永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(5)

スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉から、「バクティ・ヨーガ」における”真のバクタ(神への信愛)”について、ご紹介しています。

 

それは、前回ご紹介しました、聖ラーマクリシュナの「昔より格段に忙しい毎日を送っている現代人には、他のヨーガ(真理にいたる道)よりも、バクティ・ヨーガを実践する方が、適している」という遺されたお言葉から、

特に「バクティ・ヨーガ」について、より詳細にご紹介することで、真理への道の短縮につながることを期して、時間をかけてご紹介しています。

 

前半は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「最高の愛」から、前回の続きです。

 

後半は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの師(グル)であらせられる聖ラーマクリシュナのお言葉から、「見神」についての詳しい解説をご紹介いたします。

 

これらは、言葉(観念)、知識ですが、真理を悟った人びとの言葉に触れることは、それを聴く人の心にさざ波を立たせ、やがて、そのさざ波は、大きな波となって、大海を渡って行く小船である個人を、探求の最終ゴールへと導いていくことでしょう。

 

 

『バクタになる最初の課題は、そのような願い、たとえ天国に行きたいという願いであろうと、全部投げ捨ててしまうことだ。

天国は、それ自体では、ここと同じようなところ、ほんのちょっとだけよいところだろう。

私たちはここでわずかばかりの不幸と幸福を持っている。

それだけだ。

天国では、たぶん、今より少し少ない不幸と、少し多い幸福を持つのかもしれない。

そこに、ここにあるより多くの光があるわけではなかろう。

それは私たちの良い行為の結果に過ぎないだろう。

クリスチャンたちの天国の観念は強い喜びが得られる場所というものだ。

そんなものがどうして神に値するといえようか。

問題は、どうしたらそのような欲望を全部捨て去ることができるかということになる。

これらの欲望が人を不幸にする。

人間はこれらの欲望に縛られる奴隷だ。

欲望の手の中でおもちゃのようにころげ回っている操り人形だ。

私たちは、どんなものによっても打ちのめされるこの肉体をいつも気に掛けている。

だから、絶えざる恐怖の中で生きている。

鹿は、恐怖のために、平均、日に100~110キロも逃げ回らなければならないということを、何かで読んだことがある。

何キロも走りに走り、やがて立ち止まり、何かを食べる。

だが、私たちは鹿よりも悪い状態にいることを知らなければならない。

鹿はしばしば休息できるが、私たちはできない。

鹿は草を十分に食べれば満足する。

しかし、私たちはあまりにも狂い、不自然になってしまったため、自然のものは私たちを満足させない。

私たちはつねに病的なもの、不自然な刺激、不自然な食べ物、飲物、環境、生き方を追い求めている。

私たちは呼吸できるようになっている空気をまず汚染している。

恐怖についていえば、私たちの生活は恐怖の塊以外の何ものであろうか。

鹿は、虎や狼の恐怖のように一種類のものを恐れるだけだ。

人間は全宇宙を恐れている。

この状態から私たち自身を解放する方法。

これが問題だ。

実利主義者たちは立ち上って言うだろう。

「神や未来について語るのを止めよ。

それらについて私たちは何も知らないのだ。

この世で幸福に生きようではないか」と。

可能ならば、私はまっさきにそうしたい。

しかし、この世界は私たちにそうはさせてくれないだろう。

あなたがたが自然の奴隷である限り、どうしてそんなことができようか。

もがけばもがくほど、ますます巻き込まれてしまうのだ。

何のためか、何年になるかは私は知らないが、あなたがたはいろいろな計画を練ってきた。

だが、ひとつの計画の終りにはことはいっそう悪くなっているように思える。

200年前には、旧世界の人びとはほとんど欲望は持っていなかった。

救いでは、少なくとも天国では、私たちの欲望は満たされるだろうと考え、それで天国に行くことを望むのだ。

この永遠の、消えることのない渇き!

つねに何かを求めている!

