永遠の人

永遠のダルマ(真理) - 智慧と神秘の奥義

わたしは誰か?-アートマンについて(2)

前回の記事から、始まりました、このブログの最終テーマである「わたしは誰か?」について、

聖ラーマクリシュナの高弟でいらっしゃいますスワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺された講演会の資料から抜粋して、ご紹介させて頂くことで、

その答えである「アートマン」について、言葉による説明ではありますが、そのイメージだけでも掴めるように、見ていきたいと思います。

 

 

ウパニシャッドが、「それを知ることによって他の一切物を知ることができるところのものは何か」という、この一つのテーマをかかげていることは事実です。

現代の言葉で現せば、ウパニシャッドのテーマは、事物の究極の合一を見出すこと、です。

知識とは要するに、多様性のまん中に一体性を見出すことです。

あらゆる科学は、このことに立脚しています。

すべての人間の知識は、多様性のまっただ中に単一性を発見することなのです。

それでもし、僅かばかりの異なった現象の中に単一性を見出すことがわれわれの科学と呼んでいる人間知識の小さな切れはしの仕事であるのなら、われわれの前のテーマがこの驚くべき多様な宇宙の中に単一性を見出すことである場合には、仕事は途方もないものとなります。

各々の思いは他のすべての思いとは異なり、そこには名と形の、物質と精神の、無数の差異が充満しているのです。

それでも、これら無数の階層や尽きることのないロカ(ス)(生きものの住む世界)を調和させること、この無限の多様性の中に単一性を見出すこと、がウパニシャッドのテーマなのです。

一方、アルンダティ、ニヤーヤ(アルンダティの法則)という昔の考え方が適用されます。

美しい星アルンダティを人に示す場合、これに最も近い、大きな光の強い星を取り上げてまずこれを見つめるよう命じると、かれの視線を非常にらくにアルシダティに向けてやることができる、と言うのです。

これが、われわれがなすべき仕事です。

そして私の考えを証明するためには、私はただ、皆さんにウパニシャッドをお見せしさえすればよいのです。

それで皆さんはお分かりになるでしょう。

ほとんどすべての章が、ウパーサナー(字義は、そばにすわる。神を礼拝または瞑想すること)すなわち二元論的な教えで始まっています。

神は最初は、この宇宙の”創造者”である何者かとして、それの”維持者”として、そして、一切物が最後には”かれ”のもとに帰する、そのような存在として教えられます。

”かれ”は礼拝さるべきものであり、”支配者”であり、外および内なる自然の”ガイド”なのですが、まるで自然の外に、つまり外界にいるかのように現れているのです。

更に一歩進むと、われわれはその同じ教師が、この神は自然界の外にいるのではなく自然界に内在しているのである、と教えているのを見出します。

そして最後には、どちらの考えも捨てられ、実在するものはことごとく”かれ”であって、そこに差異はありません。

「シュヴェターケトゥよ、汝は”それ”であるぞ」かの”内在”の”一者”はついに、人間の魂の内にあるものと同一である、ということが宣言されるのであります。

ここには妥協はありません。

ここには他者の見解への恐れはありません。

真理、大胆な真理が、大胆な言葉で教えられています。

われわれも今日、これと同じ大胆な言葉で真理を説くことを、恐れる必要はありません。

神の恩寵によって、私も少なくとも、そのような大胆な説教者であることを希っているのです。

前置きの方に戻りましょう

ます最初に理解しておくべき二つのことがあります。

一つはヴェーダンタのすべての学派に共通の心理学的な面、そしてもう一つは、宇宙論的な面です。

私は最初に後者を取り上げようと思います。

今日われわれはかつて無想だにしなかった驚くべき事実に対して眼を開かしめつつ青天のへきれきのようにわれわれに襲いかかって来る現代科学の驚嘆すべき諸発見を見ています。

しかしこれらの大部分は、すでに幾千年の昔に見出されたものの再発見にすぎないのです。

さまざまに異なる力は本来一つのものである、ということを近代科学が発見したのはついこの間のことでした。

近代科学はごく最近、それが熱、電気、等々と呼んでいるところのもはすべてこれを、たった一つの力に変えることができる、ということを発見し、そういうわけで、これらすべてを、何という名を選んでもかまわないのですがとにかく、一つの名で表現しています。

しかしこのことはすでに、サムヒター(ヴェーダはそれぞれ、サムヒターとブラーマナの二つの部分に分かれている。前者は讃歌や聖句の集)の中においてさえ、なされているのです。

非常に古いものでありますが、われわれはその中で、他でもない、いま申し上げたこの力の概念に逢着します。

それらを重力と呼ぼうと引力と呼ぼうと、または排斥力と呼ぼうと、それらを熱と表現しようと電気と表現しようと、または磁力と表現しようと、すべての力はその単一のエネルギーのヴァリエイションであるにすぎません。

それらがアンタッカラナ(心および精妙な感覚器官)すなわち人の内部器官から反射されて思いとしてみずからを現そうと、または外部器官から来る活動として現そうと、それらを生み出す単一体は、プラーナと呼ばれているものです。

ではプラーナとは何でしょうか。

プラーナはスパンダナ、すなわち振動です。

この宇宙全部が解消して原始の状態に戻ってしまったときには、この無限の力はどうなるのでしょうか。

それは消滅する、と彼らは考えているのでしょうか。

もちろん、そう考えてはいません。

もしそれが消滅してしまったら、運動は高揚し、衰退し、また高揚し、また衰退して波形を作りながら進行するものであるのに、次なる波動の原因はどうなるでしょう?

