永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-アートマンについて(5)

「わたしは誰か?」

普段、私たちは、こんな問いを発することなく、日々の生活を送っています。

「わたしは誰か?」なんて、考えるまでもなく、答えは決まっている。。。

まずは、一般的でオーソドックスな答えとしては、「人間です」というものでしょう。

 

本当にそうですか?

 

この形と習性を持った動物を、確かに、「人間」と呼ぶことにしたのは、紛れもなく自分たちである「人間」です。

「わたしは人間です」というのは、自称なのです。

自分で、自分のことを、そう呼んでいるということから、私たちは「人間」となっただけである、と考えることも可能だと言うことなのです。

けっして、そのように、私たちの創造者が、決められた訳ではないのです。

 

私たちが、犬や猫や他の生物、無生物を形で区別し、それぞれに名前を付けたので、

それらは、そういうものになりました。

そして、その延長で、同じ形と習性を持った「自分たち」を「人間」と呼ぶことにしたのです。

もし、すべてのモノを区別する、ということがなかったら、それぞれに名前をつけることもなかったことでしょう。

 

これらの形と名前は、人間と人間の間だけの「決まり事」として機能しているだけで、全宇宙的な視点からすると、そのような区別はなく、従って、「決まり事」というようなモノは存在していません。

「決まり事」というのは、人間の脳(頭)の中だけに、存在しているのです。

 

人間は、神を想定し、「神」X「人間」という構図を造り上げています。

 

もし、「神」が、「あなたは神なのだ」と仰ったら、

私たちは、「人間」ではなく、「神」でしょう。

しかし、私たちは、「神」がどういう存在であるのか?を知らないので、私たちは、

自分たちを「人間」として定義してきたのです。

 

ここで、以前の記事でご紹介した「ヒツジライオン」の話を思い出して下さい。

 

本当は「ライオン」なのに、「自分はヒツジだと思い込んで生きているライオン」を「ヒツジライオン」と称し、

その「ヒツジライオン」が、最後には「自分は、正真正銘のライオンであることを思い出す」というお話でした。

 

このお話をそっくりそのまま、今の私たちに当てはめると、どうなるか?と言いますと、

私たち人間は、「人間だと思い込んで生きている神」であり、最後には、人間は「自分は、正真正銘の神であることを思い出す」ということになります。

 

ですから、私たちは、すでにアートマンであるのですが、<わたし>(という自我)は、そのことをそのまま受け入れられずに、「自分は人間である」と思っている、ということになります。

 

これは、単に、脳にそういう”想い”が起きている、ということなのですが、

生まれてこの方、あの「ヒツジライオン」の話のように、「ヒツジ」だと思い込まされて生きてきたのですから、自分を「ヒツジ」だと思うのは、無理のないことではあります。

 

確かに、形としての肉体は、猿が進化した形である哺乳類サル目(霊長類)の分類群 のひとつである「ヒト」ということになりますが、

私たちは、滅びて消滅する「肉体」という物質ではありません。

ヴェーダでは、この物質である体は、アートマンが宿る「器」としています。

「器」は、分解された後、また、集められ、別の形を取りますが、それは「永遠」の存在ではなく、一時的な、この世に在るための「道具」なのです。

 

それでは、前回の続きを見ていきたいと思います。

 

 

『ここにもう一つの思想があります。

おそらくびっくりなさるでしょう。

しかしそれは極めてインド的な性格をもった思想でありまして、もしわれわれのすべての宗派に共通の考え方があるとすれば、それはこれです。

ですから、この一つの思想によく注意を払い、それを憶えていて下さるようお願いします。

なぜなら、これこそまさに、われわれインド人が持つすべてのものの土台なのですから、その思想というのはこれです。

皆さんは、西洋でドイツやイギリスの学者たちが説いている、自然界の進化の説のことは聞いておいででしょう。

それはわれわれに、異なる動物たちの身体は実は一つのものである、われわれが眼にする差異は同じ一続きの中の表現の差異にすぎないのである、最低の虫けらから最高かつ最も聖なる人間に到るまでたった一つのものーーそれが完成をとげるまで、より高くもっと高くと変化しつづけて行く一つのものーーにすぎないのである、と教えています。

