永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-アートマンについて(3)

「ただひとつ」という単一性には、すべてが含まれます。

宇宙も、地球におけるすべての存在、そして、この<わたし>という個人も。

これらの形ある、また、形無い物質だけでなく、すべてがそこに帰結する「ただひとつ」が在り、

それが、真の実在であり、有形、無形の物質は、「ただひとつ」の反射であり、鏡に映った虚像のようなもので、実際には実在しない、非実在だという考えが、アドヴァイタ(アドワイタ)、つまり、不二一元論です。

 

この鏡に相当するものが、人間の「心」(脳)である、ということを、これまでの記事で見てきましたが、

スワミ・ヴィヴェーカーナンダの詳しい説明をご紹介することで、更に理解を深めていきたいと思います。

 

 

『次なる単一体は、古い神話の中でブラマー、四つの頭を持つブラマー、として知られており心理学的にはマハト(宇宙知)と呼ばれている、遍在の非個人格神です。

これが、右の二つの要素が結合する場所なのです。

あなたの心と呼ばれているものは、脳というわなに捕らえられたこのマハトの一断片にすぎません。

そして、脳(複数)の網の中に捕らえられたすべての心(複数)の総計は、皆さんがサマシュティ(同種の存在の総合体を言う)と呼んでおられるもの、総計の(心)、宇宙の(心)です。

分析は更に進められなければなりませんでした。

まだ完成したのではありませんでした。

われわれの一人一人は言わば小宇宙であって、この世界全体は大宇宙です。

しかし、ヴィヤシュティつまり個別の存在、の内部にあるものは何であれ、同じような事物が外界でも起こりつつある、と推測して間違いありません。

もしわれわれが自分の心を分析する力を持っていたとしたら、同じことが宇宙の心の中でも起こりつつある、と推測して間違いはないでしょう。

この心とは何か、と言うのが問題です。

現代西洋諸国では、物質科学が急速な進歩をとげつつあるので、生理学が一歩また一歩と古い宗教のとりでを次々に征服しつつあるので、西洋人は自分がどこに立ったらよいのかを知りません。

なぜなら、彼らにとって絶望すべきことには、近代の生理学は常に心と脳と同一のものと見てきたからです。

しかしインドではわれわれは常にこのことを知っていました。

心は物質である、ただもっと精妙な物質であるだけだ、というのは、ヒンドゥの少年が学ぶ最初の命題です。

肉体は粗大なもの、そして肉体の背後に、われわれがスクシュマ・シャリラ、精妙な身体、または心、と呼ぶものがあります。

これもやはり物質的なものであって、ただもっと精妙であるだけ、アートマンではないのです。

私は皆さんのためにはこの言葉を英語には訳しますまい。

この観念はヨーロッパにはないのです。

それは翻訳が不可能です。

現代のドイツの哲学者は、アートマンSelf(自己、自我)という言葉で訳そうとしていますが、その言葉が広く認められるようになるまでは、それを使うわけには行きません。

それゆえ自己とでも何とでも呼ぶがよろしい、とにかくそれは我らのアートマンです。

このアートマンが、背後にある真の人間なのです。

物質である心をその道具として、そのアンタッカラナ(心を指す心理学上の専門語ですが)として、使うのはアートマンです。

そして心は、一連の内部器官を用いて目に見える肉体の諸器官を動かします。

この心は何でしょうか。

西洋の哲学者たちが、眼は見るための器官ではなく、眼の背後に別の器官インドリヤがあって、もしこれらが破壊されれば、かりに人がインドラのように千個の眼を持っていてもかれは見ることができないのだ、ということを知るようになったのは、つい最近のことです。

ああ、皆さんの哲学は、視界は外部にあるのではない、という仮定から出発しているのです。

真の視覚は内部器官、内なる脳の中枢の働きです。

皆さんはそれらを何とお呼びになってもよろしいが、インドリヤ(ス)は眼でもなければ鼻でも耳でもありません。

そしてこれらすべてのインドリヤスにマナス、ブッディ、チッタ、アハンカーラ等々が加わったのが心と呼ばれるものです。

ですからもし現代の生理学者が皆さんの処にやって来て、脳は心と呼ばれているものである、そして脳は実に幾多の器官によって形成されているのだ、と言っても、皆さんは少しも恐れることはありません。

皆さんの哲学者たちはとうからそれを知っていた、それは皆さんの宗教※のまさに最初の原理の一つであるのだ、ということを言っておやりなさい。

(※インドにおける講演なので、聴衆は、インド人)

さて今度は、このマナス、ブッディ、チッタ、アハンカーラ等々と言うのは何であるか、理解しなければなりません。

まず最初にチッタをとり上げましょう。

これは心の素材ーーマハト(宇宙知)に一部分ーーであり、そのさまざまの状態のすべてを含む、心それ自身の総称です。

ある夏の宵、水面にさざ波ひとつ立っていない静かな湖がそこにあるとします。

そして誰かが、この湖に小石を投げ込むとします。

すると何が起こりますか?

