永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

クンダリニーについて(7)

クンダリニーは、体の中に存在しているにも拘わらず、通常は目覚めていない眠った状態でいるため、一般的には、その存在を知られずにいます。

 

しかし、私たちを生かし、存在せしめているのは、膨大なエネルギーの源であるクンダリニーであると言っても過言ではなく、誰の体にも宿っている神秘の力(エネルギー)なのです。

 

あらゆるヨーガの道は、このクンダリニーを目覚めさせることに集約されます。

 

この宇宙の神秘の力を目覚めさせることにより、探求者は求めているものを手にすることができるようになります。

 

これまで少数の人のみに開示された究極の真理を掴むことができるようになるのです。

 

真理の探求は、実践により達成されるものですが、ここでは、そのエッセンスのみご紹介することで、知識としての理解ではありますが、真実の姿の輪郭だけでも理解して頂けるように、クンダリニーやプラーナについて、体験者の言葉をご紹介したいと思います。

 

 

『プラーナは宇宙に満ちているというのは先に説明した通りですが、言葉を換えれば、宇宙のあらゆる構成要素がプラーナでできているとも言えます。

そのことは、プラーナを「素粒子」という言葉に置き換えれば判りやすくなるでしょう。

人間も道路も椅子も、素粒子で構成されているということです。

そのプラーナは、人間が感じ取れる現象界に現れるとき、いろいろと形を変えます。

たとえば、椅子を構成しているプラーナと人間を構成しているプラーナは違います。

その違いは、いわば水と氷の状態が違うようなものです。

水と氷という、構成している要素が同じものでも、触った感じが違うし、飲んだり食べたりしたときに感じるものも違います。

ダイヤモンドと石炭の関係と同じとも言えます。

構成要素が同じでも、状態はまったく違うのです。

 

そんなプラーナを繊細に感じ取る方法の一つは、自分の心の動きを感じ取ることです。

特に精妙な心の動きを感じ取ることで、プラーナへの理解が深まります。

ただし、自分で自分の心を精妙だなと思っているだけでは、本当に精妙な心の状態を感じ取ることはできません。

最初は、心の粗雑な状態を確認することが大切です。

粗雑な状態が確認できたら、精妙な呼吸法などでそれよりちょっと心を精妙にする。

それが確認できたら、さらにもうちょっと精妙にする・・・という具合につなげていって、初めて本当に精妙な状態が体感できるようになるのです。

たとえば呼吸でも、「ゆっくりと呼吸をしなさい。きめ細かい呼吸をしなさい」と言われた場合、「はいっ。やります」と答えてやってみて、実際にゆっくりときめ細かい呼吸ができるでしょうか?

まず、それはできません。

とにかく最初は、粗雑な呼吸、粗雑な心であることを確認するところから始めます。

そして、今自分ができる範囲で、少し呼吸をゆっくりさせてみます。

心も少し精妙に持ってみようとします。

それが確認できたら、次に、それよりももう少しゆっくりな状態、精妙な状態をめざしてみます。

そういうふうに、段階を踏んで進めていく必要があるのです。

それをしないで、いきなり精妙な状態になろうと試みても、頭の中で考えるだけでおわってしまいます。

精妙な状態になればなるほど、頭の中で考えないほうがいいのです。

自分が「これで精妙になった」と思っているレベルでは、間違いなく精妙ではありません。

心が精妙になればなるほど「もっと精妙にできる」と判るようになるのです。

それによって、プラーナも次第に繊細に感じ取れるようになります。

 

しかし、プラーナを感じ取るときに、しばしば勘違いをしやすいことがあります。

その一つが、他人の経験と自分の感じ取り方を混同してしまう点です。

たとえば私が「プラーナには粘り気がある」とか「どろっとした感じがする」と言ったとします。

すると、それを聞いた人は、そういう先入観が植え付けられ、いつしかそういうものだと思い込んでしまいます。

そして、プラーナの粘り気やどろっとした感じを、自分で体感したように錯覚してしまうのです。

実際にプラーナの粘着力や粘り気を体感として感じられればいいのですが、話を聞いただけで、そう感じたように思い込んでしまうのです。

また、私はときどき

「○○の感じがしたんですけど、それってプラーナなのですか?」

「プラーナって△△のような味がしますか?」

といった質問を受けることがありますが、答えないようにしています。

明らかにプラーナを理解したときには、そういう質問が出ないからです。

前にも触れましたが、プラーナを感じるというのは、たとえて言えば、うどんを食べてその味がわかるのと同じ状態だからです。

うどんの味を知っている人は、「○○の味ってうどんの味なんですか」とは聞きません。

プラーナの場合も、「あの感じでいいんですか」と聞いてきた場合は感じ取れていないのです。

完全に体感としてつかめた人は、私に聞いたりしません。

聞きにくるのは、うどんを知らないのにうどんを食べた夢を見た人や、「うどんってどんな味なのかな」と想像をめぐらせている人だけです。

 

プラーナを感じ取るとき、まず大切なのは、あまり頭で考えずに人や物からプラーナを吸収したり、与えたりすることです。

そのやり方を見つけてほしいのです。

そんなに難しいことではありません。

人や物に向かい合ったとき、そこから何かを受け取ろう、あるいは与えようというふうに、ほんのちょっとした意識を働かせてみて、そのときにどう感じるかを意識してください。