この考え方もまた、われわれは持っていました。

我らのヨギ、パタンジャリは言明しています。

一種ーージャーティは種ですーーが他種に変化するーー進化のことです。

パリナーマというのは、ちょうど一つの種が別の種に変るように一つのものが別のものに変ることを言うのです。

どこで、われわれはヨーロッバ人と違うのでしょうか。

パタンジャリは、プラクルティヤープラート「自然のthe infillingによって」と言っています。

ヨーロッパ人は、一つの体に別の体の形を取ることを強いるのは、競争、自然および異性の選択等々である、と言います。

しかしここに、もっと優れた分析であり、もっと深く物の核心をついている、もう一つの考えがあって、「自然のインフィリング作用によって」と言うのです。

この自然のインフィリングと言うのは何でしょうか。

われわれは、アメーバが次第々々に高く昇ってついに一人の仏陀となる、ということは認めます。

われわれはそれは認めます。

しかし同時に、一つの機械にどんな形にせよ一定量のエネルギーを投入しておかなければ、それにふさわしい結果は得られない、ということもよく分かっています。

それがどのような形をとるにせよ、エネルギーの総計は常に変らないのです。

これらの端で一定量のエネルギーを欲するのなら、もう一方の端からそれだけのものを注入しておかなければなりません。

別の形をとってはいるかも知れませんが、そこから生み出されるべきエネルギーの量は同じであるに違いないのです。

ですから、もし一人の仏陀が一連の変化の終りであるなら、そのアメーバもやはり仏陀であったに違いありません。

もしその仏陀が進化をとげたアメーバであるのなら、そのアメーバもまた、内に含まれた仏陀であったのです。

もしこの宇宙がほとんど無限と言ってよいほどのエネルギーの現れであるのなら、この宇宙がプララヤ(解消)の状態であったときも、それは同じ分量の内に含まれたエネルギーを代表していたに違いありません。

それ以外ではあり得ないのです。

そういうわけですから、当然あらゆる魂が無限である、ということになります。

われわれの足もとを這いまわる最低のうじ虫から、最も高貴で最も偉大な聖者たちに到るまで、すべてがこの無限の力、無限の浄らかさ、および無限の一切物を持っているのです。

違いはただ表現の程度にあるだけです。

虫はただ、その無限のエネルギーのほんの少しを現わしているだけです。

皆さんはもっとたくさん現していらっしゃる。

もう一人の神人は更にもっと沢山現しました。

それが違いのすべてです。

その無限の力は全く同じようにそこにあるのです。

パタンジャリは言っています。

「自分の畑を灌がいする農夫のように」と。

畑の隅に小さな水門をあけて、かれはどこかにある貯水池から水を引き入れいます。

そして多分、かれはせきを作って、水がドッと流れ込むのを防げているのです。

かれが水を欲するならただそのせきを切りさえすればよいのであって、そうすれば水はおのずからドッと流れ込むはずです。

水に力を加える必要はありません。

それはすでに、貯水池にたたえられているのです。

そのようにわれわれの誰もが、あらゆる生きものが、各自の背後にこのような、無限の力、無限の純粋さ、無限の至福、および無限の存在という力の貯蔵庫を持っているのであって、ただこれらのせきが、すなわちこれらの肉体が、われわれが自分の真の姿を十二分に発揮するのを防げているのです。

そしてこれらの肉体が層一層精妙に組織されて来るにつれて、タモグナ(タマスの性質=暗性優位)がラジョグナ(ラジャスの性質=活動優位)となるにつれ、ラジョグナがサトワグナ(サットワの性質=善性優位)になるにつれて、この力と純粋性とが層一層明らかになります。

ですから、わが国の人々は飲み食いや食物のことについて非常に深い注意を払って来たのです。

今は本来の考え方は忘れられてしまっているのかも知れません。

 

これが、インドにおけるわれわれもろもろの宗派の何れもが信じなければならない、アートマンの思想です。

ただ、あとでお分かりになることですが二元論者たちは、このアートマンは悪い行為によってサンクチタになる、すなわちその力とその性質が全部収縮し、よい行為によって再びその性質が拡大する、と説きます。

するとアドワイティストは、アートマンは決して拡大も収縮もしない、ただそう思われるだけだ、と言います。

収縮したように見えるのです。

それが違いのすべてです。

すべての宗教が、我らのアートマンはすでに全ての力を持っている、外部から何かがそれのところに来る、ということはない、天空から何かがそれの中に落ちて来る、というようなことは決してない、という、同一の考えを持っています。