人は、乞食のとき、金を求める。

金があると、他のもの、社会を求め、そのあとは、またほかの何かを求める。

休む間もない。

どうしたら、この欲望の炎を消すことができるのだろう。

天国に行ったとしても、欲望は増えるだけだろう。

貧乏人が金持ちになっても、欲望は消せない。

火に油をそそぐようなもので、火勢が強くなるだけだ。

天国に行くことは、ますます金持ちになることを意味し、そして欲望はますます強くなる。

世界中のさまざまの聖典の中には、天の神々がする人間的な遊びの物語が書いてある。

彼らはそこで必ずしも善ではない。

結局のところ、この天国に行きたいという欲望は、快楽を求める欲望である。

この欲望を放棄しなければならない。

天国に行きたいと思うことは余りにもちっぽけで、低俗すぎる。

それは、億万長者になり、人びとに君臨しようと思うのと同じことだ。

この種の天国はたくあんある。

しかし、そこを通っては宗教と愛の門にはいる権利を得ることはできないのだ。」

(最高の愛 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

 

『モニ

「それでは、あの、神をつかむ、体得するとは、どういう意味なのでございますか?

それから、神を見るとか、対面するとかおっしゃいますのは、どういうことなのでしょう?

どうすればできるのでございますか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「ヴィシュヌ派の人たちはこう言っている。

神への道を進んでいる人びとや、もう神を体得した人たちにはこれこれの種類があると。

つまり、プラヴァルタカ(初心者)、サーダカ(修行者)、シッダ(成就者)それからシッダのシッダ(完全成就者)、道が上がり始めたばかりの人をプラヴァルタカという。

礼拝祈祷の修行をして、つまりお祈り、称名、瞑想、讃神歌の詠唱などをしている人がサーダカだ。

神様がいらっしゃるということを直観と知性ではっきりと認めている人をシッダというのだ。

ヴェーダーンタ派がよくいう譬えだが、真っ暗な部屋で主人が横になっている。

誰かが主人を手さぐりで探している。

寝床の端に手でさわって言う――“これじゃない”。

窓枠にさわって言う――“これじゃない”。

戸にさわってまた――“これじゃない”と言う。

“ちがう(ネーティ)、ちがう(ネーティ)、ちがう(ネーティ)”。

最後には主人の体にさわったとき言う――“ここだ”。

これが主人、つまり“主人がここにいる”ことがわかる。

主人をつかんだが、まだ特に親しく知り合ったというわけではないよ。

それからもう一つ、シッダのシッダというのがある。

もし、主人と特別親しく話し合うことができたら、これはまた別な状態というものだ。

愛と信仰を通して、神様と親しく語り合うようになったらね。

神様にすっかり受けいれられたシッダ――神様と特別親しく語り合っていなさる御方をシッダのシッダと言うのだ。

だが、あの御方をつかんだら、一つの決まった態度をとらなきゃいけない。

シャーンタ、ダーシャ、サッキャ、ヴァッツァリャ、マドゥラのどれかだ。

シャーンタ(静かな)――これは古代の見神者(リシ)たちの態度。

かれらは外に何の楽しみも望まない。

ちょうど妻が夫に見も心も捧げているようなもので――自分の主人がカンダルパ(カーマデーヴァ、愛の神)だということを知っているのだ。

ダージャ(献身的な奉仕)――ハヌマンラーマーヤナの中で、ラーマの信者で猿の英雄)のような境地。

主ラーマの御用をするときはライオン並みになった。

立派な妻にもこの気持ちがあるもので、命がけで主人に仕える態度だ。

母親の中にもいくらかこんなのがある。

ヤショーダー(クリシュナの養母)がそうだったよ。

サッキャ(友愛の)――友達の態度だ。

さあおいで、そばにきて坐っておくれ。

シュリー・ダーマたちは主クリシュナに自分たちの喰いかけの果物を食べさせたり、取っ組み合いをしたりした。

ヴァッツァリャ(母の子に対する態度)――ヤショーダーの態度だ。

妻にも幾分この気持ちがある。――自分の生命をけずっても主人を養うという。

子供が満腹するまで食べたとき、はじめて母親は満足する。

ヤショーダーはクリシュナに食べさせようと、出来立てのバターを持ってあちこち歩き廻ったものさ。

マドゥラ(甘く美しい)――(主クリシュナに対する)聖マティー(ラーダー)の態度。

妻もマドゥラの気持ちをもつ。

この態度の中には、ほかの態度もすべて入っている――シャーンタも、ダーシャも、サッキャも、ヴァッツァリヤも」

 

モニ

「神を見るという場合、この眼で見えるのでございますか?」

 