ここに、宇宙を意味する、スリシュティという言葉があります。

この言葉が創造という意味を持っていないことに注目して下さい。

私は英語を話すときに当惑するのです。

サンスクリット語は、出来る範囲内で最善をつくして訳すより仕方がありません。

それはスリシュティ、つまり放射です。

一つの周期の終わりには、一切のものが次第に微かになって、それがかつてそこから生まれ出たのであるところの原始の状態に再び溶け込んでしまい、再び飛び出す用意はしながら、しばらくの間静止したままでいます。

それがスリシュティ、つまり放射(projection)です。

そして、これらすべての力、プラーナ(ス)(=複数)はどうなるのでしょうか。

彼らは原始のプラーナの中に溶け込んでしまいます。

そしてこのプラーナは、ほとんど不動の状態ーー完全な不動状態ではなくーーとなります。

それがすなわち、「それは振動なしに振動した」(アーニダヴァーダム)と言われている状態です。

ウパニシャッドの中には、理解することが難しい多くの専門語があります。

例えばこのヴェーダという言葉ですが、それはしばしば空気を意味し、またしばしば運動motionを意味ます。

それで人はよく両者を混同するのです。

われわれはそれを要心しなければなりません。

そして皆さんが物質と呼んでおられるものがどうなるのでしょうか。

力(=複数)が、すべて物質の中に充満しているのですが、それらはすべてアーカーシャの中に溶け込み、そこから再び出て来るのです。

このアーカーシャが物質の始まりです。

皆さんがそれをエーテルと訳されようと何と訳されようと、その概念は、このアーカーシャが物質の原始の形だということです。

このアーカーシャがプラーナの活動によって振動し、次のスリシュティが始まろうとすると、振動が速くなって、アーカーシャはわれわれが太陽とか月とか宇宙とか呼ぶこれらすべての波形にまで振動せしめられるのです。

もう一度読みましょう。

「この宇宙の一切物は放射されたのである。プラーナが振動して」Ejatiという語に注目して下さい。

それはEja振動する、という言葉から来ているのですから。

これが宇宙論的な面の一部です。

その中にそう入されるべきさまざまのもっとこまかい事実があります。

例えば、この過程はどのようにして起こるのか、どのようにして最初のエーテルはあるのか。

どのようにしてエーテルから他のものが出て来るのか。

どのようにしてそのエーテルが振動を始め、それからヴァーユ(空気)が出て来るのか。

しかし、一つの考え方がここにあります。

それは、粗大なものがより精妙なものから出て来た、と言うものです。

粗大な物質は最後に出現したものであって、一番外側のものであり、この粗大な物質はそれの前にもっと精妙な物質を持っていたのです。

しかしわれわれは、全体が二つのものに溶解したのを見ましたが、まだそこには、究極の単一体はありません。

そこには力、すなわちプラーナと呼ばれる単一体があり、物質、アーカーシャと呼ばれる単一体があります。

更にこの二つの中に何らかの統一体が見出されるでしょうか。

この二つが一つに溶けあうことができるのでしょうか。

われわれの現代科学はここで黙ってしまいます。

まだそこからの出口は見出していないのです。

それで、もし現代の科学が、そろそろと昔のプラーナと同じものを発見し、古代のアーカーシャと同じものを発見して来たように、次なる発見も行なおうとしているのであれば、それはやはり同じ線に沿って動いて行かなければなりますまい。』

ヴェーダンタ  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

 

スワミ・ヴィヴェーカーナンダの遺されたお言葉から、プラーナについての説明をご紹介いたしました。

 

今回の記事を読んで、プラーナについての理解が深まると、それは、宇宙の仕組みやアートマンへとつながり、やがて、おぼろげながら、アートマンのイメージを掴めるようになるではないか?と思われます。

 

真の自己であるアートマンについては、スワミ・ラーマも以下のように書いています。

 

ヴェーダンタ文学の最も価値があり気高い貢献は、真我、あるいは神は私たちから離れておらず、あるいは遠くにおらず、私たちの存在の内側に住んでいらっしゃるということなのです。』

 

アートマンが答えです。

私はアートマンです。

あなたはアートマンです。

私とあなたはアートマンなのです。

それが答えです。

ヤマがナチケータに語ったように、アートマンについて聞くだけでは十分ではありません。

アートマンは到達され、理解され、経験によって知られなくてはなりません。

ヤマは学ぶことだけでなく、知性を使うことでも聖なる教えでも、アートマンに到達するには十分でないことを説明しました。

アートマンに到達することは、選択と行動を必要とします。』

(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く スワミ・ラーマ)

 

 

アートマンは、私たちの存在の内側に住んでいらっしゃる」からこそ、私たちは見出すことが可能であると言えます。

 

アートマンが真の自己である、ということを少しでも理解できるように、次回も続きを見ていきたいと思います。

 

 

 

クリシュナよ 私は

プラクルティとプルシャについて

用地と用地の認識者について また

知識と知識の対象について学びたいのです。

 

「クンティーの息子よ

この肉体が用地であり

この肉体を知覚認識している者が

用地を認識者(しるもの)である。

(バガヴァッド・ギーター第12章1-2)

 

プラクルティ(自然、物質界)

プルシャ(精神源)