わたしは誰か?-アートマンについて(9)
前回、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺稿集からご紹介した部分では、
私たちの本質は、アートマンであり、アートマンは、実は、ブラフマンに他ならない、という理論が展開しました。
この宇宙で唯一の実在を、ウパニシャッドでは、「ブラフマン」と呼んでいます。
今回は、アートマンではなく、このブラフマンについての理解を深めるために、前回の続きをご紹介したいと思います。
『このアイディヤを、われわれは理解しなければなりません。
「知る者をどのようにして知るか」知る者は、知られることはあり得ません。
もしそれが知られたとしたら、もうそれは知る者ではありますまい。
皆さんが自分の眼を鏡で見ても、映像はもはや皆さんの眼ではなく、他のあるもの、すなわち単なる映像なのです。
ではもしこの”霊”、真の皆さんであるところのこの”普遍の”、”無限の存在”が単に目撃者であるだけだったら、何のよいことがありましょう。
それは、われわれがしているように生き、動きまわり、そしてこの世界を楽しむ、ということができません。
人々は目撃者がどんなに楽しむことができるものであるかということを理解し得ていません。
彼らは言うのです。
「おお、君たちヒンドゥは、人は目撃者であるというこの教えによって無活動の役立たずになってしまった!」と。
まず申し上げますが、楽しむことのできるのは目撃者だけなのです。
角力の試合があるとすれば、誰がそれを楽しみますか。
試合をする者たちですか、それともアウトサイダースーー見物人ですか。
人生のあらゆることについて皆さんが目撃者であればあるほど、皆さんは一層それを楽しむのです。
これがアーナンダ(至福)です。
ですから、この宇宙の”目撃者”(照覧者)になったときに初めて、無限の至福は皆さんのものになるのです。
そのときに初めて、あなたは一個のムクタ・プルシャ(肉体を持ちながらブラフマンの叡智に目覚めている人)なのです。
いかなる欲望も持たずに、天国に行くことも考えず、罰せられることも、責められることも一切考えないで働くことのできる者は”目撃者”だけです。
”目撃者”だけが楽しむのです。他の者はだめです。
道徳的な面に移りますと、アドワイティズムの形而上学的面と道徳的面との間には一つのものがあります。
それはマーヤー(幻)の学説です。
アドワイタの体系の中のこれらの点のどれもが、理解するには何年をも必要とし、説明するには何か月をも必要とします。
ですから、ここではそれにちょっと触れるだけであってもどうぞ許して下さい。
あらゆる時代において、このマーヤーの学説は理解することが最も難しいものでした。
かんたんに申し上げると、それは確かに学説ではありません。
デシャ・カーラ・ニミッターー空間、時間、および因果律ーーという、三つの観念の結合です。
そしてこの時間と空間と因果律とは、更にナーマ・ルパ(名と形)にまで縮められました。
海上に波が立っているとします。
波はその形と名とにおいてのみ海とは異なるものであり、そしてこの名とこの形とは、波から離れては存在することはできません。
それらは波と共にのみ存在するのです。
波の形とは、波から離れて存在することはできません。
それらは波と共にのみ存在するのです。
波は退くでしょう。
しかし、その波についていた名と形は永久に消えても、同じ量の海水はそのまま残っています。
それゆえこのマーヤーは、私と皆さんとの、すべての獣たちと人間との、神々と人間とのちがいをつくるところのものです。
事実、アートマンが幾百万の生きものの中に言わば、捕らえられるようにするのはこのマーヤーであって、これは名と形によってのみ区別ができるものなのです。
もしそれをそのままにしておき、名と形を去らせてしまうなら、すべての多様性は永久に消え失せて、あなたはあなたが真実あるところのものであります。
これがマーヤーなのです。
くり返して言いますが、これは学説ではなく、事実の宣言です。
リアリストが、このテーブルは存在する、と宣べる場合には、かれは、このテーブルはそれ自身の独立した存在を持っていて、宇宙間の他の何ものの存在にも依存しているのではなく、もし全宇宙が破壊され消滅しても、このテーブルは今のままに存続するであろう、ということを意味しています。
そんなことはあり得ない、ということはちょっと考えたら分るでしょう。
ここ感覚の世界の一切物は従属的であって相互に依存しあっており、相対的であって相互に関係し合っており、他に依存するという存在です。
ですから、われわれのものの知識には三つの段階があります。
第一は、各々のものは個別的であって他とは離れている、というもの、次の段階は、すべてのものの間には関係があり相互関係がある、ということを見出すこと、そして第三は、われわれが多数と見ているところのたった一つのものがあるのだ、ということです。
