永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-アートマンについて(10)

前回は、この宇宙で唯一の実在であるブラフマンについて、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集よりご紹介させて頂きましたが、

今回は、「我は”それ”なり」という梵我一如の思想であるアドヴァイタ(不二一元)について、少し理解を深めるために、前回と続きとなりますが、ご紹介させて頂きます。

 

 

『このようにして、皆さんはこれが、しかもこれだけが、唯一の科学的な宗教であり得るのだ、ということを理解なさったと思います。

半分教育された現代のインドで毎日行われている科学に関する片言のおしゃべりをきき、毎日のように耳にする合理主義や理性に関する談義をきき、私は皆さんの全宗派がやって来て思い切ってアドワイティストとなり、仏陀が言った「多くの人の利益のために、多くの人の幸福のために」あえてそれを説法されるよう、期待するものであります。

もしそれをしないなら、私は皆さんを卑怯だと思います。

もし皆さんが自分の臆病を克服することができず、恐れる気持ちを口実とするのなら、他者にも同じ自由をお与えなさい。

哀れな偶像崇拝者を粉砕しようなどとしてはいけません。

かれを悪魔と呼んではいけません。

自分も完全には同意できないようなことを、相手かまわずに説いてまわってはなりません。

まずお知りなさい、自分みずからが臆病者であるのだということを、もし社会が恐ろしいのなら、もしあなた自身の過去の迷信がそんなに恐ろしいのなら、これらの迷信があの無知な人々をおびやかし縛りつけるさまはそれにも増してどれほどのものでしょう。

それがアドワイタの見地です。

他人に慈悲をお持ちなさい。

全世界が明日にでも、理論だけではなく悟りによってアドワイティストになったらよいのだけれど。

しかしそれが不可能なら、われわれはその次の最善のことをしようではありませんか。

無知な人々の手を取って、彼らの行けるところまで一歩一歩と常に導いて行きましょう。

そして、インドにおけるすべての宗教的進歩の、あらゆる段階は道程だったのだということを知りましょう。

それは悪から善へと向かっているのではなく、善からもっと善いものへと向かっているのです。

道徳的関係についてもう少し申し上げておかなければならないことがあります。

わが国の若者たちは近頃――誰から教わったのやら――アドワイタは人を不道徳にする、もし我らが一つであって全て神であるなら、道徳の必要がないのではないか、などと楽しそうに話しています!

まず第一に、それは笞が無ければ鎮めることのできない獣の議論です。

もし皆さんがそんな獣であるなら、笞で抑えられなければならない人間と見れられるよりはむしろ自殺をなさい。

笞がなくなると皆が悪魔になるのでしょう!

そんなことなら殺される方がましです。

常に笞の監督のもとに生きなければならない、そのような人には救いはありません。

第二には、アドワイタが、しかもアドワイタのみが、道徳を説明することができるのです。

あらゆる宗教が、すべての道徳の真髄は他者に善をなすことである、と説くでしょう。

なぜですか。

非利己的であれ。

なぜそうでなければならないのか。

ある神がそうおっしゃったからである。

その神は私の神ではありません。

ある聖典にそう書いてあるのだ。

聖典にはそう言わせておくがよい、私には何の関係もないことです。

全部の聖典がそう言うがよい、たとい彼らがそう言っても、私は何の痛痒も感じません。

めいめい自分のことが第一、遅れた者は馬鹿を見るのです。

これが世間の、少なくとも大多数の、道徳です。

私は道徳的でなければならない、という理由はどこにあるのでしょうか。

ギーターに次のように説かれている真理を知るようにならなければ、それを説明することはできません。

「あらゆる者をかれ自身の内に見、かれ自身をあらゆる者の内に見、かくして全ての者の内に宿る同一の“神”を見る者、かれ、すなわち賢者は、もう自己によって“自己”を殺さない」

アドワイタによって、何者であれ自分が傷つければ、自分は自分を傷つけているのである、彼らは全て自分なのである、ということをお知りなさい。

あなたが知る知らぬにかかわらず、全ての手によってあなたは働いており、全ての足によってあなたは動いているのです。

あなたは王宮で快適に暮らす王であり、あなたは街頭であの惨めな生活をしている乞食であるのです。

あなたは学識ある者たちの内にあると同時に無知な者たちの内部にもいます。

あなたは弱い者たちの内にいます。

そして強い者たちの内にいます。

このことを知って、慈悲深くおありなさい。

それだから、われわれは他者を傷つけてはならないのです。

それだから、私は自分が餓死せねばならぬとしても気にとめさえしないのです。

なぜなら同時にすべての至福を楽しんでいるのです。

また誰が、私すなわち宇宙を殺すことができますか。

この中に、道徳があるのです。

ここ、アドワイタの中においてのみ、道徳は説明することができるのです。

他の教えもそれを説きます。

しかしその理由を挙げることができません。

ですから説明まではできないのです。』

ヴェーダーンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

わたしもあなたもブラフマン(神)である、という確固たる認識を持つことにより、私たちは精神的に、大きな影響を受けます。

 

その影響は、霊的な目覚めを伴う人間性の向上につながっていきます。

 

アドヴァイタ(不二一元)は、理論だけではなく、実践を伴ってこそ、真の真価を発揮するのです。

 

宇宙と、神と、わたしは”ひとつ”である。

 

そこに、恐れはありません。

 

これこそが、人を強くし、歓びを生み出し、人生を実り豊かにする奥義なのです。

 

 

 

誰にも迷惑をかけず 干渉もせず

誰からも心の平安を乱されない者

順境にも逆境にも心平静な者

このような人をわたしは愛する

 

私心なく 身心ともに清純で何事にも適切に対処し

何事も心配せず何事にも悩まず

結果を期待した企画や努力をしない者

このような人をわたしは愛する

(バガヴァッド・ギーター第12章15-16)