聖ラーマクリシュナ

「あの御方は肉眼では見えない。

修行を続けていると、愛の体とでもいうようなものが出来てくるのだ。――そして愛の眼、愛の耳もね。

その愛の眼であの御方が見えるし、その耳であの御方の声がきこえてくる。

その上、愛のリンガ(男性生殖器)やヨーニ(膣)まで出来るのだ」

 

この言葉をきくと、モニはついウフフと吹き出してしまった。

タクルはきにもかけずに話し続けられる。

聖ラーマクリシュナ

「この愛の体で真我と交わるのだよ」

 

モニはまた厳粛な態度に戻った。

 

聖ラーマクリシュナ

「神に向かって猛烈な愛情を持たなければ、そんなふうにはならないよ。

猛烈に好きになれば、四方八方いたるところに神が見えてくる。

黄疸がひどくなれば、そうするとあたり一面が黄色く見えてくるようなものだ。

そのときは“あの御方がわたしだ”という感じになる。

酒飲みがひどく酔っぱらうと、「このおれさまがカーリーだ」と言うだろう。

ゴーピー(牛飼い)たちは愛に夢中になって、「この私がクリシュナだ」と叫びだした。

あの御方を夜となく昼となく思っていると、あの御方があたり一面に見えてくる。

ランプの炎をじっと見つづけてしばらく経つと、四方八方が炎だらけに見えてくる」

 

モニは内心で、「それは、本当の炎ではない」と思った。

タクルはそれを読み取ってこうおっしゃる。

「意識そのものを思っていれば意識を失うことはない。

シヴァナートが、「百回、神のことばかり考えていたら、頭がおかしくなる」と言ったから、私はかれに言ってきかせたよ。

至高意識そのものを想念しているのに、どうして無意識になるんだい?とね」

 

モニ

「そうです、わかります。

一時的な、すぐ変化したり滅びたりするものを想念するのではないからですね?

意識そのもの、生気そのものである御方に心を集中して、人間が無意識になったり知性を失ったりするはずがありません」

 

聖ラーマクリシュナはたいそう満足した様子で、

「これは神様のお恵みだよ。

あの御方のお恵みがなくては、疑いは晴れないものだ。

真我(アートマン)に対面しなくては、疑いや迷いは心からすっきり晴れないものだ。

あの御方のお恵みがあれば、もう何一つ恐れるものはない。

父親の手をつかんでいても、子供は転ぶことがあるよね?

だけど、父親が子供の手をしっかりつかんでいたら、もう大丈夫なんだ。

神様のお恵みがあって、疑いや迷いが消え、そのうえご対面下さったなら、もう何一つ苦しみや悩みはない。

だから、あの御方に届くように、ありったけの力で呼び続ける――つまり修行を熱心に続けていれば、お恵みがいただけるわけだよ。

子供がハァハァ言いながらあちこちかけ廻って探すのをみると、母親は可哀そうに思う。

隠れていたんだが、出てきてやる」

 

あの御方は、どうして我々をかけずり廻らせるのだろう、とモニはいぶかる。

――タクルは、すぐ察して話される。

「しばらくの間、かけ廻らせるのが神の御意(おこころ)だ。

だから面白いんだよ。

あの御方は、遊戯(リーラー)のためにこの世界をお創りになったのだ。

これがマハーマーヤー(大いなる現象、又は幻象)と呼ばれているのだ。

だから、その、力(エネルギー)と美と愛そのものである大実母(マー)にすがって護っていただくんだよ。

マーヤーの足枷につながれているんだから、この足枷を切りさえすれば神様にお会いできるのだ。」

(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉  マヘンドラ・グプタ著)

 

 

次回も引き続き、「バクティ・ヨーガ」について、ご紹介したいと思います。

 

 

 

かれはあらゆる感覚機能をもつが

かれ自身には感覚器官が無い

一切を維持しながら一切に執着なく

物質性(グナ)を楽しんで 物質性(グナ)を超越している

 

全てのものの内にも外にもかれは在り

不動であって しかも動く

はるかに遠く また極めて近く

その精妙なこと とても肉体感覚では認識不可能だ

 

個々に分かれて存在するように見えるが

かれは決して分かれず常に一(ひとつ)である

かれは万生万物の維持者であるが

一切の絶滅者であり 創造育成者である

(バガヴァッド・ギーター第13章15ー17)

 

 

 

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