしまうので、聞こえません。

日頃、わたしたちが自分だと感じているエネルギーも、これと同じで、肉体に生じている感覚(エネルギー)は、粗くて強いので、それよりも微細なエネルギーを感じることができなくなっています。

しかし、この50デシベルの音が消えると、それまで気づかなかった微細な音(20デシベル)が聴こえるようになります。

これと同じことが、エネルギーにも当てはまり、常にその微細エネルギーは、わたしたちと共に在るのですが、あまりにわたしたちは、生まれた時からの肉体感覚に慣れてしまっているため、それより微細なエネルギーに気づくことができなくなっているのです。

その慣れ親しんだ感覚以外の感覚を体験したことが無いだけでなく、わたしたちがエネルギー的に多層構造になっているだなんて、思ってもみないことでもあるため、大抵は、この微細エネルギーの存在に全く気づかずに、一生が終わってしまいます。

(これが、所謂「無知」と呼ばれている状態であり、仏教では、「無明」(反対は悟り)とも言いますが、この「誤った自己認識」は生まれた時すでにデフォルトで設定されてしまっているため、通常、人間はこのことに疑いを持つことはありません)

 

ナーナ先生が、わたしにして下さったことは、シャクティ・プラーナという微細エネルギーで共鳴を起こし、わたしが通常感じていた粗くて強いエネルギーを鎮めて、微細なエネルギーの存在が、わたしの中で明らかになるようにして下さったことです。

 

それは、エネルギー共鳴とも言えるもので、それが起こるのは、同じ一つのエネルギーがわたしたちすべての存在に共通のものであるからなのです。

 それを、ナーナ先生は、「本質」と呼ばれましたが、ウパニシャッドで言うところの、「我ソレなり」の「ソレ」であり、この宇宙に本当に存在するのは、「ソレ」だけなのです。

(ナーナ先生は、このわたしたちすべての存在に共通のエネルギーを「本質」と言われています。ナーナ先生のブログ、「すべては本質の流れのままに」の「本質」とは、アートマン(真我)=ブラフマンのことです)

 

一般にはほとんど知られていませんが、この宇宙における唯一の実在である「ソレ」は、これまでも、今も、これからも在り続ける唯一の存在であり、いつでも、誰でも「ソレ」と切っても切れない関係にあります。

しかし、ソレを知っている人は、まだ極少数です。

 

所謂、一瞥体験とは、この「ソレ」を短時間、体験することを言い、真理を垣間見ることを指しています。

ナーナ先生のように、真我そのものになられている方は、完全に真我を実現されているので、そこに分離感はありませんが、通常、わたしたちは、真我そのものを知らないため、肉体に生じている粗いエネルギーを自分だと思って生きているため、真我から切り離された感覚があり、「我ソレなり」とは思えないのが普通です。

 

ナーナ先生のシャクティ・プラーナの恩寵のエネルギーにより、共鳴が起きた時、わたしの中で、真我から切り離されている分離感を生じさせている粗いエネルギーが消滅したため、微細エネルギーである「ソレ」だけが在る、ということがはっきりと明らかになったのでした。

短い時間、真実の次元を垣間見ただけでしたが、それでも、自分が本当はどんな存在であったのか?が明らかになるには充分でした。

 

これが起きた時、わたしは人生で二度目の「明け渡し」をした直後で、エゴのエネルギーが弱まっていたためと考えられます。

 エゴ(思考)のエネルギーは粗くて強力なため、この強いエネルギーが、わたしたちの共通の本質である木の葉のふれ合うくらいの超微細なエネルギーをかき消してしまっているので、通常わたしたちが感じている粗くて強いエネルギーが静かにならないと、超微細エネルギーである「本質」が表に出て来ることはありません。

 

瞑想やヨーガで、生じるエネルギーを静かで振幅の少ない状態に保つことができれば、「ソレ」を直接体験することも可能になりますが、それには、かなりの修行が必要でしょう。

普通なら何年も厳しい修行をしなくては到達できないと言われている究極の真理ですが、いまここで、真摯に望む人には誰にでも、ソレへと至る直接体験の道が開かれていることは、神の恩寵に外なりません。

 

今、次元の扉が開かれていることをお伝えするのが、このブログの目的でもあります。

 

一人の人間に起きたエネルギー共鳴が、他の人にも起こる可能性は充分にあると言えます。

その可能性は、誰にでも眠っている潜在能力でもあります。

シャクティ・プラーナの恩寵に与ることで、究極の真理への道が短縮されるという奇跡が起こることは、夢ではないのです。

 

それでは、前回に続き、「明け渡し」について、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉を見て行きましょう。

 

 

 

『質問者

「明け渡したあとにも漂いつづける心とは何なのでしょうか?」

 

マハルシ

「明け渡しをした心がこの質問をしているだろうか?」

 

質問者

「絶えず明け渡そうという欲望をもちつづけることで、より多くの恩寵が体験できることを私は期待しています。」

 