そして、さまざまな人や物に向かい合って、そこから受ける感じの違いも意識してみるのです。

たとえば、壁に面と向かったときの感じと、目の前に人がいるときの感じでは全然違うでしようから、その違いを確認します。

両者では明らかに雰囲気が異なり、自分の中で生じる感覚が異なります。

それはもちろん、受け取るプラーナが異なるからです。

目の前に人がいて向かい合ったときには、当然、相手とプラーナの交流が発生します。

それと同じように、達磨大師ではないけれども、壁と対峙したときにも壁とプラーナの交流はあるのです。

つまり、やり取りする相手によって、プラーナは全然異なってくるのです。

ですから、自分が何かに対峙したときに感じことを、プラーナから受ける感覚として、まずは素直に純粋に、ただ感じ取ってもらいたいのです。

それを手掛かりにして、頭であれこれ考えずに感覚を磨いていけば、プラーナは肉体感覚としてつかめます。

頭で考え始めると、だいたい変な迷路に迷い込んでしまいます。

(死なないカラダ、死なない心 成瀬雅春)

 

 

 

我々の周囲に存在する物質世界のあらゆるものは、まず「人の考え」の中で創造される。

そしてその考えが形となるのである。

城、彫刻、絵画、さまざまなメカニズム、これらすべては、物質として出現する前に、その人の心の中で最初に生まれるものである。

画家がキャンパスに絵を描こうとする時、あらかじめ心の中に自分が受けた物や風景の形を考える。

それにもとづいて、実際の絵をキャンパスに画く。

つまるところ、世界はひたすら思考、人の思いだけなのである。

ちょうど種子が、適切な時と場所を得て芽を出すように、心の中の思考によって感知されたものが、現実の物体という形をとるのである。

心が考えることをやめた時、物質世界は消え、いいあらわし難い歓びだけが存在する。

しかし心が再び考え始めると、世界が現われ苦悩も始まる。

我思う、ゆえに我あり」はデカルト哲学の真髄である。

これはシャンカラの考えと一致する。

真の偉大なる自己、アートマンは幻影ではない、真の実在だ。

たとえばこれを否定する人がいても、否定しながらその実在を認めているのだ。

心が宇宙を目に見える形にしている。

だが、聖者以外には誰も心を見ることができないのは残念である。

心の性質について真剣に絶え間なく考えれば、実際何もない。

すべては「空」だとわかるであろう。

心は消え去ってしまう。

心は考えの集まりにしかすぎない。

「私」という考えがすべての考えの根本である。

しかし、この「私」という主張は間違った考えであり、実在ではない。

考えの元が「無」と消えなくなれば、自慢げな心はどこに存在しうるのか。

万人の心に最初に起きる考えは「私」である。

しかし最後には、人は永遠の存在であるという想いに到達し、そして心がブラフマンの中に融合して無限の至福を感じる。

 

宇宙は個人の心が創造したものではない。

ラニヤガルバと呼ばれる大宇宙心が一つにまとまって物質化し、目に見える幻の宇宙として顕現したものだ。

現象としての宇宙は創造主である神の意志の結果であり、人の心の働きを通じてあたかも実在するもののように見えるのである。

劇作家はドラマを書く前に、劇の全体像をはっきりと心の中でイメージする。

それからたとえば四幕ものに仕上げる。

上演は一幕ごとに順を追って演じられる。

同じことがこの宇宙創造にも当てはまる。

活動的な宇宙は、宇宙の真理=神の中の鮮明な心象なのである。

神にとっては過去も未来もない。

すべてが「現在」のみである。

神にとっては近くも遠くもない。

すべての場所が「ここ」であり、すべての時間が「今」である。

この悠久の宇宙のドラマの舞台には、時間の経過とともに次々と事件が繰り広げられる。

原子(アトム)は絶え間なく循環する。

古いものは新しくなり、新しいものは古くなる。

しかし事実は、古いものも新しいものもないのだ。

魂は個々の心を通じて次々に起こる事件を目撃しているだけである。

しかし、神はすべての出来事を一瞬にして知る。

神は全知であり、全能である。

神は自らの創造物については細部にわたって熟知している。

個々の心は事物を虚構の中で見ているにすぎない。

この宇宙はもっぱら心の現象にすぎず、宇宙の源であるブラフマンから、自ずと進化したものである。

心を通してのみ顕われる宇宙は、心の形態でしかない。

心は内に向かうと意識であり、外に向かうと現世である。

あまねく遍在する実在の世界は、純粋意識そのものである。

 

すべての印象は幻(マーヤー)の中に浮いている。

ここに大きな鏡があるとしよう。

通りを行き交う人びとや車などがすべて鏡の中に映るのが見える。

見る側は少しも影響されることなく、離れて鏡に映った光景を眺めている。

そのように、全宇宙の光景が幻の巨大な鏡の中に映し出され、宇宙の神はすべてを見ている。

神は沈黙の傍観者である。

個々の魂のカルマの期が熟した時、初めて神は意図し、その意志が宇宙に投影されて個々の人として顕現する。

(ヨーガとこころの科学 スワミ・シバナンダ)

 

 

 

さまざまな心配と焦燥に右往左往し

幻影の網に捕らえられた彼らは

欲望の満足に執着して

地獄へと真っ逆さまに落ちていく

 

自己満足で常に無礼 無遠慮であり

自らの富と虚名に目がくらみ

時々自己宣伝のために一切の規則を無視して

誇らしげに祭祀や寄付を行ったりする

 

これらの魔的人間どもは利己主義 権力欲 自尊心

そして情欲と怒りに惑乱して

彼ら自身と他者の体に内在(やど)る

わたしを軽蔑し 見向きもしない

 

(バガヴァッド・ギーター第16章16-18)

 

 

 

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☆真理を体得したい人

☆束縛から解放され真の自由を得たい人

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など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、

クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。

詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。

 

http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)

 

シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。

 

☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。

チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。

 

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