わたしは誰か?-アートマンについて(11)
真の自己であり、私たちの本質であるアートマンについて、そして、アートマンとブラフマンは同一である、というアドヴァイタ(不二一元)について、
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集からご紹介してきましたが、
今回は、このアドヴァイタは、宗教的な教え、思想というだけでなく、この地上においては、あらゆる人類が抱える問題を解決へと導く叡智である、というスワミ・ヴィヴェーカーナンダの力強い言葉を、ご紹介したいと思います。
『得るものは何か。力です。
あなたが世界の上にかけたあの催眠術のヴェイルを取り去れ。
人類に向かって弱さの思いや言葉を送り出すな、すべての罪、すべての悪は弱さというこの一語に要約され得るのだ、ということを知れ。
全ての悪い行為の原動力は弱さです。
全ての利己主義の源は弱さです。
人々をして他者を傷つけしめるのは弱さです。
彼らをして、真の自己でない姿を現しめるのは弱さなのです。
彼ら全てをして、自分たちは何者であるかを知らしめよ。
彼らをして、昼も夜も自分たちがあるところのものを繰り返さしめよ。
ソーハム(私は“かれ”である)、彼らをしてそれを、この力の思想を、母の乳と共に吸わしめよ――私は“かれ”である、私は“かれ”である。これはまず最初に聴かれるべきものであります――そしてそれから、彼らをしてそれについて考えしめよ。
するとその思考の中から、そのハートの中から、世界がかつて見たことのないような働きが生まれるでありましょう。
何がなされるべきであるか。
そう、このアドワイタは、ある人によって実際的ではないと言われて来ました。
つまり、それはまだ物質世界にはみずからを現していない、と言うのです。
ある程度、それは真実です。
なぜなら、ヴェーダの章句を思い出して下さい――
「オーム、これはブラフマンである。
オーム、これは最も偉大なる実在である。
このオームの秘密を知る者は、欲するもののことごとくを得ることができる」
そうです、ですからまず、あなたはオームであると言う、このオームの秘密を知りなさい。
このタットヴァマシ(汝は“それ”なり)の秘密をお知りなさい。
かくして初めて、欲するものことごとくは、やって来るのです。
もしあながたが物質的に偉大になりたいのなら、自分はそうである、とお信じなさい。
私は小さな泡かも知れない、そしてあなたは山のように高い波でしょう。
しかし私たちの何れもが、その背後に無限の大海を控えているのだ、ということをお知りなさい。
無限のブラフマンが私たちの力と強さとの倉庫であって、泡である私も、山のように高い波であるあなたも、二人ともが、自分が欲しいだけそこから引き出すことができるのです。
ですから、あなた自身をお信じなさい。
アドワイタの秘密は、まずあなた方自身を信ぜよ。
それから、他の何ものでもを信ぜよ、と言うものです。
世界の歴史の中で、自らを信じた国々のみが偉大に、そして強くなったことを皆さんはごらんになるでしょう。
各国の歴史の中では、彼ら自らを信じた個人たちのみが偉大に、そして強くなったことをごらんになるでしょう。
これは実践の面での教えです。
ですから、皆さんは自分をお信じなさい。
そしてもし物質的な富が欲しいと思うなら、それを実行しなさい。
必ず獲得するでしょう。
もし知的になりたいと思うなら、知性の分野でそれを実行しなさい。
あなたは知的な人になるはずです。
そしてもしあなたが解脱を得たいと思うなら、霊的な面でそれを実行しなさい。
あなたは自由になり、ニルヴァーナ、永遠の至福に入ります。
しかしアドワイタの中にある一つの欠点は、それが長い間霊的な面でのみ実行されて他の面では実行されなかった、ということです。
今や、皆さんがそれを実用的にしなければならない時がやって来ました。
もはやそれはラハシャ、秘密であってはなりません。
洞穴や森の中やヒマラヤ山中で僧と共にある、というだけではいけません。