マハルシ

「きっぱりと明け渡し、欲望は棄て去りなさい。

「私が行為者である」という感覚をもちつづけているかぎり、欲望は消えないだろう。

それはまた人格でもある。

これが去れば純粋に輝く真我を見るだろう。

行為そのものではなく、行為者であるという感覚が束縛なのである。

「静かになりなさい。

そして私は神だと知りなさい」。

この言葉は沈黙が個人という痕跡を残さない完全な明け渡しであることを意味している。

沈黙が支配したとき、心の動揺も消え去る。

心の動揺が欲望、行為者という感覚、人格の原因である。

それがやんだとき、静寂がある。

「知ること」とは「在ること」である。

それは知識、知る者、知られるものという三位をともなった相対的な知識ではない。」

 

質問者

「「私は神である」あるいは「私は至高の存在である」といった観念は助けになるでしょうか?」

 

マハルシ

「「私は私であるものである」(I  AM THAT  I  AM)という聖者の言葉がある。

「私は在る」(I AM)とは神のことであり、「私は神である」と考えることではない。

「私は在る」を実現しなさい。

そして「私は在る」と考えてはならない。

聖書には「私は神だと知りなさい」とあり、「私は神だと考えなさい」ではない。

明け渡しについての話はみな、黒砂糖でつくられたガネーシャ神の像から、ひとつまみの黒砂糖を取り、同じガネーシャ神にナイヴァディヤ(供物)として捧げるようなものである。

あなたは、「私は身も心も所有物もすべて神に捧げます」と言うが、それらの捧げ物はあなたのものなのだろうか?

最も良いところで、「私はいままであなたのものであったそれらを、すべて私のものだと誤って想像していました。

今、すべてはあなたのものだと知りました。

もうけっしてそれが自分のものであるようにはふるまいません」と言えるだけだ。

神あるいは真我だけが存在し、「私」や「私のもの」は存在しないという知識――これがジニャーナである。

それゆえ、バクティとジニャーナの間に違いはない。

バクティはジニャーナの母である。」

 

質問者

「世俗の人間である私たちはさまざまな嘆き悲しみをもち、どうやってそれを克服すればいいのかも知りません。

神にも祈るのですが、いまだに満たされません。

どうすればよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「神を信頼しなさい。」

 

質問者

「私たちは明け渡すのですが、それでも救いはないのです。」

 

マハルシ

「もし明け渡したのなら、神の御心にしたがい、あなたの気に入らないことが起こったとしても不平不満なく受け入れなければならない。

今、一見そう起こっているように見えることも、のちにまったく違った結果となるかもしれない。

不幸はしばしば人びとを神への信仰へと導いてきたのである。」

 

質問者

「それでも、私たちは世俗の人間なのです。

妻がいて、子供や友人や親戚がいます。

人格を保つことなく、彼らの存在を無視して自分自身を神の意志にゆだねることはできません。」

 

マハルシ

「つまり、あなたは神に明け渡してはいなかったということである。

あなたは神だけを信じなければならない。

神がその姿を現そうと消え去ろうと、彼の御心にしたがい、すべてを明け渡しなさい。

神のはからいにまかせなさい。

もしあなたの希望に沿うように神に頼むとしたら、それは明け渡しではなく、命令である。

神をあなたに従わせておきながら、自分は明け渡したと考えることはできない。

神は何が最善であり、いつ、どのようにすべきかを知っている。

彼にすべてを完全にまかせなさい。

重荷は彼のものだ。

あなたはもはや何の心配もしなくていい。

あなたの心配はみな彼のものなのである。

明け渡しとはそのようなものだ。

これがバクティである。

さもなければ、これらの質問が誰にとって起こったのか調べなさい。

深くハートのなかに潜り、真我としてとどまりなさい。

二つにひとつの道があなたに開かれている。」

 

質問者

「明け渡しは不可能です。」

 

マハルシ

「そうだ。

はじめのうちから完全なる明け渡しは不可能である。

確かに部分的な明け渡しなら誰にとっても可能だろう。

もしも明け渡しが不可能なら、何ができるというのだろう?

それでは心の平和はない。

あなたに平和をもたらすことはできない。

ただ明け渡しによってのみ、それができるのである。」

 

質問者

「明け渡しだけでもじゅうぶんに真我に到達できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「自己を明け渡すことだけでじゅうぶんだ。

明け渡しとは自分自身を自己の存在の原因の源に放棄することである。

そのような源があなたの外側にある神だと想像することで自分を欺いてはならない。

あなたの源はあなたの内側に在る。

つまり源を探しだし、そのなかに溶け去ることである。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

 定められた義務は捨ててはならぬ

もし判断に迷って

義務の遂行を怠るならば

そのような離欲はタマスである

 

定められた義務を煩わしいと思い

また肉体的に苦痛だからと恐れて

それを捨てるのはラジャスの離欲であり

決して霊的向上を望むことはできない

 

アルジュナよ 名誉や利得に関心無く

仕事の結果に何の執着ももたず

ただ自分のすべき義務を果たす人は

サットワの離欲を行じているのだ

 (バガヴァッド・ギーター第18章7-9)

 

 

 

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