チャクラについて(35)-サハスラーラ・チャクラ(第7チャクラ)
前回より、「真の自己」への理解を深めるために、スワミ・ラーマの「聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く」より、「ただの自己」について、その働きや仕組み、構造などをご紹介しました。
カタ・ウパニシャッドを題材にしているので、日本人には馴染みのないサンスクリット語が頻繁に使われているため、分かり難く感じるかもしれませんが、
少し前に、ジル・ボルト・テイラー博士の「奇跡の脳」をご紹介しましたが、その内容と照らし合わせて、
現代の脳科学ではどのように表現されているのか?と比較しながら、読んで頂けると、より理解がスムーズになると思います。
自分自身の「心」について知ることが、「ただの自己」と「真の自己」を識別する智慧となります。
カタ・ウパニシャッドとヨーガの叡智から導かれたその智慧を、スワミ・ラーマが遺して下さった最後の著書から、ご紹介したいと思います。
(本文中の、ブッディ(理智)は前頭葉の働き、マナス(意思)は大脳辺縁系(主に、扁桃体)の働き、アハンカーラは自我意識(=(わたし)という意識)、チッタ(心素=記憶)は海馬の働き、と当てはめて読むと、理解しやすくなると思われます)
『ひとたびブッディが訓練されると、人には暗く思われる選択がより早く明らかになります。
ブッディの訓練と識別の術がうまく働く前では、判断力は楽しいものの方に傾きます。
ブッディは一時的な楽しみや永続しないものに人生を賭ける無益さに光を放ちます。
ブッディはそのとき、より高次な自己へと人を運ぶのに必要な行動や思考の進路へと人を導き始めます。
ブッディはエゴとより高次な自己との関係とは何なのかを問います。
ブッディが機能することを許されないと、真の自己は隠されたままです。
マナスとエゴを満足させるための無駄な努力で人生は浪費されます。
そしてそれは単に内部器官である心全体のただの一面であるだけなのです。
マナスとエゴは人間にとっては道具ですが、それらが引き継ぐことを許されると、それらは主人になってしまいます。
心の4番目の要素はチッタという、私たちの印象や思考、願望、感情が保存されている広大な無意識の海です。
この海から泡立つものは私たちが人生から人生を通して蓄積してきたものです。
たいていの人にとっては、チッタは広大な種々の材料で作ったスープのようなものです。
彼らの好みと性格で他を支配するものもあれば、ネガティブなものやボジティブなものもあります。
チッタにおけるこれらの材料は、私たちの態度、思考、行動に影響を与えます。
例えば、私たちはアイスクリームに強い願望を持ったり、ある人格に強く反応したり、他よりある風土を好んだり、特別な刺激に対する感情的な反応を持つかもしれません。
これらの願望や反応は、まるで突然にやって来たかのようで私たちの手には負えないように思われます。
しかしこれらの思考や感情は全く突然にやって来たのではありません。
それらは内側からやって来たのであり、アクセス可能であり、コントロールすることができます。
最初に私たちは知り、あるいは少なくとも、私たちの心の内側には途方もなく大きな感情と経験の貯蔵庫があるということを合理的な命題として快く受け入れる必要があります。
事実、あるいは命題として私たちはそれに基づいて行動し、それを試し、調べることができます。
潜在意識の心へのアクセスは、顕在意識の心である表面を静かにすることから生じます。
ほとんど常に心の表面上にはある程度の乱れがあります。
ひとつの思考から別の思考へとはね飛びながら、これからあれへ、そしてまたこれへと戻る心があります。
ときには乱れは大きく、他のときには表面はより静かです。
ほとんど常に顕在意識の中には潜在意識の心へアクセスさせないようにする活動があります。
どのように心が機能するかを知り、それを適切に訓練することは、人間の真の義務なのです。
これは霊的な仕事です。
なぜなら適切に訓練された心が内なる神にそれ自身を現わすことを許すからです。
人類に平和と喜びをもたらすのは、この勤めであり義務なのです。
最初の段階は私たちの真の本性は何かを思い出すことです。
私たちは体でも、感情でも、思考でも、エゴでも、心でもありません。
私たちはアートマンーー神聖で純粋な意識なのです。
私たちの体と心とエゴはアートマンに仕えるようにはなっていません。
もし私たちがその真理を知らないなら、少なくとも私たちが神聖であり永遠であるということを、ひとつの理論として受け入れる価値はないでしょうか?
神聖なる性質の可能性は探求に値しないでしょうか?
それは生と死の関係を知ることにおける批判的な疑問ではないでしょうか?
何が死ぬのでしょうか?
何が生きるのでしょうか?
何が死ぬことができないのでしょうか?
