永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-アートマンについて(4)

「わたしとは誰か?」との問いに対する答えは、「アートマン」である、とウパニシャッドでは説かれています。

 

それは、信じるに値する真実であるのか?どうか?

また、真実であるなら、その「アートマン」とは、どのようなモノなのか?ということを知ることは、絶対真理探究者にとっては、永遠の命題です。

 

この「アートマン」について知ることは、自分を含めた「人間」について、地球を含む「宇宙」について、そして、この両者の創造者ということになっている「神」について、正しく理解することにつながっていきます。

 

科学は、物質世界における様々な現象の中に、ある種の「法則」を見出してきましたが、

人間の真の自己である「アートマン」については、未だ何の発見もなされていません。

 

現代科学は、ウパニシャッドが唱える真の自己である「アートマン」、及び、この宇宙に遍在する「ただひとつ」である「ブラフマン」を発見するには、時期尚早であるので、その存在にすら気づいていません。

 

ですから、今の段階では、私たちは、「わたしは誰か?」についての理解を得るためには、「アートマン」について説かれている唯一の文献であるウパニシャッドに頼らなくてはならないのです。

 

それでは、今回も、前回の続きを見ていきたいと思います。

 

 

『次に理解しなければならないことはこれです。

この肉体は一つの連続した物質の流れの名前ではないか、という質問が起こりました。

一瞬間毎にわれわれはそれに新たな物質を加えつつあり、そして各瞬間に、若干の物質がそれから捨て去られて行きます。

それは絶えず流れつつある一すじの川のようなもの、川は莫大な量の水が常にその場所を変えつつあるのですが、それにもかかわらずわれわれはその全体を心に描いて、それを同一の川と呼ぶのです。

われわれは川を何と呼びますか。

各瞬間に水は変わっています。

岸は変わって行きます。

各瞬間に環境は変化しつつあります。

それでは川とは何なのでしょうか。

それはこの一続きの変化の名前です。

心の場合も同じことです。

これがあの偉大なクシャニカ・ヴィジャニヤーナ・ヴェーダという学説でありまして、最も難解なのですが、仏教哲学の中でも精密にそして論理的に説かれています。

しかもこの学説は、インドではヴェーダンタのある部分に反対するものとして生まれました。

それに対して答えが出されなければならなかったのでありまして、他の何ものを以てしても不可能であるがアドワイティズムによってのみ、これに応酬することができるのだ、ということが、後ほど明らかになるでありましょう。

デュアリズム(二元論)およびその他のもろもろのイズムは礼拝の手段としてはまことに良く、非常に心を満足させるものであり、またおそらく、それらは心の進歩を助けて来たでありましょう。

しかしもし人が合理的であってしかも同時に宗教的でありたいと思うなら、その人にとってはアドワイタが唯一の体系です。

さて、今、われわれは心をば、一方で絶えずそれ自身を満たしつつ他方でそれを空にしつつある川のようなもの、と見ましょう。

ではわれわれがアートマンと呼ぶあの単一体はどこにあるのでしょうか。

その考えはこうです。

すなわち、肉体におけるこの不断の変化にもかかわらず、また心におけるこの不断の変化にもかかわらず、われわれの内部には、われわれのものの観念を不変のものと現れさせる、変わらざる何ものかがある、というのです。

異なった方向から来る光線は、一枚のスクリーンか壁かまたは他の、不動のものの上に堕ちたときに始めて、一つの個体をつくることができます。

一つの完全な全体を形成することができます。

さまざまの観念が、言ってみれば、人間器官の上に落ちて結合し、一つの完成された個体となるのですが、この個体は人間器官のどこにあるのでしょうか。

心もまた変化するものであるのを見れば、これは決して心そのものではありません。

ですから、そこには、肉体でもなければ心でもないあるもの、変化しないもの、われわれのすべての思い、われわれの感覚がその上に落ちて完全な統一体をつくるような恒久的なあるもの、がなければなりません。

そしてこれが人の真の魂、アートマンなのであります。

そして、皆さんが精妙な物質と呼ぼうと心と呼ぼうと物質的な一切のものは常に変化しなければならないのを見れば、皆さんが粗大な物質と呼ぶものすなわち外部世界も、それに比べてやはり変化にみちたものであるのを見れば、この変わらざるあるものは、物質定な材料からできたものであろうはずはなく、従ってそれは霊的なものであります。