それは人々の日々の生活の中におりて来なければなりません。
王の宮殿の中で、隠遁者の洞穴の中で実現させましょう。
貧しい人々の小屋の中で、街頭の乞食によって、到る処、それが実践され得る限りのあらゆる場所で実現させましょう。
それゆえ、あなたが女であろうと、シュ―ドラ(カーストという身分制度の中で、最も卑しいとされている階級)であろうと、恐れてはなりません。
主クリシュナは、この宗教は実に偉大であって、その一しずくさえ膨大な量の善をもたらす、と言っていらっしゃるのです。
それゆえ、アリアン人の子供たちよ、目ざめよ、立て、そしてゴールに着くまで止まるな。
アドワイタが実行に移されるべきときが来たのです。
これが現代の摂理です。
ああ、古代のわれわれの祖先たちの声が、それを天界から地上にひきおろせ、と告げています。
皆さんの教えが社会の毛孔の一つ一つに入り込むまで、それらがついにあらゆる人の共有財産となるまで、それらが皆さんの人生の眼目となるまで、それらがわれわれの血脈に入り込んでそこで血液の一滴一滴と共に震動するようになるまで、それらをこの世界に浸透おさせなさい。
「賢者たちが責めようと誉めようとかまわない。
ラクシュミ(富の女神)が今日来ようと、または行ってしまおうとかまわない、死がたった今訪れようと百年のうちに来ようとかまわない、正しい道からたとえ一歩たりとも踏みはずさぬ一、かれこそは実に賢者である」
起きよ、そしてめざめよ、時はすぎ行き、われわれの全てのエネルギーは空しいおしゃべりによって浪費されるのです。
起きよ、そしてめざめよ、些末な事柄や、細目についての口論や、小さな主義主張についての争いなどは傍らに投げ捨ててしまえ、ここにあらゆる仕事の中の最大のものがあるのです。
ここに、沈みつつある幾百万人がいるのです。
われわれに必要なのは、多くの霊性よりも、少しばかりのアドワイタを物質世界の中に持って来ることです。
先ずパン、それから宗教です。
貧しい人々が飢えているというのに、われわれは彼らに宗教を詰め込みすぎます。
飢えを満たす教義などはどこにもありますまい。
ここには二つのわざわいがあります。
第一はわれわれの弱さ、第二は、われわれの嫌悪、われわれの干からびたハートです。
たとえ幾百万の教えを語っても、億万の宗教をこしらえても、ああ、あなたが感じるハートを持っていなければ、何にもなりません。
皆さんのヴェーダが教えているように、彼らのためにお感じなさい。
彼らは自分の肉体の一部である、ということが分かるまで、自分も彼らも、貧しきも富めるも、聖者も罪人も、みな共に自分がブラフマンと呼ぶ“唯一、無限の統一体”の一部なのである、ということを理解するまで。
紳士諸君、私は皆さんの前に、アドワイタ体系の輝かしい点の二、三を提示しました。
そして今や、それがこの国だけでなくあらゆる所で実行に移されなければならない時が来ているのです。
現代科学とそれの強力な打撃は、到る処で二元論的宗教のセトモノの土台を粉砕しつつあります。
二元論者が経典のこじつけを行なっているのはここばかりではありません。
経典はこれ以上伸びようがないというところまで伸ばされてしまっています――経典はインドゴムではないのですから。
彼らが自分たちを護るためにそれらのすみずみにまで入り込んでいるのはここばかりではないのです。
ヨーロッパやアメリカでは一層その現象が顕著です。
それゆえかの地にも、この思想に含まれる何ものかが行かなければならないでしょう。
それは、もう行っています。
それは成長し増大して、彼らの文明をも救わなければならないでしょう。
なぜなら、西洋では古いものの秩序は消滅して、黄金の崇拝、富の神の崇拝という新しい秩序に場所をゆずりつつあるのです。
このようなわけで、この宗教という古いシステムは、いわば競争と黄金である現代のシステムよりも良いものでした。
どんなに強くても、このような基礎の上に立ち続けることのできる民族はありません。
世界の歴史は、このような基礎を持っていた民族はことごとく亡び去ったことを告げています。
