永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-真我探究の道(1)

これまでの記事で、私たちの体に眠っている生命エネルギーの源であるクンダリニーについてご紹介してきました。

また、前回の記事では、シュリー・ラマナ・マハルシが「クンダリニーアートマン(真我)である」と語っていらっしゃることも、ご紹介しました。

 

ヨーガの修行の目的は、この眠った状態にあるクンダリニーを目覚めさせることですが、シュリー・ラマナ・マハルシは、アーサナやプラーナヤーマなどの体を使ったヨーガの修行とは異なる「真我探究」という方法を提唱しています。

 

これは、心を使って自己の本性を悟るための精神的修練であり、「心のヨーガ」ともいえる方法であり、「ジニャーナ・ヨーガ」(智慧のヨーガ)と呼ばれています。

 

わたしは誰か?

 

この直接的な問いを自らに問うことで、その答えが得られると、シュリー・ラマナ・マハルシは語っています。

 

それでは、ジニャーナの道とは一体どのようなものなのでしょうか?

 

『自分は真我そのものである』という智慧に達することは、霊的探求の目的と言えます。

 

目覚めるのは、クンダリニーであり、真我であり、「わたし」が何かに目覚める訳ではありません。

(ずっと在ったにも拘わらず、その存在が知られていないがために、「眠っている」と表現され、それが表に顕わになることで、「目覚める」と表現されるだけで、実際には、真我は眠っている訳でも、眠りから目覚める訳でもありませんが、人間からすると、そのように感じられるということなのでしょう)

 

アートマン(真我)へと到る直接的な方法『真我探究』(アートマン・ヴィチャーラ)とはどのようなものなのか?早速、シュリー・ラマナ・マハルシの遺されたお言葉をご紹介したいと思います。

 

 

『質問者

「どうすれば平和な心を得られるでしょうか?

ヴィチャーラ(探究)によって平和になったようには思えません。」

 

マハルシ

「平和とはあなたの自然な状態である。

その自然な状態を防げているのは心なのだ。

あなたが平和を体験していないとすれば、それはあなたのヴィチャーラが心のなかだけでされてきたということである。

その心とは何かと調べなさい。

そうすれば、それは消え失せるだろう。

想念を離れて心というものは存在しない。

それでも想念は現れつづけるため、想念がそこから起こりそこへと消えていくそれが心だと推測するのである。

それはいったい何なのかと綿密に調べていけば、心といったものは存在しないことが見いだされるだろう。

このようにして心が消え去ったとき、あなたは永遠の平和を実現するのである。」

 

質問者

「私が「私」という想念の現れるその源へと探り入ると、これ以上先へ進むことのできない心の静寂にたどり着きます。

そこにはどんな想念もなく、虚空、空白の状態があるばかりです。

柔らかな光が広がり、あたかも身体がないかのようです。

身体や形態の認識もありません。

その体験はおよそ半時間ほどつづき、喜ばしいものです。

自由あるいは解放、名前は何であれ、永遠の幸福を確保するということは、この体験が何時間、何日、何か月も維持されるように修練をつづけていくことだと結論づけてよいのでしょうか?」

 