アートマンが人の本質的な性質だと理解されたとき、人はアートマンへの道をきれいにするという仕事を始めることができます。
アクセスは心の枠組みや人間の構造を理解することで始まります。
2番目の段階は、ブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタという心の4つの面と機能を理解することです。
訓練されていない心では、マナスはそれにとっては不適切な役割を引き受け、エゴであるアハンカーラは正当な場所よりもより大きな力と権威の地位につきます。
アハンカーラは、実際には個人に形を与える一時的な構造です。
アハンカーラは永続しません。
それは個人の真の本性ではなく、主人であると思う傾向を持つ召使いなのです。
心の4つの要素は統合されなくてはなりません。
それぞれは他と協力し調和して果たす必要のある惑割を持っています。
マナスとアハンカーラはそれらの仕事をすべきで、それだけにすぎません。
ブッディは人に成長と喜びをもたらす決定をするために訓練され用いられなくてはなりません。
この心の要素の統合を完成するためには、心と感情のさらに詳しい理解が必要とされます。
4つの基本的な衝動は個人的な感情とそれらの心への影響を決定します。
原始的で基本的で全人類や他の生物たちによって共有されているこれらの衝動は食物、睡眠、性交、自己保存のためのものです。
これらの衝動の観点から人間と他の動物の間に違いはそれほどありません。
違いは、これらの衝動をコントロールする能力において、人間の心が卓越していることです。
他の動物はこれらの衝動に従属しています。
彼らの一生はこれらにより決定され導かれます。
一方、人間はマナスとブッディを適切に使うことで、これらの衝動をコントロールすることができます。
もし心の要素が調和して働かないと、これらの4つの基本的な衝動は、機能障害や情緒不安定という一般的に不健康な方法でそれらを表現するでしょう。
食事の不摂生、中毒、行き過ぎた性行為は人の心身の健康に影響を与えます。
多眠、小眠、断続的な睡眠は心と体に同じ影響があります。
自己保存の中心的な問題である死の恐れは、所有物を喪失する恐れや、人間関係における所有欲の強いことや、飛行機恐怖症や他の恐怖症を含む広範囲な恐れに通じます。
これらの不摂生と中毒は、それらの感情的な混乱を伴ってチッタの中に流れ込み、個性を形作り、何年間も一生の間でさえ癖を作り出します。
すべての心の要素が真に統合されると、人は悟りのより高いレベルに跳ぶことができます。
かつて心の総合的な統御なしに覚醒あるいは悟りを達成した偉人はいません。
この統合は努力、実践、技術を必要とします。
それは心を一点に集中し内部へ向かわせることを意味します。
心が統合されないと、それは巧みな行動をとることができません。
なぜなら、思考のプロセスと願望のより繊細な紐は、自由への道においては障害となるからです。
最初に心を静かにすることが必要です。
最初の方で言ったように、マナスが訓練されず、エゴが制御されていないままだと、心は荒れ狂い制御不能となります。
同時にチッタの内容は膨れ上がり、意識の中に表面化し続けます。
個人はこの混乱の奴隷となり、常軌を逸した感情と強力な願望の鎖で引っ張りまわされます。
この混乱は静められなくてはなりません。
静けさは瞑想で築くことができます。
人の体が静かで呼吸が静かで規則正しいなら、心は集中し始めることができます。
集中が保たれると、顕在意識はだんだんと静かになり、心の明晰さがより深くなっていきます。
この種の瞑想が達成されると、心をきれいにし、古い願望や思考、恐れの心を空にし、完全にブッディ、アハンカーラ、マナス、チッタを統合するという真の仕事が始まります。
完全なる統合により心は、純粋意識はあらゆるところに在り、君主であることを理解します。
そのとき心は、すべての力と権威は命の源である純粋意識から生じていることを理解するので降伏します。
エゴは消滅し、死は打ち負かされます。』
(聖なる旅 目的をもって生き 恩寵を受けて逝く)
今回ご紹介した内容は、そのまま理解するには、少し難しいかもしれませんが、
前回までにご紹介しました脳科学の解説とジル・ボルト・テイラー博士の「奇跡の脳」からのご紹介と併せて、照合しながら読んで頂けると、自分の脳(心)の中で、何が起きているのか?を、少なからず把握できるのではないか?と思います。
これは、無知という覆い(ヴェール)に覆われているブッディ(理智)のその覆いを取り除き、ブッディの本来の働き(訓練された理智)を発揮させるのに、役立つと思います。
スワミ・ラーマも書いている通り、無知という覆い(ヴェール)がブッディを包み込んでいるので、
私たちに「ロープをヘビに見間違える」という「錯覚」が起きているのですが、
ブッディを覆っているその無知が取り除かれると、「錯覚」が消えるということになります。
その「錯覚」が、一瞬の体験で取り除かれることもあります。
また、玉ねぎの皮を一枚一枚剥いていくように、少しずつ剥がれ落ち、最後に「何も無くなる」(錯覚という覆いが取り除かれる)ということも起きます。
たったひとつのゴールに到達するためのアプローチ(道)は、いろいろあるということです。
「ただの自己」を理解し、それを「真の自己」を発見する道具として上手く使いこなすためには、訓練と実践が必要です。
次回は、「真の自己」について、引き続きスワミ・ラーマの著書より、ご紹介いたします。
その非顕現の清浄界こそ
不滅の妙楽世界であり
そこに到達した者は決して物質界に戻らない
そこがわたしの住処である
すべてに勝る至上者のもとには
不動の信仰によってのみ到達できる
かれは至上の住処に在ってしかも全宇宙に充満し
万生万物はかれの内に存在する
(バガヴァッド・ギーター第8章21-22)