永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(9)

以前の記事「わたしは誰か?-真我探究の道(5)」で述べた通り、ナーナ先生から発せられるシャクティ・プラーナに初めて触れた瞬間に、自己の本性を覆っていた「無知」というヴェールが剥がれて、その時初めて、「ソレ」を識ることになったのですが、その体験後に、「ソレ」を言い表している言葉に出会いました。

 

その言葉は、「サット・チット・アーナンダ」(実在、智慧、至福)というサンスクリット語で、ラーマ・クリシュナやラマナ・マハルシは、真我(アートマン)を知らない私たちに説明する際に、古来より使われてきた真我(アートマン)を表すこの三語を度々引用しています。

 

しかし、ここで注意しなくてはならないことは、「実在」も「智慧」も「至福」も、観念(言葉)であり、それらの観念(言葉)は、わたしたちの頭の中にある種のイメージを想起させることはできても、「ソレ」そのものではない、ということです。

 

うどんは、「細くて長くて白い食べ物」だと言われて、うどんをイメージできても、表現に使われた言葉(観念)は、うどんそのものではない、ということと同じです。

 

ナーナ先生に出会う数十年前に、何故そういうことが起きたのか?理由はよくはわかりませんが、あることがきっかけで突然クンダリニーシャクティが上昇し、内在神に出会うことになり、その後、内在神の導きの元、手探りで「真理への道」を歩むことになりました。

それまでの世界観はガラリと変わり、目には見えないため、通常の人間には明らかになっていない宇宙観に目覚めながらも、それを表に出すことなく、一人の人間として喜怒哀楽を体験しながら、何十年も生き、そろそろ人生の終盤に差し掛かったという時に、内在神の導きにより、不思議なご縁でナーナ先生に出会い、ナーナ先生のシャクティ・プラーナの恩寵の力により、一瞬にして「ソレ」、つまり、「サット・チット・アーナンダ」(実在・智慧・至福)を体験し、今に至ります。

 

わたしの場合、クンダリニーシャクティが一度上昇したくらいでは、抱いていたすべての疑問が消滅し、真実が明らかになるという最終ゴールに至ることはできませんでした。

そのため、その後、最終的な答えを掴むまで、多くの時間がかかることになりましたが、ナーナ先生の場合は、ナーナ先生が最終的に自己の本性であるアートマンとの完全なる合一(神我一体)をされたのは、数回のクンダリニーシャクティが上昇した後だそうで、しかもそれが短期間の間に続けて起きた、ということです。

 

ストーリー展開は人それぞれですが、この最終ゴールに至るまでのプロセスこそが人間ならではの体験(人生)であり、歓びそのものであり、生きる醍醐味であり、神の恩寵、神の慈悲深い愛であると感じています。

そして、この人生の最奥の目的である最終ゴールへと至る道は、真理を求める誰にでも開かれていると確信しています。

 

ナーナ先生に出会い、「ソレ」を体験する瞬間までは、長い長い時間がかかったようにも感じましたが、すべては時空間の中で起きていて、その時空間もわたしたち人間の認識(脳)の中にしかないというカラクリに目覚めてしまうと、それが起こるのは常に「いま」であり、実際には、この宇宙に「在る」という感覚(錯覚)が生じているのは、「いま」だけということが明らかになるので、悟りに時間的な遅いも早いもないという理解が自然と生まれます。(遅い早いという判断は、人間の認識の中にだけ起きていることー脳の働きの一つであるだけなのです)

時間も空間も実は実体のないものであり、わたしたち人間の頭の中にしか存在していません。

更に言うならば、それを体験している「わたし」という個人的な存在は幻想だということがハッキリとするため、実際には、悟る個人はいないことになり、個人にとっては、そのことが明らかになることが個人の終り、最終ゴールということになります。

 

サット(実在)だけが、真の実在として、常に在り続けます。

 

この真実に至れば、人間が抱くあらゆる疑問や質問は、自ずと消滅します。

 

このことは、ウパニシャッドの重要な教えであり、多くの聖人たちが明らかにしようと試みて下さった人間にとっての最奥の真理と言えます。

 

そして、この最奥の真理である「サット」(実在)は、心の静寂、沈黙の中でのみ明らかになります。

(このため、心が、サットワ(善性優位)な状態であるということは、とても重要な意味があります)

 

それ故、古来から、究極の真理を悟るために、心がサットワ(善性優位)の状態である心の静寂をもたらす「瞑想」が推奨されてきたのです。

 

それでは、前回に引き続き、「サット」(実在)について、シュリ・ラマナ・マハルシの御言葉を見て行きましょう。

 

 

 

『質問者

「バガヴァーンは「ジニャーニの影響は沈黙のうちに帰依者の心のなかに忍びこむ」と言われました。

また、「マハートマ(偉大なる魂)と接触をもつことは、本来の自己を実現するために有効な方法である」とも言われました。」

 

マハルシ

「そうだ。

何か矛盾があるだろうか?

