最高の愛(バクティ・ヨーガ) - 準備のための予備訓練(4)
「見神」(悟り)に至る道は、いろいろありますが、
今、ご紹介している道は、バクティ・ヨーガ、信仰の道です。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉から、真の「バクティ」(神への信愛)とは、どういうものか?について、ご紹介しています。
かなり厳しい内容のように感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは解脱へ至る道ですから、平坦な道ではないことは当然であり、「狭き門」より入り、自己の本性を悟ることで、「永遠の実在」であるブラフマンに至る細くて狭い道なのです。
そして、この「バクティ・ヨーガ」が、末世(カリユガ)である現代においては、一番適した「悟りへの道」である、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダの師(グル)でいらっしゃいます聖ラーマクリシュナのお言葉も併せて、ご紹介させて頂きます。
『このように、心がこの具体性という訓練を受けるものには様々な形式がある。
そこから、私たちは、一歩一歩、抽象的なものの理解、抽象的な悟りへと進んでゆく。
再び言うが、同じ形式がすべての人に合っているわけではない。
ある形式があなたに合っているし、別の形式がほかの誰かに合っているだろう、等々。
同じ目標に通じているにしても、すべての形式が私たち皆に合っているわけではない。
ここに私たちが犯しやすい別の過ちがある。
私の理想はあなたに適していない。
それなら、なぜ、私はあなたがたにそれを強制する必要があろうか。
私の教会の建て方や賛歌の読み方はあなたに合っていない。
それなら、なぜ、私はあなたにそれを強制する必要があろうか。
世界を回ってごらん。
馬鹿どもが皆、自分の形式だけが唯一正しい、ほかの形式はみな悪魔のものだ、そして、自分だけがこの世界に生まれた唯一の「選民」だと言うだろう。
これらすべての形式はみな良いもので、役に立っている。
そして、人間の性質にはさまざまの種類があるように、宗教にも数多くの形式が必要だ。
そしてその数が多ければ多いほど世の中にとってはよい。
世界中に20の宗教の形式があれば非常にけっこうだ。
400あればなおけっこうだ。
より多くの中から選択できるからだ。
だから、宗教と、宗教的な観念の数が増えて、何倍にもなれば私たちは喜んだほうがよい。
なぜなら、そうなればそれらがすべての人を含み、人類をよりいっそう助けれくれるからだ。
すべての人がほかの人とまったく異なった、自分自身の宗教を持てるほど宗教の数が増えたら、神にとってはどんなによかろう。
これがバクティ・ヨーガの観念だ。
その最終的な観念は、私の宗教はあなたのものではありえないし、あなたの宗教は私のものではありえないということだ。
目標と目的は同じだが、それぞれの人はその性癖にしたがって、別々の道をとらなければならないのだ。
そして、これらの道はさまざまであるが、それぞれの道はみな真実でなければならない。
それぞれが同じ目標に通じているからだ。
ひとつだけが真実で、ほかは間違いだということはありえない。
自分自身の道を選ぶことは、バクティの用語では、イシュタ、選ばれた道と呼ばれている。
それから、言葉がある。
あなたがたはこの言葉の力について聞いたことがあるだろう。
言葉は本当にすばらしい。
聖書、コーラン、ヴェーダなどの聖典は言葉の力で満ちあふれている。
ある言葉は人間性の上にすばらしい力を及ぼしている。
それから、他の形式や象徴がある。
象徴は人類の心に大きな影響を与えてきた。
しかし、宗教の中の偉大な象徴は偶然にできたものではない。
私たちには、それらが思想の表現だということが分かる。
私たちは象徴を使って考える。
すべての言葉はその背後にある思想の象徴に過ぎない。
そして、民族が違えば理由を知らずに違う象徴を用いるようになる。
それは隠れている。
これらの象徴は思想と結びついている。
思想が象徴を外に引き出すように、象徴は、逆に、思想を内に引き入れることができる。
このように、バクティのこの部分は、象徴と言葉と祈りというさまざまの主題について告げる。
すべての宗教に祈りがある。
しかし、ここで銘記しておかなければならないのは、健康や富を求めてする祈りはバクティではないということだ。
それは皆カルマであり、報償を求める行為だ。
実質的な利益を求めてする祈りは、例えば、天国へ行くことを求めてする祈りなどはカルマに過ぎない。
神を愛し、バクタになることを求める人びとはこのような祈りをすべて捨てなければならない。
光りの国に入りたいと思う人は、この売り買いの、「商売」の宗教を全部束にして脇へ寄せ、それから、門に入りなさい。
あなたがたが祈り求めるものが得られないからではない。
何でも得られるだろう。
だがそれは卑しく、低俗な、乞食の宗教だ。
ガンジスの岸辺に住みながら、水を求めて小さな井戸を掘る者は本当に馬鹿だ。
ダイヤモンドの鉱山に来ていながら、ガラス玉を探す者は本当に馬鹿だ。
ダイヤモンドの鉱山である神に、健康や、夕食や、一枚の布切れを乞うことは何たることだ!