まずそこに活動、すなわち水に与えられた打撃があります。

次に水が高まり、小石に向かって反動を送ります。

そしてその反動は波という形をとります。

まず水が少し振動し、そして直ちに波という形で反動を送り出すのです。

チッタはこの湖にたとえましょう。

そして外界の対象物はその中に投げ入れられた小石のようなものです。

チッタがこれらインドリヤ(ス)によってーーこれら外界の対象を内部に運ぶために、そこにはインドリヤがなければなりませんーー何らかの外界の対象と接触するや否や、そこに振動が起こります。

マナスと呼ばれる、決定力のないものです。

次に反動が見られます。

決定をする能力、ブッディです。

そしてこのブッディと共に、アハム(エゴ)と外界対象という観念がひらめきます。

私の手に蚊がとまっているとします。

この感覚は私のチッタにまで運ばれ、チッタはちょっと振動します。

これが、心理的なマナスです。

それからそこに反動が起こります。

そして即座に、自分の手には蚊がとまっているという、そして自分はこれを追い払わなければなるまいという、考えがやって来ます。

このようにこれらの石は湖に投げ込まれるのですが、湖水の場合にはやって来る打撃は常に外界からであるのに対して、心という湖の場合には、打撃は外界から内界かのどちらからかやって来るでしょう。

この一連の現象の全体が、アンタッカラナと呼ばれるものです。

それと共に、皆さんはもう一つのことを理解しておかなければなりません。

それは、後にわれわれがアドワイタ体系を理解するのを助けることになるのです。

それはこのことです。

皆さんが真珠を見たことがおありでしょうし、また大部分の人が、真珠はどのようにしてできるものであるかということをご存知でしょう。

砂の一粒が真珠貝の殻の中に入り、そこで貝に刺激を与えます。

すると貝の身体がその刺激に反応して、分泌液でこの小物体を包みます。

それが結晶して真珠を形成するのです。

全宇宙もそのようなものです。

それは、われわれによって形成されつつある真珠なのです。

われわれが外界から得るものは要するに打撃です。

その打撃を意識するためにも、われわれは反応しなければなりません。

そしてわれわれが反応するや否や、われわれは実は、自分自身の心の一部分を打撃に向かって突き出すのです。

そして、われわれがその打撃について知るようになる、と言うのは、実はそれは、その打撃によって形を与えれたわれわれ自身の心なのです。

ですから、外部世界というものの動かし難い真実性を信じようとする人でさえも、生理学の発達したこの時代には次の事実を認めないわけには行かない、ということは明らかです。

すなわち、もし外部世界を「X」で現すなら、われわれがほんとうに知っているものは「X」プラス心であって、この心という要素は非常に大きく、「X」の全部をおおっていて「X」は相変わらず未知のままであり、また全然知ることのできないものである、従って、もしそこに外部世界というものがあっても、それは常に知られざるものであり、また知ることのできないものである、という事実です。

それについてわれわれが知っているのは、それがわれわれの心によってこね上げられ、形づくられたところのものなのです。

内なる世界についても同じことが言えます。

同じことがわれわれの魂、アートマンにもあてはまるのです。

アートマンを知るためには、われわれは”それ”を心によって知らなければなりますまい。

それゆえ、このアートマンについてわれわれが知るごく僅かのことは、要するにアートマン、プラス心です。

すなわち心によって包まれ形をつけられたアートマンであってそれ以上の何ものでもないのです。

もう少したってから、またこの問題に戻って来ることになります。

それまで、今ここで申し上げたことをよく憶えているようにしましょう。』

ヴェーダンタ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

 

「心」(脳)が、外界を認識する反射鏡であることは、直ぐに理解するには、難しいかもしれませんが、

このことへの理解なしには、真の自己である「アートマン」について、正しく理解していくことは不可能でしょう。

 

反射鏡である「心」(脳)は、独立して機能している訳ではありません。

その背後にあって、反射鏡を機能せしめている存在こそが、個人としての存在である<わたし>の本当の主人であるアートマンだということなのです。

<わたし>は、アートマンに仕える者であり、聖ラーマ・クリシュナのお言葉をお借りするならば、「召使い、下僕」ということになります。

 

ですから、本当は、「自分」でやっていることは何もありません。

その「自分」という”想い”も、脳の働きによって、脳内に起きており、

このことを理解するために、脳科学から見た人間の「心」(脳)について、長々とご紹介しました。

 

それは、「わたしは、○○××という個人ではなく、アートマンである」という結論に、論理的に到達するためです。

これは、ギャーナ・ヨーガ(智識のヨーガ)と言い、私たちを至高の自己に導くための人間が辿ることが可能なひとつの道なのです。

 

それでは、次回では、これまでの記事の内容を踏まえて、更に、アートマンへの道を辿って行きましょう。

 

 

 

だが 非顕現の実在

知覚を超え すべてに遍満し

不可思議 不変 不動の

非人格的真理を礼拝する者たち

 

そして 諸々の感覚を抑制し

あらゆる生きものを平等に扱い

広く世界の福利のため働く者たちーー

彼らも終にはわたしのもとに来る

(バガヴァッド・ギーター第12章3-4)