無知な人々の最初の神の観念は、この神は言わば宇宙の外のどこかにいる、というもので、神をごく人間的なものと考えています。
もっと大きくもっと高いスケールで行なうというだけで、”かれ”は人がするのと全く同じことをします。
そして次の観念は、われわれが到る処にその現れを見る一つの力、という観念です。
これは、チャンディ(経典の名、母なる神の一名でもある)の中に見られる、真の”人格神”です。
しかし、よくおききなさい、皆さんがすべての善い性質の貯蔵庫と考える、そういう神ではありません。
皆さんは、神と悪魔というように、二つの神を持つことはできません。
たった一つを持たなければならない、そして”かれ”を、思い切って善とも悪とも呼ばなければならないのです。
一つだけをお持ちなさい。
そして、論理的な結果を甘受なさい。
チャンディにはこう書いてあります。
「私どもは”あなた”におじぎを致します。
おお、生きとし生けるものの中に平和として宿っておいでになる、”母なる神”よ。私どもは”あなた”におじぎを致します。
おお、生きとし生けるものの中に浄らかさとして宿っておいでになる、”母なる神”よ」
同時に、われわれは”かれ”を”全ての形をした者”と呼ぶことの結果を全面的に甘受しなければなりません。
「このすべては至福です。
おお、ガールギよ、至福のあるところすべてに、神の一部分があります」
皆さんはそれを好きなように使えばよいのです。
私の前のこの灯火の下で、あなたは貧しい人に百ルピーを与えるかも知れない、そしてもう一人の男はあなたの名前をかたるかも知れない、しかし灯火は二人にとって同じものでしょう。
これが第二の段階です。
第三の段階は、神は自然界の外にいるのでも内にいるのでもない、神と自然と魂と宇宙はすべて、同一の意味を持つ言葉である、というものです。
皆さんは決して、二つのものは見ません。
皆さんを欺いたのは、皆さんの形而上学上の用語です。
皆さんは、自分は肉体であってしかも魂を持っている、自分はその両方を一しょにしたものである、と思っておいでです。
どうしてそんなことがあり得ましょう。
自分の心の中で試してみてごらんなさい。
もし皆さんの中にヨギがおられるなら、その人は自分をチャイタニヤ(意識)と見ています。
かれにとっては肉体はもう消えているのです。
普通の人は自分を肉体だと思っています。
霊という観念はかれから消えてしまっています。
しかし人は肉体と魂とこれらすべてのものを持っている、という形而上学的観念があるものですから、皆さんは、それらすべてが同時にそこにあるのだ、と思うのです。
一つの時には一つのものです。
物質が見えているときには神をかたりなさるな、あなたは結果を、結果だけを見ているのであって、原因はあなたには見えてはいません。
あなたが原因を見ることができた瞬間に、結果は消えているでしょう。
世界はそのときどこにあるのか、また誰がとり去ったのでしょう。
「常に意識として現前するもの、絶対の至福、すべての束縛を超え、すべての比較を超え、すべての性質を超えて、常に自由で、大空のように限界なく、部分も持たず、絶対の、完全なるーーこのようなブラフマンが、おお、賢者よ、おお、学識ある者よ、サマーディに入ったジュニヤーニ(見識者)のハートの中で輝くのだ。
自然のすべての変化が永久にやむところ、すべての思いを超えて思われる者、すべてのものと等しくそれでいて比類の無い者、見ることができない、ヴェーダが述べている者、我らが我らの存在と呼ぶもののエッセンスである者、完全なる者――このようなブラフマンが、おお、賢者よ、おお、学識ある者よ、サマーディに入ったジュニヤーニのハートの中で輝くのだ。
すべての誕生と死とを超えた、“無限なる一者”、比べることのできない、マハープララヤ(宇宙の解消状態)の中で水没した宇宙のようにーー上も水、下も水、四方八方水、そしてその水の表面には一滴もなく、さざ波ひとつも立っていないーー無言のそして静寂な、すべてのヴィジョンは消え去った、馬鹿者や聖者たちの闘いやけんかや戦争は永久に止んでしまったーーそのようなブラフマンが、おお、賢者よ、おお、学識ある者よ、サマーディに入ったジュニヤーニのハートの中で輝くのだ」
それもまた、やって来ます。
そしてそれがやって来るとき、世界は消えているのです。
それからわれわれは、このブラフマン、この実在が知られていないし知ることができないものであるというのは不可知論者が言うような意味においてではなく、あなたがすでに“かれ”であるのだから“かれ”を知るということは冒涜に当るからだ、ということを知りました。
また、このブラフマンはこのテーブルではないがしかしこのテーブルなのである、ということも知りました。
名と形を取り去れば、実体であるものは“かれ”です。
“かれ”は、あらゆるものの内なる実体です。