それらはこの世のガラス玉にすぎない!
この肉体はいつかは滅びる。
その肉体の健康を何度も何度も祈って何になるというのだ。
健康や富が何だというのだ。
大富豪だって、自分の富のほんのわずかしか使えない。
私たちはこの世にあるものすべてを手に入れることは決してできない。
そんなものを誰がきにするというのか。
なにか良いものがきたら、大歓迎。
それが行ってしまうのなら、よろしい。
行かせてやろう。
それらが来るならけっこうだ。
それらが行っても、やっぱりけっこうだ。
私たちは神を悟ろうとしているのだ。
王の中の王の面前に行きたいと努力しているのだ。
乞食の衣装ではそこへは行けない。
乞食の衣服で皇帝の面前に出たいと願ったとして、果たして、受け入れられるだろうか。
もちろん違う。
追い払われてしまうだろう。
私たちの神は、帝王の中の帝王だ。
私たちは乞食のぼろでその御前に行くことはできない。
商人もいまだかってそこに受け入れられたことはなかった。
売買はそこでは役に立たないからだ。
聖書にあるように、イエスは神殿から商売人たちを追い払った。
それなのに、ある人びとは「おお、主よ。わたしはこの小さい祈りをあなたがにお捧げします。
お返しに私に新しい洋服をお与え下さい。おお、主よ。
私の頭痛をお治し下さい。
明日はもう2時間お祈りします」
あなたがたの心の状態よりもう少し高く自分を置きなさい。
祈り求める小さなものより自分を高く考えなさい。
人が精神的エネルギーの全部をそんなものの祈りに使うとしたら、人と動物の違いはどこにあるというのか。』
(最高の愛 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
『マリワリの信者
「お上人さま(マハーラージ)、ガンジス河の岸辺で死ななければ、解脱できないのでございますか?」
聖ラーマクリシュナ
「智識が完成すれば、解脱できるんだよ。
どこに居たってかまうものか--死骸やゴミが積み重なった山で死のうが、ガンジス河の岸辺で死のうが、正しい智識をもった人は解脱する。
だが、無智な人にとっては、ガンガーの岸辺がいいんだろうねえ」
マリワリの信者
「お上人さま(マハーラージ)、ベナレスで死ねば解脱できるというのは、どういうわけでございますか?」
聖ラーマクリシュナ
「ベナレスで死ぬとシヴァが会って下さる。
そして、『わたしのこの形をとった相(すがた)は、無明(マーヤー)のなかでとった姿だ。
わたしは、信者たちのためにこの相(すがた)をとっている。--さあ、見なさい。
わたしは完全無欠のサッチダーナンダに溶け込んでいく!』こうおっしゃって、その姿は消える!
プラーナでは、賤民でさえ神を信仰すれば解脱できると言っている。
この教義では、称名をしさえすれば解脱できると言う。
犠牲供養も、密教的修行も、マントラも、一切合切必要ないと言っている。
ヴェーダの考え方はこれとは別だ。
バラモン(祭祀を執り行う階級)でなくては解脱できない。
マントラを正しく発音して称えなければ、神は祭祀を受けつけない。
犠牲供養、秘密の修行、マントラのくり返し--みんな規則通りに行わなければならない」
「末世(カリユガ)の今、ヴェーダに書いてある通りの行事をする時間があるかい?