マハルシ

「これは自由でも解放でもない。

このような状態は、マノラヤ、一時的な心の静止と呼ばれている。

マノラヤとは、思考の動きを一時的に抑えた集中を意味する。

この集中が止まるやいなや、以前のように古い想念や新しい想念が急激に湧き上がってくる。

そしてこの一時的な心の静止がたとえ千年つづいたとしても、誕生と死からの解放がある心の完全な破壊に至ることはけっしてない。

それゆえ、修行者はつねに油断することなく、「この体験は誰に起こったのか」、「この喜びを体験しているのは誰なのか」と尋ねなければならない。

この探究なしでは、彼は長時間のトランス状態あるいは深い眠り(ヨーガ・ニドラー)に陥ってしまうだろう。

この段階における霊的修練の正しい指導者の不在がもとで、多くの修行者が偽りの解放感覚のとりこになって惑わされてきた。

そして無事に目的地にたどり着いたのは、ほんのひと握りの人たちだけだったのである。

一時的な心の静止(マノラヤ)と想念の永久的な破壊(マノナーシャ)の違いを理解するサーダカ(修行者)は非常にまれである。

マノラヤでは想念の波が一時的に静まるが、たとえそれが千年つづいたとしても、マノラヤが止まったとたん、一時的に静止された想念の波は湧き上がってくる。

それゆえ、人は自分の霊的修練の進展を注意深く見守っていなければならず、そのような思考の静止に魅了されるのを許してはならない。

これを体験した瞬間意識を取り戻し、この静寂を体験しているのは誰かと内側に向けて尋ねるべきである。

いかなる想念が入り込むことも許さず、と同時に深い眠り(ヨーガ・ニドラー)あるいは自己催眠にも襲われないようにしなければならない。

これも目的に向けての向上の兆候ではあるが、それはまた解放への道とヨーガ・ニドラーへの道の分岐点でもある。

やさしく直接的な解放への近道がヴィチャーラ・マールガ、真我探究の道である。

探究によって、あなたは想念の流れを深くその源に達するまで導き、そのなかへと溶け去る。

そのときこそあなたは内なる感応を得るだろう。

すべての想念を破壊して、ついに永久のやすらぎを見いだすのである。」

 

質問者

「この「私」という想念は私から現れます。

しかし、私は真我を知らないのです。」

 

マハルシ

「これらはみな精神的観念にすぎない。

現在のあなたは、あなた自身を偽りの「私」、つまり「私」という想念と同一化している。

この「私」という想念は立ち現れては沈みゆく。

それに反して、真の「私」はそのどちらも超えている。

あなたの存在が途切れるということはありえない。

眠っていたそのあなたが、今日覚めているのである。

深い眠りのなかに不幸はなかったが、今それはある。

これらの違いが体験されるのは何が起こったからだろうか?

眠りのなかに「私」という想念はなかったが、今それはある。

真の「私」ははっきりと見えないが、偽りの「私」は自分を誇示している。

この偽りの「私」があなたの正しい智慧を防げているのである。

どこからこの偽りの「私」が立ち現れてくるのか見いだしなさい。

そうすれば、それは消え去るだろう。

そのとき、あなたはあるがままのあなたである絶対的実在として在るだろう。」

 

質問者

「どうすればいいのでしょうか?

いままで私は成功してこなかったのです。」

 

マハルシ

「「私」という想念の源を探究しなさい。

するべきことはそれだけである。

宇宙は「私」という想念が原因で存在している。

「私」という想念が終焉すれば、不幸もまた終焉する。

偽りの「私」という想念は、その源を探ることによってのみ終焉するのである。

人びとはどのように心を制御すべきかと尋ねてくる。

私は彼らに言う。

「心を見せてみなさい。

そうすれば何をすべきかがわかるだろう」と。

心とは単なる一束の想念にすぎない。

それが事実である。

どうしてそれを思ったり、望んだりすることで絶滅させることができるだろうか?

あなたの想念も歓喜も心の一部分なのである。

新たな想念が湧き上がるごとに心は肥えていく。

それゆえ、心によって心を殺そうとすることはばかげている。

心を殺す唯一の方法は、その源を見いだし、それをとらえることである。

そうすれば心はひとりでに消え去るだろう。

ヨーガはチッタ・ヴリッティ・ニロダ(心の活動の静止)を教える。

だが、私はアートマ・ヴィチャーラ(真我探究)を教える。

これは実際的な方法である。

チッタ・ヴリッティ・ニロダは眠り、気絶あるいは飢餓状態によっても引き起こされる。

その原因が絶たれた瞬間、想念は再び起こってくる。

だとすればいったい何の役に立つというのだろう?

麻痺状態のなかでは平和があり、不幸はない。

だが、麻痺状態が消えれば不幸も再び起こる。

それゆえ、ニロダ(コントロール)は役に立たず、その効果も長つづきしないのである。

では、どうすればその効果が持続するのだろうか?