まず第一にわれわれは、このような波がインドに入りこむのを止めなければなりません。
ですから、宗教が近代科学の衝撃に堪えられるよう、あらゆる人にアドワイタを説いておきかせなさい。
そればかりでなく、皆さんは他者をも助けなければなりますまい。
皆さんの思想はヨーロッバやアメリカを救うでしょう。
それら全てにも増して、私にもう一度念をおさせて下さい、ここに実地の仕事の必要があります。
それの第一歩は、皆さんがインドの沈みつつある幾百万人のもとに行き、主クリシュナの次の言葉を思い起こしながら彼らの手を取ることであります。
「その心があらゆるものの同一性に確固と集中している人は、この世に生きながら相対界を克服したのである。
神は全てに対して純粋かつ同一であるから、それ故かかる人は、神の中に生きている、と言われる」』
(ヴェーダーンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
『わたしはいつも言うんだが、皆があの御方に呼びかけているんだよ。
お互いに、嫉みや憎しみは無用だ。
神様は相(すがた)を持っていると言い張る人もあるし、いや、神は無相の実在だ、と言う人もある。
だから、わたしは言うのさ、『形ある神を信じる人は、その姿心を集中しろ。
無相の実在を信じている人は、その無相の実在というものを瞑想していればいい』とね。
わたしが言いたいのは、ひとりよがりは良くない、と言うことだ。
つまり、『自分の宗教は正しいが、ほかのものは皆、間違っている』と思うのがよくない。
『私の宗教は正しい。だが、他の宗教が正しいか間違っているか、ホンモノかニセモノか、そういうことは私にはわからない』--こう思っていればいいんだよ。
そうだろうじゃないか。
神様に直に会ってみなければ、あの御方の相(すがた)や性質がわかるわけがない。
ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、シャクティ教、シヴァ派、ヴィシュヌ派、それに古代、リシたちの時代にブラフマン智を求めた人びとも、今の時代の新興宗教の信者も、皆がみんな一つの本質を探し求めているんだよ。
それで、大実母は子供たちのお腹に合うように料理をつくって下さるんだよ。
どういうことかわかるかい?
国と時代と容器(人の理解力)に応じて、神様はいろんな宗教をおつくりになるというわけだ。
どの教義(いけん)も道ではあるが、教義は決して神そのものではない。
だが、熱心に信仰して一つの教義(みち)に従っていけば、やがて神様のところへ到着する。
教義に間違いがあったとしても、誠実で熱心ならば、あの御方ご自身がその間違いを正して下さる。
もし誰かが、心の底からジャガンナートに参詣したいと思って出発したが、間違えて南へ行かずに北の方に行ったとする。
すると途中で、誰かがきっと、「おや、ジャガンナートはこっちじゃありませんよ。南の方へ行かなくちゃ」と教えてくれるよ。
そして、遅かれ早かれ、目的地へ着くことができる。
だから、他の宗教に誤りがあっても、何もわたしたちが心配することはない。
世界の主(あるじ)であるあの御方が、ちゃんと面倒見て下さる。
わたしらの義務(つとめ)は、何としてでもジャガンナートに会うことなんだ。』
(大聖ラーマ・クリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
どんな事物にも喜ばず悲しまず
こうあって欲しいとも欲しくないとも思わず
吉凶禍福に超然として心動かさぬ者
このような人をわたしは愛する
友も敵も等しく扱い 名誉不名誉に関心なく
寒暑 苦楽 また賞賛 非難に心動かさず
常に無益な交際をせず 無益な口をきかず
何事にも満足し 住所住居に執着なく
確固たる決心で心をわたしに結びつけ
信愛行(バクティ・ヨーガ)にはげむ人をわたしは愛する
わたしを信じ 愛慕し
わたしを究極至上の目的として
この永遠不滅の法道を行くわたしの信者を
わたしはこの上なく愛している
(バガヴァッド・ギーター第12章17-20)