わたしは誰か?-アートマンについて(7)
前回の記事で、仏教について、仏教とヒンドゥ教におけるアドヴァイタ・
ヴェーダンタ(不二一元論)における考え方の違いについて、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの見解をご紹介しましたが、仏教について、もう少し詳しく見てみますと、
『釈迦が生存していた当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた。』(wikipediaより)とあり、
当時、圧倒的な宗教的な権威を誇っていたバラモンという祭祀などを執り行うことを許された家系が代々世襲され、ブラーミンという聖職者階級を形成しており、これは、カーストという階級制度によってインドの人々の中に、身分による差別を生むことになり、ブラーミンは、そのカーストの中でも、最高位の階級とされ、特権階級として君臨していました。
釈迦は、バラモン出身ではなく、クシャトリアという戦士、王族の出身だったため、カーストを説くヴェーダには批判的だったと言われています。
実際に、釈迦の弟子たちのほとんどは、バラモン以外のカースト出身者でした。
釈迦の入滅後(死後)、弟子たちが、釈迦の教えをまとめるために経典結集を開いた際に、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていたアーナンダが中心となって、(彼の記憶を頼りに)数々の経典が編纂された、と言われています。
つまり、今現存しているのは、弟子たちによって釈迦の教えとして伝えれれたものであり、釈迦が直接、遺したものではありません。
以前の記事でご紹介しましたように、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが解説されているように、
『すなわち、もし外部世界を「X」で現すなら、われわれがほんとうに知っているものは「X」プラス心であって、この心という要素は非常に大きく、「X」の全部をおおっていて「X」は相変わらず未知のままであり、また全然知ることのできないものである、従って、もしそこに外部世界というものがあっても、それは常に知られざるものであり、また知ることのできないものである、という事実です。
それについてわれわれが知っているのは、それがわれわれの心によってこね上げられ、形づくられたところのものなのです。
内なる世界についても同じことが言えます。』
ということが起きてしまうのです。
ですから、仏教は、真の自己であるアートマン(神)の実在性(実体)を認めていない、と解釈されていますが、実際に、釈迦が、そうであったかどうかは、不明であると、考えることも可能なのです。
この可能性について、スワミ・ヴィヴェーカーナンダと同じく、アドヴァイタ・ヴェーダンタの立場をとるスワミ・ラーマもその著書「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」の中で、こう記しています。
『仏陀は彼の弟子に、神について考えるな、論じるなと指示しました。
この指示のせいで、仏陀と仏教徒は無神論者であると誤解されています。
仏陀が意味したことは、神、あるいは純粋意識は有限な心を超えており、知性を超えているということです。
神が有限な心により考えられるやいなや、神は有限となります。
それで仏陀は彼の弟子に、本当の自己と彼らを隔てている障壁を取り除くことに集中するように言ったのです。
それがなされたとき、そのときこそ、私たちが究極の真理と呼ぶものが本性を現すのです。』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
こうして、バラモン教(後のヒンドゥ教)と非常によく似た考え方を示しながらも、真の自己である「アートマン」の実在性(実体)においては異なる見解を示したとされた釈迦の説いた教えが、「仏教」として弟子たちにより、インドに広まっていきます。
一方、バラモンの流れを汲むヴェーダ聖典を信奉する人々の中では、バラモン教は、ヒンドゥ教として発展し、5世紀頃から、ブラフマニズム(バラモン教の教え)を掲げる数々の聖者(哲学者)の登場もあって、ヒンドゥ教が勢力を伸ばし、それに伴って、インドでは、徐々に、仏教は衰退していきました。
この流れの中で、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、スワミ・ラーマ、そして、聖ラーマクリシュナ、ラマナ・マハルシなど、その他のアドヴァイタ(不二一元論)の見地から後世に影響を与えている人びとはすべて、「アートマン」の実在性(実体)に言及しています。
それは、「アートマン」の実在性(実体)は、想像上のものではなく(頭、脳の中にあるヴィジョンや創造物ではなく)、経験を通して、掴むことができるからなのです。
「アートマン」の直接体験なくしては、「アートマン」は、他の人格神と同様、単なる人間の想像上の存在であるにしか過ぎず、その実在性(実体)について不確実性を唱える人々がいるのは、当然でしょう。
それ故、「アートマン」について言及するには、それなりの直接体験が必要になってくるため、「アートマン」について語ることができる人々は、極端に限られてしまい、
私たちの真の本性であるにも拘わらず、私たちは、「それ」を知ることなく、この世を去っていく、ということが起きてしまっています。
このブログの目的は、唯一つ、真の自己である「アートマン」についての理解を深めることで、少しでも「アートマン」に回帰する道を示すことです。
スワミ・ラーマが「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」で述べているように、
『人生の目的は成長、拡張、そして自分自身の真の本性を完全に悟ることです。
もし人がゴールに向かう道を取らないと、そのとき、世界は人をそれに向かわせることでしょう。
暴風の後に暴風、人が理解し始めるまで、ひとつの不幸が別の不幸に続き、ひとつの失望が別の失望に続きます。
良いものと楽しいものとの間の選択は明らかになっていきます。
カタ・ウパニシャドのテーマは人生の宝である真の自己は内側に見出されるということです。
不死は内側にあります。
内側にはアートマン、あるいは実在が住んでいます。
真の自己を発見する旅は、人生のゴールまたは目的なのです。
自分自身の真の自己を悟った人は、そのとき、全宇宙を包含する宇宙的自己を悟ることができます。
二元論者は、個人、宇宙、そして宇宙的自己は独立した存在として完全に分離した単位だと信じています。
この信念に従うと、自分自身の自己を知ることにより、人は部分的な知識だけを得ます。
ヴェーダンタとこの学派を分けている大きな隔たりがあります。
ヴェーダンタ文学の最も価値があり気高い貢献は、真我、或いは神は私たちから離れておらず、あるいは遠くにおらず、私たちの存在の内側に住んでいらっしゃるということなのです。
これはヴェーダンタ哲学における中心的な教えです。』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)
「アートマン」について、また、アドヴァイタ(不二一元論)については、
日本では、テキストや本などでも紹介されていることが少ないため、その概念が一般的にはまだ広く浸透していないために、困惑される方も多くいらっしゃることでしょう。
このブログでは、これらの教えが、日本に上陸してから、まだそれ程多くの時間が経っていないため、サンスクリット語をそのまま使用していますが、
やがて、「アートマン」である実在が、広く一般的に知られるようになれば、いつかは、他の言葉で表現される可能性もあり、その時には、「アートマン」はもっと身近な存在として認識されるようになるかもしれません。
ただ、この「教え」は、以前にも書きましたが、ヴェーダ聖典の中でも、ウパニシャッドとして、それを受けるに相応しい人々にのみに継承されてきた「奥義」ですので、誰もがこれを簡単には理解できないのは、当然であると認めつつ、
それでも、絶対真理探究者にとっては、究極の命題であり、「アートマン」の叡智なくしては、到底解けない多くの謎がそのままに残ってしまうため、
あらゆる疑問への答えを得るためには、私たちを覆っている「無智」を払い除け、私たちの実体である「アートマン」について、理解を深めていくことが、不可欠であるという見地から、こうして時間をかけて解説しているのです。
今回は、前回とは論点が違った内容となってしまいましたが、
次回は、また、元に戻り、真の自己である「アートマン」についての理解を深めるために、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ヴェーダンタ」からご紹介したいと思います。
信愛行(バクティ・ヨーガ)が実修ができない者は
わたしのために働くように心がけよ
わたしのために働くことによって
やがて完成の境地に到るであろう
(バガヴァッド・ギーター第12章10)