だから現代は、ナーラダのような”信仰”(バクティ)がいいのだ。
カルマ(行い)・ヨーガは大そう難しい。
無私の気持ちになれなければ、行いは束縛(しばり)の原因になる。
その上、食物なしには生きられないから--すべてのことをその通りに行うヒマがない。
昔ながらの木根草皮を十種類もあつめて煎じ薬をつくっているうちに、熱病人の方は間に合わなくてオダブツだ。
現代の熱サマシを飲まなけりゃだめだ。
ナーラダのような信仰--あの御方の名を唱え、讃歌をうたうことだ。
末世(カリユガ)にはカルマ・ヨーガは合わない。
信仰(バクティ)のヨーガが適している。
世間にいて、過去世でしのこした経験(ボーガ)がある分だけ仕事をしろ。
そして、神への信仰、恋慕の気持ちを養うことだ。
あの御方の名をとなえて讃歌をうたえば、過去の行為は帳消しになるからね。
仕事を一生の間する必要はないんだよ。
あの御方を清浄(きれい)な気持ちで慕うにつれて、仕事の方は減ってくる。
あの御方をつかんでしまえば仕事は捨てられる。
嫁が胎に子をはらめば、姑は家事を減らしてくれる。
赤ん坊が生まれたら、もう何もしないで子守だけしていればよくなる」
青年
「先生、智慧とはどういうものですか?」
聖ラーマクリシュナ
「神だけが真実在で、そのほかはすべて虚仮(こけ)。
これを知るのが智慧だ。
真実在--またの名をブラフマン。
もう一つの名を”時”(カーラ)という。
だから、こう言われているよ。--『兄弟よ、ごらん、何と多くのものが”時”(カーラ)のなかに生まれ、”時”(カーラ)の中に消え去るか』
大実母カーリーは、”時”(カーラ)と交接なさる。
カーリーは根源造化力(アディアシャクティ)のことだ。
時(カーラ)とカーリー、ブラフマンと創造力(シャクティ)--不異(おなじ)ものだ。
”それ”(タット)、真実在のブラフマンは永遠だ。--
三世(過去、現在、未来)にわたって実在している。
初めも終わりもない。
それを言葉で表現することはできない。
無理して言えば、それは霊(精神)そのものであり、歓喜(よろこび)そのものだ。
世界は一時的なもの、あの御方だけ永遠だ!
われわれの見ている世界は魔術のようなものだ。
魔術師だけはほんとうにいるが、魔術師の見せる魔法はその場かぎりの現象だよ」
青年
「この世界は幻象(マーヤー)で、魔法だとおっしゃいますが、どうしてこの幻象(マーヤー)は、いつまでも消えないのでしょうか?」
聖ラーマクリシュナ
「前生から続いてきた錯覚で、幻象(マーヤー)は消えないのさ。
何度も何度もこの幻象(マーヤー)の世界に住み続けてきたから、この幻象(マーヤー)が実在だと思い込んでしまっているのさ。」
(大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
この錯覚を取り去ること、眼に見える現象はすべて幻象(マーヤー)だと見抜くこと。
それは同時に、永遠の真実在が、自己の本性として悟られることを意味します。
自分の中に、「神」を見い出すこと。
それが、「見神」であり、探求者にとっては、自己の本性を悟ることが、探求のゴールなのです。
さて、永遠の生命を得るために
知るべきことを これから説明しよう
大霊ブラフマンは無死であり
有と無を超越している
あらゆるところに かれの手あり足あり
眼も頭も顔も至る処にあり
至る処に耳があって全ての音を聞き
全てを覆いつくして時空に充満している
(バガヴァッド・ギーター第13章13ー14)
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☆自己変容したい人
☆真理を体得したい人
☆束縛から解放され真の自由を得たい人
☆真我の目覚めを体験したい人
☆神の直接体験に与りたい人
など、魂の最終的な目的地に到達したい方々のために、
クンダリニー覚醒されましたシュリ・ナーナ先生から放たれるシャクティ・プラーナの恩寵に与るサットサンガ(真我の集い)、個人セッションが、毎月、各地で開催されています。
詳しくは、シュリ・ナーナ先生の公式ホームページをご覧下さい。
http://pranahna.com/ (真我が目覚めるとき――シュリ・ナーナ先生の公式HP)
☆シャクティ・プラーナによるシャクティ・パータは、サットサンガに6回以上参加した後、シュリ・ナーナ先生の個人セッションにて受けることができます。
☆また、サットサンガに6回以上参加されると、パートナーのキヨ先生の個人セッション、チャクラの浄化(活性化)セッションとサードアイ開眼セッションを受けることができ、自分の体にあるチャクラ(の強弱)を実際に体験し、浄化し、活性化することができます。
チャクラを浄化し、活性化することで、チャクラ周りの器官から放出されるエネルギーの生き生きとした循環が促され、身体における覚醒への準備を促すことができ、目覚めへの準備を整えることができます。
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