皆さん注目して下さい。

皆さんのヴェーダは、吹き込まれるto be inspiredものではなく、引き出されるto be expiredものです。

外部のどこかからやって来たものではなくて、それはあらゆる魂の内に生きている永遠の法則なのです。

ヴェーダはアリの魂の中にあり、神の魂の中にもあります。

アリはただ進化して賢者すなわちリシの身体を得ればよいので、そうすれば永遠の法則がみずからを表現し、ヴェーダが出て来るでしょう。

われわれの力はすでにわれわれのものである、われわれの救いはすでにわれわれの内にある、ということ、これは理解すべき一つの偉大な思想です。

それは収縮したのであると言っても、それはマーヤー(幻想)のヴェイルにおおわれているのだ、と言ってもよろしい。

問題ではありません。

アイディヤはすでにそこにあるのです。

それを信じなければなりません。

すべての人間の可能性を信じなければなりません。

最低の人間の内部にも、仏陀の内にあるのと同じ可能性がひそんでいるのです。

それがアートマンの教義です。』

ヴェーダンタ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

少しずつ、朧気ながらでも、私たちの「真の自己」である「アートマン」について、その姿を掴み、イメージを描くことができましたでしょうか?

 

今回の記事の内容について、

スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」では、このように語られています。

 

『私たちすべての内側には2つの面があります。

真の自己と単なる自己です。

後者は前者の鏡でしかありません。

一方は不滅で変化を超えていますが、他方は楽しむ者であり苦しむ者です。

ヤマはナチケータに言いました。

「一方(絶対者)は自ら光り輝く太陽のようである。

他方(エゴ、あるいは、限られた自己)はイメージ、あるいは、反射であり、光と闇の間にあるような関係を持っている。

一方は目撃者のようであり、他方はそれ自身の考えや行いの果実を食べる」

目撃者はアートマンです。

9世紀のインドの偉大な聖者であり哲学者であるシャンカラは述べています。

アートマンの性質は純粋な意識である。

アートマンは心と物質のこの全宇宙を明らかにしている。

それは限定されない。

目覚めている、夢見ている、寝ているという意識の様々な状態を通して、それは私たちの継続する自己認識の自覚を維持している。

それは知性の目撃者として現れる”

カタ・ウパニシャドは、アートマンはけっして生まれず、けっして死なないと言っています。

そしてそれは広大な空間よりもさらに広大で、最も小さな原子よりさらに小さなものだとも言っています。

それはすべての生き物の心臓の中に隠れています。

シャンカラは、ちょうど瓶が壊れても瓶の中の空気は存在しなくならないように、肉体が分解するときでもアートマンは分解しないと言いました。

不変であり、変化することなく、不生であり、不死であり、永遠であるアートマンは、私たち自身の最奥の部屋に座し、個人と心のすべての活動を知っています。

”それは体のすべての行動、感覚器官と生命力の目撃者である”とシャンカラは言いました。

”ちょうど、火が鉄の玉と同じだとされるように、これらすべてと同じだと思われている。

しかしそれは行動もせず、ほんの少しも変化することはない”

バガヴァッド・ギーターは、大いなる自己であるアートマンについて述べています。

”彼はけっして生まれず、けっして死なない。

在ったことはなく、再び在らなくなることもない。

不生であり、永遠であり、永久である、この太古のひとつなるものは、体が殺されても殺されない。

これが、不滅であり、永遠であり、不生であり、代わりとなる者がないと知る者は。。。”

”使い古した衣類を脱いだ人が、その後、新しい服を着るように、肉体の所有者も同じように、使い古した肉体を脱ぎ捨て、新しい肉体を身に着ける。。。”

”武器は彼を裂かず、火は彼を燃やさず、水は彼を濡らさず、風は彼を乾かすこともない”

”彼は裂かれることなく、燃えることなく、濡らされることなく、乾かされることなく、永遠で、すべてに浸透し、絶対であり、不動である。

彼は遍在し、全知である。

彼は太古よりひとつである”』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

次回は、更に深く、アートマンについて、どのような説明がなされているか?見ていきたいと思います。

 

「わたしは誰か?」--「アートマンである」

 

このことを知るために、人生を使いなさい、とスワミ・ラーマは書いています。

 

それが、生の奥義であり、死を超越する唯一の道なのです。

 

 

 

常に心をわたしに結びつけている者たちを

プリターの息子よ

わたしは速やかに

生死の海から救い出す

 

常にわたしのことのみを想い

知性(ブッディ)のすべてをわたしに委ねよ

そうすることによって疑いなく

君はわたしのなかに住んでいるのだ

(バガヴァッド・ギーター第12章7ー8)