ジニャーニ、偉大な魂、マハートマ――あなたは彼らを区別するだろうか?」

 

質問者

「いいえ。」

 

マハルシ

「彼らと接触をもつことは良いことである。

彼らは沈黙を通して働くだろう。

話すことによって、彼らの力は減少してしまう。

それゆえ、心のつながりが最も良いものである。」

 

質問者

「たとえジニャーニの物理的身体が死んだあとでも、精神的なつながりをもつことは良いことでしょうか、それとも、それは彼が身体のなかにとどまっている間だけのことなのでしょうか?」

 

マハルシ

「グルは身体的形態ではない。

それゆえ、グルの身体が消滅したあとも心のつながりはそのまま残る。

グルが死んだあとに別のグルのところへ行くこともできる。

だが、すべてのグルはひとつであり、そのなかの誰ひとりとして身体である者はいない。

それゆえ、つねに精神的なつながりが最上である。」

 

質問者

「恩寵の働きとは、グルの心が弟子の心に働きかけているのでしょうか、それとも、それは何か違った過程なのでしょうか?」

 

マハルシ

「恩寵の最高の表れは沈黙である。

そしてそれは最高のウパデシャ(教え)でもある。」

 

質問者

「ヴィヴェーカーナンダは、沈黙が最も大きな声の祈りであると言いました。」

 

マハルシ

「探求者の沈黙においてはそうだろう。

グルの沈黙は最も大きな声でのウパデシャなのだ。

それはまた恩寵の最高の表れでもある。

他のすべてのディークシャー(イニシエーション)は沈黙という源から由来しており、それゆえ二次的なものだ。

沈黙がその原初の姿である。

グルが沈黙していれば、弟子の心は自動的に浄化される。」

 

質問者

「シュリー・バガヴァーンの沈黙自体、強力な影響力をもっています。

それは私たちの心に平和をもたらします。」

 

マハルシ

「沈黙は絶えることのない言葉である。

声にだした言葉は沈黙の言葉を妨害してしまう。

沈黙のなかでは、人は周囲との親密な接触の内に在る。

ダクシナームールティの沈黙は四人の弟子たちの疑いを取り払った。

「マウナ・ヴァーキャー・プラカティータ・タットヴァム」とは、「沈黙によって説かれた真理」を意味している。

沈黙は真理の教えである。

沈黙とは実に強力なものである。

音声による言葉には口という器官が必要だ。

そしてそれが言葉に先行する。

だが、沈黙の言葉は想念さえも超えている。

それはつまり、話された言葉も話されない言葉「パラー・ヴァータ」をも超えているのである。」

 

質問者

「誰もがこの沈黙から恩恵を受けるのでしょうか?」

 

マハルシ

「沈黙は真の教えである。

それは完全な教えである。

それは最も熟練した探究者にのみふさわしい。

他の者にとって、それから完全なインスピレーションを引き出すことは不可能だ。

それゆえ、彼らは真理を説明するための言葉を必要とするのである。

だが、真理は言葉を超えている。

それは説明を許されない。

言葉にできることは、ただそれを指し示すだけである。」

 

質問者

「マハートマが帰依者をひと目見るだけでじゅうぶんであり、偶像礼拝や巡礼などにそれほどの効果はないと言われています。

私がここに来てすでに三カ月が経ちましたが、マハルシによって見られたことで自分がどのような恩恵を受けたのかわかりません。」

 

マハルシ

「グルの眼差しには浄化作用がある。

その浄化作用を目で見ることはできない。

石灰を発火させるには長い時間が必要であり、木炭であれば短い時間ですむ。

火薬であれば発火は瞬時に起こるだろう。

マハートマのもとを訪れる人の段階もそれと同じである。

智慧の炎はすべての活動を燃やし尽くす。

賢者との交際(サットサン)、あるいは彼らとの精神的接触によって、智慧は培われるのである。」

 

質問者

「弟子が何の努力もしないのに、グルの沈黙が実現をもたらすこともできるのでしょうか?」

 