不幸の原因を突き止めることによってである。

不幸は対象物を知覚することによって起こる。

もし知覚されるものがなければ、それによって引き起こされる想念もなく、不幸も一掃される。

「どうすれば対象物が消え去るのか?」が次の問題である。

聖典や聖者は、「対象物は単なる心の想像物にすぎない」と言っている。

それらは実質的な存在をもっていない。

物質を調査してみなさい。

そしてこの表明の真実性を確かめるがいい。

すると、客観的な世界は主観的意識のなかにあるという結論に達するだろう。

それゆえ、真我こそが世界に浸透し、それを包み込む唯一の実在なのである。

そこに二元性は存在せず、それゆえあなたの平和を防げる想念も起こらない。

これが真我の実現である。

真我は永遠であり、その実現もまた永遠のものである。

アビャーサ(霊的修練)は想念に平和を乱されるたびに、真我のなかへと退くことで成り立っている。

それは集中でも心の破壊でもなく、真我のなかに退くことなのである。」

 

質問者

「なぜ集中には効果がないのでしょうか?」

 

マハルシ

「心に心を殺すように頼むのは、泥棒を警官と見なすようなものだ。

彼はあなたと一緒に泥棒を捕まえにいくかのように装うだろう。

だが、それでは何にもなるまい。

あなたは内面に向かい、「私」という想念がどこから起こるのかを見いださなければならない。

そうすれば心は存在しなくなるだろう。」

 

質問者

「心を内面に向けることも、いまだに心を用いていることにならないでしょうか?」

 

マハルシ

「もちろん心を用いている。

心の助けによってのみ、心を殺すことができるのはよく知られ、認められていることである。

だが、そこに心が存在すると想定し、それからそれを殺したいと言うよりも、まず心の源を探究しなさい。

すると、心などまったく存在していなかったことを発見するだろう。

外面に向いた心は想念や対象物を生みだす。

内面に向かえば、心そのものが真我となるのである。」

 

質問者

「しかし、まだよく理解できません。

あなたは「私」が偽りの「私」だと言われます。

いったいどうやって偽りの「私」を消滅させるのでしょうか?」

 

マハルシ

「偽りの「私」を消滅させる必要はない。

いったいどうやって偽りの「私」がそれ自身を消滅させると言うのだろう?

あなたがすべきことは「私」の源を見いだし、そこにとどまることだけである。

そうすることによってのみ、あなたの努力は実る。

そのあとは彼方なるものに身を任せるだけでいい。

そこでは、あなたは無力である。

努力によってそこに到達することはできないのだ。」

 

質問者

「もし「私」が今ここに在るなら、なぜ私はそう感じないのでしょうか?」

 

マハルシ

「それを感じないと言っているのは誰だろうか?

本当の「私」が言うのか、それとも偽りの「私」が言うのだろうか?

調べてみなさい。

すると、それが偽りの「私」であることがわかるだろう。

偽りの「私」が障害なのである。

真実の「私」が隠れないように、偽りの「私」は取り除かれなければならない。

「私は実現していない」という想いが実現への障害である。

実際には、それはすでに実現されている。

それ以上実現されるべきものはない。

さもなければ実現とは何か新しいものだろう。

いままでなかったものなら、これから起こるということである。

誕生したものは死ななければならない。

実現が永遠のものでなければ、得る価値もない。

それゆえ、われわれが探究するものは、新しく起こる何かではない。

それは永遠なるものなのだ。

ただ障害によって知られていないだけである。

永遠なるものは無知のために知られない。

無知が障害である。

無知をぬぐい去りなさい。

そうすればすべてうまくいくだろう。

無知は「私」という想念と同一のものである。

その源を見つけだしなさい。

そうすれば、それは消滅するだろう。

「私」という想念は霊魂のようなものである。

目には見えないが、身体とともに立ち現れ、成長し、身体とともに消え去る。

身体意識が偽りの「私」なのだ。

この身体意識を棄て去りなさい。

それは「私」の源を探ることによって為される。

身体が「私」を主張することはない。

「私は身体だ」と言うのはあなたである。

この「私」とは誰かを見いだしなさい。

源を探ることによって、それは消え去るだろう。」

(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」 デーヴィッド・ゴッドマン

 

 

 

 

サットワの影響下にある者たちは

諸天善神を礼拝し

ラジャスの者たちは魔神 鬼神の類を拝み

タマスの者たちは死霊や幽鬼を拝む

 

また 聖典に示されていない方法で

激しい禁欲や苦行をする者は

虚栄心や我執のために行うのであり

欲と執着のとりこになっているのだ

 

こうした愚かな者どもは

肉体を構成する要素を衰弱させ

体内に住むわたしをも苦しめる

彼らの行為は魔的であると知れ

(バガヴァッド・ギーター第17章4-6)

 

 

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡<お知らせ>♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

 

☆自己変容したい人

☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

☆真我の目覚めを体験したい人

☆神の直接体験に与りたい人

 

など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