すなわち、それは物質ではなく、破壊されることなく変ることのないものであります。

次にもう一つの質問がやって来ます。

外界に関してのみ論じるあの古い議論、誰がこの外部世界を造ったのか、誰が物質を創造したのか、などというような議論とは別に、考えはここでは、人の内面の性質からのみ真理を知ろう、というものであって、質問は、それが魂について尋ねられたときと全く同じ形で生まれています。

各人の内部に不変の、心でも肉体でもない魂がある、というのは議論の余地のないこととしても、更に、魂たちの間に観念の統一、感情の統一、共鳴があります。

どうして、私の魂があなたの魂にはたらきかけることができるのでしょうか。

それがよって以て働くことのできる、作用することのできる媒介物はどこにあるのでしょうか。

どのようにして、私は皆さんの魂について何かを感じることができるのでしょうか。

皆さんの魂と私の魂との両方に接触があるのは何なのでしょうか。

ですからそこには、もう一つの魂の存在を認めるべき、形而上学的必然性があります。

なぜならそれは、すべての異なれる魂たちに接触し、また物質を通して、はたらく一個の魂に違いないからです。

世界のすべての無限数の魂をおおい、その中に遍満し、それを通して彼らは生き、それを通して彼らは同感し、愛し、互いのために働くという一つの”魂”です。

そしてこの普遍的な魂が、パラマートマン、宇宙の”主”なる神なのです。

また、魂は物質でできているのではないから、それは霊性であるから、物質の法則には従わない、物質の法則によって判定することはできない、ということは当然です。

ですからそれは、征服され得ないもの、不生、不死、そして不変のものです。

「この自己、武器も突き通すことはできず、火も焼くことはできず、水もぬらすことはできず、空気も干すことはできない。

”変わることなく、一切所に遍満し、動かず動かされず、不死である、人の内なるこの”自己”は」われわれはギーターおよびヴェーダンタによって、この個々の”自己”は同時にヴィブVivhuである、と知り、またカピラによって、それは遍在である、と教えられています。

もちろん、インドには、”自己”はAnuである、つまり無限に小さい、と主張する学派もありますが、彼らは、その現れがAnuである、と言っているのです。

それの真の性質はヴィブ、すなわち全てに遍満しているものであります。』

ヴェーダンタ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

ウパニシャッドで説いているように、すべてに遍満している存在は、不生、不死、不変である、なら、

私たちにも、この普遍的な魂「パラマートマン」(宇宙の”主”なる神)が遍満しているはずであり、

そうであるならば、私たちは、不生であり、不死であり、不変な存在であるはずです。

 

しかし、実際には、物質である肉体は生まれ、滅び、消滅しますので、

もし、私たちが肉体であるなら、生まれ、滅び、消滅する存在ということになります。

 

私たちは、肉体と共に消滅する存在として、この世界に生まれてきたのでしょうか?

この世には、初めがあれば、終わりがある、ことになっていて、変化せずに、永遠に存在し続けるものはありません。

 

生まれては消滅を繰り返すだけのために、今、ここに在るのでしょうか?

 

それに対する答えとして、ウパニシャッドを題材に、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、力強く、「わたしもあなたもアートマンという永遠の存在である」と仰っているのです。

 

これは、死後、アートマンになる、という意味ではありません。

 

昔も今もこれからも、実在するのはアートマンである、と言っているのです。

 

ですから、今、これを読んでいる「あなた」も、アートマンなのです。

 

俄かには信じがたいことかもしれませんが、

次回も、このことを深く理解するために、続きを見ていきたいと思います。

 

 

 

至上者の非人格的な相(すがた) 即ち非顕現の真理に

心をよせる者たちの進歩は甚だ困難である

肉体をもつ者たちにとって

その道は険しく様々な困難を伴う

 

だが わたしに熱い信仰をもって

すべての行為をわたしのために行い

常にわたしを想い 念じ

常にわたしを礼拝し 瞑想する者たち

 

常に心をわたしに結びつけている者たちを

プリターの息子よ 

わたしは速やかに

生死の海から救い出す

(バガヴァッド・ギーター第12章5-6)