「あなたは女である、あなたは男である、あなたは少年である、あなたは少女でもある、あなたは杖に身を支える老人である、あなたは宇宙間のすべてのすべてである」
これが、アドワイティズムのテーマです。
もうひと言つけ加えます。
ここにこそ、ものの本質の説明がひそんでいることをわれわれは見出すのです。
ここに立って初めて、論理と科学知識との奔流に確実に対応することができるのだ、ということをわれわれは知りました。
ここでは少なくても、理性が確固たる基礎を持っています。
しかも同時に、インドのヴェーダーンティストはそれ以前の段階の悪口を言いません。
かれはふり返ってそれらを祝福します。
それらは真理であったのだ、ただ間違って理解され、間違って述べられただけである、ということを知っています。
それらは同じ真理だったので、ただマーヤーの眼鏡を透して見られただけだったのです。
ゆがんではいたかも知れないが、真理以外の何ものでもありませんでした。
無知な人が自然界の外に見た、その神、少ししか知らない人が宇宙に浸透していると見たその神、賢者がかれ自身の“自己”として、全宇宙それ自身として悟るその神――すべては“同一の実在”、異なる立場から見られ、マーヤーの異なる眼鏡を透して見られ、異なる心によって理解された同一の実体なのです。
すべてのちがいはそのことによってできたものでした。
そればかりでなく、一つの見解は必ず他の見解に通じています。
科学と普通の知識とのちがいは何ですか。
暗夜に街に出て、何か普通でない気配がしたら、通行人の一人に原因を尋ねてご覧なさい。
十人のうち九人までは、幽霊が出たのだ、と言うでしょう。
人は常に、外にいる幽霊や霊魂を追いかけています。
結果の外に原因を求めるのは無知な人々の性質なのです。
もし石が落ちて来れば、それは悪魔か幽霊が投げたのである、と無知な男は言います。
しかし科学的な男は、それは自然の法則、引力の法則であり、と言うでしょう。
到る処に見られる科学と宗教とのたたかいは何ですか。
宗教は、外部から来る実に多量の説明によって邪魔をされていますーーある天使は太陽の係り、もう一人は月の係り、というように際限がありません。
あらゆる変化は霊魂によってひき起され、たった一つの共通点は、彼らは全部、そのものの外にいる、ということです。
科学は、ものの原因は本来そのもの自体の中に見出されるのだ、と説きます。
科学は一歩一歩と進歩するにつれて、自然現象の説明を霊魂や天使たちの手から取り上げてしまいました。
アドワイティズムは、霊的な事柄について同様のことをしたのですから最も科学的宗教です。
この宇宙はいかなる宇宙外の神によってつくられたのでもなく、いかなる宇宙外の天才の仕事でもありません。
それはみずから創造し、みずから解消し、みずから顕現する、“唯一無限の実在”、ブラフマンです。
「汝は“それ”である。おお、シュヴェターケトゥよ!」』
(ヴェーダーンタ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)
『上信の人とは?
ブラフマン智を得たあとで、あの御方が宇宙世界、人間、動物、二十四の存在原理になっていらっしゃるのだ、と観ている人のことだよ。
はじめのうちは、”これではない””これでもない”と分別して進んで屋根の上に登るんだよ。
そうすると、屋根も階段の材料と同じレンガや石灰で出来ているということがわかる。
そのとき世界と生き物になっていらっしゃるのはブラフマンそのものだと、はっきりと覚るんだよ。
ただ、分別分析ばかりしているなんて!
ペッ!ペッ!役にも立たん』
『なぜ分別ばかりして、味もソッケもない人間になるんだい?
”私とあんた”がある間は、あの御方の蓮の御足に清い信仰を持っているのがいいんだよ。
わたしは時々、”あんたがわたし、わたしがあんた”と言うが、時には、”あんたがあんた”になってしまうんだよ!
そのときは、”わたし”はどこを探しても見当たらないんだ。
シャクティが神の化身(アヴァタラ)となるんだ。
ある学説によると、ラーマもクリシュナも歓喜と至高意識の大海の二つの波なんだそうだよ。
不二一元(アドヴァイタ)の智識に達した後で、霊性、意識とは何かがわかる。
すると、あるとあらゆる生物のなかに、意識、霊性というかたちであの御方がいらっしゃることがはっきりとわかるんだよ。
それがわかったら、居ても立ってもいられないほど嬉しくなる。
不二一元(アドヴァイタ)--霊意識(チャイタニヤ)--永遠のよろこび(ニティヤーナンダ)だ」
(聖ラーマ・クリシュナ 不滅の言葉 マヘンドラ・グプタ著)
すべての生類に対して悪意を持たず
彼らの親切な友となり 我執と所有欲なく
幸 不幸を等しく平静に受け入れ
他者に対して寛大である者
常に足ることを知って心豊かに
自制して断固たる決意のもとに
心と知性(ブッディ)をわたしにゆだねる者
このような人をわたしは愛する
(バガヴァッド・ギーター第12章13-14)