マハルシ

「偉大な師の臨在のなかで、ヴァーサナーは活動をやめ、心は静まり、サマーディが起こる。

こうして弟子は、師の臨在のなかで真の智慧と正しい体験を得るのである。

そのなかに揺るぎなくとどまるには、さらにいっそうの努力が必要となる。

最終的に、弟子はそれが彼の真の本性であることを悟り、生きながらにして解脱を得るだろう。」

 

質問者

「探究が内面で行われるものなら、師の身体的な臨在の内にいることが必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「すべての疑いが終焉するまでは必要である。」

 

質問者

「私は自分の力で集中することができません。

私を救ってくれる力を求めています。」

 

マハルシ

「そうだ。

それが恩寵と呼ばれるものである。

精神力が弱いため、個人としてのわれわれには集中は不可能だ。

それゆえ、恩寵が必要となる。

サードゥ、セヴァー(賢者に献身的に奉仕すること)がそれをもたらすだろう。

だが実際には、何も新たに得るものなどない。

弱者が強者の庇護のなかに入るように、精神力の弱い者の心は精神力の強い賢者の臨在のなかで容易に制御される。

ただ恩寵のみが存在する。

それ以外に存在するものは何もないのである。」

 

質問者

「グルに身体的に奉仕することは必要なのでしょうか?」

 

マハルシ

「真我を実現するためには、グルに十二年間奉仕しなければならないとシャーストラ(聖典)は述べている。

グルは何をするのだろうか?

彼は弟子に真我を手渡すというのだろうか?

真我はつねに実現されているのではないだろうか?

それでは、通常信じられているのはどういうことだろう?

人はつねに真我である。

ただそれを知らないだけだ。

彼はその代わりに真我を身体などの非真我と同一視してしまう。

そのような混同は無知のために起こる。

無知をぬぐい去れば混同はやみ、真実の知識は明らかになるだろう。

真我を実現した賢者との接触を保つことで無知は徐々に消え、ついには永遠なる真我が実現されるのである。」

 

質問者

「私は仕事の関係で仕事場の近くに住まなければなりません。

賢者の近くに暮らすことができないのです。

サットサンなしでも私は実現できるのでしょうか?」

 

マハルシ

「サットとはアハム・プラトヤ・サーラム、自己の真我のことである。

サードゥ(賢者)とはその自己の真我なのだ。

彼はすべてに内在している。

真我なしにいられる人がいるだろうか?

いいや。

それゆえ、誰もサットサンから離れている人はいないのである。」

 

質問者

「グルの近くに在ることは助けとなるのでしょうか?」

 

マハルシ

「あなたは身体的な近さを意味しているのだろうか?

それが何の役に立つというのだろう?

ただ心だけが重要なのだ。

心がグルとのつながりをもたなければならないのである。

サットサンが心をハートのなかへと沈みゆくように助けるだろう。

グルとの交際は精神的と身体的なものの両方である。

はっきりと目に見えるグルが探究者の心を内側へと押し入れる。

グルはまた探究者のハートのなかにも存在し、彼の内面に向かうハートのなかへと引き入れるのである。」

 

質問者

「私が知りたいことは、サットサンが本当に必要なことなのか、そして私がここに来ることが私の助けとなるのかどうかということだけです。」

 

マハルシ

「まずサットサンとは何なのか、ということを明らかにしなければならない。

それはサットあるいは真理との交わりを意味する。

真理を実現した人もまた真理であると見なされている。

そのような真理との交わり、あるいは真理を知る人との交際は絶対的に必要である。

この三界のなかで、サットサンのように誕生と死という輪廻の大海を渡り、われわれを安全に運んでくれる舟は他にない、とシャンカラは言っている。

サットサンとはサットとのサンガ(集い)という意味である。

サットとは他でもない真我である。

今は真我がサットであると理解されていないため、それを理解している賢者との集いが求められるのである。

それがサットサンである。

その結果、心は内面を向き、そのときサットが明らかにされるのである。」』

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

供犠 修行 布施を行うに際して

不動の信念でそれをつづけること

またそれをすべて至上者に捧げること

これらもまた サットである

 

アルジュナよ 信仰のない者が

供犠 修行 布施その他のことを行っても

それはアサットと呼ばれ

現世においても来世においても無益である

(バガヴァッド・ギーター第17章27-28)

 

 

 

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クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

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http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

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(詳しいことは、http://pranahna.com/ をご覧下さい)

 

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